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12 囚われる
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背中を嫌な汗が伝う。
何故彼らは靴を脱ぐ?
キノスの王城では欧米のように靴を履いたままの生活だった。
街の暮らしを詳しく知っているわけではないが、少なくともエイノの屋敷で過ごしていた時も城での作法と同じで、室内でも靴は履いたまま。
だからシルヴァンティエでは室内で靴を脱ぐ習慣はないと、そう認識していたのに。
ここは彼らの本拠地ではない。それはレオニードの話からも分かっていた。が、盗賊という職業(と言って良いのか不明だが)柄、一つ所に留まらず、あちらこちらの廃屋を渡り歩くのだろうかと考えていたのだ。
私は臍を噛んだ。今一つ考えが甘かったらしい。
彼らの出身はシルヴァンティエではないのかもしれない。
追われる身であれば、いかなる時でもすぐさま逃げ出せるように靴を履いたままの生活の方が理にかなっているはずだ。にも関わらず靴を脱ぐのは彼らの本来の習慣がそうさせたとしか思えなかった。
国境には関所があり、国を越えるにはそれなりの手続きがいると学んだ。だが所詮は地続きだ。彼らの乗馬の技術があれば悪所も難なく通り抜けられるに違いない。
国から国を渡り歩けば、手配は行き届かず、捕まりにくくもなるだろう。
では、彼らの出身国は……本拠地は何処にあるのだろう。
私はレオニードや、同じく靴を脱ぎに来た男達の容姿を注意深く見回し、がくりと肩を落とした。私の目には、彼らの髪や目、肌の色、更には顔立ちも、この一年見慣れたキノスの人々と同じようにしか映らなかったのだ。
イギリス人とフランス人を並べて、それぞれの国を当てろと言われても分からないように、分かる人が見れば分かるだろう微妙な差異が、もしもあったとしても、私には気づけないだろう。
「トノ」
皆が靴を脱いで廊下を歩いていく様子を見ていた私は、レオニードの声に促され、靴紐に手をかけた。
扉を入ってすぐに広がる黒い石の床は、そのまま廊下と繋がっており、土足部と、それ以外の線引きは曖昧だ。
思い思いに脱ぎ散らかした靴の合間を抜け、レオニードの側に並んだ。
冷たい石の床に、薄い布一枚に包まれた足先は堪える。
「後で室内履きを用意させましょう」
レオニードは眉を顰めて私の足元を見て言った。
足先を丸めて歩いているのに気付いたらしい。
「ありがとうございます……あの、図々しいのは百も承知ですが、出来れば着替えを一揃えお願い出来ないでしょうか」
二着あれば超ヘビーローテで着まわしますので。
「ああ……」
レオニードならば二つ返事で快諾してくれるのではないかと思っていたが、予想に反して彼は言葉を切って私を見た。
あ、まずい。厚かましすぎたか。立ち居地を掴み損ねた失言だったかと肝が冷える。
しかしレオニードは特に気を害した風もなく、繁々と私の体に視線を走らせた。
「女性用の衣装がありませんので、男物でも構いませんか? 大きさも合わないでしょうが」
私はほっと胸を撫で下ろした。
「はい」
勿論、贅沢は言いません。
「では、先に私の部屋に向かいましょう」
そう言うと、一つ目の角で折れた場所まで戻り、真っ直ぐに建物の奥へと続く通路を歩き始める。
白い戸を一つ、二つ、と通り越し、四つ目の戸の前に来ると、レオニードは取っ手を回した。
部屋の広さは12畳ほどだろうか。まず、部屋の中央に置かれた古ぼけたベットが目に入る。ベッドに添わせるように長細い机が配置され、その上にはいくつかの紙の束が詰まれていた。つっと、右手に視線をずらせば、壁にうちつけられた釘に吊るされた服が数枚。さらにその足元に長持が二つ並べて置かれていた。以上がこの部屋にある物の全てだった。
