その杯に葡萄酒を~オメガバ―ス編~

蓬屋 月餅

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第1章

4「肌寒い春の日」後編

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 一日で最も明るく陽が射し込む昼過ぎのこと。
 外の鉱酪通りから人々の往来の音が程よく聞こえてくる【觜宿の杯】で、夾はせんと2人きり顔を合わせている。
 酒棚の上部にある飾り棚の中身を整理していたらしいせんは調理場の方から姿を現した夾を見て「え…なんで、そっから…」と目を丸くした。

「そっちは裏の調理場…っていうか なんでこの時間に」
「すみません、まだ早い時間だとは分かっていたんですが なんとなくここへ来てしまったんです。そうしたらちょうど外で荷車から食材の荷下ろしをしていたので、是非その手伝いをと思いまして」
「あ…そう、ですか」
「この酒瓶はどこに置いたらいいですか」
「え?あ、あぁ酒瓶…じゃあそれはそこの長机の下にでも…」

 璇が踏み台の上から指差したところへ静かに木箱を置く夾。
 彼はそれからまた外に戻っていって残りの酒瓶も中へと運び込み、そして璇の指示を受けた場所に置くということを何往復分も繰り返した。
 そうしていよいよ荷車に載っていた最後の2本の酒瓶を運ぼうとしたところで、彼は外でずっと作業をしていた璇の兄に「本当にありがとうございました、コウさん」とあらためて礼を言われる。

「今回はいつもよりも多く届いていたので すごく大変だったんですが…コウさんのおかげでこんなに早く仕事が済みました、とっても助かりました」
「いえ、お役に立てたようで何よりです」
「本当にありがとうございます。あの…もしかしてまだ昼食も召し上がっていないのでは?それなのにこんな力仕事を任せてしまってすみません、すぐに何か用意しますからどうぞ【觜宿の杯】の中で待っていてください。この荷車を返して来たら、本当にすぐ料理を用意しますから…」

 せんの兄は「すぐ、すぐに戻りますね!」と空になった荷車を牽いて鉱酪こうらく通りへと出ていった。
 

 大きめの酒瓶2本を抱えて【觜宿の杯】へと戻ると、中では璇が酒棚の上の飾り棚に納められていたらしい箱やら何やらを長机にまとめて並べ、そしてどれをどの棚に納めていくかの算段を立てているところだった。
 箱には食堂や酒場で使う食卓用の匙や布巾などの予備が詰められているらしい。
 璇はずらりと並んだすべての飾り棚を端から順に整理するべく、踏み台を動かしてからその上へと上がって棚の中を覗き込む。
 持ってきた酒瓶を指示された場所に置いた夾は後は手を拭って席につき、料理が出来上がるのを待っているだけになったのだが…誰かが目の前で作業をしていると1人じっとしていることが出来ず手伝いたくなってしまう性分のため、璇が踏み台を降りて少し大きめの箱を取ろうとしたのを見るや「これですか?」とその箱を璇に手渡した。

「え…いや、いいから席に座って待ってればいいのに」
「でもいちいち踏み台から降りていたら大変じゃないですか。俺が渡していった方が効率がいいと思うんです」
「それは…まぁそうだけど、でも…」
「…余計なこと、ですかね」
「え!?い、いやそんなことはない…けど…」

 下手に手伝っては迷惑だろうか とも思う夾だが、璇は「メシを食べに来たんじゃないんですか…?」と呟き、結局夾が差し出した箱を受け取った。
 そうして黙々と始まる片付けと箱の手渡し。
 夾はこういった状況下での静寂でも気まずく思ってはいなかったのだが、璇はそうではなかったようで、あまりの静けさに耐えかねたらしく「料理…はまだもう少しかかると思います」と妙に恭しく話し出す。

「さっき鍋の様子を見てきたんですが、まだ煮込み始めたばかりで野菜とかに火が通りきってなくて。今日の献立は煮込み料理が中心なので炒め物の用意もしてないし、肉と魚は焼きますけど下処理を済ませて味をつけてる途中だから今すぐに用意しても味が…」

