熊の魚〜オメガバース編〜

蓬屋 月餅

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番外編

2「夢」

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「赤ちゃん…聴こえる?この音…雨だよ、今お外でね、とっても沢山雨が降ってるんだ」

 彼が身籠っていることが分かってから早5ヶ月。
 季節はちょうど梅雨だ。
 連日雨が降り続いているものの、今夜は特に雨脚が強い。
 彼はわずかに膨みが分かるようになった腹部をそっと撫で擦りながら、窓の外の音に耳を傾ける。

「体が冷えるよ、あんまり窓のそばにいないで」

 彼の肩に羽織物を被せ、体を温めるように腕を擦り始めた『熊』。
 彼は「熊がこうやってそばにいてくれればいいよ」と『熊』の胸元に寄りかかりながら言う。

「熊は大きくて温かいから…何枚も重ねて着るよりもずっといいんだ」
「…分かったから、もう横になろう。ずっと立ってちゃ良くないって、ほら」
「あぁもう、本当に過保護だな……」

 『熊』は彼を支えながら寝台へと連れていく。
 そしてゆっくりと横たわらせると、彼の肩まで隙間なく覆うように掛け具を引っ張った。

「今日1日、体調はどうだった?」
「うん、大丈夫、一応ね…前よりはだいぶ楽になったから」
「そっか、それなら本当に良かった…少しでも体調が戻ってきたみたいで僕も安心したよ」
「はは……そうだな、あの時の熊は『心配だ』っていうのがはっきりと顔に書いてあったし」
「あんなに辛そうにしているのを見たら…それは仕方がないでしょ」

 『熊』が彼の額にかかる前髪を指先で分けると、彼は柔らかく微笑む。
 彼のつわりはとても重いものだった。
 彼はいくら寝ても眠気に襲われる『眠りつわり』により、常に体のだるさと気分の悪さに悩まされていたのだ。
 医者から『男性オメガのつわりは特に重く、長くなる傾向にある』と聞かされてはいたものの、彼のそのあまりの辛がりように『熊』も酷く心配していた。
 彼がようやく階下の食堂へも行けるくらいになったのはつい最近のことだ。
 それでもまったく本調子というわけではない彼を、『熊』はそばで支え続けている。

「少し頭を上げられる?うなじあてを…」
「ん」

 人前に出る際に必須な うなじあて も、番の前では必要ない。
 『熊』が彼の首元に手を伸ばすと、彼は大人しく枕から頭を上げてそれを外させた。
 寝台のそばの小机に慎重に置かれるうなじあてを見て、彼はすっと目を細める。

「熊…今日、すごい雨だな」
「うん、そうだね」
「…俺達が番になった日も、こんな感じだった」

 『熊』は寝台に腰かけて彼の前髪を梳いている。
 彼はうなじあてに目をやったまま呟いた。

「気温が違うだけで…同じだ。こんな風に雪が降ってて…」
「気付いたら外がどこもかしこも真っ白だった」
「ははっ、そうそう、気付いたら…うん、気付いたら…な……」

 彼はぼうっと『あの日』のことを思い出す。
 番になった時のことは、互いに断片的にしか覚えていない。
 だが、それほどに熱中して求めあったのだということは、その翌日の体の状態でよく分かった。
 目が覚めた時の気だるさ、うなじの感覚、そしてぐちゃぐちゃになった全身…。
 かろうじて体にかかっていた掛け具と互いの体温以外はすべて氷のように冷え切った室内で、顔を見合わせた2人は言い表しようのない満ち足りた気分に浸った。
 留まるところを知らない愛おしさが溢れ、疲れなども構わずさらに求めあった2人が落ち着いて外の状況を確かめることができるようになったのはそれから随分と経ってからのことだ。
 激しく降り続いた雪は窓の外の景色を純白に、美しく染めあげていた。