レオニードは長持ちの前に来ると、膝を折って、蓋を開けた。
どうやら服を選んでくれているらしい。長持ちの中から服を出しては簡単に検分する後姿を眺めながら、私はそっと部屋に入り、机に近づいた。
少し距離を保ち、立ち止まる事無く、机の横を擦り抜けながら、上に置いてある書類を盗み見る。
ごく最近の日付と、繊細な筆遣いで描かれた木や花、またそれらについての詳しい記述がいくつか見て取れた。
植物学好きの盗賊……個人の趣味に口出しする気はないが、余りにそぐわない。
内心で首を顰めながら、窓際まで来ると、外を眺めた。外の景色が見たくて、部屋に入ったのだと思われるように。
光玉の灯りに照らされて、木の根元を覆う残雪が白く光輝いている。
ちらりと背後を伺うと、レオニードはまだ長持ちの前に膝をついていた。
趣味と職業が似つかわしくないのも気にはなるが、私が最も見たかったのは言語だ。
もしも他国の言葉で書かれていたら……と思ったのだが、見えたのは思った通りシルヴァンティエの公用語と同じものだった。
文化レベルから想像していたよりもこの世界の人々の識字率は高いが、盗賊に他国の言葉を解する教養があるとは思えない。多言語を操つれるなら盗賊などになる必要がないからだ。
とすれば、やはり彼らの故郷は言語を同じくする、ツィメンか、リザラスの線が濃そうだ。
ふとミーツェの巻髪を思い出して溜息が出た。ツィメンとシルヴァンティエが揉める姿は見たくない。
レオニードが蓋に手をかけたのを見て、慌てて窓に向き直る。
靴音がしたかと思うと、窓ガラスに数枚の服を持ったレオニードがぐにゃりと歪んで映った。
「私の服で申し訳ありませんが、しばらくはこれで我慢してください」
窓越しに目が合って振り返る。
「他の男のものよりましですので」
とのレオニードの言葉に、私は心の中で大いに頷いた。館に入って外套を脱いだ他の男達の服装は、清潔や品といった言葉とは無縁のものだったのだ。その点、彼の服装はキノスの中流階級層が使う店にも問題なく入れるだろう小奇麗なものだった。出してくれた服も手触りが良さそうな控えめな色みのものばかりで、寸分の狂いもなく綺麗に畳まれている。
「ありがとうございます」
もう何度目だか分からない感謝の言葉を述べると、レオニードは服を手に持ったまま踵を返した。
「浴室に案内しましょう」
浴室はレオニードの部屋のある建物とは、吹きさらしの渡り廊下で繋げられた、少し小さめの離れの中にあった。
引き戸をあけると、湿った湯気の香りが廊下に流れ出す。
体を拭く布、石鹸の在りかなどを簡単に説明すると、レオニードは脱衣所の戸を開けた。
「外におりますので、何かありましたら声を上げてください」
レオニードが外に出ると、鍵をかけようとして戸を調べてみたが、なかった。
まあ、彼ならイヴァンが俺様風を吹かせて来ても追い返してくれるだろう。
汚れた服を脱いで纏めて手に持つと、浴室へと続く戸を開ける。と、途端に冷たい風が肌を取り巻き、私は身震いした。
窓が割れてる……
もうもうと立ち込める湯船からの湯気で、浴室内はそこそこの気温が保たれてはいるが、時折入り込む隙間風が、容赦なく肌を嬲る。
石造りの床に足をつけると、浴槽から溢れた湯が足裏を塗らす。源泉かけ流しだ。なんという心躍る時間だろう。
すぐに湯船に飛び込んでしまいたいところだが、まず服の処理をしなくては。
なるべく風のあたらない隅っこに来ると、無骨な四角い形に切られた石鹸を湯で溶かして石鹸水を作り、服を浸けた。泡立ちの悪い石鹸をこれでもかとこすって、何とか泡立てると、髪と体を清める。肌を擦った手ぬぐいが、黒っぽくなるのを見て、凹んだ。どれだけ汚れていたのか……
肌が赤くなるまで擦ってすっかり汚れを落とすと、お待ちかねの入浴タイムだ。