 すぐには料理が出せないという理由をやたらと詳しく説明する璇に、夾も「はい、大丈夫です」と頷いて応える。

「俺が早く来てしまったのがいけないんです。料理ができていなくても当然ですから、お気になさらないでください」
「そう…ですか」
「はい。むしろ気を遣わせてしまったようですみません」

 夾がいつものクセである丁寧な口調で話しながら気軽に接していると、璇もかすかに抱いていた気まずさから脱したのか他にも話題を出し始めた。
 やはり何か作業をしながら、手を動かしながらだというのも会話を弾ませる一因になっていたのだろう。
 2人はそれこそ天気の話から好きな料理、そして仕事の話に至るまでありとあらゆる話をして和やかに過ごした。
 時にはふとしたことからクスクスという笑いまで巻き起こる、そんな なんということもないひと時。夾は表情にこそ出さなかったが、本当に楽しく思って胸を弾ませていた。
 きっと抑制薬を飲んでいなければ【香り】を放ってすらいたはずである。
 彼は墓碑からの帰りにそのままこの【觜宿の杯】へ来て手伝いを始めていたため、抑制薬を服用する機会はなかったが、偶然にも先週発情期が終わったばかりだったので念のためにと朝から発情期用の抑制薬を服用していたのだ。それが功を奏している。
 そうでなければとっくに花のような【香り】が2人の間に漂っていたことだろう。

「…そういえば、今日はお仕事はお休みなんですか」

 ふいに璇は訊ねた。

「こんなに早くここへいらっしゃるなんて。お仕事がお休みの日でもいつも同じような時間にいらっしゃいますよね、夕方頃に」

 璇からのその問いに素直に答えてしまってはせっかくの和やかな雰囲気が重くなってしまうだろうと夾はわずかに躊躇う。だが、そう隠す必要もないだろうとも考えて、わずかに間をとってから「はい、墓碑に用がありまして」と璇が取ろうとしていた箱を手渡した。

「両親の命日なので会いに行ってきたんです。今日は一日ゆっくりしようかと思って仕事も丸一日休みにしていて」

 それを聞いた璇は「あ、それは…すみません、そうとは知らず…」と申し訳なさそうにしたが、夾は小さく首を横に振って「いえいえ。大丈夫ですよ、気にしないでください」と微笑みを浮かべる。

「両親は俺が本当に幼い頃に亡くなっているので、墓碑に会いに行くのも寂しいとか そういうしんみりした感じではないんです。むしろなかなかしょっちゅうは行けないので色々と報告しに行けるのを楽しみにしているくらいですよ、今年は俺1人でしたけど毎年兄や義姉と賑やかにお参りしてますし」

「寂しさや恋しさがまったくないと言ったら嘘になるかもしれませんけど…でも両親は2人共賑やかな人だったみたいなので、きっと俺達にはしんみりしているよりも明るく過ごしていてほしいと思っているんじゃないでしょうか。両親が安心できるような毎日を送ることが大切だと、俺と兄はよく祖父母から聞かされていました」

 けっして無理をして明るく振舞おうとしているわけではないということが璇にも伝わったのだろう。
 彼は「そうですか、素敵なご家族ですね」と表情を和らげて言うと、また一つ飾り棚に荷物を詰めて深く息をついた。

「それにしても…まさかこんな偶然もあるとは」

「実は今日私も墓碑に行ったんです、お互い入れ違いになったのかもしれませんね」

 璇はため息交じりに呟く。
 もちろん、夾は璇が墓碑に来ていたことを知っている。それに誰のために行っていたのかすらも…。
 それこそ こんな話をするべきではなかったのかもしれないが、しかしなんとなく穏やかな雰囲気が漂うこの昼下がりでは不思議と彼らも深刻そうな話題を口にすることに抵抗がなくなっていた。

「…『驪|《れい》さん』、ですよね」

 夾がその名前を口にしたことで本当に驚いた璇は彼のことを知っているのかと訊ねてくる。
 たしかに知ってはいるが 昔からの知り合いというわけでもないので「知っている、というか 知った、というか…」と答えに困った様子を見せると、すぐに璇は「あぁ…りゅうさんに会ったんですか」と目を伏せた。
 夾は頷く。

