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第一夜 肉吸い
第2話 民俗学者 源信一郎
しおりを挟むそれから信一郎は午後六時まで寝潰してしまった。
日が沈み夜も暮れ、時間は深夜十二時。
いつもの黒いスーツに身を包み、信一郎は玄関から出た。日中はどこに出掛けていたか知らないが、幽谷響も準備をしてきたようだ。
大きい網代笠を深く被り、体中の数珠を鳴らす。
自分の身の丈を越える錫杖を持ち、幽谷響は信一郎を誘う。
「さあ、参りやしょうか」
促されて、信一郎は幽谷響と共に夜の町へと歩き出した。
何処へ連れていくつもりなのか、幽谷響はひょこひょこと歩を進める。
信一郎は黙ってそれに着いていく。
幽谷響は振り返らず、唐突にこんなことを訊いてきた。
「肉吸い──ってご存じでやすか?」
脈絡のない問いだったが、信一郎はそれに答えられた。
「あの肉吸いのことかな? 妖怪の……」
三重県や和歌山県に伝わる妖怪だが、あまりメジャーではない。
山中に若い娘が一人で佇んでいる。
どう見ても妖しいのだが、警戒心を忘れるほど美しい娘だという。
微笑みながら人に近づき、美しい娘だからと気を許していると、たちまち体中の肉を吸い尽くされ、骨と皮だけにされて殺さてしまうという。
ある猟師が南無阿弥陀仏と彫った弾丸で化物を退治したことがあり、それは皮と骨しかない物で、これが肉吸いの正体だろうと噂されたらしい。
そこまで話すと、幽谷響は満足そうに振り返る。
「さすがは怪異伝承を紐解く研究で有名な大金教授と逆神准教授のお弟子さんだ。こんなマイナー妖怪を知ってるとはね。おかげで話が早くて済みやすよ」
「まさか、その肉吸いを始末するとでも……?」
「御名答」
夜目にも瞬く幽谷響の眼光が歪む。笑っているのだ。
「先生が出会した通り魔、そして拙僧が追ってる相手。間違いなく同一の輩でございやす。その名は『肉吸い』──紛れもなくバケモノでございやすよ」
「おい、今回の始末ってのは……」
──妖怪なんぞこの世にはおりやせんよ。
それは幽谷響が信一郎に告げた、一番最初の言葉だ。
──この世には六道輪廻に巡る者と、そこから外れた者しかおりやせん。
──どちらもただの人間に過ぎやせん。
だからこそ、信一郎は人間の内にわだかまる闇を思い知らされた。
「……そうゆう次第でございやすよ」
網代笠で目線を隠した幽谷響は歩調を少しだけ速めた。
信一郎も仕方なく、黙ってそれに従った。
──そう、仕方ないんだ。
何度も心に言い聞かせて、信一郎は幽谷響に後に続いた。
「……でも、そう都合良く肉吸いとやらを見付けられるのかい?」
「なに、抜かりはございやせんよ」
幽谷響は信一郎へと何かを放り投げた。
受け取った掌には、編み目の粗い布で織られた小袋がひとつ。
「肉吸いを誘き寄せる御香袋でございやす」
「御香って……これ、全然匂いがしないけど?」
信一郎は鼻先に持っていくが、何の香りも嗅ぎ取れない。
「そいつは特別製でしてね。先生にでも匂いは嗅げやせん。犬だって早々にゃ嗅ぎ取れやせんぜ。その匂いを感じ取れるのは肉吸いのみでございやす」
「ふ~ん。それでこれは何……って、あれ!?」
気付けば、目の前を歩いていた幽谷響の姿が消えていた。
場所は町外れにある森林公園。
そこに信一郎は取り残されていた。
『肉吸いは一人を狙うのが定石のようでございやすからね。囮になるならチンクシャの拙僧より、見目麗しい先生がやるべきでございやしょう』
信一郎の鼓膜にのみ、姿を消した幽谷響の声が届く。
「……最初からそのつもりだったな」
姿は見えないが、忍び笑いが微かに聞こえてくる。