そっと足先をつけると、全身の毛穴がぽつぽつと立った。江戸っ子爺ちゃんも文句のつけようのない熱さだ。
痛みと紙一重の心地よさを感じながら腰まで湯に浸かると、ほうと溜息が出た。少しとろみのある湯は、あっという間に冷えた体を芯から暖めてくれる。
割れた窓から入る冷たい風も、こうなると清しいそよ風に変わる。
ゆっくりと時間をかけて楽しみたいところだが、遅くなると、心配したレオニードが踏み込んでこないとも限らない。
後ろ髪を引かれながら湯船から出ると、桶から服を取り出し踏み、洗った。
荒い終わった服を絞って水気を切ると、最後にもう一度湯船に浸かって浴室を出た。
用意されていた体を拭くための布は、一応畳まれてはいるものの、よれよれの皺だらけで、使うのを躊躇ってしまう。恐る恐る匂いを嗅いでみると、石鹸の香りがして安堵した。
レオニードの服は、ぶかぶかも良いところだった。開きすぎた襟元に乾いたタオルを巻き、ズボンの裾を何重にも折る。チュニックとなった肌着と上着、浮いたズボンのウエストを纏めて上からベルトで止めた。姿見がなくて良かった。
絞った服を桶に入れて手に持つと、脱衣所の戸を開けた。
大きな背中が視界を占める。
「湯加減はいかがでしたか?」
戸の前に仁王立ちしていたレオニードが首だけで振り返った。
「丁度良かったです。あのお先に頂いてしまってすみません」
レオニードはちらりと桶の中の服に視線を落とした。
「いえ、その服はとりあえず室内に干しておいて下さい」
部屋に案内しましょう。と言われ、レオニードの後をついて、渡り廊下に差し掛かった。
外に出た瞬間、冷たい外気に包まれた。湯上りの火照った体に気持ち良い……と思ったのも束の間。廊下を半分も行かないうちに、冷えが体を襲う。
ふと腰壁の向こうに目を向ける。すっかり夜の闇に飲み込まれた林は、真っ暗で木々の姿も見えない。ただ枝葉が奏でるざわめきだけが聞こえ、正体の見えないその音が、まるで地獄の使者の呼び声のように、いつまでも耳に残った。
幾人かの男達とすれ違い、部屋についた時には、体は再び冷え切ってしまっていた。
部屋の位置はレオニードの向かいで、何かと心強い。
「雑務がありますので失礼します。後で食事を運ばせましょう」と言うとレオニードは廊下の角に消える。その背中を見送ってから、私は部屋の中へ足を踏み入れた。
床は綺麗に掃き清められているが、壁の汚れや、湿っぽい空気などから、私用にと、慌てて設えられたのだと分かった。
片付いている……というよりは物がないだけの部屋の片隅に、ぽつん置かれたベッドは、目を見張るような細かな細工が施されている。元が良いものだと分かるだけに、余計に寒々しい印象を与えた。
ベッドヘッドに服をかけると、ベッドの上に横になり――――盛大に咽た。
かび臭い。
ここが暖かい土地ならば、迷わず床の上で寝ただろう。
寒さに負けて毛布に包まろうとした時だった。
扉がノックもなしに開けられる。
食事を持って来てくれたのだと思い、腰を浮かしかけた私は、ぎくりとして固まった。
数人の男が下卑た笑みを浮かべて部屋の中に入ってきたのだ。その胸糞悪くなるような表情は、彼らの目的を瞬時に理解させるに充分なものだった。
まずい。
ぎゅっと心臓を締め付けられるような恐怖が体を支配する。どくんどくんと煩いほどに頭に響く鼓動の音を聞きながら、私はベッドから駆け下りた。
一目散に窓へと走り、指先が吊るされたカーテンを掴んだ。揺れる布の間から、かすかに外が見え、助かるかもしれないと希望を抱いたが、そこまでだった。
首と腰に同時に伸びた腕が、恐ろしい速さで体を引き戻す。
抗いようのない強い力に、吸い込まれるように窓辺から離され、叩きつけるようにベッドの上に倒された。
