道参人夜話

曽我部浩人

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第九夜   守宮

第4話 井中を這う殺人鬼

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 壁に突き立てられた──銀色のナイフ。

 それを引き抜くこともせず、躊躇ちゅうちょすることなく自分の肉を裂いて逃げた謎の存在とはいえど、その血は生き物らしく赤い色だった。

「緑色とかだったらわかりやすいんでやすがねぇ」

「バケモノの血は緑色、ってテンプレ過ぎるんじゃないか? 黄色とか青色とか白とか黒とか……もっとバリエーションがあってもいいと思う」

 氷室の意見に幽谷響やまびこは素っ気なく返す。

「じゃあ……ドドメ色ってのはいかがでございやすか?」
「君、本当にひねくれているね。嫌いじゃないよ、そういうとこ」

 そいつはどうも、と幽谷響は返して考察を重ねていく。

「古今東西、てめえに突き刺さった刃物を、しかも自分の肉ごと壁に打ち付けられた刃物を、こんな風にして逃げる獣はおりやせんぜ。普通は刺されたまんま藻掻もがいてるか、どうにかして刃物を抜いてから逃げやすぜ」

「なのに、こいつは自分の肉を切り裂いて逃げたか……」

 氷室は壁に突き立ったナイフを人差し指で弾いた。
 すると、それは音を立てることなく水蒸気となって消え失せた。

「このナイフは刺さった壁に根を張るだけじゃない。肉に食い込めばそこにも根を張る……だから、斬り裂いたというよりは引き千切ったに近いね」

 動物は人間よりも痛覚が鈍いところがある。

 大型になるほどその傾向は強く、矢などが刺さったまま活動を続ける野生動物も珍しくはない。それでも尚、このナイフに刺された者は異常に思えた。

「こいつは拙僧せっそうらに見られたくない一心で、自ら肉を引き裂いて逃げたって感じがいたしやす……そいつは一体、どんな生き物でございやしょうかね」

「取り逃がしはしたものの、幸いなことに追跡はできそうだな」

 肉を裂いたせいで、かなりの出血を伴ったらしい。

 怪我した身体を這々の体で引き摺りながら逃げたのか、廊下には点々と血の跡が残されていた。この後を辿れそうだった。

「はてさて、鬼が出るか蛇が出るか……追いやすか」
「私のナイフでビビる相手だ。鬼や蛇ほど怖くはなさそうだがな」

 強気なことをいう氷室だが、身を屈めると幽谷響の後ろに回り、両肩に手を掛けると前へ押し出した。肉の盾にするつもり満々である。

「あの、氷室女史? 言ってることとやってることがちぐはぐですぜ?」

「いいから進め。これも仕事の内だ」

「危険手当込みでございやすか、やれやれ……拙僧みたいなちんちくりんじゃ肉壁にもなりやせんぜ? 厚みもねぇから貫通するのがオチでさぁ」

 幽谷響は細やかながら抗議するも受け入れられない。
 むしろ、前へとグイグイ押し出された。

 仕方ないので幽谷響は押されるままに歩き出す。

 血の跡は廊下の奥まで続いており、その先は台所となっていた。

 この家は古いと思っていたが、台所には古臭い勝手口まであった。そのドアノブが破壊されており、出入り自由になっていたようだ。

 用心深く勝手口を開くと、この家の裏庭に当たる場所に出た。

 そこに──井戸があった。

 地下水のあるところまで穴を掘り、石組みを組んだだけの古いタイプだ。鉄板で塞がれていたところを見ると、もう使われていないのは明白である。

 血の跡は井戸へと続いており、めくれた鉄板の縁を汚していた。

「あの鉄板、退かしても構いやせんかねか?」
「構わん。私の権限で許可する」

 やれ、と氷室が言う前に幽谷響は錫杖を打ち鳴らすと、その先端を鉄板がめくれた箇所へ突きつける。
 
 瞬間、爆発的な衝撃が辺りを襲った。

 幽谷響が物理的な音波で鉄板を吹き飛ばしたのだ。

 警戒を怠らず、幽谷響と氷室は井戸まで近付いてそっと覗き込む。

 深い深い井戸の底、異臭とまでは言わないまでも泥臭い湿気が立ち上ってきて思わずむせそうになる。生き物の気配はしないし、幽谷響の耳にも生命反応は聞こえてこない。

 血の跡は井戸の内壁を濡らし、底まで続いていた。

 光が差し込むと、地の底からわずかに反射の輝きが見える。

 幽谷響は手頃な石を井戸の底へ放り込むと、湿り気を帯びた音が返ってくるのを聞き取った。涸れ井戸ではないが、汲むほどの水は溜まってないらしい。

 ナイフに貫かれた者は──井戸の底に潜ったのか?

