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第19章 神魔未踏のメガラニカ
第463話:かみさまのつくりかた(変則的)
しおりを挟む「――ちゅーわけで兄ちゃん、この子を育ててくれへんか?」
「何が“ちゅーわけで”だおい!?」
ツバサの怒号みたいなツッコミがリビングに轟いた。
ハトホル太母国・拠点――我が家。
源層礁の庭園の使節団であるサイヴ&ショウイとの会談は昼のこと。同盟加入への確約や協力体制について、恙なく話をまとめることができた。
使節団の皆さんも宿泊施設で休んでいる頃だろう。
ツバサたちも一家の団欒である夕餉を済ませ、リビングで寛いでいた。
ほとんどの面子が揃い、食後の一時をだらけていた。
姿が見えないのはドンカイとジャジャくらい。
この二人は南方大陸の調査に四日掛かりで出向いて、ヘトヘトに疲れていた。彼らは食事もそこそこに、回復効果の高い源泉掛け流しの温泉に浸かって身体を癒すと、一足先に就寝してしまった。
みんなリビングで好き勝手にのんびりしている。
そこへ食事後にそそくさと離れの庵に戻ったはずのノラシンハが舞い戻ってくると、「サプライズや!」とチャナを連れて戻ってきたのだ。
聖賢師――ノラシンハ・マハーバリ。
三世を見渡す眼を持つ高僧でありながら、若き日は拳聖の二つ名を轟かせた武闘派の神族だという。後者は蛙の王様からのリークで発覚した。
そして、破壊神ロンドを育てた義父である。
これはつい先日、ロンドとの決戦時に判明した事実だ。
世界廃滅に動き出したバカ息子を止めるため、育ての親としてケジメを付けるため、ツバサたちに協力しつつ接近してきたと本人も白状した。
ツバサたちの力を借りれば――バカ息子に近付く機会を得られる。
ある意味、四神同盟を利用しようとしたのだ。
確かにいくつかの真実は伏せられていたが、ツバサたちに力を貸してくれたのは共にこの世界を守りたいという誠意より発したもの。
結果オーライなので、四神同盟は大目に見ることにした。
そもそもロンドに近付こうとした理由も、手塩に掛けたバカ息子が世間にとんでもない迷惑をかけていたので、育ての親として責任を取るために自らの手を始末をつけたいという、自責の念に駆られた義侠心によるもの。
発言はおちゃらけているが、真っ当すぎる精神性の持ち主なのだ。
バカでもアホでも極悪親父で破壊神でも――愛した我が子。
そんな息子の敗北と臨終を見届けたことで、一万年の鍛錬を積んできた聖賢師も悲しみに暮れていたが、表面上は平気な振りをしていた。
しかし、今日はほんの少し気持ちを建て直したように見えていた。
「……なんて安心してたら思ったらこれだよ!」
いきなりなんだ藪から棒に!? とツバサは怒鳴りつけた。
ノラシンハはきょとんとした顔で頭上にチャナを掲げながら、「何をそんなにいきりたっとんのや?」と訊きたそうに首を傾げていた。
「せやから、俺の孫を育ててくれへんか? と頼んでるだけやがな」
「孫って……それチャナじゃないか」
ツバサは改めて、ノラシンハと彼が抱き上げたチャナを交互に見つめた。
出涸らしみたいに痩せ細った老骨である。
名前や出自からしてインド系なのか、やや褐色の肌が目立つ。
聖賢師なんて肩書きを名乗るだけはあり、一貫して遊行僧のような格好をした爺さんである。トレードマークはギョロ目、鷲鼻、タスキみたいな髭。
節くれ立った両手が幼気な赤子を持ち上げていた。
人造人間――チャナ。
破壊神ロンドと彼が率いる私兵、世界廃滅集団バッドデッドエンズ。
彼らは本気で真なる世界の滅亡を企んでいた。
それは別次元からの侵略者・蕃神に恐れを成して、真なる世界の亜空間“異相”に落ち延びた亡命国家すらも例外ではなかった。
空間操作に長けた神族の手引きで、亡命国家を壊滅させていたのだ。
放っておけないし見過ごすこともできない。
ツバサたちは即座に対応したのだが、ある難題にぶち当たった。
異相という亜空間はおいそれと手出しできないのだ。
真なる世界に付随する亜空間なのだが、ひとつやふたつではない。百や千でも収まらず、万に億をも軽く越え、兆や京は優に及ばず……。
数え切れないほどの空間が連なっているのだ。
これらをまとめて“異相”と呼ぶ。
無数の空間は真なる世界へ薄いオブラートのように何重にもなって重なり、一説にはどこまで無限大に亜空間が続いているらしい。
そんな広大無辺な亜空間を渡り歩くバッドデッドエンズ。
彼らの幹部には空間とその境界線を操ることに長けた、アリガミ・スサノオと名乗る幹部がいた。彼の存在が異相への侵攻を容易にしたらしい。四神同盟にはいない人材なので羨ましい限りだ。
(※ミロやミサキの過大能力は強すぎて、空間をぶち抜いたりこじ開けたりはお安い御用だが、オブラートみたいに薄い亜空間の操作には慣れていない)
前述した通り、異相は一筋縄ではいかない空間。
追いかけるどころか探すのさえ至難の業である。
探知系の過大能力を持つ仲間は四神同盟にもいるが、朝から晩まで異相の調査へ駆り出すわけにはいかない。彼らの気力体力が保たないし、もしもバッドデッドエンズの別働隊が暗躍していたら見落とす原因になってしまう。
そこで――探知系の専門家を用意する計画を立てた。
複数の神族の能力をコピーし、特別製の人造人間へ機能として組み込む。
この人造人間に異相の探知を任せるわけだ。
まずベースとなる素体を錬金術師でもあるメイド長クロコが製作。
意外かも知れないが、彼女の神能は錬金術がメイン。
ハトホル太母国内で奉仕に従事するメイド人形も、彼女の過大能力である“舞台裏”に控える武装メイド部隊も、錬金術師としての技能をフル活用して造り上げられた生命を宿した自動人形だった。
長男ダインの協力を得て、人工知能の賢さも上がっている。
クロコなら人造人間の素体を手掛けるのもお手の物だ。
製作に際してクロコはリクエストを伺い、「俺に孫がいたらって設定で造ってんか」というノラシンハの意見を真に受け、三歳未満の幼女人間を造った。
……この時点で方向性がズレた気がする。
そして、この幼女型な人造人間に機能を組み込んでいく。
聖賢師ノラシンハ、万里眼イヨ、情報官アキ。
彼らの持つ探知系能力を次女フミカの過大能力で模倣し、長男ダインが製造したサポート機器で補強し、レーダー的な索敵系能力も底上げする。
これら機能を人造人間に搭載、完成したのがチャナだ。
ちなみに名前の由来はノラシンハの縁戚の娘さんらしい。
ご存命なのか故人なのか、そこまではノラシンハも語らなかった。
余計なことにクロコが年相応の人工知能まで与えたため、ツバサを見るといつも「まま、ぱいぱい」とおっぱいを欲しがってくる。
赤ん坊にせがまれると嫌とは言えない神々の乳母の性。
会う度に母性本能を刺激されるので、ツバサの男心はチャナが苦手だった。それでも内なる神々の乳母とオカン系男子の本能は、手の掛かる子供の世話を焼きたいと騒ぎ出すので、ついつい抱き上げては可愛がってしまう。
クリーム色の長い髪にやや褐色の肌。
ノラシンハの孫という設定もあってか、幼いながらも目鼻立ちにインド系の人種が混在したような雰囲気を醸し出す容姿をしている。
だがしかし、顔立ちは誰にも似ていない。
人形のように整えられた感のあるあどけない美しさだ。たとえるなら天使のように純真無垢。善悪を知らない無邪気な顔でお澄まししていた。
赤ん坊らしいもっちりした肌、まだ未発達の柔らかいぷにぷにした手足。
幼児向けのロンパースというつなぎみたいな服を着ているのだが、その肩には誰が用意したのか「本日の主役」なんてタスキを掛けていた。
両脇からノラシンハの手で持ち上げられ、高々と掲げられている。
よくできたぬいぐるみのようだ。
「――よ」
