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第一部
7「友人」
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その日、若領主は牧羊犬や猟犬として活躍する犬達のための区画を訪れていた。
「これはまた…随分と大所帯になったな」
「はい、今回は特に多産でして。もうすでに良い足をしてますから、一緒に仕事する日が今から楽しみですよ」
ようやく動き回れるようになったという子犬達はよたよたと歩き回り、よく寝ている兄弟を踏みつけたり、お互いに取っ組み合ってはころころと転がったりと忙しそうだ。
母犬達も尻尾に噛みつかれながら一生懸命にそれぞれ子犬達の世話をしている。
匂いを嗅ぎに足元へやってきた子犬を抱き上げた若領主は、撫でてやりながらその丸い目を覗き込んだ。
(何かに似てるな…あ、そうか彼だ。うん…なんだかこう、こっちをじっと見てくる感じが似てるぞ)
医者のあの青年に、彼に似ていると一度思えばもうそっくりだとしか思えなくなり、若領主は笑いながら人差し指で子犬の鼻筋を掻くと「しっかり食べて寝て、元気に育てよ」と仲間たちの元へ返してやった。
「あぁ、可愛かったなぁ。もちろん大変なことは山程あるけど、これは酪農地域の特権だな。たまらないよ」
「そうですね」
犬達の区画を後にし、若領主は家畜のための湯治場へと足を向けた。
陸国では酪農地域と鉱業地域で温泉が湧き出している。
2つの地域の人々は自宅の風呂に温泉を使ったり他地域の人々のための湯治場を設けているが、酪農地域ではその他に家畜達のための湯治場も設けられていて、他地域へも仕事に駆り出される家畜や体調を崩した家畜、冬の寒さしのぎなどを含め大切な場となっている。
「若領主、お越し下さり、ありがとうございます」
「そうかしこまらないでくれ。…湯治場の様子はどうかな、どこか不足はあるか」
「いえ、大丈夫です。湯量も変わっていませんし、例年通り動物達を受け入れられます」
やわらかな湯気が揺蕩う中、若領主は湯治場の責任者と共に辺りを見回る。
石畳は隅々まで綺麗に磨かれ、温かさと温泉の香りが心地良い。
「また忙しくなるだろうが、よろしく頼む。何かあれば、すぐ領主や私に言ってくれ」
「はい、若領主。私共も精一杯努めます」
人用よりも大きく広いこの温泉は、きっとこれからの季節、動物達を存分に癒やすだろう。
「若領主、そろそろ昼食の時刻です」
「うん、それじゃあ昼食をとってから屋敷へ帰ろうか」
「はい」
湯治場から人々が昼食をとる場まで歩きながら、若領主は先程見た子犬達のことを思い出していた。
(あの子犬達の可愛さ…彼はもう見たかな?動物達のことがあれだけ好きなんだから、きっと彼は目を輝かせるだろうね。会ったら話が盛り上がりそうだ)
医者の、あの彼に子犬達のことを話したくてうずうずとしている若領主は自然と足取りも軽く昼食の場へと向かう。
昼食の場ではすでに食事の用意が進んでいて何人かが集まってきていたが、その中には工芸地域の若領主となった友人もいて、若領主は思わぬ面会に驚きと嬉しさでいっぱいになる。
友人は若領主に気がつくと「やぁ!いたいた!」と手を挙げながらやってきた。
「久しぶりだね、お互いに忙しくしているから」
「うん、本当に…今日はどうしたの、休み?」
「まぁ、そんなところだけど。たまには父上に会いに来ないとと思ってさ」
友人の父親はこの酪農地域の領主だ。
一人っ子の上、すでに母親である夫人も他界しているこの友人にとっては、領主が唯一の親しい家族になる。
「君はここに来るだろうって聞いたから待ってたんだ」
「そうだったんだね、昼食もここで食べていけるの?」
