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第19章 神魔未踏のメガラニカ
第456話:旅立ちの門出はふたつ、残るはひとつ
しおりを挟む朝靄に煙る街――中心には見上げるほどの大神殿が鎮座する。
日はまだ昇らないが鶏鳴の時は近い。
闇に沈んでいた街が、少しずつ輪郭を露わにしていた。
街に並ぶ建物はまだ木造か煉瓦の二階建てがいいところだが、その神殿はバベルの塔よろしく聳え立ち、費やされた技術の差が歴然だった。
それもそのはず、神殿と見紛う巨大建築物を建てたのは神族の工作者。
工作の変態ことジン・グランドラックの手によるものだ。
――大きな神殿に見えるのは拠点。
ミサキとその仲間たちが暮らす家でもある。
街を形作るのは、ミサキたちが保護した多種族の家並みだ。
いくらジンが建築のいろはを教えたとはいえ、文明レベルを原始時代に戻るまで追い詰められたこの世界の人々が高度な技術を取り戻すには、まだまだ時間が掛かるだろう。一年足らずでここまで復興しただけでも大したものである。
日も昇りきらず早朝というにも早い時間帯。
もうすぐ朝早くから働き出す人々も目覚める頃だろう。
ここは東の果て――イシュタル女王国。
中央大陸の各所に点在する四神同盟の拠点では最東端に位置する。
戦女神となった少年、ミサキ・イシュタルが治める国家だ。
まだ17歳(現実でもようやく18歳)になったばかりの、高校生の少年だったはずなのに、何の因果か異世界で女神となって女王として君臨する。
慣れてきてしまった自分がちょっと怖い。
VRゲームを始めた頃からなんとなく女性アバターで遊ぶようになり、いつしか男であることを明かしてプレイすることを自分なりのマイルールにしていたので、リアルだったなら遊びで女装とかしていたのかも知れない。
男の娘になる五歩手前くらいかな?
だからなのか、女性化したことへの抵抗感は薄い。
多少なりとも戸惑ったり恥ずかしさを感じることはあるけれど、ツバサさんほどアレルギーがなかったのは、こうした下地ゆえだろう。
日が昇る前に家を出たミサキは、イシュタル女王国の玄関口にいた。
みんなが暮らす家――拠点の玄関ではない。
イシュタル女王国の入り口だ。
国を守る結界があるので特に防壁や城門は用意していないため、街のメインストリートへの第一歩がそのままこの国への入り口となる。
ミサキはそこへ仲間たちとともに立っていた。
身長170㎝はある――女性としては高身長な身の丈。
それでいて体型はグラビアモデルも務まるメリハリの利いたグラマラスボディ。そんなボディラインを浮かび上がらせるピッチリした戦闘用ボディースーツを身にまとい、手足は激闘にも耐えるグローブやブーツで固めていた。
最近、師匠や親友からロングコートを羽織らせられることが増えた。
女王の威厳を示すためのマント代わりらしい。
いっそマントじゃダメなの? と思うのだがこだわりがあるようだ。
レオナルドの軍服コートと似ていたり、背中にジンのマスクをモデルにしたエンブレムを背負うロングコートだったり、明らかに押し付けがましい。
今日は恋人のハルカが作ってくれたロングコートにした。
海賊王がまとうようなカッコいいやつだ。
男の娘になりかけた女顔だが凜々しさが強いためか可愛げが少し足りず、女神化しても美少年っぽいといわれる面立ち。
ほんのり紫味の掛かった長髪は足下まで届きそうだった。
陰で『対魔忍ミサキ』とか『エロソシャゲのヒロイン』とか散々な言われようみたいだが、こんなでもミサキの正装だ。露出度オープンな全身タイツみたいだが、防御力はアダマント製の鎧ですら足下にも及ばない。
破壊の権化な暴嵐神のパンチにも耐えた神業な縫製強度!
どれほどダメージを受けても大事な場所は死守する新設設計!
時間さえあれば少しずつ自動洗浄と自己修復を行うので洗濯要らず!
