30 / 50
別れ
しおりを挟む
知念家はカトリック教徒で、知念正也の葬儀は、北九州の八幡にある古びた教会で執り行われていた。聖歌と共に神父が入室し、棺と遺族が後に続く。参列者は起立して迎えた。瀬戸際も、翔子もその中にいた。
終息の兆しが見えない流行り病の中、知念の高校の同窓生と猟友会からは代表者のみが参列し、瀬戸際と翔子は、職場の代表として東京から辿り着いた。
知念の死を翔子が知ったのは、哲也と口論しているさ中で、荷物をまとめて出ていく2度目の背中を眺めながら、自殺という言葉に驚きを隠せなかった。
「何故です? 動機は? 心当たりはないんですか? どうして彼が!?」
スマホ越しに翔子は急きたてるように言ったが、瀬戸際の声はやけに冷静で、その響きにゾッとした。
沈痛さも悲しみも、何処かに置いて来た人間の声。そう感じた。
翔子にとって、死というのはそれほど身近ではなく、ましてや自死といった類いは初めてだった。
自殺は、その殆どが防止出来る社会的な問題であり、適切な策によって防ぐことが可能であるとした、WHOの報告書を読んだことがあるが、翔子は疑問に思っていた。
もし、自死を選択した人間の全てが、精神疾患にかかっていたらどうだろう?
最善策は治療であって、病気を早期に発見するのが有効な手段ではないのだろうか。社会的問題の解決に努めるのも大切だが、個々のメンタルケアが現代では最もな自殺防止策。心療内科やメンタルクリニックの増設、いのちの電話の存続が必要不可欠であり、それらに携わる医師や看護師、ボランティア相談員の待遇も改善されねばならない。こと日本に関しては・・・。
やり切れない感情を話す相手を失ったまま、翌々日に羽田空港の喫茶店で、瀬戸際から衝撃的な真実を伝えられた翔子は。
「どういうことですか?」
「いや、事故死なんですよ」
「事故?」
「そう・・・室内での事故死」
「何故隠すんです? ご両親は?」
「知っています」
「それで、自殺扱いにしてくれと?」
「ええ、しかしそれは無理でしょう。ですから、浴室内で溺れての事故死というふうにしています」
「ふうにしていますって、本当の原因はなんなんですか?」
瀬戸際は、しばらく考えた後で苦々しい顔で言った。
「自慰行為中の窒息死、自分で首を締めて、誤って死んでしまった。こんなこと公には出来ないでしょう。ですが、こういった事例は意外に多いんです。まさか知念君がとは思いましたがね」
「そんな・・・」
「これが全てです。あと、彼が失くしたって言っていたボイスレコーダーも発見されました。知念君の傍に転がっていたと警察は言ってました、ですから鴻上さん、彼は浴室で事故死したんです。そういうことで」
「あの、瀬戸際先生?」
「はい」
「先生は・・・?」
「ええ」
「彼が死んで、悲しくはないんですか?」
「・・・」
何も言わずコーヒーを啜る瀬戸際に、翔子は呆れ顔でその場を後にした。
あの日、鮫島結城と知念正也を監督出来なかった責任はどうなるのか。
過失による事故死に、ふたりの関係が多少なりとも影響しているかも知れない。勝手に膨れ上がる想像に、翔子は打ちのめされた。
瀬戸際は、そうは思わないのだろうか。
翔子は、憂鬱な感情を引きずったまま、祭壇の前で泣き崩れる母親を見て歯ぎしりした。
子供に先立たれる親の感情は、どういったものだろう。
理由も理由だ。
知念正也の名誉の為にも、この事故死は浴室での溺死でなくてはならない。
そういった虚実を、生涯突き通す夫婦の苦悩に。
「先生?」
「はい」
「私達にも、責任があるのではないでしょうか?」
瀬戸際の答えはあっさりしていた。
「ありません」
粛々と進行していく葬儀式の中、死という概念は悲しみではなく、神からの祝福であるとしても、翔子の心は激しく揺さぶられていた。
帝北神経サナトリウム、閉鎖病棟で知り合っただけの研修医、知念正也とは深い付き合いではないが、あの日に見た、屈託のない笑顔や、人の境界に土足で入り込まない幼い声質が、一瞬のうちにこの世界から消滅した事実を受け入れることが出来ない。
自分もいつの日か、死んだ理由も解き明かされないまま、皆の記憶から、存在自体が失われてしまうのかと思うと、掌にじんわりと広がる冷や汗すら忌々しく。
「それって、医師の怠慢じゃありませんか!!」
と、叫ぶと、会場内で泣き崩れた。
瀬戸際に促されて外へ出ると、翔子は口籠ったまま、取り乱した感情を整理することに努めた。
教会広場の楓の若葉は、風に吹かれながら生命の存在を示している。
秋になれば、薄化粧をして、やがては終えてしまうだろう。
甘くて苦い八幡の街の匂いと、眩しすぎる頭上の夏雲。
教会から流れる聖歌や、美紀から聞かされた哲也のことも、全てが悪い夢であったならどれほど楽だろう。現実は理想と大きく解離していく。それが生きる意味なのだろうか。
翔子は、苦行の行く末を想像し、気を失いかけていた。