友人は首を横に振ると、ため息をつきながら「そうしたいけど」と呟いた。
「いくつか記録を清書しなきゃならないんだ…もう帰らないと」
「それは…大変だ」
記録の清書は全て領主文字で行うものであり、その大変さは若領主にもよく分かる。
まだ自由に使いこなせるほどにはなっていない領主文字で記録を綴るには、他の仕事がない休日を使わなければならないのは若領主も同じだ。
若領主は友人と話しつつ、続々と集まってくる人々の中に彼の姿がないかと時々捜していたが、まだ彼はやってきていないらしく姿は見当たらない。
人々は若領主と領主の息子である懐かしい友人に挨拶をして目の前を通り過ぎていく。
「誰かを捜してるのか?」
若領主の様子に気がついた友人に尋ねられ、若領主は素直に「はい」と答える。
「いつも来ている子がまだ来ていないなと思って」
すると、友人は突然若領主の肩に手を置き、「そうかそうか」と笑みを浮かべながら言った。
「な、なに突然…」
「いやぁ、春が来たかと思ってさ」
「は、春って…今は秋も過ぎようかという頃で…」
友人は吹き出しそうになりながらも「違うよ、お前にだよ!」と嬉しそうに言う。
「『あの子』が来るのを待ってるのか、そうかそうか」
「あ…違うよ。そういった意味ではなくて…」
「うん?そうなのか?」
友人がわざとらしく言うのに対し、若領主は困惑して「違うよ」と繰り返した。
「まぁ、違うと言うなら違うんだろうね。だけど、微笑ましくて羨ましくて、なんだか嬉しくなったよ。だって、そうやって違うと言う割にはあまりにも表情がね」
「表情…?」
「うん。なんというか、今まで見たことのない感じだったよ」
若領主が「それってどんな…」と言いかけると、友人は自らの侍従がやってくるのを見て再びため息をついた。
「君にそんな表情をさせる『その子』がどんな子が気になるけど、私はもう行かなくてはならないようだ。また時間のある時に会おう」
友人はさらに「君も工芸地域に顔を出すんだよ、ご家族に会いにね」と付け加えて侍従と共に去っていった。
若領主はその後ろ姿を見送りながら、一体自分はどんな表情をしていたのだろうかと考え込んでいた。
(ただ色々と話をしたりするだけで、本当にそういうのでは…そもそも、彼は男で、私も男じゃないか)
若領主が気もそぞろに人々を見やると、ちょうど遠くの方から彼がやってくるのが見える。
若領主に笑顔で礼をする彼は、遠く、沢山の人に混じっていてもすぐに見つけられた。
「若領主!お疲れ様です!」
「あ、あぁ…君もお疲れ様」
昼食の場にやってきた彼はいつものように若領主の隣の席に座ると、「今日も美味しそうですね」と大皿の料理に目を輝かせた。
(うん、友人だ…ただの友人。あんなことを聞いたせいだな、変に意識するなんて…)
若領主は大皿から料理を取り分けると、いつものように同じ卓の者達と昼食をとり、彼とも料理のことや天気のことなどといった当たり障りのない会話を楽しんだ。
「そうだ…子犬達を見た?」
「子犬…あっ、ちょっと前に生まれたっていう子達ですか?」
「うん、そうだ。今日見に行ってきたんどけど、ものすごく可愛かったよ」
子犬達の姿を思い出して嬉しそうに言う若領主を見て、彼は口をとがらせながら「羨ましい…」と呟く。
「僕、なかなか機会がなくて見に行けてないんですよ。子犬達…もうそろそろ歩き始める頃ですか?」
「いや、もう歩き回ってた」
「えっ、もうそんなになってました?」
「うん。兄弟で取っ組み合いをしてるのもいたし」
「えっ」
「母犬の尻尾に噛み付いてるのもいたし」
「えぇっ」
「お腹いっぱいになって寝てるのも可愛かったなぁ…知ってる?多産だったから特に子犬達がいっぱいいてさ…」
「そ、そんな…」
