きみの瞳に恋をしている

みつお真

文字の大きさ
上 下
12 / 50

精神科医・瀬戸際大楽

しおりを挟む
ぬるま湯で丹念に手を洗い、ウイルスが付着しているかもしれない蛇口に水をかけて消毒液で手を拭う。今年に入ってからというもの、職場だけでなく日常生活でもこのルーティーンを守り続ける瀬戸際大楽は、やれやれと云った表情で化粧室を後にして閉鎖病棟へ向かった。
開放病棟から別館の閉鎖病棟へ向かうには、一旦外に出なくてはならない。
花壇に植えられた色とりどりの植物たちには目もくれずに、ポケットの中から鍵束を取り出すと、職員通用口の外扉を開けて院内へ入って行った。
正午を過ぎて小一時間は経っているが、とりたて急を要する診療もなく、長い廊下を歩きながら無理に怪訝な顔をして歩く姿に、看護師一同はまたかという顔をした。
瀬戸際自身も、笑われている自覚はあった。
威厳と貫録を表現してる訳ではないが、この閉鎖病棟へ入るとどうにも表情が強張ってしまうのだ。
職業病だろうか。心療内科に診てもらわねばならぬ・・・そう思うと自然と笑みがこぼれていた。
1階は主に給湯室や職員室、倉庫や私物保管庫が設けられており、ホールを抜けてエレベーターで2階に上がると、スタッフステーションや病室が見えてくる。その奥は保護室、準保護室があって、厳重に施錠されてはいるが、低い天井と吹き抜けから差し込む日差しで閉塞感はない。
瀬戸際は、子供だましの医療における建築コンセプトを鼻で笑いながら、患者と医療従事者との対等な関係性を鑑みて設計された、低すぎるスタッフステーションのカウンターに肘をついて、お気に入りの女性看護師に声をかけた。

「今日飲みに行かない?」

「それ、パワハラですよ」

「なんで?」

「私、プライベートと仕事は隔離したいんです。瀬戸際先生のキャラだからこの現場では許されますけど、違うとこだと訴えられますよ」

「くわばらくわばら・・・」

続けて瀬戸際は、最年長の女性看護師に声をかけた。

「高取さん!」

「ヤです」

「まだ何にも言ってないけど・・・」

「無言の圧力です、訴えますよ」

「くわばらくわばら・・・」

瀬戸際は笑いながらスタッフステーションを後にした。
コミュニケーションとは、信頼と安心と、安全という土壌が確保された領域でのみ存在するもので、威厳や執着や搾取という問題もあるが、上手く立ち回りさえすればそれなりの生活は送れる。
しかし、此処の患者はそれなりが出来ない。
心と脳に大きな疾患を抱えているからだ。
瀬戸際大楽は、帝北神経サナトリウム病院の沢口院長より、己の名声が世間に知れている事実を肌で感じ取っていた。
というのも、過去数十年にわたって触法患者を受け入れ、治療を行ってきた成果を称賛する声は高かったからだ。
事実、重犯罪が発生する毎に、コメンテーターとして多くのメディアから意見を求められてきた。
帝北神経サナトリウム病院は、統合失調症をはじめ、鬱病、適応障害、パニック障害、アルコール依存症、解離性障害と云った、精神科疾患全般の外来、入院治療を請け負っており、それら全てを掌握し、適切な指示や指導をする立場にあるのが医長を務める瀬戸際だった。
その目に止まる、閉鎖病棟内ではあり触れた光景。
保護室手前の廊下で、うずくまったまま動かないでいる小柄の中年男性は、内藤靖子医師に説得されていた。

「ほら、お部屋に戻ろう」

小柄の中年男性の身体は微動だにせず、それはまるで、元からそこにあった何かのように空間と同化していた。
瀬戸際は男の肩を軽く叩いて。

「どうしたの? 宮原さん?」

「・・・」

「部屋に行きたくないの?」

「・・・」

「一緒に行こうか?」

「・・・」

「ん?」

「・・・温めていませんよね?」

「何を?」

「何でもないです」

宮原はふらふらと立ち上がって、内藤靖子医師に支えられながら病室へ戻って行った。
瀬戸際は、患者の個性と此処に至るまでの経緯を概ね理解していた。
統合失調症の宮原は、幻聴に苦しんだ挙句自宅に放火した。
そのせいで、家族とは絶縁状態になってしまった。
治療を続ける中で、病の底に沈む本来の人間性を垣間見ることがある。
気配り上手で責任感の強い真面目な人。宮原は、周囲の心ない人間達によって搾取され続けた結果、鬱病から統合失調症を発症した。
瀬戸際の胸に、昨日自殺しようとした鮫島結城の失意に満ちた顔が浮かんだ。ベットを立て掛けて、脱いだズボンで首つり自殺を図ろうとしていた処を、瀬戸際と看護師達に取り押さえられたのだ。
鮫島は泣きながら。

「死んじゃいけない理由を・・・お願いですから・・・教えてください・・・」

と、言っていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

聖女の如く、永遠に囚われて

white love it
ミステリー
旧貴族、秦野家の令嬢だった幸子は、すでに百歳という年齢だったが、その外見は若き日に絶世の美女と謳われた頃と、少しも変わっていなかった。 彼女はその不老の美しさから、地元の人間達から今も魔女として恐れられながら、同時に敬われてもいた。 ある日、彼女の世話をする少年、遠山和人のもとに、同級生の島津良子が来る。 良子の実家で、不可解な事件が起こり、その真相を幸子に探ってほしいとのことだった。 実は幸子はその不老の美しさのみならず、もう一つの点で地元の人々から恐れられ、敬われていた。 ━━彼女はまぎれもなく、名探偵だった。 登場人物 遠山和人…中学三年生。ミステリー小説が好き。 遠山ゆき…中学一年生。和人の妹。 島津良子…中学三年生。和人の同級生。痩せぎみの美少女。 工藤健… 中学三年生。和人の友人にして、作家志望。 伊藤一正…フリーのプログラマー。ある事件の犯人と疑われている。 島津守… 良子の父親。 島津佐奈…良子の母親。 島津孝之…良子の祖父。守の父親。 島津香菜…良子の祖母。守の母親。 進藤凛… 家を改装した喫茶店の女店主。 桂恵…  整形外科医。伊藤一正の同級生。 秦野幸子…絶世の美女にして名探偵。百歳だが、ほとんど老化しておらず、今も若い頃の美しさを保っている。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

パラダイス・ロスト

真波馨
ミステリー
架空都市K県でスーツケースに詰められた男の遺体が発見される。殺された男は、県警公安課のエスだった――K県警公安第三課に所属する公安警察官・新宮時也を主人公とした警察小説の第一作目。 ※旧作『パラダイス・ロスト』を加筆修正した作品です。大幅な内容の変更はなく、一部設定が変更されています。旧作版は〈小説家になろう〉〈カクヨム〉にのみ掲載しています。

淫らに、咲き乱れる

あるまん
恋愛
軽蔑してた、筈なのに。

少女と三人の男の子

浅野浩二
現代文学
一人の少女が三人の男の子にいじめられる小説です。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

処理中です...