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壱
一話
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「なに、あんた。覗き?」
「水を一杯くれないか」
この一見すると全く噛み合わないちぐはぐな会話が、日本に住むただの会社員、玉野泉と、後に神聖国ヨーク・ザイの歴代最善最強の王と謳われる事になるフーロンとの出会いであった。
風呂はいい。
風呂は癒しだ。
どんなに疲れて帰ってきても、風呂に入ればその半分は忘れられる。
煩い上司のお小言も、満員電車の圧力も、風呂の力には適わない。
ああ、風呂は偉大だ。
自分の部屋は足の踏み場がないほどに散らかっていても、風呂の掃除は欠かさない。
今日もピカピカに磨かれた湯船に、爽やかな香りのバスエッセンスを入れて、泉はゆったりとお湯を楽しんでいた。
ぴりぴりと刺すような熱が、じんわりと肌になじんでいく感触がたまらない。
しんしんと冷え込む寒空の下を、マフラーに顔をうずめて帰ってきたかいがあったというものだ。
お気に入りの単行本を片手に、もちこんだ蜜柑を一房とって口に運ぶ。
酸味と甘みのバランスが絶妙な果汁と共に実をごくりと飲み込んだ時だった。
ガラリ
と音がしたかと思うと、ゴオッという風の唸り声と共に、熱風が吹き込んできた。
風に煽られて、持っていた本の頁が、ペラペラと捲られる。
ああっ、何ページ目だったか覚えてないのに!
等と呑気な問題に気を取られたのは、一種の現実逃避だったのかもしれない。
しかし、今起こっている現象に目をそむけて、いつまでも本にばかり意識を向けていられるほど、図太くも、繊細でもなかった泉は、ちらりと音がしたほう―――――風呂場の北側に設けられた窓へと視線を移した。
濃紺の布で目を除いた顔中をぐるぐる巻きにした人物がそこにいた。
ミイラ!? ………と最初、泉は思ったが、釣り上がり気味の眦を囲む肌は張りがあり瑞々しいし、何より布の色が青い。
呆然とこの闖入者を眺めていると、ぎょろりと鋭い眼光を宿した目が泉を見据えた。
その目は、まず、じっくりと私の顔を見詰め、次にゆっくりと下へとおりて、胸の辺りで一度止まり、さらに下へ………。足の先まで首を傾けて眺めたあと、再び顔へと戻ってきて、目が合った。
ここにきて泉は漸く思い出していた。ここは風呂場で自分は全裸だ。と、
「なに、あんた。覗き?」
「水を一杯くれないか」
「水?」
「そうだ、もう丸一日口にしていない。一杯もらえると助かる」
男は、浴槽に張られた湯に目をやり、ごくりと喉を鳴らす。
湯船には当然、泉の体が沈んでいるわけで、男のその行動が自分の裸を見てのものなのか、それとも本当にこの湯に対してのものなのか、泉には分からなかった。
いや、例え男の言うように水が欲しいだけなのだとしても、人が浸かっている湯船の湯をほしがるなんて、やっぱり変態かもしれない。
ここは一つ、「キャー」とか「チカンー」とか避けぶべきなのだろうか。
男の顔を覆うものが、程よく使い込まれた青い布ではなくて、ストッキングや目出し帽や、フルフェイスのヘルメットなら、間違いなく泉は叫んだだろう。けれど男の持つ独特の雰囲気がそれを押しとどめた。
「えーと、水ね」
かといって、湯船の湯を渡すことなんて出来ない。
泉は風呂につかりながら磨こうと持ちこんでいた歯磨きセットのコップを手に取り、蛇口を捻って水を出した。
冷たい水でかるくコップをゆすぐと、中に水をためていく。
たっぷり縁まで水が満たしたところで、振り返った。
男の視線は泉の尻に向いていた。
やっぱり叫ぼうかしら。
泉がごほんと咳払いをすると、男ははっとした様子で顔を上げた。半眼で軽蔑の眼差しを送る泉と目が会うと、男はさっと目を伏せる。
泉は本でそれとなく胸を隠して立ち上がった。
「どうぞ」
「すまない」
差し出された男の手は指先を除いて、やはり青い布に覆われていた。
いや、指先だけではない。その肩も、腰も、濃紺の大きな布を巻きつけるようにして覆われている。
そう、まるで、駱駝と共に砂漠を渡る人々のように。
