2 / 28
02 シルヴァンティエにて 〜一日目、昼〜
しおりを挟む
「お仕事ですか」
「そ。ずっと受けてなかったから。そろそろ動かないと、せっかく売り出した名を忘れられちゃ適わないからね。失敗して野垂れ死んでると思われるのも癪だし」
肩で切りそろえられた、真っ直ぐな金の髪が背に下ろされたフードの上を滑る。目をすっぽりと覆い隠す前髪の隙間から、薄い青色の瞳が覗いていた。
レーヴィという蓑が被れなくなってから、男は下っ端の神官にその身分を変えて姿を見せるようになっていた。男が現れるタイミングは様々で、大抵は今日と同じように窓から部屋へ、鍵を破って勝手に侵入し、私の肝を潰してくれるのだが、時には同僚として堂々と神殿にやってきて、共に仕事をこなして帰る事もあった。ずっと王都近くにいるようだから、暗殺家業も随分と暇なものだ。平和でよろしい。と迷惑ながらもどこか安堵していたのだが、どうやら本格的に復職する気になったらしい。
「はあ、そちらの業界も色々と大変なんですね」
アイラが入れてくれた食後の熱いお茶をずずっとすすり、気の無い相槌を打てば、横から伸ばされた手がひょいとカップを掠め取った。
「相変わらずアイラが入れてくれるお茶は美味しいね」
奪い取ったお茶を口に含んで、目の前の男は満足そうに笑んだ。
ほんのりとしたお茶の温もりを残す空の手を見つめて、私は眉を寄せる。
「知ってた? マリヤッタがレーヴィだった僕に入れてくれるお茶は飲めたもんじゃなかったんだよ。よっぽどレーヴィがあんたに近づくのが気に入らなかったんだろうねえ。なにせ、あんた僕に首ったけだったし?」
私は頬を引き攣らせながら唇を吊り上げた。
「ええ全くそのとおり。私はレーヴィさんに夢中でしたからね。お人よしで、善良で、ちょっと野暮ったいレーヴィさんにね!」
誰か今からでも本物を連れてきてくれないかな。等という考えがこの半年の間、幾度頭をよぎったことか。
「どうだかね。あんな人がいいだけの男。実際に会ったら一時間で飽きるよ」
それは自分だけでしょうよ。
男は気だるげに首を回すと、片手を突き上げて伸びをする。
「さあてと、そろそろ行こうかな。寒いのは嫌いなんだけどなあ。せっかく春になると思ったのに僕だけ冬に逆戻りだよ」
「え? どこへ行くんですか?」
無口の仕事のことなど、関心もないし、知らないに越したことはないのに、冬に逆戻りという台詞に興味をひかれて、つい疑問が口を衝いてしまった。
「キュイ――――銀の狼が支配する雪に閉ざされたところさ」
「キュイですか」
十数年前まで、シルヴァンティエと小競り合いを繰り返していたという、北の国境を接する国だったか。ここシルヴァンティエの王都キノスでは、もうすっかり雪解けを迎えたというのに……。
確かにせっかく迎えた春に背を向けて、寒い北へ向かわなければならないとなると気が滅入るかもしれない。
それにしても、銀の狼とはさすが魔法が存在する世界。ファンタジックで恐れ入る。一体どんな姿をしているのだろうか?