「……どんな生き物が井戸の底を潜って逃げられるやすかね」
「さて、生物の授業は真面目に受けなかったからな」

 私に相談されても困る、と氷室は考えることさえ否定した。

 本当、刑事のくせに推理は不得手らしい。いや、彼女は考えるだけ無駄と思っている節があった。結果だけわかればいいという主義らしい。

 その結果に至る過程が人任せなのだが──。

「そういや先の現場も水辺でございやしたね」

 焼き肉をたらふくご馳走になった後で連れて行かれた殺人現場も、田畑の用水路だった。その前に事件が起きたこの住宅も古い井戸を抱えている。

「安直だが……犯人は水中を行き来してるとでも?」

 推理はしないが氷室の察しは良かった。
 しかし得心が行かない様子で、枯れかけた井戸を覗き込んでいる。

「用水路は子供が水遊びできる程度の流れと浅瀬、この井戸は水こそいくらか溜まっているが涸れ井戸同然……こんなところ出入りできるのか?」

「『河童』の号を名乗る魔道師連中にも難しいでやしょうね」

 河童──日本におけるスタンダードな水棲妖怪である。

 これを号名とする魔道師は『天狗』の次に多く、水に関する異能、格闘に関する技術、常識はずれな薬学を修めるなど多岐に渡る。

「河童の号を名乗る者たちゃ大なり小なり水泳やら潜水やら達者でございやすが、それは川や海での話でさ。井戸の底、地下水脈に通じるような穴なんて想像もつきやせんが……人間の出入りできるような場所じゃございやせんでしょう」

 幽谷響が正論を述べると、氷室は指に挟んだ煙草を振った。

 何かを思い出したようだが、その記憶がすんなり出てこないらしい。

「あーっと……あれはなんだったかな? 以前、君と美女男子な先生、それにあの白山坊はくさんぼうの3人で、水みたいな外道を始末したという報告書を読んだ覚えがあるんだが……周介の報告書だったと思うんだけど」