しげしげと男の出で立ちを眺めていた泉は、頬をなでる熱く乾いた風に気付いて、男の背後に目を向けた。
「なにこれ」
泉は目を見開いて男の後ろに広がる景色に見入った。
そこは砂漠ではなかった。砂漠ではなかったけれど、一目で乾燥した大地だと分かる、荒涼とした土地が広がっていた。
疎らな草と、照りつける強い日差し。木は一本も生えておらず、建物もない。遮るものがない大地は、遥か彼方に地平線を浮かび上がらせていた。
「あのー?」
口を覆っていた布を僅かに下げただけの格好で、唇の端から一筋の水を垂らしながら、一気に水をあおる男に、泉は恐る恐る声をかけた。
「………何だ?」
ぐいと青い布の巻かれた腕で口元を拭う男。
「そこ、どこ?」
「ザハーリャだが?」
首を捻って答えた男は、ずいっとコップを差し出した。
「助かった。………申し訳ないがもう一杯もらえんか」
「はあ。どうぞ」
請われるがままにコップに水を注いでやれば、男はこれまた一気に飲み干した。その姿が、まるで天上の美酒を飲んでいるかのように美味そうで、男が丸一日水を口にしていないというのは本当なのだろうと泉は思った。
「その、ザハーリャってところで、何してるの?」
「遭難していた」
「そうなんだ………」
「笑えんぞ」
「うん、ごめん。言ってみたかっただけ」
冷ややかな眼差しで男は泉を見る。泉は素直に謝った。
「何か入れ物ないの? 水、入れてあげるよ」
「ああ、助かる。これに入れてくれるか」
男が差し出したのは、くたりと萎んだ、なめした皮のような袋だった。
受け取ると、表面についていた細かな砂がはらはらと落ちて、湯船に沈んだ。
それ以上砂が落ちないように、そっと袋を移動させると、中をすすいでから水をためていく。
思ったよりも容量があるそれに、たっぷりと水を入れると男を振り返った。
今度は、泉が男に冷ややかな視線を送る番だ。
男の視線はまたもや尻に向けられていた。
「いや。その………すまない」
ついっと横を向いて、泉の裸を見ないようにしながら袋を受け取る男。
よく日に焼けた浅黒い肌が、ほんのりと朱に染まっている。
「いや。もう今更だし。ところで、遭難中なのよね。食べ物は?」
「ああ、乾パンに干し肉に塩漬け、果物の乾物もある。食料は大丈夫だ」
ものすごく喉が渇きそうな食料リストだった。
「はあ、じゃあ………そろそろ窓閉めてもいい? さっきから砂が入り込んでんだけど」
「あ、ああ………あっ、ちょっと待ってくれ!」
窓枠にかけた泉の手を、男の大きな手が掴む。
「礼がしたい」
「いや、いいよ。水だけだし」
「俺の故郷に、対価を払わずに得たものは己の足元をすくうという言葉があってな」
「あー。ただより高いものはないってこと? でも礼って言われてもなあ」
泉は男の姿をしげしげと見詰めた。
遭難中の人間から一体どんな礼をもらえるというのか。
「これでどうだ」
男は顔を覆う布を取り払う。
「へえ、男前………」
改めて見た男の顔は、彫りの深い野性味に溢れた精悍なものだった。
「お褒めに預かり光栄に存じます」
思わず零した賛辞を耳聡く聞きつけた男は、にやりと笑った。
皮肉っぽく吊り上げられた口元に皺がよる。精彩に富んだ光を宿す目から受ける印象よりも年嵩なのかもしれない。
「受け取ってくれ」
耳を飾っていた青い石のついた耳飾を外すと、男は泉の掌に落とした。
それはシャランと涼しげな音をたてて泉の手の上におさまった。
「リプセの耳飾だ」
「は、い、いや、いいよ。なんかすっごい高そうだし。そんな大層なものは受け取れないから! こっちがあげたのは水だよ?」
「何を言う。その水が俺の命を救ったのだ。対価としてはまだ足りぬぐらいだ」
「そりゃあ、そう考えればそうかもしれないけど」
「交換は成った。水浴びを邪魔してすまなかったな」
渋る泉を黙らせるように男は一方的に話を終わらせる。
「じゃあ……いただいとくわ。あっ、ちょっと待って!」
窓を閉めようとした男を呼び止める。
男は方眉を上げて「なんだ?」という顔をした。
「水、それで足りる?」
遭難中ならいくらあっても足りないのではないだろうか?
