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第3話 山水に沈む
山水に沈む 中編
しおりを挟む印沼の魚はグロテスク極まりないが、慣れてしまえば美味い。
祖母の故郷ゆえかカルチャーショックからの立ち直りも早く、城太郎は印沼の食にも水にも慣れ、水産試験場で働く日々が始まった。
碧とともに水質管理や魚の飼育が主な仕事だ。
まだ“お試し期間”だが、各地の料理店などに宣伝も兼ねて印沼サーモンを卸しており、そういった注文の受注や発送準備も仕事のひとつである。
施設の機械関連はすべて泥舟が請け負ってくれた。
そちらに手を貸すことはほとんどないが、簡単な操作や手入れの仕方、もしもの時のトラブル対処法は、時間があれば泥舟が丁寧に教えてくれた。
「何かあったら呼んでくれ。オレぁそこに住んどるからな」
泥舟は窓から見える、すぐ近くの一軒家を指差した。
彼は水産試験場の隣に住んでいたのだ。
仕事も難しいものはないため、順調に覚えることができた。
上司も同僚も気兼ねなく付き合えるので、ホワイト企業その物である。
ただ、同僚には異なる意味合いでストレスを抱えそうだった。
「セーンパイ♪ 何してるんですか?」
事務机で作業していると、背中から碧がもたれかかってきた。
彼女が彼氏にやるならともかく、男の後輩が同性の先輩に対して、背後から両肩に両手を乗せつつ、こちらの背中に身体を密着させて、あまつさえか細い顎まで肩に乗せてきて、耳元で囁くなんて真似をするだろうか普通!?
これが普通の後輩ならば、「気持ち悪いんだよこの野郎!」と張り倒すところなのだが、碧がやると満更でもないから困る。
背中に密着する胸の柔らかいこと……。
時折ガールフレンドみたいに馴れ馴れしく城太郎の腕に抱きついてくるのだが、男のものとは思えないほど柔らかく膨らんでいる。
女性でいうところのAカップくらいあるんじゃないか?
前述の通り、碧は城太郎が夢で逢瀬を重ねる女性とそっくりなのだ。
おかげで良からぬ妄想が日々膨らんでいく。
仕事にも身が入らないことが多く、こうして過度なスキンシップをされると、そこから30分は自意識を鎮めるのに精神力を消耗させてしまう。
だけど──碧を嫌うこともできない。
男だとわかっていても、彼に寄せる想いは募っていた。
「な、に、って……取引先の電子化だよ」
平静を取り繕おうとしたが、声が妙に擦れてしまった。
あちこちに印沼サーモンを提供したが、いくつかの料理店からは好評価を得られたため、定期購入を取り付けたところも多くなった。
こういった店との注文や発送を円滑に行うため、取引先の情報をデータ化して一括管理するための作業である。信じられないことに、大海はこれを手描きの書類やメモだけで片付けていたのだ。
『なんのために最新式PCが職員の分だけ揃ってんですか!?』
『いやね! エクセルだのワードだのオジサンの年で覚えるのはきつくて!』
とまあ一悶着あり、城太郎が請け負うことになった。
想像以上に水産試験場の仕事は捗っており、本音を言えば「楽チン」なのに給料は新卒の倍はあるので、給料泥棒みたいな罪悪感があった。
それを払拭する良い機会なので、残業上等で取り組んでいる。
「しかし、ついでにと印沼に住んでる人でサーモン買ってくれた人の住所の登録も頼まれたのはいいけど……所長、誤字だらけなんだよな」
印沼の後ろに必ず余計な1文字が付いていた。
「これじゃあ印沼じゃなくて印沼巣って読めるじゃないか」
「あ、それ間違ってませんよ」
城太郎が愚痴っていると、所長のメモを覗き込んだ碧が言った。
え? と振り向けば碧の顔が間近に迫る。
「この辺りは元々──“印沼巣”って地名だったんです」
それが大正頃の市町村整理で改められて、“印沼”という現在の地名に変更されたらしい。今でも年寄りや年配の人は、印沼ではなく印沼巣という住所を書く癖が抜けてないということだ。
