クトゥルフ怪譚集

曽我部浩人

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第3話 山水に沈む

山水に沈む 前編

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 これが夢だという自覚のある夢──明晰夢めいせきむ

 そんなものを頻繁に見るだろうか?

 知識こそあったがとんと縁がなかった明晰夢を、いつの頃からか頻繁に見るようになった。それも繰り返し同じ夢ばかり見るのだ。

 夢の中──温泉のような場所にいる。

 温かいお湯はどこまでも広がり、これが温泉ならどこかにあるはずの湯船のへりは窺えず、沸き立つ湯気によって視界は閉ざされていた。

 お湯は温かい、というより生温い。

 一度でも浸れば抜け出せない──絶妙なぬるさだ。

 それでも温泉なのか、次第に心地良くなってくる。
 ちょうどいい深さのところに肩まで浸かってしまうのが常だった。

 生温い、でも肌に染み入るような水。

 ほんのり粘り気があり、掌ですくえばトロトロ流れ落ちる。

 誤って顔まで沈みそうになった時、少なからず塩気を感じた。そういう塩分濃度が濃い温泉もあると聞いたことがある。多分、それだろう。

 夢だと気付いた時には浅いところで立っていることもあれば、口元まで湯に沈みそうな深みに腰を下ろしていることもある。

 毎夜繰り返す夢とはいえ、そこは誤差があるのだろう。

 しかし、この夢ではある人と出会う──必ずだ。

 ぬるい温泉に浸って呆けていると、どこからともなく“ピチャーン”と水音が聞こえてくる。天井が高いのか、音はよく響いた。

 水面へ落ちる滴の音に振り向けば、いつもそこに彼女がいる。

 美しい──裸の女性が立っていた。

 スラリとした艶やかな肢体。一見すると痩せすぎにも見える。
 だが、あるべきところには女性的な肉感が盛られていた。

 ちょうど手に収まりそうな張りのある乳房は程良い大きさで実っており、思わず頬ずりしたくなるような瑞々しい太股を支える腰回りは安定感があって、若々しい桃尻が重力に逆らってツンと上を向いていた。

 抱き締めるのを躊躇ためらいそうになる細い腰。お臍の色まで綺麗だ。

 手足が長いので背が高いイメージがあるが、この温泉に現れる彼女は太股の半ばまで湯船に沈んでいる。こちらが立つと膝ぐらいまでしかないところから推測するに、少女と呼べるくらい小柄だった。