「ああ、もう砂漠は抜けたようだしな。東の方角にはオアシス都市郡がある。歩き続ければいつかはたどり着くだろう。世話になった」
最後にまた、あのにやりとした笑顔を残して男は窓を閉めた。
窓が閉まると、風呂場はいつもの光景に戻った。
オレンジ色の壁。白い床。黄色い浴槽。シャワーに鏡に、入浴用品の置かれた棚からは体を洗うためのスポンジが吊るされている。
見慣れたいつもの風呂場の眺め。
その中でただ一つ、異質な光を放つ耳飾を見て、泉は急に我に返った。
なんだったの。今のは。
手の中でシャランと音を立てる耳飾が、夢から覚めたはずなのに、覚めていないような、むず痒い気分にさせる。
泉はまじまじと耳飾を眺めた。繊細な金細工の台座に深い色合いの石がはめ込まれいる。湾曲した針のような部分を穴に通すフック型のピアスで、フック部に付着したどす黒い汚れがやけに現実味を与えていた。
じわじわと奇妙な焦りが足の先から這い上がってくる。
泉は、ばんっと手をついて耳飾を浴槽の縁に叩きつけるようにしておくと、湯船から上がった。
体の水気を取るのもそこそこに、服を着込み、濡れた髪にタオルを巻きつけ、玄関へと急いだ。
サンダルをひっかけ、家の裏手にまわる。
そこには風呂場の窓があった。
周りの景色は間違っても、荒野ではない。飾り気のないブロック塀と、塀の上に顔を出す隣家の垣根があるだけだ。
塀と家の壁の間には砂利の敷き詰められた細い道が通っている。
泉は蟻の子一匹見逃すまいと、慎重に辺りを見回しながら、歩を進め、風呂場の前までやって来ると、がらりと勢いよく窓を開けた。
温かい湯が張られた浴槽からは、湯気が昇って浴室内を満たしている。
白く霞んだ視界の中に、きらりと光る青い石を認めて、泉は窓に寄りかかった。腰がぬけていた。
なんなの。これ………。
「水を一杯くれないか」
この一見すると全く噛み合わないちぐはぐな会話が、日本に住むただの会社員、玉野泉と、後に神聖国ヨーク・ザイの歴代最善最強の王と謳われる事になるフーロンとの出会いであった。
風呂はいい。
風呂は癒しだ。
どんなに疲れて帰ってきても、風呂に入ればその半分は忘れられる。
煩い上司のお小言も、満員電車の圧力も、風呂の力には適わない。
ああ、風呂は偉大だ。
自分の部屋は足の踏み場がないほどに散らかっていても、風呂の掃除は欠かさない。
今日もピカピカに磨かれた湯船に、爽やかな香りのバスエッセンスを入れて、泉はゆったりとお湯を楽しんでいた。
ぴりぴりと刺すような熱が、じんわりと肌になじんでいく感触がたまらない。
しんしんと冷え込む寒空の下を、マフラーに顔をうずめて帰ってきたかいがあったというものだ。
お気に入りの単行本を片手に、もちこんだ蜜柑を一房とって口に運ぶ。
酸味と甘みのバランスが絶妙な果汁と共に実をごくりと飲み込んだ時だった。
ガラリ
と音がしたかと思うと、ゴオッという風の唸り声と共に、熱風が吹き込んできた。
風に煽られて、持っていた本の頁が、ペラペラと捲られる。
ああっ、何ページ目だったか覚えてないのに!
