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第1話 我王の社に捧げるモノ
我王の社に捧げるモノ 後編
しおりを挟む知らず知らずスピードを出していたらしい。
パトカーと出会したら、森野に飲酒運転させずともスピード違反で捕まっていたのは想像に難くない。行きは1時間かかったのに、帰りが45分だったのが速度を雄弁に物語っていた。
だが、大蔵のマンションまで無事に戻ってくる。
せっかくだから朝まで飲み明かそう、と買い足した地酒を抱えてご機嫌な大蔵に誘われて、あれから更に5万円をズボンのポケットから見つけた金子も、黄金色のカブトムシに魅了された森野も賛成した。
自分だけ願いが叶わない紅葉は少々不機嫌である。
しかし、友情は大事にしたいので付き合うつもりだった。
それを目にするまでは──。
大蔵の住むマンションは緑化運動でもしてるのか植樹が多く、そこかしこに木陰ができるくらい生い茂っていた。
その木陰のひとつから──こちらを覗く人影に目を奪われる。
最初は目の錯覚かと思った。
闇夜に目を凝らして、マンション前の街灯を頼りに覗き込む。すると人影は街灯の近くまで移動して、その顔を拝ませてくれた。
その瞬間──眼と眼で通じ合う。
彼女は──紅葉が追い求める願望の具現化だった。
街灯に照らされた顔を見て確信した。
紅葉の求めるものは小さく微笑み、ゆったりした足取りで歩き出した。
その一挙手一投足へ釘付けになる。
このチャンスを逃したくはない。しかし、友人の前でがっついた素振りも見せたくない紅葉は、穏やかに二次会を断ることにした。
「悪い、朝一番で用事があるのを思い出した……帰るよ」
震えそうになる声を正して別れを告げると足早にならないように、それでも歩幅は大きく歩き出していた。彼女の後を追うことしか頭にない。
「待てよぉ、モミジィ──」
そんな紅葉を金子が呼び止める。
まさか気付かれたのか!? 金子の声が意味深長に聞こえて、冷や汗が背中に噴き上がる。表情に出ないよう唇を噛んだ。
「朝一番……どこの店に並ぶんだ? オレにも教えろよぉ」
「パチスロじゃねえよ馬鹿。明日収めるイラスト仕事思い出しただけだ」
ビビって損した。怒鳴りかけたが落ち着かせる。
ギャンブル中毒をあしらい、今度こそ帰り際の別れを告げる。
大蔵の住むマンションと紅葉の暮らすアパートは意外と近く、歩いて帰るのも苦にならない距離だ。金子や森野はちょっと遠い。
アパートへ帰るフリをして彼女を追いかける。
方角が同じなのは幸いだ。彼女も紅葉のアパート方面へ歩いていく。
紅葉が足早に歩けば、彼女も同じ速さで歩き出す。
ならばと全速力でダッシュすれば、あちらも全速力で走り出す。紅葉が息を切らしてゆっくり歩くと、彼女もまた歩く速度を落とす。
彼女は一定距離を保っていた。
紅葉が追えば逃げるが、追いつこうとした時だけだ。
試しに紅葉が足を止めると、彼女も止まってこちらを振り向いた。微笑む口元は誘っているとしか思えない。焦らされている気分だ。
この年になって鬼ごっこで興奮するとは思わなかった。
追いつけば彼女が手に入る! ずっと夢見てきた願いが叶えられる!
彼女がこの世界で生きている実物の女性であり、追いついたとしても話し掛けて口説くという現実的なコミュニケーションを経て、初めてお付き合いできる……というやり取りなどすっかり忘れていた。
彼女に追いつけば全てが叶う──そんな夢見心地だった。
追えば逃げる。誘うように逃げる。
見失うことはないが、決して追いつくことを許さない。それでも、ずっと夢に想ってきた彼女がこの世界に、現実にいる存在というだけで紅葉の気持ちは逸り、諦めることはできなかった。
やがて、彼女の逃げる先に見当がついた。
彼女が目指していたのは──紅葉の暮らすアパートだ。
鉄製の外階段を登っていき、2階の角部屋の前へと辿り着いた彼女は逃げるのを諦めたように立ち止まる。そこは他でもない、紅葉の部屋だった。
彼女は何も言わず玄関前で立ち尽くす。
全身を覆うマントのようなものを羽織っているため全貌はわからないが、街灯の下で垣間見た顔は見間違えようもない。
今はフードを目深に被り、口元だけを覗かせていた。
今すぐマントを剥ぎ取りたい衝動に駆られるが、ここはグッと堪えて乱れかけた息を整えると、逸る気持ちを抑えて玄関の鍵を開けた。焦っているのか鍵穴に鍵が刺さらず、ガチャガチャと耳障りな金属音を響かせた。
どうにか玄関を開けて部屋に入ると、まずは明かりを付ける。
──8畳一間の1LDK。
その部屋には所狭しと自分の描いたイラストを貼りつけ、部屋中に参考資料が散らばっていた。だが、窓から覗けない位置にある壁の一面だけは綺麗にしており、大判イラストが1枚だけ飾られている。
そこに描かれているのは──実在しない1人の女性。
原寸大で描かれている女性の立像である。
一般的な女性と比べると背は高く、頭身も高いのでスタイルがいい。
