その杯に葡萄酒を~オメガバ―ス編~

蓬屋 月餅

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第1章

4「肌寒い春の日」前編

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 まだ肌寒さの残る春の日。
 夾は1人、両親の名が記された花束を手にしながら酪農地域にある大きな石造りの【墓碑】が建つ小高い丘を目指していた。
 【墓碑】というのはその地域に所縁ゆかりのある人々が眠っている墓所である。
 夾がまだ幼い頃に亡くなった彼の両親は、その酪農地域の墓碑に眠っているのだ。

 夾の両親は働いていた牛舎での突発的に発生した事故によって亡くなった。
 事故の内容は、ちょっとしたことをきっかけに暴れ出した牛が牛舎の柱に何度も体当たりをし、建物を倒壊させたというものだ。
 建物が倒壊する前にそこで働く人総出ですぐさま中にいた牛達を外へ連れ出しにかかったのだが、夾の母親が最後の1頭を連れて行こうとしたところで屋根が大きく軋んだ音を立ててしまい、それに驚いたその1頭はまだ柵につながれていたにもかかわらず縄を強引に引いて逃げてしまった。
 元々不安定な状態になっていた牛舎がそれによって倒壊を早めてしまったのは言うまでもない。
 そばにいた夾の父親がすぐさま倒壊しそうな牛舎の中に飛び込んで夾の母親を庇ったが、それでも2人は逃げ切ることができなかった。
 2人が亡くなったのは 打ち所が悪かったせいもあるだろうが、最も大きな理由は彼らがつがいだったためだ。
 夾の父親はアルファ、母親はオメガだった。
 通常、つがいになると互いの【香り】によって体調を整え合うため、その後の人生を一切病気をすることもなく健康に長寿で過ごすことができるのだが、それとは引き換えにどちらか一方が寿命を迎えたり回復しきれないほどの大怪我を負ってしまうと、本人達も気づかないほど自然に【特別な香り】を放って同時に眠りについてしまう。
 つがい関係というのは自身の心身を整えるために相手の【香り】を求め合うものなので、その片割れがいなくなってしまうとその後は心神喪失に陥り、心身の健康が損なわれるばかりでなく生きる意欲を失って不幸なまま命を短くすることが知られている。つまり、そうして【特別な香り】を放つのは深く相手のことを想っているからこそであり、愛するつがいのために最後になせることでもあるのだ。
 とにかく、そうして夾の両親は幼い夾と当時9歳だった彼の兄を残してこの世を去った。
 その命日がこの肌寒い春の日なのである。

 夾は毎年 兄や義姉となった兄の妻と共に両親が眠る【墓碑の丘】を訪れていたのだが、今年は兄夫婦に子が生まれたばかりだということで初めて彼1人で赴くことになっていた。
 しかし両親へと報告することはたくさんあるのだ。
兄夫婦に元気な女の子が生まれたこと
皆元気に暮らしていること
そして…ようやく自分にもオメガ性が発現したこと
 彼自身には両親と過ごした記憶はほとんどないが、しかしとても元気で陽気な両親だったらしいということは兄や祖父母からよく聞かされていたので、きっとこういった報告も大はしゃぎで聞いてくれるだろうと彼は思う。
 幼い頃には歩くのが大変だった坂道を一歩一歩踏みしめながら、夾は両親の元へと向かった。


ーーーーー


 見渡す限り広がる青々とした心地良い草原を道なりにまっすぐ行くと【墓碑の丘】に辿り着くことができる。
 陸国の5つの地域それぞれに1つずつある【墓碑の丘】には大きな石で造られた墓碑の他にそこに眠るすべての人の名が記された本を納めた小屋があり、周辺の木々を含めたそれらは管理人や訪れた人々によっていつも美しく手入れされているのでちっとも暗い雰囲気にはなっていない。
 そんな【墓碑の丘】の頂上へと太陽が空高く上がりきる前に辿り着いた夾。だが、すでに墓碑の前には人影があった。
 大きな墓碑の前にある人影は2つ…その片方の後ろ姿に夾は見覚えがある。

せん…さん?)