等と呑気な問題に気を取られたのは、一種の現実逃避だったのかもしれない。
しかし、今起こっている現象に目をそむけて、いつまでも本にばかり意識を向けていられるほど、図太くも、繊細でもなかった泉は、ちらりと音がしたほう―――――風呂場の北側に設けられた窓へと視線を移した。
濃紺の布で目を除いた顔中をぐるぐる巻きにした人物がそこにいた。
ミイラ!? ………と最初、泉は思ったが、釣り上がり気味の眦を囲む肌は張りがあり瑞々しいし、何より布の色が青い。
呆然とこの闖入者を眺めていると、ぎょろりと鋭い眼光を宿した目が泉を見据えた。
その目は、まず、じっくりと私の顔を見詰め、次にゆっくりと下へとおりて、胸の辺りで一度止まり、さらに下へ………。足の先まで首を傾けて眺めたあと、再び顔へと戻ってきて、目が合った。
ここにきて泉は漸く思い出していた。ここは風呂場で自分は全裸だ。と、
「なに、あんた。覗き?」
「水を一杯くれないか」
「水?」
「そうだ、もう丸一日口にしていない。一杯もらえると助かる」
男は、浴槽に張られた湯に目をやり、ごくりと喉を鳴らす。
湯船には当然、泉の体が沈んでいるわけで、男のその行動が自分の裸を見てのものなのか、それとも本当にこの湯に対してのものなのか、泉には分からなかった。
いや、例え男の言うように水が欲しいだけなのだとしても、人が浸かっている湯船の湯をほしがるなんて、やっぱり変態かもしれない。
ここは一つ、「キャー」とか「チカンー」とか避けぶべきなのだろうか。
男の顔を覆うものが、程よく使い込まれた青い布ではなくて、ストッキングや目出し帽や、フルフェイスのヘルメットなら、間違いなく泉は叫んだだろう。けれど男の持つ独特の雰囲気がそれを押しとどめた。
「えーと、水ね」
かといって、湯船の湯を渡すことなんて出来ない。
泉は風呂につかりながら磨こうと持ちこんでいた歯磨きセットのコップを手に取り、蛇口を捻って水を出した。
冷たい水でかるくコップをゆすぐと、中に水をためていく。
たっぷり縁まで水が満たしたところで、振り返った。
男の視線は泉の尻に向いていた。
やっぱり叫ぼうかしら。
泉がごほんと咳払いをすると、男ははっとした様子で顔を上げた。半眼で軽蔑の眼差しを送る泉と目が会うと、男はさっと目を伏せる。
泉は本でそれとなく胸を隠して立ち上がった。
「どうぞ」
「すまない」
差し出された男の手は指先を除いて、やはり青い布に覆われていた。
いや、指先だけではない。その肩も、腰も、濃紺の大きな布を巻きつけるようにして覆われている。
そう、まるで、駱駝と共に砂漠を渡る人々のように。
しげしげと男の出で立ちを眺めていた泉は、頬をなでる熱く乾いた風に気付いて、男の背後に目を向けた。
「なにこれ」
泉は目を見開いて男の後ろに広がる景色に見入った。
そこは砂漠ではなかった。砂漠ではなかったけれど、一目で乾燥した大地だと分かる、荒涼とした土地が広がっていた。
疎らな草と、照りつける強い日差し。木は一本も生えておらず、建物もない。遮るものがない大地は、遥か彼方に地平線を浮かび上がらせていた。
「あのー?」
口を覆っていた布を僅かに下げただけの格好で、唇の端から一筋の水を垂らしながら、一気に水をあおる男に、泉は恐る恐る声をかけた。
「………何だ?」
ぐいと青い布の巻かれた腕で口元を拭う男。
「そこ、どこ?」
「ザハーリャだが?」
首を捻って答えた男は、ずいっとコップを差し出した。
「助かった。………申し訳ないがもう一杯もらえんか」
「はあ。どうぞ」
請われるがままにコップに水を注いでやれば、男はこれまた一気に飲み干した。その姿が、まるで天上の美酒を飲んでいるかのように美味そうで、男が丸一日水を口にしていないというのは本当なのだろうと泉は思った。
「その、ザハーリャってところで、何してるの?」
「遭難していた」
「そうなんだ………」
「笑えんぞ」
「うん、ごめん。言ってみたかっただけ」
冷ややかな眼差しで男は泉を見る。泉は素直に謝った。
「何か入れ物ないの? 水、入れてあげるよ」
「ああ、助かる。これに入れてくれるか」
男が差し出したのは、くたりと萎んだ、なめした皮のような袋だった。
受け取ると、表面についていた細かな砂がはらはらと落ちて、湯船に沈んだ。
それ以上砂が落ちないように、そっと袋を移動させると、中をすすいでから水をためていく。
