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第四夜 びしゃがつく
第5話 水蛭子
しおりを挟む息をしていない、心音がない、脈の音もない、脳波も聞こえない。
後塚恭子の生命活動を示す音は、完全に途絶えていた。
河原に倒れたままの恭子、それを目端に捉えて幽谷響は口を開く。
「さて、お嬢さんへのお仕置きはこれにてお終い」
幽谷響は軽い口調から一転、ドスを利かせた物々しい声音で告げた。
「次はテメエの番だぜ──水島亮司」
ギロリ、と魔性の眼が動かない恭子を睨みつけた。
動かない恭子の胸が動いた後、喉元が膨らんで何かが這い上がってくる。
恭子の顔が仰け反ると、口を大きく開いた。
ドロリ──ビシャ、ドロリ、ビシャ。
不透明な水飴にも似た粘液が大量に吐き出された。
その粘液は上へ上へと積み重ねられていく。
それはひとつの塊として何かを形作り、粘つく人語を発した。
『くっ……くっそぉぉっ……』
粘液は不定形ながらも人間の形を取る。
その顔は──水島亮司の物だった。
『よくも……殺したなぁぁ……僕の恭子ををぉ……』
濁った水色の拳を握り、スライム状の物体は怨嗟を吐き連ねた。
『やっと彼女は僕を受け入れてくれたんだ……僕が傍にいても拒まず、僕を飲み込んでくれたんだ……僕は彼女と一心同体になれたのに……彼女との蜜月を重ねられると思ったのに……』
形の定まらない肩を怒らせている。
『愛し合えたからこそ僕たちは一体になれた! 嫌だ嫌だと彼女は言っていたが、本心では僕の愛を受け入れててくれたんだ! だから僕はこの姿で彼女の中へと入れたんだ! なのに……お前がぁぁぁ!』
偏執的な愛を語る水島に、幽谷響はあくびをしていた。
それにも飽きると錫杖を振り回して、その先端に再び濁音を凝らす。
ドン! 爆音を響かせて水島亮司の顔をした粘液が弾ける。
「うるせぇよ、クソ餓鬼が」
幽谷響は錫杖を一回転させ、その石突で力強く地面を突く。
「彼女は誰の所有物でもありゃしねえ。彼女の尊厳は彼女の物、テメエのような愚か者が手前味噌の幼稚な愛で脅かしていいもんじゃねえんだよ」
なあストーカー野郎? と毒突いた。
幽谷響は崩れ落ちた粘液に錫杖を突き付けた。
恭子の命を止め、水島亮司の形をした液体を吹き飛ばした物。
その正体は強力な衝撃波──音を統べる魔道師、幽谷響の能力である。
喋る液体を黙らせて、幽谷響は語り出す。
「恭子嬢に突き落とされたテメエには親族から捜索願が出されていた。だが、警察は死体どころかテメエの手掛かりすら掴めなかった。そりゃあ至極当然」
吹き飛ばされた粘液はひとつに集まり、形を変えて人型となる。
「こうして外道と成り果ててやがるんだからな」
外道とは──道を外れた者。
たったひとつの情念に身を焦がし、自分を捨てて何かを追い求める。
渇望のためならば、肉体を異形に変えることも厭わない。
「恭子嬢へのストーキング中、幾度となく警察の眼をかいくぐったところから察するに、その頃から外道としての資質はあったんだろうぜ」
その資質が水死の間際で開花したのだろう。
「粘着質な性格が汚い川の水と相性が良かったのか……テメエでテメエをよく見やがれ。スライムの親玉みてえなその身体、浅ましいったらありゃしねえぜ」
粘液は再び水島亮司の形を取ると、その相好は嘲りに崩れた。
『だが……便利だし……不死身だ』
優勢にあると確信した水島、その態度は不遜極まりなかった。
『今の僕は液体だ! お前がどんな凄い術を持ってても効かないぞ! なにせ僕にはどんなダメージも与えられないんだからな! この力で恭子と一体になれた! そして……恭子の仇も討ってやるッ!!』
