きみの瞳に恋をしている

みつお真

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月半ばの15日、翔子は自宅の書斎に篭って原稿をしたためていた。
和室を改装したこの部屋には、机とノートパソコンに灰皿、そしてフル稼働している空気清浄機しかなく、集中時には決まって此処に閉じ篭る。
翔子にとってそれは、小気味いいルーティンワークとなっていた。
翔子は、口に咥えたマルボロ・メンソールに火を点けようと、ライターに手を伸ばしたが途中で止めた。
「流行り病は喫煙者に重篤な症状をもたらす」
朝方のニュースを思い出したからだ。
鮫島結城との接見で感じた、異常な性愛やプライド。
リヨツグという人格の心の危うさと、交代人格内に潜むもう一人の人格・私。
彼を知り尽くすまでは、そう簡単には死ねない。
まだプロローグなのだ。
思考の開き直りと称した連載記事のサブタイトルには、ホラー作家・桐野ミカエラVS解離性同一症・鮫島結城と、あてつけがましく付け足されてあった。
というのは、リモート会議での翔子の発言に、社会部部長の石原絵里子が憤慨したせいで。

「部長、多重人格と付けるのはやめてください。同じような病に苦しんでる方もきっとこの記事を読むでしょう。センセーショナルなタイトルに人は惹きつけられるかも知れませんが、彼の闇はとてつもなく深いんです。少なくとも、私はそう感じています」

毅然と言って退けた翔子に石原は。

「あなたね、慈善活動でもしているつもり?」

と、皮肉っぽく笑ったが、すかさず編集長の海津が割って入った。

「まあまあ、確かに倫理的な問題もある、今はさ、直ぐに叩かれる時代だからね・・・鴻上君が言うのも一理あるよなあ。それにさ、鮫島結城って名前自体がインパクト大だよ! 彼にまつわる事件・・・いや、失礼。彼が巻き込まれたバラバラ殺人事件はそれだけ社会的な影響を与えたんだ。誰も忘れちゃいないさ。名前だけでも売れるよ!」

「あたしはですね、そこがおかしいと指摘したいんです! 解離性同一症だの双極性障害だの、統合失調症だのと名前だけ変えれば人々の偏見がなくなるとでも仰りたいのかしら! 変わりませんよそんなの。単純にややこしい言葉を使って、程よくみんなを煙に巻いてるだけじゃなくて!? 多重人格、精神分裂、躁鬱病、この言葉の方が分かりやすいわよ!」

「まあまあ、時代の流れだよ。病名とレッテルってのはさ、どこかで変えなきゃならない訳だし、けどそれってのは、我々の認識の変化にもある訳だからさ、今回は鴻上君の助言に従うべきだよ、責任は勿論、私が負うから」

「当たり前です、そんなの」

石原はそれ以上何も言わなかった。
サブタイトルに病名を入れたのは、彼女に対する忖度が働いたのだろう。
翔子は、何処にでもある人間関係の煩わしさに呆れ、唾液で湿っただけの煙草を灰皿に捨てた。
そして椅子の背にもたれ掛かって、ゆっくり目を閉じた。
何も動揺などしていないし、相手の土俵には乗らない。マウントの取り合いなど真っ平御免だった。
深呼吸をして心を整えると、手元のスマホが振動した。
翔子はメールの受信元・superダッシュ担当・茅原の文字を確認すると、添付ファイルの支払い通知書を見て短い悲鳴をあげた。
それは喜びの声だった。
恐怖の日常重版・118万円。
恐怖の日常電子書籍・7万5千円。
申し分の無い金額だった。
全ては貯蓄に回して、ジャーナリストとしての報酬を、生活費や母への仕送りにまわそう。
今年は何とか切り抜けられそうだ。
安堵感からか、翔子は捨てた筈の湿った煙草に火を点けて、ぷかりと煙を燻らせた。
その後で、原稿に書いた文字を言葉として読み始めると、あの日の歌舞伎町の曇った匂いが身体にまとわりついて、現実へと一気に引き戻されてしまった。
新宿駅の公衆トイレで、わいせつな行為に及んだとして身柄を拘束された鮫島結城と知念正也は、新宿中央署を出ると俯いたまま瀬戸際の車に乗り込んだ。
日付が変わった都心の夜空には、熟れすぎた苺のような満月が浮かんでいて、色情と殺人、血液と肉体、そして男と女といった言葉がよく似合うと翔子は思った。
勿論、不謹慎な自分を大いに恥じてもいた。
交代人格・三宅リヨツグと関わる中で生じた違和感は、生息圏の相違が原因だと瀬戸際は語っていたが、それは夢遊病のような何かーとも考え辛く、一因にあるのは生きることへの淋しさだと翔子は考えていた。
絡まり合った孤独の糸を解きほぐすには、それなりの時間と信頼が必要なのは理解している。
幼少時代に培われた生きる術は大人になっても健在で、車の中で「エッエッ」と幼子みたいに泣きじゃくるリヨツグを見ていると、ぎゅっと抱きしめたくもなった。母親がいつもしてくれたみたいに。
乳房に顔を埋めて気が済むまで泣き腫らし、母親の服にじわっと広がる涙の地図に満足した日は、不思議とぐっすり眠れたものだ。
燻る煙草の煙に見え隠れする、遠い昔の古ぼけた残像に想いを馳せていると、再びスマホが振動した。
かつて出版社で同僚だった、同い年の大城美紀からの電話だった。

「久しぶり、みきてぃ!」

「やっほー、しょこちゃん」

「こないだ会ったのいつだっけ?」

「んとね・・・おぼえてない・・・」

「なになに? 誰か死んだか? それとも結婚か!?」

「第2文芸の醍醐がくたばった」

「あはは、ウケる!」

「願望です」

美紀は声をあげて愉快そうに笑った。
第2文芸の醍醐はどうしようもない女たらしで、美紀も新人の頃にカンケイを持ったひとりだった。
今では黒歴史だと嘆いている。
そんなやりとりをしていると、OL時代に戻った気になれた。
社食でいつも笑っていたっけ。

「それでねしょこちゃん・・・」

「ん?」

「・・・最近何か困ってたりしない?」

「ううん、どして?」

「あ、いや・・・」

「なになになに!?」

「あ・・・緊急事態宣言だからね、んと・・・お金に困ってるのかなって思ってさ、それだけなんだけど」

「ええ、困ってないよ、どうして?」

「う」

美紀は声を詰まらせた。
翔子は子供をあやすような優しい声で言った。

「なんでも話してごらん、気持ちが楽になるから」

「・・・実はね」


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