思ったよりも容量があるそれに、たっぷりと水を入れると男を振り返った。
今度は、泉が男に冷ややかな視線を送る番だ。
男の視線はまたもや尻に向けられていた。
「いや。その………すまない」
ついっと横を向いて、泉の裸を見ないようにしながら袋を受け取る男。
よく日に焼けた浅黒い肌が、ほんのりと朱に染まっている。
「いや。もう今更だし。ところで、遭難中なのよね。食べ物は?」
「ああ、乾パンに干し肉に塩漬け、果物の乾物もある。食料は大丈夫だ」
ものすごく喉が渇きそうな食料リストだった。
「はあ、じゃあ………そろそろ窓閉めてもいい? さっきから砂が入り込んでんだけど」
「あ、ああ………あっ、ちょっと待ってくれ!」
窓枠にかけた泉の手を、男の大きな手が掴む。
「礼がしたい」
「いや、いいよ。水だけだし」
「俺の故郷に、対価を払わずに得たものは己の足元をすくうという言葉があってな」
「あー。ただより高いものはないってこと? でも礼って言われてもなあ」
泉は男の姿をしげしげと見詰めた。
遭難中の人間から一体どんな礼をもらえるというのか。
「これでどうだ」
男は顔を覆う布を取り払う。
「へえ、男前………」
改めて見た男の顔は、彫りの深い野性味に溢れた精悍なものだった。
「お褒めに預かり光栄に存じます」
思わず零した賛辞を耳聡く聞きつけた男は、にやりと笑った。
皮肉っぽく吊り上げられた口元に皺がよる。精彩に富んだ光を宿す目から受ける印象よりも年嵩なのかもしれない。
「受け取ってくれ」
耳を飾っていた青い石のついた耳飾を外すと、男は泉の掌に落とした。
それはシャランと涼しげな音をたてて泉の手の上におさまった。
「リプセの耳飾だ」
「は、い、いや、いいよ。なんかすっごい高そうだし。そんな大層なものは受け取れないから! こっちがあげたのは水だよ?」
「何を言う。その水が俺の命を救ったのだ。対価としてはまだ足りぬぐらいだ」
「そりゃあ、そう考えればそうかもしれないけど」
「交換は成った。水浴びを邪魔してすまなかったな」
渋る泉を黙らせるように男は一方的に話を終わらせる。
「じゃあ……いただいとくわ。あっ、ちょっと待って!」
窓を閉めようとした男を呼び止める。
男は方眉を上げて「なんだ?」という顔をした。
「水、それで足りる?」
遭難中ならいくらあっても足りないのではないだろうか?
「ああ、もう砂漠は抜けたようだしな。東の方角にはオアシス都市郡がある。歩き続ければいつかはたどり着くだろう。世話になった」
最後にまた、あのにやりとした笑顔を残して男は窓を閉めた。
窓が閉まると、風呂場はいつもの光景に戻った。
オレンジ色の壁。白い床。黄色い浴槽。シャワーに鏡に、入浴用品の置かれた棚からは体を洗うためのスポンジが吊るされている。
見慣れたいつもの風呂場の眺め。
その中でただ一つ、異質な光を放つ耳飾を見て、泉は急に我に返った。
なんだったの。今のは。
手の中でシャランと音を立てる耳飾が、夢から覚めたはずなのに、覚めていないような、むず痒い気分にさせる。
泉はまじまじと耳飾を眺めた。繊細な金細工の台座に深い色合いの石がはめ込まれいる。湾曲した針のような部分を穴に通すフック型のピアスで、フック部に付着したどす黒い汚れがやけに現実味を与えていた。
じわじわと奇妙な焦りが足の先から這い上がってくる。
泉は、ばんっと手をついて耳飾を浴槽の縁に叩きつけるようにしておくと、湯船から上がった。
体の水気を取るのもそこそこに、服を着込み、濡れた髪にタオルを巻きつけ、玄関へと急いだ。
サンダルをひっかけ、家の裏手にまわる。
そこには風呂場の窓があった。
周りの景色は間違っても、荒野ではない。飾り気のないブロック塀と、塀の上に顔を出す隣家の垣根があるだけだ。
塀と家の壁の間には砂利の敷き詰められた細い道が通っている。
泉は蟻の子一匹見逃すまいと、慎重に辺りを見回しながら、歩を進め、風呂場の前までやって来ると、がらりと勢いよく窓を開けた。
温かい湯が張られた浴槽からは、湯気が昇って浴室内を満たしている。
白く霞んだ視界の中に、きらりと光る青い石を認めて、泉は窓に寄りかかった。腰がぬけていた。
なんなの。これ………。
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