「鎏さんと俺には互いに接点があって、それで話をしているうちに今日墓碑へ来た理由についての話にもなったんです。鎏さんは義弟の驪さんについて色々と…」
「えっ、2人の接点てどんな…いや、まぁ、そうか…それはそれとして…」

「あの、さ、鎏さんがどんな話をしたのかは知らないけど とにかく俺はそういう…っていうかなんていうか、今はもっと違うっていうか…だから、そうじゃなくて…」
「そんなに動揺しなくてもいいじゃないですか。俺はすごく素敵だと思いますよ」
「えっ!いや、だからその…!」

 しどろもどろになりながら璇は「ち、違うんだ、そうじゃなくて…いや、そうだったっていうか、でもそうじゃなくて、だから…もう、なんて言ったらいいんだよ…!」とほとんど支離滅裂に話している。
 夾はそんな彼の反応を『きっと同性の驪へと寄せていた想いが暴かれたことに動揺しているからに違いない』と考えて「でも本当に素敵だと思うんです」と大真面目に言った。
 璇には夾が男性オメガであるということは知りえないだろうが、夾の場合はもし自分が誰かとつがいになるとすればその相手は女性アルファが男性オメガよりも少ないとされている以上男性アルファしかあり得ないと理解していたので、第1性別が同じ相手を好きになったとしてもまったく不思議はないと考えていたのだ。
 それこそ、夾は【香り】が関与しないながらも驪を慕った璇のその気持ちが自分には無い深い感情によるものだと感じてもいたので、素直に素敵だと思っている。
 そして、もしその驪がオメガであったならきっとつがいになりたいと思っていたであろうということについても考えが及んでいた。

(そうか…本当は璇さんは驪さんがオメガだったらつがいになりたいと思っていたはずだ。だから男同士のつがいについては特に敏感で…俺が不用意にそんなことを話したから、あの夜は辛い【香り】を放つほど…)

 夾はあらためて璇と初めて対峙したあの初秋の夜の日のことを思い出す。
 璇は自身の経験から、男同士でありながらもつがいになった黒耀や琥珀のことを羨ましく思っていたのかもしれない。だとすれば男同士のつがいについて否定的にもとれるような言及をした夾に対して怒りの感情を抱いたのだって腑に落ちる話だ。
 夾はそうした背景なども含めて「あの夜のことは…本当にすみませんでした、璇さん」とあらためて詫びた。

「俺は本当にそんなつもりではなかったんです。でも璇さんが腹を立てたのは尤もだと思います、それはもちろん…腹が立ちますよね」
「え?い、いや、それは…もういいんだ、俺も悪かったよ、あんたがそんなこと言うような奴じゃないってのはもう分かってるし、俺もよく話を聞きもしないで…」
「そんな風に誰かのことを好きになれるってすごく素敵なことですね。俺にはまだそういう経験はありませんけど、でもそれだけ深い想いを抱くというのは……」
「えっ!あっ、待っ…いやだからそれはなんていうか…だから…っ!」

 夾が話をしながらあまりにも自然に長机に載っていた最後の一箱を渡してくるので、璇はいっそう動揺してなにか言い繕おうとしている。
 妙に落ち着き払っている夾と、いつの間にかあの恭しい口調を忘れるほど慌てている璇。
 その両極端な2人によって片付けが進んでいた【觜宿の杯】。
 だが、彼らを取り巻く状況は一つの動きをきっかけに一瞬にして大きく変化することになったのだった。

「だから俺は…あぁっ、もう、なんて言ったらいいんだよ……っ」

 困り果てたように璇が何かを言いかけたその瞬間のことだ。
 こうして作業をしながらではうまく話ができないと見たらしい璇は踏み台を降りようとして…そしてなんと信じられないことに足を踏み外した。
 それほど高さはない踏み台ではあったのだが、璇は大きく体勢を崩したせいで転げ落ちそうになり、「えっ」と反射的に声を上げて身を固くする。
 次の瞬間には棚かどこかに体がぶつかる鈍い痛みが走るに違いないと覚悟した璇。
 しかし、覚悟していた感覚と実際に感じた感覚は明らかに異なっていた。