若領主は彼の表情が「ずるい」と言わんばかりにどんどんと移り変わっていくのを見て、思わず笑い声をもらす。
「もう、すぐに見に行かないと…機会がないなんて言っていたら、あっという間に大きくなっていっていって…」
「うん、見に行くといいよ。あの姿は今しか見られないからね」
「うぅ…はい…」
若領主は頬を膨らませた彼を慰めるように、肩に手を置いた。
陸国は じきに冬を迎える。
酪農地域も家畜の飼料となる牧草や穀物等の貯蓄を始めとした冬支度が進み、冷えた空気を肌で感じることが増えていた。
「よし…ひとまず、一通りの冬支度はできているな」
「はい」
全ての飼料庫や建物の状態を見て回っていた若領主が最後に牧草地の様子を見て回っていると、遠くに1頭馬がいるのが見えた。
近寄って見ると、それはやはり以前にも見た『あの馬』だった。
「え、また君か。どうしていつも違う放牧場にいるんだ?今日はちゃんと馬房まで連れて行くからな」
若領主が手を伸ばすと、逃げていくかと思われた馬は意外にも人しく鬣に触れさせた。
鬣はきちんと手入れされていないためか少し絡んでいて、若領主は馬にそんな扱いをする馬房はあっただろうかと考えるも、見当がつかない。
この馬の体躯はとても良く、しっかりとした脚と引き締まった筋肉は馬体を大きく、力強くさせている。
「君は一体どこの子なんだ?大人2人乗せたってよく走れそうな体躯だ、見るからに力がありそうだよ」
「若領主に馴れているように見えますが」
「そうかなぁ…まぁ、嫌がってはいないみたいだけど」
若領主が撫でる手を鬣から首筋に移しても馬は嫌がる素振りを見せず、ただじっと撫でられていた。
そのうち若領主は、この馬に乗って走らせてみたらどんな心地がするだろうかと思い、馬の目を覗き込んで問いかけてみた。
「ちょっと、君に乗ってみてもいいかな?」
「若領主、どの馬房の馬かも、訓練を受けたかどうかも分からないんですよ。危険でしょう」
「嫌がるようだったらやめるよ、少しだけ…」
馬の耳は若領主の方を向いていて、じっと話を聞いているようだ。
若領主は慣れた様子でその馬に跨ると、両手に鬣を軽く握り、右に回るようそっと右手を引いた。
「お、うん、ちゃんと分かっているね。やっぱりどこかで訓練されてたのか?」
「大丈夫ですか」
「うん、馬体も安定してるし…もう少し歩いてみようか」
若領主がそっと足で腹を押すと、馬もそれに従ってゆっくりと歩き始める。
常歩をさせても、駈歩をさせてみても、初めてとは思えないほどの相性の良さを感じる動きだ。
「随分 私と相性が良いようだ。どう思う?」
「そうですね」
「この子はどの馬房の子だ?私の馬として、一緒に仕事をするのはどうだろう」
若領主は馬から降りて「ありがとう」と声をかけると、再び首筋を撫でてやった。
「ここから一番近い馬房は第2馬房か。…よし、行こう」
「若領主、本当にこの馬にするんですか」
「うん。この子と係の者が良いと言えばね」
そうしてこの馬のことを知るべく第2馬房へと向かう間、馬は大人しく若領主の後をついて歩いていた。
「あれ、若領主。どうした?」
「うん、この子を私の馬にしたくて連れてきたんだ。でもどの馬房の子か分からないから、とりあえずここで聞いてみようと思って」
第2馬房の男は馬を見るなり「この子って…その馬をか」と驚きの声を上げる。
「その馬は…どの馬房のでもないよ」
「どういうことだ?」
「いや、半分野生というか…馬房生まれじゃないんだ」
この馬はかつて馬房を逃げ出した母馬が産んだ馬だった。
放牧場ではない外の世界で産まれた子馬は母馬と共にあちこちを回って生きていたが、ある日、母馬が野生動物の餌食になっているのが見つかった。
