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第一部
2「若領主」
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「それでは、父上、母上。お元気で」
「あぁ」
「あなたもね。健康に気をつけて」
「お兄様…またこちらに帰っていらしてね」
「うん、そのうち時間を作って来るよ」
今日はそれぞれの地域の領主の元へ、次期領主となる若領主がやってくる日だ。
かつての少年は告げられていた通り、酪農地域の若領主として工芸地域を旅立つ。
どの地域の若領主となるかは主に年齢や性格といった点によって決められるのだが、今回、工芸地域にやってくる若領主は酪農地域の領主の息子で、珍しいことだが工芸地域と酪農地域は若領主を交換した形になった。
「参りましょう」
「うん、行こう」
若領主は新たな住まいとなる酪農地域の屋敷へと侍従と共に向かった。
父親の勧めもあって何年も前から酪農地域に度々足を運んでいた若領主はすっかり人々と顔馴染みになっていて、屋敷に向かう途中も「おぉ!本当に俺らの若領主になるんだな!」とよく声をかけられる。
「ご領主、工芸地域より参りました。酪農地域のために励んでまいります。ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします」
「そうか。よく学ぶように」
「はい」
形式通りに酪農地域の現領主へ挨拶を済ませると、これから執務室兼私室となる屋敷の1室へと荷物を置く。
(僕の父上はとにかく無口だ、言葉が少ないんだよ。でも怒ってるわけじゃないからさ…あぁ、もうなんかごめん!もし困ったことがあったら言ってね!)
若領主は工芸地域の若領主となった友人との会話を思い出す。
同い年ではないが、少年時代からお互いが将来地域を交換するような形になるであろうと知っていた彼らは、他の領主の息子達や国王見習いといった4人よりも特に親しくなっていた。
(まぁ、小さい頃に会ったときは流石に怖く感じたけど…でも良い方だし素敵なご領主だ)
「若領主、ひとまず今日はお休みをとのことです。私は調度品を改めて整えますので、若領主は散策にでもお出かけなさってください」
侍従は恭しく礼をしながら告げる。
「いや…どこも行き慣れているし、今更散策してもなぁ。私も荷解きをするよ」
「これは私の仕事です」
「いやいや、私も…」
荷物に手を伸ばしかけた若領主は咎められるような視線を向けられたことでその手を止め、「分かったよ…」と部屋の中をただ見て回ることにした。
領主の夫人は数年前に他界しているが、屋敷は常に領主の侍従と夫人の侍女だった者によって隅々まで清掃されつくされていて、この部屋でも塵1つ見当たらない。
今後は若領主の侍従も若領主に関する仕事をこなしながら屋敷の管理をすることになる。
若領主は部屋を見回りながら、頭の中で部屋の設計図を描いていく。
工芸地域では幼少から木工に、特に建築に関して親しんでいた若領主は、建物を見ればその骨組みが、木材を見れば「建築のどの部分に使うか」といったことが気になる質で、それはここでも同じことだった。
「なぁ知ってるか?この屋敷はあの有名な兄弟が設計、建築をした屋敷なんだ」
「…あの兄弟は中央広場の図書塔からなにから設計しているでしょう」
「うん、兄弟が設計した建物は今でも沢山残ってる。でも、この屋敷は特別なんだよ。建築まで自分たちでやったんだ、設計図も軽いものしか残ってない。誰も詳しい内部構造を知らない屋敷なんだ」
若領主は「初めて知ったときは嬉しかったなぁ」と笑顔で言う。
「そんな屋敷に住めるんだと思ったら…もう、ワクワクしてさ」
「そうですか」
「なんだよ、君はなんとも思わないのか?君だって嬉しいだろ、この屋敷の家具を造ったのは憧れの彫刻家じゃないか」
黙々と作業をしている侍従は素っ気ないようにも見えるが、時々視線を家具に移してはその彫刻に目を奪われているようだ。
(やっぱり嬉しいんじゃないか…)
若領主はそれ以上言うのをやめ、再び部屋の設計をするべくあちこちを見て回ることにした。
