団地狂詩曲

紅粉 藍

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第一章 5号棟505号室

11―願いを失うと云うこと即ち

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 翌朝――――。
 ミヤは気になることがあって、早朝の新聞配達の途中にくだんの運動場へ寄った。気になることというのは、もちろんゴッちゃんのその後の安否だ。
 まだ数部の朝刊がカゴに残る自転車を、運動場のフェンス脇に停めた。
「やっぱり扉は壊れたまんまだな……当たり前か。ゴッちゃんがバイクでブッ飛ばして、俺が折っちまったから」
 二つ折りにされた扉は、見つけた誰かが団地の管理室に既に通報したのか見当たらなかった。
 いびつな蝶番だけが残された出入り口をくぐる。運動場の真ん中にゴッちゃんの姿は無かった。
「よかった……生きてんだな」
 とりあえずミヤは一安心する。
 しかし、運動場に刻まれた大型バイクのタイヤ跡。ゴッちゃんが身に着けていた大袈裟なサングラス。ミヤがホームランしたヘルメットの破片など。わずかではあるが戦いの痕跡は生々しく、ミヤの記憶を揺さぶった。
「バイクも無ぇってことは、ちゃんと家帰ったってことだよな?」
 運動場にぽつんと残されていた割れたサングラス。拾い上げるとツタが曲がっていた。
 たまに自分の強すぎる身体能力が恨めしくなる。
 特に、昨日の戦いではまるで豆腐を握り潰すかごとく、軽々とゴッちゃんの身体を破壊していっていた。もうちょっと壊そうと思えば、ミヤの拳は従順に命も奪っただろう。
 ぷらん、と頼りないサングラスのツタを丁寧に畳んで、ポケットにしまった。
「そういえば、昨日聞こえた変な音。あれは……鈴の音、か?」
 鈴の音と言えば、一昨日の奇妙な部屋だ。
 竹誓曰く、あれがマツリへの参加権の証らしいが……あの洗礼をゴッちゃんも受けたということだろうか。
 鈴の音が大きくなるにつれて、『いけ』『やれ』と囃し立てられてるように胸の内がぞわぞわして、浮足立つような万能感。脳は沸騰していくのに、体は冷えていく反比例の快感。焚きつけられて、途中で自分が自分でなくなるような奇妙な没入感を覚えている。
「……変に気持ちがアッパーに持ってかれる感じ。きっとあれに負けちゃいけねえんだ……」
 血の色に変わった地面の瞬間を思い出す。
 流れ出て行った色彩を思い出す。
 ミヤはゆっくりと運動場に跪き、夕闇に見送った色彩の行方を想った。
 


「お帰りなさい、仁人さん! ちょうど仁人さんの好きな卵焼きが出来上がったところですよ」
 ふわん、と漂う甘く香ばしい香りは、玄関を開ける前から感じていた。それがミヤの家に居座っている竹誓の卵焼きだと知って、改めてぐぅと腹が鳴る。
 そうだ。今はこの部屋に独りきりではなかったのだった。
「あれ、昨日は割烹着なんか着てたっけ?」
「ああ、これは私物です。制服、汚してはいけませんし」
「ふうん……」
 そういえば、竹誓には何のお構いもしてないな、と今更にしてミヤは気づく。もともと誰に対しても気を遣うようなたちではない。それだけに自分でもそんな気持ちが沸いてきたことが意外だった。
 居間に抜ける際に、小鉢にきんぴらごぼうが盛られているのを確認した。育ちざかり故、濃いめの味付けが好きだし、おさかなソーセージかちくわでも入ってるきんぴらの方がミヤの好みだ。そしてそれを心得た朝食が出来上がっていた。
「竹誓……朝飯ありがとな」
「いいえ、どういたしまして。これが私にできることですから。……って、はわわっ!? 初めて私の名前を呼んでくださいましたね……!?」
「はじめて、だったか」
「ええ、初めてですよ! なんということでしょう! 今日は『初めて名前を呼んでいただいた記念日』です!」
「んな大袈裟な」
 第一印象では日本人形のようだと思った。何を考えているかわからない、きれいすぎる顔つき。というか、何の話をしているのかそもその時は理解不能だったので、とっつきにくさは尋常のものではなかった。
 けれど、喜んでいる様は年頃の少女らしい。名前を呼んでやるだけで喜んでくれるなら、今は手元に何も無いミヤでも感謝の印としていくらでも寄越すことが出来る。ミヤの胸のつかえが、少し取れたような気がした。
「……いただきます」
「いただきます」
 手を合わせて、早速卵焼きを頬張る。
 ほくほくのふわふわで、じんわりとした甘みが頬を溶かしていく。これがあるから昨日の絶望からも立ち上がれた。未だその最中ではあるが。新しい絶望を得て、タダほど怖いものはない、という言葉を思い出してしまう。
「……どうしましたか、仁人さん?」
「いや……。そういえば配達の途中、運動場でゴッちゃんのサングラス拾った」
 こくんと味噌汁を飲み干して、竹誓は首を傾げた。
「それは、持ってきたのですか?」
「ああ、なんとなくそのままにしておけなくてな」
「して、それをどうするおつもりで?」
「一応落とし主に返すつもりだ」
「ゴッちゃんさんに?」
「そうだな」
 それ以外にこのサングラスの居場所は無いだろう。

