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20 猫と獣
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碌でもない男が持ち帰る土産は、やっぱり碌なもんじゃなかった。
「イヴァンさん……これ、なんですか」
足元に横たわる茶色い物体を指差して問えば、イヴァンはにっと唇を吊り上げた。
「見ての通り肉だ」
いや、肉は肉だけど。思いっきり原型を保っているんだけど!
血抜きのためか、胸に開けられた大穴からだくだくと血を流すイノブタのような獣を前に、私は立ち竦んでいた。
イノブタもどきに釘付けになっていた私の顎を、イヴァンは獣の血に汚れた指で持ち上げた。むっと鉄臭さが鼻をつく。
「干し肉は食いづらいのだろう? 新鮮な肉を持ってきてやったんだがなあ」
いや、新鮮は新鮮だけど、思いっきり原型を保っているんだけど。
「干し肉と屑野菜じゃ無理でも、これでまともな飯が出来るな」
いや、言ったは言ったけど、思いっきり原型を……
「すみません。お心遣いはありがたいのですが、さばけません」
私は白旗を上げた。
「心配するな」
イヴァンは私の顎に指をかけたまま、顔を近づける。と、満面の笑みを浮かべた。
「教えてやる」
結構です!
「お気持ちは大変嬉しいのですが、宗教上の理由で獣の血に触れるのは禁忌なんです」
「なら仕方ないな」
イヴァンは首を傾げてから、やはり笑った。心底嬉しそうに、これ以上はないと言うほど其処意地悪く。
「改宗しろ」
殴りたい。一度でいいから殴りたい。よく考えたらすでに一度殴っていたけど、そんな事はどうでもいいから殴りたい。
湧き上がる欲求に耐える私を、観念したと見て取ったのか、イヴァンは顎から手を外し、代わりに腕を掴んだ。
「どこへ行くんですか」
掴まれた腕を引かれ、私は仕方なく歩き出す。草の上に溜まった獣の血を、踏まないように跳ねながら。
「川だ。まずは内臓を掻き出さんとな」
本気でするのか。
助けを求めるべく背後を振り返るが、イノブタモドキを括り付けた木の枝を担いだ男達は、皆とても嬉しそうな表情だ。今晩のご馳走に思いを馳せているのかもしれない。
顎に付いた血が乾いて張り付き、気持ち悪くてたまらなくなった頃、川にたどり着いた。
川幅は四メートル弱ほどで、流れは穏やかだ。水は澄み切っていて、緑がかった灰色の石が川底に敷き詰められているのが見える。
イヴァンが掴んでいた手を放すと、私は顎の血を落とそうと川に近づきしゃがんだ。さらさらと耳に心地良い音をたてて流れる水に手を伸ばす。冷たそうだな……と思った時、きらりと川の中ほどが光った。
なんだろうと目を凝らすと、光は点滅を繰り返しながら、川を遡っていく。
「イヴァンさん、魚がいますね」
「いるな」
「さばくのはそっちにしませんか?」
川魚ならさばける。塩をふって火であぶって……。香ばしい皮と淡白な白身の味を思い出して、ごくりと唾を飲み込む。ところがそんな私の妄想を、イヴァンはあっさり打ち破った。
「川魚は好かん」
私だってイノブタモドキを解体するのは好かんわ。
「ほらよ、トノ」
想像通り、身を切るような冷たい川の水で、顎の血を洗い流して振り返ると、きらりと光る小振りの短剣が眼前に迫る。
「ちょっと、危ないじゃないですか」
イヴァンは仰け反る私を見て笑い、くるりと指で剣を回して、柄を差し出した。
「こいつはお前にやる。使いこなせるとも思えんが、ないよりはましだろう」
おい、ちょっと待て。エフィムを厨房から遠ざけてまで、ナイフを手に入れた私の苦労はなんだったんだ。
「いいんですか?」
「俺の寝首でも掻いてみるか?」
イヴァンは顎を反らして、嘲るように笑った。
出来ないと思ってやがるな?
――その通りだ。
「無駄な努力はしない主義です」
もし、仮に、万一、奇跡が起こって、彼の首をとれたとしても、その後が困るだろう。頭(イヴァン)という鎖から解放された盗賊達に嬲り殺しにされそうだ。
それに、また襲われるような事があれば、その相手には刃を向けようと腹を括ってはいるが、危害を加えられたわけでもない人に、剣を突きたてる度胸はない。
「賢明な判断だ」
私が短剣を受け取ると、イヴァンは満足気に笑って、革の鞘を放ってよこす。
鞘を腰帯に挟むと、手首を返して、しげしげと剣を眺めた。
刃渡りは十五センチもない。懐に忍ばせたナイフとそう変わらない長さだ。しかし、ナイフと違ってずしりと重い。
この長さでこの重さなら、彼らの腰に下がっている剣など、私には持ち上げるだけで一仕事に違いない。
「さて、やるか」
イヴァンは男達を振り返った。
「おう」
「嬢ちゃん、吐くなよ」
「なーに、女ってのは血に強いもんさ」
好き好きに囃し立てて、男達はイノブタモドキを岩の上に下ろした。
イヴァンはイノブタモドキの腹を上に向けると、ちょいちょいと指で私を手招く。
「そら、ここから、ここまで、一気に裂いてみろ」
胸から腹の下まで指を這わせて示して見せる。
私は短剣をぎゅっと握り締めた。
女は度胸だ。こうなりゃやってやる!