全身の肉付きもよろしく、女性の象徴ともいうべき乳房や臀部の発育は著しく、俗にいうグラマラスな巨乳体型だ。
円らな瞳のためやや童顔な趣のある顔立ちは清楚で控え目、物静かで穏やかな性格が表情に表れている。豊満なスタイルとはミスマッチながらも独特の色香を醸し出していた。
腰まで届きそうな黒髪は癖のない艶やかなストレートヘア。
この美女は──紅葉の理想を象ったものだ。
紅葉が愛して已まない、抱き締めて自分のものにしたい、理想とする女性の美を描いたものだ。そのため、仕事のイラストより写実的に描かれている。
理想を描いた女性──だから実在しない。
よく似た女性は何人もいるが、どこか違う。理想に近い女性も出会ったが、何か足りない。これまで巡り会えたのは、似て非なる女性ばかりだ。
心の底から求める理想は、自分の描いた絵の中にしか存在しない。
どれだけ願おうとも叶わぬ夢だと諦めていた。
たとえ、みんなの願いを叶えた『我王の社』という神社であろうと、紅葉の願いだけは叶えられまいと高を括っていた。あまりに非現実的すぎるし、求めて願って欲したとしても、用意できるわけがないのだから。
紅葉の耳に──衣擦れが聞こえる。
玄関の扉は開けたまま、マントを羽織った彼女が音もなく室内に入ってくると、壁に向かう紅葉の後ろに立った。衣擦れはマントを脱いだ音だ。
恐る恐る紅葉が振り向くと、そこに彼女がいた。
紅葉の理想を具現化させた女性が、一糸まとわぬ姿で佇んでいる。
自分の描いた女性が絵から抜け出してきたとしか思えない、紅葉が思い描いたままの女体が目の前にあった。ほんの少し身動ぎするだけで、乳房の肉が、太股の肉が、ちゃんと揺れ動いている。
紛う事なき──本物の女体だった。
彼女がこちらへ踏み出す。薄い脂肪で覆われた腹部の下、目立たない程度に腹筋が動いている。歴とした人体の動きだった。
ここまで近付けば、耳を澄まさずとも彼女の息遣いが聞こえてくる。
彼女は親への抱擁を求める赤ん坊のように力ない動きで、紅葉へ両腕を伸ばすと縋りついてきた。ただ抱きついてきただけかも知れない。
思ったより軽い──まるで抱き枕だ。
抱きつかれると乳房を押し付けられるが、見た目はとってもボリューミーなのに重さはなく、マシュマロみたいにフワフワとして感触だった。
彼女自身の抱き心地も、どこか現実味がない。
この両腕で抱いているという実感がある。ずっと探し求めてきた女性をこの手に抱き留めた達成感もある。なのに…………?
満足感とともに訪れる寂しい虚無感。
彼女の希薄さが、紅葉の高鳴る胸に不安を過ぎらせる。
だが、彼女はそんな紅葉の不安などお構いなしに抱きついてくると、まるで獣が肉を噛み千切るような獰猛さで口付けを交わしてきた。
肉食系な彼女の行動に面食らった紅葉は仰け反ってしまう。
意図せず部屋のベッドへ押し倒されていた。
そして、男と女の本能に赴くまま──。
● ● ● ● ● ●
白熱忘我の一時は瞬く間に終わりを告げた。
求められるまま彼女の中で何度果てたかわからない。ただひたすらに彼女の肉体へむしゃぶりついて、精根尽きるまで幾度となく自分の精を放出した。
その甲斐もあったのか──彼女の存在感は濃くなっていた。
紅葉が精を注ぎ込む度、彼女の肉体は重みを増していき、マシュマロめいた触感だった肉体に人間らしさが宿ったのだ。
部屋の中に充満する息苦しいほどの彼女の香り。
寝返りを打たずとも、傍らで眠る彼女の温もりを感じられた。
これは妄想でも幻覚でもない。理想の女性が横にいる。
これもあの神社のおかげなのか?
仲間たちの願いが叶ったように、紅葉の願いも叶えられたのか?
だとしたら──霊験あらたかすぎる
正直何連発したかわからないが、押し寄せてきた疲労感で朦朧としながらも、紅葉は神社について考えを巡らせていた。
そんなことより、彼女に気を遣わなくては……。
彼女もさすがに疲れたのか、こちらに背を向けて深呼吸を繰り返している。行為の最中、喘ぎ声こそ漏らしたが話してはいない。
ピロートークのひとつも上手くできればいいんだが……。
あれだけ激しく愛し合ったというのに、まだろくに言葉も交わしていないのだからお笑い種だ。しかし、彼女とは言葉にならない意思疎通ができる気がした。
なんというか──無意識に通じ合えるのだ。
「あの……君は……」
会話どころか、まだ彼女の名前も知らなかった。
紅葉が意を決して話し掛けると、彼女はむくりと起き上がった。
横になったままの紅葉に、再び彼女が馬乗りで跨る。
もう無理……とは口が裂けても言いたくない。
彼女に求められるのは本望、まだ彼女を味わい足りないのも本心だ。
「…………満足……して、くれた?」
彼女が初めて口を利いてくれた。
辿々しい、初めて言葉を発したような舌足らずな口調だった。
問われた紅葉が頷けば、彼女は「そう……」とはにかんだ。
紅葉も同じように相好を崩してしまう。
「じゃあ……今度、は……あたしを……満足させて、ほしい」
満足? まだ愛し合いたいというのか?
