酪農地域にて

蓬屋 月餅

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第二部

19「怪我」

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「そんなに…痛そうに見えるかな?」
「えぇ、まぁ。特に痣が」

 あの突然の豪雨から数日、筆記具を持つことすらままならない若領主は、完治するまで休息をとるようにという領主に従って執務室で休んでいた。
 小屋で休めればいいのだが、いつ誰が見舞いにやってくるかも分からないために執務室に居続ける他なく、若領主にはとても退屈だ。

「あの東屋は建て直しをしなければなりませんね。外のあの木に雷が落ち、折れた枝によって東屋の屋根と梁が…」
「あぁ。もうじき雨季も終わるだろうし、そうしたら建て直しの手配を進めよう。そうだ、設計は私がしてもいいかな?休んでいると暇なんだ」
「それは…」

 執務室の扉が軽く叩かれ、「若、手当に参りました」と声がかかる。
 侍従が扉を開けると、彼が入室してきて「おはようございます」と挨拶をした。

「うん、おはよう。わざわざ来てもらってすまないね」
「いえ、とんでもございません…」

 侍従が部屋を出ていくと、彼はいつもの慣れた手付きで傷の手当をし始めた。
 若領主にとっては退屈この上ない休みだが、1ついいことがある。
 それは手当のために、彼がこうして屋敷にやってくることだ。
 打撲による痣は背中に広く広がっていて、数針縫った傷口の消毒も合わせた処置のために彼は日に2度は訪ねてくる。
 彼の前で上半身をはだけるのはいささか恥ずかしく思えて、それだけは未だに慣れない。

「どうだ、私は治りが良いだろう?痣も今に良くなるさ」
「…若、あの…」
「うん?」
「本当に…申し訳ございません。私のせいで、若がこのような怪我を…」
「またそんなことを言うのか」

 肩の傷口に薬をつける彼に、若領主は「本当に良いんだよ」と声をかける。

「君がいなかったら…私は医者に診せるのが遅れて、今頃熱を出していただろうね。この傷ぐらいで済んだのは君が無事だったからだ、本当に君が怪我をしないで良かったよ」
「でも…僕があの場にいなければ、僕を庇わなければ、若が怪我をすることもなくて…」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。とにかく、1つ言えるのは君が居てくれて良かった、ということだ」

 若領主は「それに」と付け足す。

「『申し訳ない』よりも『ありがとう』と言ってもらいたい…けどね」
「あっ…」

 彼は薬を塗る手を止めると、深々と頭を下げて「あの、本当にありがとうございました…若」とお礼を言う。
 今まで詫びるばかりできちんとお礼を言っていなかったという彼自身の恥からか、その顔は薄く紅がさしていて、若領主は見た途端に心が柔らかくほぐれた。


「すぐに来れなくてごめんなさいね…本当に心配したのよ、大丈夫なの?」
「大丈夫ですよ。少し縫ったくらいで、大したこともありませんから」

 その日の午後、工芸地域から夫人が若領主のお見舞いにやってきた。
 工芸地域でも長雨の影響が出ている区画があり、それらの対処や医者達への医療用の布の提供等、なかなか手が空かないほど忙しいようだ。

「お父様も妹も、とても心配していたわ。でも…思っていたよりは元気そうね」
「これくらい、大したことありませんよ。木材に脛を打ち付けたり、手を挟んだりした時の方がこれよりもずっと痛いですから」
「まったくもう、そんなことを言って…もっと気をつけてちょうだいよ」

 そうして若領主が夫人と談笑していると、痣を冷やすための薬を届けに彼がやってきた。
 彼は入室して夫人を目にするやいなや、深々と頭を下げて「ふ、夫人でいらっしゃいますよね?あの…この度は大変申し訳ございません、僕のせいで若が…」と詫びる。
 若領主はそんな彼に「言ったばかりじゃないか、いいんだって」と声をかけた。

「母上、彼はこう言ってばかりなんですよ、『僕のせいで』って」
「若…でも、事実です」
「『ありがとう』でいいと言ったじゃないか」
「それは…本当にありがたく思っていますけど…」
「うん、だからそれだけでいいんだ。あまり謝られると、私の立場がないよ」

 そんな2人のやりとりを見ていた夫人は、ふと笑みをこぼして「仲のいいこと」と呟いた。

「聞いていますよ、あなたを庇って怪我をしたんですってね」
「はい…夫人、本当に申し訳ございません…」
「いいえ、もうそんなに謝らなくていいの。この子は私の子だもの、体が丈夫なのよ。それに、あなたがその場にいなかったら、この子は今頃熱を出していたかもしれない。あなたに怪我がなくて、そしてこの子の手当てをしてくれて、良かったわ」

 突然、若領主は「ははっ!」と大きな笑い声を上げた。
 「まぁ、何かおかしいことでも?」と夫人が尋ねると、若領主は愉快そうに答えた。

「母上、私も全く同じことを彼に言ったんです!君、今の聞いた?私が言ったのと、まったく同じだったよね?」
「あ…はい、たしかに同じ事を若にも言っていただきました…」
「私は父上よりも母上に似てると思っていたけど、まさかね!」

 くすくすとなおも笑い続ける若領主に、夫人も「うん、やっぱり似てるのね、私とあなたは」と笑顔になる。

「私の父、この子の祖父は漁師でね、とっても体が丈夫なのよ。私に似たこの子はその血をしっかり受け継いでいるんだから、きっとすぐに良くなるわ」

 夫人の笑い顔は、若領主とそっくりだった。



「…では若、失礼いたします」
「うん。…あっ、ちょっと待って、君に見せたいものがあるんだ」

 夫人が帰った後、痣の包帯を替え終えた彼を引き留めた若領主は、彼をあの記録室へと案内した。
 静まり返った中を歩き、あの物語や動植物について書かれた本が並ぶ場所に連れて行くと、彼は「すごい…」と驚きに目をみはる。

「こ、これ…原本?こっちのは見たこともない…」
「君が好きそうだと思ったんだ。どう?」
「はい、好きです…!若、これはすごいですよ!あ、あの、1冊手にとってみても…?」

 若領主が「もちろん」と言うと、彼は壁一面の本棚の中から1冊を抜き出し、そっと開いて満面の笑みを浮かべた。

「本当にすごいです…この字体を見てください、とても綺麗ですよね?図書塔にもこの字体で書かれた本はありますけど、本当に数が少ないんですよ」

 辺りが静かなため、興奮をかなり抑え込んでいるようだ。
 彼は隅々まで目を通しながら、「わぁ、すごい…」としきりに呟いている。
 若領主はそんな彼を見ているだけでたまらない気持ちになった。

「あっ、ここ傷んでますね。…うん、もっとひどくなる前に修復するといいですよ。漁業地域から糊を取り寄せて…」
「なんだ、君は修復にも詳しいの?」
「詳しいというか…図書塔に通い詰める内に自然と目にしたりして、そのうちやり方を習ったり、手伝うようになったんです。簡単な修復なら、材料があればできますよ」
「そうなのか。…図書塔?そうだ、1つ聞きたいんだけど」

 若領主は先日、妹の恋の相手が図書塔の司書だったことを思い出し、彼に名前を知っているかと訊いてみた。

「あぁ!もちろん、知ってますよ!彼から修復を教わったりしたんです。彼がどうかしましたか?」
「あ、いや少しね…。その、彼はどういう人なのかな?」
「どういう…?」
「歳とか、仕事ぶりはどうとか…」

 彼は「そうですね…」と口元に手を当てながら答える。

「歳は僕の2つ上だったと思います。とっても真面目な人で、仕事ぶりも丁寧ですよ。司書をしているだけあって、その人に合った本を勧めるのも上手いですし…静かな人です」
「そうか…」
「彼のことを聞いて、どうなさるんですか?」
「いや、何でもないんだ。うん」

 若領主は父と妹の言い争う様子とその板挟みになっていたあの司書を思い出す。

(彼がこう言うんだから悪い人じゃないと思うけど。父上はなぜあんなに反対したんだ…?)

「あの…若、ここへまた本を見に来てもいいですか…?」

 彼の声に若領主は「うん、もちろん」と答える。

「持ち出すことはできないけど、私か侍従がいればいくらでも見ていいから」
「本当ですか!?」
「君に嘘を言うものか。ここの本達もその方が喜ぶだろうね」

(これを口実に、彼は治療が終わった後も屋敷へ来てくれるかもしれない…)

 若領主はキラキラと瞳を輝かせる彼の横顔を見ながら、そう考えていた。
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