恭子を殺した幽谷響に、水島は敵意を剥き出にしている。
「仇……でございやすか?」
幽谷響はどこ吹く風。
蔑むような笑みのまま戯ける口調で言い返した。
「はて、拙僧はどなた様を殺めたんでございやしょうかねえ?」
幽谷響の態度に水島が眉をしかめた時──女の咳き込む声がした。
まさか!? と水島は振り向く。
水島の背後に倒れていた恭子は、信一郎に抱き上げられていた。
信一郎は幽谷響と共に恭子を尾行し、幽谷響が水島を引きずり出すと同時に彼女を保護すると、その介抱に努めていたのだ。
信一郎の腕の中、恭子は意識がないまま咳き込んでいる。
恭子は死んでいない、ちゃんと生きている。
そのカラクリは至極単純──幽谷響が謀ったのだ。
「幽玄の狭間から俗世の雑踏に至るまで、拙僧に従わぬ音はありやせんぜ」
幽谷響は恭子の体内の音を完全に消し去ると、水島に『恭子の心臓が止まった』と思い込ませたのだ。
以前、生物の体内に音を響かせるのは難しいと言っていた幽谷響だが、完全に音をシャットアウトさせることはできるらしい。些細な震動も打ち消されたので、体内に潜んでいた水島さえも勘違いしたのだろう。
結果、水島はまんまと恭子の中から誘き出されたのだ。
しかし、水島にはまだ余裕がありそうだった。
幽谷響が不可思議な術を使おうとも、液体である自分を倒すのは不可能だと考えているらしい。実際、先ほどの攻撃もほとんどダメージがない。
幽谷響だけならば水島は手に負えないかも知れない。
だが、しかし──。
「チンケな御託は聞き飽きた……死ねよ、おまえ」
──この男は違う。
横槍なんて勢いではない、槍衾のように何百もの斬撃が水島を襲う。
液体化した水島の肉体は衝撃を受けると飛び散り、ダメージを緩和させるどころか無効化する。殴られても斬られても肉体的なダメージは『0』だ。
『ぎいっ……やああああああああああああああああああああああああっ!?』
なのに、今の攻撃は水島に絶叫を上げさせた。
『いっ、痛いぃ!? なんでだっ! 僕は水に……液体になったのに……なんでこんな痛いぃぃぃぃっ!? し、死ぬぅぅぅぅぅぅぅぅ!?』
粘液を血飛沫のように撒き散らして、水島は激痛に身悶える。
ダメージを受けないと豪語したはずの肉体が斬られたのだ。
血こそ出ないが、斬り飛ばされた粘液は蒸発するように消えていく。
水島は地面に水溜まりのようにへばりついた。
そこに一振りの刀が突き立てられ、水島はゼリーのように震え上がる。
あろうことか、その刀は液体である彼を地面に縫い止めていた。
水島は潰れたまま硬めのゼリーのようになっている
「愚剣──冥鏡死水」
その男、白山通は無味乾燥な声でそう言った。
「てめえみたいに掴み所のない野郎をぶち殺すしか能のない技だ。まさに愚かしい剣よ。まさか使う日が来るとは思わなんだ……まあ、どうでもいいがな」
悪鬼の形相で水島を見下ろす白山。
手にはもう一振りの刀を握り締めていた。
白山は分厚い靴底で水島の頭部を踏み付ける。
「てめえ……あの娘に何をしたかわかってんのか?」
口答えなどさせない。喋らせないために顔を踏みにじったのだ。
「……てめえはあの娘の笑顔を奪ったんだよ」
無造作に刀が振るわれ、液体である水島の肉体が斬り刻まれる。
くぐもった悲鳴が聞こえてきた。
「女はな……笑顔を奪ったら死人なんだよ。泣かしたら何の価値もねぇんだよ。女を安らかに微笑ませてこそ、男の価値なんだよ! それがわかんねえのかっ!! このダボがぁ!! 死ねやオラぁ!!」
突如、怒号を上げた白山は動きを加速させた。
滅多切りだ。身動きできず反撃もできない水島をズタズタにする。
非情な太刀筋、無惨を極めた一撃。
それでいてトドメを刺さずに嬲り殺しにしていた。
まるで拷問──生死の紙一重を見極めている。
恭子を抱き上げた信一郎は、身震いしながら幽谷響に尋ねた。
「通さん……なんで、あんなに……?」
「ま、仕方ありやせんな」
常軌を逸した白山の凶行を、幽谷響は平然と眺めていた。
「白山の旦那はとある事情で極度のフェミニストなんでございやすよ。それも本来のフェミニズムではなく、俗説での女性を大事にする意味でね。ですから女を泣かせた野郎は問答無用で皆殺しなんでさ」
今回──幽谷響から恭子の気を惹くように依頼された時。
『女を騙すのは感心しねえな。それに気乗りもしねぇ』
白山はそう言って断ろうとしたのだ。
幽谷響が説得に3時間もかけたくらいである。
それでも気乗りしないと宣言した通り、信一郎の弟の振りをしててもずっとふて腐れていたのだ。
今の白山は怒りを滾らせる鬼神。
何人の介入も許されない。信一郎も幽谷響も傍観するしかなかった。
ふと信一郎は抱き上げた恭子に違和感を感じた。
どういうわけか重い──2人分の重みを抱えている気がしたのだ。
水島は既に吐き出されている。
その重みが脱けたと感じるのならばおかしくはないが、その逆なのだ。別の何かが恭子の内側に巣食っている気配があった。
「てめぇ……何が可笑しい」
白山は水島を切り刻む手を止めた。
泣き叫ぶ水島の顔に、微かな笑みを見つけたからだ。
『へっ、へへ……アンタたちがどんなに凄くて……僕より化物じみていても……恭子の心配ばっかりしてるようだから……僕は勝利を確信したのさ……』
瀕死の寸前ながらも狂信の笑顔、水島は見開いた眼で白山を睨む。
それから、愛おしげに恭子を見つめていた。
白山は嫌な予感がしたのだろう。信一郎も同じだ。
死に逝く男が女に遺したがる物は多くない。
例えば──。
「……っっ! てめえ、まさかっ!?」
白山も勘付いたようだ。水島は独りで勝ち鬨を叫ぶ。
『試合に負けて勝負に勝つ……じゃない。試合も勝負も全部僕の勝ちさぁ! 彼女のお腹で眠っている僕の種が芽吹く時、それは遠くない未来に僕たちの愛の結晶となるんだぁ!』
「──いいや、無理だね」
信一郎は恭子を地面に下ろし、横たわる彼女の腹にそっと手を添えた。
「彼女の体内に潜んでいる時に細工をしたんだろうが……人間を辞めて生殖能力を失った君が彼女を孕ませるのは不可能だよ。子種なんか残せるわけがない」
信一郎の掌が淡く輝き、音もなく恭子の中へと潜り込む。
外傷を与えず、目覚めもせず、信一郎の掌は彼女の体内をまさぐった。
「君は彼女の胎内に自分の欠片を残したに過ぎないんだ」
目当ての物を見つけた信一郎は、それを掴んでから掌を引き抜いた。
──それは水蛭子だった。
辛うじて胎児の形をしているが、あまりにも不格好で透き通るように薄い。
今にも崩れ落ちそうなそれが、人になるとは思えなかった。
だが、水島には意味のあるものだったのだろう。
彼女への愛の証にと遺した物。その愛を証明する種だったはずだ。
信一郎が力を込めると、掌から水を握る音がした。
「不出来な水蛭子は始末するのが神話の時代からの習わしだ。少なくともイザナギとイザナミはそうした」
粘液は飛び散り、不完全な命は跡形もなく流される。
「ましてこれは不善な物……水蛭子でなくとも常世へ流すべきだ」
そして、水島の勝ち誇った余裕も着せ失せた。
水島は押し寄せる波濤のような恐怖にすくんでいることだろう。
音界を支配して幻惑を操る魔性の僧──。
恐ろしい魔剣を豪快に奮う黒服の男──。
そして、生命を自由自在に弄ぶ魔女──。
本物の化物、本当の人外、真正の魔物、実在の妖怪──。
それをまざまざと見せつけてられたのだ。
