酪農地域にて

蓬屋 月餅

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第一部

8「急患」

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 あの馬が第1馬房に入ってからというもの、若領主はほぼ毎日のように会いに行っていた。
 元々聞き分けが良いということもあり、第1馬房からお墨付きを得て正式に若領主の馬として仕事をすることになったこの馬は、工芸地域の職人による鞍と手綱が出来上がり次第、実際に若領主と行動を共にすることになる。

「まさか君が本当に私の馬になってくれるとはね。あのときあげた野菜がそんなに美味しかったのかな?」

 若領主が放牧場でのんびりしていた馬にそう話しかけていると、道の方から「若領主!侍従の方も、こんにちは」と声が響く。
 その声の主は、いつもの荷を背負った彼だった。

「やぁ、今日も荷を背負って大変だね」
「いえ!見た目ほどは重くないですし、慣れてますから大丈夫ですよ」

 彼は笑顔で背中の荷を軽く振ってみせる。

「今日もまた子犬達のところに寄って見てきました。可愛いんですが、すぐに大きくなっちゃって…とても賑やかでした」
「うん、そうだろう。動物達の成長は早いからね」
「本当にそうですね」

 くすくすと笑った彼は、やはりあの時の子犬にそっくりだ。

「この馬は?若領主の馬ですか?」

 彼は傍らにいる馬に目を向け、「いい体躯ですね」と感心したように言う。

「うん、鞍と手綱の採寸を済ませたばかりなんだ。出来上がり次第、一緒に仕事をするよ」
「へぇ…立派な馬ですね」

 彼は「この模様も、とても素敵だね」と馬に向かって笑顔を見せる。
 すると、それまではいつものようにふせられていた馬の耳が、かすかに彼の方を向いた。
 若領主もその耳の動きに気がつくと、「褒めてもらえてよかったな」と首筋を撫でてやる。

「もうじき冬になりますね。…若領主と昼食をご一緒できなくなるのが残念です」

 彼は馬に目を向けたままそう呟いた。
 冬の間、ところによっては雪が積もることもあるため、昼食はそれぞれの家や仕事場でとることになっている。
 若領主も春になるまでは屋敷で昼食をとるため、しばらくの間、彼と食事を共にすることはない。

「まぁ、こうしてどこかの区画で会うこともあるから。そうしたら、また色々と話そう」
「はい、そうですね…!」

 彼と若領主が談笑をしていると、突然こちらに向かって何かを叫びながら走ってくる人影が見え、その場に居る者は何事かと一様に身をこわばらせた。
 どうやらその男は医者の彼に用があるらしく、「あぁ…良かった…」と息を整える間もなく言う。

「どうしたんですか」
「牛に…蹴られたやつがいて…蹴られた拍子に胸を打って…」
「どこで、牛舎ですね?」

 男が今走ってきた方を指差しながら頷いたのを見ると、彼は「若領主、失礼します」とだけ言い残して勢いよく走り出した。

「第3牛舎の方かな?」
「は、はい…」

 若領主は少し思案した後、傍らにいる馬に「少し頼まれてくれないか」と声をかけ、素早く跨った。

「私も行ってくる」

 両手に軽く鬣を握ると、若領主は馬を走らせ、先を行った彼の背中を追いかけた。

「君、素乗りをしたことはある?」
「わ、若領主?ありますが…」
「うん、よし」

 若領主は息を乱している彼を目で測ると、荷物を前に回し、自身の前に乗るよう指示をする。
 彼は躊躇ったものの、たしかに自分で走っていくよりもいいと判断して若領主の言う通りにした。

「走っていくよりもこの方がいい。…少しきついだろうが、すまないね」

 若領主は自らの両腕で彼の身体を挟み込み、さらに彼の肩に自らの顎を載せるようにして万が一にも落馬することのないようにしっかりと固定すると、鬣を握り直して再び馬を走らせる。
 こうしてみると、彼は先程目で測ったよりも随分と小柄だ。
 いつも話をしている時には気付かなかったが、今こうして両腕の中に納まってしまうほどの『華奢』とも言える彼の肩は、成人している男とは思えない。
 
 彼が落馬しないように細心の注意を払いつつ駆けていると、すぐに前方に第3牛舎が見えてきて、「あぁ、すぐに来てくれてよかった!」「こっちです、胸の辺りを…」と人々が口々に声を上げる。
 彼は馬を降りて「わ、若領主…」と言いかけたが、若領主は頷いて早く向かうようにと促すと、彼は礼をして患者の元へと駆けて行った。

「やぁ…突然すまなかったね…2人乗りは大変だったろう」

 若領主が馬を降りて申し訳無さそうに声をかけながら手を伸ばすと、馬は少しの間の後、そっと鼻面をその手に押し付けて撫でるよう催促をしてくる。

「うん…ありがとう。きちんとお礼もするよ」

 侍従と報せに来た男がやってくるのを待ってから、若領主は馬を連れて馬房へと戻った。


「今日も色々あったな…あの人は大丈夫だっただろうか」

 若領主はその日の仕事を終え、あの小屋で1人の時間を過ごしながら日中にあったことを思い返していた。

(それにしても彼は…あんなに小柄だったかな?いつも荷を背負って歩き回っているし、あんなに華奢だとは思わなかった。…そういえば、首も細かったし、白くて…なんというか…)

 若領主は彼の首元に顔を近づけた時のことを思い出す。
 線の細い肩、頬にかかる彼の髪、ふと香った薬草の香り…。

(「そうやって違うと言う割にはあまりにも表情がね」
「表情…?」
「うん。なんというか、今まで見たことのない感じだったよ」)

 「いやいや、そうじゃない…そんなんじゃない…だろ…」

 顔は触れるまでもなく熱く火照っている。
 若領主は今、自分がどんな表情をしているのかを確認したいような、したくないような気持ちになっていた。
 
 数日後、急患は無事元気になったと彼が嬉しそうに報告しに来た。

「若領主、ありがとうございました」

 やはり、その笑顔は若領主の視線を捉えて離さなかった。
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