 妖しくも美しい──少女然とした裸女が目の前にいる。

 しかし、その顔容かんばせはおぼろげだった。

 切り揃えられた純和風の黒髪なのは見て取れるし、妖艶に微笑む薄い朱色の唇なのもわかる。深淵を覗くような碧い瞳には呆けた自分の間抜け面が映っていた。

 瞬きする度に揺れる長い睫毛まつげも、自己主張せずひっそりと咲く一輪の花にも似た整った鼻の形も、幾度となく出会えば否応なしに覚えてしまう。

 なのに──彼女の顔がわからない。

 夢の中で何度も出会い、間近で表情を覗き込むこと幾度。

 彼女の目、鼻、口、髪型、耳、顔の輪郭など、パーツごとに観察はできるし記憶も鮮明なのだが、顔全体はぼんやりとうろ覚えだった。

 こうして目の前にいるのに、やはり彼女の表情にはもやが掛かっていて全容はわからない。部分的には垣間見えているのにだ。

 夢の記憶とは移ろうものだが、細部の記憶があるだけに悔しい。

 それでも──彼女が魅力的なのは知っている。

 夢での逢瀬も繰り返すこと数十度……一度も言葉を交わしてないが、彼女のことは誰よりも詳しいという自信があった。

 あどけない美貌、少女らしい肢体、なのに発育した女体。

 詳しくなったのは彼女の容姿だけではない。

 口幅ったい言い方になるが、彼女と通じ合うのに言葉はいらない。肌と肌、裸で触れ合うことで体感的に彼女の気持ちを感じることができた。

 互いの“愛しい”という気持ちが伝わってくる

 夢で出会った2人は視線を交わし、どちらからともなく抱擁ほうようを求めた。

 抱き合ったまま湯船に身体を沈め、愛し合う年頃の男女として睦み合う。

 時にプールではしゃぐ子供のような水遊びに興じながらも、成熟した愛の営みを交わして、お互いの身体を激しく求め合うのだ。

 彼女の小さな身体を貪るように堪能する。

 彼女もまた、こちらの男という精気を吸うように味わってくれた。

 夢の逢瀬おうせ──頭の芯がグニャグニャになりそうな快感。

 湯に浸かったままの戯れは、いつしか本気の交わりへ登り詰めていく。

 絶頂へと突き進む度、衝動に見舞われる。

 身体の内側から爆ぜそうな──身も心も吹き飛びそうな感覚。

 最初は素晴らしい快感によるものだと思っていたが、日を追うに連れて快感とは別の衝動、それも暴力的な爆発力が体内に漲るのを感じた。

 まるで──自分という存在が根底から弾け飛びそうになる衝動。

 夢の中で彼女と交わる度、その衝動は激しさを増していくように思えた。

 だからといって、彼女との愛の営みをやめる気にはなれない。

 それほど彼女が愛おしくて堪らないのだ。

 彼女の蠕動ぜんどうする内部へ飲み込まれた男の部分が激しく屹立きつりつし、やがて頂点へ達する高揚感とともに、視界を覆う湯気が濃くなっていく。

 興奮のあまり頭が真っ白になったと錯覚する。

 すべてがホワイトアウトした瞬間──眼が覚めるのだ。

 重すぎていうことを聞かない瞼がゆっくり開けば、視界は真っ白のまま。それは単にカーテンの隙間から差し込む日の光が眩しいだけ。

 光を取り込んだ眼球に刺激され、意識は覚醒を促してくる。眠気に支配された身体はだるくて寝返りを打つのが関の山だが。

 それでも意識がはっきりしてくれば──淫らな夢を思い出す。

 夢の中の興奮が尾を引いているのか、身体の血の巡りが良くなって「起きよう」と上半身を起こす。下ネタだが、下半身はとうの昔に起きている。

「…………溜まってんのかなぁ」

 欲求不満なのか、性欲強いのか──朝立ち・・・が痛い。

 朝1番のぼやきは数パターンあれど、話題は夢に終始してしまう。これが明晰夢だからタチが悪い。温泉で美少女とエッチに戯れるという、エロ漫画みたいなシチュエーションをまざまざと回想できるのだから。

「やっぱり……欲求不満なんかなぁ」

 ため息を漏らし、寝床から這い出ると朝の支度を始めた。

 立ち上がる瞬間──身体が爆ぜそうになる衝動に震えたのは気のせいか?

   ●   ●   ●   ●   ●   ●

 あの伝説の就職氷河期に匹敵するこのご時世、伝手つてだろうが縁故えんこだろうが仕事にありつけただけでも幸運だろう。

 持つべき者はご先祖様、誰より祖母に感謝を述べたい。

 今は亡き祖母の伝手で「仕事を探しているならどう?」と誘われた。

 祖母の実家は──印沼いんぬまという山奥の僻地へきちだ。

 限界集落というにはまだ早いが、田舎にありがちな過疎に悩まされている田舎の中のド田舎だ。温泉も出るそうだが知名度は今一つだった。

 本州の中央よりやや北よりの山中。
 四方を山に囲まれた盆地みたいな土地である。

 印沼という名前から連想する通り沼や池が多く、あちこちに小川というには流れが速く、幅広の川がいくつも流れている。盆地の中央には地名の由来となった印沼という大きな湖沼こしょうが鎮座していた。

 よく言えば水資源に恵まれた山間の物静かな村。
 悪く言えば山に囲まれた水はけの悪い湿気しけった閉村かんそん

 印沼はそんな田舎だった。

 麓の町まではバスが出ている。1時間に1本は行ったり来たりしているから、まだマシだろう。町へ降りるのは暇を持て余した時ぐらいだが。

 こんな山奥でもスマホの電波はMAXになるし、光回線やWifiといったネット環境も万全だ。ネットでポチればA○azonもヨ○バシも楽○もちゃんと商品を届けてくれるので、物欲的な意味で不自由することはない。

 25になったばかりで辺境に引き籠もるつもりはないが、都会の就職先に固執する理由もなく、一念発起して印沼からの誘いに乗ると決めた。

 祖母が亡くなったのは──小学生の頃か。

 お婆ちゃん子だったので葬式で泣いた記憶がある。

 沼守ぬまもりの家系は代々印沼でも名の知れた家だったらしく、その葬式に参加した遠縁の親戚が「そういえば沼守の孫はどうした?」と気にかけてくれて、仕事を探しているなら戻ってこいと声をかけてくれたのだ。

 祖母の葬式を執り行った実家が、これからの住まいとなる。

 印沼での就職を決めると、「沼守の孫が印沼に戻ってくる」と聞いた地元の大工を初めとした建築関係の職人さんが、祖母が亡くなってから放置されていた実家をフルリフォームしてくれた。