一通り部屋を見終える頃には大まかな設計図が出来上がり、若領主はその考え抜かれた構造に感嘆の息を洩らす。
梁や柱、床板の一枚一枚に至るまでそれぞれに最適な種類の木材が使い分けられ、またどれにも耐久性を上げるための高度な加工が施されている。
侍従や侍女達によって何年もの間丁寧な手入れがされてきたこともあって、その色合いも簡単に作り出せるようなものではない、美しい歴史を感じさせるものだ。
だが改めて考えてみると、この部屋には、この設計図にはどこか違和感を感じる。
何度部屋を見渡してみても、何度設計図を思い浮かべても、若領主は釈然としない気分だった。
しかし、その違和感の正体が一体何なのかは分からない。
「どうされましたか」
「いや、なんだかこの部屋は…」
侍従も多少は設計を学んでいたため、若領主の言う違和感に気付き「確かに、普通の部屋ではないようですね」と同意した。
「もしかしたら、この屋敷はどこもこんな感じなのかもしれない。いわゆる一般的な設計じゃないんだ、なにせ例の兄弟が手掛けているんだから」
「そうですね、何か普通とは異なる理由があるんでしょう。…さぁ、それはともかくとして、明日からの予定ですが」
侍従は荷解きを終えると、先程領主へ挨拶へ行った際に伝えられたこれからの予定について、整理しつつ若領主へ共有していく。
「慣わし通り、しばらくはここ酪農地域の領主文字習得と過去の記録から歴代領主の様々な対応を学ぶことが主となります。一先ず、明日は酪農地域を見回るようにとのことでしたので、本格的な事は明後日から行いましょう」
「よし…覚悟をしておかないとな」
酪農地域へやってきた初日は荷解きとこれからの見通しを立てたところで夕飯時となり、明日からの新たな生活に向けて早く体を休めることで終わった。
「おっ!ついに来たか、若領主だな!」
「皆さん、おはようございます。これから若領主として、よろしくお願いします」
若領主は侍従と共に、酪農地域の端から端まで挨拶をして回っていた。
少年の頃から幾度となく足を運んでいたため、酪農地域の人々も「若領主になってきたか!」と誰もが嬉しそうに声をかけてくる。
「若領主になったんだなぁ…あぁ、それなら、自分の馬が必要になるだろう。もう決めたのか?」
「いえ、まだですが」
「今までずっと乗ってきたのはもう年だし、若領主の仕事に付き合ってあちこち行くのは難しいだろう。2、3歳馬くらいで気の合うのを探しておくといい」
ここは陸国中の貨物運搬などで活躍する馬を飼育している場で、辺りに広がる草原や遠くまで並んだ馬房のいたる所から馬の嘶きが響いている。
「そうですね。まだ本格的には必要にならないと思うんですが、時々馬達を見せてください」
「おぅ、いつでも見に来るといい。そうだ、今までよく乗ってたあの馬は第5放牧場の方にいるから、時間があれば会いに行ってやってほしい」
「もちろんです!この後は時間がありますし、早速会いに行ってきます」
若領主はその場の人達に別れを告げると、よく慣れた様子で第5放牧場の方へと向かった。
「そうだよなぁ、あの馬は私が初めて乗った馬で…慣れていない私を振り落とすこともなく、根気強く練習に付き合ってくれたんだ。一緒に大きくなってきたようなものだし、寂しいけどゆっくり仲間達と草を食んで過ごしてほしいな」
「えぇ、そうですね」
第5放牧場に到着すると、あちこちで草を食んでいた馬達がそろそろと寄って来た。
若領主はそのどの馬とも面識があり、「久しぶりだなぁ、皆」とそれぞれの鼻っ面を撫でてやる。
すると、遠くの方にある大きな木陰で休んでいた1頭の馬がゆっくりと立ち上がり、長く美しい尾を揺らしながらやってきた。
「やぁ、そこにいたのか!休んでいたのにすまないね、元気だった?」
若領主が声をかけると、その馬は頭を下げ、美しい星のついた額を若領主の胸へそっと押し当てる。
「そうか!元気そうで何よりだよ。ついに私は酪農地域で暮らすことになったんだ、一緒に仕事ができないのは残念だけど…でも、たまには会いに来るから、皆と元気でいるんだぞ」
歳をとっていても、その馬のたてがみは柔らかな陽を受けて艷やかだ。