叫び声を上げる前に、口の中に布切れが詰め込まれ、息苦しさに涙が目尻に溜まった。
唸りながら手足をばたつかせる私を、男達は悠々と押さえつけて、笑っている。その神経が微塵も理解出来ない。
ああ、この世界にもジャンケンみたいなものがあるんだ……と、腕を捻り上げた男と、足を押さえる男が順番で揉めているのを、どこか他人事のように眺めていた。
意識をシャットダウン出来ればいいのに。とも思うが、ぐったりしてしまうえば、そのまま殺されて埋められそうで、何があろうと最後まで意識を保とうと心に決めた。
せめて、絶対に忘れないように顔を覚えてやる。
腕に食い込む指の力に顔を歪ませながら、順番に男達の顔を見る。
どこかで見た顔だが、同行していた男達ではない。記憶をめぐらせ、はっとした。屋敷の前でイヴァンに頭を下げていた男達だ。
レオニードはああ言っていたけれど、イヴァンには人を見る目があるのかもしれない……と感心した時、とうとう襟に太い指がかけられ、ボタンが飛ぶ。
びりびりになったシャツを見たらレオニードはなんと言うだろうか。
シャツの下から現れた男物の肌着に、一番手を勝ち取った男が顔を顰めた。
色気がなくてすみませんね。
上の空でひとりごちる。
周りで囃し立てる男達の笑い声が耳に滑り込もうとした時、その声を遥かに凌ぐ轟音が耳を塞いだ。
驚きに見開いた目が、部屋の中央でがらんがらんと重たい音を立てて回る窓枠を捕らえる。砕かれた分厚いガラスが部屋のあちらこちらで光りを放っていた。
憤怒の形相のイヴァンと、凍りつくような眼光を宿したレオニードと、にこにこと笑顔を浮かべた三つ編みの男が、窓枠を乗り越えて、部屋に雪崩れ込むようにして入って来る。
助かったのだ。と息を吐いた次の瞬間、赤い線が天井にはしった。
私は今度こそ、シャットダウン機能が備わっていない事を呪った。
鈍い音と、男達の叫び声と、真っ赤に染まる視界。
ベッドの上にへたり込み某然とする私の前で、それはあっという間に終わった。
何故彼らは靴を脱ぐ?
キノスの王城では欧米のように靴を履いたままの生活だった。
街の暮らしを詳しく知っているわけではないが、少なくともエイノの屋敷で過ごしていた時も城での作法と同じで、室内でも靴は履いたまま。
だからシルヴァンティエでは室内で靴を脱ぐ習慣はないと、そう認識していたのに。
ここは彼らの本拠地ではない。それはレオニードの話からも分かっていた。が、盗賊という職業(と言って良いのか不明だが)柄、一つ所に留まらず、あちらこちらの廃屋を渡り歩くのだろうかと考えていたのだ。
私は臍を噛んだ。今一つ考えが甘かったらしい。
彼らの出身はシルヴァンティエではないのかもしれない。
追われる身であれば、いかなる時でもすぐさま逃げ出せるように靴を履いたままの生活の方が理にかなっているはずだ。にも関わらず靴を脱ぐのは彼らの本来の習慣がそうさせたとしか思えなかった。
国境には関所があり、国を越えるにはそれなりの手続きがいると学んだ。だが所詮は地続きだ。彼らの乗馬の技術があれば悪所も難なく通り抜けられるに違いない。
国から国を渡り歩けば、手配は行き届かず、捕まりにくくもなるだろう。
では、彼らの出身国は……本拠地は何処にあるのだろう。
私はレオニードや、同じく靴を脱ぎに来た男達の容姿を注意深く見回し、がくりと肩を落とした。私の目には、彼らの髪や目、肌の色、更には顔立ちも、この一年見慣れたキノスの人々と同じようにしか映らなかったのだ。
イギリス人とフランス人を並べて、それぞれの国を当てろと言われても分からないように、分かる人が見れば分かるだろう微妙な差異が、もしもあったとしても、私には気づけないだろう。
「トノ」
皆が靴を脱いで廊下を歩いていく様子を見ていた私は、レオニードの声に促され、靴紐に手をかけた。