私はふと、一面の銀世界に君臨する孤高の狼に思いを馳せた。木々の枝には雪が重なり、まるで光輝く白い葉を茂らせているように見える。エメラルドグリーンの湖面は厚い氷に覆われ、魚達が短く遅い春を待ち望んでいる。月光を受けてきらきらと光る粉雪の舞う真っ白な丘に、静かに佇む銀の毛皮を纏う狼。幻想的だな。
「銀狼をね、一匹仕留めにいくのさ。ああ、楽しみだな」
さっきまで狼が立っていた雪原にぱっと鮮血が広がった。
うっとりと目を細める無口に私は全身全霊で引いた。
「狩人の真似事もするんですか?」
「狩人? まあ、そんなとこかもね」
無口は空になったカップを私の目の前に置かれた皿の上に置く。
「まあ、そんなわけだから。あんたが帰る日には間に合わないかもしれないな」
そうか。もうそんな時期か。指折り数えて待っていたはずのその日がいざ近づくと、私は段々と残りの日数を気にしなくなっていた。……気にしないようにしていた。
「そうですか。それじゃあ、お元気で」
立ち上がって、真っ白な神官服の上に羽織った白いローブを被った無口に、私は笑顔を向けた。こいつが元気じゃないほうが世のため人のためなのだろうが、今度こそ、本当に、絶対に、確実に、最後なのだと思えばそれなりに感慨深いものである。
「うん、あんたもね」
振り返った無口の顔は、フードと長く伸びた前髪に遮られて見えない。
窓から差し込む光を背に、無口は私へ歩み寄る。
つっと無口の指が顎先に伸ばされた。そのまま少しかさついた長い指が私の顔を持ち上げ……る前に渾身の力でもって叩き落とした。
「今度は何を飲ませる気ですか」
ぷっと可笑しそうに噴出す無口を睨み付けて、素早く後退る。
「やだなあ。今日は何も含んでないよ。お別れのキスぐらいさせてくれてもいいじゃない。流石に別の世界に逃げられたんじゃあ、追いかけようがないしね」
と言って無口は唇の端を上げた。
「キスはもう十分嫌になるくらい味わわせていただきましたから」
丁重に辞退したというのに、無口は「そう?」と首を傾げると、せっかく作った間を一瞬で詰めて、ぐいっと私の右手を捕った。
「くっ」
相変わらず容赦のない力に手首がきしむ。
眉を顰めて、つんのめりそうになった体を立て直そうとした次の瞬間、腕の内側に生暖かいものが這い、さらに薄く堅い何かが肌に立てられた。
「ひっ」
臀部から首まで背筋を伝って一気に震えが走り抜ける。全身がぞわぞわと粟立った。
舐められて、噛まれた。
そう理解して、悪寒が全身を包む。
「結局、異界の味も分からず仕舞いか。残念だな」
「いっ……つっ。ちょっと! いい加減に離してくださいよ。噛み千切る気ですか!」
もう一噛みとばかりに噛み付いた無口の歯が食い込み、私はたまらず悲鳴をあげた。アイラに聞こえたら心配をかけてしまうとか、その結果イサークにばれたら気まずいとか、色々と考える事もあるが、今にも肌を突き破らんとするするどい歯にぞっとして耐えられなかった。カニバリズムなんて冗談じゃない!
「大げさだね」
最後にぺろりと舐められて、ようやく放された腕にはきっちりと鬱血の跡があった。今が長袖の季節で良かった……
目尻に浮かぶ涙を、ぎゅっと目を瞑って誤魔化し、痛む腕を擦る。そんな私の様子を、乱れてふわりと持ち上がったフードの下から眺めていた無口は、徐にそれを引いて目深に被りなおした。
無口の体が一歩、遠のく。
「じゃあね」
白い衣の裾を翻し、ひらりと桟を乗り越えると、彼は一度も振り返ることなく去っていった。
「そ。ずっと受けてなかったから。そろそろ動かないと、せっかく売り出した名を忘れられちゃ適わないからね。失敗して野垂れ死んでると思われるのも癪だし」
肩で切りそろえられた、真っ直ぐな金の髪が背に下ろされたフードの上を滑る。目をすっぽりと覆い隠す前髪の隙間から、薄い青色の瞳が覗いていた。
レーヴィという蓑が被れなくなってから、男は下っ端の神官にその身分を変えて姿を見せるようになっていた。男が現れるタイミングは様々で、大抵は今日と同じように窓から部屋へ、鍵を破って勝手に侵入し、私の肝を潰してくれるのだが、時には同僚として堂々と神殿にやってきて、共に仕事をこなして帰る事もあった。ずっと王都近くにいるようだから、暗殺家業も随分と暇なものだ。平和でよろしい。と迷惑ながらもどこか安堵していたのだが、どうやら本格的に復職する気になったらしい。
「はあ、そちらの業界も色々と大変なんですね」
アイラが入れてくれた食後の熱いお茶をずずっとすすり、気の無い相槌を打てば、横から伸ばされた手がひょいとカップを掠め取った。
「相変わらずアイラが入れてくれるお茶は美味しいね」
奪い取ったお茶を口に含んで、目の前の男は満足そうに笑んだ。