第5放牧場では年老いた馬や休養が必要な馬達がいる場だが、どの馬もとても良く手入れされていて、飾らずとも美しい姿で駆け回っていた。
「いよいよ明日からだな…」
「領主文字の習得は全ての要です」
「分かっているよ、重々承知だとも。あぁ…頑張らなくちゃなぁ…」
屋敷へ戻った後、若領主は明日から取り組む『文字の習得』に関連する本を前にため息をついていた。
陸国にある5つの地域の領主、そして国王はそれぞれが特有の文字を書く。
どのような起源があるのかに関して、正確な記述は残っていない。
しかし、それぞれの地域の領主達は代々その美しく特徴的な『領主文字』と呼ばれる文字を継承し、そのまた次の領主となる者も習得してきた。
私的な文書などではその限りではなく自身の書く文字だが、公的な文書では必ずその文字を使わなければならないのだ。
「どの地域の領主文字も見てきたけど、酪農地域が1番美しくて難しそうだ」
「そもそもそう簡単に書けるようでは領主文字とは言えません」
「いや、まぁそうだけど…」
侍従によって淡々と積み上げられていく字の習得に関する本を前に、若領主は肩まである髪を括り直した。
翌日からほぼ屋敷に籠もり、若領主は領主文字をひたすら書き写し続ける。
普通とは異なる独特な字形をしたものや文頭、文尾の形、はねた先やはらった先等、まるで1から字を学び直すようなそれはとても根気のいることで、とても自由に書けるようになるとは思えない。
それでも、「歴代の領主もこうした練習を重ねたのだから」と自らを奮い起こし、じっと書き写し続けた。
「若御領主、昼食の用意ができました」
「うん」
領主文字を学び始めて1か月も経った頃、昼食のために若領主を呼びに来た侍従は机の上に視線を留めると、何か言いたげに立ち止まる。
若領主は伸びをすると、「もう昼か」と呟いた。
「…若領主」
「うん?」
「領主文字はまだ完全に習得できていないでしょう」
侍従の視線の先にあるのは精密に描かれた設計図だ。
その設計図はまだ半分も描かれていないようだが、どうもこの部屋のものらしい。
「いや、もちろんちゃんと領主文字の練習をしているとも、知っているだろう。これは息抜きのために少しずつ描いているだけだ」
これくらいはいいじゃないか、と口をとがらせた若領主に、侍従は「息抜きで設計図ですか」と呆れたように言う。
「好きなことをするのが息抜きだ、そうだろう?そもそも君だって人のことを言えるのか。どれだけ疲れていても図案だの彫刻だのはやりたくなるはずだろう」
「…」
何も言えずにいる侍従に「私だけがおかしいみたいなことを言うな」と若領主は口をとがらせた。
「あぁ」
「あなたもね。健康に気をつけて」
「お兄様…またこちらに帰っていらしてね」
「うん、そのうち時間を作って来るよ」
今日はそれぞれの地域の領主の元へ、次期領主となる若領主がやってくる日だ。
かつての少年は告げられていた通り、酪農地域の若領主として工芸地域を旅立つ。
どの地域の若領主となるかは主に年齢や性格といった点によって決められるのだが、今回、工芸地域にやってくる若領主は酪農地域の領主の息子で、珍しいことだが工芸地域と酪農地域は若領主を交換した形になった。
「参りましょう」
「うん、行こう」
若領主は新たな住まいとなる酪農地域の屋敷へと侍従と共に向かった。
父親の勧めもあって何年も前から酪農地域に度々足を運んでいた若領主はすっかり人々と顔馴染みになっていて、屋敷に向かう途中も「おぉ!本当に俺らの若領主になるんだな!」とよく声をかけられる。
「ご領主、工芸地域より参りました。酪農地域のために励んでまいります。ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします」
「そうか。よく学ぶように」
「はい」
形式通りに酪農地域の現領主へ挨拶を済ませると、これから執務室兼私室となる屋敷の1室へと荷物を置く。
(僕の父上はとにかく無口だ、言葉が少ないんだよ。でも怒ってるわけじゃないからさ…あぁ、もうなんかごめん!もし困ったことがあったら言ってね!)