 承知しておりやす、と幽谷響は認めた。

「先生が“びしゃがつく”と名付けた外道でございやすね。あの手の輩ならば、用水路だろうが涸れ井戸の底だろうが自由自在でございやしょう」

 ナイフで我が身を裂いて逃げることも容易いはずだ。

「しかし、血がついてたからまだ生身って可能性も無きにしも非ずか?」
「なりかけの途中、って線もありそうでやすね」

 それに“びしゃがつく”と同じ系統の外道だと仮定した場合、噛み合わない点があるので幽谷響はそれが気に掛かった。

 この犯人は人間を襲い──その血肉を食らっている。

 また、無数の噛み跡から複数いるという推測もできた。あれらの噛み跡はよく似ているが、個体差ともいうべき点が見受けられたからだ。

「水みたいになってる外道じゃなくて、あるいは……」

 その時、幽谷響の耳が遠くの音を拾った。

 家の前で車が止まると小柄な人物……身体から発する音から察するに、若い女性が降りてきた。彼女は家の前で待機している地元刑事に話し掛ける。

「あちゃー、ここもキープアウト? すいませーん、なんかあったんスか?」
「ここは立ち入り禁止ですよ。数日前に事件がありましてね……」

 事情を話す地元刑事と、この家を訪ねた理由を明かす若い女性。

 その声に聞き覚えがあった幽谷響は、氷室に目配せで合図を送ると玄関前へ足早に急いだ。氷室はマイペースな足取りでついてくる。

 玄関へ戻ってみると──そこに鳴子が立っていた。

 井戸がどうたらこうたら……と地元刑事に説明していた鳴子は、幽谷響の姿を認めると眼鏡越しの瞳を丸くして、大きく開いた口元をほころばせた。

「あーッ! 幽谷響のオジサンじゃないっすか、お久し振りっす!」

鳴子なるこの嬢ちゃん? どうしてここに?」

 小走りでやってきた鳴子は膝を曲げて幽谷響に合わせ、こちらの両手を取って喜んでくれた。幽谷響もフレンドリィな笑顔で応じる。

   ~~~~~~~~~~~~

 鳴子と氷室は互いに初対面だったので、幽谷響が仲介する。

「そうか、君が『家鳴』やなりの……話は聞いているよ」
「はい、建築関係の仕事がありましたら、遠慮なく声をかけてくださいッス」

 自己紹介を終えた2人は握手を交わす。

 その後、鳴子は名刺を差し出して家業の宣伝も忘れなかった。

「しっかし鳴子の嬢ちゃん。こちらへはどういった御用向きで顔を出したんでやすかい? そちらの刑事さんにも聞いたでしょう? この家は……」

 幽谷響の話を遮って、鳴子は肩をすくめながら一方的に喋り出した。

「それなんですけどね。何の因果なのか、井戸の調査でお伺いした家のほとんどにこの黄色いテープが張り巡らされててですね。こっちは仕事の関係上、ちょっと水に関して調べたいだけなのに……ほとほと困っちゃってるんですよ」

「井戸に水……でございやすか?」

 ピンと来た幽谷響は、鳴子から根掘り葉掘り聞き出すことにした。鳴子はフレンドリィな口調で、これまでの経緯を明かしてくれる。

 信一郎の斡旋あっせんで大きな古民家の改築に来たこと──。
 例の山の中腹にある井戸家の旧家がその対象であること──。
 その旧家にはやたら井戸があること──。
 旧家を受け継いだ井戸家の家主がその井戸を埋めたがっていること──。

「……てなわけで、井戸を埋める前にふもとの町の井戸状況や、水脈の流れをチェックしてたら、思ったより井戸のある家が多いってわかったっす」

 上流や下流があるのは川だけではない。水脈もまた然りだ。

 上流に位置する井戸家の井戸を埋めれば、下流にある井戸や水脈を止めてしまう可能性がある。そうならないためにも下調べは大事なので、鳴子は愛用のランドクルーザーでこの地域を駆け回っていたらしい。

「ほとんどの家は井戸が涸れてたり廃れてたりで、せっかくだから大屋建設で埋めますよって宣伝できたんすけど……何軒か調べられない家があったっす」

 鳴子は残念そうに“立ち入り禁止”のテープを見つめた。

「ここみたいに警察のテープが張られてて……」

 幽谷響は氷室に振り向いて目配せすると、彼女は頷いて小型のタブレットを取り出した。軽いタッチで操作して、辺り一帯の地図を映し出す。

 地図の上には赤いマークが点々と記されていた。

 氷室がタブレットを差し向けると、鳴子が釣られるように覗き込む。

「その家、ここに載っているかな?」
「はい、この家とここの家と……あ、この家もですね」

 全部──殺人現場となった家だ。

 井戸があったり水脈が近かったり小川が流れていたり……。

「あれ? この赤い点……もしかして」

 氷室の見せてくれた地図に何かを見出した鳴子はスマホを取り出すと、同じようにこの地域一帯の地図を映し出した。

 その地図には赤い点こそないが、水色のラインが縦横無尽に走っていた。正しくは系統樹のように1本の筋から枝分かれしている。

 水色のラインの根元は件の井戸家が所有する御山にあり、そこから麓の町へ下りながら枝葉を広げるように広がっていた。その水色のラインが河川に繋がっているところを見ると、どういった類いのものかわかる。

「鳴子の嬢ちゃん、こいつはもしや……?」

「はい、ここら辺の地下水脈の簡略図です。まだ調べてないところはありますけど、8割方は把握できているはずです」

 鳴子が井戸家の屋敷を受け継いだという青年から受けた依頼は、古めかしい屋敷の改築と、屋敷にいくつもあるという井戸の埋め立て。

 井戸家は山の上にあるので、そこの井戸を埋めると水脈の根元を立つ恐れがあり、麓にある水脈を利用した施設(それこそ井戸)に悪影響が出かねない。

「そこで地下水脈がどうなってるかとか、その地下水脈を使った施設がどのくらいあるかとか、念のためにチェックしていたっす」

 地下を調べるには専用の機材などが必要なはずだが、そこはそれ。鳴子も『家鳴』という号を継承した立派な魔道師である。

 建築関係に特化した魔道の秘術で、地下水脈を調べ上げたのだろう。

 鳴子の水脈図──氷室の殺人現場図。

 それらを重ね合わせると、殺人現場が起きた場所は必ず地下水脈と繋がる井戸や小川の近くにあった。これは有力な状況証拠として役立つはずだ。

 推理嫌いの氷室でさえ「うむ」と小さく唸っていた。

「渡りに船とはこういうのを言うんでやしょうね」

 幽谷響は“ギタリ”なんて表現が似合う禍々しい笑みを浮かべた。ここで鳴子と出会えたのは幸いだ。調べる予定の一手間が片付きかけている。

「鳴子の嬢ちゃん、ちょいと厄介事を頼まれてくれやせんか?」

 お駄賃は弾みやすぜ、と色を付けるのも忘れない。

「いいっすよ。幽谷響のオジサンのお駄賃はボリューム満点っすから」
 鳴子は一も二もなく引き受けてくれた。

「といっても、やってることはほぼ終わってやすがね……その地下水脈図、完成させちまってくだせえ。できたら、氷室女史に送ってほしいんでさ」

「え? そんなことでいいんすか? 確かにほぼ終わってるっすね」

 8割は終わっていると言ったから残り2割だ。

「そんで氷室女史。地下水脈の図ができあがったら、地上と行き来できるところをピックアップして、しばらく人が近付かねぇように手配してほしいんでさぁ」

 警察官を配備するか、できれば封鎖してほしいところだ。

「これだけ殺人事件が続けば県警も重い腰を上げざるを得まい……上から働きかけてもらって、この地方に追加人員を回すようにしてもらうよ」

 氷室は細い煙草をくわえて澄まし顔のまま約束してくれた。

「んじゃ、そういうことで──頼みやしたぜ、お嬢さん方」

 言うなり幽谷響は背に回していた網代笠あじろがさを被り直すと、錫杖を突き鳴らしながら歩き出した。氷室は止めないが、鳴子は不思議がる。

「幽谷響のオジサン、どこ行くんすか?」

「ちょいとあちこち調べに行きたいところが出てきやしてね……鳴子の嬢ちゃんは頼んだお仕事が終わったら、地元の警察署に氷室女史を訪ねなせえ」

 それぞれの仕事が終わったら警察署に集まる、幽谷響はそう促した。

「みんなが集まったら、その井戸さんとやらのお宅へ伺ってみることにいたしやしょうか……先生がいらっしゃるのも渡りに船だ」

 今回の一連の騒動──信一郎の力を借りたいところだった。

 そんなわけでよろしく、と幽谷響は後ろ手に手を振って歩き出す。

「待て幽谷響、どこへ行くつもりだ?」

 呼び止めたつもりはないが、幽谷響の行く先が気になったのだろう。氷室の問い掛けに振り向いた幽谷響は、笠を持ち上げて答えた。

「ちょいと──地元の寺を巡ってこようと思い立ちやしてね」

   ~~~~~~~~~~~~