 至れり尽くせりで涙が出そうになる。

 聞けば若者に過疎域へ移り住んでもらおうという自治体の政策があるらしく、それに便乗したのでお金の心配はしなくていいとのこと。

 その分、地元で働いて返せということらしい。

 さっそくお仕事だ。朝の身支度を調えて簡単な朝食を済ませて、支給品の作業着に着替え、仕事鞄を脇に抱えて家を出た。

 どこを歩いても小川や用水路が脇を流れる道が網目状に広がっている。

 田んぼの畦道あぜみちを歩いている気分で職場へ向かう。
 まさか初出勤の日に遅刻はできない。

 沼守の家系は代々この地の生まれで、祖母の代まではここに住んでいた。盆暮れの休みには両親に連れられ、ここで過ごしたものだ。

 しかし、小学生の頃なのでうろ覚えである。
 祖母が亡くなってからは帰省せず、寄りつかなくなってしまった。

 故郷とも言える地で仕事に恵まれるとは因果なものである。

 どこか薄暗い、でも懐かしさを覚えて已まない原風景のような土地。
 故郷だから尚更なのかも知れない。

 印沼から見上げる空はとても青い。

 透き通った青さではなく水が持つ青さ……それこそ水色と言えばいいのか、そんな青さが村全体を包み込んでいた。

 ここから見上げる空には既視感デジャヴを覚える。

 幼い頃に見たと考えるのが自然なのだが、それとも……?

 不意に──あの爆発的な衝動がこみ上げてきた。

 身体の内側、それも芯ともいうべき骨から硬いものが一斉に突き上げてくる、この激痛を伴う衝動。その硬いものが肉や皮を突き破りそうな感覚。

 心臓の鼓動に合わせて、一瞬だけ衝動が駆け巡るのだ。

 なんだろう……そういう病気なのか?

 印沼に戻ることを決めてから、思い出したように起こる不思議な衝動。
 ……いや、正しくはあの夢を視るようになってからか。

 一応、こちらへ引っ越す前に病院で診てもらったが、どこにも異常はなく健康体だと太鼓判をもらった。心因的なものかもしれない、とアドバイスを受けた。

 印沼へ帰ってくることに、何らかの不安でも抱えているのだろうか?
 ここで暮らすことに不満はないから、心因性の線は薄いと思う。

 何にせよ──自然が豊かなのは土地柄だ。

 水源も豊富なため、村の主要産業は稲作と漁業がメインらしい。

 漁業と言っても山の中、海産物ではなく川魚がメインだ。就職先もこの村の水源のひとつ、温泉を利用した養殖魚を管理する仕事だという。

 聞いた話では──この養殖魚も村興しの一環だそうな。

 養殖魚の管理施設が、印沼の名前の元となったと大きな沼の一角で行われているので、そこが仕事場となる。時間的に余裕はあるが気持ち足早に向かう。

 途中、朝の農作業を終えた老夫婦とすれ違う。

「おぉう、沼守のお孫さんか。今日から仕事かえ」
「やっぱ沼守さんの血ぃ濃いなぁ。別嬪さんの孫じゃから色男じゃて」

 印沼は小さい村だ。大半が顔見知りである。

 沼守の孫が帰ってきたと知れ渡っており、顔写真でも配られているのか誰かと顔を合わせる度にこうして挨拶される。都会では考えられないが、子供の頃もこんなだったと思い出して愛想笑いするしかない。

 しかし──色男と呼ばれてもピンと来なかった。

 十人並みの顔立ちだと思うのだが、印沼ではイケメンのようだ。

 実際、印沼の人々は特徴的な顔をしている。

 一番多いのが魚めいた顔立ち。瞬きを忘れたような大きな眼に、潰れてペチャンコの鼻、分厚く半開きになりがちな唇……そんな感じの容貌だ。

 次に多いのが両生類。蛙を擬人化させたような人が多く、他にもサンショウウオやウーパールーパーみたいな人もいる。独特な愛嬌があった。

 レアだけど、爬虫類や甲殻類を思わせる人もいる。

 これら印沼の人々の特徴的な顔立ちは、この山奥であまり他の地域と交流せず血脈を繋いできたためと噂されており、麓の町では「印沼顔いんぬまがお」と揶揄やゆの対象にされていたが、印沼の人々が気にしている節はない。

 また、美醜の感覚も一般人と変わらないらしい。

 まともな顔をしているだけで「イケメン」と褒められるわけだ。

 そういえば祖母も印沼出身だが、思い出の中で微笑む祖母は老人ということを差し引いても綺麗だった。アルバムの若い頃の写真も現代風の美人である。

 いわゆる印沼顔ではなかった。

 あ、いや……大きな瞳はやや印沼顔の特徴を引いていたかも知れない。

 瞬きを忘れた瞳。魚眼とでも言えばいいのだろうか?