底なしの性欲にヒヤリとする紅葉だが、構わず彼女は続ける。
「どうしても、欲しいもの、が、あるの…………聞いて、くれる?」
紅葉が彼女を願ったように、彼女も求めるものがあるらしい。
既に満願成就を達成した紅葉は気持ちが大きくなっていたので、彼女の望みなら何でも答えようと安請け合いをした。
約束の頷きを返して返答とする。
紅葉の了承を得た彼女は目を伏せて微笑み、そして……。
「じゃあ──おまえのすべてをあたしに寄越せ」
聞き覚えのある男の声が、彼女の喉の奥から発せられた。
こちらが呆気に取られていると、彼女は伏せた顔を持ち上げる。
見開かれた瞳は爛々と燃える三白眼……これは獣の眼だ。口は耳元まで裂けるほど大きくなり、三日月型に笑う口から覗くのはノコギリのような歯。
鋭く太い牙が隙間なく並んでいた。
彼女の手が紅葉の手首を掴み、手前へ引き寄せる。
まっすぐに伸びた紅葉の二の腕に獣じみた顔を近付けると、牙の並んだ大きな口で噛みつき、肉をごっそりと食い千切った。
なのに──痛みがまったくない。
血が吹き出るどころか肉が弾ける感触もなく、食い千切られた部分は濃い煙のようにあやふやになっていた。腕の断面や骨さえも見えない。
彼女は大口でモッシャモッシャと咀嚼する。
突然の惨劇に悲鳴を上げようとしたが、封じ込まれてしまう。
彼女の細い指が、紅葉の喉元に食い込んでいた。
女の力とは思えない怪力に喉を潰されそうになるが、次第に楽になっていく感覚に戸惑いを覚える。彼女に喉の肉を吸い取られている錯覚を覚えた。
錯覚じゃない──本当に吸い取られているのだ。
彼女に掴まれたままの紅葉の左手首。
指先から煙が立ち上ったかと思えば、自分の手はほどけるように煙となっていき、彼女の手の中へ吸い込まれるところを目撃してしまう。
恐らく、押さえ込まれている喉も同様だろう。
苦しいはずがない。苦しみを感じるはずの五感や神経もろとも、紅葉に肉体が彼女に吸い取られているのだから。
自分の身体が消えていく! 彼女に貪られている!
想像を絶する恐怖に絶叫を上げて喚き散らしたいのに、喉が奪われて声のひとつも上げられない。のたうち回って彼女を押し退けようとしても、馬乗りになる彼女の力が強くて逃げられない。
マシュマロのように軽い肉感はどこへやら──。
今の彼女は獲物を貪る雌の肉食獣さながらの存在感を放っていた。
紅葉が逃げられない理由はもうひとつある。
異常なくらい快感なのだ──自分を奪われることが!
おかげで下半身に力が入らないため藻掻くことすらできず、のし掛かる彼女から逃れることもできず、自分の身体が奪われる様を眺めることしかできない。
失われた身体の部位は──快楽の坩堝だった。
もうそこにないはずの右手や喉元、既に彼女に吸い取られたはずの身体の各部分が気持ちよすぎて堪らない。手足を失った人が感じる“幻肢痛”という感覚があると聞いたが、紅葉の感じている快楽もそれに似ているのだろうか?
彼女の毒気に当てられたのか、全身が快感の渦に放り込まれていく。
これだけ気持ちよければ、今日何度目になるかわからない絶頂を迎えそうなものだが、快感は高まる一方なのに達する気配は一向に訪れない。
恐ろしさと気持ち良さで涙に溺れる両眼を下に向ける。
愕然とした。紅葉の下半身、腰から下はもう消えていたのだ。
彼女のお尻に押し潰されたかのように消えた下半身。下腹部は彼女の股間と密着しており、濃い白煙を上げながら徐々に取り込まれていっている。
恐怖と快感で攪拌されて千々と乱れる意識の中──彼女の声を聞いた。
「まだ、わからない?」
どこかで聞いたことのある声で問い掛けられる。
これは彼女の声ではない。よく聞いた、毎日聞いた男の声だ。
「あたしはおまえだ──御崎紅葉」
涙で滲んだ視界、こちらを覗き込む彼女の顔が歪む。
清楚で穏やかな美女が微笑んでいるかと思えば、次の瞬間には目付きの悪い鬼女が牙を剥いてあざ笑っていた。
この声も聞き覚えがあるはずだ──自分の声なのだから。
「あなたは理想の女性が自分のものになるように願った……だから、あなたの魂の奥底で眠っていた、理想の女性であるあたしが具現化された」
あなたの願望は叶った──神は願いを聞き届けた。
「だが……あの神はタダで願いを叶えるほど優しくはない」
先ほどまでの辿々しさが嘘のように、彼女は流暢に語る。
勿体ぶった言い回しで、紅葉の恐怖感を煽ってきた。
「願いの対価を求める……代価を支払うことで願いは叶えられる」
その代価とは──自分自身。
悪魔との契約で魂を捧げるのが決まりのように、願いを叶えるには自分自身、自らの全身全霊をあの『我王の社』に捧げなければいけない。
理想の彼女は初めて感情に彩られた笑顔を見せた。
居もしない理想の女を求めた愚かな男に、同情の嘲りを浮かべたのだ。
「なに、あたしたちはマシな方だよ」
彼女の声が、自分のものから耳に心地良い女のものになった。
その声も紅葉が理想とした女性の美声だった。
「男のあなたと女のあたしが入れ替わり、友達思いのいい子ちゃんぶってた理性的なあなたと、自分勝手で自由気ままに生きたいと思っていた本能的なあたしが入れ替わるだけ……本当の自分を取り戻すって感じ? ちょいと外見がかわるだけさね」
彼女の口調にも明確な性格が表れてきた。
ぶっきらぼうなところは、封じていた紅葉の本性その物だ。
遠出をすれば運転手役を務めて、ギャンブル中毒な友人に金を貸し……協調性を重んじて、友達付き合いを優先しようとする善人だった自分。
本当の紅葉は──やりたいことだけを優先する自由人のはずなのだ。
そんな紅葉の本性が具現化した、と彼女は自称する。
さっきまで夢幻のように希薄だった彼女の肉体は、今や確固たる意志と存在感を放っており、その女性美も肉感的になっていく。