そのチャナが片手を上げて挨拶をした。
ちゃんと発音できれば「よう!」とオッサンみたいに掛け声になったのかも知れないが、舌足らずな幼女なので何をしても絵になるくらい愛らしい。
相変わらず馴れ馴れしい幼女だと呆れつつも、ツバサは反射的に手を伸ばすとノラシンハから譲り渡されるように抱き上げていた。
会談も終わったので、夕飯前から普段着で過ごしていたツバサ。
薄手のタートルネックにタイトなスキーニージーンズを履いているのだが、この格好でチャナを抱いていると傍からはヤンママにしか見えない。
「――誰がヤンママだッ!?」
「「「「「「「「「誰も言ってません!!」」」」」」」」」
ツバサの決め台詞に子供たちは声を揃えて合唱で返してきた。
定番のボケツッコミはさておき――。
ツバサに抱きついたチャナは、遠慮なくぺちぺち乳房を叩いた。
赤ちゃんの特権と主張しているのか、おっぱいを飲ませろと催促するのだ。
「まま、ぱいぱい、ぱいぱい」
「はいはい、後であげるから……本当に乳離れできない子だなおまえは」
超爆乳へ乗せるように抱き直す途中で気付かされる。
明らかに“気”の流れが違う。これは作られたものは持ち得ないものだ。
「あれ? ちょっと待てこの子……なんで神族になってるんだ!?」
人造人間じゃないぞ!? とツバサは素で驚かされた。
この声にリビングにいた者たちも「えええっ!?」と色めき立ち、一斉にこちらへ注目する。どの眼も分析を走らせてチャックも欠かさない。
誰の目から見ても間違いない。チャナは神族になっていた。
LV的には30程度、神族の幼児として妥当だろう。
また片腕を上げるチャナ。今度は「よ」という挨拶ではなく、小さな拳を握り締めてガッツポーズみたいな真似をしていた。どこからともなく壮大な音楽が流れてきて、勝ち誇る彼女を讃えているかのようだった。
「可能性の獣……」
傍らにいたミロがボソリと呟いたが聞き流しておく。
「っていうかイヒコ、聞き覚えのあるBGM流すのやめなさい」
「タイミング的にバッチリかと思ったんです」
ツバサにツッコミを入れられて、音楽家のイヒコは照れ照れと笑いながらも自動演奏の技能を切った。変なところで空気を読む子だ。
小芝居を挟んだところで、ツバサは詳細を知るだろう老翁へ振り返る。
「おい、ノラシンハの爺さん。これは一体どういうことだ?」
「実はなぁ、斯く斯く然々……」
ノラシンハはチャナが神化した経緯を語る。
破壊神を打ち倒した第一の褒賞。世界を修復する莫大な“気”のあまりを授かる代わりに、息子から迷惑かけた義父への手紙を託された伝令役。
息子を亡くした父親を慰撫するための孫。
気を利かせたのか? 単なる悪戯心か? はたまた大きなお節介なのか?
ロンドの真意はわからないが、確かなことはひとつ。
「……この子も極悪親父の置き土産ってことだよな?」
「だから言ったじゃん、グランって殺戮系美少女だけじゃないよってさ」
ミロは自分の勘が当たったことに自慢げだった。
こちらも会談が終わったので普段着に戻り、相変わらずのチューブトップみたいなブラにホットパンツという薄着だ。そんな格好で大きなソファに寝そべり、ダラダラと転げ回っている。
ミロは左右の人差し指を立てて四方八方を指差した。
「極悪親父の置き土産、まだあっちこっちにあると思うよ」
「良い意味でも悪い意味でも……ってことか?」
この場合、グランはどう考えても悪い意味に該当するし、チャナは良い意味での置き土産と捉えて問題ないだろう。
まだまだ未熟ながら探知系に特化した神族の幼子。
正しく成長すれば、情報戦の一翼を担う人材になるかも知れない。
「ちゅーわけで兄ちゃん、この子を育ててくれへんか?」
「だから何が“ちゅーわけで”だおい!?」
再度ツバサのツッコミがリビングを破裂させんばかりに轟いた。
既に10人の子供を育てているオカン系女神になったツバサとしては、もう10人増えようが許容範囲だし、一部の子供はほぼ成人しているも同然なので、世話が掛かるどころかこちらが助けられているほどだ。
誰とは言わないが長男と次女がそうだ。
特に長男――彼の工作者としての腕にどれだけ助けられたかわからない。異世界転移で最初に彼らに出会えたのは、ツバサにとって最大の幸運である。
ただし、アホの子やおバカな子は生涯手を焼かされそうだが……。
子育ての手が足りなければ、メイド長やメイド人形の手を借りればいい。
なんなら次女や三女も手伝ってくれる。
そんなわけで――チャナを育てるくらいどうってことはない。
しかし、前置きもなく「ちゅーわけでお願い」とキラーパスみたいに子供を投げ渡されたことに、内なる神々の乳母が苛立ちを覚えている。
あと、雀の涙みたいな男心もこれ以上の母親役を拒んでいた。
だからちょっと難色を示してみる。
「育てろって簡単に言うが……ノラシンハだって育ての親だろ? ロンドだけじゃない、何人もの子供や弟子を育ててきた実績があるじゃないか」
そこら辺の諸事情も蛙の王様から確認が取れていた。
暗に「アンタが育てろ」と皮肉を言ったのだが、ノラシンハは両の掌を返すと肩をすくめてお手上げのポーズでアピールする。
「“教育”ならお安い御用やけど、“養育”は手伝うくらいしかできへんわ」
これまで育てた子供たちの養育も、その時その時の奥さんに頭を下げて頼んできたという。この爺さん、立場の割に腰が低いので容易に想像が付く。
言い訳にも聞こえるが一理ありそうだ。
子供としても母親役がいるといないとでは安心感が違うのだろう。
「だけどなぁ、うう~ん……」
「まま、ぱいぱい、ぱいぱい、ちょーだい」
更にノラシンハを追求するべき済し崩しにチャナの養育を受けるべきかを悩んでいると、当のチャナが母乳を飲ませろとしつこくせがんできた。
ぺちぺち、と赤ん坊の手で叩かれても痛くはない。
しかし柔軟性と弾力性に富む超爆乳が弾むので落ち着かなかった。
「ああもう、好きなだけ吸ってなさい」
「はぷっ……んく、んく、んく」
ツバサはおっぱいと騒ぐチャナの口を超爆乳で塞いだ。
服越しでも構わないとばかりに、乳首を探り当ててチャナは吸い付く。タートルネックの上着こそ薄手ながら、その下に付けたフルカップのブラジャーは縫製がしっかりしており、鎧のような堅牢さを誇っている。
おまけに厚手の母乳パッドを仕込んであるためガードもバッチリだ。
やや疼くものの、伊達に一年以上も女神をやっていない。
おしゃぶりの代用に吸われても動揺せずに我慢することができた。
涎まみれになっても気にすることなく、ツバサはチャナをあやすと胸に抱く幼女が紛れもなく神族の子供になっていることを再確認する。
そこではたと悩ましい事実に気付いた。
「……こういう場合、血縁上は誰の子供になるんだ?」
前述の通り、チャナは探知系能力者として製造された人造人間だ。
その製作過程にはクロコ、フミカ、ダイン、ノラシンハ、イヨ、アキ、と複数の神族が関わっている。全員がチャナの親と言えるかも知れない。
最終的には破壊神ロンドから授かった“気”により神化した。
彼もチャナの親と数えられてしまいそうだ。
「そもそも、こんな変則的な生まれ方をする神族っているもんなのか?」
「珍しいことやないで」
ノラシンハはアドバイスみたいなノリで説明する。
「ひょんなことから生まれた神族や魔族は仰山おるきに。場合によっちゃチャナみたいに、複数の神族が力を結集させて目当ての神族を創ることもあるで」
「漫画やアニメならあるかもだけど神話でそんな話……」
「あるッスよ。別段珍しくないッス」
ノラシンハを擁護するように声を上げたのはフミカだった。
長男ダインの隣、椅子付きの長いテーブルに腰掛けるフミカがこちらへと振り向いた。同じテーブルには次男ヴァトと六女イヒコも座っている。