工作の変態――その腕前の面目躍如である。
(※スーツのデザインは服飾師ハルカの仕事です)
生死をかけた戦闘を想定しての正装であり武装なのだ。
そして、正装しているのはミサキだけではない。付き添いの二人もちゃんと備えていた。普段着ではなく武装を兼ねた正装である。
名目上は女王であるミサキの護衛。それと側近を侍らせる女王の見栄えを良くするための賑やかし要員だ(※当人たちが身も蓋もなくそう言った)。
軍師――レオナルド・ワイズマン。
銀縁眼鏡がトレードマークの将校みたいな風体をしている。
190㎝近い長身で、鍛えているため痩躯ではないが細身の印象を受ける体格に、どこぞの国の親衛隊みたいな軍服で着飾る青年。
クールで理知的なイケメンなので多くの女性を虜にしてきたのは、彼の取り巻きである“爆乳特戦隊”が証明してくれる。山嵐みたいな剛毛を無理やりオールバックに撫でつけているが、広めのおでこが玉に瑕か……。
元上位のゲームマスターであり、ミサキに武術を教えてくれた師匠。
父親を知らないミサキにとって父性の拠り所だ。
今では女王を支える軍師という立場に落ち着いていた。
変態――ジン・グランドラック。
アメコミヒーローなマスクが特徴的な工作者だ。
ミサキと同い年にもかかわらず、こちらも190㎝を越える大男で日頃の肉体労働で鍛えた肉体は筋骨隆々。アメリカンコミックヒーローを思わせるマスクこそ着けているが、容姿は工具をいっぱい身に付けた作業着の職人だった。
マスクの下は超が10個あっても足らない空前絶後の美形。
美しすぎて気持ち悪いと感じるほどだ。
お笑い芸人気質なジンはこの顔がコンプレックスで、かと言って親にもらった顔を無下にもできず、妥協案としてマスクで過ごすようになってしまった。
……その原因を作ったのはミサキなのだが。
十年来の親友――いや幼馴染みと呼んだ方が喜ぶだろう。
ミサキの背後、左右に阿吽の仁王像よろしく立ち尽くす軍師と工作者。
部下だと思ったことは一度もないが、当人たちは女王の家臣だとアピールするような雰囲気を醸し出していた。本気で見栄え要員をやっているのだ。
この三人は見送りである。
そして、もう二人ほど見送る側に加わっていた。
怪僧――ソワカ・サテモソテモ。
かつてアシュラストリートで切磋琢磨し、現ルーグ・ルー輝神国を率いる銃神ジェイクが四神同盟へ加入した際、一悶着起こした胡散臭いお坊さんだ。
彼もまたバッドデッドエンズに身内を殺された者の一人。
復讐のために協力者を探して、ジェイクの仲間や四神同盟に接触。
その際のゴタゴタで多少の誤解こそあったものの、ツバサさんたちとの話し合いを経て、彼はすべてを誠実に打ち明けた。その境遇に理解や共感を持てるところがあったため、晴れて四神同盟への加入が認められた人物である。
この中では一番デカい2m越えの大入道。
なのに端整な顔立ちをしていて、腰まで届くほどストレートの長い髪をしている有髪の僧侶だ。大昔のジ○ンプ系漫画でよくいたタイプらしい。
いつも怪しい笑みを絶やさず、「ンフフ♪」と笑うのが口癖。
身にまとうのは坊主らしく僧衣と袈裟。これは正統派なものだった。
首や手や腕には大量の数珠を何重にもまとわせている。
こう見えて回復役のプリーストや悪霊退散の退魔師ではなく、徒手空拳による肉弾戦が得意らしい。いわゆる武闘派系僧侶というやつだ。
ツバサさん曰く“力法”という謎の拳法の使い手らしい。
過大能力の合わせ技を使わせると手に負えない強さだという。
個人的には一度お手合わせ願いたい。
もう一人の見送りは――トワコ・アダマス。
軍事裁判に掛けられた終焉者の一人、アダマス・テュポーン。
彼の実姉、つまり血の繋がったお姉さんだ。
奥ゆかしくも控え目な純和風の美しい女性である。
これは遺伝なのかアダマスもデカいが、彼女も線が細い割には高身長で女性ながら170㎝はある。ミサキと肩を並べるほどだ。
重ね着をするファッションを好むのでわかりにくいが、しっかりメリハリの利いたナイスバディらしい。アダマスも日本人離れした顔立ちだから、先祖に体格のいい白人系統の血が流れているのかも知れない。
黒髪のロングヘアだが、左右へはねる独特な癖っ毛をしていた。
十二単を西洋風にアレンジして動きやすく、特に手捌きを邪魔しないように仕立てた衣装を着込んでいる。
いつも不思議な弦楽器を携えているが、今日は道具箱に仕舞っていた。
ミサキ、レオナルド、ジン、ソワカ、トワコ。
――以上五人が見送り役だ。
じゃらん! と金剛石で作られた数珠が鳴る。
「じゃあ世話になったな。ミサキ、軍師さん、ミサキの兄弟」