『さて、問答はこれまで……役者がお出ましのようですぜ?』
幽谷響の声が消え、忍び寄る気配に信一郎は振り向いた。
そこに女が──美女がいた。
夜と相反する白さを帯びながら、醸し出す気配は暗い。
死に装束のような着物を一重、その細い身体にまとっているだけ。両肩は大きくはだけ、胸元や太股も露わにしている。その有り様はなんとも淫らだ。
長い黒髪は、うつむいている顔を覆い隠している。
しかし、微笑む赤い唇は闇の中でも妖艶だった。
奇妙な迫力に信一郎は後退る。それが彼女の気持ちを煽ったらしい。
彼女は喜びの微笑みで近付いてきた。
病的なまでに白いのに、瑞々しく張りのある肌が間近に迫る。
確かに美しい女性だ。均整の取れた肢体に、造形美にこだわりぬいた人形のような美貌、絹を染めて束ねたような黒髪。どれを取っても艶やかだ。
艶めかしい指が、そっと信一郎の胸元に添えられる。
やや身長のある信一郎の顔に合わせて、彼女は背伸びをした。
そっと口付けを交わす為に──。
「……っ?」
口付けを交わす寸前、彼女は気付いて信一郎を突き飛ばした。
「あなた…………何者っ?」
毅然とした物言いで彼女は問い質してくる。
「さて、ね……自分は何者なのか? それは私も知りたいところだ」
誰の眼から見ても、信一郎の姿は変わっているはずだ。
「あなた……女? いや、さっきまで男だったはず……」
彼女よりも豊かな乳房、それを信一郎はこれ見よがしに揺らした。
「今現在、容姿だけなら完全に女性だろうね」
外見の変化は胸だけに留まらない。
腰は柳腰と言えるほどくびれ、お尻や骨盤も女性のそれと同様に広がっていた。手足や首の細さ、顔立ちや髪の質まで全体的にしなやかになっている。
信一郎の肉体は完全に女性へと変わっていた。
「これをやると胸元がきつくてね、ちょっとだらしないが……」
信一郎はネクタイを取り、Yシャツのボタンをいくつか外した。夜目に馴れた彼女の目には、その隙間に覗く胸の谷間が見えるはずだ。
男にはあるはずのない――豊満な乳房の谷間。
それを認めた彼女は愕然としていた。
「さっきまで間違いなく男だった……この私が間違えるわけ……」
『そうでやすよ、お嬢さん』
どこからともなく湧いた声に彼女は狼狽えた。
『あんたはそちらの先生に釣られたんだ。まあ相手が悪かった。まさか性別をコロコロ変えられる人間がいるなんざ夢にも思わんでしょうからねぇ』
姿なき声に翻弄される彼女は、信一郎の行動にまで気を配れなかった。
今度は信一郎から近付き、その細い指で彼女の顎を摘んだ。
「──失礼」
彼女が求めていた接吻を、信一郎の方から交わす。
すると彼女は眼を見開いたまま、全身を痙攣させてその場に崩れた。
「するのは馴れていても、されるのは初めて……だったのかな?」
我ながらふざけた言い回しだ、と信一郎は自嘲した。
「な……どうし、て……身体が……?」
指先ひとつも動かせないはずだ。信一郎がそうしたのだから──。
「悪いけど、君の体力をちょっと奪わせてもらったんだ」
足腰の立てない程度にね、と信一郎は補則する。
「私のくだらない技でね、『木魂』という──生命に関するものを操れるんだよ。他人の生命力を奪ったり、自分の外見を変えたり……ね」
説明を終えたところで怪しい音が響いた。
「さすがは先生、お見事でございやす。それにしても……なんて哀れなお姿でやしょうかねえ、お嬢さん」
錫杖を打ち鳴らし、数珠を摺り合わせ、手にした鈴を響かせて──。
「道から堕ちる果てには魔道、道から外れる果てには外道、望み求めて欲せども、いずれ道も尽き果てる」
矮躯の死神がゆっくり姿を現した。
「残るは虚しい足跡ばかり──その果てには何もありゃしませんぜ」