「璇さん…っ」

 璇の腰の辺りは夾の両腕によってしっかりと抱き支えられている。
 璇が踏み台から足を踏み外したとみるや否や、夾はすぐさま彼の身体を抱きしめるようにして支え、そして安全を確保しながら両足を床につけさせていたのだ。
 思いがけず触れ合った体にこれまた慌てる璇。
 しかし、騒ぎはそれだけにとどまらなかった。
 人は身に危険が迫った時には『藁をも掴む』というように手当たり次第に物を掴んだりしてなんとか身の安全を確保しようとするものだが、踏み台の上に上がっていた璇もその通りだったようで、なんと体勢を崩した拍子に彼は飾り棚の扉の縁を掴んでしまっていたのだ。
 元々繊細な造りをしている扉に一瞬とはいえ大の大人の男が全体重をかけてしまったのだから、その後その扉がどうなったかについては想像に難くない。
 璇が夾に礼を言おうとした時、2人の頭上から木材が裂けるような嫌な音がした。

「危ないっ……」

 本当にそれら一連の出来事は一瞬のうちに起こったことだった。
 璇が見上げるより早く夾は彼を後ろに突き飛ばしていて、それとほとんど同時に硝子板の砕け散るけたたましい音が鳴り響く。
 …状況を理解するまでに少し時間がかかるような光景が、そこには広がっていた。


ーーーーーー


 夾の仕事である荷車の整備というのは作業の中で重い木材を担ぎ上げたりすることもよくあり、そこそこ危険が伴うものである。
 そのため彼の条件反射は普通の人よりも数倍優れていたに違いない。
 彼は頭上の飾り棚の扉が壊れてそこに嵌め込まれていた美しい草花模様の硝子板がキラリと光りながら降ってきたのを目の端に捉えると、璇を後ろに突き飛ばしながら顔を左に向け、その時点で最良だろうと思われる対応をとっていた。
 床には割れた硝子板の破片があちこちに散乱している。
 酒棚を美しく飾っていた硝子板には模様を横断するようにいくつもの亀裂が入っていて、見るも無残な姿だ。
 夾はそれらを眺めながら(あぁ…せっかくの硝子がこんなことに)などと考えていたが、しかしその破片の一つの上にポタリと赤い雫が滴り落ちたことで、彼は自身の額に何やら熱いものが這っていることに気がついた。
 右の手のひらをパッと眉のあたりに押し当てると…まるで心臓がそこにあるかのような強い拍動とその拍動のたびに内側から溢れ出してくる何かが手のひらいっぱいに広がる。

「そ、それ……」

 呆然とした璇の言葉を聞くまでもなく、夾は自身が結構な怪我をしているらしいと理解した。
 硝子板の端は鋭利になっていたので、降ってきたときにそれが眉の辺りをかすめて切ってしまったのだろう。
 とめどなく溢れ出る血液は手のひらでは収まりきらずに手首、腕へと伝っていって彼の釦付き衣の袖をこれまた赤く染めていく。
 とてもではないがしばらくは止まりそうにないその出血量に、夾はこれ以上床を汚してしまわないようにと左手で衣の中にある手巾を探そうとする。
 その時、調理場の方から「ちょっと!?すごい音がしたけど、大丈夫!?」と璇の兄が慌てた様子で駆け込んできた。

「なんか硝子が割れたみたいな音が…ってコウさん!?どうしたんですか、それ!!」

 璇の兄は璇を押しのけて夾のすぐそばまで来ると、一通りその場を見回して状況を素早く理解し、そして自らの手巾を取り出して夾に傷口へと押し当てさせる。

「大丈夫ですか、こんな怪我をするなんて…この手巾は清潔なものですから ひとまずこれで傷口を押さえてください、今すぐに僕が医者を……璇!なに突っ立ってるんだ!」

 その場に立ち尽くしていた璇を一喝した彼の兄はそれからすぐに「とにかくこの手巾で強く傷口を押さえていてください」とだけ言い残して医師を探すべく外へと飛び出していった。
 傷口に当てた手巾はじわじわと生暖かいもので湿っていくが、しっかりと押さえつけているためか先ほどよりはその勢いを落としているようにも感じられる。
 それほど時が経たないうちに璇の兄は若い医師を連れて戻ってきた。
 その医師はいつも夾が抑制薬を作ってもらっているかかりつけ医であり、夾が「あ、先生じゃないですか」と反応すると、璇の兄はちょうどこのかかりつけ医が目の前の鉱酪通りを通ったところだったので連れてきたのだと説明する。

