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第三夜 樹木子
第2話 桜の沢に住む少女
しおりを挟む「夕焼け小焼けで日が暮れて~♪ 山のお寺の鐘がなる~♪」
「ついでに先生も自棄になられたようで……」
信一郎は茫然自失のままで不貞寝していた。
さっきから幽谷響が宥めてくるが受け入れつもりはない。女体化した肉体を元に戻すのも面倒なくらいだ。我ながら精神的に消耗しているのだろう。
「やれやれ、どうしたものでございやすかねぇ……ん?」
途方に暮れる幽谷響が、何かの物音を捉える。
「何か…来やすね。しかし、生き物にしちゃ鼓動が……?」
妙な言い方をする幽谷響だが、信一郎を聞き流した。
「──お姉ちゃんたち、こんな所で何してるの?」
あまりに若々しい声に振り向いて、二人はハッと身構えた。
声の主は、一人の少女だった。
年の頃なら十代に届いたばかり、ボブカットなのかオカッパなのか判別しづらい髪をした温和そうな少女だ。夏山を歩き回るのに適したズボンやパーカーを着て、右肩には山菜を詰めた籠を背負っている。
不思議そうな顔で、信一郎と幽谷響を交互に見比べている。
「もうすぐ日が暮れるから、早くお家に帰った方がいいよ。夜の山って怖いんだよ。夏だからって甘く見てると酷い目に遭っちゃうからね」
少女のもっともな忠告に、幽谷響は腰を上げて話しかけた。
「御忠告は感謝いたしやす。ですが、安易に帰れない理由ってのもあるんでございやすよ。そんなわけで、ちとお訊きしたいんでやすが」
幽谷響は例の村について尋ねてみた。すると──。
「ああ、それならアタシの住んでる村だよ」
「本当でございやすか!?」
幽谷響が驚くので、少女はおかしそうに笑った。
「嘘ついてもしょうがないでしょ。じゃあ、お坊さんとお姉ちゃんはずっとウチの村を探して、この山ん中をぐるぐる回っていたの?」
「お恥ずかしい限りでございやすが……全く以てその通りでございやす」
幽谷響が生真面目に頭を下げると、少女はコロコロと笑う。
「そうなんだ。じゃあ惜しかったね。もうちょっと頑張れば、ウチの村まで辿り着けたのに。ここから歩いて十五分ぐらいのとこなんだよ」
少女はそう言って山道の上を指した。
「だったら着いてきなよ。アタシも家に帰る途中だから、案内してあげる」
少女は気さくに促すと、山道を先陣切って歩き出す。
信一郎と幽谷響は礼を述べつつ、少女の後に着いていった。
──少女は八重と名乗った。
幽谷響と信一郎もそれぞれ名前と素性を明かした。
「へぇ、お姉さんって大学の先生なんだ。ウチの村の桜を調べに来たの?」
「え、ええ、まあ、概ね間違ってないんだけどね……」
複雑な表情で信一郎は微笑み返した。
本来の性別である男に戻る機会を逃して、女性の姿のままなのだ。
傍らでは事情を知っている幽谷響がニタニタと笑っていたので、信一郎は釘を刺すようにジロリと睨んだ。
八重は村の状況を教えてくれた。
幽谷響と信一郎が探していた村の名前は特になく、地名では桜沢と呼ばれているので、そのまま桜沢村と呼ばれている。
彼女はその村で祖母と二人で暮らしているという。
「学校へ通うのとか大変じゃないの?」
「馴れちゃえば平気だよ。アタシ歩くの好きだしね」
信一郎のありきたりな質問に、八重は屈託のない笑顔で答えた。
今日は足腰の弱った祖母の代わって山菜採りをしていて、その帰り道でたまたま幽谷響や信一郎を見掛けたそうだ。
八重に先導されるまま、薄闇に覆われた山道を進んでいく。
彼女の言った通り、歩いて十五分もしないで村への入り口に辿り着いた。
「しかし、入り口と申しましても、これは……」
「へへ、凄いでしょう?」
本来なら山道から逸れた脇道だったのだろう。
しかし、鬱蒼とした木々が行く手を阻むように生い茂り、注意していなければ確実に見落としてしまう。これは見つかるはずがない。
まるで作為的に道を隠しているかのようだった。
「村のみんながこまめに伐採しるんだけど、すぐに元に戻っちゃうんだ。もう諦めちゃったよ。だから、こうして……よいしょっと」