 『熊』は彼の頬を労るように撫でると、その手を彼のうなじに移し、番の証である咬み痕に触れる。
 くっきり、はっきりとついた咬み痕。
 それがたしかにそこにあるというのを確かめるように、端から端まで、丁寧になぞっていく『熊』。
 くすぐったいようなその感覚は彼に別のものを呼び醒まさせていく。

「んん…」

 彼が漏らした声に『熊』は「…ごめん、ただ、触れたくて…」と手を止めると、彼も「あ…えっと、いや、これは…その……」と寝具の中でモゾモゾと足先を動かした。

「ち、違うんだ、っていうか…ちょっと具合も良くなってきたっていうのもあって、ちょっと…うん…」

 恥ずかしそうにしながら言う彼がやけに可愛らしく見え、『熊』は髪を2度、3度と撫でる。

「熊」

 彼は意を決したように声を出す。

「その…医者の…先生も言ってたろ、中を刺激しないでって…だから、ちょっと触り合うくらいなら……つ、つまりさ、その………」

 しどろもどろになって話す彼の顔は掛け具に隠れていてほとんど見えないが、真っ赤になっているのは確かだ。
 『熊』はそんな彼の額に口づけると「…大丈夫なの?」と囁く。

「少し具合が良くなったって…まだ本調子じゃないでしょ?」
「…けど…その気持ちがあるくらいには、元気がある」
「うん…そうみたいだね」

 彼が顔をあげると、すぐそこに『熊』の口元がある。
 遠慮がちにそっとそこへ口づけると、『熊』も彼を労るようにそれへ応えてきた。

「ふぅ、ぅ…く、ま……」

 彼が吐息混じりに呼ぶと、『熊』は彼の頬を両手で包み込みながら微笑む。

「少し…待ってて、落ち着いて寝られるように、色々してくる」
「熊…なんだよ、逃げるのか?」
「逃げる?まさか」

 『熊』は口をとがらせる彼に「逃げるだなんて…僕がそんなことすると思ってるの?」と軽く笑い声をあげる。

「すぐに戻ってくるよ、衣を畳んで明日すぐ着られるようにしてくるだけ。ね?」
「ん…俺もやる」
「ううん、君はここで僕のことを見てて。君が待っているっていうのが、1番僕に仕事を早く終わらせるんだから」
「はは…そう?」
「そうだよ、だから君はここで待ってて。…赤ちゃんと一緒に」

 『熊』は彼の額に再び口づけると寝台から降り、取り込んだままの状態の洗濯物の山へ向かう。
 彼は大人しく寝具の中で待つことにし、自らの腹部に向かって「赤ちゃん、お父さんは優しいね」と話しかけた。

「僕がお父さん…お父さんか…」
「まだ慣れない?」
「慣れないよ、当分慣れそうにない」

 『熊』の照れたような姿に、彼はクスクスと笑った。

ーーーーー

 連日雨が降り続いているせいで思うように乾かない衣や浴布がいくつかあったのだが、今日の日中のうちにようやく乾いたそれらを『熊』は丁寧に、かつ手早く畳んでいく。
 寝台の方を見れば、寝具に包まった彼が優しく微笑みかけてくれる。
 『熊』はその何気ない瞬間にじんわりと胸を温められながら、次の衣を手に取った。
 『熊』と彼の、大きな男物の衣。
 しかし、あと少しすればここに とても小さなものが加わる。
 まるで人形か、おままごとのためのもののような衣だ。
 慎重に扱わなければすぐに破けてしまうのではないかというくらいに小さなその衣は、日を追うごとに大きさが合わなくなって、いつしか今 畳んでいるのと同じくらいの大きさになっていくだろう。
 『熊』は衣を1枚畳むたびにそんな想像をしてしまい、嬉しいような緊張するような、寂しいような気持ちになる。
 …もちろん、2人の子がこんなに大きな衣を着るようになるのは、まだまだ何年も先のことではあるのだが。