 その昔、魚は瞬きをしないから睡眠を取らない生き物だとされ、修行僧の惰眠だみんを戒めるために作ったのが木魚だと聞いたことがある。ちょっとした雑学だ。

 行き交う村人から歓迎のように朝の挨拶をされながら、テクテク歩いていれば職場は目の前だ。飯沼の傍らに立つ大きな平屋の建物が見えてくる。

 かつては小学校だったが子供が減ったので廃校。

 その元小学校を改築して、印沼の近くにあるのを利用し、水産試験場かつ印沼産のサーモンを育てる養殖場にしたそうだ。

 水産試験場を正面に捉えて歩く。

 すると、どうしても視界に入ってくる印沼が気になった。

 池というには大きいけど、湖というには手狭な感のある印沼。沼の中央には小島が浮いており、こぢんまりとした林が生い茂っている。

 その林の奥に──誰かいる。

 遠くてぼんやりとした人影にしか見えないが、林の木々を隠れて何人もいるようだ。全員、こちらに向けて大きく手を振っている。何か声を上げているようにも聞こえるのだが、この距離からだと何を言っているのか聞こえない。

 だが、とてつもなく五月蠅うるさい。

 無数のかえるが泣き喚いている雑音と聞き間違えそうだ。

 なんだあれ? と目をパチクリさせる。

 瞬間──また爆ぜる衝動がぶり返してきた。

 衝動を堪えながら片手で目をゴシゴシとこすり、指の腹で瞼越しに眼球を少し揉んでから、再び顔を上げてそちらを見遣るが、小島には人っ子1人いない。

 耳障りな蛙の鳴き声モドキも、いつの間にか鳴り止んでいた。

「まだ寝ぼけているのか……?」

 起きたばかりで白昼夢もあるまいと、頭を振って自分に言い聞かせる。

 何度も言うが今日は初出勤。気を引き締めて取り掛かろう。

   ●   ●   ●   ●   ●   ●

「よく来てくれたね、我ら印沼の希望! そう、君こそ印沼の星だよ!」

 これから上司となる所長は喜色満面で出迎えてくれた。

「沼守さんとこのお孫さんがもどって来ると聞いて、この村のモンは猫も杓子しゃくしも大はしゃぎだよ。なんせこの村の若者は出て行くばっかりで、滅多なことじゃ戻ってきてくれんからねぇ! えーっと、沼守ぃ……」

城太郎じょうたろう──沼守城太郎です」

 そうそう城太郎くん! と所長は上機嫌で名前を繰り返した。

「城太郎城太郎か……あれだね、漫画の主人公みたいにイケてる響きじゃないか! そんな名前のイケメン主人公がいたよね! やっぱり男の子は名前に濁点が入ってると格好良く聞こえるもんだね!」

「ガ○ダムとかゴ○ラとかもそうですよね」

 そうそう! と所長は躁気味に何度も首を頷かせた。

 しかし、彼は体型的に首らしきものが見受けられないのだが……。

 印沼水産試験場所長──大海おおみよう

 彼を一言で言い表すなら「アフロヘアの蛙」だろう。

 寸胴体型にヒョロッと長い手足。太っている印象はないのだが首が肉というかひだみたいなもので埋まっており、その上に蛙そっくりの顔が乗っかっていた。

 蝦蟇ではない、蛙に似た愛嬌のある顔立ちだ。

 雨蛙アマガエルを擬人化させたか、殿様蛙とのさまがえるを二足歩行させた鳥獣戯画。

 どっちみち──蛙である。

 アフロヘアと見間違う天然パーマと、出会ってから喋り通しで一時たりとも黙らない人当たりの良さが、彼の個性を引き立たせている。

 まるで芸人のようにけたたましい人だ。

「まあまあまあ、そう緊張せんでもいいよ! この水産試験場はまだまだお試し期間、アタシも所長になったのはたった半月前だからね! 働いてるのも私と君を含め5人きりだ! これから増やしていく予定なんだよ!」

「5人……えーと、俺はどんなことをすればいいんですか?」

「言ったでしょ? まだまだお試しだからね! これから施設も人員もドンドン拡張していくけど、取り敢えずは自分でやれることを覚えてもらって、できることはやってもらう感じかな。雑務が多いかもだけど我慢してね!」

 所長はヒョッコヒョッコと剽軽ひょうきんな歩き方で廊下を進む。

 元小学校という建物は廊下が幅広い。

 所長に案内されて校内……もとい水産試験場の廊下を歩いていると、ガラス窓で仕切られた元教室を覗くことができる。

 かつては子供たちが学んだ教室も、今では養殖場になっていた。

 机も椅子も片付けられており、スペースの許す限り複数の円形プールが並べられていた。あれは防水シートで作られた水槽のようだ。

「教室の中で魚を飼っているんですか?」

 ガラス窓越しに覗けば、水槽を泳ぐ小さな魚の群れが見える。

「水槽にいるのはサーモンの稚魚ちぎょ、赤ちゃんさ! まだ弱いからね、屋内水槽で大切に育ててるんだ! もう少し大きくなったらもっと大きな水槽や学校のプールを改造した生け簀に移して、一人前サイズになったらそこの印沼に網で囲った養殖場で飼うんだよ! そこまで育ったら出荷できるね!」

 魚の移し替えなども仕事の内だと教えられる。

「あとは水槽の水の浄化装置、それに水中へ酸素を送り込むエアポンプなんかの整備も手伝ってもらうかもね! ただ、どの機械をメンテするにも専門的な知識が必要だから本当にお手伝いだね! メインでやるのは……」

