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第二部 三流調剤師と真紅の印
03
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護衛の任務で街の外に出ているキーラン達の帰りは夜になる。
私は昨日採取した薬草の入った鞄を肩からかけ、調剤の師匠の家へ向かっていた。ラグナルと手を繋ぎながら。
「あのー、ラグナル。やっぱりこの約束は……」
すれ違う街の人々の中に、薬剤師仲間の顔を見つけて、火が出そうだ。
目を剥いてからニヤリと口の端を上げるところをはっきり見てしまった。きっと明日には彼女の口から他の調剤師仲間に広まっているだろう。
ラグナルは最早視線を寄越すこともなく、代わりにぎゅっと繋いだ指に力がこめられる。
「反故にする必要性を感じないと言っただろう」
いやいや、必要性だらけでしょ……
そうは思ったものの、朝のように反論する気概は最早ない。道ゆく人々の視線を気にすることもなく堂々と顔を上げて歩くラグナルの隣で、私は幾度目とも知れないため息を吐いた。
緑の屋根の小ぎれいな家。取り立てて立派な見た目をしているわけではないが、厚みのあるオーキの木の扉は見るものが見れば一品だとわかるだろう。
「こんにちはー」
声を上げながら、家主の返事も待たずに扉を押し開いた。
カランと戸に吊るされた鐘が鳴り、来客を知らせる。
家主の気配はない。
しかし、気にせずに中に入ると、細かく仕切られた棚に昨日採ったばかりの薬草を仕分けてしまっていく。
ここはロフォカレの専属調剤師である師匠の家だ。師事して一年。勝手知ったるものである。
「薬草の匂いがきついな。ここは、調剤師の家か?」
家に入ってからようやっと手を離してくれたラグナルが隣でつぶやいた。
見上げれば微かに顔をしかめている。
その様子を見て、私は軽く慄いた。
なぜなら、この部屋は処理前の、それも比較的安価な薬を一時保管する棚が置いてあるだけで、薬を挽く薬研や煮込む鍋が置いてあるわけでもないし、それらの処理をする場所でもない。
つまり、顔をしかめなければならないほどきつい匂いなどしないのだ。人間には。
ダークエルフであるラグナルの魔力は人間のそれとは比べものにならないほど豊富だ。身体能力も素晴らしい。そのうえ嗅覚まで優れているなんて……
思わず服の襟元を引っ張って自分の臭いを嗅いだ。女性なら今の私の気持ちを理解できるだろう。なにせ今日は嫌な汗をかきっぱなしである。
――特に臭わない。
私にはだけど。
安心していいのかどうか、不安な気持ちで襟を離して顔をあげると、ばっちりラグナルと目が合った。
不思議そうに首をかしげるラグナル。
しかしすぐに私の行動の意味に思い当たったらしい。
微かに唇の端を釣り上げる。
「ダークエルフの嗅覚は人間とは違う」
言いながら、ラグナルは私に向かって足を踏み出した。
思わず後じさるものの、背中が薬棚にあたる。
後ろは棚、左隣は壁、前には近づいてくるラグナル。ならば右だと足を伸ばす寸前、一足早く距離を詰めたラグナルが体を屈めた。まさに逃げようと思っていた右手をゆるく波打つ銀の髪が遮る。
一年前よりも長くなった毛先が首筋を滑った。
くんっと鼻を鳴らす音が鼓膜に届く。
いっそ気を失ってしまえたらいいのにと馬鹿な考えが頭を過る。が、中途半端に図太い自分がそんな器用な真似を出来ないことはよくわかっていた。
二、三度、息を吸う音が聞こえたかと思うと、はぁという呼気と共に、熱い息がかかる。
「イーリスは出会った時からずっと、薬草の匂いがする」
まさか、ずっと臭いと思われていたなんて。
女心を抉る衝撃の事実だ。
失礼なと怒ればいいのか、調剤師なんだから当然でしょうと開き直ればいいのか。混乱と羞恥で呆然としていると、またくんと鼻を鳴らす音。
「いい匂いだ」
それは、薬草の匂いが好きということ? それとも……
かっと頰が熱くなる。
もはや頭はまともに回らない。
微動だにできないでいると褐色の指先が熱を持った頰に触れた。
それは感触を楽しむように何度か頰の上をすべったあと、顎へと移動する。
「イーリス」
大人になったラグナルの声はいけない。
声変わりを迎えたあとは、ぐっと低音になって大人っぽさをもっていたが、それでも一年前の声にはまだ幼さが残っていた。それが、今や完全に男のものになっているのだ。
「イーリス」
再び名を呼ばれたと思ったら、指先が顎を持ち上げる。
顔を上向かせられることになった私の視線がラグナルの黒い瞳と重なった。
ラグナルの顔は思っていたよりずっと近くにあった。
初めて森で会ったときは天使のように可愛らしかったのに、今はどちらかといえば人間を誘惑する美貌の悪魔といったほうがしっくりくる。
淡い銀の髪とは対照的にどこまでも黒い瞳。
吸い込まれるように、ラグナルの瞳をながめていると、つり気味の鋭い眦が緩んだ。近くにある顔がさらに近づいてくる。
ラグナルの呼気と私のそれが混じり合う。鼻先が触れ、ラグナルが微かに顔を傾ける。
