その杯に葡萄酒を~オメガバ―ス編~

蓬屋 月餅

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第1章

8「初雪」~その後~

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 雪が降った後 特有の静謐な雰囲気に包まれた室内
 冷え冷えとしていながらも、どこか心地の良い朝…
 
 瞼を開ける前から初雪の清らかさが伝わってくるような気すらする中、夾は掛け具から出ていた肩の肌寒さによって目を覚ました。
 明るくなっている窓の様子からしてすでに朝になっていることが分かるため、彼は寝台から起き上がるための勇気を奮い立たせるべく、ぼんやりとしながら何度も瞬きを繰り返す。

(………)

 腰や尻、そして股関節周りのぎしぎしというような痛みや感覚は夢のように思えた昨晩の出来事についてを鮮明に思い起こさせてくるようで…考えれば考えるほど寝具の中に隠れてしまいたくなる夾。
 ふと背中が暖かくなっていることに気付いて寝返りを打つと、背や太ももの素肌が寝具に擦れるというこれまでに感じたことのない妙な感覚がして彼は頬を赤らめた。

(わ…璇さんが隣で……)

 寝返りを打つと目の前には璇の寝顔があって、夾はこれまた顔がかぁっと熱くなるのを感じる。
 先ほどまでの夾と同じように素肌の肩を掛け具から出して眠っている璇は 寝間着を羽織っている様子がなく、どうやら掛け具の下は一糸纏わぬ姿のままでいるらしいと容易に想像がつく。
 いつもの引き締まった表情とは違う幼さに満ちたその寝顔や露出している肩の線をまじまじと眺めていると昨夜のことすべてがより一層鮮明になってきて、夾は昨晩体を揺さぶられながら見た璇の肉体をも思い出した。
 運動があまり好きではないというわりにはなかなかによく引き締まっていた璇の体は、体型の維持に余念がない夾にしてみれば羨ましくて堪らないほど素晴らしいもので、改めて思い返すと惚れ惚れとしてしまう。
 自分のものとは違うその肉体の熱を改めて感じてみたいという欲からついつい手を伸ばして肩などに触れたくなってしまう夾だったが、その気持ちをぐっと抑え込むと、辺りに散らばっていた自身の寝間着を軽く羽織ってそっと寝台を降りた。
 いくらか綺麗に拭ってあったとはいえども昨夜の名残のせいで体中がべたついているので すぐにでも湯を浴びた方が良さそうだ。
 夾は静かに掛け具を引っ張り上げて露出していた璇の肩を覆うと、散らかっていた璇の分の寝間着を軽く畳み、そして湯で体を流すべく浴室へと向かった。

ーーーーーーー

 べたつく体をすっかり綺麗にし終えてきてからも璇は依然として眠り続けていたので、夾は昨夜のうちから仕込んでいた骨付き肉の味などを軽く整えたりするなどしてきわめて静かに朝食の支度を進めた。
 一晩じっくりと味を染み込ませておいた骨付き肉は一緒に煮込んでいた根菜にも出汁とほどよい塩味が移り、温めるだけでも汁物として充分美味しく食べられるくらいになっている。
 主食の穀類を炊き、後は付け合わせの野菜を使った小鉢を用意するだけになったところでようやく璇は目を覚ましてきた。

「おはようございます、璇さん」

 畳んでおいた寝間着に袖を通した璇が調理場の入り口の方に顔を出したのに気付いた夾がそう声をかけると、璇も「うん…おはよう」と起き抜けの声を出す。

「もうすぐ朝食が出来上がるところなんです。でもあともう少しはかかるかも…その前に璇さんはどうぞ湯浴みをなさってきてください。今日は気温が冷え込んでいますし、その方が体が温まっていいですから」
「あ…あぁ…」
「着替えは脱衣所に置いてありますよ」

 食卓の上を拭いながら夾が言うと、璇は浴室へ向かおうとしていた足を止めてから「その…大丈夫か?お前の体は…」と少し言いづらそうに訊ねてきた。
 もちろん昨夜のことを気遣ってのことだろう。
 たしかに腰や尻は多少ジンジンとしているが、しかしひどく痛めているというわけでもなかった夾は「大丈夫ですよ」と照れたように笑って応える。