ヴァトとイヒコはプラモデル作りに挑戦していた。
所謂“ガ○プラ”と呼ばれている代物だ。
アキ経由で現実世界から設計図を拾ってきて、ダインの【工場】で製造した本格的なものである。一部では“密造ガン○ラ”とも囁かれていた。
それでも――男の子たちに人気を博していた。
カズトラやヨイチにランマルの少年組、日之出工務店にも愛好家が多い。
ツバサも暇潰しに何個か挑戦したことがある。
シャイニングとかゴッドとか……格闘系主体の機体をいくつか完成させた。
ヴァトやイヒコもその一員に加わろうとしていた。
というか、ダインがせっせと布教しているらしい。ヴァトも男の子なのでロボは嫌いじゃないし、イヒコは何でも楽しむタイプなので付き合っている。
テーブルの上には二人分のカッティングマット。
ニッパー、デザインナイフ、ピンセット、ヤスリ、スミイレペン。万が一に備えてパーツをこじ開ける道具や、破損を修復する瞬間接着剤……。
必要な道具は一通りテーブルに並んでいた。
「そうじゃ。まずはパーツから離れたところを一回ニッパーで切る。その後、こんゲート跡と呼ばれちゅう部分を丁寧に切り、ヤスリで仕上げるんじゃ」
「なるほど……こんな感じですか?」
「へー、二度手間だけど跡が残りにくいからキレイになるんだ」
ダインの指導を受けて、プラモデルを作り進めるヴァトとイヒコ。
フミカはそんな兄弟三人を見守っていた。
「……でも、いきなり小学生にMG作らせるのは難易度高すぎないッスか?」
「MGが作れりゃRGもHGもサクサク作れる! 習うより慣れろぜよ」
ダインのスパルタ教育に指摘を入れたフミカだが、嬉々として一蹴されてしまったので微笑みながら嘆息すると、こちらの話題に切り替えてきた。
「風変わりな誕生をした神様なら枚挙に暇がないッスよ」
そういってフミカは自身の知識を蓄えた【魔導書】を取り出した。
パラパラと捲りながらいくつかの事例を語り出す。
「例えば――宗像三女神や天孫の五皇子」
これは日本神話に由来する。
神祖である伊邪那岐と伊弉冉の間に生まれた、最も尊い三貴子。
長女の天照大御神は天界である高天原を統治し、次男たる月読尊は夜の世界を任され、末弟の素戔嗚尊は大海原を統べるように伊邪那岐から命じられた。
ここでフミカはワンポイント入れてくる。
「この三貴子も古事記では黄泉の国から帰った伊邪那岐が、目と鼻を洗った拍子に生まれたと言い伝えられているので、やはり尋常ではない誕生の仕方をしてるッスね。ただ、日本書紀だと普通に母である伊弉冉から産まれてるッス」
「確か古事記と日本書紀だと色々違うんだよな」
ツバサもうろ覚えだが、物知りな友人から蘊蓄で聞いた覚えがある。
「あれ? どっちも日本神話の本でしょ?」
なんで違うの? とミロが子供らしい疑問を投げ掛けてきた。
「ざっくり言えば役割が違うんスよ」
古事記は――国民へ啓蒙するために編集されたお話。
つまり「このような神話を経て朝廷は誕生したのだ!」と日本人に知らしめるもので、天皇や朝廷の日本における権威付けが重視されていた。
謂わば、国内向けの歴史教本である。
日本書紀は――朝廷の正統性を諸外国へ主張する資料。
即ち「我が国にはこれほどの歴史があります!」と当時交流のあった大陸の国々へアピールし、一人前の国家として認めさせるための歴史書。
謂わば、国外向けの外交資料である。
このため日本書紀は漢文主体で記されており、神話の出来事に関しても通説のみならず「こんな話やこんな説も伝えられています」と諸説も付け足す。
大陸各国の史記に倣った編集をされているのだ。
「なので、古事記の方は物語性が重視されたのか突拍子もない展開も多々ありますけど、日本書紀の方は割と事実のみを伝えようとする傾向があるので、物語的なインパクトはやや控え目になってることが多いッスね」
その神話でも重要神物、三貴子に三界を治める役目が割り振られた。
しかし、素戔嗚尊はこの役目を放棄した。
『俺はこんな世界にいたくない! 伊弉冉の元へ行きたいんです!』
『ならば勝手にしなさい、このワガママ息子!』
などと伊邪那岐と口論した素戔嗚尊は、母のいる黄泉の国へ向かう。
『あ、その前に天照大御神へ一言断っておこう』
閃いた素戔嗚尊はルンルン気分で姉の元へ向かったのだが、これが高天原に激甚災害となるほどの嵐を引き起こしてしまった。
力だけなら最強――素戔嗚尊は動くだけで天地を鳴動させる。
『素戔嗚尊が高天原を奪うために攻めてきた!?』
こう勘違いした天照大御神は、全身フル武装で素戔嗚尊を迎え撃つ。
本当に彼女自身が完全武装して最前線に立ったのだ。
このため意外かも知れないが、天照大御神には戦神の側面もある。
『姉上タンマ! 当方に侵略の意志なんてありません!』
『そんな荒々しくやってきた狼藉者を信じられるか! この愚弟!』
ならば誓約という占いで確かめようということになる。
まず天照大御神が素戔嗚尊の剣を手に取り、それを噛み砕いて吹き出すと、三人の美しい女神が誕生した。
これが世にいう航海守護の女神――宗像三女神である。
一方、素戔嗚尊が天照大御神の玉を受け取り、同じように噛み砕いて吹き出すと、五人の麗しい男神が生まれた。こちらが天孫の五皇子である。
彼らの長男、天忍穂尊は後に天皇家の祖となる神だ。
彼らは剣や玉の破片から生まれた神々である。
(※二人が男女の営みをして産まれたのでは? と考える説もある。なので血縁上、三女神と五皇子の両親は天照大御神と素戔嗚尊となっている)
ちなみに誓約の結果だが、素戔嗚尊の剣から美しい女神が生まれたので、彼の心が潔白な証だということになり、素戔嗚尊の勝利となった。
ただし――これは古事記での話。
日本書紀の場合、素戔嗚尊が口から吐き出した五人が立派な男神だったので、やっぱり素戔嗚尊の勝ち。どちらでも素戔嗚尊が勝利宣言をしている。
言ったもん勝ち、みたいな印象はどうしても拭いきれない。
「……長男のツクヨミさん、影薄くね?」
「このお話を聞いて感想がそれッスか?」
ミロの的外れな意見に、フミカは眼鏡越しの瞳をまん丸にしていた。
「月読尊の影が薄いのはさておき、これは素戔嗚尊が調子に乗って天岩戸事件を起こす布石なので、どう足掻いても素戔嗚尊の勝利は揺るがないッス」
「なんにせよ、無機物の破片から生まれた神々か」
多少なりとも天照大御神や素戔嗚尊の“気”を浴びたとはいえ、所持品の欠片から何人もの神が生まれた現象というのは興味深い。
チャナの方がまだ説明の付く誕生の仕方をしていた。
「他には……インド神話のガネーシャも不思議な出自をしてるッスよ」
破壊神シヴァとその后パールヴァティー。
二人の間に生まれた長男、それが象の頭を持つ神ガネーシャだ。
(※説によっては軍神スカンダを長男とする場合もある)
ガネーシャ誕生には諸説あるが最も広く知られた話だと、彼はパールヴァティーの垢を捏ねて作られた人形になっている。
パールヴァティーが湯浴みをする際、その垢で拵えた人形に見張り番を頼んだのだが、そこへ折悪しくシヴァが帰ってくる。シヴァはパールヴァティーの顔を見ようとするのだが、命令を遵守するガネーシャに邪魔をされる。
怒ったシヴァはガネーシャの首を刎ね、遠くへ放り捨ててしまう。
後にパールヴァティーから事情を知ったシヴァは、ガネーシャを我が子と認めて捨てた首を探しに行くのだが、どうしても見つからない。
そこで代わりとして、象の首を持ち帰るとガネーシャの頭に据えた。
これが象頭神ガネーシャ誕生の由来である。
「あれ? 垢から生まれた垢太郎って昔話にありませんでしたっけ?」
話を聞いていたのか、マリナが訊いてきた。
マリナ、トモエ、プトラ、ジョカの四人はテレビゲームに興じていた。その近くではセイメイが横になって酒を舐め舐め観戦している。