扉を入ってすぐに広がる黒い石の床は、そのまま廊下と繋がっており、土足部と、それ以外の線引きは曖昧だ。
思い思いに脱ぎ散らかした靴の合間を抜け、レオニードの側に並んだ。
冷たい石の床に、薄い布一枚に包まれた足先は堪える。
「後で室内履きを用意させましょう」
レオニードは眉を顰めて私の足元を見て言った。
足先を丸めて歩いているのに気付いたらしい。
「ありがとうございます……あの、図々しいのは百も承知ですが、出来れば着替えを一揃えお願い出来ないでしょうか」
二着あれば超ヘビーローテで着まわしますので。
「ああ……」
レオニードならば二つ返事で快諾してくれるのではないかと思っていたが、予想に反して彼は言葉を切って私を見た。
あ、まずい。厚かましすぎたか。立ち居地を掴み損ねた失言だったかと肝が冷える。
しかしレオニードは特に気を害した風もなく、繁々と私の体に視線を走らせた。
「女性用の衣装がありませんので、男物でも構いませんか? 大きさも合わないでしょうが」
私はほっと胸を撫で下ろした。
「はい」
勿論、贅沢は言いません。
「では、先に私の部屋に向かいましょう」
そう言うと、一つ目の角で折れた場所まで戻り、真っ直ぐに建物の奥へと続く通路を歩き始める。
白い戸を一つ、二つ、と通り越し、四つ目の戸の前に来ると、レオニードは取っ手を回した。
部屋の広さは12畳ほどだろうか。まず、部屋の中央に置かれた古ぼけたベットが目に入る。ベッドに添わせるように長細い机が配置され、その上にはいくつかの紙の束が詰まれていた。つっと、右手に視線をずらせば、壁にうちつけられた釘に吊るされた服が数枚。さらにその足元に長持が二つ並べて置かれていた。以上がこの部屋にある物の全てだった。
レオニードは長持ちの前に来ると、膝を折って、蓋を開けた。
どうやら服を選んでくれているらしい。長持ちの中から服を出しては簡単に検分する後姿を眺めながら、私はそっと部屋に入り、机に近づいた。
少し距離を保ち、立ち止まる事無く、机の横を擦り抜けながら、上に置いてある書類を盗み見る。
ごく最近の日付と、繊細な筆遣いで描かれた木や花、またそれらについての詳しい記述がいくつか見て取れた。
植物学好きの盗賊……個人の趣味に口出しする気はないが、余りにそぐわない。
内心で首を顰めながら、窓際まで来ると、外を眺めた。外の景色が見たくて、部屋に入ったのだと思われるように。
光玉の灯りに照らされて、木の根元を覆う残雪が白く光輝いている。
ちらりと背後を伺うと、レオニードはまだ長持ちの前に膝をついていた。
趣味と職業が似つかわしくないのも気にはなるが、私が最も見たかったのは言語だ。
もしも他国の言葉で書かれていたら……と思ったのだが、見えたのは思った通りシルヴァンティエの公用語と同じものだった。
文化レベルから想像していたよりもこの世界の人々の識字率は高いが、盗賊に他国の言葉を解する教養があるとは思えない。多言語を操つれるなら盗賊などになる必要がないからだ。
とすれば、やはり彼らの故郷は言語を同じくする、ツィメンか、リザラスの線が濃そうだ。
ふとミーツェの巻髪を思い出して溜息が出た。ツィメンとシルヴァンティエが揉める姿は見たくない。
レオニードが蓋に手をかけたのを見て、慌てて窓に向き直る。
靴音がしたかと思うと、窓ガラスに数枚の服を持ったレオニードがぐにゃりと歪んで映った。
「私の服で申し訳ありませんが、しばらくはこれで我慢してください」
窓越しに目が合って振り返る。
「他の男のものよりましですので」
とのレオニードの言葉に、私は心の中で大いに頷いた。館に入って外套を脱いだ他の男達の服装は、清潔や品といった言葉とは無縁のものだったのだ。その点、彼の服装はキノスの中流階級層が使う店にも問題なく入れるだろう小奇麗なものだった。出してくれた服も手触りが良さそうな控えめな色みのものばかりで、寸分の狂いもなく綺麗に畳まれている。