「俺はなんともありません。それより璇さんはどこか痛めたりはしていませんか?」
「俺も別にそんな…大丈夫だ」
「それなら良かったです」

 大したことのない会話でもなんだか気恥ずかしくなってしまう朝だ。このまま他に長々と話をしていてもその気恥ずかしさが消えたり紛れたりするわけではないと悟ったらしい璇は、それから今度こそ本当に浴室へと向かっていった。
 しばらくして、浴室からは湯の流れる音がし始める。それを確認した夾はその隙に素早く寝台から敷き具や掛け具の表地を取り外して回収すると、後でそれらを洗うべく浴室の隣にある洗濯場へと持っていって水につけた。パッと見た感じでは特に汚れているわけではなかったが、しかし洗っておくに越したことはないのだ、絶対に。(ちなみにこの敷き具などを巡り、朝食の後で『自分で寝具を洗いたい夾』と『夾をゆっくり休ませるために自分が寝具を洗いたい璇』とで両者譲らずしばらく小競り合いを繰り広げることになる)

 朝食の支度が進むにつれて調理場から伝わる熱や蒸気が家中をいい香りとぬくもりで包んでいく中、夾は一品ずつ食卓に並べていきながら『誰かのために食事を用意すること』の楽しさ嬉しさを思い出してひそかに胸を躍らせた。
 少年時代に自身の体の健康について気を遣い始めた彼は自ずと食事、そして料理にも興味を持つようになり、祖父母や兄と暮らしていた時には祖母と一緒に(もしくは交代で)家族の食事作りをするなどしていたのだが、1人暮らしとなってからは自分のためにしか食事を用意してこなかったので誰かに手料理を振舞うということ自体が本当に久しぶりだったのだ。
 璇と共に調理をした昨夜の夕食とは違って『美味しいと思ってもらえるだろうか』という緊張と『自分の作ったものでお腹をいっぱいにしてほしい』という思いが沸き上がるこの朝食は夾の真心がこもったものでもある。
 汁物と野菜を使った小鉢、そして味を濃くしてある常備菜いくつかと 炊いた穀類に香り高く温かな茶。
 それだけの食卓は質素といえば質素だが、決して粗末なものなどではない。
 湯浴みから上がってきた璇はまだ少し しっとりとしている髪を拭いながら「いつの間にこんなにたくさん用意してたのか」と少し驚いたように言った。

「小鉢まで用意するなんて朝から大変だっただろ」
「いえ、そんなことないですよ。ほとんどが常備菜ですから。俺が朝の間に作ったのは小鉢とご飯くらいなもので」
「そうは言っても…はぁすごくいい匂いだ、美味しそうだな」

 ぐぅっと腹の音を鳴らしながら食卓に着いた璇の前に温かな茶杯を置くといよいよ朝食が始まる。
 いただきます、と手を合わせた後に璇がまず始めに手に取ったのは一晩かけて調理したあの汁物だった。
 (璇さんの口に合うだろうか…)と固唾を呑んで見守っていると、汁物を一口味わった璇はふわっと柔らかな笑みを浮かべる。
 その表情からして、味の良し悪しや出来がどうかなどについては聞く必要がないということは はっきりとしていた。
 璇は「これ…すごく美味しいな、いい味が出てる」と言ってまた一口味わうと、具材の根菜類や骨付き肉も口へと運ぶ。柔らかく煮込まれているおかげで骨から容易にホロホロと外れる肉は噛み締める度にいい味がして、その美味しさは朝の体に隅々まで染み渡っていくようだ。

「それは良かったです、璇さんからいただいたあの骨付き肉がとても新鮮なお肉だったので本当にいい味に仕上がりました」
「違うよ。そうじゃなくてしょうがあれだけの手間をかけたからだろ?肉を丁寧に洗って火にかけて、灰汁を取って火加減をうまく調節したからこんなに美味しくできてるんだ」
「いえそんな…俺はただ煮込んだだけですから…あの、それよりこっちのも食べてみてください。これは胡桃を俺好みに甘辛く煮付けた佃煮なんですけど、璇さんのお口に合うどうか…」

 そうして進む朝食の時間。
 夾が用意した食事はどれも璇の好みに合うものだったらしく、食卓の上に並んでいた皿や小鉢は次々と空になっていった。しかし璇はその上さらに汁物などほぼすべての品をおかわりし、意外にも大食らいな璇の1面を見た夾はとても驚いたのだった。