 衣や浴布を畳み終え、それらをきちんと棚に収めていく『熊』。
 彼はいつの間にか眠ってしまっていて、『熊』は慎重に物音を立てないよう、足音などに気を遣いながら動く。
 この数ヶ月、『熊』は彼の寝顔をよく眺めてきた。
 話をしている時や笑った時などの彼の表情はもちろんだが、『熊』はこうした彼の安心しきったような寝顔を見るのも好きだ。
 無邪気で、無防備なその寝顔。
 そんな風にして眠る彼が自らの番であると思う度、そして自らとの子をその体内に宿していると思う度、『熊』は言い表しようのない幸福を感じる。
 部屋の灯りを寝台のそばの1つだけにした『熊』は、寝台に腰かけて彼の寝顔をじっと眺めた。
 軽やかな雨の音、ぼんやりとした温かな色の灯り、そして愛する人。
 どれだけ1日が忙しくても、その疲れはこの瞬間にすべて溶けていく。
 『熊』にとって、心が安らぐ穏やかなひと時だ。

「……う、ん………」

 彼はかすかに眉根を寄せて身動ぎする。
 起きたのだろうか、と『熊』がなおも見つめ続けていると、彼は次第に苦しげな呼吸をし始めた。

「は…う、うぅ………」

 荒く胸を動かし、声にならない声を漏らす彼。
 その様子は普通ではない。
 掛け具にいくつもシワが寄るほど力を込めて握りしめられた手には血管が浮き出し、眉は苦しげだ。
 『熊』はすぐさま寝台に上がると、彼の額に手を当てて「どうしたの」と声をかけた。

「う…はぁ、あ………」
「どうしたの、辛いの?どこか痛い?こんなに…汗までかくなんて…」
「いや……うわ、ぁ……!」

 彼の額はかすかに汗ばんでいる。
 『熊』が彼の額と頬とを何度も撫でながら声をかけていると、「はぁっ、はぁっ」と荒く呼吸をしていた彼がぱっと目を覚ました。

「く、くま…!あぁ、熊…!うぅ、うわぁぁ……」

 彼は目覚めるなりすぐさま隣にいる『熊』に向かって両腕を伸ばす。
 『熊』が横たわって彼の肩を抱きしめると、彼は『熊』の胸の中でしゃくりあげながら涙を流し始めた。

「どこか痛いの?辛い?」

 『熊』の問いに首を横に振る彼。
 彼のその反応は、どうやら本当に体調が悪いというわけではなく、怯えているという方が正しいようだ。
 『熊』は彼が落ち着くように、そして刺激しすぎないようにと注意しながら弱く【香り】を放つ。

「ゆっくり息をしてごらん…ね?大丈夫、僕がそばにいる…もう大丈夫だから」
「うぅ…熊…熊………」
「大丈夫、ほら、ね…僕は君のすぐそばにいる」

 彼の肩はやけに小さく思える。
 『熊』の胸は彼の涙で濡れてしまっているが、そんなことには一切構わず、しっかりと抱き寄せたまま背をさすり続けて彼が落ち着くのを待った。

「熊…熊、どうしよう、どうしよう、俺……!」

 なおもしゃくりあげて泣く彼。
 『熊』は「うん、どうしたの」と彼の頬を優しく手のひらで包み込み、濡れた頬と睫毛をそっと拭う。

「話せる?こんなになるなんて…どうしたの?何があったの」
「熊…俺、見たんだ…見たんだよ、熊、この子…この子が、俺のせいで…」
「赤ちゃん?赤ちゃんがどうしたの」

 彼の目は酷く悲しげで『熊』の胸をきつく締めつける。
 彼は何度か深呼吸をしてから、微かに震えている手でしっかりと腹部を抱え込むようにして言った。

「今…この子、俺の隣で手を握ってて…でも、俺が男のオメガだからって、沢山の人に指をさされてた……男のオメガが産んだ子だって、そう言われてたんだ、顔が見えない人、沢山の人に……!俺がオメガだから、産んだのが俺だからって…」

 彼の目から落ちた大きな雫が頬を滑り落ちていく。

「そうだよ、俺、まともな育ち方をしてない、【香り】を失くしたこともあるような、まともな人間じゃないんだ。ど、どうしよう熊、俺…こんな俺が産んだら、この子は可哀想なんじゃないか?俺なんかの子に産まれちゃったら、この子が不幸になっちゃうんじゃないかな、どうしよう熊、まともな親を知らない俺なんかが、この子を幸せにできるのかな、この子…この子が可哀想なんじゃないか、俺なんかの…俺なんかのところに…」

 落ち着き始めていた彼の呼吸が再び荒くなっていく。
 『熊』はもう1度彼をしっかりと抱きしめ、髪に口づけながら「…冷たい夢を…みたんだね」と落ち着かせるように言った。
 彼は『熊』にしがみつくようにしながら絶えず涙を流し、呼吸が止まりそうになりながらもなんとか息を吸う。
 『熊』は彼をしっかりと抱きしめて何度も背を撫でるが、いつまで経っても収まりそうにないその様子に「少し…話をしてもいい?」と彼の顔を覗き込んで話し始める。

「まず…君は夢を見てたんだよ、現実とは違う、とても冷たい夢を。それは本当のことじゃない、いいね?」
「うぅ…く、くま…」

 彼はなんとか頷いてみせるも、涙はまったく止まっていない。
 『熊』は「そうだな…何から話せばいいかな」と少し考えながらゆったりと言葉を紡ぐ。

「ねぇ、たしかに男性オメガは少ないよ。…だけど、全くいないというわけじゃない。お医者さんが前に言ってたでしょ、農業地域にも1人いるって。ちゃんと番がいて、子供達も…それに、過去の記録では6人のお父さんになった人もいるんだって。少ないけど、でも君は1人じゃないんだよ。そうだ…今度、その農業地域にいるっていう男性オメガに会ってみようか、きっと色々と教えてくれるよ」
「ん…うん、ん…」
「君は男のオメガだ。僕というアルファの番がいて、身籠ってもいる。そう、君は男のオメガなんだ。でも、だからってなにか悪いことをした?他人に冷たいことを言われたり、指をさされるようなことをしたの?そうじゃないでしょ、すぐ周りに同じような人がいない、ただそれだけだよ。…たとえ、僕の大切な番とその子供にそんなことを言う人がいたら、僕は容赦しない。絶対にだ。僕は君とこの子を愛して、守るためにいるんだから。信じて。これは偽りなく、本当のことなんだ」

 『熊』のしっかりとしたその言葉に涙を溢れさせながら頷く彼。
 『熊』は彼の頬を拭いながら、更に続ける。

「それに、君はまともな育ち方をしてないって言うけど…それは僕だって同じだよ。母さんの事は自分とよく似ていたっていうことしか知らないし、父さんは…一生懸命僕を育ててくれたけど、突然いなくなったからね。『家族』っていうものが、僕にもよく分からないでいる。…でも、僕は心配してない。本当の親はいなくても、僕には食堂の人達がいるから。親代わりの人達が、僕達を大切にしてくれているから。もちろん、不安がないわけじゃないんだよ?赤ちゃんと暮らす、育てるだなんて経験したことがないから…食堂の人達から話を聞いて、『子育て』っていうものがどういうものなのか、実はずっと考えているんだ。でも、それはどの番、夫婦も同じだよ。どんな人だって、最初は『初めて』から始まるんだから。緊張して、不安になって、当然なんだ。慣れないことがあったとしても、教えてくれる人は沢山いるよ。家族を知らないから?知らないと温かな家族は作れないの?そんなことはない、僕が君とこの子を幸せにしてみせるんだ」