「郵便局も心得てるくらいで、“印沼巣”でも郵送物が届きますからね」
「それくらい根付いてるってことか……」
しかし、公的には印沼になっているので修正しておこう。
「それじゃあ先輩、今日はお先に失礼します」
家族が待っているので、と碧は約束があるため定時で帰るという。
「はい、お疲れさん。気を付けてね」
「先輩もお気を付けて……じゃあ、お疲れさまです」
お辞儀をして帰路につく碧に、城太郎は後ろ手を振るだけに留めた。
下手に彼の可愛らしい顔を見てしまうと、名残惜しさと寂しさが表情に出てしまいそうだったからだ。ここは我慢して武骨な先輩を演じておきたい。
その後、碧のいない寂しさを紛らわすため作業に没頭した。
──気付けば外は真っ暗闇。
時計を見れば21時前、思ったより集中していたらしい。
おかげで数だけは増えた取引先のデータ入力も終わり、城太郎は座ったまま背伸びをすると、帰って夕飯をどうするかの心配をした。
そこへ──『バシャアン!』と盛大な水音が鳴り響いた。
時間を忘れて集中できたくらいの静寂を打ち破る水音は、外の生け簀から聞こえてきた。元は小学校のプールだが、今は出荷用成魚の水槽である。
サーモンが跳ねたと思ったが、それにしては音が大きい。
人間が飛び込んだとしか思えない水音だった。
まさかサーモン泥棒? この平穏で朴訥な高齢者ばかりの村で、そんな真似をしでかす不逞の輩がいるのだろうか?
こういう時、大きな都会の施設なら警備員に丸投げすればいいのだろうが、ここでは職員がやらなければならない。城太郎は大学時代、気の知れた友人と登山部の真似事をするぐらい、体力と体格には自信があるから尚更だ。
こんなこともあろうかと、用意しておいた海外製の大きな懐中電灯。
いざという時には警棒代わりにもなる重たい物で、海外ドラマの刑事が持つように顔の横へ掲げるように持つ。
不審者と出会した場合、振り下ろせば鈍器となる。
振り下ろすモーションを何度かイメトレすると、城太郎は駆け足で外の生け簀へと向かった。途中、またしても水音が聞こえてくる。
今度は生け簀から這い上がったような音だ。
続いて湿った足音、生肉を貪る咀嚼音が響いてくる。
本当にサーモン泥棒? しかも、新鮮とはいえ生で齧りつき!?
こうなってくると相手が人間なのか怪しくなり、頭の中では実話怪談のような展開が過ぎる。いくら体力に自信があろうとも、未知の恐怖を相手にしては駆け足も鈍るというものだ。
だが、鈍った足音が相手に聞こえたらしい。
齧りつく音が止んだと思えば、湿った足音が駆け出す音がする。
しまった! と後悔しても遅い。
再び足を速めて生け簀のプールにやってきたものの、そこには誰もおらず、犯人の痕跡と思しきものがあちこちに点在するばかりだった。
現場には鼻をつく臭気が残っている。
ほったらかしにした十年物の水槽のような生臭さだ。水棲の生物を飼い続けた時に匂う、独特の水っぽい泥臭さが堪える。
そして、食い千切られて頭だけになったサーモンが目に入った。
1匹2匹ではない。頭の数だけなら10匹以上はある。
おかげで生け簀の中はサーモンの数が寂しいことになっていた。
犯人は生のまま貪り食ったらしく、生け簀のプールサイドには夥しいサーモンの血がこぼれていた。しかも、犯人は裸足だったようだ。
大きめの足跡が、プールサイドから印沼へ向かっていた。
その足跡を懐中電灯で照らしてギョッとする。
どの足跡も人間のものに近しいのだが、足の指は大きく開かれており、その間に水かきとしか思えない膜が張っていたのだ。
それを目にした瞬間──かつてない爆ぜる衝動が起きた。
皮膚の下、血肉の奥、そこから這い出そうとする硬い異物の感触。
城太郎は、身も心も変わりそうな激痛に身悶えた。
● ● ● ● ● ●
「う~ん、サーモンが減っているようには見えないね!」
「……ですね。俺が見てもそう思います」
翌朝──城太郎は昨晩の出来事を大海所長に報告した