「わ……たし……はただ……生きた……い……だけ……」
「ええ、聞き及んでおりますとも」
幽谷響は這いつくばる彼女の前に立った。
「あなた様は生きるために必死だった──ただし、美しく生きるためにね」
「そ……それは……」
幽谷響の言葉に心当たりがあるのか、彼女は身を震わせた。
「欲張らずに生きるなぁ容易かったはずだ。なのにお嬢さん、あなた様は手段を問わず美しく生きる道を選ばれた──だから、道を外れちまった」
──道から外れる果てには外道。
「目的のために手段を問わぬ、どこぞの偉い学者さんの御説ごもっとも。ですが、それでも倫理は踏み外すもんじゃございやせん。なのに、あなた様は躊躇なくその倫理を踏み外しなさった。美しく生きることだけに固執して、男どもから精気を奪うって術まで身に付けてね」
錫杖が重々しい金属を響かせる。
「ちょっと分けてもらうだけならまだしも、あなた様は男たちの精気を根刮ぎ吸い尽くした。相手が死ぬのもお構いなし、息の根が止まるまでね」
やりすぎですぜ、と幽谷響は言った。
「御自分が何人の男を手にかけてか覚えてやすか? 覚えちゃおらんでしょう」
罪悪感はない、悔いもない、それどころか記憶にない。
「それこそが道を踏み外した証拠でさあ」
「……道を踏み外したら最後、君はもう人間じゃない」
信一郎は悲しそうに呟いた。
「私たちと同じ──バケモノだ」
「拙僧たちと同じ──バケモノでございやす」
幽谷響は劣悪に微笑み、信一郎は憂い顔で見下ろす。
彼女は恐怖よりもおぞましさに打ち震えていた。
そして、気付いたのだろう。
自分は今、正真正銘の怪物に遭遇したという事実を──。
「さて、お嬢さん」
幽谷響が彼女に迫る。
その恐ろしい声を耳にする度、動けないはずの彼女が震え上がる。
「生きるためには犠牲が付き物、そいつぁ当然でございやす。ですがね、人ってのは生きていく上で色んな道を歩いている。この道は有象無象にありやすが、大なり小なり決まり事ってのがございやしてね。あなた様はそいつを知らなかった」
幽谷響から絶え間なく発せられる、超音波のような異音
それが彼女へと染み込んでいく。
「道を外れれば道の理を無視できやす。ですが、道の庇護も受けられやせん」
魔性の眼光が彼女を貫いた。
「即ち──殺されようとも文句は言えねえんでやすよ」
「……ひっ?」
幽谷響の背後に無数の影が浮かぶ。それは彼女の網膜にはっきりと焼き付いているはずだ。その影にはどれも見覚えがあることだろう。
「拙僧の名は幽谷響──奈落の底に沈む無念の亡魂から慟哭を拾い集め、十万億土の彼方から現世へと響き渡らせる魔物にございやす」
その言葉が本当なら、幽谷響の後ろに佇むのは誰であろう他にはいない。
──彼女が吸い殺した男たちの影だ。
「拙僧には聞こえやすねえ。哀れな野郎どもの遣り切れぬ声が……」
彼女の耳にもそれは届いているだろう。
声にも言葉にもならぬが、負の感情で練られた重みのある音の波。
闇を濁すような鈍色の空気が漂い、それが幽谷響の頭上へと集束する。怨みの音が重なり、恨みの声が憎しみの叫びへと上り詰めていく。
振るわれた錫杖がピタリと彼女を指し示した。
「さあ、全身全霊でお聴きなせえ! 貴女様への遣り切れぬ声を!!」
負の感情を練り上げた音が、彼女に叩き付けられる。
劈く悲鳴を越えて、爆発音の如き大音声が彼女を取り巻いた。
音の嵐が周囲を荒れ狂わせ、夜の帳をこれでもかと言うくらい打ち破る。
やがて夜が静寂を取り戻した時──。
怨嗟に打ち据えられた彼女がそこに横たわっていた。
「御愁傷様──でございやす」
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