ほんのりとしたお茶の温もりを残す空の手を見つめて、私は眉を寄せる。
「知ってた? マリヤッタがレーヴィだった僕に入れてくれるお茶は飲めたもんじゃなかったんだよ。よっぽどレーヴィがあんたに近づくのが気に入らなかったんだろうねえ。なにせ、あんた僕に首ったけだったし?」
私は頬を引き攣らせながら唇を吊り上げた。
「ええ全くそのとおり。私はレーヴィさんに夢中でしたからね。お人よしで、善良で、ちょっと野暮ったいレーヴィさんにね!」
誰か今からでも本物を連れてきてくれないかな。等という考えがこの半年の間、幾度頭をよぎったことか。
「どうだかね。あんな人がいいだけの男。実際に会ったら一時間で飽きるよ」
それは自分だけでしょうよ。
男は気だるげに首を回すと、片手を突き上げて伸びをする。
「さあてと、そろそろ行こうかな。寒いのは嫌いなんだけどなあ。せっかく春になると思ったのに僕だけ冬に逆戻りだよ」
「え? どこへ行くんですか?」
無口の仕事のことなど、関心もないし、知らないに越したことはないのに、冬に逆戻りという台詞に興味をひかれて、つい疑問が口を衝いてしまった。
「キュイ――――銀の狼が支配する雪に閉ざされたところさ」
「キュイですか」
十数年前まで、シルヴァンティエと小競り合いを繰り返していたという、北の国境を接する国だったか。ここシルヴァンティエの王都キノスでは、もうすっかり雪解けを迎えたというのに……。
確かにせっかく迎えた春に背を向けて、寒い北へ向かわなければならないとなると気が滅入るかもしれない。
それにしても、銀の狼とはさすが魔法が存在する世界。ファンタジックで恐れ入る。一体どんな姿をしているのだろうか?
私はふと、一面の銀世界に君臨する孤高の狼に思いを馳せた。木々の枝には雪が重なり、まるで光輝く白い葉を茂らせているように見える。エメラルドグリーンの湖面は厚い氷に覆われ、魚達が短く遅い春を待ち望んでいる。月光を受けてきらきらと光る粉雪の舞う真っ白な丘に、静かに佇む銀の毛皮を纏う狼。幻想的だな。
「銀狼をね、一匹仕留めにいくのさ。ああ、楽しみだな」
さっきまで狼が立っていた雪原にぱっと鮮血が広がった。
うっとりと目を細める無口に私は全身全霊で引いた。
「狩人の真似事もするんですか?」
「狩人? まあ、そんなとこかもね」
無口は空になったカップを私の目の前に置かれた皿の上に置く。
「まあ、そんなわけだから。あんたが帰る日には間に合わないかもしれないな」
そうか。もうそんな時期か。指折り数えて待っていたはずのその日がいざ近づくと、私は段々と残りの日数を気にしなくなっていた。……気にしないようにしていた。
「そうですか。それじゃあ、お元気で」
立ち上がって、真っ白な神官服の上に羽織った白いローブを被った無口に、私は笑顔を向けた。こいつが元気じゃないほうが世のため人のためなのだろうが、今度こそ、本当に、絶対に、確実に、最後なのだと思えばそれなりに感慨深いものである。
「うん、あんたもね」
振り返った無口の顔は、フードと長く伸びた前髪に遮られて見えない。
窓から差し込む光を背に、無口は私へ歩み寄る。
つっと無口の指が顎先に伸ばされた。そのまま少しかさついた長い指が私の顔を持ち上げ……る前に渾身の力でもって叩き落とした。
「今度は何を飲ませる気ですか」
ぷっと可笑しそうに噴出す無口を睨み付けて、素早く後退る。
「やだなあ。今日は何も含んでないよ。お別れのキスぐらいさせてくれてもいいじゃない。流石に別の世界に逃げられたんじゃあ、追いかけようがないしね」
と言って無口は唇の端を上げた。
「キスはもう十分嫌になるくらい味わわせていただきましたから」
丁重に辞退したというのに、無口は「そう?」と首を傾げると、せっかく作った間を一瞬で詰めて、ぐいっと私の右手を捕った。
「くっ」
相変わらず容赦のない力に手首がきしむ。
眉を顰めて、つんのめりそうになった体を立て直そうとした次の瞬間、腕の内側に生暖かいものが這い、さらに薄く堅い何かが肌に立てられた。
「ひっ」
臀部から首まで背筋を伝って一気に震えが走り抜ける。全身がぞわぞわと粟立った。
舐められて、噛まれた。
そう理解して、悪寒が全身を包む。
「結局、異界の味も分からず仕舞いか。残念だな」
「いっ……つっ。ちょっと! いい加減に離してくださいよ。噛み千切る気ですか!」
もう一噛みとばかりに噛み付いた無口の歯が食い込み、私はたまらず悲鳴をあげた。アイラに聞こえたら心配をかけてしまうとか、その結果イサークにばれたら気まずいとか、色々と考える事もあるが、今にも肌を突き破らんとするするどい歯にぞっとして耐えられなかった。カニバリズムなんて冗談じゃない!