さすがに怪奇現象めいていたので、臆病風に吹かれた城太郎は逃げるように帰ってしまった。翌朝、後片付けや報告をすればいいと思ったのだ。
それで今朝、こうして大海とともに生け簀に来たのだが……。
プールサイドは綺麗なものだった。
食い荒らされたサーモンの頭はひとつも落ちておらず、血塗れだった床も少し湿っている程度。当然、水かきの付いた足跡など残っていない。
おまけに──生け簀のサーモンは減っていなかった。
泳いでいる成魚をいちいち数えてはいられないが、昨夜は一目でわかるくらい目減りしていた。なのに、今朝はすっかり元通りになっている。
これでは城太郎の報告が嘘だと思われても仕方ない。
だが、気のいい大海は怒るでもなくケタケタと笑った。
「珍しく残業したから、疲れて夢でも見たんじゃないかね?」
「いや、そんなことは……」
淫らな夢なら毎晩見てる、とは口が裂けても言えない。
あれも白昼夢だったというのか?
それにしては生々しい。
何十年も水を入れっぱなしにして藻で埋まった水槽のような生臭さが、まだ鼻の奥にこびりついている。そして、サーモンの血肉の臭いもだ。
「ああ、申し訳ない──お騒がせしてしまったようですね」
不意に紳士的な声が差し込まれた。
振り返ると、プールサイドを歩いてくる人物と目が合った。
第一印象は──トレンチコートのタフガイ。
185㎝ある城太郎より低いが、どっしりと安定した体格。
武装するかのように固めのトレンチコートをしっかり着込み、鍔が広めのこれまた素材が硬そうな中折れ帽を目深に被っている。
そこから垣間見えるのは、ハードボイルドな壮年男の顔だった。
身のこなしや歩き方、それにトレンチコート越しでもわかる体格の良さからして、鍛えた40代ぐらいの男性と見たが、顔に刻まれた皺は深い。
帽子の下から覗く表情は穏やかだが、その眼には暖かみがなかった。
例えるなら──爬虫類のような眼差しである。
「昨晩、この辺りを散らかしてしまいましてね。一通り済んだ後に片付けたのですが……きっと、そのことですよね?」
トレンチコートの男性は穏やかな口調で言った。
まるで昨夜の異変をなかったことに──上書きするかのようにだ。
「大亀くん! 戻ってたのかね!」
ちょうどいいから紹介するよ! と大海はトレンチコートの男を示した。
「こちらが我が社の営業担当! 大亀甲治くんだ! 城太郎くんはまだ顔を合わせてなかったからね! 彼が5人目の同僚だよ!」
「はじめまして──大亀と申します」
どうぞよろしく、と大亀は脱いだ中折れ帽を胸に当てて一礼する。
その頭は禿頭だった。お坊さんのように剃っているらしい。
「こちらこそ……あの、沼守城太郎といいます」
「ええ、聞いておりますよ。沼守のおば様には大変お世話になりましたからね」
城太郎も挨拶をして頭を下げると、大亀もまた祖母のことに触れた。
どうやら祖母は印沼では有名人だったらしい。
しかし、今ひとつ状況が飲み込めない。
こちらの困惑を察した大亀は、帽子を被り直すと生け簀を覗き込み、昨夜の出来事を順序立てて語り出した。
「昨晩、売り込み先のひとつから急に『印沼サーモンをたくさん欲しい』という連絡をいただきましてね。私が大急ぎでここの魚を捕まえて、処理して送る作業をしていたんですよ」
何分急いでいたものでして、と大亀は付け加える。
そのため、プールサイドに魚の残骸や血肉が散らばったり、それを踏み荒らして妙な足跡が残ってしまった、と大亀は説明した。
郵送では間に合わない。
そこで下処理を施したサーモンを車に詰め込んだ大亀が、夜通し車を飛ばして現地まで商品を運んで事なきを得たという。
「顧客のワガママに答えるのも営業の仕事ですからね……慌てていたため後始末を忘れてしまい、それを城太郎くんに見られたようで……」
大亀はバツが悪そうに帽子の鍔を摘まんで顔を隠した。
「なぁんだ! もう、大亀くんったら人騒がせなんだからもう!」
一件落着! と大海は笑いながら高らかに宣言した。