 『熊』は彼の額や髪に何度も口づける。

「『俺なんかの子』だなんて…違うよ、この子は『僕達2人の子』だ。絶対に不幸になんかならない、させない。それに…この子は僕達を選んできてくれたんだよ、そうでしょ?僕達と一緒に暮らしたいって、君のお腹の中に来てくれたんだ。深く愛し合って番になった僕達のところに来てくれたこの子を、どうして可哀想だなんて思うの?僕の番は他のどこを探しても絶対に見つけられないほど素敵な人だ。そんな人の子に産まれるのに、どうして可哀想なの。僕の番は…今、僕の目の前にいるこの人は、本当に信じられないくらい素敵な人なんだよ。いくら君でも、僕の番を貶すような言い方をしたら許せない…もう二度と君がそんなことを言えないくらい、僕はもっと愛を伝えなくちゃいけないな。いい?僕の番は本当に最高な人なんだ、可愛くて、かっこよくて、それでいて健気で、もう…もう、とにかく最高なんだ。あぁもう、僕よりも幸せな人はいないね、絶対にそうだ。いるもんか」

 あまりにも自信満々に話す『熊』に、思わず口の端を緩める彼。
 『熊』は彼の髪を撫でて微笑みながら
・食堂で働く女性の姪っ子で友人の服職人が、すでに子供服を何着も縫ってくれていること
・同じく友人で靴職人の青年が、赤子のお守りのための1足を作った後、すでに履くためのものまで作り始めていると言っていたこと
・妊娠報告をした時、食堂の人達が大喜びしてお祝いの料理を丁寧に手間をかけていくつも作ってくれたこと
などを1つ1つ話す。

「あのお祝いの料理もとても美味しかったし、豪華だったね。…ほら、誰が君にそんな冷たいことを言うの?誰がこの子を不幸にするって?こんなに愛されてる君とこの子を、誰が傷つけるの?まさか、そんな人はいないよ。ただただ、君を温かく愛してくれる人がいるだけだ」

 話を聞いているうちにいつものような笑顔が戻ってきた彼は、『熊』の「まぁ、1番愛してるのは僕だけどね、絶対に。これは譲れないな、うん」というしつこいほどのその言葉に、つい吹き出して笑った。

「そう…そうか、そうなのか」
「そうだよ、当たり前でしょ?僕の君への愛は誰にも負けない」
「そんなに…ムキになって言わなくても」
「いや、だめ、これはきちんと言わないと。…どうして笑うの、僕は本気なのに!」
「うん…うん、分かってる…分かってるよ、熊……」

 恥ずかしさを隠すように俯く彼は、すっかりいつも通りの笑みを浮かべている。
 彼はきっと、様々な不安や過去の自分に対する良くない思いを胸の内に抱え込みすぎていたのだろう。
 他の国からやってきた彼の両親がもっていた、陸国の人々とは異なる意識。
 差別や偏見がないこの陸国に産まれた彼は周囲と両親との違いに疎外感を感じて育ち、肉体的にも、そして精神的にも苦しめられてきた。
 それらの経験が彼にそんな夢を見せたに違いない。
 『熊』と出逢ってから薄らいでいたそれらの苦しみは未だ完全に消え去ってはいないものの、これからの日々や出来事がそれらを覆い隠し、やがて掘り起こせないほど深いところへ沈めていくだろう。
 

「…ねぇ、この子と手を繋いだって?」

 ひとしきり笑って落ち着きを取り戻した彼に『熊』は問いかける。

「あ…うん、そうだよ、俺の隣にいて……」
「どんな子だった?僕と君、どっちに似てる?」
「え…」
「男の子?女の子?」
「え、と、それは……」

 キラキラとした目の『熊』に、彼は「分からない」と素直に言った。

「その…声の方に集中してたし、この子のことは見てなくて……」

 夢の中で右手を握ってくる小さな手の感覚があったことは覚えているものの、彼はその子の方を見ず、靄がかかったようになって顔を見ることができない人々の方ばかりを見ていた。
 見なくてもその小さな手は腹の子のものだと確信していたが、もし視線を隣に移していたとしたら…その子の姿を見ることができていたのだろうか?