 夏の日は高く、夕暮れは思ったより遅い時間となる。

 まだ夕日に照らし出される山々は明るく、暑さが緩む気配もない。それでも時刻は19時を回ろうとしていた。時間帯としては立派な夜である。

 蔵の書類の天日干しを終え、それを片付けて一休み。

 少しだけ涼しい風の吹いてきた縁側で、信一郎は骨休めとばかりにゴロリと横になっていた。学生時代からの友人の家という気安さも手伝ったのだろう。普段の信一郎なら、よほど疲れてもこんなだらしない態度は取らない。

 カラン、と傍らに置いたグラスの中で氷が鳴る。

 冷たい麦茶はこれで何杯目かわからない。かなり汗をかいたからといって、ガブガブとよく飲んだものである。

「どうするみなもと、学生時代を思い出して泊まっていくか?」

 縁側に続く応接間──。

 そこで幸典は卓袱台の上に引っ越しの公的書類や、この屋敷や御山の権利書やらを広げると、もう一度目を通してから書類棚にキチッと収めていた。

 学生時代に仕込まれた、資料を分類ごとに片付ける癖が抜けないらしい。

 分類の手を止めずに幸典は話を進める。

「泊まっていくのは歓迎だが、美味しい料理は期待しないでくれよ。俺は料理の類はてんでダメだし、この山奥じゃあ出前もデリバリーも圏外だからな」

「最初から期待してないよ、そんなこと」

 よっこいしょ、と暑さに負けていた重い身体を起こした信一郎は、冷えた麦茶を一口飲んでから答える。

「私は泊まっていってもいいが、あいにくと今日は鳴子ちゃんという連れが一緒だからね。彼女が戻ってきて意見を聞いてみないと……」

 断りかけた時、この屋敷へ続く道から車の音が聞こえてきた。

 力強い駆動音──鳴子の愛車であるランドクルーザーに違いない。

 噂をすれば影とはこのことだ。

 信一郎は鳴子を出迎えるべく立ち上がると、ちょうど庭先へランドクルーザーが徐行運転で入ってきて停車した。山道は薄暗かったのか、ヘッドランプが点灯していたがエンジンを切るとともに消えてしまう。