釣られて大亀も笑い、城太郎も笑おうとしたが愛想笑いになってしまう。
確かに──辻褄は通っている。
大亀の証言と城太郎の証言はほぼ符合しており、城太郎の目撃した現場を大亀が「私がやりました」と白状しているのだから、この話はこれでお終いだ。
しかし、城太郎は釈然としなかった。
実はまだ大海や大亀に報告していない、いくつかの事実がある。
ひとつは──昨夜プールサイドで拾った1枚の鱗。
五百円玉よりも大きく鎧のパーツみたいに頑丈で厚みがあるにも関わらず、それは紛れもなく生物の鱗だった。
どうもサーモンを食い荒らした犯人の置き土産らしい。
その犯人の逃げる後ろ姿を、城太郎はわずかに目撃していたのだ。
懐中電灯に照らされた犯人は、全身を硬そうな鱗で覆われた怪人だった。
その怪人は両手にボロボロのサーモンを持ったまま、ガシャガシャと硬い鱗をならして走り去り、印沼へ飛び込んだところも目の当たりにしている。
あまりにも異常なので、大海たちには黙っていたが……。
あれもまた、城太郎が見た幻覚だというのか?
しかし、城太郎の作業着のポケットには、大きな鱗が残されていた。
釈然とはしないが──愛想笑いも止められなかった。
● ● ● ● ● ●
淫らな夢を見るのは、もはや日課だった。
眠りに落ちると同時に夢の中で女性と再会し、爛れた情事に耽る。毎晩繰り返せばいいかげん慣れるものだが、いつも新鮮な気持ちで昂ぶることができた。
ある日、その夢に変化が訪れた。
今まではっきり見えなかった女性の顔をしっかり捉えのだ。
それは──碧の顔だった。
女性の顔を碧と認識するや否や、彼女は碧へと変わる。
少女然とした裸体は、女の子と見間違いそうになるも美少年のそれへと変わり、夢の中の女性は裸の碧へとすり替わる。
こちらが戸惑う間も許さず、夢の中の碧はしなだれかかってくる。
『…………せんぱい』
そう囁く朱の唇が近付く寸前──城太郎は夢から覚めた。
「……っあ! はぁ、はぁ、はぁ……ッ! そ、ぞこま……ゲホッ!?」
そこまで欲求不満か! と自責して自分に毒突こうとしたのだが、どういうわけか言葉が出ない。碧を汚した罪悪感のせいで言葉が詰まったのか?
罪悪感は認めるが、声が詰まったのは別の問題だ。
息苦しい。言葉が出ないどころか、息を吸うことも吐くこともできない。
まるで呼吸の仕方を忘れたみたいだった。
何度も息を吸って吐くが酸素を取り込んだ気にならない。喉の奥が乾くほど呼吸を繰り返しても収まらない。むしろ、喉の痛みが悪化する。
喉よりも首の周りが痛くなってきた。
首はドロリとした汗にまみれており、妙に皺が寄っている。
大量の汗を噴き出すほど、身体の芯から熱い。
そして──また爆ぜる衝動がこみ上げてくる。
こちらも日増しに威力と痛みが強くなっており、本当に皮と肉を裂いて何かが飛び出してきそうな感覚に恐怖を覚えるようになっていた。
息苦しさはますます酷くなり、身体を流れる血管は溶岩を注ぎ込まれたかのように熱い。熱さは血を沸騰させて肉を燃え上がらせ、城太郎の身体は汗が蒸気になるほど発熱した。インフルエンザでもこうはなるまい。
燃え盛るような熱は身体の奥底から湧き上がり、城太郎の身も心も焦がす。
爆ぜる衝動が、津波のように繰り返し押し寄せてくる。
ゴキゴキと骨格が鳴り、メシメシと筋肉が軋む。
沼森城太郎という人間が壊されて、まったく別の生物に変えられる。
そんな恐怖が這い寄ってきて、この苦痛を倍加させてきた。
燃えるような血潮が脈打つ度、身体を改造されるような感覚に襲われる。息苦しさも続いているため、呻くことさえままならない。
助けを求めようとする手は宙を藻掻く。
その手が求める先に幻視するのは夢の中の女性──ではなく碧だった。
熱さで溶けながら変容していく肉体──。
同性であるはずの碧に欲情する精神──。
「た、だず……けげけ……ぐぅ、いあぁ……いぁ……いあ……」
俺が──俺じゃなくなりそうだ!!
