道参人夜話

曽我部浩人

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第四夜   びしゃがつく

第4話 彼女の犯した罪

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 後塚うしろづか恭子きょうこは駅のホームで源田げんだ信乃しのを待ち続けた。

 最近、帰宅が遅くなる時は彼女と一緒じゃないと帰れない。
 あの凛々しい彼女だけが、夜道を歩く恐怖を緩和してくれるのだ。

 何より恐いのは──ビシャ、と響く不快な水音。

 どこからともなく迫ってくる、気味が悪くていやらしい音だ。

 これから生涯──この恐怖に脅かされていくのか?

 そう思うと気が滅入り、知らず知らず項垂れてしまう。
 項垂うなだれる恭子の肩に、優しく手が添えられた。

「ごめん、待たせちゃったみたいだね」

 振り返れば中性的な美女──源田信乃が立っていた。

 ユニセックスで綺麗な顔立ち、長身で女性らしい曲線が描かれたボディ。
 大学に勤めてないで、モデルでもやった方が全然似合う美人だ。

 一ヶ月前、夜道で錯乱しかけた恭子は、通りかかった彼女に助けられた。以後も何かと世話になっており、おかげで恐い思いをせずに済んでいる。

 ある日、送ってくれた信乃を部屋に上げ、恭子は自分の恐怖心を打ち明けた。

 夜道が恐い、背ろが恐い──水音が怖い。
 そう繰り返す恭子を、信乃は優しく慰めてくれた。

 そして、これからは帰り道を送って上げるとまで申し出てくれたのだ。

 いつしか信乃は恭子にとって頼れる女友達になっていた。
 言動や行動がちょっと男っぽいけど、そこがまた頼もしい。

 頼り甲斐のあるお姉さんと言った感じで、恭子は全幅の信頼を寄せていた。
 しかし、今夜は少々様子が違った。

 いつも一人で現れるはずの彼女に同伴者がいたのだ。

 背の高い、逞しい青年だった。

 信乃と同様に黒いスーツを着込み、鎧のようにゴテゴテした黒いロングコートを羽織っている。全身に殺気立った空気を漂わせていた。

「あ、後ろのでっかいのを紹介するね。私の弟で源田げんだとおるって言うんだ。しばらく私の家で泊まっていくことになったんだ……ほら、挨拶しなさい」

「……ども」
 どこかふて腐れた態度だが、通は会釈した。

 弟と聞いて何故かホッとした恭子は慌ててお辞儀を返した。

 観察してみるが、見れば見るほど信乃とは似ていない。
 まるっきり美女と野獣である。

 だが、そこはかとなく共通する部分があるようにも感じられた。
 どこか一般人とは違う──特別なオーラを発している気がするのだ。

「こいつの迎えで遅くなっちゃったんだ、ごめんね」
 弟の分厚い胸板を叩いて、信乃はこんなことを持ち掛けてきた。

「そうだ。私が恭子ちゃんの帰りに間に合わない時は、こいつに送り迎えさせようか? どうせ暇なんだから、それぐらいできるだろ?」

「……ああ、構わねえぜ」

 無愛想な態度だが通はあっさり引き受けてくれた。
 恭子としては恐縮するしかない。

「いや、いいですよ! ただでさえ信乃さんに迷惑かけてるのに、弟さんにまでご迷惑かけたら……」

「いいっていいって、私たちは全然気にしないからさ。な、通?」
「……ああ、わかった」

 信乃は強引に決め、通は無愛想にそっぽを向きながら頷く。

 結局──その日は源田姉弟に送ってもらってしまった。

 せっかくだからお茶でもと誘ったが、源田姉弟は丁寧に辞退した。

「こいつが家で暮らすための雑貨が届くんだ。それを受け取ったり片付けないといけないからさ。今日はお暇させてもらうよ」

 また今度誘って、と信乃は笑顔で手を振りながら帰っていった。

 彼女の後ろには通は押し黙ったままに立っている。
 ドアが閉められる寸前、恭子は彼と視線を交わした。

 はっきり言って目付きは最悪。
 暗黒街を渡り歩く極悪人のような藪睨やぶにらみだ。

 でも──瞳の輝きは澄んでいた。

 それに信乃や恭子を見つめる眼は、誰かを護るボディーガードのような眼をしていた気がする。いや、考えすぎかも知れない。

 初めて会った人をそんなに買い被るなんて──恭子は自重した。

 それでも源田通という男性について考えてしまう。
 最近の男性にない硬派な雰囲気が、素直にカッコイイと思える人だった。

 女性を相手にしても媚びず、不貞不貞ふてぶてしく不機嫌そうに接する。
 それでいてさりげなく気遣ってもくれた。

 帰り道でも背後を恐れる恭子を気遣って、護衛のように後ろを守りながら歩いてくれた。

 今度はあの人が一緒に帰ってくれる。

 そう思うだけで恭子の心は弾んだ。
 あれほど恐れていた帰りの夜道が待ち遠しくなっていた。

 ようやくわかってきた──これは間違いなく一目惚れだ。

