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第一章 失くした鍵
第七節
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モミジは松葉の医院で定期検診を受けていた。一通りの流れを終えたのち、松葉はベッドで寝転ぶモミジと、それから目の前にあるディスプレイを交互に見て、そして言った。
「特に問題はなさそうですね」
「そうですか。ありがとうございます」
そわそわと時計を確認しながら、モミジは言った。どうせムムが何かしでかさないか、不安で仕方ないのであろう。松葉はモミジの様子に内心あざ笑いながらも表情に出すことはしない。心音を聞いていた器具をモミジから外して、ふと思い出したように聞く。
「娘さんたちの様子はどうです? 久しぶりに会えて喜んでいたでしょう?」
松葉の何気ない言葉に、モミジは胸が膨らむ心地がした。確かに喜んでくれていたと思う。しかし純粋な愛だけではなさそうだとそう感じていたのだ。特に、マミからは。
「……親子ってのは嫌なところばっかり似るんですかね」
「というと?」
「ユズさん……別れた妻に似てきたんですよ、娘が」
モミジにベッドから起き上がるように促した松葉は、心当たりなどないという風に首を傾げた。子供がいないからなのか、はたまた違う理由があるからなのか、松葉にはその感情が理解できないのだ。モミジはどうにか伝えようと懸命に口を開く。
「ユズさん、いえ別れた妻からも感じていた……なんていうんでしょうね、冷たい感情みたいなものが、伝わってくるんですよ。妻の場合は、その冷たさの中に優しさがあるような感じでしたが……なんといえば伝わるのか、瞳が冷たいといった方が正しいのかな? とにかくあまり純粋には育ってくれなかったみたいで」
ふむ、と松葉は顎に手を当てた。純粋に育つとは何なのかを一生懸命理解しようとしたのだ。
「健やかに育ってくれればどうだっていいんですが……しかし、どうなんでしょう? まだ中学生というのに、そんな知る必要のない感情を持っているのは……少し怖いなとも思ってしまうんですよ」
まだ中学生。
その言葉に、松葉は自身の中学生時代を思い出した。たくさんの思い出がある。中学生時代など瞬間に終わってしまったはずだというのに、しかしどういうわけか、たくさんの出来事が頭の中をぐるぐると回るのだ。ムムと出会ったのは小学生。そして、ムムが松葉以外の友人を自ら作ったのが中学生だ。彼女が過去を振り返るときは決まって高校時代だが、しかしきっと中学時代も小学時代も彼女の中では大切な思い出であるだろう。
「子供っていうのは親が知らないところで勝手に成長しているもんですよ」
松葉はそう言った。実体験でもあった。
「だからそう怯えないでもいいじゃありませんか。元奥さんのことも……愛していたんでしょう?」
「えぇ、まぁ。でもきっと……いえ。彼女を幸せにしてあげられたかどうか……」
「そんなことはないと思いますけど」
「いやいや本当ですよ。だって……そう、私が彼女を縛り付けてしまったんですから」
松葉は、どういう意味です? と聞こうとはしなかった。ある程度の仮説があったのだ。モミジとユズ。二人は当時高校生だった松葉の目から見て、とても危ない関係だった、ムムは一切気づいていなさそうだったが。モミジとしか会っていないムムがそう勘違いするのは無理ない。モミジの話だけ聞いていればおしどり夫婦にしか見えないからだ。妻を愛し、娘たちを愛しているモミジ。とても自然な、それでいて貴重な夫婦だ。
しかし松葉には分かっていた。彼ら夫婦は不安定だったのだ。
「今になってわかりますよ。ユズさん、別れた妻の気持ちが」
ふとモミジの口から後悔が漏れた。松葉はモミジをなだめるように声をゆっくりとかける。「つらかったでしょうね」
「つらかったのは私じゃなく、ユズさんです。好きでもない男と一度の、そう。たった一度の過ちで結婚することになってしまったんですから。本当に後悔しています」
結婚という自身が選んだ道を後悔していそうなモミジは続ける。
「だからこそ、娘二人には幸せになってほしい。私のように過ちを犯してほしくない。……こんなこと言うのはあれですけど、実は別れた妻のことなどどうでもいいのです。手紙をもらったすぐは彼女のことで頭がいっぱいになりました。まだ好きだったんですかね、なんとも言えない気分でした。でも、成長した娘たちと一緒に過ごしていると、そんなことどうでもいいと、そう思えてなりません。こんなこと知ったらきっとムムちゃんに怒られそうですけど」