絶叫することさえできぬまま、どれほどの時間を苦しんだのだろうか。
やがて、浅い呼吸を繰り返す小康状態まで持ち直した。
しかし、もう横になっていられない。
城太郎は寝床から起き上がるとカーテンと剥ぐように開いた。
窓を開けて夜気を取り込んで気分転換する。どうにか呼吸が整ってくると、淫らな夢と息苦しさで火照った心身を冷まそうとした。
呼吸も熱も落ち着いてきた頃、視界の端にチラチラと何かが過ぎる。
夜の風景──遠くの山道に灯るものが目に付いた。
ユラユラ揺れるそれは懐中電灯などの現代的な光ではなく、松明や灯火といった何かを燃やしているものだ。もしかすると提灯かも知れない。
そんな灯火がいくつも連なり、印沼を囲む山から降りてくる。
──向かう先は印沼だ。
こんな夜中、頼りない灯火を頼りにゾロゾロと連なっている。
遠目なので錯覚かも知れないが、灯火に照らされた彼らの目は夜の中でも爛々と輝いているように見えた。そして、声まで聞こえてくる。
彼らの呟く声……いや、念仏を唱えるような声が夜の帳に響き渡る。
「いやぁ、いやぁ……くとぅー……たくん……?」
城太郎は風に乗って聞こえる文言を、知らず知らず口の中で繰り返す。
やがて、寝落ちするように気が遠くなってきた。
苦しみに耐え抜いて体力を使い果たしたのか、今度は夢も見ずに眠れた。
● ● ● ● ● ●
次の日は水産試験場がお休みだった。
昨日の夜は息苦しさで眠れず、おまけに奇妙な念仏を唱える集団を夜中に見て変な気分になったので、寝不足でぼんやりしている。
せっかくの休日だというのに、麓の町まで出掛ける気も起きない。
かといって家にいる気にもなれなかった城太郎は、定食屋で遅い朝食と早い昼食を一度に済ませると、ブラブラと村を散策した。
観光名所などない、寂れた村である。
せめて見所になりそうなのは村の名前の元となった印沼と、その中央に浮かぶ小島に建てられた神社くらいのものだった。
印沼の畔までやってきた城太郎は、額に手を当てて小島を見遣る。
小さな林の奥、微かに鳥居と神社の屋根が窺える。
しかし、あの小島まで行き着くための手段が見当たらない。
橋が架かっているわけでもないから、漁師さんに頼んで船でも出してもらうのだろうか? こういうのは地元に住んでても知らないものだ。
「あれ、先輩どうしたんですか?」
畔でぼんやりしていると、碧の可憐な声が耳朶を打った。
振り返る間もなく碧が城太郎の前へ回り込んでくる。
見慣れた作業着ではなくシャツにパンツ、薄手のカーディガンみたいなものを羽織っているが、どれもこれもフェミニンなものだった。
これが似合うのだから、碧はまさに男の娘である。
当人にはまったく自覚がないそうだが、盆暮れの有明ビックサイト辺りに連れ出したら瞬く間に注目の的になること請け合いだ。
ぶらついていたら碧と出会えたことを幸運だと思う自分がいる反面、昨夜の夢を思い返して自己嫌悪する理性的な自分もいた。
「なんだろう……飯を食いがてらの散歩かな」
曖昧に答えて碧から眼を逸らす。
見つめていると夢のことを思い出して、自分勝手に気まずくなる。
他に目のやり場もないので、印沼に浮かぶ小島を見つめた。
碧も同調するように小島へと視線を向ける。
「先輩、もしかして印沼の神社にお参りしたことないんですか?」
「あの神社か。うん、多分……子供の頃に1回きりかな」
祖母に連れられて小島の神社にお参りしたと思うのだが、物心がついたかどうかも怪しい子供の頃なので、ほとんど記憶に残っていない。
「いい機会ですからお参りしませんか?」
ぼくが案内しますよ、と碧に手を引かれたら嫌とは言えない。