細い手足で巧みに木々を押し退け、その奥に続く道を開く。
今までの山道など比べものにもならない悪路へと分け入ること数十分、目の前に集落の風景が開けた。
沢伝いにできたわずか十数戸の──本当に小さな集落である。
新鮮な水と緑の香りに包まれた、夕闇に沈む古びた村。在りし日の日本を偲ばせる郷愁感を漂わせるも、それは過疎化が進行している現れでもあった。
古き良き風景に信一郎が見とれていると、幽谷響は怪訝そうに鼻を鳴らす。
「……どうにも饐えた臭いがしやすね」
山が土の熟した香りで満ちているのは当然だ。しかし、幽谷響はそれとは異なる匂いを感じ取っているようだった。
落ち着かない、と言いたげな顔付きである。
「ねえ、八重ちゃん。この村にはどれくらい人が住んでるの?」
「えーとね、三十人いるかいないか、ってぐらい。あっちに一人、こっちに二人って感じでパラパラ人が住んでるよ。前はもっといたんだけどね」
無人になっちゃった家もあるんだ、と八重はいくつかの廃屋を指差した。
「でも、一昨年にアタシが来たから村人の数が増えたんだよ」
八重は都会での生活で体調を崩してしまい、その養生で祖母の住むこの村に連れてこられたという。こちらの生活が性に合ったのか、今では必要以上に健康を取り戻し、都会に戻るのが嫌になってここで暮らしているそうだ。
八重は愛想の良い娘だった。
この村では話相手が少ないからなのか、信一郎や幽谷響に片時も休まず話し掛けてくる。
「あ、そうだ。お姉ちゃん達、どうせだったら家に泊まれば?」
話の途中で気付いたのか、八重は気軽に言った。
先輩や教授はフィールドワーク中、平気で他人の家に厄介になると聞いていたが、信一郎は未経験なのでつい躊躇した。
だが、宿もないこの村では他に選択肢もなさそうだ。
「え、いいの?」
「いいよいいよ。どうせアタシと婆ちゃんだけだもの。大したおもてなしはできないけど遠慮しないで。それに婆ちゃんなら古い話も知ってるはずだよ」
八重は恐縮する信一郎を引っ張って、自分の家へと連れて行った。
彼女の祖母である九重も、孫娘に輪を掛けて愛想が良かった。
農家の土間で夕飯の支度を始めていた九重は、八重が連れてきた信一郎と幽谷響を怪しむでもなく朗らかに迎え入れた。
急な来客にも関わらず、四人分の食事まで用意してくれたのだ。
質素ながらも充実した夕食を終えて後、信一郎は九重にこの村に伝わる伝承について尋ねた。冷えた麦茶を配りながら九重は語り始める。
「はあ、東京から御大師様の桜を調べに来なすったとねぇ……そりゃあ大変でしたでしょうなぁ。ここらは地元にも忘れられとるからねぇ」
「御大師様の桜──こちらではそう呼ばれているんですか?」
妙に引っ掛かる名称なので、信一郎は聞き返してみた。
「昔っからそう呼ばれておりますで。ワシが曾祖母ちゃんから聞いた話じゃあ、こげな話だったなあ……」
昔、旅の僧侶が一夜の宿を求め、この辺りの村々を巡った。
だが周辺の村はどこも泊めてくれず、この桜沢村だけが快く僧侶を迎えた。
貧しいながらも歓待した桜沢の人々に、僧侶は大いに喜んだという。
その後、僧侶は再びこの地を訪れると、かつての恩に報いる為、この地を守るために村の奥で入定を果たしたという。
「……“入定”されたのですか?」
信一郎はメモを取る手を一時止めて、注意深く訊いた。
「はぁい。意味はよく知らねえけんども、曾祖母ちゃんはそう言ってたなぁ。んで、この桜沢をずうっと見守ってくれてるだそうな。そのお坊さんが埋まったとこから生えたのが、村の外れにある御大師様の桜ですだ」
「実物を見たいなら、明日アタシが案内してあげるよ」
今日はもう日が暮れたので、その御大師様の桜を見るのは明日となった。
「そんじゃあまた明日ね、お休みなさーい」
明日の約束を交わして、八重は嬉しそうに笑っている。
その純真な笑顔が、どういうわけか信一郎の心に残った。
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