 ――と、そのつもりだったのだが。
「なんだ、ミヤか。三年の校舎にまで何の用だ?」
 目の前に立つ大男はまぎれもなくゴッちゃん……のはず。だがしかし。
「ゴッちゃん……眼鏡なんかしてたっけか……?」
 理知的な印象を受けるメタルフレーム眼鏡をかけ、いつもの長ランではなく規定の学ランを着用。それに加えて、おそらくクラス分のノートを抱えていた。
「俺は眼鏡が無いと黒板の字が見えないくらい視力が悪いんだ」
 そう言いながらくい、と眼鏡のブリッジを押し上げる。
「これから数学準備室にノートを届けに行くんだが、用ならさっさとしてくれ」
「……?」
 何が起きているのか、とんとわからない。
 ミヤの知っているゴッちゃんは粗暴で口が汚く、大型バイクを校庭にまで乗り回し、多少の律義さはあるもののそれが舎弟たちには良いらしく、いつもいかつい仲間を引きつれていた。言うなれば古風な番長のような男だった。
 だがそんなゴッちゃん像からはかけ離れた真面目そうな大男は、ミヤを煙たそうにじろりと眺めている。あれほどミヤを倒すことにこだわっていた男がすような目ではない。覇気が感じられない。
「これが竹誓が言ってた、願いの記憶が消えるってやつか――」
 ミヤはやっと理解した。
「まだ昼食ってないんだ。休み時間内に先生に言われた用事は済ませたい」
「お、おう。えっと、これ、さ……ゴッちゃんに渡しとこうと思って」
 スラックスのポケットから、拾ったサングラスを取り出す。ミヤに出来る限りの丁寧さでしまっておいた、壊れたサングラスだ。ちり紙で包んでいた。
「これ? ……何だ、壊れてんじゃねえか。何だよこのサングラス?」
 ゴッちゃんは怪訝な表情だ。受け取ったちり紙を広げてしげしげとそれを大きな手のひらの上で眺めまわしている。
 その返答に、ああやはり、とミヤは思った。ゴッちゃんが失ったものは彼の中の正義漢だ。
 ミヤはぐっと眉をしかめてこらえると、へんてこな方向に口角が上がった。
「お前のだよ、忘れてんじゃねえ」
「これ、俺のか? ……そう言われれば、そうだった気もするが……」
 ここにいるゴッちゃんは、きっとゴッちゃん自身が望んでいなかった姿なのだ。受験生らしく勉学に励み、内申に響かぬよう教師の言う通りに雑務をこなし、そつなく受験も終えて、無事に高校生を卒業する……そんな優等生然とした男に、ゴッちゃんはなりたくなかったのだ。
 クソが――――!
 ゴッちゃんの口癖を、ミヤは心の中で叫んだ。



「ミーヤー?」
「……」
「なあって」
「……」
「飯食えよー? ハラ減ってねえの?」
「……減ってる」
「ほら、お前が好きな牛肉コロッケ! 母ちゃんが朝揚げたての入れてくれたんだぜー!」
「まあ、仁人さんはコロッケもお好きなんですか。ゲッツさん、レシピを教えてください!」
 三年生の校舎から帰って来たミヤはずっと押し黙ったまま。弁当を食べるでもなく、むすっとした顔で箸を掴んでいるだけの状態が続いていた。
「残念! うちのレシピは企業秘密なんだよォ~。教えられないけど、輝夜さんも牛肉コロッケ食ってみな!」
「では遠慮なく……ん~っ、牛肉の旨みとじゃがいもの甘みが美味です!」
「だしょ~っ!? うちの売れ筋だから、今度買ってってくれよな!」
「ええ、ぜひ! お店の地図はありますか?」
 その横ではゲッツと竹誓が惣菜談議に花を咲かせている。まるで主婦の井戸端会議である。
 その微妙な空気に耐えかねたのはヨロイだった。
「ミヤ、どうした? 何かあったのか?」
 こそっと声を掛けるのは、ヨロイなりの配慮だ。
「うんー……ヨロイは最近、鈴の音とか聞いた?」
「鈴の音? えーと、女子が鞄につけてるキーホルダーみたいなやつにくっついてたかな」
「そっか……」
「え、今の質問は何? どゆこと?」
 ヨロイが戸惑っている声がミヤの耳をすり抜けていく。
「いや、それならそれでいいんだ」
 あの鈴の音をヨロイが聞いていないなら、ヨロイの願いを奪わなくて済む。数少ない友達を殴って、諦めさせて――さっきのゴッちゃんのような目で自分を見てくることがないなら、それでいい。
「竹誓」
「はい、なんでしょうか。仁人さん」
 ゲッツが小さな声で「夫婦ごっこヤメロ」と呟く。
「俺はリョウを探すよ。……誰かの願いを打ち砕かなくてもいい方法を――痛めつけず勝つ方法を探す」
「それはご立派なことですが……リョウというのはどなたなんです? 確かゴッちゃんさんが幼少の頃のお話をされていた時にも、お名前が出てきましたね」
「ゴッちゃんと言えば!」
 ゲッツが立ち上がってミヤに訴えた。
「今日の朝からなんか気持ち悪ィんだよ! ゴッちゃんじゃねえみたいだった。眼鏡なんかかけちゃってさ。からかっても怒らないし」
「……竹誓、マツリはどこまでの人間に力が及ぶんだ?」
 思えば当然だが、ゲッツもゴッちゃんの異変に気付いている。ミヤは竹誓を見遣った。
「マツリの参加者のみです。ちなみにゲッツさん、ヨロイさんは参加者ではありません」
 竹誓は問いに答えながらも、ミヤの回答を目では催促していた。
 ミヤは竹誓の答えを聞いて、深く目を閉じる。
「リョウってのは、俺の物心ついた時から一緒にいてくれた――親友だ」
 ヨロイがああ、と納得したように頷いた。
「そういえば聞いたことあったな。確か名前は……」
星奈鈴王ほしな りょう
「あーそうそう、4号棟の星奈さん」
 だが、ゲッツは唇を突き出してむくれている。
「えー俺は知らねえな。引っ越しってった?」
「……結構前に。小学三年に上る前、だったかな」
「へー。で、そのリョウってヤツ探すの?」
 ミヤは目線を落として首肯する。
 探すと言っても、ミヤにもリョウの行方は分からなかった。かと言って、闇雲に聞き込みをしている時間は無さそうだ。
「だから、ゲッツとヨロイにもリョウを探すのを手伝ってほしい」
「うーん、まあ探すのはいいけど……急になんで?」
 もっともな質問だ。
 ヨロイはしかめ面で黙っていた。それに気付いたミヤも、つい俯いてしまう。
「そのリョウという方は沼落ぬまおち団地にはもういらっしゃらない、ということですか?」
「……」
「なあ、ヨロイは知ってるヤツなんだろ? 引っ越し先とか知らねえの?」
 下を向いてしまったミヤに、ヨロイは視線を投げかける。何も言わないことに徹しているのは、ミヤからの言葉を待っているからだ。それをミヤもよくわかっていた。
 少し間を置いて、ふうっと大きく息を吐き出した。ミヤがゆっくりとおもてを上げる。
「俺が――磨貫上水まぬきじょうすいに沈めた」
 金がほしい。
 それだけの願いで足を踏み入れたマツリというバトルロワイヤル。
 面倒なことになった。
 まさか己の歴史を掘り起こすことになるとは。
 埋まって見失ったまま、踏み固めた歴史だ。

『団地最強』――――
 誰が言い出したのか、その名は沼落の地だけならず、周囲近辺にまで轟く。
 しかしその肩書は輝かしいばかりの物ではない。
 そしてそれを自身である調つきのみや仁人じんとは知らない。
 沼落団地で最強を謳われるようになるまでに、どれほどの罪があったのか。
 最強に内包される意味を。
 虎視眈々とその崩御を狙っている、数多の視線を。
 傍若無人の正義をかざす宇和島吾太朗の牙城が崩れ去った今、団地最強を狩るもの達は動き出す。
 各々の憎悪、執着を胸に秘めて――。
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