碧に手を引かれて沼の畔を進めば、村民共有の船着き場に係留してある小舟に乗せられた。碧が艪を漕げば船の舳先は小島へと向かう。
沼特有の、ほんのり生臭さを帯びた水の香りに咽せそうになる。
だが不思議と昔ほど苦にはならず、むしろ昨夜の息苦しさで荒れた喉を潤すように染みた。心なしか、呼吸が整った気さえする。
小島に着いてみると、そこには立派な神社があった。
林の木々を抜けて鳥居を潜ると、古びてはいるが手入れを書かされていない綺麗な本殿が眼に入る。城太郎はなんとなく神社の周りの土を気にした。
足跡らしきものは見当たらない。
昨晩の松明を掲げた行列もそうだが、水産試験場へ初出勤する朝も、この小島に群れる謎の集団を目にしたが、そういう連中が集まっているような痕跡は探しても見つからなかった。
あれは……やはり幻覚だったのだろうか?
神社に目を向ければ扉は大きく開かれており、本殿の奥に安置されているご神体をとっくり拝むことができるようになっていた。
神社の奥に鎮座するのは──異形の神を象ったもの。
金属質のよくわからない石を彫ることで作られた神像は、禿頭の丸く大きな頭部をしており、左右に3つ合計6つの眼を持っていた。口元からは髭……というより9本の太い触手のようなものを垂らしており、顔だけ見るなら蛸のオバケとしか言いようがなかった。
インドのガネーシャのような恵まれた体格をしており、あぐらなのか体育座りを崩しているのか、妙な座り方をしている。長く伸びた腕は膝頭を掴んでおり、その指は6本もあった。
背中には仏像が背負うような光背を持つが、とても歪な形をしており、邪悪なドラゴンの翼が世界を闇で覆い尽くすかのように広がっていた。
神像を目の当たりにした城太郎は慄然とさせられた。
これは……人間が崇めるべき神なのだろうか?
理性的な着眼点で見る限り、細部ひとつひとつ具に観察しても、全体像を遠くから捉えたとしても、忌まわしくておぞましくて禍々しい。
邪神──畏敬を払うに相応しい神像だった。
その前に立っただけで、生物的恐怖を感じて冷や汗が止まらない。
「あれが印沼巣神社の祭神──九湯流さまです」
クトゥリュウ、と城太郎は呆けた声で繰り返した。
この印沼にはサーモンを育てている海水によく似た源泉を初めとして、合計9つの源泉が湧いており、それをもたらしてくれたのが九湯流だとされている。
9つの源泉にちなんで、九湯流と名付けられたそうだ。
「両脇に立っている、あの2つの像は……?」
九湯流の両脇を固める──2体の異形の像。
どちらも凶暴な魚を擬人化させたような意匠だった。
牙を剥いた鬼のような形相をしているが全身に鱗を帯びて、衣服なのか鎧なのかわからない装飾品には、鰭をあしらったものが見受けられる。手にしているのも銛のような武器なので、やはり水をモティーフにしたデザインらしい。
右側の雄々しい像は口を開いているので“阿”。
左側のやや女性的な像は口を閉じているので“吽”。
まるで九湯流を守る狛犬のように阿吽の呼吸が表現されていた。
「あれは蛇護雲観音さまと杯渡羅観音さま、九湯流さまを守るための……わきじ? 脇侍というんですか? とにかく、九湯流さまに奉仕する神様です」
ぼくたちの祖先と伝えられています、と碧は誇らしげに言った。
「脇侍……ってのは仏様につくものじゃないかな?」
碧がかなり重大なことを言った気がするが、城太郎は軽い立ちくらみめいたものを覚えて頭の回転が鈍くなり、とんちんかんなことを受け答えをした。
脇侍とは本来──お寺の本尊につくものだ。
ここは曲がりなりにも神社であり、九湯流という神像を奉っているのに、それを守る脇侍とはちょっとおかしくないだろうか?