「ありがとうございます」
もう何度目だか分からない感謝の言葉を述べると、レオニードは服を手に持ったまま踵を返した。
「浴室に案内しましょう」
浴室はレオニードの部屋のある建物とは、吹きさらしの渡り廊下で繋げられた、少し小さめの離れの中にあった。
引き戸をあけると、湿った湯気の香りが廊下に流れ出す。
体を拭く布、石鹸の在りかなどを簡単に説明すると、レオニードは脱衣所の戸を開けた。
「外におりますので、何かありましたら声を上げてください」
レオニードが外に出ると、鍵をかけようとして戸を調べてみたが、なかった。
まあ、彼ならイヴァンが俺様風を吹かせて来ても追い返してくれるだろう。
汚れた服を脱いで纏めて手に持つと、浴室へと続く戸を開ける。と、途端に冷たい風が肌を取り巻き、私は身震いした。
窓が割れてる……
もうもうと立ち込める湯船からの湯気で、浴室内はそこそこの気温が保たれてはいるが、時折入り込む隙間風が、容赦なく肌を嬲る。
石造りの床に足をつけると、浴槽から溢れた湯が足裏を塗らす。源泉かけ流しだ。なんという心躍る時間だろう。
すぐに湯船に飛び込んでしまいたいところだが、まず服の処理をしなくては。
なるべく風のあたらない隅っこに来ると、無骨な四角い形に切られた石鹸を湯で溶かして石鹸水を作り、服を浸けた。泡立ちの悪い石鹸をこれでもかとこすって、何とか泡立てると、髪と体を清める。肌を擦った手ぬぐいが、黒っぽくなるのを見て、凹んだ。どれだけ汚れていたのか……
肌が赤くなるまで擦ってすっかり汚れを落とすと、お待ちかねの入浴タイムだ。
そっと足先をつけると、全身の毛穴がぽつぽつと立った。江戸っ子爺ちゃんも文句のつけようのない熱さだ。
痛みと紙一重の心地よさを感じながら腰まで湯に浸かると、ほうと溜息が出た。少しとろみのある湯は、あっという間に冷えた体を芯から暖めてくれる。
割れた窓から入る冷たい風も、こうなると清しいそよ風に変わる。
ゆっくりと時間をかけて楽しみたいところだが、遅くなると、心配したレオニードが踏み込んでこないとも限らない。
後ろ髪を引かれながら湯船から出ると、桶から服を取り出し踏み、洗った。
荒い終わった服を絞って水気を切ると、最後にもう一度湯船に浸かって浴室を出た。
用意されていた体を拭くための布は、一応畳まれてはいるものの、よれよれの皺だらけで、使うのを躊躇ってしまう。恐る恐る匂いを嗅いでみると、石鹸の香りがして安堵した。
レオニードの服は、ぶかぶかも良いところだった。開きすぎた襟元に乾いたタオルを巻き、ズボンの裾を何重にも折る。チュニックとなった肌着と上着、浮いたズボンのウエストを纏めて上からベルトで止めた。姿見がなくて良かった。
絞った服を桶に入れて手に持つと、脱衣所の戸を開けた。
大きな背中が視界を占める。
「湯加減はいかがでしたか?」
戸の前に仁王立ちしていたレオニードが首だけで振り返った。
「丁度良かったです。あのお先に頂いてしまってすみません」
レオニードはちらりと桶の中の服に視線を落とした。
「いえ、その服はとりあえず室内に干しておいて下さい」
部屋に案内しましょう。と言われ、レオニードの後をついて、渡り廊下に差し掛かった。
外に出た瞬間、冷たい外気に包まれた。湯上りの火照った体に気持ち良い……と思ったのも束の間。廊下を半分も行かないうちに、冷えが体を襲う。
ふと腰壁の向こうに目を向ける。すっかり夜の闇に飲み込まれた林は、真っ暗で木々の姿も見えない。ただ枝葉が奏でるざわめきだけが聞こえ、正体の見えないその音が、まるで地獄の使者の呼び声のように、いつまでも耳に残った。
幾人かの男達とすれ違い、部屋についた時には、体は再び冷え切ってしまっていた。