それに引き替え紅葉の肉体は吸い取られるままに消えていき、もはや頭と胸と左腕しか残っていない状態だった。
「あら、クーリングオフしたいって顔に出てるけど、それはできない相談だよ。社で神様の声を聞いただろ? あれは願いを聞き届けたって合図さね」
サービス♪ と彼女は巨大な乳房で紅葉の顔を押し潰す。
巨乳の肉に自分の顔が沈み込んでいく。
胴体はとっくの昔に彼女の腹の中だ。足掻いていた左腕は彼女の太ももに挟まれたまま飲み込まれた。もはや頭しか残っていない。
最後に残された頭は彼女の胸に抱かれ、静かに溶けていく。
乳房の谷間──涙を流す眼球がひとつ残る。
そこに宿った紅葉の意識は、せせら笑う彼女を見上げていた。
「安心しなよ。何も変わりはしないからさ……え? 願いをかけた本人の肉体を代償に願いを叶えること、それが神様にどんなメリットがあるのかだって? それは……いずれわかることさね」
おまえがあたしになればな──そこで紅葉の意識は途絶えた。
● ● ● ● ● ●
気付けば──部屋に1人だった。
ベッドの上に裸のまま呆然と座り込んでいる。正座から脚だけを左右に広げてお尻をつけて……女の子座りでポカーンとしている自分がいた。
自分という存在が吸い取られる恐怖に恐れ戦き、この世のものとは思えない快楽に悶え狂い、泣き喚いていた自分が嘘のようだった。
疲れていたはずの身体には不思議な活力が漲り、無意識に五体が動いた。
まず今の自分が見たかったので洗面所に向かう。
姿見鏡なんて洒落たものはない。全身とまでは行かないが膝上くらいまでの自分を映せるのは洗面台に備え付けの鏡だけだ。
鏡に映し出されたのは──理想の女性である彼女だった。
別に驚きはしない。想定の範囲内である。
御崎紅葉という1人の男は完全に消え失せた。
目の前に居るのは、紅葉の全てを奪った“理想の女性”という怪物。
紅葉はその怪物に全てを奪われながら、怪物の中で自我が生きていることを理解しており、自らが美女の姿を借りた怪物になったことを自覚する。
理想の女性を手に入れたわけではない。
追い求めた理想であり、この腕に抱きたいと願った美女。その女性に自らが変わってしまったのだ。こんな歪んだ願いの叶い方があるだろうか?
なのに──最高の気分だった。
理想の女性となった自分に不満はなく、それどころか説明しがたい達成感が身体の奥底から湧いてくる。しなやかな女性の腕で細くなった自分の両肩を抱き締めようとするが、大きすぎる巨乳に邪魔されて肘が上がってしまう。
自分の肩を抱いたまま、あふれ出る幸せを噛み締める。
深夜にバカ笑いもできないので、声を殺して喉を鳴らして笑い続けた。
歪んで叶えられた願い──なのに、この満足感はなんだ?
わからない。わからないが、幸せが募るので笑いが止まらない。
かつて御崎紅葉だったという認識のある自我は、欲して已まなかった理想の女性でもあるこの肉体に好奇心が止まらない。
しばらく洗面台の鏡を見つめた後、重すぎる巨乳を持ち上げたり揺らして遊んでみたり、見返り美人っぽく振り返ってヒップラインの良さを確認してみたり、しなを作ったりセクシーなポーズを取ってみたり、鏡の自分に投げキッスやウィンクをしてみたり……せっかくの女体をおもいっきり堪能する。
無論──それだけでは済まない。
いやらしい動画でしかお目に掛かったことがない、女の身体を自ら慰める行為に耽った。たっぷり一時間くらいは楽しんだことだろう。
この肉体の感度は筆舌に尽くしがたい。
気持ちよさのあまり自然と漏れる甲高い嬌声を抑えるのに一苦労だ。
気付けば、洗面所は流れ落ちた淫らな液体に濡れそぼっていた。
存分に“女”を楽しんだところで、紅葉は一息ついた。
「なるほど──確かに、何も変わりはしないな」
鏡の中の女は微笑む。
獣の三白眼、口元まで裂けた口に牙を並べてだ。
これは紅葉が求めた女性の笑みではない。
どうやら廃墟神社の神様から与えられた特性らしい。
油断すると怪物の素が出るのか、気を抜くと獣の笑顔になるのだ。
「気を付けないとな……これでよし、と」
顔を一撫ですると、清楚なお姉さんの笑顔に戻る。
これをデフォルトにしないといけない。
「さて、女の子ごっこで遊ぶのも楽しいが、俺……じゃない、あたしがこうなってるからには、あいつらも似たり寄ったりだろうね」
様子を見に行こう──眷族と合流するのだ。
そんな義務感に駆られた。これも神様の思し召しである。
服を着て外に出ようとしたのだが、合う服がない。
身長は以前の御崎紅葉と大差ないが、胸とお尻のボリュームが桁違いに変わっているので上着は前が止められず、ズボンやパンツは入らなかった。
こうも胸が大きいと、男物も着にくい。
「……我ながら物持ちがよくて助かったわ」
そんな時、衣装ケースの奥に仕舞い込んだジャージを思い出した。
衣料品店の処分セールで安く購入したのはいいものの、3Lとかいう特大サイズなので部屋着にもできなかったものだ。これならダボダボだけどイケる。
下着類も着られないので、裸のままジャージを羽織った。
「全裸の女がジャージだけで深夜徘徊か……まるっきり痴女だね」
自分を有り様を笑いながら紅葉は外に出た。
スマホも財布も持たずに手ぶら。部屋の鍵も不用心に開けっぱなしである。
どうせ全部いらなくなる、という予感があったからだ。
夜道を歩きながら、紅葉は変わり果てた我が身を顧みる。
確かに──何も変わりはしない。
突然現れた理想の女性という怪物に、自分という存在を根刮ぎ奪われた。
しかし御崎紅葉という人格は消えることはなく彼女と渾然一体化し、むしろ今までよりも開放的だった。本当の自分に立ち返れた気さえする。理性や常識という役にも立たない鎖で縛られていた自意識が解き放たれたようだった。
自分は御崎紅葉なのか? それとも理想の女性なのか?