そもそも神社には御神体を安置するが、それは鏡だったり曲玉だったりアイテム的な品がほとんどで、神を象った立像はあまり置かないと聞いた。
土着信仰だから混在しているのか?
九湯流と2体の観音、神社に奉られた仏教風の神仏。
そもそも──これは神仏なのか?
神や仏というには異形すぎる。いくらか知識のあった城太郎には、これらの神像が既存の神仏へカテゴライズできなかった。
あまりにも禍々しい造形美だ。
しかし九湯流の石像を見つめていると記憶を揺さぶられる。
ずっと昔──思い出せずにいた記憶。
祖母を訪ねて実家に帰省した折、彼女に手を引かれて小舟に乗せられ、一緒にこの印沼神社へ参拝した記憶をまざまざと思い出せた。
記憶の中の祖母が、九湯流の石像に手を合わせて拝む姿が甦ってくる。
祖母の唱えるお経まで脳内にリフレインされた。
お経……なのか? 南無阿弥陀仏でもない南無妙法蓮華経でもない、城太郎が初めて聞くタイプの文言……もはやこれは呪文だった。
この呪文には覚えがある。
昨晩、風に乗って聞こえてきた──あの集団が唱えていたものだ。
いあいあ、クトゥルフ、ふたぐん……。
いあいあ、クトルゥフ、ふたぐん……。
昨夜の文言を繰り返すように、思い出の中で九湯流を拝む祖母の言葉へ習うように、城太郎の口からは自然と同じ囁きが漏れていた。
それは、何者かに捧げる賛美歌にも似ていて──また目眩を覚える。
今度の目眩は強い。視界がグニャリと歪むほどだ。
その歪んだ視界のそこかしこに、ありえない存在が湧き上がってくる。
神社の屋根から覗くのは、アフロヘアの蛙だ。長い舌を伸ばしてこちらの様子を窺っている。その顔は毎日のように見ている気がしてならない。
神社の床下から泥をかき分けて這い出てくるのは、筋肉質の鯰だった。
こちらの表情も見覚えがある。誰かに似ている気がした。
木陰から顔を覗かせる唇の厚い提灯鮟鱇にも見覚えが……次から次へと、方々から見覚えのある顔をした魚のようで人間めいた怪人が現れる。
彼らは姿を現すが、こちらを見つめているだけだ。
いあいあ、クトゥルフ、ふたぐん……。
いあいあ、クトルゥフ、ふたぐん……。
城太郎が口内で唱えている呪文を、彼らも執拗に繰り返している。
いつしか唱える呪文は同調しており、城太郎は倣うように言葉を続けた。
「いあ、いあ……くとぅ……ふた……ぐん……いあいあ……」
「…………頃合いかな」
ザアッ! と強い風が吹いたことで城太郎は我に返った。
水棲生物みたいな怪人の群れなど影も形もない──痕跡さえもだ。
沼の水面を撫でた風が通り過ぎる際、碧が何か呟いたような気がしたが、振り向くと碧はいつものように人懐っこい微笑を浮かべているだけだ。
どこか寂しげで物憂げに見えなくもないが……。
「先輩──今夜ウチに来ませんか?」
唐突なお誘いの言葉は風に乗って、城太郎の許へと届けられた。
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Twitter:https://twitter.com/irise310
挿絵イラスト チガサキ ユウ様 X(Twitter) https://twitter.com/cgsk_3
pixiv: https://www.pixiv.net/users/17981561
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