 柔らかな陽の光を受けて輝く髪やその背格好からしても、それがせんであるということは明白だ。
 よほど縁があるのだろうか?よもやこんなところでも姿を見かけることになろうとは…夾はあまりにも出来すぎた偶然に首をかしげてしまう。
 しかしそのまま『奇遇ですね』などと気軽には出ていけない雰囲気が漂ってもいたのだった。
 そこに突っ立っているわけにもいかず、夾はそばの茂みの木の陰に身を隠す。
 …こういった状況に出くわすのは2度目だ。きっと夾には盗み聞きをしたくなくてもそのような状況に居合わせてしまう何かがあるに違いない。
 木の裏に隠れつつも、せんとその隣にいるもう1人の男が交わす会話はやけにはっきりと彼の耳に聞こえてきていた。

「…もう律儀に来る必要はないんだよ、セン。だってこうしてずっと君に来させるのは…不本意だろう。『気になって旅立てないからそういうのは嫌だ』と生前僕に言っていたくらいなんだ」

 せんの隣で穏やかに話しかけているその男を夾は何となくどこかで見かけたことがあるような気がするのだが、どこで見かけたのかは はっきりと思い出すことができない。
 その男とは旧知の仲らしいせんは、他では聞いたことのないような かしこまった口調で「やめるべき、なんでしょうか」と話している。
 
「来るなと言われても、俺は…」
「だけどずっとこうしていては互いに苦しい思いをすることになる。それはあの子がなによりも嫌っていたことだというのは、君も分かっているはずだよ」
「それ…は……」

「…セン、君は前を向いて進むのがいけないことだと、申し訳ないことだと思っているんだろう。その気持ちはよく分かる。でもね、そうして立ち止まっていることが慰めになるかというと…必ずしもそうではないんじゃないかと僕は思うんだ。新たなものを手にするには、まずは握ったその手を開かないといけない。ずっと手を握りしめていたら良いことがあってもそれを掴めずに逃してしまうからね。これまで君は何年にも亘って手放すまいとその手を握りしめてきたけど…」

「…君はもう前を向いていい頃なんだよ、セン」

 諭すように男は言う。
 若芽が芽吹き始めたばかりの木々が風にそよぎ、爽やかな心地良い音を辺り一帯に響かせた。
 清々しい春の気配が存分に感じられる瞬間だ。
 …だが しばらくの間沈黙していたせんは、何かを言いかけた後にぐっとそれを飲み込み「…今日はこれで失礼します」と小さく頭を下げて踵を返す。

「また【觜宿の杯】にも来てください、兄がしばらく会っていないと言っていましたよ」
「セン…」
「…失礼します」

 まだ話をしたそうにしている男に構わずその場を後にするせん
 何か思い悩んでいるようなその後ろ姿はいつものあの凛とした【觜宿の杯】のあるじとは別人に思えるほどであり、夾はなぜかひどく胸が締め付けられる思いをした。

(あのせんさんがあんなにも苦しそうにするなんて…きっと『レイ』というその人はせんさんにとってすごく大切な人だったんだろう。せんさんはレイさんのことが今も忘れられないんだな…)

 去っていくせんの後ろ姿が丘の下に消えていくまで見つめながらじっとそんなことを考えていた夾。
 知らない璇の一面や心の奥底にあるものを勝手に覗き見てしまった気がしてなんとも言えない気分になっていた彼だったが、ふいに「あの、あなたもお弔いに来られたんですよね?」と呼びかけられて跳び上がらんばかりに驚く。

「すみません、僕達が話し込んでしまっていたばかりに…どうぞこちらへ来て墓碑へお参りなさってください」

 どうやらこの男には夾がいたことはとっくの昔にばれていたようだ。
 バツの悪い思いをしながら「あの、けっしてそんな変なつもりはなくて…」と弁明しようとすると、その男は「えぇ、分かってますから大丈夫ですよ」といかにも人の良さそうな感じで微笑んだ。