「これは…この硝子板で切ったんですね?ちょっと診せてください。ゆっくり手を除けてみて……視力に問題はないですか?頭をどこかに打ったとか、そういうことはありますか」

 すぐに傷口の状態を診た医師は「これ、割れた硝子の破片が降ってきて怪我をしたんじゃなくて、硝子板のフチで切ったんですよね?」とさらに確認すると、ちらりと璇の方を見てから夾に近くにある自分の診療所へ移るよう促した。

「傷口に破片が入っているわけじゃなくて良かったですよ、スパッと真っ直ぐに切れているだけのようなので何針か縫えば大丈夫です。処置しますからこの裏口を通らせてもらって僕の診療所まで行きましょう、表から行くよりその方がずっと近いので」

「なるべく止血が出来るように傷口はしっかりと抑えたままでいてくださいね」

 夾は医師と璇の兄に連れられて診療所へと向かう。
 璇の様子が気になりはしたものの、兄に「硝子を片付けておくんだ、いいね」と言われた彼がどのような表情を浮かべていたのかについてはついぞ窺い知ることができなかった。

ーーーーーーー

「あの…すみません、床板を少し汚してしまって」

 診療所内に移動して促されるまま椅子に腰掛けた夾が詫びると、璇の兄は「そんなこと気にしないでください、元はといえばあの棚の硝子板が降ってきたせいでしょう?」と眉をひそめる。
 医師が戸棚の引き出しや開き戸などから薬や治療に必要な道具を持ち出してくる間に璇の兄にことの詳細を訪ねられた夾がすべて正直に話すと、璇の兄はため息をついて「そうでしたか…それは本当に申し訳ないことで…」と項垂れた。

「璇のことを庇ってくださったんですね、それなのにあの子は ぼぅっと突っ立ってるばかりで…」
「いえ、そんな。俺が咄嗟にやったことだったんですから そうお気になさらないでください。俺自身も思っていた以上に怪我をしてびっくりしたんですよ、なのできっと見ていた璇さんはもっと驚いたでしょう」
「そうかもしれませんけど、でも…」

 さらに申し訳なさそうにする璇の兄。
 医師はなにやら小瓶に入った丸薬を手にしながら「まぁ、とりあえず君にはこの薬を飲んでもらいたいんですが」と2人の間に割って入ってきた。

「この薬はなるべく空腹時の方が効きがいいんですけど…君は今日のお昼はいつ食べましたか?」

 訊ねた医師に璇の兄は「先生、彼はまだお昼を食べていないんです」と答える。

「うちには食事にしに来ていて、それで…」
「あっ、そうだったんですか。それならなにか持ち帰れる料理を用意してもらった方がいいかもしれませんね、今日は治療が終わったらそのまま家で安静にしてもらうことになるので、お昼…というか夕食の分と夜食の分は持って帰ってもらわないと」
「分かりました、料理は任せてください。すぐに用意しますし、それからあとは…彼を家に送るための荷車とかも調達しておきますから」

 璇の兄は夾に頭を下げ、また慌しく診療所から出て行った。
 医師と2人きりになった夾は早速丸薬と水を渡される。
 この丸薬は何なのかと訊ねると、医師は即効性の抑制薬だと説明した。

「空腹状態で服用した方が効果が早く出るんです、なので幸いというべきか…いつも君は食事を抜かず規則正しい生活をしていますからね」
「はぁ、それは…でもどうしてまた抑制薬を?」
「もちろんそれは君がオメガだからですよ」