「うん、ちゃんとあるッスよその昔話。マリナちゃんは物知りッスね」
こちらへ振り向くマリナをフミカは感心そうに褒めた。
えへへ……と照れるマリナを見つめたままフミカは補足説明をする。
「内容的には、子供のいない老夫婦が寂しさを紛らわせようと二人の垢を合わせて捏ねて人形を作ったら、それに命が宿ったってお話ッス」
垢から生まれた垢太郎は、成長すると百人力の勇士となる。
旅に出て何人もの豪傑を打ち負かしては家来にすると、通りがかった村でバケモノ退治を成し遂げ、そのご褒美に長者の娘と結ばれてめでたしめでたし……。
見事にハッピーエンドを迎える。
桃太郎の展開によく似た英雄譚のひとつだ。
しかし――知名度は芳しくない。
やはり「垢から生まれた」という不衛生なインパクトが宜しくないのか、桃太郎のようになかなか世間へ浸透することはなかった。
(※絵本のタイトルは“力太郎”の場合が多い。これは成長して100貫目の金棒を手に入れると名を改める設定から)
一方、研究者肌なフミカは“垢”であることに着目していた。
「人間からこぼれ落ちる髪、爪、垢……そういったものに霊的なものが宿るっていう信仰みたいなものがインドから中国を経由して、日本にも渡ってきたかも知れないッスね。ほら、髪や爪とか使う話ってよく聞くでしょ?」
曰く――丑の刻参りで使う呪いの藁人形には呪う人間の髪を入れる。
曰く――見習いたい人の爪を煎じて飲ませろという俗信。
垢という老廃物を人型にするのも、何らかの呪術様式なのかも知れない。それを神族や魔族が行えば、新たな生命のひとつやふたつ生まれるだろう。
博覧強記娘のトリビアな弁舌は止まらない。
新たな【魔導書】を何冊も繰り出して、口早に捲し立てていく。
「封神演義や西遊記での活躍で知られる哪吒太子も、太乙真人という仙人が来たるべき仙界戦争のために造られた戦闘特化型仙人なのは否めないッス。未完成な肉塊として生まれる寸前のところを人間体にされたり、その肉体が死んだら蓮の花の化身として転生させられたりしてるッスからね。上位神族の都合で生まれたり改造されてるようなもんッスよ。西遊記といえば、孫悟空も天地の精気を何万年も浴びたダイヤモンドの卵から生まれた石猿って設定ッスね。これまでの話は日本、中国、インドがメインッスけど。変わった誕生なら他国の神話も……」
「フミぃ、そろそろ落ち着けぃ」
熱弁が熱暴走しかけたところでダインのストップが入った。
サイボーグな旦那の機械化した腕で冷やされたためか、自分がオタク特有の早口になったのに気付くと、フミカはほんのり顔を赤面させていた。
「……コホン、失礼しましたッス」
咳払いで気を取り直して、最後の例を挙げてくる。
「チャナちゃんに一番よく似た誕生の仕方をしている神様だと、インド神話における戦いの女神、ドゥルガーが挙げられるッスね」
インド神話はデーヴァ族とアスラ族の対立構造で成り立つ。
どちらも神々の一族とされているのでデーヴァ神族やアスラ神族とも表記されるのだが、役割的にはデーヴァ族は善玉になりやすいのでデーヴァ族=神、アスラ族は悪役のことが多いためアスラ族=悪魔、とされる場合もある。
(※神話学的にはインド大陸へ流入したアーリア人がもたらした神々がデーヴァ神族として隆盛、土着神であるアスラ神族が貶められたとの説もある)
ただ、アスラ族にも善良な者がいればデーヴァ族にもろくでなしがいるので、一概に善悪で分けられない。そこは人間と同じだ。
このアスラ族の王にマヒシャという強大な力の持ち主がいた。
彼は軍勢を率いて天界に攻め上ると、並み居る神々を蹴散らして天界から追い落としてしまい、そのまま天界を牛耳ってしまった。
弱り果てたデーヴァ族は破壊神と世界維持神に助けを求める。
傍若無人なマヒシャの行いに怒り心頭したこの二神は、強烈な光を発した。
これに呼応するように名だたる神々も発光。これらの光をひとつに集めると、そこから荒々しい力を宿した戦の女神ドゥルガーが誕生する。
ドゥルガーは神々から武装をひとつずつ授かり、騎乗獣である虎に跨がると天界へ攻め込み、アスラの軍勢を瞬く間に殲滅。
巨大な水牛に化けたマヒシャも倒してしまう。
「天界奪還のために創られた戦闘神、といっても過言じゃないッスね」
フミカはドゥルガーについて総括した。
「目的のために意図して誕生させられた神か……」
結果こそ異なるものの、その過程はチャナと変わらない。
「ちなみに、女神ドゥルガーには親という概念はないッス。ただ、破壊神シヴァの妻としてその信仰に取り入れられたので、后パールヴァティーと同一視されているくらいッスね。神々の家系図には組み込まれてないッス」
「チャナも親を特定したりできないからな」
そこは人間としての常識が阻んでいる気がしないでもない。
神も魔も人も獣も――母がいて父がいる。
単性生殖などの例外こそあるものの、一人の子供には両親がいると考えてしまうのは地球での常識だからだ。神族や魔族も大概は同じであろう。
しかし、神族や魔族ならではなの例外もある。
生殖行為を用いず誕生した者もいれば、何人もの親から誕生した者もいる。
「……そういうこともあるわけか」
不承不承かも知れないが、ツバサは納得させられてしまった。
複数の神族の手を借りて生まれたチャナは誰の子? と犯人捜しみたいな真似をしてしまったが、神族や魔族なら有り得ないことではないらしい。
「そういうたら――“ヘラクライスト”ちゅうがおったな」
不意にダインの土佐弁が聞こえてきた。
厳密には転勤族の父親に日本各地を連れ回されたので、実家の土佐弁をベースにして、各地の方言が入り交じったダイン独自の訛り方らしい。
ヴァトやイヒコにガンプラ作りを教える長男。
彼にも多人数の神が誕生に関わった神に心当たりがあるらしい。
「それも何人もの神が創った神か?」
ツバサが顔を向けると、ダインも振り返って話し始める。
「神ちゅうか天使ぜよ。ほら、昔からあるじゃろ、ビッ○リマンって菓子」
その名が出た途端、ツバサとミロは同時に反応した。
「ビック○マンか……よく知ってるよ」
「アタシん家とツバサさん家、たくさんあったからね」
ツバサは懐かしむが、ミロは半眼で「ケッ!」と忌々しげに舌打ちする。
ビ○クリマンとはお菓子の食玩、オマケシールのことだ。
かつて『悪魔と天使の二大勢力が戦い続ける』という設定で人気を博した。何百枚ものキャラクターシールで世界観を構築し、新しい段が出る度にシールの内容が更新されるのでコレクション要素が強い。
ツバサとミロの父親は熱心なコレクターだった。
ビックリマンに限らずオマケシールと呼ばれるもの全般、そこから二次創作的に派生した自作シールまで手当たり次第に集めていた。
これらのシールは、マニアの間では高値で取引されている。
父親と不仲だった反抗期のミロは、コレクションを拝借してオタク向けの故買屋に売り飛ばすなんて嫌がらせをしたものだ。
このため、詳しくはないが知識はそれなりにあった。
「ヘラクライストもビ○クリマンだっけ? 名前に聞き覚えがある」
ツバサが記憶を掘り返す前にダインが解説してくれる。
「ワシもそう詳しくなかが、確か天使が強力な悪魔ん対抗すっために造ったちゅう聖なる巨大ロボットって設定だったはずぜよ」
なるほど、巨大ロボの一種としてダインのお眼鏡に適ったらしい。
天使のリーダーでも太刀打ちできない強大な悪魔のボス。
それを倒すために十二人の天使が集結し、各々の能力を与えることで造り出した聖なる巨大ロボット。彼は期待通り悪魔のボスを倒したという。
「ドゥルガーの話を聞いちょったら、なんとのう思い出いてな」
「物語の筋書きはそっくりッスね」
強大な敵を倒すため、仲間の力をひとつに集めて最強の神を創る。
いずれツバサたちも似たようなことをするのだろうか?
今回は比較的戦闘向けではないチャナという人造人間が、ひょんなことから神化してしまったに過ぎない。あくまでも偶発的な結果だ。
だがもしも――意図的に神を創ろうとしたら?
あの超巨大蕃神“祭司長”にも立ち向かえるほどの強大な神を……。
止めよう、ツバサは思考を停止するため頭を振った。
それこそ庭園代表のサイヴがツバサの性根を試すために唆した、「最強生物を創りましょう!」みたいな最悪の結末を招きかねない。
この手の計画は十中八九失敗する。
頓挫すればマシな方、大抵の行き着く先は大規模な生物災害だ。
「ヴぅアィオハザァぁァドゥ……ッ!」
「なんでそんなにあのナレーションが上手いんだよ」
とあるゲームシリーズでよく聞いたタイトルコールを真似するミロにツッコミを入れつつ、この考えはしばらく封印すると決めた。
取り組むにしても、事態と状況を綿密に照らし合わせてからだ。
「……ま、この子はそんな物騒なもんじゃないがな」
ツバサはチャナを「よしよし」とあやして誤魔化すことにした。
「ええがな、ええがな、細かいことはええがな」
相好を崩したノラシンハは、ツバサの胸に抱かれたチャナの頭を撫でる。
「こん子は俺の孫や……それでええがな」
孫を愛でる祖父の顔だが、その声色は隠せない憂いを帯びていた。その心中を察してしまうと、ツバサは何も言えなくなってしまう。
「……それが一番いいのかもな」
敢えて多くを語らず、曖昧な言葉で賛同するに留めた。
世界を滅ぼす極悪人だったとはいえ、息子であるロンドを失った悲しみを取り繕うのは難しいのだろう。それでも、ロンドが忘れ形見のように遺していったチャナがいれば、悲しみの穿った心の穴を埋め合わせられるのかも知れない。
誰かの逢瀬や別離に立ち会うのはやるせない。
それでも――多少なりとも心の傷が癒えるなら力添えはしよう。
「ちゅーわけで俺の孫の乳母よろしゅうな!」
「だから“ちゅーわけ”と簡略すんのやめろ! あと誰が乳母だ!」
シュタッ! と音が鳴るスピードで片手を上げたノラシンハは、チャナの養育をツバサへ丸投げするかのように言ったので怒鳴りつけた。
天丼みたいに繰り返されて腹も立ってきた。
えー? と心外そうなノラシンハは戯けた調子で言い返してくる。
「そないにしっかり乳吸わせとったら説得力ないやん」
「おしゃぶり代わりに吸わせてるだけだ! 別に授乳なんかじゃ……ッ!」
失礼します――と静かな声が響いた。
ツバサとノラシンハの口輪へ割って入ってきたのはクロコだ。
ハトホル太母国 メイド長 クロコ・バックマウンド。
かつては軍師レオナルドの部下“爆乳特戦隊”の一人に数えられた長身爆乳美女であり、何をやらせてもそつなく熟す万能メイドである。
スタイルのいい長身グラマラス銀髪美女。
ポニーテールとクラシカルなメイド服がトレードマーク。
あと、何が起きても動じない鉄面皮が特徴的だ。
家事から戦闘まで忙しなく立ち回ってくれるのだが、その脳内はエロスの花が満開に咲き誇るド変態。SでもMでもイケるので、隙あらばツバサを辱めでSの恍惚に浸り、拷問レベルのお仕置きを受けてMの悦びに酔う。
仕事では有能だが、エロスがすべてにマイナス補正を掛けている。
そう――仕事をやらせれば超が付くほど有能。
夕食後の片付けをした後、厨房を簡単に掃除してリビングの散らかりを整理整頓しつつ、各人の希望に合わせて食後のお茶やデザートを用意する。
これらを自発的に行った後、メイドらしく部屋の隅に控えていたのだ。
そんな彼女が音もなくツバサに近付いてきていた。
何事か? とツバサが尋ねる前にクロコはそっと耳打ちしてくる。
「まだ今ならば誤魔化せますが……如何なさいますか?」
「誤魔化すって何……ッッぉッぅッ!?」
思わず変な声が出てしまった。
問い掛けの意味がわからず聞き返そうとした矢先、クロコは意味深長に視線を下へと逸らしていく。釣られるように目線で追いかけて気付かされた。
ツバサの超爆乳で盛り上がったタートルネック。
大型の地球儀をふたつ詰め込んだような胸元、その突端が濡れそぼっていた。
左側の乳房はわかる。チャナが吸いついているからだ。
こちらは赤ん坊の涎と言い訳できるが、白い液体が滴りつつある。
右側の乳房はチャナが吸いついておらず、その小さな手でしがみついているだけなのだが、こちらの先端までじんわり濡れてきていた。
うっすらと生地にシミが浮かんでいる。
眼を凝らさなければわからないが、当人には確かな実感があった。
――ありえないほど母乳が漏れている!?
ブラジャーの内側にジクジクとした純白の湿り気を感じた。
ダインに誰にも内緒と約束させて【工場】で作らせた、異常なまでの吸水率を誇る特殊ポリマー性の母乳パッドを仕込み、縫製の頑丈さも然る事ながら万が一には漏れた母乳を逃さない保水性も秘めた特製ブラジャーを付けている。
万が一に備えての対策は万全にしていたはずだ。
なのに、ハトホルミルクがこれでもかとダダ漏れになっている。
原因と思しきは――チャナの吸い付きだ。
おしゃぶり代わりに吸わせていたつもりだったが、神々の乳母という肉体はこれを授乳と思い込み、母乳を大量増産してしまったらしい。
母乳パッドやブラジャーが役に立たないほどにだ。
授乳の刺激を受けていない側の乳房まで大洪水である。
「あらあら、これはいけませんねぇ……」
この機を逃さず、クロコは淫蕩な笑みでツバサへ忍び寄ってきた。
こういう時だけは鉄面皮をかなぐり捨てるのだ。
言霊の力を強めた囁き声で言葉攻めをするつもりに違いない。
「チャナ様をあやすつもりで、その経産婦に相応しいサイズに肥大化して色付いてきた乳首や、ぷっくりと膨らんで存在感を示すように広がってきた乳輪を、服越しとはいえ遊び半分で吸わせていたら、まさか女神の肉体が無意識に反応して、ツバサ様の母乳であらせられますところのハトホルミルクをドップドップと垂れ流すほど乳腺から湧き上がらせてしまうだなんて……母として子に乳を授ける喜びと同時に性的な快感を感じながらも表に出すことなく、内に秘めた母性本能で静かに打ち震えていたのではありませんか?」
身体は正直でございますねぇ……淫乱メイドは粘着質な声を漏らす。
甘い吐息を耳へ吹き込まれてゾクリとする。
本当に性感まで刺激され、ツバサの女性的に敏感な部分が疼かされた。
「ほぉら、早く処置をいたしませんと、タートルネックの頂点から搾らずに溢れた純白のミルクがポタポタと滴って……ッ!?」
ありがとうございますッ! とクロコは感謝で締め括る。
最後まで言わせるわけもなく、赤面したツバサは必ず殺すと書いて必殺の裏拳をお見舞いすることで強制的に黙らせてやった。
顔面が「*」になっても動じないのは、メイドの鏡と褒めるべきか?