「こちらこそ気を遣わせてしまって申し訳ないです、すみません」
「いえ、そんな…」

 なんとも言えない気まずさでいっぱいだが、しかしだからといってその場をそのまま去るわけにもいかないだろう。
 夾は男が故人の名前が記された本を納めた近くの小屋へと向かった隙に、持ってきた花束を墓碑の前に供えた。
 手を合わせ、心の中でしっかりと両親に様々な報告をしてからそそくさとその場を後にしようとする夾。
 しかし去ろうとしたその時、「あっ、ちょっと待って!」とあの男に呼び止められてしまったのだった。

「ごめんね、呼び止めてしまって。あの…もしかして君は工芸地域の…」
「えっ?」

 墓碑の前でおもむろに立ち話を始める2人。
 そうして男と話したことで、夾は『どこかで会ったことがあるような気がする』という自分が感じたあの感覚がどうやら正しかったらしいということに気が付いた。
 なんとその男は夾の兄の妻、つまり義姉の親戚であり、工芸地域にて催された兄の結婚式にも参列していたというのだ。
 当時 夾は兄に代わって結婚式に訪れた数多くの人々と挨拶を交わすなどしていたが、その中にこの男もいて、夾のことを覚えていたらしい。
 夾ははっきりとは覚えていなかったことを申し訳なく思ったが、温厚な性格をしているらしい男は「すごく沢山の人がお祝いに来ていたじゃないですか、覚えていなくて当然ですよ」と逆に夾を気遣ってくれたのだった。
 まさかこうして酪農地域の墓碑で会うなんて、と2人は軽く会話を交わす。
 そんな中で夾がふと視線を墓碑の方へと向けると、そこにはまだ供えられたばかりの瑞々しい花束があって、彼はそこに記された『れい』という名前に思わずくぎ付けになってしまった。
 レイ…それは間違いなく先ほどせんが供えていったものだ。

「もしかして、彼のことを知っているんですか?」

 視線の先を辿った男に訊ねられてしまった夾は本心では気になりつつもあまり踏み込むべきではないだろうと考えて「いえ…知っているというわけではないんですが、その…」と答えに窮してしまう。
 するとそんな夾の様子から何かを察したらしい男は「…もしよかったら、れいの話を聞いてもらえませんか?」と夾に提案してきた。

「故人の話をするのが一番の供養になる、と僕は思っているんです。もし時間があるのなら彼について少し話をしたいのですが…」

 どうでしょうか?と穏やかに促す男。
 夾は静かに頷いて応えていた。


ーーーーーーー


 墓碑の丘からの帰り道。夾は1人でずっと考え事をしながら歩いている。
 誰かを好きになるということ。誰かに想いを寄せるということ。
 誰かを…愛おしいと思うこと、について。
 実のところ、夾はこれまでの人生で誰かを好きになったり夢中になったりしたということは一度もなく、工芸地域で暮らしていたときによく耳にした周りの人々による恋模様や恋物語はすべて他人事として捉えていて、『自分だったらこうする』だとか『自分だったらこんな人に憧れる』といった風にはまったく考えもしていなかった。
 良く言えば実直に、別の言い方をすれば愚直に生きてきたのである。
 それが良いことかどうかというのはさておきとして、とにかく彼は今日初めて『誰かを想うこと』というのがどういうものなのかを知った。
 きっかけはもちろん、墓碑の丘で出会ったあの男、『りゅう』から聞いた話だ。