そんなことさえどうでもいい。
「俺はあたしで、あたしが俺で……御崎紅葉であることに変わりはない」
この姿で紅葉という名前もお堅いか──。
「ならばいっそ……モミジと名乗った方が似合うかもな」
それがいい、と紅葉は女らしい表情でほくそ笑んだ。
──夜明けまでにはまだ遠い。
こんな夜遅くにジャージ姿の無防備な女が夜道を1人で歩いていたら危ないのではないか? と考えたが、変質者に襲われても、かつての紅葉がされたように存在ごと食ってやればいいだけだ。
物騒なのはどっちだか、紅葉は獣の笑みになっていた。
「おっと、いけないいけない」
顔を撫でて清楚な美女に直していると、大蔵のマンションの前だった。
当然だが、友人たちは大蔵の部屋に引っ込んでいる。
オートロック式のマンションなので、入り口で大蔵の部屋番号を入力してマイクに「開けてくれ」と呼び掛ける。返事はないがロックは解除された。
まっすぐ大蔵の部屋に向かうと、おもむろにドアを開ける。
やはり施錠されてない。こちらも開いたままだ。
部屋の中へ踏み込めば──案の定の光景が広がっていた。
「ひ、ひひ……かね、おれのかね、か、ね……」
金子の声は、耳を澄まさないと聞き取れないほど小さい。
部屋の中央──堆く積み上げられた札束。
全て日本銀行券の一万円札。額にして数億は下るまい。
その周りにはたくさんの硬貨がジャラジャラ散らばっていた。
札束の山から、チャリンチャリンと小銭が落ちてくる。
小銭が落ちてくる出所に目を向ければ、黄金虫の大きさにまで縮んだ金子の姿があった。ほとんど身体は残っておらず、か細く呟く唇と芋虫くらいにまで縮んだ右腕が、積み上げられた札束の山にしがみついていた。
「かね……かね、を……もっと……もっと…………」
縮んだ身体から小銭がこぼれ落ちる度、金子は縮んでいく。
「か………ね…………」
最後まで残った唇が1円玉に変わり──金子泰三という男は消えた。
振り向けば、応接間にはもうひとつの山が築かれている。
そこに積み上げられたのは大量の酒瓶だった。
見たことも聞いたこともない高級ワインの数々、日本酒は大吟醸に始まって滅多にお目にかかれない幻の地酒など多種多様。ウイスキー、どぶろく、ビール、焼酎、ブランデー、発泡酒……アルコールなら何でもありだ。
酒瓶の山の頂点──白ワインを注いだグラスに大蔵が沈んでいた。
彼も口だけしか残っておらず、大きめのグラスに並々と注がれた白ワインに身を沈めると、浸かりながら酒を飲み干しているようだった。
グラスのワインを飲み干すと、唇は満足な笑みを浮かべたまま消える。
ワインに濡れたグラスの底で──金子信司という男も消えた。
「あらあら……どっちも幸せそうなことで」
多幸感に関しては紅葉も他人事ではないので共感できた。
理想の女性という怪物に存在の全てを吸い取られた瞬間、彼女と一体化した紅葉は凄まじい快感を覚えた。自分が自分でなくなるような絶頂だった。
文字通り、変身したわけだが……。
変身の快感とでも言えばいいのか、自慰行為どころか性行為も霞むほどの快感に声なき嬌声を天に届くほど上げた。獣の雄叫びにも似通う超音波めいた叫びに、遠くで応えるものがいたことを覚えている。
そして、異次元の快楽はまだ尾を引いていた。
こうして立っているだけでも、身体の芯から突き上げるような快感がこみ上げてきており、それが無限の活力となって紅葉を突き動かす。
「願いが叶って幸せで、おまけに気持ちいい……でも、自分は消える」
あの神社が廃れるわけだ、と納得できた。
自分を代償に願いを叶えるなど悪魔の取引に等しい。
願いの果てに自分が人間ではない金や酒といった物品に堕ちてしまえば、そいつの人生はそこで強制終了だ。大蔵や金子はまさに好例である。
当人が快楽の渦中にあるのが、せめてもの救いだろう。
物になった連中はさておき、紅葉のような自我を持ったまま別の生き物になると話が違う。そうなった者には神様から特別な使命が与えられる。
「私たちは──あの神に奉仕する眷族になったようだな」
声に振り向けば、大きなカブトムシが床をのそのそと歩いていた。
森野が捕まえた黄金色のカブトムシだが明らかに大きくなっており、昆虫の複眼に小さな黒縁眼鏡を掛けていた。
多くを語らずとも、紅葉はカブトムシの正体を察する。
「森野、おまえは無事だったんだな」
この様を見て無事というのか、森野の笑い声でカブトムシは答える。
「自分の人格が残っている、という点では無事と言えるだろうが……世間一般から見れば、死んだ方がマシと思えるくらいの呪いを受けたも同然だがな」
「そりゃおまえ、どんな立派でも虫だからね……」
森野は羽を広げるとカブトムシらしく飛んだ。
紅葉が嫋やかに女性の手を差し出せば開いた掌に止まる。
「そういう君はいつの間に性転換手術を受けたんだね? 豊胸手術に豊臀手術……顔立ちから髪の長さまで違うから大手術だったようだね」
「虫になったおまえほどじゃないよ」
森野が皮肉で返してきたので紅葉は鼻で笑った。
● ● ● ● ● ●
──我王の社。
そこに奉られた神は、どんな願いでも叶えてくれる。
ただし、その願いは当事者を代償にする。
金が欲しければ自分が金になり、酒が欲しければ自分が酒になり、理想の女性が欲しければ自分がその女となり……自分が求めるモノへ変わってしまう。
その際、想像を絶する快感をもたらす。
「……そうして願う者の欲望が歪みながらも昇華された時、願う者が心に抱く欲望を、あの御方はエネルギーとして食べているようだな」
「ふぅーん、なんとなくわかるな」
紅葉は森野のオリジナル見解に耳を傾けた。
カーペットの上に腰を下ろした紅葉は、大蔵の成れの果てである大吟醸を開けると、大きな朱色の杯に注いでスルスルと水のように呑んでいた。
筆を鈍らせないためにと禁酒していたが、本来の紅葉は酒好きである。
もう我慢することもないので遠慮なく呑ませてもらう。
差しで呑むのは──カブトムシとなった森野だ。