コイツも技能“コメディリリーフ”を習得しているので、滅多なことでは死にはすまい。これも身内ゆえのなれ合いだ。
……クロコの場合、このお仕置きを待ち望んでいるから困る。
しかし、駄メイドのセクハラにも耐性がついてきた。本格的に翻弄される前に対応できる速度も上がってきた。
ふとチャナはツバサの乳房から口を離す。
涎と母乳に塗れた口元をへの字にして、円らな瞳を大人びたかのように据わらせると左手でツバサの胸元を掴み、右手は小さな握り拳にして突き上げる。
やりました! と言わんばかりの達成感。
満足げな空気をチャナが醸し出すと、また荘厳な音楽が流れてくる。
「か、可能性の獣……ッ!」
懲りずにミロが同じ台詞を拍手で繰り返した。
「だーかーらー……イヒコ! その聞いたことあるBGMやめなさい!」
そっちも天丼禁止! とツバサはキツく言い付けた。
プラモデルを作っているかと思いきや、イヒコはまた過大能力の一部である奏者のいない楽団を召喚して、演出めいた演奏をしていたのだ。
ニッパー片手に眼鏡っ娘は頭をポリポリ掻いている。
「いやー、元ネタ知らないんですけど動画で似たシーン見たから……」
「イヒコ、あの小猿が出てくる動画好きだよね」
ヴァトは呆れ気味にフォローめいたことを言っていた。
こちらはダインの指導の賜物か、もうプラモデルの胴体や両腕を完成させていた。今日中に仕上げそうなペースで製作進行していた。
「っていうかあの曲好きなの、覚醒BGMっていうか処刑BGMみたいな?」
ふーん、とヴァトは興味半々で相槌を打つ。
ヴァトが製作中のプラモデルの専用BGMだったはずだが……。
子供たちのやり取りを横目に、ツバサはチャナを抱いたまま濡れそぼった乳房の先を両腕で隠すと、そそくさとリビングから一時撤退する。
「チャナの涎で汚れたから着替えてくるーッ!」
苦しい言い訳なのは百も承知。
顔を真っ赤にして上擦った声を上げれば尚更だ。
ハトホルミルクの実情を知っている子供たちからは「あっ、察し……」と生暖かい眼で見られるが、素知らぬ振りで退室した。
上着やブラジャーを着替え、母乳パッドも新品にする。
チャナには搾乳したハトホルミルクを哺乳瓶に入れて与えた。
「……むぅ、ぱいぱい、ぱいぱい」
「やかましい。今日のところはそれで我慢しておきなさい」
リビングに戻ってソファに腰を下ろしたツバサ。その胸に抱かれて膝に座るチャナは哺乳瓶をくわえるものの、不服そうにこちら乳房を叩いていた。
「チャナちゃん、本当にツバサさんのおっぱい好きねー」
横に座ったミロはチャナを覗き込み、その柔らかい頬を突いて遊ぶ。
チャナは嫌な顔ひとつせずされるがままだった。
「……っていうかチャナ、もう普通に食べられるんじゃないか?」
肉体的には三歳児相当のはずだから歯も生え揃っている。ハトホルミルク、つまり母乳にこだわる必要はないのではないか?
「――お言葉ですがツバサ様」
ここでチャナの素体製作を担当したクロコが挙手する。
「あくまでも三歳児未満という設定ですので、厳密には可愛らしさを重視した二歳児くらいだと考えていただければ幸いです」
言われてみれば三歳児にしては小さい。
二歳児あるいは一歳児でも通じる幼さだ。しかし……。
「それだってミルクは卒業、離乳食にステップアップしてるだろ」
母乳やミルクは1歳前後で卒業でき、そこから一年半くらいまでは離乳食、あるいは幼児食という幼子向けの食事にシフトすると聞いている。
すると、チャナが哺乳瓶から口を離した。
「ちゃな、もうたべれる、でも、ままのぱいぱいすき」
「誰がママのぱいぱいだ!?」
赤ちゃん言葉といわれる喃語よりもはっきりした言い方で主張した。
ついでにツバサの超爆乳にしがみついて顔を埋める。
「ちゃな、ぼいんちゃんだいすき、はかいしんのおじちゃん、いってた」
「おい極悪親父の悪い影響受けてんぞこの子!?」
『オレはボインちゃんが大好きでな』
元ネタがあるそうだが、よくロンドが口遊んでいたフレーズだ。チャナが自ら思い付いたとは思えないので、ロンドの入れ知恵に違いない。
大方、“気”と一緒にいらん知識も与えたのだろう。
ツバサは両手でチャナを抱き上げ、その瞳を覗き込んで言い聞かせる。
「忘れなさい、チャナ……ウチの子になるならそれは忘れなさい」
チャナはませた表情を緊張させてゴクリと唾を飲む。
「……ままのあんちゃん、こわい、はかいしんのおじちゃん、いってた」
「誰がママの兄ちゃんだ!? なに吹き込まれたおまえ!?」
あーもう! とツバサはやけっぱちに叫んだ。
チャナを抱いたまま背中を仰け反らせるように、ソファに全体重を預けて沈み込もうとする。態度こそ投げやりだが、胸に抱いた赤ん坊は大切に扱い、機を見ては優しく揺すってあやしたり、その小さな背をポンポンと叩いてやる。
子供を愛おしいと思うのはツバサの性。
母性本能の具現化である内なる神々の乳母が騒がずとも、オカン系男子だった癖なのか、手の掛かる子供を無条件に世話したくなってしまうのだ。
「……創ったのは四神同盟の責任だからな」
胸に抱くチャナを見つめていた視線を、ノラシンハへと移していく。
渋々な雰囲気を崩すことなく言ってのける。
「ちゃんと育てて躾けてやるさ、一人前の神族になるようにな」
「兄ちゃん、おおきに……おおきにな」
ノラシンハは何度も頭を下げて感謝の意を表した。
土下座までしかねない勢いだったが、そこまでさせるのは忍びないので目配せで制しておいた。老翁は肩の荷が下りたようにフロアへ腰を下ろす。
その時、テレビの前で遊んでいた子供の一人が呟いた。
「あ、それじゃあ僕は一番下の妹卒業かな?」
声の主はジョカだった。
ハトホル一家 末妹――ジョカ。
フルネームはジョカフギスといい、その正体は世界の創造に携わったとされる始まりの龍。創世神の一柱ともいうべき起源龍だ。
彼女の兄が引き起こした事件がきっかけで一家に加わっていた。
(※第4章 起源を知る龍と終焉を望む龍 参照)
本性を現せば全長400mを越える巨大な龍。
この巨体では一緒に暮らせないため、人間の姿に化身させている。
人間形態でも身の丈2m10㎝はある長身の美少女となり、スリーサイズもツバサに負けず劣らないグラマラスなナイスバディ。足下まで伸びる癖のない長い黒髪は姫カット風に整えられ、上品な姫君のような風体になる。
正体が龍だからかあまり衣服を好まない。
いつもゆったりした浴衣みたいな格好で過ごしていた。
剣豪セイメイと運命的な出逢いをしたのか、依存するほど彼に懐いている。また彼の結婚願望を満たすドストライクな外見をしていた。
(※セイメイの好み=黒髪ロング、巨乳以上の爆乳、自分より高身長)
このため両者は光の速さで婚約して結婚。
こうしてジョカはツバサの娘にして、セイメイの妻になったのだ。
……酔いどれ用心棒が義理の息子と勘弁してほしい。
ちなみにジョカが末娘になった理由。
『人間の姿だと僕が最年少だから一番下の妹でいいよね』
このような本人の発案から、ツバサの子供たちを名乗る兄弟姉妹でも最年少の妹というポジションを獲得してしまった。
数十億年も昔、それこそ原初から生きている龍なのに……。
しかし生涯のほとんどを眠って過ごしてきたため、精神年齢は本当に幼い。いいとこ中高生くらいの女の子と変わらない。
そんなジョカは三女や四女、そして五女と一緒に遊んでいる。
四人で代わりばんこに駒を進めるボードゲームタイプのテレビゲームに興じており、正座するジョカの膝にはマリナがちょこなんと座っていた。
守護天使――五女マリナ・マルガリーテ。
まだ10歳の少女だが、ハトホル一家では最古参に入る。
GMの父親に会いたい一心でVRMMORPGをプレイし、偶然出会ったツバサやミロの強さに感銘を受け、弟子入り志願からパーティーに加入した。
最近、彼女の父親が何者なのかもわかった。
落ち着いたら会わせてやろう、とツバサは密かに計画を立てている。
こう見えて防御結界や回復系技能のエキスパートだ。
