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三流調剤師と森の落し物
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腕の中でラグナルの体が強張る。
抱きしめられるのに慣れていないのかもしれない。ふとそんな風に思った。
昔、まだ私の年が片手で足りる子供だったころ、初めて兄に抱きしめられた時の自分と同じ反応だったから。
心細くて不安でたまらなかったはずなのに、温かい体に安心して、それが離れていくのが辛くて、もっと、と強請った。
そうしたら確か――超絶に嫌そうな顔をされたのだ。
うっかり出来心で優しく接したら、思いのほか懐かれて海の底より深く後悔した。あれはそんな顔だった。
忘れもしない、子供心にも傷ついた出来事だ。というか、子供だったから傷ついたのだ。あの兄に抱擁をねだるとか、思い出すだけで身震いするような黒歴史である。
そういえばあの時、兄は嫌そうな顔をして私を引き剥がしたあと、こう言った。
『知ってるかい? イーリス。夜行性の生き物はね、視力の代わりに聴力が優れているんだよ。だから彼らに出会ったら耳を潰してやればいい』
そうして徐ろに立ち上がると、飾り棚から皿を一枚取り出し、思い切り床に叩きつけて割った。そのすぐあとに、床下から聞こえた物音は、動物が立てたものではなかったけれど。
ふと、ひっかかるものを感じた。
――夜行性?
私はラグナルを抱きしめたまま振り返って狒々神を見た。障壁の中で長い爪を振り回し暴れている。その赤錆色の毛に覆われた長い耳。
もしかしたら……。いや、間違いない。
「ラグナル。後ろを振り向かないで思いっきり走るんだよ。ラグナルが救援を呼んできてくれるのを待ってるから。――あいつをやっつけて帰ったら、一緒に美味しいご飯食べよう」
障壁には既に無数の罅が入っている。急がなければ。
「約束?」
「うん、約束」
体を離し、ラグナルの黒い瞳を覗き込みながら、ゆっくりと告げる。
ラグナルは目の淵に溜まり始めた涙を、ごしごしと手の甲でこすると「わかった」と頷いた。
私は立ち上がり、ラグナルを後ろ手に隠しながら川から離れ、木々の方へと移動した。狒々神に見えているかはわからないが、念のためだ。
ラグナルの体が藪の中に消えたのを確認し、辺りの葉を見渡す。運良くモッキの葉を見つけ、いくつかむしり取ると、揉みながら川に移動し水に浸した。モッキの葉は水分を含むと繊維が膨らみ弾力が出る。それを四つに分けながら、狒々神を取り囲むロフォカレの皆のもとに近づいた。
「おい、イーリスさん、逃げろって言っただろ。あんたを守る余裕はないぞ。残られたって足手まといなんだよ!」
私に気づいたウォーレスが咎めたてる。
「ラグナルに救援を呼ぶように頼んだから。それより、はい、これ耳に詰めて」
丸めたモッキの葉をウォーレスに二つ投げて渡す。
「なんだよ、これ」
問いを無視して、障壁が破かれた瞬間に備え、剣を構えているキーランに歩み寄る。
「キーラン、これを耳に」
キーランが横目でちらりと私を見た。
「耳栓です」
訝しげな表情を見せたのは一瞬だった。すぐに視線を狒々神に戻す。
「生憎手が離せん。詰めてくれ」
私はキーランの耳にモッキの葉を詰め込みながら、話し始める。
「ルツ、ノア。殺傷力はゼロか最低限に抑えて。あいつの周りでなるべく大きな破裂音を立てて」
イーの一族の元を離れ、ここに来るまでの間にいくつもの地を通り過ぎた。その道中、あれは確かケーラの街外れだったか、魔術師が畑に群がる野鳥を追い払うのを見たことがある。魔術師は鼓膜が破れそうなほどの轟音をたてて、一切傷つけることなく、鳥たちを散らせていた。
「なーるほどー。大きな耳だもんねぇ。キーラン、痛かったらごめんねぇ」
ノアがにやりと笑う。その額には大量の汗。
ルツは声を出すのも辛そうだ。こくりと頷いて了承を示す。
「破られるよ! お姉さんは下がってて!」
ノアの言葉と同時に私は茂みに飛び込んだ。パリンと乾いた音がする。次の瞬間から聞こえる耳を塞ぎたくなるような破裂音の嵐。
――ルツとノアの分も用意しとくべきだったか……
茂みから顔を覗かせると、ルツとノアは素早く狒々神から距離を取りながら、途切れさせることなく術を放っていた。爆音に包まれる狒々神に、キーランが突っ込み鋭い斬撃を繰り出している。音が弾けるたびに狒々神の体が微かに傾ぐ。キーランはその隙を逃さず、踏み込み切りつけた。が、どれも致命傷には程遠い。狒々神が素早すぎるのだ。
ちなみに、破裂音がするたびに、狒々神の近くにいるキーランには小さな傷ができていた。
ケーラの街の魔術師は全く鳥を傷付けていなかったが、どうやらルツとノアの術では無理だったらしい。「痛かったらごめんねぇ」って言ってたもんな……
足を痛めたウォーレスはキーランと狒々神の動きについていくことができず、ノアの傍に張り付いていた。いざとなったら彼を庇うつもりなのだろう。
つい彼らの勇姿に見入ってしまったが、こうしてはいられない。私には私のできることをしなければ。
キーランの傷薬と、それからウォーレスの足の痛み止め。ルツとノアの疲労回復薬。なんでもいい。彼らのための薬を探して調合する。
調剤の道具も何もなしに、私の技術でどこまで出来るかは疑問だけど……
抱きしめられるのに慣れていないのかもしれない。ふとそんな風に思った。
昔、まだ私の年が片手で足りる子供だったころ、初めて兄に抱きしめられた時の自分と同じ反応だったから。
心細くて不安でたまらなかったはずなのに、温かい体に安心して、それが離れていくのが辛くて、もっと、と強請った。
そうしたら確か――超絶に嫌そうな顔をされたのだ。
うっかり出来心で優しく接したら、思いのほか懐かれて海の底より深く後悔した。あれはそんな顔だった。
忘れもしない、子供心にも傷ついた出来事だ。というか、子供だったから傷ついたのだ。あの兄に抱擁をねだるとか、思い出すだけで身震いするような黒歴史である。
そういえばあの時、兄は嫌そうな顔をして私を引き剥がしたあと、こう言った。
『知ってるかい? イーリス。夜行性の生き物はね、視力の代わりに聴力が優れているんだよ。だから彼らに出会ったら耳を潰してやればいい』
そうして徐ろに立ち上がると、飾り棚から皿を一枚取り出し、思い切り床に叩きつけて割った。そのすぐあとに、床下から聞こえた物音は、動物が立てたものではなかったけれど。
ふと、ひっかかるものを感じた。
――夜行性?