「──そいつぁオレの仕事だな」

 ドス、ドス、ドス、と重い足音が近付いてくる。

 廊下の奥から小柄だけど存在感のある人物がやって来た。
 短躯だけど筋肉質のようだ。

 彼の外見もまた一言で言い表せる。

 一見したイメージは──「筋肉質なナマズ」だった。

 筋肉が多めで膨れ上がった樽のような体型、長く太い腕は力仕事を続けてきた職人そのもの。かなりの短足だが、その両脚も太い筋肉に覆われている。

 頭はスッキリ剃り上げた禿頭。眠たげなドロンとした垂れ目とゴムチューブみたいに太い唇、その唇から覗くノコギリみたいなギザッ歯が特徴的だ。

 そして、鼻の脇からは左右に長ーく伸びる細い髭。

 ──どう見てもナマズである。

 彼を見るなり大海はピョンと跳ね上がり、城太郎とナマズ男の間に立って2人の間を取り持つように交互に顔を見た。

「ドロさん! ちょうど良かった! 顔見せに行くつもりだったんだよ! ほら、見て見て! これが噂の沼守さんのお孫さん! 城太郎くんっていうの! んで城太郎くん! こっちがウチの機械整備士のドロさん!」

「そいつぁあだ名だ──川津かわつ泥舟でいしゅうという」

 よろしくな、と泥舟は手を差し出してきた。

「城太郎です。今日からよろしくお願いします」

 挨拶とともに握手を交わす。職人仕事をこなしてきたためか、分厚い皮を積み重ねたような手だ。指の間まで厚い膜が張っている感触がした。

 泥舟は睨め上げるように城太郎を見て感想を一言。

「さすが姫子ひめこさんの孫だな。噂に違わぬイケメンじゃねぇか」
「……ハハハ、どうもッス」

 祖母の名は姫子という。どうやら泥舟も顔見知りらしい。

 握手を交わした泥舟は人懐っこい笑みを浮かべた。

「ここの設備はすべてオレが造ったもんだ。オレにしか仕組みがわからんモンも多いから、おかしいと思ったらまずオレに知らせてくれ。追い追い、メンテのやり方も覚えてもらうかも知らんが、焦るこたぁない」

 始まったばかりだからな、と泥舟は力強く背を叩いてくれた。

 大海はお喋りだけど悪い人じゃないし、泥舟も面倒見が良さそうだ。
 上司となる人々の性格が知れた城太郎は内心ホッとする。

 しかし──この2人も立派な“印沼顔”だった。

 どちらとも魚類や両生類を擬人化させた印象が強い。
 大海は細身のカエル、泥舟は筋肉質なナマズだ。

 印沼の人々は水棲生物を想起させるような風貌の者が多い。

 土地柄と言ってしまえばそれまでだが、十人並みで特色の少ない顔立ちの城太郎は浮いており、場違いな気さえした。

 見掛けはさておき──2人とも優しそうなので安心した。

 彼らの他にまだ2人いるという。その2人も気になるが、城太郎は教室の水槽で泳いでいる稚魚にある疑問を抱いた。

「そういえば、この水産試験場ではますやサーモンを育てて、印沼ブランドとして売り出すんですよね。サーモンはここにいるとして、鱒の稚魚はどこですか?」

 城太郎の質問に、大海は得意気に答えてくれた。

「ここにいるのは全部サーモンの稚魚だよ! 鱒の稚魚でもあるけどね!」
「サーモンってのは鱒で、鱒をサーモンと呼ぶんだよ」

 大海の大雑把な回答に、泥舟がアバウトに補足する。

「え? サーモンって鮭ですよね? 鮭と鱒は違うものじゃ……?」

 浅学な城太郎は頭からクエスチョンマークが離れない。

 首を傾げる城太郎だが、大海も泥舟も上手く説明できないようだ。

「うーん、私もね、説明を聞いたけどよくわからないんだよ! ただ、ここで育てている鱒の稚魚を印沼サーモンって売り出すのが方針さ!」

「ぶっちゃけ、鮭と鱒ってのは同じもんなんだと。サーモンってのも商品名でしかなくて、細かい線引きは曖昧っつーか適当らしいんだわ」

 詳しくは──淵水ふちみずの若様に訊け。

 上司2人は口を揃えて、城太郎の同僚になる青年を挙げた。

「淵水の若様……ですか?」

 淵水という姓は聞いた覚えがある。

 沼守の家系も印沼では知られたものだが、淵水はもっと古い家系で印沼の顔役を務めてきた家柄だ。昔なら庄屋や名主と呼ばれていただろう。

 そこの息子が──城太郎の同僚らしい。

「うん、君の先輩……いや、書類上は君のが1日早く採用されているから後輩になるのかな? なんせ今年高校を卒業したばかりで、そのままウチに就職してくれたからね! いやー、都会に行かず地元で就職してくれるなんてね!」