「大げさだね」
最後にぺろりと舐められて、ようやく放された腕にはきっちりと鬱血の跡があった。今が長袖の季節で良かった……
目尻に浮かぶ涙を、ぎゅっと目を瞑って誤魔化し、痛む腕を擦る。そんな私の様子を、乱れてふわりと持ち上がったフードの下から眺めていた無口は、徐にそれを引いて目深に被りなおした。
無口の体が一歩、遠のく。
「じゃあね」
白い衣の裾を翻し、ひらりと桟を乗り越えると、彼は一度も振り返ることなく去っていった。
10
お気に入りに追加
74
あなたにおすすめの小説
小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話
矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」
「あら、いいのかしら」
夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……?
微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。
※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。
※小説家になろうでも同内容で投稿しています。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?
すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。
翔馬「俺、チャーハン。」
宏斗「俺もー。」
航平「俺、から揚げつけてー。」
優弥「俺はスープ付き。」
みんなガタイがよく、男前。
ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」
慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。
終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。
ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」
保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。
私は子供と一緒に・・・暮らしてる。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
翔馬「おいおい嘘だろ?」
宏斗「子供・・・いたんだ・・。」
航平「いくつん時の子だよ・・・・。」
優弥「マジか・・・。」
消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。
太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。
「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」
「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」
※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。
※感想やコメントは受け付けることができません。
メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。
一宿一飯の恩義で竜伯爵様に抱かれたら、なぜか監禁されちゃいました!
当麻月菜
恋愛
宮坂 朱音(みやさか あかね)は、電車に跳ねられる寸前に異世界転移した。そして異世界人を保護する役目を担う竜伯爵の元でお世話になることになった。
しかしある日の晩、竜伯爵当主であり、朱音の保護者であり、ひそかに恋心を抱いているデュアロスが瀕死の状態で屋敷に戻ってきた。
彼は強い媚薬を盛られて苦しんでいたのだ。
このまま一晩ナニをしなければ、死んでしまうと知って、朱音は一宿一飯の恩義と、淡い恋心からデュアロスにその身を捧げた。
しかしそこから、なぜだかわからないけれど監禁生活が始まってしまい……。
好きだからこそ身を捧げた異世界女性と、強い覚悟を持って異世界女性を抱いた男が異世界婚をするまでの、しょーもないアレコレですれ違う二人の恋のおはなし。
※いつもコメントありがとうございます!現在、返信が遅れて申し訳ありません(o*。_。)oペコッ 甘口も辛口もどれもありがたく読ませていただいてます(*´ω`*)
※他のサイトにも重複投稿しています。
【完結】帰れると聞いたのに……
ウミ
恋愛
聖女の役割が終わり、いざ帰ろうとしていた主人公がまさかの聖獣にパクリと食べられて帰り損ねたお話し。
※登場人物※
・ゆかり:黒目黒髪の和風美人
・ラグ:聖獣。ヒト化すると銀髪金眼の細マッチョ
先生!放課後の隣の教室から女子の喘ぎ声が聴こえました…
ヘロディア
恋愛
居残りを余儀なくされた高校生の主人公。
しかし、隣の部屋からかすかに女子の喘ぎ声が聴こえてくるのであった。
気になって覗いてみた主人公は、衝撃的な光景を目の当たりにする…
隣の席の女の子がエッチだったのでおっぱい揉んでみたら発情されました
ねんごろ
恋愛
隣の女の子がエッチすぎて、思わず授業中に胸を揉んでしまったら……
という、とんでもないお話を書きました。
ぜひ読んでください。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる