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第19章 神魔未踏のメガラニカ
第466話:外なる神々の訪う足音
しおりを挟むやはりこれは夢だ――ツバサは確信する。
持てる限りの分析系技能を尽くして走査してみたが、異空間や別次元へ引きずり込まれた感触はない。小細工をされたわけではないのは確かだった。
ツバサ自身の座標軸は高速で移動している。
これは全界特急ラザフォードに乗車中なのを意味していた。
なのに、視界に映るのは電車の中だ。
よく通学に使った懐かしいある路線の車内に似ており、ガタンゴトンと在り来たりな振動音が聞こえてくるが、速度は全界特急の半分にも届かない。
ここは――意識と無意識の狭間。
ツバサの記憶を切り貼りして結ばれた夢の虚像だ。
どうして通学に利用した電車を採用したのか? 我が事ながら知る由もない。だが以前も似たような夢を見た記憶があるので、自分で思うより記憶に刻まれているのかも知れないし、他の因果関係があるのかも知れない。
意識はクリアに澄み渡っている。
これが夢だと自覚があるため明晰夢になるのだろう。
明晰夢は思いのままになると聞くが、その割に自由が利かない。こうなると自我や無意識の仕業ではないから、第三者の関与を疑うしかない。
その第三者は目の前に渦巻く妖気だった。
耐え難い悪臭と、こちらの意識を圧迫する強烈な存在感。
恐らく本体ではない。自らの意識の一部を飛ばして遠隔操作しているようだが、それだけで魂が砕け散りそうな威圧感に意識の芯がビリビリする。
超巨大蕃神――祭司長。
その化身ともいうべき妖気の塊が、ようやく形を取ろうとしていた。
それは人間では決して太刀打ちできない超越的存在。
伝説の旧支配者――偉大なるクトゥルフ。
夢のまにまにを凝視するツバサは、祭司長をそう幻視してしまう。
彼の発する精神波は心どころか、魂魄をも打ち砕くような名状しがたい波動を発しており、常人ならば身も心も木っ端微塵されていたことだろう。
しかし、今のツバサなら耐えられる。
これも神族化した恩恵か、マーリンたち最上位GMに感謝しよう。
(※マーリン・マナナン・マリクール・マルガリータ。VRMMORPGを管理した64人のゲームマスターで最高位の№01の座につく灰色の御子。真なる世界の因子を受け継いだ人類を神族や魔族を越える種族に進化させるべく、陰に日向に導いてきた。五女マリナの実の父親でもある)
祭司長の発する凄まじい波動を不快に感じる程度で済まされており、その不快感が苛立ちへと膨張し、やがてツバサの闘争本能を焚き付ける。
歯軋りするも口角は釣り上がる一方だ。
……戦えるのか?
旧支配者の王ともいうべき上位者へ挑める、千載一遇の好機である。
脅えではなく、武者震いが止まらない。
発狂したくなるほどの恐怖を噛み破るかの如く、鎖で繋ぎ止められない闘志が、戦闘民族としての本能がツバサに艶やかな唇で舌舐めずりをさせる。
『控えよ――不毛なる闘気を鎮めるがいい』
祭司長は六本指が付いている左手で、こちらの威勢を制してきた。
その姿はどうにか人間を模したものになっていた。
胸を覆うほどの髭を蓄えた禿頭の巨漢。
触手が髭に化けたのか、蠢いている気がしてならない。
座っているのに頭は車内の天井に届いており、腰掛けた八人掛けの席をたった一人で占有する巨体。動画などで見掛ける異常なまでに太った肥満体にも見えるが、彼は自力で動けるだけの野太い四肢を有していた。
全身を覆い隠すのは、汚穢に塗れるも権威を醸し出す深緑のローブ。
そして、鈍い眼光がツバサを睨みつける。
瞬きする度、双眸の光が二つから六つになる錯覚に目眩がする。
古いビデオを再生した時に走るノイズにも似た乱れで視界が霞むと、祭司長の姿を三重写しになる。二重ではない、三重になるのだ。
ひとつは先に述べた通り禿げ頭の大男。
ひとつは最初に目撃した悪臭の妖気を渦巻かせる塊。
最後のひとつは――偉大なるクトゥルフ。
禿頭の頭には不揃いな六つの眼光を瞬かせ、髭と見間違えるほどの触手を生え揃わせている。頭部は蛸のような頭足類にしか見えない。汚泥じみた粘液をまとわせている図体は緑色で、背には萎びたドラゴンの羽を打ち振るわせていた。
六つの指には鉤爪を伸ばし、指の間には水掻きも垣間見える。
基本は異様に太った偉そうなハゲのオッサンに見えるのだが、こちらが瞬きする寸前に砂嵐めいたノイズが走ると、ランダムで姿が変わるらしい。
『先に申したであろう。私は忠告に顕れただけだ』
鼓膜を破る勢いで轟音が響く。
また祭司長が洪水のような思考を注ぎ込んできたのだ。
無数の星系で起きた事象の一部始終を語り尽くす。
宇宙の神秘を解き明かせそうな情報量が瞬時に脳内を駆け巡る。
脳髄が煮え立つような苦行だ。
それでも蕃神の弱点に繋がる情報はないものかと、辛抱強く聞き流しては拾い上げてるのだが、いまいちピンと来るものはないので肩透かしを食らう。
弱味をバラすほどポンコツじゃないか、とツバサは舌打ちした。
幾千万の管楽器を鳴り響かせたような爆音に、鼓膜がするどころか神経まで断線しかねない。神族の聴覚器官だから持ち堪えられている。
人の神経を逆撫でするオーボエにも似たくぐもり声。
それがクトゥルフの発する声だと博覧強記娘から聞いたことはあるが、これは声どころではない。膨大な量の情報を叩き付けられているのだ。
映像、言語、文章、声、音楽、臭気、触感……。
五感がパンクしかねない情報をツバサはなるべく受け流し、祭司長が人語としてこちらに伝えたい部分をピックアップしていく。
そうでもしなければ、本当に精神が破壊されかねなかった。
片目を細めて片目を見開き、祭司長は細やかな感心に声を上げる。
『私を恐れるどころではない――打倒すべき障害と見做すか』
祭司長は踊る触手の髭を撫で付けた。
人間に化けたためか、所作まで人間じみてきた。あるいは、ツバサの視覚がそのように変換しているだけかも知れない。
『貴様らの言葉で“豪胆”と褒めるか――あるいは“蛮勇”と蔑むか』
「褒めたところで祭司長の障害になるだけだぜ」
減らず口で返すものの、ほんの少しでも気を緩めれば目眩と頭痛で意識が飛びそうになる。一時たりとも気が抜けない緊張感が続きそうだ。
ムッチリした太ももを優雅に組み替えた。
上になった膝に組んだ両手を乗せたツバサは喧嘩腰で続ける。
「どういう風の吹き回しだ? 問答無用で侵略戦争を仕掛けてきた蕃神たちが、今になって話し合いを持ってきたと思ったら忠告なんて……」
唐突な意図――その腹を探らせてもらう。
そもそもの話、蕃神から接触が初めてのケースだ。もしも話し合いができるならば交渉の余地ありと期待したいのだが、それにしては発狂死させるような波動を浴びせてくるところに敵意を感じてしまう。
この波動によって殺気立つため、ツバサも険悪にならざる得ない。
祭司長は傲然とした振る舞いで睥睨する。
『この地は蕃神が掌握した――これは覆らない事実だ』
もはや手に入れたも同然と言い切る祭司長にカチンと来た。
バチバチと雷をまとうツバサは威嚇的に言い返す
「今度は左手どころじゃない……その全身を削いで抉って磨り潰すぞ?」
グフグフグフ、と祭司長から咳き込むような笑声が漏れる。
生意気な口を利くツバサを嘲笑しているのだ。
『やってみせよ――疼痛を感じるのも幾星霜、心地良ささえ覚える』
肉を蕩かせた粘液を沸き立たせるような音をさせると、祭司長の右手が元通りに復元した。見せびらかすように六本の指を戦慄かせている。
クトゥルフの肉体は無定形な原形質の塊。
おかげで変幻自在だと聞くが、失った手足を治すのも容易いようだ。
しかし、右手はすぐに消える。ツバサとミロが協力して斬り落とした時のように、手首の断面を見せる形へと戻っていた。
いつでも治せるとパフォーマンスを見せたらしい。
『これは戒め――貴様らに為て遣られた過去を忘れぬためだ』
「……そりゃどうも」
偉大なる旧支配者に自身の力を認めさせた。
悠久の時を死ぬことなく生きる彼らにしてみれば、ツバサたちなど取るに足らない矮小な生物だろう。そんな彼らに“力”を認めさせたのだ。
ほんの少し、溜飲を下げられた気分になった。
いくらか戦意も抑えられたツバサは、冷静さを取り戻して申し出る。
「忠告……に来てくれたのなら、話し合えないのか?」
侵略戦争を止めることはできないか?
淡い期待を込めてお伺いを立ててみるのだが……。
触手の髭を左右に揺らして祭司長は首を振る。
『それとこれとは話が別だ――申したであろう。この地は我らのもの。我らが自由にして咎められる謂われはない。貴様らが抗うならば処するまでだ』
「……ケッ、そうかよ」
つい悪ガキ時代を思い出して悪態で返してしまった。
予想通り一蹴されて終わった。
しかし、まるで真なる世界の所有権があるような言い方だ。
クトゥルフも人間が生まれる遙か以前から地球に移住しており、先住権を主張してきた話を聞いたが、似て非なるものを感じる。
(※クトゥルフの他にも多くの外なる神、旧支配者、独立種族らが人類誕生より昔に地球へと来訪しており、我が物顔で支配していた。特に二大勢力として台頭したのがクトゥルフ一族と、海百合に似た古代種族“古のもの”である)
駄目で元々、ツバサは食い下がってみる。
「アンタたちが生まれたのはこの次元ではないはずだ」
別の世界、あるいは星辰の彼方、幾多の次元を越えた果てのはずだ。
クトゥルフも出自を辿れば太陽系出身ではなく、第二十三星雲ヴールとかいうどこにあるかもわからない星系で誕生し、ゾスと呼ばれる緑に染まる二重星を支配した後、眷族とともに新天地と選んだ地球へ移住してきたとされる。
「故郷に帰るとか……そういう発想はないのか?」
回れ右して古巣へ戻れ、と言葉を選んで暗に勧めてみた。
愚問だな、とばかりに祭司長は鼻で笑う。
『より良き地があれば移り住む――至極当然であろう』
「……ぐうの音も出ない正論だな」
人類も同じだ。住みやすく資源に恵まれた優良地を求めて、飽きることなく戦争をしてきた歴史がある。彼らの所業をとやかく言える筋合いはない。
いつだって“力”ある者が弱き者を捻じ伏せてきたのだから。
「だからって『はいそうですか』と自分たちの領土を明け渡せるかよ」
『ならば足掻くことだ――私たちの為すべきことに変わりはない』
今後も侵略戦争を仕掛けてくるつもり満々である。
淡い期待は泡沫らしく弾けて消えた。
交渉の余地なし、とツバサは見切りをつけて嘆息する。
「侵略戦争を止めるつもりは毛頭ないと……じゃあ、本当に忠告しに来ただけなのか? あの御方に手を出すな……とか言っていたな」
『そうだ――あの御方に手を出すな』
大事なことだから二回いいました、みたいに祭司長は同じ文言を唱えた
同時に再度フラッシュバックがツバサの脳内を襲う。
――まだ見ぬ南方大陸。
一年前から何かしらの事件が発生したことにより、三つの陸地に分裂してしまったようだが、そのひとつが蕃神によって占拠されてしまったらしい。
その地はもはや異界へと変貌を遂げていた。
大地を覆い尽くすのは、奇妙な鳴き声を上げる異形の樹木。
所々に多重の牙が並んだ口を開いて、長く伸びた触手を打ち振るわせて、断末魔の絶叫を上げる羊のような声で喧しい咆哮を上げている。
おぞましい木々が群れる密林の奥――屹立するは魔性の世界樹。
その木肌は異形の樹木たちと酷似する。
3つに分かれた大地のひとつ、その地盤にまで根を届かせる巨木。
四方八方に張り巡らせた根は三分割された海岸まで届いており、大陸が割れてできた海峡を越えて、残りの二つの陸地にまで根を通わす勢いである。
その梢は確実に成層圏にまで達している。
空を覆うほど生い茂った枝葉はさながら天蓋の如しだ。
漆黒に染まる世界樹は、筋肉のような表皮を定期的に脈動させていた。
大地の奥底を流れる龍脈から大量の“気”を汲み上げ、それを太い幹に通う道管で吸い上げると、黒紫の葉を茂らせたり、怪しげな実を結ぶために使う。
(※道管=主に木々が水や養分を通わすための器官のこと)
その実から芽生えるのが――あの異形の樹木だ。
黒い世界樹はこの世界に根を下ろし、着実に棲息圏を拡大させていた。
これらの映像が音声付きでリアルに脳内再生される。
ただし、一画面ではない。
動画を人間の視界ではカバーしきれない数のマルチモニターに多窓で展開された挙げ句、10倍速ぐらいの速さで脳裏に焼き付けられるのだ。
人間の脳細胞なら焼き付く前に灰となりかねない。
『何度でも言おう――あの御方に手を出すな』
祭司長は諄いほど念を押した。
やはり、あの黒い世界樹があの御方とやらのようだ。
黒い世界樹を守るべく立ち尽くす、黒塗りの巨神の姿も垣間見えた。
対するは――無数の白い巨神。
白い巨神たちは亡霊の如く、どこからともなく姿を現すと黒い世界樹を押し倒すべく群がるのだが、黒い巨神の爆ぜる鉄拳が打ち砕いていく。
黒の巨神は孤軍奮闘、白の巨神の群れに立ち向かう。
白の巨神は徒党を為すも、黒の巨神に阻まれて黒い世界樹に手が届かない。
黒と白の趨勢は一進一退を繰り返していた。
蕃神と思しき黒い世界樹を巡る攻防。
南方大陸でもまた、世界の命運を懸けた戦いが繰り広げられているのだ。
祭司長はそこに「手出し無用」と忠告してきた。
裏を返せば「南方大陸の諍いへ介入されたくない」とも受け取れるが、祭司長が「あの御方」と敬意を払う点が気になった。
挑発するつもりはないが、揶揄するような言い回しを使う。
「あの御方か……随分と敬っているのだな」
旧支配者の大立者であるクトゥルフ。
それが祭司長の正体ではと疑っているツバサにしてみれば、クトゥルフが畏敬の念を払う蕃神とは如何なる存在かと懸念を抱いてしまう。
確かにクトゥルフは最上位の存在ではない。
クトゥルフ神話体系と名付けられているため、クトゥルフこそが旧支配者や蕃神において最強格と思われがちだが、実際には彼をも超越する恐るべき神性が何体も確認されているはずだ。
外なる神々――そう呼ばれていたと記憶する。
『当然だ。あの方々と私とでは格が違う』
しかも複数形かよ!? とツバサは内心舌を巻いた。
こちらの疑念を先読みしたのか、またも膨大な情報を流し込んでくる。
『私はあの方々の類縁だが――相見えること叶わぬ』
朧気ながらも窺い知ることはできない、と祭司長は断言した。
祭司長でも謁見を許されない御方たち。
超巨大蕃神でも叶わない上位者ともいうべき存在がいるのか!?