大型とはいえカブトムシ。その身体でも持てるお猪口に大吟醸を注いでやると、虫の前脚で器用に持ち上げてチュウチュウと吸っている。
酒を吸うのを中断して森野は饒舌に語り出す。
「欲望、デザイア、渇望、グリード、希望……言葉は何でもいい。要するに人間を突き動かす根源的なエネルギー、それを糧としていらっしゃるのだ」
人間の欲望は計り知れない。
欲望に駆られた人間は大地を造り替え、海を越え、ついに空まで飛んだ。
これまでも世界の様相を激変させてきたが、これからも世界の滅ぼすほどの勢いでその有り様を変えていくことだろう。
エネルギー源としては他に類を見ないものだ。
「人々の欲望のままに生きた結果、2000年足らずで地球環境をここまで激変させたことを考えれば、これほど強力なエネルギーもないだろう……あの御方が糧として求めるのも頷けるというものだ」
カブトムシの短い首(関節?)をウンウンと森野は頷かせる。
紅葉はわかったようなわからないような……自分なりの解釈をした。
「その欲望を吸い取りやすいように、願った人間の欲しがる物を与えようとするんだけど、手っ取り早くそいつを材料にするわけか……横着だね」
「材料費削減とも言えるな……手間が掛からないし元手もタダだ」
そして、文句が出ないようアフターケアも忘れない。
紅葉も森野も、満ち足りた気分だった。
欲しいものを手中に収めた満足感が──いつまでも消えないのだ。
変身の快感も凄まじかったが、その後も幸せな気持ちが尾を引いている。おかげで常に満足した気分にあり、不平不満が出てこない。
普通「自分が欲しいものに自分が変えられる」なんてデタラメな願いの叶え方をされたらブチ切れ案件だ。クレームどころの話ではない。
しかし、紅葉も森野も感謝こそすれ、怒りや怨みは湧かなかった。
そう洗脳されただけかも知れないが……。
「ま、いつまで経っても賢者モードが来ない感じだよな」
「大体合っているような、盛大に間違っているような……ま、まあ、そんな感じと例えてもいいかも知れないな。実際のところ、我々は幸せなのだから」
森野のお猪口から酒が消える。
カブトムシは刷毛みたいな口で樹液をなめ取るが、その口で吸っている割にすごい勢いでなくなる。カブトムシになっても酒豪らしい。
せっかく美女になったからお酌をしてやる。
すると、両方の前脚で器用にお猪口を持ち上げてきた。ちょっと可愛い。
ふと──森野の視線が気になる。
アイドルを凌駕する美貌、グラビアモデルも裸足で逃げ出すナイスバディを注目されているのが痛いほどわかる。なるほど、女性は思った以上に男の視線がわかると聞いたことがあるが、あれは本当だったらしい。
3Lのジャージでも胸元がきついので、解放しているから尚更だ。
こちらの胸の谷間を見上げて森野は続ける。
「男から女に変わる……くらいならまあ喜ぶ奴もいるだろうが、私みたいに昆虫に変わるとなれば罰ゲームどころの話ではない。前世の罪を償わされているぐらいの呪いだからな。カフカの『変身』も真っ青だ……しかし」
私は大変満足している! と森野は誇らしげに断言した。
「憧れの昆虫に、それもこの世に2匹といない黄金色のオーラを放つ巨大カブトムシになれたことに……この上ない達成感を味わっているのだ! こういう満足感は喉元過ぎれば覚めるものだが……失墜する感覚がまったくない!」
「あ、それは俺……じゃない、あたしも同感」
この身体は気持ち良くてヤバい……と紅葉はしなを作りながらジャージの内側へ手を差し込み、片手で乳房をまさぐりつつ秘所を指でなぞった。
小さく嬌声を漏らして喘いでいると、森野が咳払いをして中断させる。
「……君の場合、性格まで変わってないか?」
「今まで隠してた正体が出ただけさ。どっちかっていうとこっちが本性」
それと──紅葉は空の一升瓶を手に取った。
酒瓶を口に持っていくと、スナック菓子みたいに囓る。
すべて囓り終えた紅葉は牙の輝く大きな口を開いてニンマリ笑った。
「どうやら人間もやめさせられたらしい」
「それについては先刻承知だよ。人語を解して喋る甲虫などいない」
「そういや森野、どこで喋ってんの?」
私にもわからん、と森野は前脚でお猪口を仰いだ。
「まあ、私も似たようなことができるが……」
紅葉が隠し芸を披露すると、森野も対抗意識を燃やしてきた。
ビキビキと音をさせながら甲虫の角が巨大化する。
身体も大きくなり、角の数が増えて凶悪な形になっていく。見る見る内に紅葉を追い越すほど巨大化し、6本の脚も大きくなると前脚は昆虫の特徴を残したまま、人間のように五指を備えた手となり、後ろ脚で二足歩行して……。
身の丈5m越えの巨大な甲虫が蹲っていた。
紅葉も本気になれば怪物じみた変身をできるが、理想の女性像を崩したくないので絶対にやらない。あの獣の笑顔だって本当は嫌いなのだ。
「これもあれか、あの社の神様がくれた“力”ってところかい?」
「私に聞かずともわかるだろう? 君もまたあの御方の眷族なのだから」
あの御方が何を求めているのかを──。
「そりゃあ……まあ、ね」
牙の生えそろった大きな口を釣り上げ、紅葉は獣の眼を細める。
早いペースで大蔵の成れ果てた15本目の酒を開けた。
この酒を飲む度──大蔵が快感に喘ぐ声が聞こえてくる。
彼もまた、変身の快楽を享受していた。
● ● ● ● ● ●
御崎紅葉、森野毘斗流、金子泰三、大蔵信司。
この4人は忽然と姿を消した。
シルバーウィーク初日に「高校時代の腐れ縁で集まる」と聞いたと、彼らの友人は証言している。しかし、その日を境に行方を眩ましたのだ。
まず「息子が帰らない」と同居の両親が森野の安否を心配して警察に連絡。その後、大蔵の両親も息子と連絡が取れないことを知る。
独り暮らしの紅葉と金子も部屋に帰らず、大学に姿を見せなかった。
最後に4人が集まっていたのは大蔵のマンション。
大蔵以外の3人の私物がチラホラ残っており、空になった酒瓶や酒の肴があることから、彼らがこの部屋で飲み会をしていたのは想像に難くない。
では──何処へ行ったのか?