「イヴァンさん……これ、なんですか」
足元に横たわる茶色い物体を指差して問えば、イヴァンはにっと唇を吊り上げた。
「見ての通り肉だ」
いや、肉は肉だけど。思いっきり原型を保っているんだけど!
血抜きのためか、胸に開けられた大穴からだくだくと血を流すイノブタのような獣を前に、私は立ち竦んでいた。
イノブタもどきに釘付けになっていた私の顎を、イヴァンは獣の血に汚れた指で持ち上げた。むっと鉄臭さが鼻をつく。
「干し肉は食いづらいのだろう? 新鮮な肉を持ってきてやったんだがなあ」
いや、新鮮は新鮮だけど、思いっきり原型を保っているんだけど。
「干し肉と屑野菜じゃ無理でも、これでまともな飯が出来るな」
いや、言ったは言ったけど、思いっきり原型を……
「すみません。お心遣いはありがたいのですが、さばけません」
私は白旗を上げた。
「心配するな」
イヴァンは私の顎に指をかけたまま、顔を近づける。と、満面の笑みを浮かべた。
「教えてやる」
結構です!
「お気持ちは大変嬉しいのですが、宗教上の理由で獣の血に触れるのは禁忌なんです」
「なら仕方ないな」
イヴァンは首を傾げてから、やはり笑った。心底嬉しそうに、これ以上はないと言うほど其処意地悪く。
「改宗しろ」
殴りたい。一度でいいから殴りたい。よく考えたらすでに一度殴っていたけど、そんな事はどうでもいいから殴りたい。
湧き上がる欲求に耐える私を、観念したと見て取ったのか、イヴァンは顎から手を外し、代わりに腕を掴んだ。
「どこへ行くんですか」
掴まれた腕を引かれ、私は仕方なく歩き出す。草の上に溜まった獣の血を、踏まないように跳ねながら。
「川だ。まずは内臓を掻き出さんとな」
本気でするのか。
助けを求めるべく背後を振り返るが、イノブタモドキを括り付けた木の枝を担いだ男達は、皆とても嬉しそうな表情だ。今晩のご馳走に思いを馳せているのかもしれない。
顎に付いた血が乾いて張り付き、気持ち悪くてたまらなくなった頃、川にたどり着いた。
川幅は四メートル弱ほどで、流れは穏やかだ。水は澄み切っていて、緑がかった灰色の石が川底に敷き詰められているのが見える。
イヴァンが掴んでいた手を放すと、私は顎の血を落とそうと川に近づきしゃがんだ。さらさらと耳に心地良い音をたてて流れる水に手を伸ばす。冷たそうだな……と思った時、きらりと川の中ほどが光った。
なんだろうと目を凝らすと、光は点滅を繰り返しながら、川を遡っていく。
「イヴァンさん、魚がいますね」
「いるな」
「さばくのはそっちにしませんか?」
川魚ならさばける。塩をふって火であぶって……。香ばしい皮と淡白な白身の味を思い出して、ごくりと唾を飲み込む。ところがそんな私の妄想を、イヴァンはあっさり打ち破った。
「川魚は好かん」
私だってイノブタモドキを解体するのは好かんわ。
「ほらよ、トノ」
想像通り、身を切るような冷たい川の水で、顎の血を洗い流して振り返ると、きらりと光る小振りの短剣が眼前に迫る。
「ちょっと、危ないじゃないですか」
イヴァンは仰け反る私を見て笑い、くるりと指で剣を回して、柄を差し出した。
「こいつはお前にやる。使いこなせるとも思えんが、ないよりはましだろう」
おい、ちょっと待て。エフィムを厨房から遠ざけてまで、ナイフを手に入れた私の苦労はなんだったんだ。
「いいんですか?」
「俺の寝首でも掻いてみるか?」
イヴァンは顎を反らして、嘲るように笑った。
出来ないと思ってやがるな?
――その通りだ。
「無駄な努力はしない主義です」
もし、仮に、万一、奇跡が起こって、彼の首をとれたとしても、その後が困るだろう。頭(イヴァン)という鎖から解放された盗賊達に嬲り殺しにされそうだ。
それに、また襲われるような事があれば、その相手には刃を向けようと腹を括ってはいるが、危害を加えられたわけでもない人に、剣を突きたてる度胸はない。
「賢明な判断だ」
私が短剣を受け取ると、イヴァンは満足気に笑って、革の鞘を放ってよこす。
鞘を腰帯に挟むと、手首を返して、しげしげと剣を眺めた。
刃渡りは十五センチもない。懐に忍ばせたナイフとそう変わらない長さだ。しかし、ナイフと違ってずしりと重い。
この長さでこの重さなら、彼らの腰に下がっている剣など、私には持ち上げるだけで一仕事に違いない。
「さて、やるか」
イヴァンは男達を振り返った。
「おう」
「嬢ちゃん、吐くなよ」
「なーに、女ってのは血に強いもんさ」
好き好きに囃し立てて、男達はイノブタモドキを岩の上に下ろした。
イヴァンはイノブタモドキの腹を上に向けると、ちょいちょいと指で私を手招く。
「そら、ここから、ここまで、一気に裂いてみろ」
胸から腹の下まで指を這わせて示して見せる。
私は短剣をぎゅっと握り締めた。
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