この事実に戦慄したツバサは冷や汗を噴き出した。
その情報量は先触れのような些細なものでも、脳の神経回路を焼き付くまでショートさせ、記憶野を土砂崩れのように押し潰すほど莫大だった。
視界を奪われたように見知らぬ光景が網膜を過っていく。
祭司長の背後――電車の車窓。
何処とも知れぬ明るくもなければ暗くもない風景を写していた窓に、この世でもあの世でもない、別次元の彼方に巣食う何者かを映し出していた。
まるで上下左右関係なく流れるエンディングロール。
そこに顕現するのは、人知の及ばぬ宇宙の深遠に蹲るものたちだ。
『次元の中心にて微睡む盲目にして白痴の王よ――』
無限の膨張を続ける宇宙の中心。
始まりの大爆発を起こしたグラウンド・ゼロ、その最奥に据えられた玉座で惰眠を貪る無限大に等しき極大エネルギーの渦動。ありとあらゆる蕃神の頂点に君臨するというのに、意味のない冒涜の言葉を延々と羅列するのみ。
ただし、妄言を発する度に星々を砕くほどの核爆発を巻き起こす。
その全貌は見えずとも、原始的な混沌の核だと感じる。
原初にして窮極――始原にして絶大。
ありあまるエネルギーの収縮と分裂を無意味に繰り返す主の無聊を慰めるため、名もなき蕃神たちはいつ果てることのない演奏を続けていた。
この世ならざる楽団が奏でるフルートの音色が聞こえてくる。
もはや蕃神なんて神格で括るのも烏滸がましい。
彼は次元そのもの、宇宙を創り出した万物の創造主と呼ぶべきものだ。
『時間と空間の何処にも御座す門にして鍵たる守護者よ――』
過去、現在、未来――三つ合わせて三世。
この三世に起きた情報の一切を記録するものであり、記録した情報そのものでもあるのだが、別次元の狭間に幽閉されているため行動は封じられている。時間であり空間であり情報である存在。次元の彼方にて機会を待っているという。
他でもない、いつの日かこの世に侵出する機会をだ。
もしも人間が彼に遭遇したならば、いくつもの大きな虹色の球体が一塊となって不規則に動き続けるような姿に見えることだろう。
ただし、相見えた時点で正気と別れを告げる覚悟をせねばなるまい。
全にして一であり、一にして全たるもの。
多重次元のすべてに同一存在が跨がる永劫の個。
彼もまた時空間という現象その物であり、神格の枠に収まりきらない。
『強壮なる使者にして主をも嘲笑う這い寄る混沌よ――』
千の貌を持つもその本性は無貌たるもの。
前述したものたちが宇宙の深淵や次元の狭間へ封じられているのに対して、彼のみは幽閉を拒むように時空間を闊歩し、何処にでも現れて何処にもいない神出鬼没を繰り返す。其処彼処で天邪鬼な騒動を巻き起こしては愉悦に耽る。
変幻自在にして正体不明、そもそも本当の姿があるのかも定かではない。
その容姿を捉えることは実に難解だ。
知恵ある者を誑かし、唆し、煽り、自滅へと誘う。
そうすることで世の潮流を掻き乱すことを至上の命題とする。
極悪なトリックスターだが、それゆえ他の神格より話が通じてしまう。
人心と世相を理解できる人間に近しい精神を持ち合わせなければ、意図的に争乱を巻き起こすことなどできないからだ。
……なんと皮肉なことだろうか。
『千の仔を孕む母なる森の黒山羊よ――』
彼女は生命の権化、あらゆる精を受けて際限なく孕んでは産み落とす。
交合と生殖を絶え間なく繰り返す様は時として淫蕩と蔑まれるも、それこそが命ある者の本質であり、多産の意味するところは世界に豊穣をもたらすこと。文字通り、「産めよ増やせよ」と地で行く大地母神の最上格。
神々の乳母となったツバサでも道を譲る絶対的母性。
多くの神性と関わりを持ち、更に多くの神性を生み出した母なるもの。
祭司長さえも彼女の因子を受け継ぐと示唆されていた。
豊穣の女神を辿れば、必ずや彼女へ行き着くとされる大いなる原始太母。
祭司長が“あの御方”と畏敬の念を抱く謎の蕃神。
その威容は爛れながらも泡立つ雲海のように形定まらぬ巨体であり、何本もののたうつ触手を打ち振るわせ、ドス黒い粘液を滴らせる巨大な口で奇妙な鳴き声を上げて、黒い蹄を持つ何本もの足で大地を踏み締めていた。
異形の黒山羊に見えなくもない。
黒い世界樹と――千の仔を孕む母なる森の黒山羊が重なる。
相変わらず注ぎ込まれっぱなしの情報は、祭司長があの御方と呼ばれる者へ不敬を買うことを恐れており、それが森の黒山羊なる蕃神を指していた。
ツバサは蹙めた眉で眼を眇める。
「南方大陸に居座っているのは……その黒山羊の女王なのか?」
『仔細を知る必要はない――関わらなければ良い』
手を出すな、と祭司長は壊れたスピーカーのように繰り返す。
いいかげん情報の洪水にもうんざりしてきた。
脳細胞が白紙のページだとしたら、そこを黒一色で染めるほどの文章量を書き込もうとするようなものだ。蕃神についての知識は喉から手が出るほど欲しいけど、情報のほとんどが益体もない雑多なもので締められていた。
これは――示威行為にも似た脅しである。
祭司長をも凌駕する外なる神々の脅威を知らしめ、ツバサの心を折りに来ているのだ。実際、彼らへ寒気を伴う畏怖の念を感じてしまう。
莫大な情報も、外なる神々に反逆した者の末路に絞られていた。
精神攻撃は基本――というやつである。
しかし、これで挫折するくらいなら苦労はしない。むしろ戦り甲斐を覚えるようにツバサは師匠のインチキ仙人に育てられてしまった。
超高難易度の死にゲーへ喜び勇んで挑戦する心持ちに似ている。
こんな時ばかりは師匠に礼を述べたくなった。
重要な情報をくれないなら用はない。ツバサは精神防御系の技能により祭司長からの情報に制限を掛け、必要最低限までシャットアウトした。
『貴様らがあの御方に拝謁するなど――不敬よ』
それでも神経を逆撫でするオーボエじみた声は鳴り止まない。
「だったら……テメエらでちゃんと面倒見ときやがれ!」
ツバサは噛みつくような笑みで怒鳴った。
こうなると江戸っ子のべらんめぇい口調が火を噴いてしまう。
「戦争仕掛けてくるにしろてんでバラバラで一枚岩じゃねえと思ったら……テメエらより上の大王様クラスの連中はノータッチでフリーダムかよ! 上下関係があったとしても上役の動向くらい抑えとけってんだ!」
さもなきゃマネジメントしとけ! と無体な注文も付けてやった。
蕃神にもヒエラルキーがあるのは間違いない。
祭司長を始めとする“王”と称される大型個体は、眷族と呼ばれる兵隊級の魔物を率いているが、彼ら眷族は決して“王”には逆らえない。
同様に“王”と呼ばれる個体を生み出した上位者がいるようだった。
沸騰する宇宙の中央に御座す盲目にして白痴の王――。
三世に渡って存在する門にして鍵たる守護者――。
強壮なる使者にして万物を愚弄する這い寄る混沌――。
数多の神性を産み落とした千の仔を孕む森の黒山羊――。
この神と呼ぶのも恐れ多い四柱の存在が、目下のところ最上級の蕃神と見ていいはずだ。果たして、今のツバサたちで太刀打ちできるかも怪しい。
その点では祭司長も同じなのだろう。
彼はあの御方へ『相見えることすら許されない』と明言した。
――それほど別格の存在なのだ。
黒山羊の女王を含む四柱は、祭司長すら面会が許されていなかった。
蕃神と呼ぶのも憚られる超常的な神々というわけである。
クトゥルフ神話体系に出典を求めるならば、外なる神々と呼称するべきなのかも知れないが、ここら辺は後ほど博覧強記娘や軍師気取りに相談しよう。
『彼の方々の行動原理は私の智慧すら及ばない』
――御するなど恐れ多い。
案の定、祭司長ですら匙を投げるような返事をしてきた。
「……せめて報連相くらいしといてくんねぇかな?」
無理を承知で注文はつけておいた。
それから勧告するように申し渡してくる。
『この地は我らのもの――その一端を如何様に使おうとも、あの御方の御心のままに為されば良い――私たちはただ見守れば良いのだ』
あの御方に手を出すな、と祭司長は飽きることなく言葉を重ねた。
『あの御方はただ仔らを愛するのみ――貴様と同じくな』
ほんの僅かだが祭司長の眼が細くなる。
彼らに性別の有無があるのか怪しいところだが、ツバサが男から女神に転身して難儀していることを見透かしたように茶化してきたのだ。
本日二度目のカチンと来る物言いである。
「誰が大地母神だこら!」
まさか蕃神相手に決め台詞を吠える日が来るとは思わなかった。
『太母の怒りに触れれば――この世界も消し飛ぼう』
ツバサの怒号を馬耳東風で聞き流した祭司長は念には念を入れて、南方大陸にいるあの御方へはアンタッチャブルだと伝えてくる。
この一言は紛れもなく脅迫だった。
黒山羊の女王にされるがまま真なる世界を蹂躙させる。
それが最も平和的解決だと説き伏せられている気もするし、抵抗するだけ無駄だから諦めろと諭されているようにも聞こえた。どちらに転ぼうとも同じこと、蕃神による侵略である事実は変わりない。
祭司長にすればあの御方は雲の上の殿上人。
ツバサたち塵芥に等しい現住生物が粗相をする前に釘を刺す。
その程度のつもりで介入してきたのだろう。
取るに足らない下等生物と見下していたはずだが、還らずの都の一件で手傷を負わされたことにより、こちらへ一目置いてくれたらしい。
万が一にも――あの御方の不興を買うことがあってはならない。
そうした懸念を祭司長は抱いたのだ。
わざわざ忠告に現れたこの事態こそが、雄弁にその事実を物語っていた。
つまり、真なる世界の“力”は蕃神に通じる。
祭司長へ傷を負わせたように、黒山羊の女王にも一矢報える可能性がある。この事実に気付いた瞬間、ツバサの闘争心は一気に燃え滾った。
「……上等じゃねえかこの野郎」
やや俯いたツバサは鬼気迫る双眸で祭司長を睨め上げる。激怒に血走る瞳には激しい螺旋が描かれていた。
牙にしか見えない犬歯を際立たせた笑顔。
今すぐにでも祭司長に喉笛に噛みつく野獣のようだった。
「偉大なる太母を怒らせたら怖いだぁ? それがわかってんなら……オカン系女神のこの俺に! 煽るような文句ぶつけてくんじゃねえよ触手タコ入道!」
『タコ――入道?』
タコや入道の意味がわからないのか、祭司長は目を丸くしていた。
ガン! と車両が丸ごと傾ぐように揺れる。
膝をほどいたツバサが思いっきり足踏みした反動だった。
「侵略戦争なら疾っくの昔に始まってんだ……」
足跡にへこんだ床から蒸気を上げて、ツバサは重い巨尻を浮かせるとゆっくり立ち上がる。全身からは怒気が稲妻となって発散されている。
電撃をまとう長い髪は、黒から怒りの赤へと染まりつつあった。
殺戮の女神――セクメト。
物理攻撃に先鋭化させたツバサの戦闘形態だが、怒髪天を衝くような怒りに駆られると自然に変身してしまう。今がまさにそれだった。
この変身形態は気性も荒くなるのが難点だ。
荒げた語気を過熱させたツバサは、怒りに駆られて捲し立てていく。
「戦争に貴賤があるかよ。一兵卒だろうが王様だろうが、最前線に出てきたんなら互いに命を賭して戦うまでだ。手控える理由にはならない……」
神をも超える事象であろうとも――何の負い目があるだろうか。
「恐れ敬えとでもいうのか? お門違いだろ!」
雷光のみならず、真紅の炎がツバサの赤い髪から吹き荒れる。
触れたものを焼き尽くす“滅日の紅炎”。
殺戮の女神にのみ使える、不死身をも焼き滅ぼす滅殺の炎だ。
「こちとら真なる世界で生き抜くのに必死なんだ! ただ生きたいんだよ! 生きるのに理由はいらない……他人様の顔色窺う必要もない!」
それを闘気のようにまとったツバサはズン……と重々しく一歩を踏み出すと、そこから紅炎がすべてを舐め尽くすように広がっていく。
車両は瞬く間に火の海に沈んだ。
業炎に彩られたツバサは高らかな声で宣戦布告する。
「真なる世界は俺たちの世界だ! 攻め入るってんなら覚悟しやがれ!」
戦られたら戦り返す――相手の性根を挫くまで。
その過程で息の根が止まろうとも知ったことではない。先に喧嘩を吹っ掛けてきたのは蕃神の方だ。手加減無用で全力の拳を振り抜いてやる。
叩く時は徹底的に叩け、とインチキ仙人こと師匠にも仕込まれていた。
「俺からも繰り言をいわせてもらおうか……祭司長殿」
ズン……と更に一歩、祭司長へ踏み出す。
見慣れた通学電車の車内は既に火の海に落ちているが、祭司長の巨体には一向に燃え移らない。格が違うのか、それとも夢に紛れ込んだ異物だからか?
祭司長は何も言わず、怪訝そうにこちらの言葉を待っている。
ツバサは無礼な態度でかれの右手を指差した。
ミロに六本指を断ち切られ、ツバサに手首ごと消し去られた右手をだ。
「――今度は手だけじゃ済まねえぞ」
総身を抉って削いで磨り潰してやる、と脅しつけた。
変幻自在で壊れることのない原形質の肉体だろうと再生不可能な状況に追い詰めてやる。それを成せる高等技能を編み出してやる。
旧支配者であろうとお構いなし、ツバサは恫喝していく。
「郷里へ帰った方がマシだ、って後悔させてやるから覚悟しておけ」
祭司長は――爆笑した。
喧嘩上等なツバサの啖呵を聞き終えた途端、本当に空間が爆ぜるほどの大爆笑を巻き起こしたのだ。巨体を波打たせて地鳴りのように空間を揺らし、燃え盛る炎も吹き消すほどの風圧を発していった。
凄まじいノイズも走り、祭司長の姿が目まぐるしく入れ替わる。
クトゥルフが全身を揺すって笑い転げているかのようだ。
この笑い声はもはや人語として捉えられないどころか、音声としても認識することもできない。ただただ破壊的な振動が撒き散らされるばかり。
敢えて例えるなら――感情の化学反応。
怒りと喜びで混沌とした激情が、破滅的な振動波となって解き放たれたのだ。
『――面白い』
破壊力抜群の大爆笑、その波が引くと人語らしきものが拾えた。
座っていても天井にハゲ頭が届くほどの大男が立ち上がろうとすると、それに合わせるかのように車両内の風景がバラバラと解体されていく。
電車のパーツが解けながら消えていく。
電車の外に広がるのは、幾多の星雲が蜷局を巻いた宇宙だった。
天体観測には縁のないツバサだが、見る人が見ればあれはデネブアルタイルベガなんて星の名前を読み上げられるかも知れない。
星よりも星雲の方が目立つので、探せばどこかに銀河系もあるのだろう。
『私やあの方々に畏怖しても尚――心砕くことなく抗うか』
宇宙空間を支配するかの如く祭司長はそこにいた。
所詮、ここは夢の中の虚像空間。
何が起きても不思議ではないが、自分の明晰夢のはずなのに忍び込んできた祭司長の良いようにされているのは、なんとも虫の好かない話だった。
祭司長の背後、宇宙の彼方から何かがやってくる。
それは盲目にして白痴の王であり、門にして鍵の守護者であり、強壮なる使者にして這い寄る混沌であり、千の仔を孕む森の黒山羊であり……他にもお目に掛かったことのない有象無象の異なる神々が姿を顕そうとしていた。
宇宙空間を埋め尽くす勢いでだ。
絶望としか思えない、宇宙的恐怖が大挙して押し寄せてくる。
呑み込まれたら負けだと直感する。
殺戮の女神となったツバサは負けじと滅日の紅炎を結界のように張り巡らせると、轟雷を蜘蛛の巣状に広げることで対抗した。
蕃神の総戦力、その幻影を見せつけた祭司長が凄んでくる。
『誰しもが私たちを恐れ敬い怯え平伏し縋り請い求め拒み――やがて狂うた。それを受け入れぬであれば逃げ惑うのみだというのに――』
戦を挑まれたのは――久方振りのことだ。
『貴様らは“古のもの”ほど健闘するか――奴等の足下にも及ばぬか』
面白い――やってみせよ。
もはや正体を隠そうともせず、祭司長は人間の皮を脱ぎ捨てる。
大いなる旧支配者クトゥルフとしての姿を取り戻すと、かつて真なる世界を掴み取ろうとした巨大な掌でツバサを鷲掴みにせんとしてきた。
『太母たるあの御方の怒りに触れて――この世界が続くのならばな』
~~~~~~~~~~~~
「……サさん! ツバサさん起きて! お母さぁーんッ!」
必死なミロの声が耳朶を打ち、ツバサは現実へと引き戻された。
寝起きで重い瞼に上下を遮られた視界だが、目の前には最愛の長女の顔が間近に迫っていた。泣きそうな顔で懸命に両手を振っている。
パァン! パァン! パァン! と小気味いい破裂音が響く。
抜かりなく視線を配れば全界特急の客車内。
エルドラントの墓参りから帰る途中――まだ列車の中にいた。
ボックス型の座席で眠り込んでいたらしい。
学生時代の思い出、通学の脚にした電車の中ではない。当然、蕃神の悪臭を漂わせる大男など影も形も見当たらなかった。
戦争の疲れが尾を引いているのか、ツバサも微睡に落ちていたようだ。
眠りの中でおぞましい悪夢に巡り会った。
あれは夢幻の出来事か――それとも現実にあったなのか?
クトゥルフはその強大な精神波で、海底都市ルルイエに仮死状態で封印されていようとも、夢を通じて人間の意識を侵食してくるという。祭司長をクトゥルフだと思い込むのが過ぎて、あんな夢を見てしまったのかも知れない。
だとしても、生々しい実感が拭いきれなかった。
嗅覚や味覚にまだ、あの汚濁した悪臭がこびりついた不快感が残る。
鼻や喉の粘膜にべったり張り付いてるようだ。
「ツバサさんウェイクアーップ! ハリアップ起きてーッ!」
祭司長の情報量満載の爆音みたいな声と入れ替わり、愛娘ミロの泣き叫ぶような大声が鼓膜を震わせる。あれと比べたら全然マシで可愛いものだ。
艶やかな金髪をシニョンに結った可憐な姫騎士。
「なんでアタシよりお寝坊さんなのよー! いいかげん起きてーッ!?」
その姫騎士が絶叫じみた悲鳴を上げていた。
ブルーを基調とした戦闘用ドレスやロングカーディガンをはためかせて、ミロは一生懸命に両手を振り回してツバサを起こそうとしているのだ。
眠気を振り払ってツバサは口を開く。
「ミロ、どうした一体、そんなに慌て……て?」
そして、アホの子がどうやって自分を目覚めさせたのかを知る。
パァン! パァン! と鳴り響く破裂音。
それはミロの平手打ちがツバサの超爆乳を右へ左へと平手打ちでビンタしている音だった。布越しでよくもここまで良い音を響かせるものだ。
右へ左へダプンダプンとダイナミックに弾むビッグボイン。
刺激を受けた乳房はパンパンに張っている。
こころなしか先端が湿り、濡れた母乳パッドの感触に震えた。
マゾでもあるまいに叩かれて感じてしまったとでもいうのか? 平手打ちみたいな衝撃でも乳腺が活性化して、ハトホルミルクを漏らしたというのか?
燃え上がるような羞恥心にツバサは頬を真っ赤に染める。
「そこは普通に頬に平手打ちで起こせこのアホ!」
「ひでぶっ! アタシがビンタされんの!?」
眠気が吹っ飛んだツバサは、ツッコミを入れながらミロの頬をオカンのビンタで張り倒した。愛の鞭だから痛くないようでちょっと痛いくらいだ。
叩かれた拍子に向かいの座席へとへたり込むミロ。
手形の付いた頬を抑えると、ある有名声優の声真似で訴えてくる。
「殴ったね……オヤジにもぶたれたことないのに!」
「おまえは殴られる前にオヤジを再起不能にした猛者だろうが!」
「おっぱいビンタありがとうございますッ!」
ふざけたミロに対して、ツバサも超爆乳に遠心力を付けてミロの顔を張り倒すという荒業でお返ししてやる。彼女にはご褒美でしかない。
尚、オヤジのついでに兄二人も半殺しにした最強の末っ子だ。巻き添えになった人間は数知れず、ほとんど病院送りにしたほどである。
(※第303話~第304話参照)
「まったく……いきなりなんだ騒々しい。うたた寝していたのに」
寝起きに暴れた拍子で乱れた前髪をツバサは掻き上げる
寝た子を起こすな! みたいなノリで文句をぶつけたのは、祭司長が関与してきた疑いのある悪夢について知られたくない演技だった。
子供たちにいらぬ心配をさせたくない、オカンなりの心配りだ。
右の頬に張り手の手形、左の頬に超爆乳の跡。
左右のホッペを張り飛ばされたミロは、晴れる前に両手で頬肉をモニモニと揉みほぐすと、心配そうな表情でお母さんに縋ってくる。
「だってツバサさん、スッゴい魘されてたから……」
「…………ッッッ!」
やはり悪夢に悩まされていたのは間違いないようだ。
悪夢の原因がツバサの無意識にあるのか、それともクトゥルフよろしく祭司長の仕業なのか、この点に確証が得られないのがもどかしい。
苦笑したツバサは軽い目眩のする頭を押さえた。
「ちょっと夢見が悪かっただけだ……しかし、そんなに魘されていたか?」
軽いため息で誤魔化したツバサは聞き返してみる。
ミロは深刻な顔で頷いた。
「うん、それはもう……お漏らしするくらいに」
「え? んっ……はぁっ!? お、お漏らしって……えええッ!?」
予想外な単語にツバサは狼狽してしまった。
お漏らしなんて七歳児の幼女になったジャジャでもしないぞ。
だが男性の頃と性器の形や尿道の長さが変わったためか、いざ催したりすると昔と比べて我慢しにくかったり、思い掛けない拍子に“ちょぴ漏れ”という現象を味わうこともあったが、盛大に漏らしたことはなかった。
反射的に伸ばした手を股間に添えるが、濡れた感触はしない。
女性特有のすっきりした股間に寂しさを覚えるだけだ。
悲しいかな、すっかり慣れてしまったが……。
悪夢とはいえ夢の中だけでも以前のように男に戻れていたら、この何もないけどお腹の奥に女性的な器官が詰まった女神の肉体に困惑したかも知れない。
しかし、お漏らしなどしていなかった。
安堵と寂寥感から重い胸を撫で下ろすと、今度はそちらが気になった。
まさか――ハトホルミルクが漏れているのか?
技能“乳母神”によって日に数十リットルものハトホルミルクという、霊薬に等しい母乳を生産する。神々の乳母に相応しい能力ではあるのだが、まだ男の意識を残っているツバサには酷とも言える女神の生理現象だった。
常時ミルクを増産する乳房には相当量の母乳が溜まっている。
それが漏れることは度々あった。
仕方なくツバサは長男ダインに「口外無用!」と修羅の形相で相談。超吸水性ポリマーを素材とした特製母乳パッドを開発してもらう。
ダインの【要塞】で大量生産も発注していた。
これは高性能なので、ブラに仕込めば母乳を漏らさず回収してくれる。
そっと両手で超爆乳を支えるように手を添えてみるが、母乳パッドに濡れた感触こそあるものの、下着や上着を濡らすほどではなかった。
「……べ、別に何も漏らしてないぞ?」
少し焦っていたツバサは、恐る恐るミロに聞き返してみた。
「いいえ、盛大にやっちゃってくれました」
どこか煤けた感のあるミロは、ケホッと焦げた咳をしながら社内へ目を向けるように指差した。その惨状を目の当たりにしたツバサは見る見る青ざめる。
天井、床、座席――至るところに黒い円があった。
どれも焼け焦げた跡であり、円の中心から炸裂するように広がっていた。
これは稲妻の落ちた跡に違いない。
よくよく見れば、座席や廊下も火で炙られた跡があった。
まるでボヤ騒ぎでもあったかのような状態だ。
ミロの髪や頬が煤けている理由に気付いた瞬間、罪悪感がざわついた。追い打ちを掛けるようにミロは恨みがましい視線で訴えてくる。
「ツバサさんの低反発ごんぶとムチムチ膝枕でスヤスヤ眠ってたら、なんかバチバチするし熱くて眼を覚ましてみたらさ……ツバサさんもウトウトしてるのはいいんだけど、寝ぼけて轟雷をばらまくは滅日の紅炎を噴き上げるは……」
「それは本気でごめんなさい!」
反射的にツバサは両手を合わせて合掌スタイルで謝った。
どうも寝言の酷いバージョンだったらしい。
悪夢で祭司長とタイマンバトルを始めそうな勢いだったので、夢だからと轟雷や滅日の紅炎をバンバン出したのだ、現実にも影響を及ぼしていたようだ。
早い話、寝ぼけて暴発したわけである。
「ごめんね、ツバサさん……」
いつの間にか隣のボックス席に移っていたジョカ。
のそりと長身が立ち上がり、ツバサに負けず劣らずの爆乳を揺らす。
彼女もミロ同様に火災現場にいたかの如く煤けており、自慢の黒髪もところどころチリチリになっているが、半泣きで詫びを入れてきた。
「僕も寝ちゃってたから気付くのに遅くて……結界で防ごうとしたんだけど間に合わなかったから、電車がこんな風になっちゃって……」
「謝るなジョカ! おまえは悪くない!」
悪いのはお母さんだから! とツバサは自爆しつつ慰める。
迷惑を掛けた事実を知った途端、罪悪感は火が付いたように騒ぎ出した。
立ち上がったツバサは被害状況を確認する。
幸か不幸か、寝ぼけていたので全力ではなかったようだ。
ジョカが結界で封じてくれたのと、ミロも手伝ってくれたおかげだろう。車両に穴が開くほどの大きな被害は見受けられない。しかし、あちらこちらに見るも無惨な焦げ跡が生じているのは認めねばならなかった。
青ざめた顔のツバサは冷や汗を流して独りごちる。
「……これ、ラザフォードさんにもソージくんにも土下座案件だよな」
全界特急は客車まで含めラザフォードの一部だ。
それに焦げ跡を残したんだから謝罪するのは当たり前だろう。
そして、ソージは全界特急の製作担当。
修理や整備の担当でもあるから彼にも謝るしかない。
長男ダインに頼めば元通り以上に内装を刷新してくれるし、ソージもすぐに修繕できる腕前の工作者だ。あんまりうるさい性質ではない。
ラザフォードもツバサを上役と捉えている。
小言は言われるかも知れないが、叱られることはあるまい。
ただ、小市民なツバサが迷惑をかけた罪悪感で錯乱寸前なだけだ。弁償とか慰謝料とか詫び賃なんて単語が脳内を駆け巡る。
「ついでにおっぱいパフパフさせても罰は当たらないかもね」
アタシが許さないけどね! と話を振ったミロは理不尽なことを言う。
「でも……しょうがないと思うけどね。ふかこーりょくだよ」
「不可抗力な、ちゃんと漢字で読みなさい」
独りボケツッコミの直後とは思えない、神妙な顔でミロは言った。
ミロは運転手と車掌への謝罪文を推敲しているツバサの袖を摘まんで、クイクイと幼児みたいに引っ張る。ツバサの気を引いたのだ。
爆乳越しに愛娘を見下ろすと、ミロは気遣う瞳で見つめてくる。
「何かあったんでしょ……夢の中で?」
図星か、さすが固有技能“直感&直感”持ち。
数秒だが正確な未来視ができるも同然、子供たちからは「見聞色の覇気を鍛えすぎだー!」と有名漫画のネタで絶賛されていた。
ミロは不安そうに訊いてくる。
「ツバサさんが魘されてる時、嫌な気配とスゴい臭いがして……」
もしかして蕃神? とミロはそこまで勘を働かせた。
目配せで「そうだ」と伝え、詳細は聞くなと立てた人差し指を唇に当てる。あくまでも夢なので確証が持てないから大事にしたくなかった。
しかし、ミロが勘付いたことで信憑性が増した。
やはり祭司長が夢を回廊にして、ツバサに干渉してきたのだろうか?
それにしては納得できない点がひとつある。
真なる世界は諸事情により、世界を包む次元の壁がパワーアップしている。祭司長といえどおいそれと乗り越えられないはずだ。
毒電波を飛ばして精神干渉なんて、おいそれとできないはずなのだが……。
その時――車内に警報音が鳴り響いた。
火災報知器のお報せ、あるいは車内の異変に気付いた警告。
咄嗟にツバサは膝をついて謝り倒す。
「ごめんなさい! ホントすんません! ウチのメカ息子に直させます!」
修理費慰謝料こっち持ちで! と悲鳴みたいな声を上げたツバサは、空へ拝むように両手を合わせて煙が出る勢いで擦り合わせた。
てっきりボヤ騒ぎでお叱りを受けたのかと勘違いしてしまった。
だが、実際には違うようだ。
余所のお家で大失態をしでかしたお母さんよろしく慌てふためいていても、武道家として極めたツバサの危機管理能力は働いている。
神族の超感覚を研ぎ澄ませたセンサーがある異物を検知した。
同時に車内放送が伝えてくる。
『レーダーに感あり! 外来者……蕃神の存在を確認!』
『数は三! サイズは……どれも100m超! “王”クラスです!』
ラザフォードとソージの声がそれぞれ報告してきた。
「ん? こっちに近付いてたりしないの?」
報告内容に含まれる違和感に気付いたミロが首を傾げた。
ツバサの生体センサーでも前方数十㎞にそれらしき敵意を感じるのだが、こちらへ近付こうとせず、むしろ遠巻きに距離を測っているのだ。
こちらの声を拾った運転手と車掌も不思議そうである。
『はい、付かず離れずといった感じです』
『今のところ接触していませんが、だからといって無視もできず……』
どうしたものか、と二人も考えあぐねていた。
襲いかかってきたならば迎え撃つまでだが、監視するみたいに付近をウロウロされるだけでは対応に困るだろう。不審者でも通報したくなるのに、それが世界を滅ぼしかねない蕃神なら最大限警戒しなければならない。
あるいは――殺られる前に殺る。
目の上のたんこぶならば肉ごと削ぎ落としてやればいい。
そういう短絡思考で動き出す男が一人いた。
「……あれ、セイメイ?」
身長2m10㎝のジョカはこの騒ぎで立っていたので、覗かずともツバサたちの席の後ろで寝ていた旦那の様子が窺えたらしい。
彼女が声を掛けた時、既にセイメイは車両から飛び出していた。
線路なき荒野を爆走する巨大列車。
その窓を開け放ったセイメイは、吹き荒ぶ風を物ともせずに宙へ躍り出ると地面に降り立ち、飛行系技能を使わず走り始める。
全界特急を追い抜く激走でだ。
着物から長羽織まで黒一色でまとめた黒衣の剣豪。
そんな男が列車より速く走るものだから、まるで黒い旋風のようだった。
土煙を巻き上げて先を行くセイメイは、蕃神の気配に気付いていた。
用心棒として不安要素を始末に向かったのだ。普段だらけている分、仕事が回ってくると即座に動く有能さを見せてくれた。
セイメイ単独でも大丈夫だと思うが、ツバサも同行することにする。
相手は蕃神――慎重を期しても足らないくらいだ。
「ミロとジョカはここで待機!」
乗員や列車の護衛を頼む、とツバサは娘たちに言い付けた。
セイメイに続くべく窓を全開にして飛び出す。
「ツバサさん! おっぱいとお尻が窓へつっかえないように気をつけてね!」
「そこまでデッカくないわ! 心配するポイント外れすぎ!」
蕃神と一戦交えること心配しろ!
そう怒鳴り返したツバサは窓枠へ爆乳や巨尻が引っ掛かりかけたものの、素知らぬ顔のまま力尽くで飛び出した。
こちらは飛行系技能で空を飛び、亜音速で突き進む。
急接近する二人の神族に蕃神たちも反応せざるを得ないだろう。
――ツバサとセイメイの行く手。
全界特急ラザフォードの進路を挟むような形で現れたのは、どこかで見た記憶のある蕃神だった。多分、二回くらい遭遇していたはずだ。
地の奥底から染みるように汚泥が湧いてくる。
不定形の粘液にしか見えないそれは、次第に量を増していく。
十分な量が積み上がると、原形質の煮凝りとなってまずは身体の芯となる胴体を形成していき、やがて手足や頭に付属物といった造形を凝らした。
頭足類を思わせる頭――豪勢な髭のように生える触手。
背にはドラゴンのような、それでいて左右非対称で汚らわしいデザインの翼を背負い、手足を備えた五体も怪物のように大きい。全身は毒々しい緑色の原形質を固めたものだが、同色の粘液をいつまでも垂れ流していた。
鉤爪と水掻きを備えた六本指、頭部にも三対六個の眼を光らせている。
超巨大蕃神――祭司長。
彼の姿を模した小型の蕃神のようだ。
眷族という呼び方より落とし子の方がしっくり来る。
以前は傷を受けた祭司長からこぼれ落ちた体液が、溶融した肉体を持つ100m級の異形の巨人となったが、この二体は祭司長に瓜二つである。
その姿はクトゥルフにしか見えない。
まるで今まで隠していた正体を明かしたかのようなだった。
詮索する時間も惜しい。脅威であるからには速効で排除するまでだ。
先行しているセイメイは向かって左の蕃神を標的とし、左手で腰の鞘を掴むと、刀の柄に右手を添えて走りながら抜刀の構えを取る。
セイメイの急接近を警戒して蕃神は吠えた。
「――――――――――――――――――――――――――!」
神族の聴覚領域でも聞き取れない超音波。
精神を狂気で酩酊させる波動を牽制とし、セイメイの気を萎えさせてから長く太い腕を伸ばし、鉤爪のある六本指で引き裂くつもりだったらしい。
「――喝ッッッ!」
セイメイの迸らせた気合いに吹き飛ばされるまでは。
弱い神族や魔族ならば、狂気の波動のみで倒せたかも知れない。
だが、天下無双の剣神となったセイメイの発する裂帛の気合いは、無機物さえも狂わせかねない波動を「うぜえ!」とはね除けた。
さしもの蕃神でも面食らう事態は訪れるらしい。
明らかに驚愕しており、背を仰け反らせるように後退っていた。
その隙を見逃すセイメイではない。
豪刀・来業伝をすっぱ抜き、下段から上段へ突き上げるような居合抜きを繰り出せば、その切っ先は宙空に滑らかな銀の軌跡を引く。
弧を描いた軌跡が消えた瞬間――蕃神は正中線から両断されていた。
両断された肉体はすぐに無害な塵へと分解する。
セイメイの過大能力――【遍く万物を斬り絶つ一太刀】。
その一太刀で切り裂かれたものは何物であろうとも、“気”の粒子となって滅ぼされてしまう。回復不可能の傷を負わせる恐ろしい能力である。
かすり傷でもアウト、そこから蝕むように塵と化すのだ。
いかな別次元の怪物だろうと助かる術はない。
もう一体の蕃神は同僚の最後を目にするなり、踵を返すと形振り構わずに逃げ出そうとした。接近せずに遠巻きにしていたことから、目的はツバサたちを襲うことではなく、斥候じみた真似をしていたのかも知れない。
ただし、その判断はもう遅い。
ツバサは上空に暗雲を沸き立たせ、ありったけの轟雷を降り注がせる。
稲光で織られた世界樹と錯覚するほどにだ。
原形質の肉体に不死性があろうと、一片残らず焼き尽くす。それほどの轟雷を秒間何万回と叩き落として、蕃神の肉体を消し炭に変えてやった。
太陽創成魔法や次元操作魔法を使うまでもない。
素のツバサも成長しており、轟雷のみで蕃神を葬り去ることができた。
「まだだな……もう一匹いやがる」
セイメイは面倒臭そうに舌打ちし、豪刀を鞘へ収めずにいた。
ラザフォードやソージの報告でも「数は三」と言われていたし、ツバサやセイメイの生体センサーに引っ掛かった気配も三つである。
三体目の蕃神は――もう逃げていた。
二体の蕃神はツバサたちを迎撃するも敢えなく撃沈したが、三体目は立ち向かうなんて決断をせず、最初から逃走準備を整えていたらしい。
揚力どころか浮力も怪しい背中の翼。
それを羽ばたかせて地平線の彼方へ飛んでいく。
追いかけていたら間に合わない。離れた距離と速さが難点だった。
「しゃあねぇ、飛び道具を使うか」
セイメイは抜いたままの豪刀を肩へ担ぐように構えた。
久世一心流――切風。
常軌を逸した膂力で刀を振り抜くことで真空を発生させると、その真空を飛ぶ刃に変えて放つという離れ業だ。
フィクションの巷で見掛ける「飛ぶ斬撃」である。
これをセイメイの一族は現実世界にいた頃から平然と使っていた。
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神族化したセイメイならば小惑星をも穿つ竜巻となる。
後始末は任せるか、とツバサは後方腕組みで見守ることにした。
「デカすぎの乳を腕で支えてるようにしか見えねぇけどな」
「いいからさっさとやれ」
後ろへ振り向きもせずツバサの姿勢を見抜いたセイメイの呟きを、ツバサは無下にすると急かした。逃げ腰であっても蕃神、見逃したくはない。
セイメイが飛ぶ斬撃を放つ直前――。
ツバサたちの後方から砲撃と見紛うほどの銃撃が発射された。
流星の如き弾丸は過たず蕃神の土手っ腹を撃ち抜き、付与された追加効果により原形質の肉体を燃焼させた後、大爆発で粉微塵に吹き飛ばしてしまった。
少し目を大きくしたツバサとセイメイは背後へ振り返る。
こちらへ走ってくる全界特急ラザフォード。
先頭車両の上で向かい風にも負けず敢然と立ち向かうには、白銀のコートを翻して大型拳銃から硝煙を棚引かせる拳銃師の姿だった。
銃神――ジェイク・ルーグ・ルー。
第三車両の医療室で眠る黄金の起源龍の転生と思しき少女。
彼女につきっきりで看病していると思いきや、蕃神の迫る気配に気付いて飛び出してきたらしい。こういう時、遠距離攻撃持ちは頼もしい。
「なんでぃ、嫁についてやってりゃいいのによ」
セイメイは小さく鼻で笑ってから豪刀を鞘へ収めた。
「嫁の身を案じるからこそ動いたんだろ」
セイメイの減らず口もやっかみを交えながらジェイクを案ずるものだったが、彼の心中も察してやれとツバサは窘めた。
やはり――四神同盟のレベルが上がっている。
あの蕃神たちは祭司長の眷族だが、かつて苦戦を強いられた蕃神の“王”に匹敵する能力を持っている。それをツバサたちは数分足らずで駆逐できた。
増上慢に囚われたくはないが、ツバサたちは着実に“力”を育てていた。
感じられた手応えにツバサは細やかな満足感を得る。
「さて、戻……らなくてもいいか」
直に全界特急がツバサたちの元までやってくる。
走って戻らずとも待つことにして、しばし二人は荒野に佇んだ。
「しっかし……またぞろ次元を破られたんかねぇ」
暇潰しのつもりか、セイメイは今の一件を話題にしてきた。
「あのドロドロっぽい巨人、いつぞや還らずの都でツバサちゃんたちが追い払った超巨大蕃神とやらの落とし子だろ? あいつらが徒党を組んでるってことは、どこかで次元が破られて、裂け目になったそこから潜り込み……」
「いや、次元の裂け目はできないはずだ」
勘繰るセイメイの言い分を、ツバサは穏やかに否定した。
「次元や空間が破られる心配はない……当面の間、と時間制限アリだがな」
――破壊神撃破による第一の褒賞。
それは傷付いた真なる世界やそこにいる人々の復元と回復。
これにより真なる世界は度重なる戦争で疲弊した分以上に活気を取り戻し、次元や空間の強度がこれまでよりも強靱になっていた。
簡単に言えば、世界の防御力が大幅アップしたようなものだ。
「蕃神どもでも気安く破れないはずだぞ」
「そして、空間の防御力強化はしばらく持続すると……ご褒美様々だな。あれ? じゃあ、あいつらはどうやって真なる世界に入ってきたんだ?」
「いたんだよ――ずっと前から」
厳然たる事実をツバサは一言で明かした。
「話に出た還らずの都の騒動の時、祭司長からこぼれ落ちた落とし子の何匹かが、こういう時のために身を潜めていたのか……あるいは更に昔、鎧親父のキョウコウが目撃した時から偵察役として潜伏していたのか……」
無論、祭司長に限った話ではない。
多くの蕃神がその眷族をこちらの世界へ忍び込ませているはずだ。
「それこそ俺たちが異世界転移するより前……地球に文明が興る前、人類が誕生する前、下手をすれば生物が誕生するよりずっと前からな」
「遡るとそこまで辿るのか……途方もねぇ話だな」
ゴクリ、と固唾を飲む音がした。
怖いもの知らずのセイメイにしては珍しいと目を遣れば、神酒の瓢箪をグビグビ煽ってるだけだった。墓参りは終えたので禁酒をやめたらしい。
悩ましげな吐息を付いてツバサは補足する。
「宇宙誕生よりも前から活動していたような連中だぞ?」
何が起きても不思議ではない、と用心を促した。
「奴らの手は深く長い……そして、ひっそり忍び寄ってきているんだ」
いや、這い寄ると言い換えるべきかも知れない。
そして――祭司長を模した落とし子たち。
間違いない。奴らは斥候であり中継器も兼ねていた。
あの悪夢は落とし子を中継器にして飛ばしてきた祭司長の思念が、ツバサの意識に干渉してきた影響によるものだと断定する。
奴らの一体を滅ぼす最中、微かに祭司長の人語を拾えた。
『楽しみだ――やってみせよ』
語彙力がないのか繰り返しが好きなのか、聞いた文言だった。
こちらの足掻きへ高みの見物を決め込む愉悦を感じられた。人間にもこの手の悪趣味な奴はいるが、祭司長のそれはスケールも度し難い。
歴史的スパンで関与するつもりのようだ。
人間の身ならば恐怖に戦いて逃げ惑うか、宇宙的恐怖に遭遇した我が身の不運を嘆いて、長いものに巻かれるまま発狂するしかなかったろう。
SAN値直葬――死あるのみだ。
だが、神族や魔族となった今なら少なからず抵抗はできる。
場合によっては勝算を見出すことも可能だ。
しかし、それはあくまでも蕃神の一部に過ぎない。
偉大なるクトゥルフを幻視させる超巨大蕃神こと祭司長には、相打ちに持ち込めるかさえも怪しい。歴然とした力の差を見せつけられた過去がある。
ミロと2人掛かりで追い払うのがやっとだった。
その祭司長をして「お目通りも許されない」とされる超常的存在。
神という個に縛ることさえ恐れ多い上位者たち。事象や現象、あるいはひとつの空間に匹敵する強大さを誇る神の枠を外れたものたち。
仮に――外なる神々と名付けておこう。
ツバサたちの力は、そんな宇宙の根源的恐怖に届くのだろうか?
祭司長の見せた悪夢は真実だとすれば、今のままでは太刀打ちできない。為す術なく一方的に真なる世界ごと泡のように消されてしまうに違いない。
最上位の蕃神たちに敵う術などあるのか? と不安を掻き立てられる。
「ツバサちゃん……笑ってんのか?」
傍らに立つセイメイが訝しげな顔で覗き込んできた。
「……そう見えるか?」
気の利いた返事はできなかった。
正直な話、自分がどんな表情をしているのかわからない。
祭司長の悪夢が毒素のように思考回路を駆け巡り、怖じ気づいたり発憤したり、藻掻いたり足掻いたりと、喜怒哀楽を過剰反応させていた。
この笑みは恐怖に耐えきれず漏らした笑みか?
それとも窮極の敵に巡り会えた蛮勇の闘志から湧く笑みか?
今のツバサには答えを出すことができなかった。
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