 運転席と助手席のドアが同時に開き、後部座席の片側まで開いた。

 鳴子ちゃんだけじゃないのか? と信一郎は訝しむ。

 運転席から現れたのは言うまでもなく鳴子だが、助手席から現れたのは、初めて目にする銀髪のクールビューティーな女性だった。

 その冷たい眼差しは、信一郎を知っているような素振りを見せる。

 後部座席から現れたのは──見覚えのある錫杖と網代笠。

 小柄すぎる身長はランドクルーザーの車高に隠れて見えないが、その錫杖の鳴る音に合わせて、ジャラジャラと鳴る数珠やチリーンと響くお鈴が聞こえる。

 そいつが全貌を現すまでもなく、信一郎は苦汁を飲んだ顔を手で覆った。

「──因果なことでございやすねぇ」

 信一郎の姿を認めた幽谷響は、いやらしい笑顔でそう呟いた。

「……何が因果だよ。こんなもん、ただの腐れ縁じゃないか」
 信一郎は喉の奥に溜まった苦汁ごと吐き捨てた。

 幽谷響がここに現れた理由はひとつしかない。

 また外道絡みの事件が起きて、その処理を請け負ったのだ。

 鳴子がどこで幽谷響に引っ掛かったか知らないが、そもそも鳴子は幽谷響の紹介で出会ったのだ。信一郎よりも連絡が取りやすいのだろう。

 それと──あの銀髪美女の正体が気に掛かる。

 銀髪美女は信一郎を見るなり相好を崩して、気さくに挨拶をしてきた。

「はじめまして、源信一郎先生。いや、お噂は幽谷響や周介から耳にタコができるほど聞かされていたが……噂以上の美女男子だね」

「美女、男子…………おい、幽谷響?」

 おまえが吹聴ふいちょうしたのか? と怒りを込めて睨みつける。

「ち、違いやすよ? 拙僧じゃございやせん! 美女男子なんて妙ちきりんな造語を作ったのは……こちらの氷室女史が勝手に仰ってるだけでさぁ!」

 かつてないほど眉を怒らせる信一郎の静かな剣幕に、幽谷響は大慌てで両手を振って弁解してきた。手を振る度に錫杖や数珠が鳴ってうるさい。

「氷室……女史?」

「改めまして──警視庁特別事例対応課、警部補の氷室銀子と申します」

 襟を正した氷室は、懐から警察手帳を取り出して身分を示した。

 特対課は警察勤めの魔道師グループ。信一郎も幽谷響を介して礼堂周介や他数名と面識があるから、彼女もその一員だとすぐ理解することができた。

 同時に──厄介な事件が起きていると把握する。

 特別事例対応課の魔道師たちが動くとなれば、人倫じんりんを誤った魔道師や外道による殺人あったに違いない。それらは得てして凄惨な事件となる。

 幽谷響と氷室が現れたことに、信一郎は嫌な予感を覚えた。

「源、大家さんはともかく……そちらの御二人もお知り合いかい?」

 信一郎たちの話し声が聞こえたのか、家の中にいた幸典がサンダルを履いてのっそり軒先に出てくると、幽谷響と氷室を見つけて会釈した。

「……え、刑事さんですか?」

 氷室が信一郎に見せたままの警察手帳が目に入ったのだろう。
 さすがの幸典も表情を強張こわばらせている。

「はじめまして──警視庁特別事例対応課、警部補の氷室銀子と申します」

 氷室はもう一度身分を明かし、警察手帳を見せつけてきた。

 それをスーツの懐に仕舞うと「あとは面倒だから任せた」と言わんばかりに後ろへ下がる。代わりに幸典に当たったのは幽谷響だった。

 交渉役の全権を幽谷響に委ねるつもりらしい。

井戸いど幸典こうすけさん──でございやすね?」

「は、はい……そうですが……あなたは……?」

 警察である氷室が訪ねてきたので、何かしら事情聴取でもされるのかと思いきや、前に出てきたのは小汚くも胡散臭うさんくさい小坊主である。

 魔道と縁もゆかりもない常識人な幸典は面食らっていた。

 信一郎は説明してやるべきか傍観ぼうかんするべきかを迷って逡巡しゅんじゅんしていると、口先から生まれてきたに違いない幽谷響がスラスラと語り始めた。

「拙僧は幽谷響と申しやす。まあ、しがない拝み屋とでも思っておいてくだせえ。代表作「ID:0アイディーゼロの怪物」というホラー小説が今冬に映像化されることが決まった作家先生なら、拙僧みたいな怪しげな職業にも興味がおありでは?」