若領主は工芸地域の若領主となった友人との会話を思い出す。
同い年ではないが、少年時代からお互いが将来地域を交換するような形になるであろうと知っていた彼らは、他の領主の息子達や国王見習いといった4人よりも特に親しくなっていた。
(まぁ、小さい頃に会ったときは流石に怖く感じたけど…でも良い方だし素敵なご領主だ)
「若領主、ひとまず今日はお休みをとのことです。私は調度品を改めて整えますので、若領主は散策にでもお出かけなさってください」
侍従は恭しく礼をしながら告げる。
「いや…どこも行き慣れているし、今更散策してもなぁ。私も荷解きをするよ」
「これは私の仕事です」
「いやいや、私も…」
荷物に手を伸ばしかけた若領主は咎められるような視線を向けられたことでその手を止め、「分かったよ…」と部屋の中をただ見て回ることにした。
領主の夫人は数年前に他界しているが、屋敷は常に領主の侍従と夫人の侍女だった者によって隅々まで清掃されつくされていて、この部屋でも塵1つ見当たらない。
今後は若領主の侍従も若領主に関する仕事をこなしながら屋敷の管理をすることになる。
若領主は部屋を見回りながら、頭の中で部屋の設計図を描いていく。
工芸地域では幼少から木工に、特に建築に関して親しんでいた若領主は、建物を見ればその骨組みが、木材を見れば「建築のどの部分に使うか」といったことが気になる質で、それはここでも同じことだった。
「なぁ知ってるか?この屋敷はあの有名な兄弟が設計、建築をした屋敷なんだ」
「…あの兄弟は中央広場の図書塔からなにから設計しているでしょう」
「うん、兄弟が設計した建物は今でも沢山残ってる。でも、この屋敷は特別なんだよ。建築まで自分たちでやったんだ、設計図も軽いものしか残ってない。誰も詳しい内部構造を知らない屋敷なんだ」
若領主は「初めて知ったときは嬉しかったなぁ」と笑顔で言う。
「そんな屋敷に住めるんだと思ったら…もう、ワクワクしてさ」
「そうですか」
「なんだよ、君はなんとも思わないのか?君だって嬉しいだろ、この屋敷の家具を造ったのは憧れの彫刻家じゃないか」
黙々と作業をしている侍従は素っ気ないようにも見えるが、時々視線を家具に移してはその彫刻に目を奪われているようだ。
(やっぱり嬉しいんじゃないか…)
若領主はそれ以上言うのをやめ、再び部屋の設計をするべくあちこちを見て回ることにした。
一通り部屋を見終える頃には大まかな設計図が出来上がり、若領主はその考え抜かれた構造に感嘆の息を洩らす。
梁や柱、床板の一枚一枚に至るまでそれぞれに最適な種類の木材が使い分けられ、またどれにも耐久性を上げるための高度な加工が施されている。
侍従や侍女達によって何年もの間丁寧な手入れがされてきたこともあって、その色合いも簡単に作り出せるようなものではない、美しい歴史を感じさせるものだ。
だが改めて考えてみると、この部屋には、この設計図にはどこか違和感を感じる。
何度部屋を見渡してみても、何度設計図を思い浮かべても、若領主は釈然としない気分だった。
しかし、その違和感の正体が一体何なのかは分からない。
「どうされましたか」
「いや、なんだかこの部屋は…」
侍従も多少は設計を学んでいたため、若領主の言う違和感に気付き「確かに、普通の部屋ではないようですね」と同意した。
「もしかしたら、この屋敷はどこもこんな感じなのかもしれない。いわゆる一般的な設計じゃないんだ、なにせ例の兄弟が手掛けているんだから」
「そうですね、何か普通とは異なる理由があるんでしょう。…さぁ、それはともかくとして、明日からの予定ですが」
侍従は荷解きを終えると、先程領主へ挨拶へ行った際に伝えられたこれからの予定について、整理しつつ若領主へ共有していく。
「慣わし通り、しばらくはここ酪農地域の領主文字習得と過去の記録から歴代領主の様々な対応を学ぶことが主となります。一先ず、明日は酪農地域を見回るようにとのことでしたので、本格的な事は明後日から行いましょう」
「よし…覚悟をしておかないとな」
酪農地域へやってきた初日は荷解きとこれからの見通しを立てたところで夕飯時となり、明日からの新たな生活に向けて早く体を休めることで終わった。
「おっ!ついに来たか、若領主だな!」
「皆さん、おはようございます。これから若領主として、よろしくお願いします」
若領主は侍従と共に、酪農地域の端から端まで挨拶をして回っていた。
少年の頃から幾度となく足を運んでいたため、酪農地域の人々も「若領主になってきたか!」と誰もが嬉しそうに声をかけてくる。
「若領主になったんだなぁ…あぁ、それなら、自分の馬が必要になるだろう。もう決めたのか?」
「いえ、まだですが」
「今までずっと乗ってきたのはもう年だし、若領主の仕事に付き合ってあちこち行くのは難しいだろう。2、3歳馬くらいで気の合うのを探しておくといい」
ここは陸国中の貨物運搬などで活躍する馬を飼育している場で、辺りに広がる草原や遠くまで並んだ馬房のいたる所から馬の嘶きが響いている。
「そうですね。まだ本格的には必要にならないと思うんですが、時々馬達を見せてください」
「おぅ、いつでも見に来るといい。そうだ、今までよく乗ってたあの馬は第5放牧場の方にいるから、時間があれば会いに行ってやってほしい」
「もちろんです!この後は時間がありますし、早速会いに行ってきます」
若領主はその場の人達に別れを告げると、よく慣れた様子で第5放牧場の方へと向かった。
「そうだよなぁ、あの馬は私が初めて乗った馬で…慣れていない私を振り落とすこともなく、根気強く練習に付き合ってくれたんだ。一緒に大きくなってきたようなものだし、寂しいけどゆっくり仲間達と草を食んで過ごしてほしいな」
「えぇ、そうですね」
第5放牧場に到着すると、あちこちで草を食んでいた馬達がそろそろと寄って来た。
若領主はそのどの馬とも面識があり、「久しぶりだなぁ、皆」とそれぞれの鼻っ面を撫でてやる。
すると、遠くの方にある大きな木陰で休んでいた1頭の馬がゆっくりと立ち上がり、長く美しい尾を揺らしながらやってきた。
「やぁ、そこにいたのか!休んでいたのにすまないね、元気だった?」
若領主が声をかけると、その馬は頭を下げ、美しい星のついた額を若領主の胸へそっと押し当てる。
「そうか!元気そうで何よりだよ。ついに私は酪農地域で暮らすことになったんだ、一緒に仕事ができないのは残念だけど…でも、たまには会いに来るから、皆と元気でいるんだぞ」
歳をとっていても、その馬のたてがみは柔らかな陽を受けて艷やかだ。
第5放牧場では年老いた馬や休養が必要な馬達がいる場だが、どの馬もとても良く手入れされていて、飾らずとも美しい姿で駆け回っていた。
「いよいよ明日からだな…」
「領主文字の習得は全ての要です」
「分かっているよ、重々承知だとも。あぁ…頑張らなくちゃなぁ…」
屋敷へ戻った後、若領主は明日から取り組む『文字の習得』に関連する本を前にため息をついていた。
陸国にある5つの地域の領主、そして国王はそれぞれが特有の文字を書く。
どのような起源があるのかに関して、正確な記述は残っていない。
しかし、それぞれの地域の領主達は代々その美しく特徴的な『領主文字』と呼ばれる文字を継承し、そのまた次の領主となる者も習得してきた。
私的な文書などではその限りではなく自身の書く文字だが、公的な文書では必ずその文字を使わなければならないのだ。
「どの地域の領主文字も見てきたけど、酪農地域が1番美しくて難しそうだ」
「そもそもそう簡単に書けるようでは領主文字とは言えません」
「いや、まぁそうだけど…」
侍従によって淡々と積み上げられていく字の習得に関する本を前に、若領主は肩まである髪を括り直した。
翌日からほぼ屋敷に籠もり、若領主は領主文字をひたすら書き写し続ける。
普通とは異なる独特な字形をしたものや文頭、文尾の形、はねた先やはらった先等、まるで1から字を学び直すようなそれはとても根気のいることで、とても自由に書けるようになるとは思えない。
それでも、「歴代の領主もこうした練習を重ねたのだから」と自らを奮い起こし、じっと書き写し続けた。
「若御領主、昼食の用意ができました」
「うん」
領主文字を学び始めて1か月も経った頃、昼食のために若領主を呼びに来た侍従は机の上に視線を留めると、何か言いたげに立ち止まる。
若領主は伸びをすると、「もう昼か」と呟いた。
「…若領主」
「うん?」
「領主文字はまだ完全に習得できていないでしょう」
侍従の視線の先にあるのは精密に描かれた設計図だ。
その設計図はまだ半分も描かれていないようだが、どうもこの部屋のものらしい。
「いや、もちろんちゃんと領主文字の練習をしているとも、知っているだろう。これは息抜きのために少しずつ描いているだけだ」
これくらいはいいじゃないか、と口をとがらせた若領主に、侍従は「息抜きで設計図ですか」と呆れたように言う。
「好きなことをするのが息抜きだ、そうだろう?そもそも君だって人のことを言えるのか。どれだけ疲れていても図案だの彫刻だのはやりたくなるはずだろう」
「…」
何も言えずにいる侍従に「私だけがおかしいみたいなことを言うな」と若領主は口をとがらせた。
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