「鴻上さん、私の独り言にお付き合いください。人間ってやつはどうにも厄介なんです。心ってやつね、私はみんなに表現する時、夏まつりで吊り上げた水風船って言葉をよく使うんですよ。元気な時はぱんぱんに膨らんでいるでしょう? だけど、時間の経過と共に小さくなる。軽く指で押さえると凹んだまま・・・なかなか戻らない。これね、心と身体が疲れているんです。だけど、現実社会ってのは酷でしてね。なかなか休ませてはくれないから、私も鴻上さんも、頑張って働いちゃう。誰が死のうが、何があろうが、ちょっとやそっとじゃ許してくれない。そうしてくうちに、圧が掛かりっぱなしの水風船は、遂には破裂して、中からストレスっていう水が溢れ出してしまいます。自律神経は乱れに乱れて、身体も悲鳴をあげる。人間の身体は実に正直です。助けを求めているんだ」
「カウンセリングですか?」
「いやいや、独り言ですよ。知念君が死んで、悲しくはないんですかって仰ってましたよね・・・私ね、どうやら涙というのを忘れてしまったようだ、残念な人間ですよ・・・」
落胆した瀬戸際の声が、翔子の耳にはやけに響いた。
翔子は返す言葉を失っていた。
終息の兆しが見えない流行り病の中、知念の高校の同窓生と猟友会からは代表者のみが参列し、瀬戸際と翔子は、職場の代表として東京から辿り着いた。
知念の死を翔子が知ったのは、哲也と口論しているさ中で、荷物をまとめて出ていく2度目の背中を眺めながら、自殺という言葉に驚きを隠せなかった。
「何故です? 動機は? 心当たりはないんですか? どうして彼が!?」
スマホ越しに翔子は急きたてるように言ったが、瀬戸際の声はやけに冷静で、その響きにゾッとした。
沈痛さも悲しみも、何処かに置いて来た人間の声。そう感じた。
翔子にとって、死というのはそれほど身近ではなく、ましてや自死といった類いは初めてだった。
自殺は、その殆どが防止出来る社会的な問題であり、適切な策によって防ぐことが可能であるとした、WHOの報告書を読んだことがあるが、翔子は疑問に思っていた。
もし、自死を選択した人間の全てが、精神疾患にかかっていたらどうだろう?
最善策は治療であって、病気を早期に発見するのが有効な手段ではないのだろうか。社会的問題の解決に努めるのも大切だが、個々のメンタルケアが現代では最もな自殺防止策。心療内科やメンタルクリニックの増設、いのちの電話の存続が必要不可欠であり、それらに携わる医師や看護師、ボランティア相談員の待遇も改善されねばならない。こと日本に関しては・・・。
やり切れない感情を話す相手を失ったまま、翌々日に羽田空港の喫茶店で、瀬戸際から衝撃的な真実を伝えられた翔子は。
「どういうことですか?」
「いや、事故死なんですよ」
「事故?」
「そう・・・室内での事故死」
「何故隠すんです? ご両親は?」
「知っています」
「それで、自殺扱いにしてくれと?」
「ええ、しかしそれは無理でしょう。ですから、浴室内で溺れての事故死というふうにしています」
「ふうにしていますって、本当の原因はなんなんですか?」
瀬戸際は、しばらく考えた後で苦々しい顔で言った。
「自慰行為中の窒息死、自分で首を締めて、誤って死んでしまった。こんなこと公には出来ないでしょう。ですが、こういった事例は意外に多いんです。まさか知念君がとは思いましたがね」
「そんな・・・」
「これが全てです。あと、彼が失くしたって言っていたボイスレコーダーも発見されました。知念君の傍に転がっていたと警察は言ってました、ですから鴻上さん、彼は浴室で事故死したんです。そういうことで」
「あの、瀬戸際先生?」
「はい」
「先生は・・・?」
「ええ」
「彼が死んで、悲しくはないんですか?」
「・・・」
何も言わずコーヒーを啜る瀬戸際に、翔子は呆れ顔でその場を後にした。
あの日、鮫島結城と知念正也を監督出来なかった責任はどうなるのか。
過失による事故死に、ふたりの関係が多少なりとも影響しているかも知れない。勝手に膨れ上がる想像に、翔子は打ちのめされた。
瀬戸際は、そうは思わないのだろうか。
翔子は、憂鬱な感情を引きずったまま、祭壇の前で泣き崩れる母親を見て歯ぎしりした。
子供に先立たれる親の感情は、どういったものだろう。
理由も理由だ。
知念正也の名誉の為にも、この事故死は浴室での溺死でなくてはならない。
そういった虚実を、生涯突き通す夫婦の苦悩に。
「先生?」
「はい」
「私達にも、責任があるのではないでしょうか?」
瀬戸際の答えはあっさりしていた。
「ありません」
粛々と進行していく葬儀式の中、死という概念は悲しみではなく、神からの祝福であるとしても、翔子の心は激しく揺さぶられていた。
帝北神経サナトリウム、閉鎖病棟で知り合っただけの研修医、知念正也とは深い付き合いではないが、あの日に見た、屈託のない笑顔や、人の境界に土足で入り込まない幼い声質が、一瞬のうちにこの世界から消滅した事実を受け入れることが出来ない。