当初、子馬は無事に育たなかったか、もしくは同じ野生動物に襲われたのだろうと思われていたものの、ある時から放牧場にいる仔馬達の群れに見慣れない馬が1頭混ざっていることがあったのだという。
「こいつが仔馬の群れに混ざっている時ってのは、見回りのやつが野生動物を近くに見つけて警戒してるときだったんだ。生き延びるために少しでも安全なところにいようとしたんだろうな」
「では、なんの訓練も受けてないと?」
「いや、第1馬房で1度訓練をされてたはずだ、こいつは見ての通り脚も体躯もいいからって。…あ、ちょうど第1馬房のやつが来てるから聞いてみようか」
第2馬房の男が奥に向かって声をかけると、そのうち第1馬房で働く男がやってきた。
第1馬房は若領主が馬を選ぶために何度も訪れた区画でもあり、この男とも何度も顔を合わせたことがある。
男は若領主の隣にいる馬を見ると目を丸くして「おぉ」と声を上げた。
「なぁ、この馬ってお前のところで訓練したことがあったよな?」
第2馬房の男が尋ねると、第1馬房の男は大きく頷く。
「まさに私が担当した。頭が良くて教えがいがあったよ」
「そうだったのか…どうしてそのまま第1馬房の馬にしなかったんだ?」
若領主に尋ねられた第1馬房の男は苦笑いをしながら「そうしたかったんですけどね…」と答える。
「どうも人が好きじゃなかったようで、誰が担当しても、いつも不満気だったんです。おまけによく逃げ出して…良い馬だったのに残念に思ったものです」
第1馬房の男は馬の耳を見ながら「あんなふうにいつも耳を伏せてるんですよ」と苦々しく言う。
「しかし、私は少し乗ってみて相性が良いと思ったな」
「若領主、この馬に乗ったんですか?」
「うん、少しだけ。ちゃんと指示も通ったし、落ち着いていたから私の馬にできないかと思って」
第1馬房の男はそれを聞いて「どうやったんですか?」と悔しそうな表情になった。
「どうって?」
「この馬、私達が話すと耳を伏せるくせに若領主の話だけはきちんと耳を向けて聞いてますよ。…あぁ、悔しいなぁ、私はずっと馬を担当してきたのに」
見てみると、たしかに今も馬の耳は若領主にだけ向いているようだ。
「とにかく…どうだろう、この子と一緒に仕事ができるだろうか」
「そうですね、もう少し訓練に耐えてくれれば大丈夫だと思いますよ。いくら不満気でも振り落とすことはなかったし、血筋も分かってますから」
第1馬房の男は「そうだ、この馬は若領主がよく乗ってたあの馬の血筋ですよ」と微笑んだ。
若領主はそれを聞き、一層この馬と共に仕事をしたいという気持ちになる。
「やっぱり縁があるみたいだな…どうしても嫌なら仕方がないけど、私と一緒に仕事をしてくれたら嬉しい」
「ほら、若領主がこう仰ってるぞ。もう少し辛抱して鞍と手綱にも慣れよう、もう少しだけ頑張れよ」
こうして、馬はしばらくの間第1馬房で訓練を受けるため、第1馬房の男に連れられていったが、やはり馬の両耳は伏せられていた。
「これはまた…随分と大所帯になったな」
「はい、今回は特に多産でして。もうすでに良い足をしてますから、一緒に仕事する日が今から楽しみですよ」
ようやく動き回れるようになったという子犬達はよたよたと歩き回り、よく寝ている兄弟を踏みつけたり、お互いに取っ組み合ってはころころと転がったりと忙しそうだ。
母犬達も尻尾に噛みつかれながら一生懸命にそれぞれ子犬達の世話をしている。
匂いを嗅ぎに足元へやってきた子犬を抱き上げた若領主は、撫でてやりながらその丸い目を覗き込んだ。
(何かに似てるな…あ、そうか彼だ。うん…なんだかこう、こっちをじっと見てくる感じが似てるぞ)
医者のあの青年に、彼に似ていると一度思えばもうそっくりだとしか思えなくなり、若領主は笑いながら人差し指で子犬の鼻筋を掻くと「しっかり食べて寝て、元気に育てよ」と仲間たちの元へ返してやった。