部屋の位置はレオニードの向かいで、何かと心強い。
「雑務がありますので失礼します。後で食事を運ばせましょう」と言うとレオニードは廊下の角に消える。その背中を見送ってから、私は部屋の中へ足を踏み入れた。
床は綺麗に掃き清められているが、壁の汚れや、湿っぽい空気などから、私用にと、慌てて設えられたのだと分かった。
片付いている……というよりは物がないだけの部屋の片隅に、ぽつん置かれたベッドは、目を見張るような細かな細工が施されている。元が良いものだと分かるだけに、余計に寒々しい印象を与えた。
ベッドヘッドに服をかけると、ベッドの上に横になり――――盛大に咽た。
かび臭い。
ここが暖かい土地ならば、迷わず床の上で寝ただろう。
寒さに負けて毛布に包まろうとした時だった。
扉がノックもなしに開けられる。
食事を持って来てくれたのだと思い、腰を浮かしかけた私は、ぎくりとして固まった。
数人の男が下卑た笑みを浮かべて部屋の中に入ってきたのだ。その胸糞悪くなるような表情は、彼らの目的を瞬時に理解させるに充分なものだった。
まずい。
ぎゅっと心臓を締め付けられるような恐怖が体を支配する。どくんどくんと煩いほどに頭に響く鼓動の音を聞きながら、私はベッドから駆け下りた。
一目散に窓へと走り、指先が吊るされたカーテンを掴んだ。揺れる布の間から、かすかに外が見え、助かるかもしれないと希望を抱いたが、そこまでだった。
首と腰に同時に伸びた腕が、恐ろしい速さで体を引き戻す。
抗いようのない強い力に、吸い込まれるように窓辺から離され、叩きつけるようにベッドの上に倒された。
叫び声を上げる前に、口の中に布切れが詰め込まれ、息苦しさに涙が目尻に溜まった。
唸りながら手足をばたつかせる私を、男達は悠々と押さえつけて、笑っている。その神経が微塵も理解出来ない。
ああ、この世界にもジャンケンみたいなものがあるんだ……と、腕を捻り上げた男と、足を押さえる男が順番で揉めているのを、どこか他人事のように眺めていた。
意識をシャットダウン出来ればいいのに。とも思うが、ぐったりしてしまうえば、そのまま殺されて埋められそうで、何があろうと最後まで意識を保とうと心に決めた。
せめて、絶対に忘れないように顔を覚えてやる。
腕に食い込む指の力に顔を歪ませながら、順番に男達の顔を見る。
どこかで見た顔だが、同行していた男達ではない。記憶をめぐらせ、はっとした。屋敷の前でイヴァンに頭を下げていた男達だ。
レオニードはああ言っていたけれど、イヴァンには人を見る目があるのかもしれない……と感心した時、とうとう襟に太い指がかけられ、ボタンが飛ぶ。
びりびりになったシャツを見たらレオニードはなんと言うだろうか。
シャツの下から現れた男物の肌着に、一番手を勝ち取った男が顔を顰めた。
色気がなくてすみませんね。
上の空でひとりごちる。
周りで囃し立てる男達の笑い声が耳に滑り込もうとした時、その声を遥かに凌ぐ轟音が耳を塞いだ。
驚きに見開いた目が、部屋の中央でがらんがらんと重たい音を立てて回る窓枠を捕らえる。砕かれた分厚いガラスが部屋のあちらこちらで光りを放っていた。
憤怒の形相のイヴァンと、凍りつくような眼光を宿したレオニードと、にこにこと笑顔を浮かべた三つ編みの男が、窓枠を乗り越えて、部屋に雪崩れ込むようにして入って来る。
助かったのだ。と息を吐いた次の瞬間、赤い線が天井にはしった。
私は今度こそ、シャットダウン機能が備わっていない事を呪った。
鈍い音と、男達の叫び声と、真っ赤に染まる視界。
ベッドの上にへたり込み某然とする私の前で、それはあっという間に終わった。
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