「拝み屋さん……ですか? 本物に出会えたのは初めてです」

 拝み屋、と聞いて幸典は興味を持った。

 そもそもホラー小説を好んで書くような男だ。オカルト関係の話題を振れば印象云々はともかく、好意的に捕らえようとする傾向がある。たとえ魔道師だと正体を明かしても、好奇心旺盛に食いついただろう。

 今回、幽谷響は敢えて魔道師と名乗らず拝み屋と自己紹介した。

 なんとなく──様子見をしている感があった。

 幽谷響は坊主らしく合掌してから一礼すると、訪問の理由を説明する。

「今回、訳ありの御縁がありやしてね。こちらの氷室女史に捜査への一助を頼まれた次第でございやす。ああ、そうそう……そちらの源信一郎先生とも何かと御縁がありやしてね。浅からぬ仲なんでございやすよ」

「浅からぬとか言うな。何度も言うが腐れ縁だ」

 信一郎が訂正すると「手厳しいでやすねぇ」と幽谷響は苦笑する。

「そうですか、源ともお知り合いとは……それで、警察の方とその拝み屋さんが、こんな辺鄙へんぴな山奥までどうして? しかも、大家さんの車に乗って……」

 そのことなんでやすがね──幽谷響は口調のトーンを落とす。

「かなり深刻な事件が頻発しておりやしてね……ちょいと捜査にご協力願いたいんでさ。少々、お時間をいただいても構いやせんかね?」

 ややドスの利いた声で有無を言わせぬ迫力。

 音を操る魔道師である幽谷響は、声音を使い分けて言葉で相手を籠絡ろうらくする手管てくだを心得ている。魔道師でもない人間では生中に抗えるものではない。

「はい、構いませんが……立ち話もなんですから中へどうぞ」

 幽谷響の話術に誘導されたわけではないだろうが、幸典は幽谷響たちをすんなり屋内へ誘うように招き入れた。

 散らかっていますけど、と幸典は悪びれながら屋敷へ案内する。

 大きな卓袱台ちゃぶだいには人数分の麦茶が配られた。

 屋敷の主人である幸典と、交渉役を務める幽谷響が向かい合う。

 氷室は幽谷響の後ろに大人しく正座で控えており、信一郎と鳴子は所在なげだったが、向かい合う幽谷響と幸典の間へ適当に腰を下ろした。

 そして──幽谷響は淀みない弁舌で喋り始めた。

 麓の町で立て続けに起こる──見るも無惨な連続殺人事件。

 とても人間業とは思えず動物の仕業だとしか思えないが、その正体は依然として掴めず、目撃者もないまま犯行だけが繰り返されているのが現状だという。

 だが、幽谷響たちは事件現場にある共通点を見出したという。

「地下水脈……ですが?」

 幸典は怪訝けげんそうに片眉を曲げた。

「ええ、その水脈の根元がこちらにあるようなんでさぁ」

 幽谷響は顔を俯かせており、目付きの悪い三白眼で睨め上げる。

 彼の推理によれば連続殺人事件の犯人は、この井戸家が使っていた数多の井戸に通じる地下水脈を利用しているという。

 数々の状況証拠がそれを示唆しているらしい。

「連中……被害者の身体に刻まれた無数の噛み傷からして、犯人は1匹じゃないと思われやす。そして、真っ当な生き物じゃござんせん。水脈を渡って水の湧き出るところで現れては、食いやすい獲物を狩っているようでございやす」

 人間ほど警戒心の薄い動物はおりやせんからね、と幽谷響は言った。

 その犯人と思しき動物がどうして人間を襲い始めたのか?

 この疑問についても幽谷響は見当をつけていた。

「本来、連中はここより奥の山を狩り場として、そこに棲む野生動物を狩っておったんでしょう。だが、先日の土砂崩れで水脈という通り道が塞がれちまった」

 これには横で聞いていた鳴子も「うんうん」と頷いた。

 他でもない。井戸家にいくつもある井戸を埋めると幸典から依頼を受けた鳴子が、真っ先に調べて判明した事実である。

「水こそ染み出して井戸を潤すくらいの水量はあるが、殺人鬼どもが通れる道はねぇときた。はてさて、連中はない知恵を絞ったでしょうねぇ」

 意味深長な呟きで幽谷響は話を区切る。

「水脈を逆に辿って……山の麓へ狩り場を移行した?」

 生温い沈黙が居間を満たす前に口を開いたのは、信一郎だった。

 なんだかんだで幽谷響との付き合いは長い。
 彼の言わんとしていることを代弁する形になってしまった。

「今までは山奥の生物を狩っていたので大した被害はなく、これほどの事件に発展することはなかったが、狩り場への道が閉ざされたことで人間を獲物にすることを覚えてしまった……そう言いたいのか、幽谷響?」