 朝食が済んだ後の彼らは椅子に座ってゆっくり話などをしたりはせず、やれ洗濯だ菓子作りだ、昼食だ、となかなかの賑やかさで午前を過ごした。
 互いに自分が洗うと言ってきかなかった寝具は結局なんとか夾が洗う権利を獲得し、それと引き換えに璇が寝間着を洗うことになったのだが、洗濯場で繰り広げられた妙な小競り合いが面白くて堪らなかった2人は声を上げて笑い合うなどしながらそれぞれ手を動かした。
 その最中で夾は璇が寝間着だけではなく昨夜着ていた衣やその中にあった下着までもを洗い始めたことに気付き、とんでもない羞恥を感じて顔を真っ赤にしたのだが、しかし璇は一向に気にしていないように洗う手を動かし続けていたので、もう変に騒ぎ立てるのはやめておこうとこっそり見て見ぬふりをし、白々しくも「あ、衣まで洗ってくださったんですか、それはどうも…ありがとうございました」とあえて下着の件には触れるのは止しておいたのだった。

 昼食を軽く済ませた後、休ませておいた菓子の生地を窯で焼き上げ始める頃にはすっかり洗濯物の脱水も終わっていて、それらを2階にある広間へと干しに行くことにする璇と夾。
 その昔 夾の両親が子供部屋として利用していた2階は1階の間仕切りなどをすべて取っ払ったような広々とした造りになっていて、室内干しに使う一画がやけにこじんまりとしているように思えてしまうほどだ。
 それぞれきちんとシワを伸ばしながら洗濯物を干した璇と夾は窓の近くにある長椅子に並んで腰かけ、そして窓の外に広がる広大な牧草地を眺めてまた取り留めのない話をし始める。
 昨夜降った初雪によって地面や柵がうっすらと白くなっている広大な牧草地には一つの足跡すらもなく、清らかな状態を保っていて、目にすれば感嘆せずにはいられない景色になっていた。

「あんなに遠くの方まで見えるなんて…本当にすごいな」 
「そうでしょう?この家は元々見張りも出来るようにと建てられたものだったので普通の家よりも2階部分が少し高く造られているんです。だからこそ こんなにもいい景色が見られるんですよね、俺もよくこうやってここからの景色を眺めたりするんです。時々この牧草地には羊達が放されたりしていて牧羊犬が走って誘導するのを見かけることもあるんですけど、そういうのを眺めたりするのもまた面白くて」
「へぇ…そんなのも見れるのか」
「はい。それにこういう雪景色もいいですけど、青々とした牧草に覆われているのも本当に綺麗なんですよ」
「そうなのか…」

 夾は窓から見える四季折々の景色について話しながら、璇と一緒に調理場で料理をしたり同じ食卓で食事をしたり、何ということもない話に笑い合ったりしたこの一日のことを思ってなんとも言えない幸福感に包まれていた。
 洗濯について言い合ったことも、そしてもちろん寝台でのことも…である。
 こんなにも素晴らしく穏やかな一日を璇と共に過ごすことができたという嬉しさから「せっかくなら夜の景色も璇さんに見ていただきたかったです。今の時期は星が本当に綺麗に見えるんですよ、雪が降った後は特に綺麗で…」と上機嫌に話し続けていた夾。
 すると璇はそんな夾の手を突然握り、そして言った。

「あの…さ、しょう

「俺、もっとここにいたいんだけど…いいか?」

 璇からの言葉に「…?」と疑問符を浮かべた夾は「ここにですか?それは構いませんけど…でも明日は璇さんもお仕事じゃないですか」と目を瞬かせる。

「お休みは今日まででしたよね?ここにもう一泊したら明日は仕事前に結構歩かなきゃなくなりますよ、【觜宿の杯】まで少し距離がありますから。大変じゃないですか?」
「いや…そうじゃなくて、俺が言いたいのは…」
「?」

 璇は何かを言おうとしてやめる、ということを何度か繰り返した後で深く息を吸うと、まっすぐに夾の目を見つめながら言った。

「なぁ、韶。俺とつがいになってくれないか?」

しょうといる時間は俺にとってすごく大切なんだ、だからこの先もずっと…朝から晩までつがいとして一緒に生きていきたいと、そう思ってる。この家で、ずっと一緒に」

「…どうだろうか」

………
 シン、と静まり返った広間。
 璇の耳元はふんわりと赤く色づいている。さらにその上 動悸も多少激しくなっているようだ。
 思いがけない璇からの告白を受けた夾はこれが現実のことなのかどうかが理解できないほど混乱してしまい、しばらく声を出すことすらできなかった。
つがいつがい?俺と璇さんが…つがい…?)
 それは彼が夢にまで見た特別なものである。