「そんな!せっかくこの子がいたのに、見てないって!?僕はすごく気になってるのに…もう!隅々まで見て僕に教えてよ!」
「し、仕方ないだろ!それどころじゃなかったんだから!」

 思わぬ『熊』の言葉に反論すると、『熊』はさらに続ける。

「だいたい…僕は?どうして僕は君の夢に出てこなかったの?ひどい、僕はいっつも君のことを夢に見てるのに!」
「えっ、そ、そう…なのか」
「そうだよ!僕がいたら君と赤ちゃんにそんな冷たいことを言わせなかったのに…!」
「う、ん…そっか、そうだな、きっと」
「僕のことは夢に見てくれないくせに、赤ちゃんとは手まで繋いだなんて…この子は僕の夢に出てきてくれたことがまだ1度もないんだよ?どうして僕だけこんな…寂しい思いをしなきゃいけないの?すごく羨ましいのに、どうして君は……手まで握っておいて…この子のこと見てないなんて……」

 悔しいような、ムッとしたような表情を見せる『熊』。
 彼は「そっか、それは…悪かったな」と苦笑いしながら慰めるように『熊』の髪を撫でた。

「うん…もし次にこの子が出てきたら、ちゃんと見るよ。この子のことをちゃんと見て…抱きしめてあげるんだ。起きたらさ、熊にどんな子だったか教えられるように、きちんと目も合わせてくるから」
「……いい、僕が先に見て君に教える」
「はは…もう、そんなに拗ねるなってば……」

 彼に額へ口づけられた『熊』は機嫌を直したとばかりに微笑んで彼と唇を合わせる。
 言葉もなく交わす視線は互いへの気持ちが溢れているものだ。
 『熊』はもう1度彼に口づけると、寝台の下の方へ移動し、彼の腹部に「赤ちゃん」と呼びかけた。

「赤ちゃん、聞こえる?君のお父さんだよ。…赤ちゃん、お父さん達は君に会える日をとっても楽しみにしてるよ、だから安心して大きくなってね。お外に出てきたらお父さん達が沢山君を抱きしめてあげる。沢山遊ぼうね、美味しいものもいっぱい食べさせてあげるよ」
「熊…」
「赤ちゃん、大好きだよ、愛してる」

 腹部に優しく口づける『熊』を見て、彼も「赤ちゃん」と話しかける。

「俺も…俺も愛してるよ、赤ちゃん……君のために俺は何でもする、だから…だから一緒に頑張ろう、ね?好きだ…好きだよ、赤ちゃん……」

 腹部を優しく抱きしめる『熊』をさらに抱きしめる彼。
 その目にまた涙が溢れそうになったところで、『熊』は「赤ちゃんは何が好きかな?」と弾んだ声を出した。

「お肉?お魚?お野菜は?赤ちゃん、君はどんなものが好きかな、食べたいものは何でもお父さんが作ってあげるよ」

 「こんな料理はどう?」などと楽しげに話す『熊』に、彼は「おい…熊」と呆れたといわんばかりの声を出す。

「そういうのが食べられるようになるのは まだまだ先のことだってば。しばらくはお乳を飲むんだからさ」
「分かってるよ、でも色々と作ってあげたいんだ。もう…僕が1番得意なことはお腹をいっぱいにしてあげることなのに、それができないなんて……僕もお乳が出せればいいのに」
「あっははは!熊!ふふ…あははっ!」

 彼の涙の跡もすっかり乾いた。
 愛おしい気持ちのまま2人は抱き合い、細やかな口づけを交わす。

 今夜は雨。
 暖かく、ゆったりとした空気に包まれた雨夜だ。
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