普段はお姫様を意識した衣装だが、部屋着はおとなしめなものを好み、素朴でゆったりしたトレーナーやスカートを選んでいた。
「そこですジョカちゃん、そのマスで留まってください」
マリナはテレビ画面を指差して、何やらジョカに説明している。
「ここのカードもらえるマスでいいの?」
「そうです、このゲームは資産や物件を集めるよりまずカードです」
慣れない手付きでゲームコントローラーを操るジョカは、膝に乗せた年下の妹にしか見えないマリナからプレイ指南を受けていた。
そして、プトラやトモエは……。
「んなあーッ! プト姉ぇ、そこはトモエが物件買い占めたのなぁー!」
「へへーん、さっき貧乏神押し付けられたお返しだしぃー……ってあいたたたたたたたッ!? ト、トモちん! キャメルクラッチは反則だし!」
ギャル系女子高生――三女プトラ・チャンドゥーラ。
昇天ペガサス盛りを崩したようなヘアスタイルのコギャルで、自他共に認める何をやらせてもダメ人間。
ただし、道具製作師としては凄腕である。
天才ではなく天災と恐れるほどにだ。
オフなのでメイクもサボり、ジャージでダラけている。まあ、そのジャージはハイセンスなものなのだが。
カーペットに寝転がっている隙を突かれ、トモエに跨がられていた。
腹筋系アイドル――トモエ・バンガク。
その二つ名通り、14歳くらいの美少女だが筋肉質なのだ。
力こそパワーを信条に蛮神という神族を選んだため、ちょっぴりおバカになってしまったミロの親友だ。速さだけなら四神同盟随一を誇る。
ブルマと体操着を普段着みたいに愛用していた。
ゲームプレイに納得が行かないのか、プトラの背中に跨がると彼女の背が海老反りになるよう両手で掴んで引き寄せていた。
見事なキャメルクラッチ、このまま鯖折りにできそうだ。
「オカンさんヘルプだし! お姉ちゃんなのに妹から虐待されてるし!」
「んな! お姉ちゃんが妹をいじめるな! ゲームの中で!」
「はいはい、二人とも血を見る前にやめなさい」
トモエがプトラを折り畳んで、そこからうどん玉でも捏ねるみたいまとめていく前に仲裁した。利かん坊たちも母親の威厳には素直に従う。
そこから諭すように言い聞かせていく。
「どっちもゲームなんだから、そんなガチで熱くなるな。トモエ、やられた分はゲームの中でやり返せ。実力行使に出るのは幼稚だぞ」
「んなぁ~……わかったのな」
「プトラもトモエをあんまり煽るな。直情径行なんだから」
「はぁ~い……反省するし」
お子様な二人へのお説教で話の腰を折られてしまった。
やれやれ、とツバサはため息をついてからジョカに聞き返してみる。
「それでジョカ、一番下の妹の座を譲るって?」
「うん、だって人間の姿になった時間なら、チャナちゃんの方が短いからね。僕よりも短いなら僕の下の妹だよ。勿論、ジャジャちゃんよりもね」
振り向いたジョカはウィンクでそう答える。
彼女は人間体として過ごした時間を判断基準にしていた。
ジョカがセイメイとともにハトホル一家の一員になってかれこれ一年。つい先日産声を上げたチャナより、人間体としての過ごした年月は長い。
「ま、チャナが生まれたのは本当に最近だからな」
破壊神ロンドと世界廃滅集団バッドデッドエンズとの戦争。その最中に人造人間として生を受けたのだから、実質一ヶ月も経ってない。
どのみち兄弟姉妹の序列は改めるべきだ。
転性くノ一のジャジャは七女で末妹のジョカは八女だった。
なのでチャナは九女という計算になるのだろう。
また子供が増えるのか……と愚痴ったところで今更である。
ジョカが参加し、プトラとヴァトとイヒコが三人組で参戦した辺りから諦めがついていた。しかしまあ、これ以上増えることはないだろう。
……うん、ないと思いたい。
「あの~、そんでな兄ちゃん。改めてちょーっと相談なんやけども……」
媚びる表情のノラシンハが揉み手で擦り寄ってきた。
膝立ちとは思えない動きで滑るように接近してくる。
ゴマをする気を隠そうともしない素振りだ。切り出す話に見当がついたツバサだが、敢えて冷たい視線で突き放すように見据えてやった。
「孫のチャナが兄ちゃん家の子として育てられるちゅうことで、俺もこのまま居候としてハトホル太母国に置いてもらえんやろか? 大したことはできひん隠居老人やけんどもど、これからもアドバイザーとして使うてもろうたら……」
「――何を言っているんだ爺さん?」
ノラシンハの弁明をぶった切り、ツバサは羅刹の微笑みで告げる。
「バリバリこき使うに決まってんだろうが」
定年退職があると思うなよ、と脅迫めいた文言も添えた。
さも人質のようにチャナを抱き寄せ、魔王の形相で申し渡していく。
「確かにアンタは四神同盟のアドバイザーとして売り込んできた。だが蓋を開けてみれば、強力な遠隔視“三世を見渡す眼”を使え、短時間とはいえ拳聖として猛威を振るった人獅子大帝にも変身できる……戦力としても申し分ない」
孫の養育費――その身で働いてもらおうか。
ちょっと演技過剰だが、ツバサは大袈裟に脅しつけた。
ひぃぃぃーッ!? とノラシンハも演劇っぽく恐れ戦いている。
「そんな殺生なぁ……もっと年寄りを労ってや! こちとらもう棺桶に片足どころが半身浴で身体浸してるような老いぼれやで? 縁側で茶ぁすすって菓子食んでボケーッとできるような余生を送らせたってやぁ……」
そんなつもり更々ないくせに――ツバサは内心ほくそ笑む。
ノラシンハは死ぬ間際まで戦うつもりだ。
真なる世界存続のため、老骨を粉にしてでも働く覚悟でいる。
だからこそ四神同盟の門を叩いて、破壊神と化した息子を命に代えてでも止めようと死力を尽くした。先の戦争から生き残った今、命冥加に拾っ余生を真なる世界のために使う決意を固めたのは明白だった。
息子を救えなかった贖罪、仲間に報えなかった懺悔……。
様々な想いが聖賢師を突き動かすのだろう。
隠棲など以ての外――本当に隠居させたら確実にブチ切れる。
ただ、「この世界のためにまだまだ老骨に鞭打って頑張るでぇ!」と生真面目に振る舞うのも胡散臭いと思ったのだろう。
くたびれた老人の振りは、あくまでも照れ隠しに過ぎないわけだ。
あるいは茶番で笑いを取りたかっただけかも知れない。
辛気臭く訴えられるより遙かにマシだった。
もう少しツバサも付き合ってやろう。ヤミ金の取立みたいに迫ってみる。
「生憎、敬老の精神は持ち合わせているが、働かざる者食うべからずがウチのモットーだからな……居候と孫の養育費、きっちり仕事してもらおうか」
「……はぁ~、とんでもないとこに身を寄せてしもうたな」
やもえんなぁ、とノラシンハは諦観のため息をこれ見よがしに吐いた。
おおそうだ――ツバサは妙案を閃く。
「さっそくだが爺さん、一仕事頼みたいことがあったんだ」
「今すぐかいな!? そりゃ働くいうたけど急すぎやせぇへんか? そんな慌ててやるようなことなん? 俺そんな頼りになる? ほうかほうか……」
仕方あらへんなぁ! と乗り気になるノラシンハ。
意外とお調子者である。おだてればチョロいのかも知れない。
枯れ枝みたいな二の腕を剥き出しにすると、なけなしの力瘤を叩いてやる気を見せてくれた。ウケ狙いの茶番はまだ続いているらしい。
なんにせよ、労働意欲があるのは素晴らしいことだ。
ツバサは閃いた案をそのまま口にした。
「自慢の遠隔視で調べてほしいんだ。ここから南方にある大陸を……」
瞬間――ノラシンハはツバサの前で土下座した。
「そいつぁ勘弁してつかぁさい」
「いきなりどした!? たった今見せたやる気はどこ行ったの!?」
掌をクルリと返されてビックリしてしまった。
本気でツッコむツバサにノラシンハは「面目ない……」と呻くように謝りながら、真っ白に染まった眉を八の字にして理由を明かす。
「南方大陸だけはアカン、三世を見渡す眼でもようけ覗けんのよ……」
「……それほど強いのか、あの結界は」
既に南方大陸が強力な結界に閉ざされているのは確認済みだ。