 夾の義姉の親戚であるりゅうという男は、墓碑に眠る男『れい』の義理の兄弟であったらしい。
 幼少の頃に実父が体調を崩し、遠くでの療養が必要になったことで養子としてりゅう一家の元へと引き取られたれい。彼は兄となったりゅうによく懐いて実の兄弟のように暮らしていたのだが、後に実父と同じ病を発症してしまい、実母らによる懸命な看病の甲斐なく若くしてこの世を去ったのだった。
 そんなれいのそばに一時期いたのがまさしく璇だったという。
 璇は当時年上だったれいに甲斐甲斐しく尽くしており、それはれいが病を得て実の両親がいる療養先へと去るまで続いていたそうだ。
 献身的な姿はオメガに尽くすアルファのようだったとりゅうは語る。…しかしれいはオメガではなくベータだった。
 はっきりとれいの第2性別について言及がさたわけではないのだが、りゅうれいについて語る中でこのような話をしたのだ。

「元々あの子は街中でつがいの人達を見るとすごく羨ましそうにしてたんだ『りゅう兄ちゃん!あの人達…すごく素敵だよね』なんて言って。つがいっていう関係性に憧れていたんだと思う。でも一度僕に『たとえ僕がオメガだったとしても、好きな人がアルファじゃないなら…意味がない』ってすごく寂しそうに言ったことがあってね…いつも明るくて元気なあの子がそんな風に弱々しく言うなんてって、僕も胸が締め付けられたことをよく憶えてるよ」

 この話かられいはベータであったことが伺える。
 ベータであるれいと、そんな彼に献身的に尽くした璇。
 それも8年以上も前のことであるそうで、当時まだ10代だった璇がれいに対して一体どのような思いを抱いていたのかについては本人ではない以上正確に知ることはできない。しかし夾はそれが恋心によるものであったのだろうと、直感的に悟っていたのだった。

(璇さんはきっと…オメガだとかベータだとか、そういうことは関係なくれいさんというその人のことを大切にしてたんだな…)

 夾は1人まっすぐに伸びる道を歩きながら考えている。
 アルファやオメガに、ベータ。そして、男女。
 彼らはそれぞれ想いを寄せ合った者とつがいになったり、婚姻をして人生を共に過ごしているが、果たしてその出逢いにはそうした性別などというのは関係していたのだろうか、と。
 中にはそうではない人もいるかもしれないが、しかしほとんどの場合は『好きになった人が偶然つがいになれる性』もしくは『互いに子をなせる性だった』のではないだろうか。
 つがいという関係性は深い愛と絆で結ばれたアルファとオメガの組み合わせでしか実現しえないが、彼らは想いを寄せた相手が『偶然』ついとなる性だった…のではないだろうか。
 それは【香り】という特別なものが関与しないベータ同士の関係性でも同じことが言えるはずだ。
 男性は好きになる人が『偶然』女性であることが多く、女性は好きだと思う人が『偶然』男性であることが多いのだ。
 『あの人が異性だったから好きになった』のではなく『好きになった人が異性であることが多い』というように。
 もちろん、人間は『自分にないものを持っている相手に惹かれる』という点から考えるとそれも必然的だと言えるのかもしれない。
 だが人が誰かを好きになる時というのは基本的には性別ありきではないのに、『偶然』が重なって アルファがオメガを、オメガがアルファを、男が女を、女が男を好きになるのが『必然』だと感じてしまうのだ。
 本来、誰がどんな人を魅力的に思うかは個人それぞれの自由なのである。
 それならば…同性やつがいになれない性の相手へ想いを寄せるのだって、もちろんあり得る話だろう。
 つまり アルファの男がベータの男に恋をすることだってあるわけだ。
 夾はそうした考えに至っていた。
 むしろ【香り】が関与しない分、アルファの璇が抱いていた『れい』への想いは本当に純粋なものだったのではないだろうかとさえ思う。
 誰かに恋心を抱いたことがなかった夾にとってそうした『想い』というのは、まばゆくも感じられるものだった。

 そうしてぼぅっと考えながら道なりに歩いていた夾。
 気づいたときには彼の足はとっくに自宅を通り過ぎて、鉱酪通りにある【觜宿の杯】へと向かっていた。
 時刻は昼を回った頃だ。