モミジはふと、ムムと初めて出会ったときのことを思い出した。彼女はまだ高校生だった。
「怒りませんよ。ムムは人の幸せを願える人間です」
そう言いながら心の中で松葉は付け加えた。そして人の不幸も願える人間です、と。
「それにしてもムムちゃんも執着しますよね。……もう何年ですか?」
「……僕たちが高校三年生の頃なので……六年くらいですか」
「もうそんなにですか。妻がいなくなったのが五年前くらいですよ。時の流れは早い」
そう、時に残酷なまでに早いのだ。松葉はモミジの言葉に頷いた。
「あれからどうです? ムムちゃんは」
どういう意味で聞いたのだろう。松葉は考えて口を閉じた。
モミジは消防士として江ノで一番名が通っている。その理由としてあげられるのは、出会ったきっかけである火災事件だろう。そして探偵という夢を抱いて事件に首を突っ込もうとしていた高校生のムムに対して、モミジは当然のようにその夢を否定した。”君に探偵など無理だ”と。それはムムに対しての愛だっただろうが、それが逆にムムの探偵に対する憧れを助長する言葉になったことなどモミジは知らないだろう。
結果、ムムは夢叶え、探偵になった。
確かに、今のムムは明日生きていけるかどうかも怪しいほど生活に困窮している。松葉の援助がいなければもう死んでいるかもしれない。しかし松葉にはそれを止めることなどできないのだ。惚れた弱みと言ってもいい。とにかく、ムムは夢を自身の手でつかみ取ったのだ。
モミジの言葉に、呆れたような、諦めたような声色で松葉は笑った。
「更生していたらこの依頼は受けていないでしょうね」
「それもそうですね。……ムムちゃんも私と一緒で、後悔しているでしょうか?」
「……えぇ、まぁ」松葉は答えに困った。
ムムは後悔も、それから満足もしている。夜一人で泣くときもあるし、昨日のように久々の事件を前にして楽しそうに笑うムムもいる。どうにかしてあげたいと思うが、しかし自分では到底できはしない。
「……目を背けてはいけないんですよ。人の死ってのはね」
「……医者ならではですね。その言葉は」
モミジから言われて気づく。そうか、自分は医者なのだ。残念なことに松葉にはその自覚がなかった。
「長話はやめましょう。そろそろ娘さんたちもムムの相手に飽きてくる頃でしょうし」
松葉の優しさのかけらもない言葉にモミジは笑った。
「特に問題はなさそうですね」
「そうですか。ありがとうございます」
そわそわと時計を確認しながら、モミジは言った。どうせムムが何かしでかさないか、不安で仕方ないのであろう。松葉はモミジの様子に内心あざ笑いながらも表情に出すことはしない。心音を聞いていた器具をモミジから外して、ふと思い出したように聞く。
「娘さんたちの様子はどうです? 久しぶりに会えて喜んでいたでしょう?」
松葉の何気ない言葉に、モミジは胸が膨らむ心地がした。確かに喜んでくれていたと思う。しかし純粋な愛だけではなさそうだとそう感じていたのだ。特に、マミからは。
「……親子ってのは嫌なところばっかり似るんですかね」
「というと?」
「ユズさん……別れた妻に似てきたんですよ、娘が」
モミジにベッドから起き上がるように促した松葉は、心当たりなどないという風に首を傾げた。子供がいないからなのか、はたまた違う理由があるからなのか、松葉にはその感情が理解できないのだ。モミジはどうにか伝えようと懸命に口を開く。
「ユズさん、いえ別れた妻からも感じていた……なんていうんでしょうね、冷たい感情みたいなものが、伝わってくるんですよ。妻の場合は、その冷たさの中に優しさがあるような感じでしたが……なんといえば伝わるのか、瞳が冷たいといった方が正しいのかな? とにかくあまり純粋には育ってくれなかったみたいで」
ふむ、と松葉は顎に手を当てた。純粋に育つとは何なのかを一生懸命理解しようとしたのだ。
「健やかに育ってくれればどうだっていいんですが……しかし、どうなんでしょう? まだ中学生というのに、そんな知る必要のない感情を持っているのは……少し怖いなとも思ってしまうんですよ」
まだ中学生。
その言葉に、松葉は自身の中学生時代を思い出した。たくさんの思い出がある。中学生時代など瞬間に終わってしまったはずだというのに、しかしどういうわけか、たくさんの出来事が頭の中をぐるぐると回るのだ。ムムと出会ったのは小学生。そして、ムムが松葉以外の友人を自ら作ったのが中学生だ。彼女が過去を振り返るときは決まって高校時代だが、しかしきっと中学時代も小学時代も彼女の中では大切な思い出であるだろう。