「あぁ、可愛かったなぁ。もちろん大変なことは山程あるけど、これは酪農地域の特権だな。たまらないよ」
「そうですね」
犬達の区画を後にし、若領主は家畜のための湯治場へと足を向けた。
陸国では酪農地域と鉱業地域で温泉が湧き出している。
2つの地域の人々は自宅の風呂に温泉を使ったり他地域の人々のための湯治場を設けているが、酪農地域ではその他に家畜達のための湯治場も設けられていて、他地域へも仕事に駆り出される家畜や体調を崩した家畜、冬の寒さしのぎなどを含め大切な場となっている。
「若領主、お越し下さり、ありがとうございます」
「そうかしこまらないでくれ。…湯治場の様子はどうかな、どこか不足はあるか」
「いえ、大丈夫です。湯量も変わっていませんし、例年通り動物達を受け入れられます」
やわらかな湯気が揺蕩う中、若領主は湯治場の責任者と共に辺りを見回る。
石畳は隅々まで綺麗に磨かれ、温かさと温泉の香りが心地良い。
「また忙しくなるだろうが、よろしく頼む。何かあれば、すぐ領主や私に言ってくれ」
「はい、若領主。私共も精一杯努めます」
人用よりも大きく広いこの温泉は、きっとこれからの季節、動物達を存分に癒やすだろう。
「若領主、そろそろ昼食の時刻です」
「うん、それじゃあ昼食をとってから屋敷へ帰ろうか」
「はい」
湯治場から人々が昼食をとる場まで歩きながら、若領主は先程見た子犬達のことを思い出していた。
(あの子犬達の可愛さ…彼はもう見たかな?動物達のことがあれだけ好きなんだから、きっと彼は目を輝かせるだろうね。会ったら話が盛り上がりそうだ)
医者の、あの彼に子犬達のことを話したくてうずうずとしている若領主は自然と足取りも軽く昼食の場へと向かう。
昼食の場ではすでに食事の用意が進んでいて何人かが集まってきていたが、その中には工芸地域の若領主となった友人もいて、若領主は思わぬ面会に驚きと嬉しさでいっぱいになる。
友人は若領主に気がつくと「やぁ!いたいた!」と手を挙げながらやってきた。
「久しぶりだね、お互いに忙しくしているから」
「うん、本当に…今日はどうしたの、休み?」
「まぁ、そんなところだけど。たまには父上に会いに来ないとと思ってさ」
友人の父親はこの酪農地域の領主だ。
一人っ子の上、すでに母親である夫人も他界しているこの友人にとっては、領主が唯一の親しい家族になる。
「君はここに来るだろうって聞いたから待ってたんだ」
「そうだったんだね、昼食もここで食べていけるの?」
友人は首を横に振ると、ため息をつきながら「そうしたいけど」と呟いた。
「いくつか記録を清書しなきゃならないんだ…もう帰らないと」
「それは…大変だ」
記録の清書は全て領主文字で行うものであり、その大変さは若領主にもよく分かる。
まだ自由に使いこなせるほどにはなっていない領主文字で記録を綴るには、他の仕事がない休日を使わなければならないのは若領主も同じだ。
若領主は友人と話しつつ、続々と集まってくる人々の中に彼の姿がないかと時々捜していたが、まだ彼はやってきていないらしく姿は見当たらない。
人々は若領主と領主の息子である懐かしい友人に挨拶をして目の前を通り過ぎていく。
「誰かを捜してるのか?」
若領主の様子に気がついた友人に尋ねられ、若領主は素直に「はい」と答える。
「いつも来ている子がまだ来ていないなと思って」
すると、友人は突然若領主の肩に手を置き、「そうかそうか」と笑みを浮かべながら言った。
「な、なに突然…」
「いやぁ、春が来たかと思ってさ」
「は、春って…今は秋も過ぎようかという頃で…」
友人は吹き出しそうになりながらも「違うよ、お前にだよ!」と嬉しそうに言う。