残念そうに俯くツバサを見るに見かねたのか、ノラシンハは申し訳なさを前面に押し出しつつ、釈明のつもりで話題のネタを見繕ってくれる。
「俺かてな、伊達に一万年ちょい生きとらへんわ」
ノラシンハも若い頃には武者修行と称し、魔境と恐れられる土地に数え切れないほど踏み入ったそうだが、南方大陸だけは失敗したと教えてくれた。
近付く以前に遠隔視も届かないから手に負えないという。
「あそこ俺が生まれる前から……かれこれ十万年は人っ子一人近寄っとらん」
神も魔も立ち入らぬ暗黒大陸。
源層礁の庭園の記録通り、未踏の大地となっている可能性が高そうだ。
「それでも――亀の甲より年の功と言うじゃないか」
長命の聖賢師なら何か耳にしてないか? とツバサは念を押してみた。
噂でも風聞でもいい。今は少しでも情報が欲しい。
ノラシンハは痩せ細った腕を組み、唸りながら記憶の井戸を浚う。
「う~ん、俺が聞いた噂っちゅうたら……」
曰く――数十万年前から結界で遮られた寄る辺なき地。
曰く――閉鎖された土地ゆえ予想もつかぬ進化を遂げた生態系。
曰く――南方大陸独自の神族や魔族、思いも寄らぬ種族が繁栄している。
曰く――真なる世界は南方大陸から始まったと囁かれている。
曰く――それゆえ創世の秘密が封じられていると嘯く者も少なくない。
微かで儚いものばかりだが、ノラシンハはか細き糸を辿るように南方大陸についての情報を、古井戸から浚うように思い出してくれた。
「あとな……こいつはちぃっと良くない噂なんやけんども……」
チラリ、とノラシンハは目線を送る。
その先にいるのは――マリナを膝の上に乗せて遊ぶジョカだった。
見つめられていることに気付いたジョカが反応して振り向くと、ノラシンハはひれ伏すように手を突いて頭を下げる。畏敬を示した対応だ。
事実、ノラシンハはジョカに崇敬の念を抱いていた。
起源龍が偉大なる創造主だと認知しており、神の如く敬っているのだ。
はじまりの龍神皇と独特の異名で讃えるほどだった。
「……あ、もしかしてあの噂? だったら気にしないでいいよ」
ジョカは話を聞いていたのか、ノラシンハの気遣いを読んだかのように微笑みを浮かべると、話を先へ進めるように促してきた。
「申し訳ありません龍神皇さま……開示させていただきます」
ノラシンハは関西弁も忘れて額ずき、執拗なまでにジョカへ謝意を示した。
恐る恐る顔を持ち上げた老翁は悪い噂について語り出す。
「南の大陸が得体の知れぬ結界に封じられる前……あの土地には数多くの起源龍が渡ったっちゅう噂があるんや。目的は定かやない。ただ多くの起源龍が南へ向かったとされとる。そして、南方大陸に集まった彼らは……」
一柱も残すことなく――死んでもうたそうな。
この一言にリビングの空気は凍りつく。
ジョカの顔色を伺ったのも納得だ。むしろ大人の常識である。
当のドラゴン娘は兄の死にこそ大泣きで嘆いたものの、仲間の大量死にはいまいちピンと来ないらしい。反応は思ったより薄かった。
人間も身内の死に悲しむが、縁のない他人の死は情報として処理する。
それと大して変わらないのだろう。
だが、遊んでいた子供の笑顔にほんのり陰が差していた。
平気であろうと努めているが、多くの同族が死んだと聞かされて憐憫の情を動かされないわけがない。彼女のためにも掘り返したくない話題だ。
目元を伏せたノラシンハは厳かに話を続ける。
「集団自決とも聞けば、皆殺しの憂き目に遭ったともいう……真相は暗黒大陸の闇ん中やが、みんな亡くなってしもうたんは間違いないらしい」
そして、悪い噂には宜しくない尾鰭が付いていた。
「そんでな、起源龍たちの死にあいつらが一枚噛んでると聞いたんや」
「あいつら……とは?」
原初巨神や、とノラシンハは声を潜めてその名を呼んだ。
起源龍と双璧を成す創世神の一派――原初巨神。
「はじまりの巨神たちが、起源龍の死に関与してるちゅう噂なんや」
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街中を歩くのは女性、女性、女性、女性。街中を歩く男は滅多に居ない。森へ冒険に行こうとしても、襲われるのは魔物ではなく女性。女性は男が居ないか、いつも目を光らせている。
彼はそんな世界な為、男であることを隠して女として生きる。(フラグ)
黒髪の聖女は薬師を装う
暇野無学
ファンタジー
天下無敵の聖女様(多分)でも治癒魔法は極力使いません。知られたら面倒なので隠して薬師になったのに、ポーションの効き目が有りすぎていきなり大騒ぎになっちまった。予定外の事ばかりで異世界転移は波瀾万丈の予感。
【完結】魔王を倒してスキルを失ったら「用済み」と国を追放された勇者、数年後に里帰りしてみると既に祖国が滅んでいた
きなこもちこ
ファンタジー
🌟某小説投稿サイトにて月間3位(異ファン)獲得しました!
「勇者カナタよ、お前はもう用済みだ。この国から追放する」
魔王討伐後一年振りに目を覚ますと、突然王にそう告げられた。
魔王を倒したことで、俺は「勇者」のスキルを失っていた。
信頼していたパーティメンバーには蔑まれ、二度と国の土を踏まないように察知魔法までかけられた。
悔しさをバネに隣国で再起すること十数年……俺は結婚して妻子を持ち、大臣にまで昇り詰めた。
かつてのパーティメンバー達に「スキルが無くても幸せになった姿」を見せるため、里帰りした俺は……祖国の惨状を目にすることになる。
※ハピエン・善人しか書いたことのない作者が、「追放」をテーマにして実験的に書いてみた作品です。普段の作風とは異なります。
※小説家になろう、カクヨムさんで同一名義にて掲載予定です
【完結】6歳の王子は無自覚に兄を断罪する
土広真丘
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ノーザッツ王国の末の王子アーサーにはある悩みがあった。
異母兄のゴードン王子が婚約者にひどい対応をしているのだ。
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心を痛めながら、アーサーは「作文」を書く。
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主人公の年齢的に恋愛ではないかなと思ってファンタジーにしました。
小説家になろうに投稿したものを加筆修正しました。
『異世界庭付き一戸建て』を相続した仲良し兄妹は今までの不幸にサヨナラしてスローライフを満喫できる、はず?
釈 余白(しやく)
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HOT 1位!ファンタジー 3位! ありがとうございます!
父親が不慮の事故で死亡したことで最後の肉親を失い残された高校生の小村雷人(こむら らいと)と小学生の真琴(まこと)の兄妹が聞かされたのは、父が家を担保に金を借りていたという絶望の事実だった。慣れ親しんだ自宅から早々の退去が必要となった二人は家の中で金目の物を探す。
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最後の希望とも言える名刺の電話番号へ連絡した二人は、やってきた弁護士から契約書の内容を聞かされ唖然とする。それは祖父が遺産として残した『異世界トラス』にある土地と建物を孫へ渡すというものだった。もちろん現地へ行かなければ遺産は受け取れないが。兄妹には他に頼れるものがなく、思い切って異世界へと赴き新生活をスタートさせるのだった。
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https://www.alphapolis.co.jp/author/detail/398438394
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