きみの瞳に恋をしている

みつお真

文字の大きさ
上 下
40 / 50

8月の鹿児島

しおりを挟む
鴻上翔子は、汗ばんだ額をタオルで拭うと、深く息をついてドルフィンポート跡地を横目に、早朝の湾岸道路を走り抜けた。
知念正也の葬儀のあとで、鹿児島へ帰省したのは半ば思い付きで、鹿児島中央駅に到着すると、タクシーを拾って山の上の老舗旅館に一泊した。
どうしても、そのままの足で、母親に会う気にはなれなかったからだ。
都会の暮らしで学んだのは、早く歩くことと無関心を装うこと。
そうすれば、心を痛めずに済むと思っていた。
しかし、哲也の浮気と別れ、知念の自殺と瀬戸際大楽の心無い言動によって、翔子は憔悴しきっていた。
母親に会えば、きっと甘えてしまう。
余計な心配はかけたくないから、間をおくのは最善だと考えた。
宿に着いて露天風呂に浸かり、下着一枚で缶ビールを飲むと、翔子は声をあげて泣いた。
保ち続けていたプライドが、夏祭りの綿菓子みたいに溶けてく。
はじめからそうしたかったのだ。
気が済むまで涙を流したかった。
女将が食事を運んで来たのは、そんなさ中で。

「あらあら、今夜は桜島でん眺めながら、ゆっくり眠らないといかんね、焼酎でも飲んだらケロッと忘れられるが」

翔子は、言われるがままに御膳の小鉢を口にしながら泣き続けた。
つけっ放しのテレビからは、ローカル局にありがちな情報番組が流れていて、名も知らないタレントが方言で話をしている。そのイントネーションは心地良かった。
いつから自分は、標準語で話すようになったのだろう?
あんなに嫌っていた故郷は、こんな裏切り者でもあたたかく迎えてくれているのに。
きびなごの天ぷらと鳥刺しの味が、涙と鼻水でよくわからないでいる。
それでも、翔子には充分だった。
散々泣き腫らすと、気分は次第に落ち着いて、頑なに守り続けていた恋愛観や人生観も馬鹿らしく思えて、不甲斐ない自分を笑えるようにもなっていた。
立ち上がって窓を開ける。
錦江湾に浮かぶ桜島のシルエット。
月光のあたる海面は、台風の過ぎ去った夏夜の星々を、ゆらりゆらりと瞬かせながらフェリーを目的地へと誘っている。
終日運行の桜島フェリーだ。
遠い昔に、船上で眺めた夏の花火大会の思い出と、うどんの味が翔子の脳裏にまざまざと甦る。
さつま揚げとネギだけの素朴なうどんは、デパートの屋上レストランのナポリタンよりも美味しかった。だが、そんな本音など誰にも言えないまま、今日まで歳を重ねたことを今更ながら後悔していた。
明日、船に乗って昔を取り戻そう。
そして、久々に走ろう。
翔子はフロントへ出ると女将に礼を言って。

「あの、この辺でランニングシューズを売っているお店はありませんか?」

「へ? 今の時間ですか?」

「いえいえ、明日の朝でもいいんですけど」

「朝は流石に開いちょらんねえ、山の下に石川靴店ってありますけど、10時からですからねえ、あ、ちょっと待っちょってください、足のサイズはおいくつですか?」

「25です」

「そんなら良かった」

女将は奥へ下がると、ピンクのラインの入ったスニーカーを持ち出して。

「これで良ければ差し上げますが、私のなんですけど、パンデミックのお陰で走る気力もなくなってしまいました、サイズも同じですがよ」

「いえ、それは申し訳ないです」

「申し訳なくないですよ、使ってもらった方がこん靴も喜びますが」

女将はそう言いながら笑った。
目尻の皺に気苦労が見えた。
翔子は重ねて礼をのべて、その夜はぐっすりと眠りに就いた。

ドルフィンポートはバンガロー造りの商業施設で、飲食店や土産物店を中心に、かつてはカップルや家族連れで賑わっていた。
ところが、パンデミックによる売り上げ縮小と、鹿児島県との定期借地契約終了に伴い、運営会社はあっさりと撤退して、今では更地となっている。
翔子は、そんな空っぽの光景を目にしたくはなかった。
息の詰まる想いでその場を後にしたものの、久方ぶりのジョギングに疲れた翔子は、海の見える公園のベンチに腰掛けて、スポーツドリンクを飲みながら、人間なんて気まぐれなものだと笑った。
昨日まで、桜島フェリーの記憶に黄昏ていたのに、いざ朝起きてみると今度は無性に母親に会いたくて仕方がない。
既に連絡はしておいたから、加治屋町の実家に戻れば懐かしい味と、屈託のない笑顔が迎えてくれるだろう。
その証拠に、LINEのメッセージには。

「なにが食べたい?」

の文字と、使い慣れていない場違いなスタンプが残されていた。
波の音が、さやさやと聞こえる。
蝉の大合唱がはじまる。
鼻頭の汗が唇へと伝う。
その味を揶揄いながら、翔子は再び鹿児島の街を走り始めた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

聖女の如く、永遠に囚われて

white love it
ミステリー
旧貴族、秦野家の令嬢だった幸子は、すでに百歳という年齢だったが、その外見は若き日に絶世の美女と謳われた頃と、少しも変わっていなかった。 彼女はその不老の美しさから、地元の人間達から今も魔女として恐れられながら、同時に敬われてもいた。 ある日、彼女の世話をする少年、遠山和人のもとに、同級生の島津良子が来る。 良子の実家で、不可解な事件が起こり、その真相を幸子に探ってほしいとのことだった。 実は幸子はその不老の美しさのみならず、もう一つの点で地元の人々から恐れられ、敬われていた。 ━━彼女はまぎれもなく、名探偵だった。 登場人物 遠山和人…中学三年生。ミステリー小説が好き。 遠山ゆき…中学一年生。和人の妹。 島津良子…中学三年生。和人の同級生。痩せぎみの美少女。 工藤健… 中学三年生。和人の友人にして、作家志望。 伊藤一正…フリーのプログラマー。ある事件の犯人と疑われている。 島津守… 良子の父親。 島津佐奈…良子の母親。 島津孝之…良子の祖父。守の父親。 島津香菜…良子の祖母。守の母親。 進藤凛… 家を改装した喫茶店の女店主。 桂恵…  整形外科医。伊藤一正の同級生。 秦野幸子…絶世の美女にして名探偵。百歳だが、ほとんど老化しておらず、今も若い頃の美しさを保っている。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

パラダイス・ロスト

真波馨
ミステリー
架空都市K県でスーツケースに詰められた男の遺体が発見される。殺された男は、県警公安課のエスだった――K県警公安第三課に所属する公安警察官・新宮時也を主人公とした警察小説の第一作目。 ※旧作『パラダイス・ロスト』を加筆修正した作品です。大幅な内容の変更はなく、一部設定が変更されています。旧作版は〈小説家になろう〉〈カクヨム〉にのみ掲載しています。

淫らに、咲き乱れる

あるまん
恋愛
軽蔑してた、筈なのに。

少女と三人の男の子

浅野浩二
現代文学
一人の少女が三人の男の子にいじめられる小説です。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

処理中です...