「『あの子』が来るのを待ってるのか、そうかそうか」
「あ…違うよ。そういった意味ではなくて…」
「うん?そうなのか?」
友人がわざとらしく言うのに対し、若領主は困惑して「違うよ」と繰り返した。
「まぁ、違うと言うなら違うんだろうね。だけど、微笑ましくて羨ましくて、なんだか嬉しくなったよ。だって、そうやって違うと言う割にはあまりにも表情がね」
「表情…?」
「うん。なんというか、今まで見たことのない感じだったよ」
若領主が「それってどんな…」と言いかけると、友人は自らの侍従がやってくるのを見て再びため息をついた。
「君にそんな表情をさせる『その子』がどんな子が気になるけど、私はもう行かなくてはならないようだ。また時間のある時に会おう」
友人はさらに「君も工芸地域に顔を出すんだよ、ご家族に会いにね」と付け加えて侍従と共に去っていった。
若領主はその後ろ姿を見送りながら、一体自分はどんな表情をしていたのだろうかと考え込んでいた。
(ただ色々と話をしたりするだけで、本当にそういうのでは…そもそも、彼は男で、私も男じゃないか)
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若領主に笑顔で礼をする彼は、遠く、沢山の人に混じっていてもすぐに見つけられた。
「若領主!お疲れ様です!」
「あ、あぁ…君もお疲れ様」
昼食の場にやってきた彼はいつものように若領主の隣の席に座ると、「今日も美味しそうですね」と大皿の料理に目を輝かせた。
(うん、友人だ…ただの友人。あんなことを聞いたせいだな、変に意識するなんて…)
若領主は大皿から料理を取り分けると、いつものように同じ卓の者達と昼食をとり、彼とも料理のことや天気のことなどといった当たり障りのない会話を楽しんだ。
「そうだ…子犬達を見た?」
「子犬…あっ、ちょっと前に生まれたっていう子達ですか?」
「うん、そうだ。今日見に行ってきたんどけど、ものすごく可愛かったよ」
子犬達の姿を思い出して嬉しそうに言う若領主を見て、彼は口をとがらせながら「羨ましい…」と呟く。
「僕、なかなか機会がなくて見に行けてないんですよ。子犬達…もうそろそろ歩き始める頃ですか?」
「いや、もう歩き回ってた」
「えっ、もうそんなになってました?」
「うん。兄弟で取っ組み合いをしてるのもいたし」
「えっ」
「母犬の尻尾に噛み付いてるのもいたし」
「えぇっ」
「お腹いっぱいになって寝てるのも可愛かったなぁ…知ってる?多産だったから特に子犬達がいっぱいいてさ…」
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若領主は彼の表情が「ずるい」と言わんばかりにどんどんと移り変わっていくのを見て、思わず笑い声をもらす。
「もう、すぐに見に行かないと…機会がないなんて言っていたら、あっという間に大きくなっていっていって…」
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「うぅ…はい…」
若領主は頬を膨らませた彼を慰めるように、肩に手を置いた。
陸国は じきに冬を迎える。
酪農地域も家畜の飼料となる牧草や穀物等の貯蓄を始めとした冬支度が進み、冷えた空気を肌で感じることが増えていた。
「よし…ひとまず、一通りの冬支度はできているな」
「はい」
全ての飼料庫や建物の状態を見て回っていた若領主が最後に牧草地の様子を見て回っていると、遠くに1頭馬がいるのが見えた。
近寄って見ると、それはやはり以前にも見た『あの馬』だった。
「え、また君か。どうしていつも違う放牧場にいるんだ?今日はちゃんと馬房まで連れて行くからな」