「子供っていうのは親が知らないところで勝手に成長しているもんですよ」
松葉はそう言った。実体験でもあった。
「だからそう怯えないでもいいじゃありませんか。元奥さんのことも……愛していたんでしょう?」
「えぇ、まぁ。でもきっと……いえ。彼女を幸せにしてあげられたかどうか……」
「そんなことはないと思いますけど」
「いやいや本当ですよ。だって……そう、私が彼女を縛り付けてしまったんですから」
松葉は、どういう意味です? と聞こうとはしなかった。ある程度の仮説があったのだ。モミジとユズ。二人は当時高校生だった松葉の目から見て、とても危ない関係だった、ムムは一切気づいていなさそうだったが。モミジとしか会っていないムムがそう勘違いするのは無理ない。モミジの話だけ聞いていればおしどり夫婦にしか見えないからだ。妻を愛し、娘たちを愛しているモミジ。とても自然な、それでいて貴重な夫婦だ。
しかし松葉には分かっていた。彼ら夫婦は不安定だったのだ。
「今になってわかりますよ。ユズさん、別れた妻の気持ちが」
ふとモミジの口から後悔が漏れた。松葉はモミジをなだめるように声をゆっくりとかける。「つらかったでしょうね」
「つらかったのは私じゃなく、ユズさんです。好きでもない男と一度の、そう。たった一度の過ちで結婚することになってしまったんですから。本当に後悔しています」
結婚という自身が選んだ道を後悔していそうなモミジは続ける。
「だからこそ、娘二人には幸せになってほしい。私のように過ちを犯してほしくない。……こんなこと言うのはあれですけど、実は別れた妻のことなどどうでもいいのです。手紙をもらったすぐは彼女のことで頭がいっぱいになりました。まだ好きだったんですかね、なんとも言えない気分でした。でも、成長した娘たちと一緒に過ごしていると、そんなことどうでもいいと、そう思えてなりません。こんなこと知ったらきっとムムちゃんに怒られそうですけど」
モミジはふと、ムムと初めて出会ったときのことを思い出した。彼女はまだ高校生だった。
「怒りませんよ。ムムは人の幸せを願える人間です」
そう言いながら心の中で松葉は付け加えた。そして人の不幸も願える人間です、と。
「それにしてもムムちゃんも執着しますよね。……もう何年ですか?」
「……僕たちが高校三年生の頃なので……六年くらいですか」
「もうそんなにですか。妻がいなくなったのが五年前くらいですよ。時の流れは早い」
そう、時に残酷なまでに早いのだ。松葉はモミジの言葉に頷いた。
「あれからどうです? ムムちゃんは」
どういう意味で聞いたのだろう。松葉は考えて口を閉じた。
モミジは消防士として江ノで一番名が通っている。その理由としてあげられるのは、出会ったきっかけである火災事件だろう。そして探偵という夢を抱いて事件に首を突っ込もうとしていた高校生のムムに対して、モミジは当然のようにその夢を否定した。”君に探偵など無理だ”と。それはムムに対しての愛だっただろうが、それが逆にムムの探偵に対する憧れを助長する言葉になったことなどモミジは知らないだろう。
結果、ムムは夢叶え、探偵になった。
確かに、今のムムは明日生きていけるかどうかも怪しいほど生活に困窮している。松葉の援助がいなければもう死んでいるかもしれない。しかし松葉にはそれを止めることなどできないのだ。惚れた弱みと言ってもいい。とにかく、ムムは夢を自身の手でつかみ取ったのだ。
モミジの言葉に、呆れたような、諦めたような声色で松葉は笑った。
「更生していたらこの依頼は受けていないでしょうね」
「それもそうですね。……ムムちゃんも私と一緒で、後悔しているでしょうか?」
「……えぇ、まぁ」松葉は答えに困った。
ムムは後悔も、それから満足もしている。夜一人で泣くときもあるし、昨日のように久々の事件を前にして楽しそうに笑うムムもいる。どうにかしてあげたいと思うが、しかし自分では到底できはしない。
「……目を背けてはいけないんですよ。人の死ってのはね」
「……医者ならではですね。その言葉は」
モミジから言われて気づく。そうか、自分は医者なのだ。残念なことに松葉にはその自覚がなかった。
「長話はやめましょう。そろそろ娘さんたちもムムの相手に飽きてくる頃でしょうし」
松葉の優しさのかけらもない言葉にモミジは笑った。
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