 さすが我らの若様! 希望の星! と大海はまた持ち上げる。
 大海に掛かれば、みんなお星様になるようだ。

 困惑を隠せない城太郎に、泥舟がアドバイスをくれる。

「淵水の若様は気さくな若者だからな。家柄がどうとか気にするこたぁない。それに水産試験場ができる前から出入りしていて、魚にも詳しい。学もあるからおまえさんの疑問にもちゃんと答えてくださるさ」

 その時、パタパタと軽快な足音が聞こえてきた。

「すいませーん、ちょっと遅刻しちゃいましたー!」

 可愛らしい女の子の声に「あれ?」と、またしても首を傾げる。

 淵水の息子さんではないのか? 同僚は後2人いると聞いていたので、もう1人は女性なのか? まるで流行はやりの女性声優みたいな声だった。

「ああ、来た来た! 若様、こっちですよー!」

 大海が手招きして呼び寄せるが、声の主を若様と呼んだので内心「ええッ!?」と驚きながら城太郎は廊下の向こうへと振り向いた。

 そしてまた驚いた。驚愕して愕然とさせられて打っ魂消ぶったまげる。



 現れた淵水の若様は──絶世の美少女だった。



 いやいやいや、印沼の大地主でもある淵水家の息子だから若様と呼ばれているのであって、男の子のはずだ。正しくは絶世の美少年というべきだ。

 しかし、美少女と主張しても万人が頷く美貌だった。

 その美貌に──心を奪われる。

 妖艶な微笑みが似合いそうな薄い朱色の唇──。
 瞬きする度に揺れそうな長い睫毛──。
 ひっそりと咲く一輪の花にも似た鼻──。

 そして──深淵を覗くかのような碧い瞳。

 夢で逢瀬おうせを重ねてきた少女が、城太郎の目の前までやってきた。

 いや、まったく同じではない。同一人物ではない。

 顔の特徴はコピー&ペーストとした思えないほど瓜二つだが、髪型が違う。夢の中の女性は腰まで届く長い黒髪だが、現れた彼は肩に届くくらいの長さしかない。

 そう、彼だ──こんな可愛いのに男の子なのだ。

 最近では男の子でもこんな女性っぽい髪型が流行なのだろうか?

 城太郎はまさかの出会いにドギマギして動揺のあまり硬直していると、お調子者の大海が良いように自己紹介を代弁してくれた。

「あー、若様若様! ダイジョーブ! まだ就業時間の5分前ですからね! 5分前行動は大切ですよ! そうそう、こちら噂の沼守さんとこのお孫さんで城太郎くん! 若様より1日早くて年上だから先輩ってことでひとつ!」

 そして城太郎くん! と大海に背中を叩かれた。

 これが気付け薬となり、城太郎は我に返ることができた。
 しかし、動揺する胸の高鳴りは止まず、顔が熱くなることに戸惑う。

 城太郎が何も言えずにいると、淵水の若様はこちらの緊張をほぐすようにはにかんでくれた。そして、大海のお節介な紹介が挟まれる。

「こちらが淵水の若様! 今日から君の後輩だけど、水産試験場にはよく遊びに来てるから君よりあれこれ詳しいよ! 何かあったら遠慮なく聞いてね!」

淵水ふちみずあおい──っていいます」

 よろしくお願いします先輩、と碧はニッコリ微笑んだ。

 その笑顔が夢の女性と二重写しになり、城太郎は目眩めまいを覚えた。

 そしてまた──爆ぜる衝動に身を震わせる。

   ●   ●   ●   ●   ●   ●

「鮭も鱒もね、生物学的にはほとんど一緒なんですよ」

 水産試験場近くにある、印沼の数少ない食事処。

 夜には大人の溜まり場となる居酒屋にもなるが、昼間は自炊を面倒臭がる者たちが集まる定食屋だ。早めのお昼休みを貰ったのでランチタイムである。

 定食屋の中はそこそこ広い。

 城太郎たちよりも早く来たお客が何人か奥にいたが、もう注文した料理を食べているらしく、ペチャペチャグチョグチョとやたらうるさい音を立てて、テーブルに突っ伏すように食べていた。

 よほどお腹が空いているみたいだが、お行儀はよろしくない。

 彼らから距離を置いたテーブルに城太郎たちは座る。

 親睦しんぼくを深めるため──碧と一緒だ。

 大海は営業に出ている5人目の同僚との連絡待ちで、試験場で電話番しながら愛妻(!)弁当でお昼を済ませ、泥舟も自宅が近くにあるから家に帰って、奥さん(!?)がお昼を用意して待っているという。