「あれ?コウさんじゃないですか、今日はまた随分早くいらっしゃったんですね」

 そう声をかけられてハッとした夾が目を前方に向けると、そこには璇の兄でもある【柳宿の器】のあるじがいた。
 ちょうど今日の献立に使う食材や補充のための酒が方々から配達されたところだったらしく、【觜宿の杯】と【柳宿の器】が共同で使っている調理場へと続く裏路地近くには大きな荷車が止まっていて、届いたものを帳簿などを照らし合わせて確認するのに少し忙しそうだ。
 璇の兄はさらに言った。

「食事にいらしたんですよね?まだあまり料理が出来ていないんですけど…でもお肉かお魚を焼いてお出しすることはできますよ。もう少しお待ちいただけるなら汁物もすぐに用意しますし」

「どうしましょうか、中でお待ちになりますか?」

 恭しく訊ねる璇の兄。
 まだ料理が出来ていないのも当たり前だ。今は昼を過ぎたくらいの時刻であって、【觜宿の杯】も【柳宿の器】も開くには早すぎる時間なのだから。
 夾はたしかに昼食をまだ摂っておらず腹が減ってはいたものの、ここへはなんとなく向かってしまっていたというだけなので「いえ、俺の方こそやたらと早く来てしまって…すみません」と申し訳なく思って頭を下げる。
 それでもちっとも迷惑そうにせず「大丈夫ですよ!中で少しお待ちくださいね」と朗らかに声をかけてくれるせんの兄の、どこかせんに似たその容貌につられて夾はいくらか心を軽くした。

 荷車に積まれてきた食材などはそれぞれ帳簿との照らし合わせが終わり次第 調理場へと運び込んでいくらしいのだが、すでに荷車の上に残っているのは木箱に入った酒瓶ばかりになっている。
 それを見た夾はせめてもの助けになればという思いから「もしよかったらそれ、俺が中に運びましょうか」と自らが運び込むことを提案した。
 すると今度はせんの兄の方が「えっ、でもそんなことをしてもらうのは…」と恐縮した。

「ここへは食事をしにいらっしゃったのに、そんな…悪いですよ」
「いえ、いつも美味しい料理をごちそうになっているんですから せめてこれくらいはさせてください」
「そ、そうですか?でも…」

 せんの兄はそう言いつつも、やはり酒がたっぷり入った酒瓶を運ぶのを大変に思っていたようで、結局「じゃあ…お願いしてもいいですか?」と眉尻を下げた。

「こっちにあるのから運んでもらえると助かります、これ全部 觜宿の中の酒棚のところに置くものなんですが…」
「わかりました」
「本当にありがとうございます。おもての方からだと中で長机を大きく迂回しないといけないので、裏の調理場を通って行ってください。その方が近いです。中ではせんが酒棚の整理をしているのでその近くに置いていただけると…あっ!重いので気を付けてくださいね!1本か2本ずつにした方が…」

 せんの兄が言い終える前に酒瓶が入った木箱を軽々と持ち上げた夾。
 木箱の重さも加わっていることでたしかになかなかの重さになっているが、しかしそれでもまだ少し酒瓶の本数を増やしても大丈夫なほど彼は余力を残している。
 木箱をやすやすと持ったまま調理場の方へと向かっていった夾を見て、せんの兄は「わぁ…すごく力持ちなんですね…」と感心したように言った。

 【觜宿の杯】と【柳宿の器】が共同で使っている調理場の裏の勝手口から中に入ってすぐ左側には小上がりがあって、その先がいつも長机越しに見ている【觜宿の杯】の酒棚の前の通路へと続いている。
 普段は立ち入れないようなその場所へ踏み入ることへの緊張を感じながら、夾は思いきって声をかけた。

「あの…酒瓶を持ってきたんですけど」

「どこに置いたらいいですか」

 外からの明るい昼の光によっていつもとは違う雰囲気になっている【觜宿の杯】。
 その壁際にズラリと並んだ酒棚。
 踏み台に上がって酒棚の上の方にある飾り戸の中を覗き込んでいた璇が、パッとこちらに顔を向けた。
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