私はラグナルを抱きしめたまま振り返って狒々神を見た。障壁の中で長い爪を振り回し暴れている。その赤錆色の毛に覆われた長い耳。
もしかしたら……。いや、間違いない。
「ラグナル。後ろを振り向かないで思いっきり走るんだよ。ラグナルが救援を呼んできてくれるのを待ってるから。――あいつをやっつけて帰ったら、一緒に美味しいご飯食べよう」
障壁には既に無数の罅が入っている。急がなければ。
「約束?」
「うん、約束」
体を離し、ラグナルの黒い瞳を覗き込みながら、ゆっくりと告げる。
ラグナルは目の淵に溜まり始めた涙を、ごしごしと手の甲でこすると「わかった」と頷いた。
私は立ち上がり、ラグナルを後ろ手に隠しながら川から離れ、木々の方へと移動した。狒々神に見えているかはわからないが、念のためだ。
ラグナルの体が藪の中に消えたのを確認し、辺りの葉を見渡す。運良くモッキの葉を見つけ、いくつかむしり取ると、揉みながら川に移動し水に浸した。モッキの葉は水分を含むと繊維が膨らみ弾力が出る。それを四つに分けながら、狒々神を取り囲むロフォカレの皆のもとに近づいた。
「おい、イーリスさん、逃げろって言っただろ。あんたを守る余裕はないぞ。残られたって足手まといなんだよ!」
私に気づいたウォーレスが咎めたてる。
「ラグナルに救援を呼ぶように頼んだから。それより、はい、これ耳に詰めて」
丸めたモッキの葉をウォーレスに二つ投げて渡す。
「なんだよ、これ」
問いを無視して、障壁が破かれた瞬間に備え、剣を構えているキーランに歩み寄る。
「キーラン、これを耳に」
キーランが横目でちらりと私を見た。
「耳栓です」
訝しげな表情を見せたのは一瞬だった。すぐに視線を狒々神に戻す。
「生憎手が離せん。詰めてくれ」
私はキーランの耳にモッキの葉を詰め込みながら、話し始める。
「ルツ、ノア。殺傷力はゼロか最低限に抑えて。あいつの周りでなるべく大きな破裂音を立てて」
イーの一族の元を離れ、ここに来るまでの間にいくつもの地を通り過ぎた。その道中、あれは確かケーラの街外れだったか、魔術師が畑に群がる野鳥を追い払うのを見たことがある。魔術師は鼓膜が破れそうなほどの轟音をたてて、一切傷つけることなく、鳥たちを散らせていた。
「なーるほどー。大きな耳だもんねぇ。キーラン、痛かったらごめんねぇ」
ノアがにやりと笑う。その額には大量の汗。
ルツは声を出すのも辛そうだ。こくりと頷いて了承を示す。
「破られるよ! お姉さんは下がってて!」
ノアの言葉と同時に私は茂みに飛び込んだ。パリンと乾いた音がする。次の瞬間から聞こえる耳を塞ぎたくなるような破裂音の嵐。
――ルツとノアの分も用意しとくべきだったか……
茂みから顔を覗かせると、ルツとノアは素早く狒々神から距離を取りながら、途切れさせることなく術を放っていた。爆音に包まれる狒々神に、キーランが突っ込み鋭い斬撃を繰り出している。音が弾けるたびに狒々神の体が微かに傾ぐ。キーランはその隙を逃さず、踏み込み切りつけた。が、どれも致命傷には程遠い。狒々神が素早すぎるのだ。
ちなみに、破裂音がするたびに、狒々神の近くにいるキーランには小さな傷ができていた。
ケーラの街の魔術師は全く鳥を傷付けていなかったが、どうやらルツとノアの術では無理だったらしい。「痛かったらごめんねぇ」って言ってたもんな……
足を痛めたウォーレスはキーランと狒々神の動きについていくことができず、ノアの傍に張り付いていた。いざとなったら彼を庇うつもりなのだろう。
つい彼らの勇姿に見入ってしまったが、こうしてはいられない。私には私のできることをしなければ。
キーランの傷薬と、それからウォーレスの足の痛み止め。ルツとノアの疲労回復薬。なんでもいい。彼らのための薬を探して調合する。
調剤の道具も何もなしに、私の技術でどこまで出来るかは疑問だけど……
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