 ……いやいや、(!)とか(!?)は失礼千万だ。反省しよう。

 思い掛けず──碧とふたりきりになってしまった。

 掴み所のない嬉しさがある反面、この状況を受け止めきれずに困惑しきりな自分がいるので、間に入ってくれる人物が欲しいところだ。

 田舎の定食屋にしてはどっしりした一枚板の立派なテーブル。
 これを挟んで碧と向かい合って座る。

 夢の中で愛した女性の顔容が、現実の手の届く場所にある。

 ついつい夢の中で戯れた気安さで手を伸ばし、いつものように頬を撫でながら髪をかき上げたり、そっと唇を近付けてしまいそうな衝動に駆られるも、碧が夢の中の女性ではないことに気付き、慌てて理性で押さえ込む。

 碧は可愛い、美人だ、抱き締めたくなる。

 ──だが男だ。

 城太郎はノーマルである。ノンケなのだ。男に興味はない。
 でも、男の娘ならワンチャン……とか血迷いかけた自分にかつを入れる。

 脳内では理性という名の天使と、煩悩という名の悪魔が殴り合いをしすぎて、両者ともにグロッキー寸前の血みどろになっていた。

 何もしていないのに城太郎は憔悴しょうすいしかけている。

 こんな調子で城太郎の頭の中は、夢の中の美少女と現実にいる碧をダブらせて葛藤を繰り返していた。おかげで話があんまり入ってこない。

 ただ、碧の心地良い美声に聞き惚れるばかりだった。

「鮭、サーモン、鱒、トラウト……色んな名前で呼ばれていますけど、取れる場所で呼び方を変えたり、商品としてブランドイメージから名付けられただけで、生物学的にはほとんど同じものなんだそうです」

「全部同じ……鱒もサーモンも?」
「実際、学者さんたちも研究している最中らしいですよ」

 城太郎のぼんやりした質問に、碧もはっきりした回答は避けた。

 種類的に分類されているが、呼び方としてのこの4つは「どう振り分けたらいいんだろ?」と現在進行形で頭を悩ませているらしい。

「ほとんどの鱒は成長過程で2つの人生……魚だから魚生ぎょせいかな? を選ぶんです。川に残ったままのグループと、海へ出るグループです」

 碧はお冷やのグラスに指を這わせる。

 結露した水滴で人差し指を濡らすと、わずかな水でテーブルの上にスルスルと川や魚のイラストを描いていく。まるで水を操っているかのように巧みだった。

 水を手繰たぐる指もまた、男のものとは思えない。

 今年高校を卒業したばかりの18歳と聞いたが、いくら美少年とはいえこんな白魚のような肌で細い指をした男などいるものだろうか?

 夢の中で城太郎のものを愛撫する彼女の指を思い出しそうになる。

「川に残るものは陸封型(河川残留型)と呼ばれ、海に出るものは降海型(海洋回遊型)と呼ばれます。川で鱒として一生を終えるだけの種もいるそうですが、何らかの出来事が起こると例外的に降海型が現れるそうですよ」

「なるほど……海で獲れたら鮭で、川で獲れたら鱒ということだね」
「はい、大まかですけど合ってます」

 海外、特に英語圏では海へ出るものは「サーモン(salmon)」、川に留まるものを「トラウト(trout)」と区別しているそうだ。

「でも、元は同じ魚だから大差ない……ってわけだね」
「だから鱒を養殖して、大きな鮭のように育てようって魂胆ですね」

 水で描かれた鱒の絵。それを碧はクルリと○で囲む。

「元が同じ魚ですけど、鱒と鮭では大きさに差があります。そりゃそうですよ、鮭は海に出て苛酷な生存競争の旅を続けるために、豊富な栄養をガンガン摂ってきたわけですからね。自然と身体も大きくなりますよ」

 何故、鱒は川から海へ出ていくのか? 
 何故、鮭は生まれた川へ戻って産卵するのか?

「一説によると、大きく成長した鮭がわざわざ川の上流に戻ってきて産卵をして死ぬことで、身体に貯めた肥沃な海の栄養分を川や山へ還元するためだそうですよ」

「大自然の摂理だとしたら……よくできたシステムだね」

 そんな感想を述べるのが精一杯だ。

 碧が喋るだけで夢の中の女性と会話しているような心地になり、心此処に在らずの夢見心地になってしまう。そろそろ発熱して倒れそうだ。

「ぼくたちは、その大自然のシステムを利用させてもらうんです」

 碧の表情はほんの少しだけ憂いを帯びた。

 養殖場の鱒に、自然界では得られないハイカロリーな餌を与える。

 これによって鱒を丸々と肥え太らせることにより、海を泳いできた鮭以上の体格に育てて、印沼サーモンと名付けて販売しようというのだ。

「それだけじゃありません、けどね……」

 表情こそ変わらないが、碧の眼差しが陰った気がする。

「印沼では代々、その名前の由来ともなった印沼で様々な川魚を獲るだけではなく、養殖もしてたんです。そして、この村独自の手法で品種改良もしてきました……印沼サーモンはその改良された一種なんですよ」