俺たちそろそろ行くわ、とアダマスは旅立ちの挨拶を切り出した。
「あ、あの……お世話になりました」
アダマスに釣られるようにサバエもお辞儀をした。まだ憂鬱さは晴れないものの、こうして口を利くようになっただけでも改善されている。
「うん、君たちなら大丈夫だとは思うけど……道中気をつけてね」
二人の挨拶を受けたミサキは見送りの挨拶を返した。
LV999の神族ともなれば、蕃神の眷族が万単位で押し寄せてこようとも物ともせず、蕃神の王すら撃退する実力を持つ。彼らを脅かす物があるとすれば、この世界の終わらせるレベルの危機ぐらいしか思い付かない。
そんな彼らに「道中気をつけてね」なんて言葉を贈るのはおかしい。
それでも培ってきた日本人の礼儀として、旅立つ者を案ずる言葉を投げ掛けてしまうのだ。そこに他意はなく、純粋に相手を気遣ってのことだ。
「おうよ、精々ヘタこかないように気ぃつけて行くさ」
アダマスも晴れ晴れした笑顔で受け取ってくれた。
終焉者――アダマス・テュポーン。
終焉者――サバエ・サバエナス。
誓約により四神同盟の領域から追放される彼と彼女の見送りだ。
二人はこれから贖罪の旅に出る。
軍事裁判は昨日のこと。そこから一日は身元引受人のいる陣営や終焉者の関係者がいる国で預かり、今朝には出立させる手筈になっていた。
今頃、他の陣営でも預かりの終焉者を送り出しているはずだ。
ハトホル太母国からはジンカイが――。
穂村組からはホムラとゲンジロウが――。
そして――ミサキの国からはアダマスとサバエが旅立つ。
他の陣営では終焉者をどのような待遇で迎えていたか知らないが、少なくともイシュタル女王国ではかなり厚遇したと思っている。
ミサキとアダマスが兄弟分となり、説得した実姉トワコもいる。
これらの要素でちゃんと和解できたためか、昨夜はアダマスとサバエのお別れ会みたいなものが催されたし、工作者であるジンは彼と彼女のための新装備を寝ずに作り、服飾師のハルカも徹夜で二人の新衣装を作っていた。
送別会も宴会の様相を呈し、ついさっきまでやっていたほどだ。
……罪人を追放するムーヴじゃないよねこれ?
だが、アダマスもサバエも重犯罪者だ。
破壊神ロンドに誑かされたとはいえ、殺意の衝動に突き動かされるまま現地種族やプレイヤーを殺戮した過去はなかったことにできない。
事実、穂村組にも家族や仲間を殺された組員が少なくなかった。
彼らも現実世界では殺したり殺されたりのヤクザな渡世を渡り歩いてきたので、負けて死んだのは仕方ないと諦観を極めているが、それでも人間なので復讐心なり憎悪なりを抱えて業腹なのは違いあるまい。
だからこそ、償いをさせなければならなかった。
アダマスもサバエも過去を調べれば被害者であり、破壊神に騙されていた側面もあるのだが、犯した罪は消せないので購いは求められる。
ゆえに四神同盟から追放し、当て所なく贖罪の旅をさせる。
だとしても――僅かな手向けは許されるだろう。
ジンが作った装備やハルカが編んだ衣装は旅立つ者への贈り物だ。
製作担当を代表してジンが尋ねる。
「新装備はどんな案配? 俺ちゃんとハルカちゃんが即興とはいえ、一晩掛けて仕上げたものだからマズいところはあんまないと思うんだけど?」
新装備を身に付けたアダマスとサバエは外見がかなり変わっていた。
――身長2m50㎝の堂々たる巨漢。
見上げるほどの大男なアダマスは、大砲のようなリーゼントをすっかり刈り込んで剃髪していた。以前はギリシア神話の英雄みたいな白系のファッションだったが、今では修行中の僧みたいに墨染め衣をまとっている。
ソワカのようなお寺の住職風ではない。
まだ修行中のそれこそ武闘派僧侶のような装束だ。
チャンピオンベルトみたいな腰当てはデザインが変更されたのみ。
手足には格闘家向けの籠手や脚絆を身に付けている。あれらはジン謹製なので、普段は目立たないが戦闘時に変形するらしい。
首からは金剛石の数珠をネックレスみたいに掛けていた。
これは以前からアダマスが身に付けていた装飾品だが、ひとつひとつがアダマスが手に掛けた強者を高密度に炭化するまで圧縮したものだ。即ち、彼の罪の証であるとともに、亡くなった強者たちの墓標でもある。
アダマスは籠手を付けた拳でドン! と分厚い胸板を叩いた。
「おう、手甲も足甲も付けてるかどうかわかんねぇくらいフィットしてるし、この服も注文通りで着心地もバツグンだ。ありがとよミサキの兄弟」
ミサキの親友だから――兄弟の兄弟。
ミサキを介してジンと友情を深めたアダマスは、なんともへんてこりんなあだ名で彼を呼ぶようになっていた。まとめて兄弟ではいけないのか?