その瞬間、パシン!と小気味いい音が響いて、ラグナルの頭が傾いだ。
「人の家でなにやってんだい。このエロエルフが!」
私は昨日採取した薬草の入った鞄を肩からかけ、調剤の師匠の家へ向かっていた。ラグナルと手を繋ぎながら。
「あのー、ラグナル。やっぱりこの約束は……」
すれ違う街の人々の中に、薬剤師仲間の顔を見つけて、火が出そうだ。
目を剥いてからニヤリと口の端を上げるところをはっきり見てしまった。きっと明日には彼女の口から他の調剤師仲間に広まっているだろう。
ラグナルは最早視線を寄越すこともなく、代わりにぎゅっと繋いだ指に力がこめられる。
「反故にする必要性を感じないと言っただろう」
いやいや、必要性だらけでしょ……
そうは思ったものの、朝のように反論する気概は最早ない。道ゆく人々の視線を気にすることもなく堂々と顔を上げて歩くラグナルの隣で、私は幾度目とも知れないため息を吐いた。
緑の屋根の小ぎれいな家。取り立てて立派な見た目をしているわけではないが、厚みのあるオーキの木の扉は見るものが見れば一品だとわかるだろう。
「こんにちはー」
声を上げながら、家主の返事も待たずに扉を押し開いた。
カランと戸に吊るされた鐘が鳴り、来客を知らせる。
家主の気配はない。
しかし、気にせずに中に入ると、細かく仕切られた棚に昨日採ったばかりの薬草を仕分けてしまっていく。
ここはロフォカレの専属調剤師である師匠の家だ。師事して一年。勝手知ったるものである。
「薬草の匂いがきついな。ここは、調剤師の家か?」
家に入ってからようやっと手を離してくれたラグナルが隣でつぶやいた。
見上げれば微かに顔をしかめている。
その様子を見て、私は軽く慄いた。
なぜなら、この部屋は処理前の、それも比較的安価な薬を一時保管する棚が置いてあるだけで、薬を挽く薬研や煮込む鍋が置いてあるわけでもないし、それらの処理をする場所でもない。
つまり、顔をしかめなければならないほどきつい匂いなどしないのだ。人間には。
ダークエルフであるラグナルの魔力は人間のそれとは比べものにならないほど豊富だ。身体能力も素晴らしい。そのうえ嗅覚まで優れているなんて……
思わず服の襟元を引っ張って自分の臭いを嗅いだ。女性なら今の私の気持ちを理解できるだろう。なにせ今日は嫌な汗をかきっぱなしである。
――特に臭わない。
私にはだけど。
安心していいのかどうか、不安な気持ちで襟を離して顔をあげると、ばっちりラグナルと目が合った。
不思議そうに首をかしげるラグナル。
しかしすぐに私の行動の意味に思い当たったらしい。
微かに唇の端を釣り上げる。
「ダークエルフの嗅覚は人間とは違う」
言いながら、ラグナルは私に向かって足を踏み出した。
思わず後じさるものの、背中が薬棚にあたる。
後ろは棚、左隣は壁、前には近づいてくるラグナル。ならば右だと足を伸ばす寸前、一足早く距離を詰めたラグナルが体を屈めた。まさに逃げようと思っていた右手をゆるく波打つ銀の髪が遮る。
一年前よりも長くなった毛先が首筋を滑った。
くんっと鼻を鳴らす音が鼓膜に届く。
いっそ気を失ってしまえたらいいのにと馬鹿な考えが頭を過る。が、中途半端に図太い自分がそんな器用な真似を出来ないことはよくわかっていた。
二、三度、息を吸う音が聞こえたかと思うと、はぁという呼気と共に、熱い息がかかる。
「イーリスは出会った時からずっと、薬草の匂いがする」
まさか、ずっと臭いと思われていたなんて。
女心を抉る衝撃の事実だ。
失礼なと怒ればいいのか、調剤師なんだから当然でしょうと開き直ればいいのか。混乱と羞恥で呆然としていると、またくんと鼻を鳴らす音。
「いい匂いだ」
それは、薬草の匂いが好きということ? それとも……
かっと頰が熱くなる。
もはや頭はまともに回らない。
微動だにできないでいると褐色の指先が熱を持った頰に触れた。
それは感触を楽しむように何度か頰の上をすべったあと、顎へと移動する。
「イーリス」
大人になったラグナルの声はいけない。
声変わりを迎えたあとは、ぐっと低音になって大人っぽさをもっていたが、それでも一年前の声にはまだ幼さが残っていた。それが、今や完全に男のものになっているのだ。
「イーリス」
再び名を呼ばれたと思ったら、指先が顎を持ち上げる。
顔を上向かせられることになった私の視線がラグナルの黒い瞳と重なった。
ラグナルの顔は思っていたよりずっと近くにあった。
初めて森で会ったときは天使のように可愛らしかったのに、今はどちらかといえば人間を誘惑する美貌の悪魔といったほうがしっくりくる。
淡い銀の髪とは対照的にどこまでも黒い瞳。
吸い込まれるように、ラグナルの瞳をながめていると、つり気味の鋭い眦が緩んだ。近くにある顔がさらに近づいてくる。
ラグナルの呼気と私のそれが混じり合う。鼻先が触れ、ラグナルが微かに顔を傾ける。
その瞬間、パシン!と小気味いい音が響いて、ラグナルの頭が傾いだ。
「人の家でなにやってんだい。このエロエルフが!」
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