 今の恭子は誰の眼から見ても恋する乙女だろう。

 久々に浮かれた気分に浸っていると──ビシャ、と水音がした。

 帰ってきてから何もしていない。外着から部屋着にさえ着替えていない。

 ましてや水回りには少しも触れていない。なのに──ビシャ。

 ──ビシャ、ビシャ、ビシャ。

 不快な水音は繰り返される。どこが発信源かわからない。

 しかし、とても近い。耳元で聞こえている気がした。
 まるで自分の背後でずぶ濡れの誰かが足踏みしているかのようだ。

 固まりかけた腕をなんとか動かして、どうにか両耳を塞ぐ。

 水音に脅える恭子が取れた最後の抵抗。
 しかし、それは虚しい行為だった。

 その水音は耳を塞いでも聞こえてきたからだ。

 ビシャ、ビシャ──。

 音が響いてくる場所──それは恭子自身の内側から聞こえてくる。

 ビシャ、ビシャビシャビシャビシャビシャビシャ、ビシャ──。

 恭子は耳を塞いだまま悲鳴を上げて、外へと飛び出していた。

 どれだけ走ったのかわからない。それでも覚束ない足取りで走る。

 駆け抜けた風景を覚えていない。夜と闇しか眼に映っていなかった。

 物静かな夜に響く物音は何ひとつ聞こえない。
 今、恭子の鼓膜に響いているのは自身から発する音だけだ。

 アスファルトを蹴る自分の足音、酸素を取り込もうとする荒い吐息、血液を全身に送ろうと激しく動く心臓。

 耳を押さえる手に流れる血液の音さえ聞こえてくるようだ。

 それらに混じり──ビシャ、という水音。

 聞こえてくる水音から、ただ逃げたくて恭子は走り続けた。
 恐怖に追い立てられるまま、見えない操り糸に従うように走っていく。

 やがて、鼓膜に新たな音が響いてきた。

 チリ──────ン……。

 寂しい鈴の音を耳にして、恭子の脚はようやく止まった。

 気付くと不快な水音も消えていた。恭子は恐る恐る耳から手を離す。

 その耳に──川のせせらぎが聞こえてきた。
 利かぬ夜目で自分のいる場所を確認する。

 ──そこは河原だった。

 マンションの近くにある川の河原。恭子が恐れて近寄れなかった川だ。
 なのに、恭子は導かれるようにやって来てしまった。

 何より恭子を恐れさせたのは河原の風景だ。
 近寄ったことがないのに、強い既視感デジャヴを覚えていた。

「そりゃあ当然でございやしょう」

 声が聞こえてくる。
 深淵から這い上がってくる禍々しい声だ。

「貴女様はここで──人を殺したのでございやすからね」

 恭子より二十歩ほど先、小さな闇がうずくまっている。

「道から堕ちる果てには魔道……」
 錫杖を鳴り響かせ、散り散りに破れた衣をはためかせる。

「道から外れる果てには外道……」
 数珠が擦り鳴らせ、崩れかけた網代笠を持ち上げる。

「望み求めて欲せども、いずれ道も尽き果てる……そこには何もございやせん」
 最後に鈴を打ち鳴らし、僧形の小男は口上を始める。

「拙僧の名は幽谷響やまびこ──未練がましい死霊の愚痴を聞き入れ、その言の葉を生者に代弁せんとする者。喚き立てる亡者の罵詈雑言を聞き届ける者にございやす」

 いつぞや夜道で自分を惑わした怪物。

 ──その眼光が恭子をその場に縫い止める。

「や……やまびこ……?」
 辛うじて動く口で男の名を繰り返す。

 幽谷響は返事の代わりに錫杖を打ち鳴らした。

「さて──貴女様がこの河原に見覚えがあるのは当然でございやす。なんせここで人を殺したのでございやすからね。ほら、そこの……」

 ──鉄橋から突き落としてね。
 錫杖で鉄橋を指し示しながら幽谷響は続けた。

「その後、貴女様は落とした相手を助けるつもりだったのか、川から上がってきたらトドメを刺すつもりで待ち構えたのか……どういうつもりか知りやせんが、この河原へとやってきた」

 川辺特有の雑草が生い茂る河原である。

「それゆえに既視感に覚えるのは、当然のことでございやす」

 衝撃の事実を告げられて、恭子は顔面蒼白になった。

「そ……そんな……私……」
 覚えがない、記憶がない、実感が湧かない──なのに、ショックがある。

「覚えがない、記憶がない、実感が湧かない……そうでございやすね?」
 幽谷響は恭子の心を易々と読んでいた。

「そりゃあそうでございやしょう。貴女様が殺したのは縁も所縁ゆかりもない赤の他人、貴女様の日常には何の関わりもありやせん。消えたところで貴女様に差し障りはない。それに貴女様は人殺しをするにゃあ……」

 肝が弱すぎた──そう言って幽谷響は恭子を睨む。

「貴女様は人を殺したショックから茫然自失となり、頭に強い衝撃を受けたように簡易的な記憶喪失になってしまった……恐らく精神が自我を保つため、記憶を改竄かいざんしちまったんでやしょう」

 だから覚えがなく、記憶がなく、実感が湧かないのか?

「記憶を失おうとも知人を殺したとあれば支障が出やす。ですが、殺した相手は名前さえ知らぬ赤の他人。ゆえに記憶喪失は功を奏してしまいやした」

 恭子の記憶にある壁のようなものが崩されていく。
 あまりの事実に声が出ない恭子だが、ぶつけたい疑問は幾つもあった。

 幽谷響は彼女の心を読み取って代弁する。

「では聞きたい。私は誰を殺したのか? その証拠はどこにあるのか──そう問い質したいと顔に書いてありやすね。よろしい、お答えしやしょう」

 幽谷響は懐から一枚の写真を取り出し、それを器用に投げ飛ばしてきた。
 その写真を見た瞬間、恭子の胃から気持ち悪い物が込み上げる。

「それが貴女様の殺した男──水島みずしま亮司りょうじでございやすよ」
 恭子は眼が逸らせなかった。

 飛び出すように大きな丸い眼、薄笑いを浮かべている大きな口。両生類のヤモリを連想させる痩身の男を見た瞬間、恭子は吐き気を催した。

「半年前、この男は花屋でバイトしていた貴女様に一目惚れした」

 恭子の身辺に忍び寄り、そのすべてを見届けようとしてストーカーになった。
 そして、恭子はすぐに不審な男の存在に気付いた。

 幽谷響は懐を探ると、数枚の書類らしき物を取り出す。

 それにも見覚えがある──警察に届け出たストーカー被害の書類だ。

「昨今のストーカー事件は凶悪でございやす。それを危惧された貴女様は警察に駆け込んで被害届を出された。警察もこの手の事案では不手際で散々叩かれやしたからね、早急に対処してくれやした。でも、この男は勘が良いのか運が良いのか、ことごとく警察の手から逃れやした」

 恭子は何度も警察に訴え、男に注意を促すように要求した。
 警察も出向いたのだが、男は本当のヤモリのように掴み所がなかった。

 警察が来た時にはおらず、恭子が一人の時を狙うように現れる。

「それを繰り返した結果、警察は狂言を疑い、本気で取り合わなくなりやした。そして四ヶ月前……ついに貴女様は警察に頼るのを止めた」

 だからこそ、水島は調子に乗り始めた。

 警察が訪れなくなると知るや否や、堂々とストーキング行為を楽しんだ。

 いつでもどこでもどんな時でも彼女の身近に潜んでいた。
 そして、彼女を眺めているだけなのだ。

 告白もプロポーズもしない。ひたすらに恭子の傍にいるだけなのだ。

「度胸がないのか、女に免疫がないのか、それとも貴女様を視ることだけを楽しんでいたのか……その本心は知りようもありやせん」

 だが、水島は恭子にまとわりつき、恭子は水島をひたすら嫌悪した。
 やがて募らせた嫌悪は憎悪へと変わり、恭子の性格を攻撃的なものにした。

「ある日のバイトの帰り道、貴女様はあの鉄橋で水島を捕まえ、その口で水島へ侮蔑の言葉を吐き捨てた。それに水島は逆上して貴女様に手を出そうとしたが、所詮は軟弱野郎、逆に鉄橋から突き落とされてしまった」

 それが事の真相でございやす、と幽谷響はそう締め括った。

 恭子は──完全に記憶を取り戻した。

 幽谷響が捏造した作り話などではない。恭子の手は感触を覚えていた。

 気持ち悪い男を鉄橋から突き落とした感覚、落ちていく男の不気味な悲鳴、落ちていく男の絶望に染まった表情……。

 断片的な記憶がゆっくり紡がれていく。

 男を突き落とした後、確かに彼女はこの河原へと降りてきた。

 助けるためなのか、息の根を止めるためだったのか──。
 そこまでは考えていなかったはずだ。

 誘われるように来て──私は何をしようとしたのだろうか?

 そこから先を思い出せずにいると、錫杖の鉄輪が鳴り響いた。

「貴女様はすべてを忘れてしまいやした。ですが、良心は罪悪感に嘖まされていたのでございやす。貴女様が恐れていた水の音……」

 ──それは罪悪感から来るものでございやす。

 ビシャ、ビシャ、ビシャ──。
 濡れた足音が聞こえてくる。

 そう──これは忘れてきた罪が追いかけてくる足音。
 川底へと沈められたあの男が、恭子を追いかけてくる足音なのだ。

「無論、貴女様に御迷惑を掛けた水島亮司なる男に非はございましょう」
 シャリン、と錫杖が強く打ち振るわれた。

「ですが、人を殺めた罪は罪。それ相応に償っていただきやしょうか」
 幽谷響は魔法を使うように錫杖を振り回した。

 錫杖の先端からザラザラとした耳障りな濁音が響く。
 そこに溜められた力が投げられ、見えない何かが恭子の腹部に接した。



 その瞬間──後塚恭子のすべてが停止した。


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