胸板を叩けば、また金剛石の数珠がジャランと鳴る。
その音を聞いたレオナルドは蘊蓄たれな性分が刺激されたらしい。
「時にアダマス君――沙悟浄を知っているかな?」
「沙悟浄? ってほら、アレだ……孫悟空や豚と一緒に三畳敷きとかいう坊さんとインドへお経取りに行った河童だよな?」
「……それを言うなら三蔵法師ね」
あと河童じゃないはずよ、とサバエが小声で訂正を挟んでいた。
レオナルドは流暢に語り始める。
「そう、彼は河童じゃない。元は天上界を統べる天帝の警護を務める捲簾大将という神様でね。とある宴で粗相をして地上に堕とされたんだ」
(※天上界の至宝、貴重な瑠璃の杯を割った罰とされている)
「地上に堕とされた彼は人食いの妖怪となり、流沙河と呼ばれる大河を棲み処として、通りがかった人間を食い殺した。時には三蔵法師のように天竺へ取経の旅をしていた僧侶も食べたという」
描かれる沙悟浄は大抵、首に髑髏のネックレスを掛けている。
この髑髏は食い殺した僧侶たちのものなのだ。
「流沙河は花弁も羽毛も浮かばずに沈む大河なのだが、この僧侶たちの髑髏は何をしても浮かんでくるので、沙悟浄は戯れに持っていたという……観世音菩薩は彼を諭した際、『後に三蔵法師の弟子となるまで大事になさい。いずれ役立つ時が来るでしょう』と預言したとされている」
(※三蔵法師は普通の人間なので觔斗雲には乗れない。船でも沈む流沙河を渡るため、悟空たちはこの髑髏を材料に三蔵法師のための筏を作った)
レオナルドは金剛石の数珠を指差した。
「それは君が犯した罪の証。そして贖罪の旅で弔うべき死者の墓標にして位牌だ。大切にすればいつか、誰かを救う役に立つ時が来るかも知れないな」
「ふーん……それも観音様の預言みたいなもんか?」
「いいや、ただの希望的観測だよ」
訝しげなアダマスにレオナルドは肩をすくめた。
「食い殺した9つの髑髏を持ち続けた沙悟浄の気持ちは想像するしかないが、少なくとも君には後悔と供養の念を欠かさず、丁重に扱ってあげてほしい」
そう願うまでさ――軍師は罪人に慚愧を促した。
「ああ……そうだな、その通りだ……わかった、肝に銘じておくぜ」
アダマスは金剛石の数珠を手に取り、真剣な眼差しで俯いた。
破壊神との不当な契約でさえも、破棄する際のペナルティから逃げずに全力でぶつかるような漢だ。自らの過ちと向き合う胆力を持っている。
拳を交わしたミサキにはアダマスの胸中が読み取れた。
「そちらのお嬢さん、サバエさんはどーお? 俺ちゃんの担当は旅用ブーツや道中の護符だけど、新調したドレスとかファッションとか?」
アダマスの感想を聞いたジンは振り返り、サバエにも尋ねていく。
ちょっと虚を衝かれたようだが、アメコミマスクマンに顔を覗き込まれてサバエは軽くビクッと震えるも、おずおずと口を開いた。
「あ、あの……特に問題なくて……いえ、前の服よりスゴく良くて……」
ありがとうございます、とサバエは素直に礼を述べた。
彼女のファッションも大幅に刷新されていた。
身長は女性として平均より少し高い160㎝越えくらい。美人ではあるのだが、ちょっと心配になるほどの痩せ型が不安を誘う。
長めの髪は綺麗にまとめられていた。夜会巻きとかいうそうだ。
女性のドレスを新調するとあって、ミサキの彼女であるハルカが服飾師の腕を思う存分に振るってくれたのだ。当人も張り切って楽しんでいた。
以前のサバエが愛用したのは、喪に服する貴婦人がまとう漆黒のドレス。
デザインもヴィクトリア王朝時代を偲ばせる繊細な華美に溢れていた。
