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第三夜 樹木子
第5話 碧き修羅は夜に啼く
しおりを挟む「だが、もうすぐこいつらもお払い箱となる」
震々は自身を語る喜びに目覚めていた。
桜の巨木に手を添えて、雄弁に語り始める。
「幽谷響、年若き貴様は知らぬだろうがな……この村はかつてある魔道師の実験場だったのだ。山深く利便が悪く、中央政権の手が届かぬこの地は絶好の場所だった。そして、特筆すべきはこの巨木!」
震々はか細い掌で、ヒタリと桜の幹を叩いた。
「これぞ『彼の地』より招いた神の依代! かつてある魔道師は『彼の地』の恩恵に授かるため、人々の血肉を贄に『彼の地』より神を喚ばんと試みた!」
数え切れぬ犠牲の果て、『彼の地』より神を招くことに成功したという。
この桜はその神より力を受け、『彼の地』の力を色濃く残留させた。だからこのような山中においてこれほど立派に成長を遂げたらしい。
「この巨木こそ……我が魔道を成就させる要なのだ!」
──歴史に埋もれたこの地の真実が少しだけ読めた。
かつて、この地で非道の行いをした魔道師がいたらしい。
多くの犠牲を捧げられたこの桜に『彼の地』より招かれた神とやらが憑き、それがその後どうなったかは知らない。
だが、残された巨木に不穏な噂がつきまとうのは当然だろう。
それを学識ある何者かが、大師伝説を交えて隠蔽した。
恐らく──この地の悪行を封じたのは別の魔道師だろう。
六道輪廻より外れたと公言すれど、魔道師とて善悪の区別がある者はいる。
魔道師が悪業を犯せば、それを食い止める責任は魔道師が取るのだ。
つまり、最初に訪れた僧が悪行を成した魔道師で、後に訪れた僧が悪行を封じた魔道師だと推測される。
そして、後者の魔道師が真実を隠蔽したのだろう。
幽谷響の聞いた噂と九重の語った話に齟齬があるのは当たり前だ。
幽谷響の噂は魔道より端を発するものであるのに対して、九重の話は表向きに伝えられた伝承だったのだ。
だが、その真実よりも『彼の地』が問題だった。
「『彼の地』だと? 震々、貴方様の申す永劫不滅と言うのはよもや……」
気付いた幽谷響に、震々は勝ち誇るように宣言した。
「そうだ! 永劫の彼方にある神の国──『常世』へ渡ることだ!!」
~~~~~~~~~~~~
「──ふざけるな」
幽谷響は足下から震え上がるような悪寒を感じた。
凛とした声がして、奇妙な風が吹いた。
夜風にしては暖かく、そよ風にしては重く、身体を揺らすほどの風だ。
幽谷響の背後から吹き抜け、死人の群れと震々を煽る。
そして、桜の巨木を仰ぐように吹いた。
その時、幽谷響は心の底から恐怖した。
森羅万象を飲み込むような凄まじい激怒──何故、気付かなかった?
土、水、木、風、草──。
辺りを取り巻く自然が絶叫を上げており、幽谷響の鼓膜を狂わせた。
それは物々しい怒気を孕み、更に鼓動を高めている。
自然その物が牙を剥かんとしているのだ。
それらの原因となる人物に思い至り、幽谷響は恐る恐る背後を見上げた。
「せ……先生?」
明らかなまでに様相が激変していた。
風に揺れる髪はいつも以上に長く、その髪に隠れて表情が窺えない。口元は固く結ばれている。
何より異変が生じたのは──その長い髪だ。
月光に輝く髪は深緑に染まり、エメラルドのような宝玉の光沢を放っている。
怒っている──『木魂』を本気にさせてしまった。
それがどれほどの恐怖を巻き起こすかは、先代『木魂』と親好があった幽谷響は身に染みている。その怒りは世界を敵に回すに等しい。
いいや──自分の肉体すらも敵に回ってしまうのだ。
幽谷響は脅える獣のようにその場を飛び退いた。
一歩、また一歩と大地を踏み締めていく信一郎。
未見の迫力に内臓が縮み上がる。
何も知らない震々は、道教で使われるような鐘を手にする。
その顔は己の揺るぎない勝利を確信していた。
「クツクツクツ……『常世』への扉を開くには、やはり贄を捧げて神とやらを招き、あちらから道を開かせるより他にない! まだ贄が足らぬのだ! さあ、我が奴隷の爪に掛かり、その血肉をこの桜に進ぜよ!」
手にした鐘を鳴らせば、死人の群れが信一郎に襲い掛かった。
死人が信一郎に群がる、その刹那──。
蝋燭が燃え尽きるような音をさせて、死人たちは無惨に散った。
信一郎は大きく弧を描くように右腕を振っただけ。
その右腕に触れた死人は朽ち果てる老木のように砕けた。いや、それだけで終わらない。地に落ちた残骸も、瞬く間に土へと還った。
通常、生物の死骸は腐敗などの行程を経て土へと還る。
しかし、信一郎はそれらの行程を省略して、触れた存在を一瞬にして土へと還してしまったのだ。
生命を司る『木魂』にしか扱えぬ──生命を大地へ還す御業である。
「なっ、なんだとぉぉぉっ?」
状況が飲み込めない震々は、幾度となく鐘を鳴らして死人を繰り出した。
その猛攻に信一郎は怯みもせず、舞踏のような華麗な動きで両腕を振るい、次々と死人を土へと変えた。普段の信一郎からは想像も付かない体捌きだ。
幽谷響も感心する洗練された動きで、信一郎は死人を駆逐していく。
月光に瞬く長い緑髪を振り乱して、艶美な肢体をくねらせて舞うように踊るように、蜜に群がる餓鬼のような死人たちを屠る。
その様は神々しくも──禍々しい。
月下に舞い踊るのは、女神の姿を借りた魔性の具現化。
鬼女、魔女、狂女──どのような尊称で湛えるべきか幽谷響は迷った。
形容するのももどかしい。あそこで舞い踊るは唯一匹の修羅である。
一瞬、修羅の舞踏が鈍った。
信一郎の腕に、表情をなくした九重がしがみついていた。
それを確認した信一郎はわずかながら動揺したが、血が滲むまで唇を噛み締めて彼女を振り払う。
振り払われた九重は大地に倒れ伏す前に、土へと還っていた。
そして、信一郎の所作は激しさを増す。
あれだけいた死者の群れを、瞬く間に土へと還していく。
辺りには土に還りきれなかった骸の残骸がゴロゴロと転がり、さながら死屍累々の戦場のような風景へと変わっていった。
その中央に佇むのは、緑色の髪をたなびかせた死の女神。
信一郎の前に小さな影が立ちはだかる。
──八重だ。
焦点の合わぬ虚ろな瞳で信一郎を見上げ、生気の通わぬ表情に僅かながら切なさの翳りを帯びて、ほんの少しだけ悲しそうに微笑んだ。
一筋の涙が零れる小さな頬に、信一郎は優しく手を添えた。
その顔に安堵が灯ると、少女は足下から静かに大地へと還っていった。
「もういい……もう眠っていいんだ、八重ちゃん……ゆっくりお休み」
苦汁を飲み干したような声が夜の静寂に響いた。
そして、震々の前に信一郎が立つ。
既に震々は言葉を失っていた。桜の根元にへばり付き、信一郎に向けて悪魔でも恐れるような眼差しを送っている。腰も抜けてまともに動けないらしい。
震々の視線が、避難済みの幽谷響の眼と合った。
幽谷響は凄絶な笑みで、震々と信一郎を遠巻きに眺めている。
「震々──貴方様の永劫への道も、今宵で幕引きのようでございやすね」
なにせ──『木魂』を怒らせてしまったのだ。
たとえ生き残れたとしても、もう魔道を歩むことはできまい。
「き、貴様は……一体……そ、その力はっ!?」
近付いてくる信一郎から逃れようとするが、震々の手足は動こうとしない。
信一郎は許しを請う間も与えず、その掌は震々の喉元を握り締めた。
震々を片手で持ち上げ、御大師様の桜へと叩き付ける。
「そんなに……死にたくないか?」
質問の最中に殺しても構わない。
信一郎はそれほどの力で震々の首を締め上げていた。
「何の罪もない人々の命を踏み台にして、浅ましくおぞましく抜け殻のような、そんな有り様になってまでも生きたいか? そこまで生き意地が汚いのか?」
焦げ茶色の泡を噴き上げ、震々はどうにか声を絞り出した。
「い、生……き、たい……死ぬ……のは……嫌、だぁ……」
蒼い涙を流して信一郎は宣告する。
「ならば永遠に生かしてやる! この世で最も永遠に近い生命をくれてやる!」
眼には映らぬ凄まじい力の流れが、信一郎から噴き上がる。
それに応じて御大師様の桜が大きく脈を打った。それは根の末端から葉の一枚にまで及び、雄大な沈黙を守っていた桜の意志を目覚めさせた。
木材がへし折れるような音が震々の背後から伝わる。
太い幹から蔓のように枝が生え、まるで生物の触手のようにのたうち、震々の腕や足に、そして首や腹にもしっかりと絡み付いた。
──やがて異変が起きる。
絡み付いた桜の枝が徐々に震々の身体へと浸透し、彼の身体を瑞々しい桜の巨木と同化させていった。
震々は自分がどうなるのかを悟り、みっともなく泣き叫んだ。
「い、嫌だぁ! 違う! 我が望んだのは、このような自由なき永遠ではない! 我が望んだのは『常世』での永劫……『常世』へ……っ?」
震々は気付いた──信一郎の放つ力が桜と共鳴していることを──。
「まさか……貴様は……喚べるというのか!? その力は『常世』から喚び込んで……貴様は『常世』の……ぐおっ?」
桜の枝が動き、喚く震々の口を抑え込んだ。
「──教えてやるかよ、そんなこと」
はっきりとした澄んだ声には、残虐さが加味されていた。
「不滅を望んだんだろう? 永劫を求めたんだろう? なら安心しなよ。この桜は紛れもなく『常世』の力で育まれた木だ。滅多なことでは枯れもしない。おまけにこんな山奥に生えているんだ。誰にも邪魔されずに永遠を味わえる」
ウンザリするぐらい──たっぷりとね。
ゾッとするほど妖艶な笑みで信一郎は叫んだ。
「せめて最後に咲かせてみせろ……あの娘たちへの手向けの華を!!」
信一郎は震々の薄汚い命を、ある形へと昇華させた。
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