 品種改良と聞くと、つい研究室での遺伝子操作みたいなものを想像してしまいがちだが、実際には大昔から第一次産業で行われていることだ。

 同種の動植物でも大きな個体同士を掛け合わせれば、大きな次世代が誕生する……みたいに、人間にとって有益になるよう交配を繰り返してきた。

 家畜、野菜、果物──。

 これらの多くは飼い慣らされつつ品種改良された動植物である。

「御覧の通り、印沼は人里離れた山奥の閉村です」

 やや自嘲も込めて、物憂げに碧は呟いた。

「海辺に面していたり、大きな川や湖の近くなら、もっと違う産業に手を出すこともできたんでしょうけどが……ぼくたちには、こうするくらいのことしかできなかったんです……生き物の身体を、その在り方を、作り替えてでも……」

 例え自らに変わることを強いても──。

 思い掛けず深刻な口調で、本心を吐露するように碧は言った。

「あ、いや……そんな重い話じゃないんですけどね」

 城太郎が我知らずに固唾かたずを飲みそうになると、場の空気が重くなりかけたことを察した碧は、目映いばかりの笑顔で話題を明るい方へ向けた。

「ウチは印沼サーモンってブランド名ですけど、余所よそも似たようなことをやっているんですよ。育てている魚もフグとかヒラメとか、高級魚狙いでやってるみたいです。あと、よくあるのは温泉水で育てるって売りでしょうかね」

 印沼はいくつもの源泉が湧き出している。

 そのひとつはぬるすぎて温泉としては使い物にならないが、水質検査をしたところ海水に似た成分を含んでおり、降海型にもなる印沼サーモンの鱒を育てるのに適しているとのことだ。

「まずは鱒、成功したら色んな魚にも手を広げていきます」

 テーブルの脇に備え付けの台布巾を手に取ると、碧は水で描いたイラストを綺麗に拭き取った。そして、おもむろに両手で城太郎の手を取ってくる。

「──ぼく、嬉しいんです」

 城太郎さんが戻ってきてくれて、と碧は上目遣いに訴えてきた。

 心臓が痛いくらいドキリとさせられる。

 指先で水を弄っていたのを差し引いても潤いに満ちた肌。
 たおやかな指先は白魚のように細くてか細い。

 無意識だと思うが、恋人繋ぎみたいに城太郎の指に碧の指が絡んできた時は感情が暴発しそうだった。唇を千切りそうなほど噛んで耐えた。

 ほんのり頬を桜色に上気させて、碧は切々と思いを打ち明けてくる。

「印沼でぼくと同年代の子ってほとんどいなくて……少し上のお兄さんやお姉さんたちも、みんな都会がいいって出ていっちゃって……ぼく、印沼が好きなんです。故郷であるこの土地が……だから、盛り立てたるために協力したくて」

 碧は──とても強い郷土愛の持ち主だった。

 高校を卒業してすぐ、村興しの水産試験場に就職した理由もこれだろう。

 碧は過疎化しつつある印沼を救いたいのだ。

 城太郎は沸騰しそうな興奮に翻弄されながらも、碧の気持ちを聞き届ける。そして、彼の力になりたい気持ちがこみ上げてきた。

 碧が1人の少年だという事実は受け止めている。

 それでも夢の中の女性と重なり、どうしても親身さを覚えてしまう。

 城太郎は男に興味はない。なのに──。

「俺は……職にあぶれて出戻ったクチだけど、お役に立てれば幸いだよ」

 よろしく淵水くん、と在り来たりな挨拶で締めた。

「ありがとうございます城太郎先輩! あ、それと……」

 碧って呼んでください、とわれて城太郎の理性は溶けかけた。

 定食屋の女将さんが注文した料理を持ってこなければ、暴走しかけた城太郎は何をしでかしたかわからない。危ないところだった。

 愛らしくデフォルメした──提灯ちょうちん鮟鱇あんこう

「はい、お魚定食お待ち~」

 そんな雰囲気の女将さんが今日のオススメ2人前を運んでくる。

 メインは秋刀魚さんま……のようでどこか違う細長い魚の煮付けだ。秋刀魚にあんな牙は生えてない。他にお新香とお味噌汁と煮っ転がし、それと山盛りの白飯。

 いただきます、と城太郎は見たこともない魚に箸を突き立てる。

 すると煮付けの魚が釣り上げられたようにパクパク口を動かして、煮られて白くなった目をグリンと動かして涙のような汁を噴いた。

 突然のドッキリ体験に、城太郎は声を上げて箸を落としてしまう。

 驚きを隠せない城太郎に碧は笑いかけてくる。
 この異常な現象を意に介さず、日常として受け止めていた。

「印沼の魚はあぶらがたっぷりですからね。時たまそうなるんですよ」

 碧も煮付けの魚に箸を付けると、プツッ! と勢いよく脂が噴いた。

 印沼の魚──ということは川魚なのか、これ。

 城太郎はかなりのカルチャーショックを浴びせられた。



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