次元の違いを実感したはずだし、真の恐怖を痛感させられただろう。
『ちっ……ちっきしょぉぉぉぉおおおおっ!』
負け犬らしい遠吠えを上げ、水島は液体の身体を痙攣させた。
自身を縫い止める刀に引き裂かれるのも構わず、渾身の力で液体の身体をアメーバーのように動かす。
努力の結果、水島は白山の刀から逃れられた。
そのまま脇目も振らずに川を目指す。
川に溶け込んで逃げることしか頭にないのだろう。
だから──背後で何が起きているのか見ていなかったのだ。
「ド阿呆が……とっとと去ね」
白山は刀を構えた。
右手に大振りの刀を握り締め、弓矢を引き絞るような型で構える。
脚を大きく開いて腰を落とした構えは、片手突きの構えにも似ていた。
だが、目標である水島はもう川縁に到達している。
神足の踏み込みだとしても間に合わない。距離も間合いも開きすぎだ。
その一切を無視して、白山はその場で突きを撃ち込んだ。
信一郎にはそれが2コマの画像に見えた。
構えた姿から突いた姿へは刹那──途中のモーションが皆無なのだ。
次の瞬間、爆風と地鳴りが周囲を揺るがした。
凄まじい衝撃波が白山の刀から渦巻くように迸ったのだ。
それは竜巻のように螺旋を描き、耳を劈く爆音を轟かせて夜を貫いた。
衝撃波はおぞましい魔獣の咆吼のように、行く手にある全てを滅ぼした。
大地は薙ぎ払われ、草木は瞬く間に塵となる。
その真っ直中に飲み込まれた水島は、一瞬で蒸発してしまった。
衝撃波は川を割り、川底をも削り、向こう岸の河原を灰燼にして、土手を抉るように薙ぎ払う。そこで軌道がずれたのか、そのまま夜空へと昇っていった。
衝撃が過ぎた後、河原に塵が舞い散るばかり。
気付けば白山の足許もクレーターのようにへこんでいる。
あの衝撃波を放った時の踏み込みなのだろう。
爆風と共にあった地鳴りの正体がこれだったらしい。
「駄剣──滅至咆吼」
構えを解いた白山がボソリと呟いた。
──これが駄剣?
信一郎は驚愕した。これは秘剣とでも名付けるべき威力だ。
しかし、白山の握る刀を見て納得した。
拵えの立派な刀は、今の一撃でみすぼらしい棒切れとなっていた。
柄は握り潰され、刀身は刃零れと亀裂だらけ、鍔は砕け散っている。
刀としては見る影もない。
一撃で刀を駄目にするから駄剣──なのだろう。
まだ憤懣やるかたないのか、白山は怒り肩を上下させていた。
使い物にならなくなった破刀をチラッと見ると、大きく振りかぶって波打つ川面へ投げ込んだ。それだけで大きな水柱が起ち上がる。
折れた刀は水中に没していった。
「フン……勿体ないが、墓標代わりにくれてやる」
それでも気が収まらないのか、近寄りがたい闘気を発散させていた。
「ま、あんな阿呆にゃあ念仏唱える気にもなりやせんわな」
白山に同感した幽谷響は呆れるように呟いた。
「異生羝羊心……凡夫にして雄羊の如き性根で生きる者の見本のような男でございやしたな。凡夫、酔狂して善悪を弁えず。愚童、癡暗にして因果を信じぜざるの名なり。つまり、どうしょうもない愚か者」
それでも愚か者を弔うために鈴がなる。
「愚痴無知──でございやす」
「……馬鹿は死んでも治らない、とも言うけどね」
信一郎は溜息混じりに言った時、微かな呻き声が聞こえた。
気絶していた恭子が目覚めようとしていたのだ。
信一郎が慌てるよりも早く、幽谷響は倒れた恭子へと近寄った。
手にした鈴を鳴らして、幼い子供へ言い聞かせるように優しく唱える。
「……今宵のことは悪い夢、悪しき幻想でございやす」
幽谷響は穏やかな声で告げると、チリーンと鈴を鳴らした。
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