若領主が手を伸ばすと、逃げていくかと思われた馬は意外にも人しく鬣に触れさせた。
鬣はきちんと手入れされていないためか少し絡んでいて、若領主は馬にそんな扱いをする馬房はあっただろうかと考えるも、見当がつかない。
この馬の体躯はとても良く、しっかりとした脚と引き締まった筋肉は馬体を大きく、力強くさせている。
「君は一体どこの子なんだ?大人2人乗せたってよく走れそうな体躯だ、見るからに力がありそうだよ」
「若領主に馴れているように見えますが」
「そうかなぁ…まぁ、嫌がってはいないみたいだけど」
若領主が撫でる手を鬣から首筋に移しても馬は嫌がる素振りを見せず、ただじっと撫でられていた。
そのうち若領主は、この馬に乗って走らせてみたらどんな心地がするだろうかと思い、馬の目を覗き込んで問いかけてみた。
「ちょっと、君に乗ってみてもいいかな?」
「若領主、どの馬房の馬かも、訓練を受けたかどうかも分からないんですよ。危険でしょう」
「嫌がるようだったらやめるよ、少しだけ…」
馬の耳は若領主の方を向いていて、じっと話を聞いているようだ。
若領主は慣れた様子でその馬に跨ると、両手に鬣を軽く握り、右に回るようそっと右手を引いた。
「お、うん、ちゃんと分かっているね。やっぱりどこかで訓練されてたのか?」
「大丈夫ですか」
「うん、馬体も安定してるし…もう少し歩いてみようか」
若領主がそっと足で腹を押すと、馬もそれに従ってゆっくりと歩き始める。
常歩をさせても、駈歩をさせてみても、初めてとは思えないほどの相性の良さを感じる動きだ。
「随分 私と相性が良いようだ。どう思う?」
「そうですね」
「この子はどの馬房の子だ?私の馬として、一緒に仕事をするのはどうだろう」
若領主は馬から降りて「ありがとう」と声をかけると、再び首筋を撫でてやった。
「ここから一番近い馬房は第2馬房か。…よし、行こう」
「若領主、本当にこの馬にするんですか」
「うん。この子と係の者が良いと言えばね」
そうしてこの馬のことを知るべく第2馬房へと向かう間、馬は大人しく若領主の後をついて歩いていた。
「あれ、若領主。どうした?」
「うん、この子を私の馬にしたくて連れてきたんだ。でもどの馬房の子か分からないから、とりあえずここで聞いてみようと思って」
第2馬房の男は馬を見るなり「この子って…その馬をか」と驚きの声を上げる。
「その馬は…どの馬房のでもないよ」
「どういうことだ?」
「いや、半分野生というか…馬房生まれじゃないんだ」
この馬はかつて馬房を逃げ出した母馬が産んだ馬だった。
放牧場ではない外の世界で産まれた子馬は母馬と共にあちこちを回って生きていたが、ある日、母馬が野生動物の餌食になっているのが見つかった。
当初、子馬は無事に育たなかったか、もしくは同じ野生動物に襲われたのだろうと思われていたものの、ある時から放牧場にいる仔馬達の群れに見慣れない馬が1頭混ざっていることがあったのだという。
「こいつが仔馬の群れに混ざっている時ってのは、見回りのやつが野生動物を近くに見つけて警戒してるときだったんだ。生き延びるために少しでも安全なところにいようとしたんだろうな」
「では、なんの訓練も受けてないと?」
「いや、第1馬房で1度訓練をされてたはずだ、こいつは見ての通り脚も体躯もいいからって。…あ、ちょうど第1馬房のやつが来てるから聞いてみようか」
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「なぁ、この馬ってお前のところで訓練したことがあったよな?」
第2馬房の男が尋ねると、第1馬房の男は大きく頷く。
「まさに私が担当した。頭が良くて教えがいがあったよ」