つがいって、そんな…俺が…?俺でいいんですか…?だって、つがいっていうのは…」

 言葉を詰まらせながらもなんとかそう口にすると、璇は「韶がいいんだよ、俺のつがいは韶じゃなきゃだめなんだ」とはっきり言った。

「本当はもっとちゃんと…それこそ うなじあて とかを渡しながら言わないとだめ、だとは思うんだけどな…でも韶とこうやって過ごしてたら今言うべきだと感じたんだ。この先もこうやって一緒に生きていきたいと…そう思って。ほら、俺達は【香り】の相性も良い…みたいだしさ」

 珍しく気恥ずかしそうにしている璇は「韶がまだそういうのは考えられないって言うんなら それでもいいんだけど…」とも付け加えて夾からの返事を待とうとしている。
 握られた手から伝わってくる感触が今この瞬間に起こっていることをすべてを現実のことだと知らしめてきていて、夾の頬は次第に熱を帯びていった。

 璇に想いを寄せるようになってから、そして想いを告げ合ってから…ことあるごとに『将来つがいになるとしたらその相手は璇がいい。いや、相手はこの人しかいない』と思い続けてきた夾。しかし長いこと夢に見続けてきたせいもあってか実際につがいになるということに関しては現実離れしたもののようにも思えていて、自分からその話題を切り出そうという意識が彼の中からはまったく、これっぽっちもなくなってしまっていたのだった。璇が言い出さなければ有耶無耶になっていたかもしれないというほどである。
 夾はじんわりと目頭が熱くなるのを感じながら「俺も…璇さんとつがいになりたい、です」となんとか自分の想いを伝えた。

「璇さんとつがいになれたらどんなに良いかと、そう思っていましたから…でも…あの、本当に良いんですか?それにこの家に住むって…鉱酪通りからも少し離れてますし、不便なのでは…」
「不便?むしろその方が韶と俺だけの世界みたいでいいだろ。それにこの家は韶のご両親が残した大切な家だから…俺もここに住んで韶と一緒に守っていきたいんだ。すごく素敵なこの家を、韶と2人で」
「璇さん…」

 大好きな場所で愛する人と共に暮らす。
 そんな夢のようなことがあって良いのかと思う夾に、璇はもう一度しっかりと向き合う。

「韶、俺とつがいになってくれないか?」

 陽の光に明るく照らされる2人の横顔。
 夾からの答えはもう決まっていた。

「はい、璇さん」

「俺達…つがいになりましょう」

 重なり合う胸と胸。そして辺りに漂う針葉樹林と花のような【香り】…。
 さらにもう一歩踏み込んだ関係へと進展した彼らは固く抱き合って互いの想いが一つになっていることを再確認し、愛をさらに深めながら【香り】を混ぜ合った。

 あまりの嬉しさに璇へと額を擦り寄せた夾は胸が一杯になりながら ぼぅっと瞬きを繰り返し、この日のことを生涯忘れないようにと深く心に刻み込む。
 初雪が降った次の日、2階のこの場所、この長椅子に腰掛けながら璇と共につがいになる約束を交わしたことをいつまでも覚えていたいと…そう思って。
 しかしそうしていた彼は広間の端の方にあった『あるもの』を目にした瞬間、途端にある考えが頭の中に浮かんできて思わず【香り】を濃くしてしまった。
 彼の視線の先にあったもの。それは夾と彼の兄が幼い頃にこの家で使っていた小さな子供用の寝台の骨組みである。
 彼は頭の中に浮かんだ考えや光景に頬を緩ませながら「…あの、璇さん」と璇の胸元で話しかけた。

「璇さん、あの…」
「うん?」
「その…俺、いつか璇さんとの赤ちゃんが…欲しいです」

「璇さんの次の発情は…いつですか?俺は周期が大体3ヶ月毎で、次は2ヶ月後なんですけど…」
「………」
つがいになるにはお互いの発情時期が重なる必要があるんですよね?俺達のその日はいつになるでしょうか…その日が来るのが今から待ち遠しいです、なるべく早くつがいになれたらいいのに…」

 優しく穏やかな笑みを浮かべて話す夾。
 そんな彼には「…あぁ」「そうだな……」と答えた璇の表情がどのようなものだったかは分からなかっただろう。

 階下からは窯に入れておいた焼き菓子の焼き上がりを知らせる甘い良い香りがし始めていたのだった。



~第1章 終~
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