 そんなところでございやしょう、と幽谷響は信一郎の推論を認めた。

「ちょ……ちょっと待ってください」

 幸典は溜まらず手で制しながら話を遮った。

「物騒な殺人事件の話は、麓に降りたりニュースで少なからず聞いてます。でも、それが正体不明の生物の仕業だなんて……しかも話を聞いている限り、まるでこの山を根城にしているように聞こえますが? それに……」

 その生き物と我が家に──どんあ関係があるんですか?

 疑問の声を上げる幸典に、幽谷響は答えることなく眼を閉ざした。

 静かな鼻呼吸で「ふぅむ……」と一息ついた幽谷響は、細く短い腕を組んでからゆっくり片目だけ開けると、幸典の真芯を穿うがつような視線を向けた。

「井戸幸典さん──アンタにゃ心当たりがあるはずだ」

 そう思いやしてね、と幽谷響は歯を剥いて威嚇的な笑みをこぼした。

 射殺すような視線で心臓を貫かれた心地となり、冷えた小石の雨を浴びるような冷酷な声音で肝を痛めつけられ、幸典は怖じ気づいていた。

 幽谷響を制するために上げた手も、力なく卓袱台へ下ろされる。

 幸典の気がえたのを見計らい、幽谷響は最後の問い掛けをした。



「井戸家の方々──どちらで眠りにつかれておりやすか?」



 この質問に幸典はあからさまに動揺した。

 細身なれど2mを越える長身をビクリ! と震わせたかと思えば、面長な顔は水を浴びせかけたみたいに冷や汗まみれとなった。

 カタカタと歯の根が合わぬほど震えている。

 学友の狼狽うろたえる様に信一郎も気が気ではない。
 何も答えられず硬直する幸典の代わりに幽谷響へ聞き返す。

「おい、井戸……どうしたんだ一体? 幽谷響、井戸の方々って……親族のことか? 井戸の親族が眠っているって……まさか?」

 問い返している間に、質問の真意を読み解いてしまった。

 信一郎の眼に理解した光を見出した幽谷響は、こちらに目配せしてくると「そういうことでございやす」と口にする代わりに浅く頷いた。

「こちらの井戸家にまつわる墓は──何処どこにもありやせん」

 幽谷響はこの地域にある方々の寺を訪ねてみたが、どの寺にも檀家だんか登録されてないばかりか、葬式が手配された記録さえなかったという。

「古くは人別帳で取り扱われた時代にすら死者が出たという記録がなく、ここ百年ばかりは公的機関にさえ死亡届が出されておりやせん」

 そもそも墓がないのだ。

「こちらの改築を請け負った鳴子嬢にもお聞きしやした。改築前に周辺の土地を調べたそうですが……墓らしきものは見当たらなかったと」

 身内だけで埋葬した──この可能性も潰えた。

 つまり、ここ百余年ばかりの井戸家に生きた人々は死亡届が出されてないばかりか、どこかに埋葬された形跡さえ見つからないことになる。

 隠れ里を夢見た一族とはいえ異常なことだ。

 特に死者に対する法令が整えられた近代ではありえない。

 国民として戸籍がある以上、亡くなったのなら市区町村に死亡届を提出しなければ最悪罰則もあり得る。身内とはいえ遺体を勝手に処理もしてはいけない。

 死亡届を出されず──墓もない井戸家の人々。

 彼らどこへと消えてしまったのか?

 まさか、ここより深山幽谷に分け入ってそのまま……。

 そんな妄想が信一郎の脳内に浮かんだ瞬間、両膝を叩く音がした。

 硬く眼を閉ざして歯を食いしばる幸典が、あぐらで座っていた自分の両膝に両手を落とした音だった。喉の奥からは小さな唸り声が聞こえてくる。

「潮時……なのかも知れないな……」

 長年、胸の奥に溜まっていたもの吐き出すような声だった。

 辛そうに深呼吸をした幸典は、意を決したかのようにスクッと立ち上がり、キビキビした動作で土地の権利書類を収めていた書類棚の前に立った。

 そこから何かを取り出すと、振り返ることなく歩き出す。

「よろしければ、ついてきてください……」

 自分の知っていることでよければ……お話しいたしましょう。

 幸典は乾いた声でそう言うと、サンダルを履いて表に出て、屋敷のある敷地内の奥へ向かってトボトボと歩き出した。

 幽谷響が当然のように続き、信一郎もその後を追う。
 氷室と鳴子も成り行きからついてきた。



 幸典の向かう先──そこにあるのは開かずの蔵だった。


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新菜いに/丹㑚仁戻
ホラー
放課後の恒例となった、友達同士でする怪談話。 その日聞いた怪談は、実は高校の近所が舞台となっていた。 主人公の亜美は怖がりだったが、周りの好奇心に押されその場所へと向かうことに。 その怪談は何を伝えようとしていたのか――その意味を知ったときには、もう遅い。 □第6回ホラー・ミステリー小説大賞にて奨励賞をいただきました□ ※章ごとに登場人物や時代が変わる連作短編のような構成です(第一章と最後の二章は同じ登場人物)。 ※結構グロいです。 ※この物語は、法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません。 ※カクヨム、小説家になろうにも掲載しています。 ©2022 新菜いに

煩い人

星来香文子
ホラー
陽光学園高学校は、新校舎建設中の間、夜間学校・月光学園の校舎を昼の間借りることになった。 「夜七時以降、陽光学園の生徒は校舎にいてはいけない」という校則があるのにも関わらず、ある一人の女子生徒が忘れ物を取りに行ってしまう。 彼女はそこで、肌も髪も真っ白で、美しい人を見た。 それから彼女は何度も狂ったように夜の学校に出入りするようになり、いつの間にか姿を消したという。 彼女の親友だった美波は、真相を探るため一人、夜間学校に潜入するのだが…… (全7話) ※タイトルは「わずらいびと」と読みます ※カクヨムでも掲載しています

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

禁踏区

nami
ホラー
月隠村を取り囲む山には絶対に足を踏み入れてはいけない場所があるらしい。 そこには巨大な屋敷があり、そこに入ると決して生きて帰ることはできないという…… 隠された道の先に聳える巨大な廃屋。 そこで様々な怪異に遭遇する凛達。 しかし、本当の恐怖は廃屋から脱出した後に待ち受けていた── 都市伝説と呪いの田舎ホラー

バベルの塔の上で

三石成
ホラー
 一条大和は、『あらゆる言語が母国語である日本語として聞こえ、あらゆる言語を日本語として話せる』という特殊能力を持っていた。その能力を活かし、オーストラリアで通訳として働いていた大和の元に、旧い友人から助けを求めるメールが届く。  友人の名は真澄。幼少期に大和と真澄が暮らした村はダムの底に沈んでしまったが、いまだにその近くの集落に住む彼の元に、何語かもわからない言語を話す、長い白髪を持つ謎の男が現れたのだという。  その謎の男とも、自分ならば話せるだろうという確信を持った大和は、真澄の求めに応じて、日本へと帰国する——。

喰われる

原口源太郎
ホラー
行方知れずだった父が見つかったと連絡があった。父はすでに白骨化していた。私は父の死んでいた場所に花を添えに行った帰りに、山の中で足をくじいてしまった。一人で足を引きすりながら歩く夜の山は恐怖に包まれていた。

放浪さんの放浪記

山代裕春
ホラー
閲覧していただきありがとうございます 注意!過激な表現が含まれています 苦手な方はそっとバックしてください 登場人物 放浪さん 明るい性格だが影がある 怪談と番茶とお菓子が大好き 嫌いなものは、家族(特に母親)

それなりに怖い話。

只野誠
ホラー
これは創作です。 実際に起きた出来事はございません。創作です。事実ではございません。創作です創作です創作です。 本当に、実際に起きた話ではございません。 なので、安心して読むことができます。 オムニバス形式なので、どの章から読んでも問題ありません。 不定期に章を追加していきます。 2025/1/17:『ねえ』の章を追加。2025/1/24の朝4時頃より公開開始予定。 2025/1/16:『よみち』の章を追加。2025/1/23の朝4時頃より公開開始予定。 2025/1/15:『えがお』の章を追加。2025/1/22の朝4時頃より公開開始予定。 2025/1/14:『にかい』の章を追加。2025/1/21の朝4時頃より公開開始予定。 2025/1/13:『かしや』の章を追加。2025/1/20の朝4時頃より公開開始予定。 2025/1/12:『すなば』の章を追加。2025/1/19の朝8時頃より公開開始予定。 2025/1/11:『よなかのきせい』の章を追加。2025/1/18の朝8時頃より公開開始予定。

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