「そうだったのか…どうしてそのまま第1馬房の馬にしなかったんだ?」
若領主に尋ねられた第1馬房の男は苦笑いをしながら「そうしたかったんですけどね…」と答える。
「どうも人が好きじゃなかったようで、誰が担当しても、いつも不満気だったんです。おまけによく逃げ出して…良い馬だったのに残念に思ったものです」
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「しかし、私は少し乗ってみて相性が良いと思ったな」
「若領主、この馬に乗ったんですか?」
「うん、少しだけ。ちゃんと指示も通ったし、落ち着いていたから私の馬にできないかと思って」
第1馬房の男はそれを聞いて「どうやったんですか?」と悔しそうな表情になった。
「どうって?」
「この馬、私達が話すと耳を伏せるくせに若領主の話だけはきちんと耳を向けて聞いてますよ。…あぁ、悔しいなぁ、私はずっと馬を担当してきたのに」
見てみると、たしかに今も馬の耳は若領主にだけ向いているようだ。
「とにかく…どうだろう、この子と一緒に仕事ができるだろうか」
「そうですね、もう少し訓練に耐えてくれれば大丈夫だと思いますよ。いくら不満気でも振り落とすことはなかったし、血筋も分かってますから」
第1馬房の男は「そうだ、この馬は若領主がよく乗ってたあの馬の血筋ですよ」と微笑んだ。
若領主はそれを聞き、一層この馬と共に仕事をしたいという気持ちになる。
「やっぱり縁があるみたいだな…どうしても嫌なら仕方がないけど、私と一緒に仕事をしてくれたら嬉しい」
「ほら、若領主がこう仰ってるぞ。もう少し辛抱して鞍と手綱にも慣れよう、もう少しだけ頑張れよ」
こうして、馬はしばらくの間第1馬房で訓練を受けるため、第1馬房の男に連れられていったが、やはり馬の両耳は伏せられていた。
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蓬屋のBLに興味をもって下さった方へ…ぜひ他作品の方も併せてご覧下さい。【以下、蓬屋のBL作品紹介】《陸国が舞台の作品》: ・スパダリ攻め×不遇受け『熊の魚(オメガバース編有)』 ・クール(?)攻め×美人受け『彼と姫と(オメガバース編有)』 ・陸国の司書×特別体質受け『図書塔の2人(今後オメガバース編の予定有)』 ・神の側仕え×陸国の神『牧草地の白馬(多数カップル有)』 《現代が舞台の作品》:・元ゲイビ男優×フリーランス税理士『悠久の城(リバあり)』 それぞれの甘々カップル達をよろしくお願いします★
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そんな彼と俺は上手くやれるのか不安の中スタート。俺は彼との付き合いの中で苦悩し、愛されて溺れていったんだ。
社会人同士の年の差カップルのお話です。智也は優柔不断で行き当たりばったり。自分の心すらよくわかってない。そんな智也を和樹は溺愛する。自分の男の本能をくすぐる智也が愛しくて堪らなくて、自分を知って欲しいが先行し過ぎていた。結果智也が不安に思っていることを見落とし、智也去ってしまう結果に。この後和樹は智也を取り戻せるのか。

Sweet☆Sweet~蜂蜜よりも甘い彼氏ができました
葉月めいこ
BL
紳士系ヤクザ×ツンデレ大学生の年の差ラブストーリー
最悪な展開からの運命的な出会い
年の瀬――あとひと月もすれば今年も終わる。
そんな時、新庄天希(しんじょうあまき)はなぜかヤクザの車に乗せられていた。
人生最悪の展開、と思ったけれど。
思いがけずに運命的な出会いをしました。
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