争った形跡はなく、どちらかといえば掃除した後がある。
ここから4人の足取りは杳として掴めず、足となりそうな大蔵所有の車は3台とも地下駐車場に駐められたままだ。
物盗りか強盗にしろ、故あって人知れず旅に出たにしろ、持ち出されたクレジットカードなどを使えば即座に居場所がばれるものだが、彼らのカードが使われる様子もなかった。彼らは金銭を使える状況にないらしい。
あるいは──必要としていないのか。
カードの使用状況もそうだが大蔵の部屋の金品も手付かずなため、金銭トラブルとは考えにくい。前述の通り、飲み会の形跡はあるのだが、空瓶や肴の食べ残しは台所へ片付けられ、応接間は掃除機でも掛けたのか塵ひとつ落ちていない。
山と積まれた大量のお金も──多種多様な酒も──。
そんな不審なものはなく、綺麗な部屋だけが残されていた。
他に部屋を訪ねた人々が気付いたことといえば、カブトムシを飼うと漂う腐葉土の匂いと、寝室に残されたフェロモンの強い女の香り。
これが妙なくらい鼻についたという。
● ● ● ● ● ●
チャリーン、と最後の10円玉が堕ちた。
「あらら、1人残らずお金になっちゃった」
「何人かは我らのようになるかと思ったのだがな」
期待はずれだ、と紅葉と森野はコンビで落胆した。
かつての朽ちかけた神社は──見違えるほど整備されていた。
崩れかけていた本殿は初詣に通いたくなるほど立派に建て直され、山道から神社へ続く石段も歩きやすいよう組み直し、境内の石畳も敷き直した。
根元だけだった鳥居も新調されている。
境内には玉砂利を敷き詰め、格調高い雰囲気を醸し出す。
手水場を初めとした神社に欠かせない施設も建て直させ、紅葉と森野が寝起きする社務所(兼住居)も新たに建てさせた。
「……工事を頼んだ業者連中を口封じのため拝ませたのはいいが」
「みんなお金になっちまうってオチはつまらないね」
お仲間が欲しかったのに、と巫女服の紅葉は腰に手を当てて残念がった。
肩にはちょうどいいサイズに縮んだ森野が乗っている。
森野は紅葉の肩から羽根を出して飛び立つと、工事業者の変わり果てた姿である金の山に降り立った。そこで一気に巨大化する。
「まあいい、軍資金があるに越したことはない。貰っておこう」
「そだね……金子のお金も結構使っちゃったし」
使う度、金子のはしゃぐ声が聞こえたのは気のせいではない。
大蔵もそうだが、金子もまだ意識が残っているのだ。
酒や金になろうとも、その存在としての本文を全うすれば紅葉が森野がそうであるように、快感以上の満足感を味わっている。
これもまた神社に眠る神の慈悲──なのかも知れない。
「じゃあ社務所に仕舞っておくぞ」
森野は熊みたいな大きさの甲虫の怪物になると、6本の脚に大金をがっちり掴んで社務所へと運んでいく。取りこぼしたものは紅葉がかき集めた。
「んで、ここを建て直して──これからどうするの?」
紅葉が女っぽく人差し指を口元に当てて小首を傾げると、森野は表情などない昆虫の顔で驚きと呆れを表現した。
「おまえ……御方様の意志が伝わってこないのか?」
森野はこの地に眠る神を御方様と呼び称える。
決して本当の名で呼ぼうとしない。
「いや、なんとなくわかるんだけどさ、森野ほど精度が高くないんだよねぇ……身体の感度はますます抜群なんだけど」
巫女服の上から乳房や尻をまさぐり、わざとらしくアンアン喘いでみる。
「やかましい、真っ昼間から発情するな」
巨大化したカブトムシに叱られると迫力満点だった
これ見よがしなため息の後、森野は噛んで含めるように言い聞かせてくる。
「いいか、よく聞け、乳房とお尻に栄養が回りすぎた処女ビッチよ」
「酷いこと仰る!? おまえも口さがなくなったな」
紅葉のツッコミを無視してカブトムシは真面目に続ける。
「あの御方は──滋養を求められておられる」
この地に眠る神が求めるのは、人間の欲望だ。
人間の欲望が歪ながらも叶えられた瞬間、解放される莫大な欲望というエネルギーをごっそり吸い上げる。
それが紅葉たちが崇める神の願いだった。
「……だから私たちは、この神社に欲深い人間どもを呼び寄せるのだ」
「だったら、なんで山道は直さなかったんだよ?」
神社やそれに続く石段はしっかり直したのに、入り口とも言える山道は手付かずのままだ。むしろ木や草を集めて覆い隠していた。
揚げ足を取ると、森野は残念な子を見る目で紅葉を見つめる。
「おまえ、本当に中途半端にしかご意志を受け取ってないんだな……それでも御方様の眷族か嘆かわしい。いいか、よく聞け」
この神社に眠る神は──邪神の類らしい。
そのため、かつて“旧神”という神々によって打ち倒されたそうだ。
「だが、星辰が然るべき配置に来た時、御方は復活される……覚醒の時に備えて力をつける必要がある。だからこそ、人間の欲望が必要なのだ」
多くの人間の欲望を喰らって英気を養い、力を取り戻そうとしている。
「なら、ここを人気スポットにして人間どもを呼び込めば……」
「そんなド派手な真似をしたら勘付かれるだろうが!」
堪忍袋の緒が切れたのか、森野は全身から角を生やして怒った。
ああッ! と紅葉もようやく納得して手を打つ。
人間を大量に生け贄すれば世間の噂となるのは必定。それを不審に感じた旧神と彼らにまつわる者に気付かれかねない。
そうなれば最後、神社の底で眠る神は二度と復活できぬようにトドメを刺されるか、未来永劫の目覚めぬように封印を施されてしまうだろう。
そして──眷族となった紅葉や森野は始末される。
最悪の未来を想像した紅葉は、げんなりした顔で項垂れた。
「こんな形になったとはいえ、せっかく理想の女を手に入れて、人間以上の何かになれたっていうのに……退治されるのは嫌だな」
「わかったか? 今の我らは悪の組織に所属する怪人と変わらない」
大っぴらにやりすぎると正義の鉄槌に狙われる。
森野はそこを懸念して、わざわざ山道を隠したと教えてくれた。
「だからこそ、深く、静かに、穏便に……御方様の好みそうな強い欲望を持つ人間を供物としてこの地に誘き寄せる必要があるのだ」
噂くらいが良い案配、引っ掛かった間抜けを餌食にすればいい。
紅葉たちのように──。
「よし、美人局ならお姉さんに任せなさい!」
紅葉は長い黒髪を背中からかき上げるポーズで色気を振りまいた。
「このナイスバディならスケベ野郎の1ダースくらい爆釣り間違いなし。どんどん釣り上げて、神様に腹一杯の欲望をご馳走してやんよ」
自信満々の紅葉だが、森野は懐疑的だった。
「正直に言えば……もっとスレンダーで可愛げのある姿になれんのか?」
「なっ!? 男はみんなボインボインが大好きだろ!」
前屈みの姿勢で乳房を揺らす紅葉だが、森野の反応は冷淡である。
「何事も程度による……おまえのは乳も尻もデカすぎだ。日本人はロリコンの気質だからな。おまえみたいに大人の女の色香が強いと退く傾向にある」
「まっ! これだから草食系男子はダメなのよ!」
だから少子化なんじゃない!? と紅葉はいちゃもんを付けた。
あと顔──本性は隠せ。
森野に指摘された紅葉、獣の顔になっている自分を知る。
獣といっても鼻面が伸びたり、獣耳になったり獣毛が生えるわけではない。目尻が釣り上がって三白眼になり、口が三日月状に裂けて歯が牙になるだけだ。
たったそれだけで──十二分に獣である。
気が昂ぶると自然に現れるこれは、御方様の眷族になった証らしい。
「誰もいないんだからいいじゃんよ……ほら、これで素敵なお姉さんだろ? 泣いた子供も笑ってくれるんじゃない?」
鬼女めいた表情を一撫ですると、優しいお姉さんに変わる。
「んじゃ野郎を釣るのは簡単そうだから、ハードル上げてワンチャン百合狙いで可愛くて綺麗どころな女の子でも釣ってくるかな」
紅葉は引き千切るように巫女服を剥ぎ取った。
すると巫女服の下から、お姉さんらしいスーツ姿が現れる。
この姿で獲物を物色してくる、と紅葉は街へ向かう。
「そうしてくれ。むさ苦しい男の供物ばかりでは御方様も飽きられるからな」
街へ降りていく紅葉に、森野は見送りの言葉を掛ける。
不意に──紅葉は立ち止まった。
「そういやさ……御方様の本名ってどう読むの?」
「おま……それさえわかってなかったのか!?」
ブチ切れる森野を宥めながら紅葉は御方様の名前を訊いた。
森野は呆れながらも教えてくれる。
「偉大なる御方様の名前は人語では表現しにくい……おまえも御方様の咆哮を聞いたはずだぞ? あれが御方様のご尊名でもあるのだ」
「お願いした直後に聞こえてきた、あの雄叫びか……」
グァウムオゥ──あるいはグァームウォー。
これが日本風に鈍った結果、我は王と書いて我王と呼ばれるようになり、此処は『我王の社』と呼ばれるに至った所以であるという。
建て直された本殿には、新しい額縁に『我王ノ尊』と書き直されている。
振り返った紅葉は、我王の御名を見上げてもう一度尋ねた。
「御方様の名前と一緒に『ズァートグアァー』とか『ツァトグゥアー』って名前も聞こえたんだけど、あれは何だか知ってるか?」
「それは御方様の遠縁に当たる偉大な神の名だ。御方様とはお祖父様を同じくされるとか……やはり地の奥底で眠りについておられるそうだ」
ふぅん、と紅葉は鼻を鳴らして納得する。
どこからともなく、蛙やら蛇やら虫やらが大量に這い出てきた。
いや、鼠に狸に狐に……小動物も目白押しだ。
彼らは建て直された本殿を取り囲むように群れると、それぞれに泣き声を上げて大合唱を奏でる。紅葉も森野も動じることなく、当然のように聞き惚れた。
それは賛美歌のように山々へ響き渡る。
アザトブザァ=ワァトゥン=グフ! ナグトゥアヴル!
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