自分もいつの日か、死んだ理由も解き明かされないまま、皆の記憶から、存在自体が失われてしまうのかと思うと、掌にじんわりと広がる冷や汗すら忌々しく。
「それって、医師の怠慢じゃありませんか!!」
と、叫ぶと、会場内で泣き崩れた。
瀬戸際に促されて外へ出ると、翔子は口籠ったまま、取り乱した感情を整理することに努めた。
教会広場の楓の若葉は、風に吹かれながら生命の存在を示している。
秋になれば、薄化粧をして、やがては終えてしまうだろう。
甘くて苦い八幡の街の匂いと、眩しすぎる頭上の夏雲。
教会から流れる聖歌や、美紀から聞かされた哲也のことも、全てが悪い夢であったならどれほど楽だろう。現実は理想と大きく解離していく。それが生きる意味なのだろうか。
翔子は、苦行の行く末を想像し、気を失いかけていた。
「鴻上さん、私の独り言にお付き合いください。人間ってやつはどうにも厄介なんです。心ってやつね、私はみんなに表現する時、夏まつりで吊り上げた水風船って言葉をよく使うんですよ。元気な時はぱんぱんに膨らんでいるでしょう? だけど、時間の経過と共に小さくなる。軽く指で押さえると凹んだまま・・・なかなか戻らない。これね、心と身体が疲れているんです。だけど、現実社会ってのは酷でしてね。なかなか休ませてはくれないから、私も鴻上さんも、頑張って働いちゃう。誰が死のうが、何があろうが、ちょっとやそっとじゃ許してくれない。そうしてくうちに、圧が掛かりっぱなしの水風船は、遂には破裂して、中からストレスっていう水が溢れ出してしまいます。自律神経は乱れに乱れて、身体も悲鳴をあげる。人間の身体は実に正直です。助けを求めているんだ」
「カウンセリングですか?」
「いやいや、独り言ですよ。知念君が死んで、悲しくはないんですかって仰ってましたよね・・・私ね、どうやら涙というのを忘れてしまったようだ、残念な人間ですよ・・・」
落胆した瀬戸際の声が、翔子の耳にはやけに響いた。
翔子は返す言葉を失っていた。
0
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説



聖女の如く、永遠に囚われて
white love it
ミステリー
旧貴族、秦野家の令嬢だった幸子は、すでに百歳という年齢だったが、その外見は若き日に絶世の美女と謳われた頃と、少しも変わっていなかった。
彼女はその不老の美しさから、地元の人間達から今も魔女として恐れられながら、同時に敬われてもいた。
ある日、彼女の世話をする少年、遠山和人のもとに、同級生の島津良子が来る。
良子の実家で、不可解な事件が起こり、その真相を幸子に探ってほしいとのことだった。
実は幸子はその不老の美しさのみならず、もう一つの点で地元の人々から恐れられ、敬われていた。
━━彼女はまぎれもなく、名探偵だった。
登場人物
遠山和人…中学三年生。ミステリー小説が好き。
遠山ゆき…中学一年生。和人の妹。
島津良子…中学三年生。和人の同級生。痩せぎみの美少女。
工藤健… 中学三年生。和人の友人にして、作家志望。
伊藤一正…フリーのプログラマー。ある事件の犯人と疑われている。
島津守… 良子の父親。
島津佐奈…良子の母親。
島津孝之…良子の祖父。守の父親。
島津香菜…良子の祖母。守の母親。
進藤凛… 家を改装した喫茶店の女店主。
桂恵… 整形外科医。伊藤一正の同級生。
秦野幸子…絶世の美女にして名探偵。百歳だが、ほとんど老化しておらず、今も若い頃の美しさを保っている。
パラダイス・ロスト
真波馨
ミステリー
架空都市K県でスーツケースに詰められた男の遺体が発見される。殺された男は、県警公安課のエスだった――K県警公安第三課に所属する公安警察官・新宮時也を主人公とした警察小説の第一作目。
※旧作『パラダイス・ロスト』を加筆修正した作品です。大幅な内容の変更はなく、一部設定が変更されています。旧作版は〈小説家になろう〉〈カクヨム〉にのみ掲載しています。
授業
高木解緒 (たかぎ ときお)
ミステリー
2020年に投稿した折、すべて投稿して完結したつもりでおりましたが、最終章とその前の章を投稿し忘れていたことに2024年10月になってやっと気が付きました。覗いてくださった皆様、誠に申し訳ありませんでした。
中学校に入学したその日〝私〟は最高の先生に出会った――、はずだった。学校を舞台に綴る小編ミステリ。
※ この物語はAmazonKDPで販売している作品を投稿用に改稿したものです。
※ この作品はセンシティブなテーマを扱っています。これは作品の主題が実社会における問題に即しているためです。作品内の事象は全て実際の人物、組織、国家等になんら関りはなく、また断じて非法行為、反倫理、人権侵害を推奨するものではありません。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる