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1 序章

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 死者と生者を隔てる黄泉比良坂よもつひらさかの途中に、ひっそりと閉ざされたままの岩戸がある。その先に続く、岩肌がむき出しの通路を一刻も進めば、人の住まうなかつ国を模して造られた、なばりの地へと繋がっていた。

 隠の地には、黄泉よみにもうつしし世にも属さぬ者たちが暮らしており、高天原たかまがはらの神々も時折、お忍びで息抜きに訪れるそうだ。
 自然界のありとあらゆる美しさを、全て詰め込んだような景観と、その地で営まれる生きものくささに満ちた日常が、なんとも愛おしいらしい――





 正刻しょうこく。命ある人間の魂が、なばりの地に迷い込んだと報せがあった。
 抑えようもない喜びと、感慨深さが胸に押し寄せ、平静を努めていても口角が上がってしまう。  

(首尾よくやったようですね。時が来ました……)

 この機を逃しはしまいと、豪快に御簾みすをはね除ける。白銀に輝く衣を翻しながら門を抜け、一気に築地塀ついじべいの外まで出た。
 眼下に広がる景色は宵闇に包まれていたが、かすかに柔かな灯し油の明かりが見てとれる。

「相変わらず美しいですね――さぁて、行きましょうか」

 昂る想いを鎮めんと、大きく息を吸い込む。濃厚な香りが鼻先から体内に侵入し、その甘やかさに高揚感は増してしまう。やはり、逸る気持ちは抑えられそうにない。

――沈丁花が咲き誇る時節を迎えたのに気がついたのは、いつぶりであろうか――






(嫌な夢……)

 悪い夢の最中に、これは悪夢を見ているのだと思い至ったとて、己の意思で覚醒するのは難儀する。
 由良ゆらも目覚めようと抗ってはみたものの、夢の世界で降りかかる災難に、翻弄されるがままになっていた。

(アラームはまだかな?)

 開放的な気分で空を自由に飛び回っている時に限って、心臓を貫くようなけたたましい音が鳴り、楽しい眠りは終わりを迎えたりする。
 夢なんてそんなもので、本当にままならない。

(あーあ。よりにもよって、鼠の姿になって猫に見つかるなんて……)

 いつもなら、お近づきになりたくて仕方のないニャンコに、狩られる側となってしまった由良は、これでもかと必死に四肢を回転させ、逃げ切ろうとしていた。
 だが、執拗に追いかけてくる三毛猫との距離は縮まる一方だ。
 玩具おもちゃにされまいと、土埃にまみれながら逃げる由良の視界に、朱い鳥居が入り込む。

(神社なら、隠れられる場所があるかもしれない!)

 伸びかけの草におおわれた死角のない農地帯に見切りをつけ、やっとこさ目にした人工物を目掛けた。
 石段を小さな身体で必死に駆け上がる。幸い、跳躍力はあった。
 いくつかの鳥居をくぐり、みるみるうちに入母屋造いりもやづくりの立派な社殿に迫ったが、敵は、猫まっしぐらで追跡してくる。

(んもう、しつこい子! なら、あそこに暫く隠れよう!)

 由良はくるりと踵を返し、そのまま猫の背を飛び越え、一目散で右手にあった御神木のうろに入りこもうとした。
 樹齢五百年はあろうかという大木だ。幹にポッカリ空いた穴が、神聖な空間となって守ってくれるはず。

(あともう少し!!)

 由良が安堵しかけたその時――



「っと! 鼠か?」

 脇目も振れず、御神木のうろに向かっていたはずの由良の身体は、声の主に片手でむんずと捕まれていた。
 丁度よく、幹の反対側から出て来た男にぶつかりかけたらしい。

「キュウッ」

尾長天竺鼠おながてんじくねずみか」

 情けなく出た由良の声は、尾長天竺鼠と呼ばれた小動物のものだった。同時に出された男の声音は、鼠を素手で捕らえたのに、酷くあっさりしている。

 先ほどまで目を爛々とさせ、彼女を狙っていた三毛猫は、ゴロゴロと咽をならして男の足にからみついていた。

「おい、生成きなり。勝手にウロチョロすんな」

 生成と呼ばれた猫は、「ナ~オン」と猫なで声で返事をしている。嬉々として鼠を追い回していた狂乱ぶりからの変貌に、由良はちょっとだけ鼻白んだ。
 天敵をよくよく観察すると、普通の三毛猫たちとは違い、随分と長い毛足をしていた。

(三毛猫だし、生成は女の子だよね。この人が飼い主かしら?)

 主人に甘える姿は、恋人にウザがられても纏わりつく女子みたいだ。そんなことを考えながら飼い主の男を見上げると、唐突に彼の目線まで身体を持ち上げられ、強制的に見つめ合う形にされた。

 その面立ちは、端正であるし、精悍でもある。男くさくもあったが、どこか中性的で色香が漂う。
 月明かりを含んだ白銀の髪と、力強い露草色の瞳が、その美貌に華を添え、由良は状況を忘れ見惚れていた。

(綺麗な人っているものね……)

 人離れした美しさを持つ相手にまじまじと見つめられ、平凡な容姿の自分が恥ずかしくなったが、今は鼠だったと思い直し、これはチャンスとばかりに男を見つめ返した。
 羽織りの下の着流しからは、胸元が大きく覗いていて、思わず由良は視線を逸らしてしまう。

(け、けしからん……)

 もじもじしだした由良を、絶妙な力加減で押さえたまま、訝しそうに男が呟いた。

「お前……、魂がヒトなのか?」

 指先で顔周りをグリグリとされる。

「キュウッ」

 夢とはいえ、触れられた感覚があまりにもリアルで心地よく、由良は「ストップ」と抗議の声をあげた。
 しかし、それはやはり小動物の愛らしい鳴き声にしかならず、相手の指の動きは止まらない。

「おい、なんでこんなとこに迷い込んだ?」

 高くもなく低くもない、ちょっとしゃがれた声が、妙に色っぽい。変わらず顎の下をくすぐられ、尾長天竺鼠という生き物の性なのか、恍惚となってしまう。

(やっぱり夢には抗えない……)

 夢の世界で与えられる感覚は、目まぐるしく変わるもの。先ほどまで死の恐怖を味わっていたはずなのに、男の手の平にすっぽりと収まり撫でられると、この上ない幸福感で満たされる。
 その手の心地よさに完敗したチョロさが悔しくも、ここはいっそ存分に堪能したいとも思う。

(このまま、良い夢で朝を迎えたいな……)

 そのうち鳴るであろうアラームで現実に戻されるまで、由良はその手に身を委ねることにした――
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