 医師は手際よく戸棚から傷の縫合に使うための道具を用意しながら話す。

「アルファやオメガは互いの【香り】を感じると病や怪我の治りが早くなることは知っていますよね?でもなにもそれはつがいになった者同士だけに限った話ではないんです。つがいになっていなくても、怪我をしたりした体は対となる性の【香り】を求めて意図せず【香り】を放つことがあります。自分の【香り】に反応して他の人が【香り】を放つように仕向ける、というか。それだけで済めばいいんですけど、もし仮に次の発情が近い人がそばにいたりするとどうなるかは…もう分かりますよね?」

 医師の話に夾は頷いて応える。

「まだ君は【香り】を放っていなかったので良かったです。もし【香り】が出ていたら、あの場には、その…」
「…知っています。アルファの方がいましたもんね」
「ご存知だったんですか」

 どうやらこの医師は璇のことも診ているらしく、あの場に対となる性の璇と夾がいるのを見て早急に夾を連れ出さなければならないと思ったようだ。
 前述したように夾はこの日はまだ発情時に飲む抑制薬を朝から服用していたのだが、医師が言うところによると このような怪我を負った際にはとにかくアルファの【香り】を求めて強く香りを放とうとするものなので、緊急的に抑制薬をさらに服用した方が良いとのことだった。
 元々こうした抑制薬を構成する薬草はよほどのことがない限り過剰摂取にはならないうえ、調合に関しては慎重に行われているため追加で飲んでも体に害は及ぼすことはないのだそうだ。
 医師が麻酔薬を傷口に振りかけるのをじっと受け入れながら夾は言う。

「俺はあの人の【香り】を感じたことがあります。深い良い【香り】がして、すごく印象的で…」
「もしかして、君が初めて強く香った【香り】の持ち主というのは?」
「…はい」

 医師は麻酔の効果が現れるのを待つ間に傷口の縫合に使う糸と針を用意しつつ夾と話す。

「そうでしたか、彼が…」
「なので俺はいつも予防のために先生からいただいた弱い効き目の抑制薬を飲んでから【觜宿の杯】に向かうことにしてるんです。今日は朝から抑制薬を飲んでいたのでいたので追加で飲むようなことはしてませんでしたけど…それでも効果があったんでしょうね。【香り】を放たずに済んだのは まだそこまで痛みを感じているわけではなかったからというのもあるかもしれません。でも…」

「もし璇さんがあの場で怪我をしていたらきっと俺もつられて【香り】を放っていたと思います。そう考えると怪我をしたのが俺で良かったですよね、璇さんの【香り】をまたあんな風に間近で香ったらさすがに抑制薬を飲んでいても俺は一体どうなっていたことか…本当に怪我をしたのが俺で良かった」

 夾は心からの安堵を浮かべて言った。
 どのような形にせよ、そのようなドタバタとした状況の中で自らがオメガだということを明かしてしまうのは夾にとっては抵抗があることだったのだ。
 それに自分の目の前で傷を受ける璇の姿はなんとなく想像するだけでもつらい気がして、それならば自分が庇って事なきを得た方が何倍もいいと思える。
 だが医師は軽く息をついて言った。

「…怪我をしても良い人なんて、いないんですよ」

 …医師による真っ直ぐなその言葉には、心に直接訴えかけてくるような深さがある。
 夾は医師に対して少しの恥ずかしさと後ろめたさを感じ、視線を伏せながら「…はい」と小さく頷いて応えるのが精一杯になってしまったのだった。

 医師による治療は右の眉の辺りの傷口を数針縫合するのと、そして腕についていた比較的軽傷である切り傷への手当てで終わった。
 眉の傷からの流血にすっかり気を取られていたせいもあってのことだろうが、彼は指摘されるまで腕にも傷がついていたことにまったく気が付いておらず、医師に『元々君は痛みに強いのかもしれませんね』と苦笑いされてしまう。
 とにかくそうしてどちらの傷にも使える塗り薬を持たされた彼はそれから傷口が完全に塞がるまでの間 医師からの指示を受けて仕事を休み、自宅で安静に過ごすことになった。
 璇の兄が調達した馬牽きの荷車に乗り、大きなかごに入った様々な料理と共に帰宅した夾。
 かくして彼はこの仕事を始めて以来、初めての長い休日を過ごすことになったのだった。
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