今サバエが着ているのもドレスには違いないが、豪奢や派手さとは無縁であり、長い旅でも苦にならない動きやすさを重視したものになっている。以前は地面を擦っていたスカートの丈も、踝あたりまでと短くなっていた。
全体的なカラーは黒と白の境界線に立つ灰色。
これはサバエのリクエストらしい。
もはや喪に服するつもりはないが、亡くなった弟を忘れないためにも白の中に黒を混ぜた色がいいということで灰色になったそうだ。
以前のように顔を隠すヴェールはないが、鍔を大きくして魔法的防御力が付与された帽子に、自動防御の結界機構を仕込んだロンググローブ。飛行系技能と連動して行動力アップを見込める長旅専用のブーツ。
サポート機能を充実させた装備品には工作者ジンの仕事が光る。
いくらLV999といえども、サバエはか細い女性だ。
おまけに先の戦争では自分の命よりも大切に慈しんできた最愛の弟を失い、精神的に弱り果てている。贖罪の誓約も特例として免除されるほどだ。
そんなサバエへのせめてもの心配りだろう。
ミサキもそうだが、親友も恋人も大層なお人好しである。
「バッドデッドエンズにゃあ工作者ってのがあんまいなくてな」
まだ長くは話せないサバエの代弁をアダマスが務める。
「あの空飛ぶ基地の整備とか日用品を作るくらいがいいところで、ここまで気の利いた強化付きの装備品はなかなか難しかったのよ」
後から強化魔法を施すのが主流だったらしい。
作成時と後付けの強化では、前者の方が効果倍率が高いことが多い。
「だから、その、こんないいもの……ありがとうございます」
アダマスとサバエに礼を言われてジンもご満悦だ。
「いーのいーの♪ どうってことないから。使ってもらえるだけで工作者冥利に尽きるってもんです。宴会の後片付けでてんやわんやで見送りにこれなかったハルカちゃんにもしっかり伝えときますからねー♪」
「おう、頼むぜミサキの兄弟。ミサキのこともよろしくな」
「任せてちょうだいミサキちゃんの兄弟……あれ、俺ちゃんたちもう兄弟?」
拳を突き合わせるアダマスとジン。
喧嘩番長と工作の変態は、なんだかんだで意気投合していた。
ジンは当初、自分の親友ポジションが脅かされてヤキモチでも焼くかと不安になったが、蓋を開けてみれば「ようやくミサキちゃんにも同い年の親友が!」と保護者みたいな目線で感動されてしまった。
いや、お互いに友達は多かっただろ? とツッコんではおいたが。
変な軋轢が生まれるよりいいか……と妥協しておこう。
「いつかまた遊ぼうぜミサキの兄弟。なんだけあの……まさかの時の?」
「まさかの時のスペイン宗教裁判! あれ気に入った? またやる?」
「三度目はさせないからな、あのグダグダコント」
妙ちきりんなポーズで喜ぶジンの尻をミサキは張り飛ばした。
昨日の宴会でジンが小芝居として披露して、見事にグダグダになったのだ。以前にも巻き込まれたミサキが「三度目はないぞ?」と釘を刺すのは当然である。
(※一度目は第209話。やっぱりグダグダでした)
アダマスとジンがアホ丸出しな高校生のノリでキャッキャウフフとはしゃいでいるところへ、本物の保護者であるトワコお姉さんが近付いていく。
大きな弟の眼前に立った姉は、毅然とした表情で告げる。
「剛ちゃん、お出かけする直前だからってそんな浮かれないの! ハンカチとちり紙は持った? 水分補給の水筒も忘れずにね。どこかでお水を飲む時は技能でちゃんと浄化すること、生水はNGだからね。あと、ミサキ君への定時連絡とレオナルドさんへの報告書も忘れちゃダメよ! できればお姉ちゃんにも三日に一回は……いえ、週一でいいからミサキ君経由で声を聞かせてね。それから……」
「わーッ!? わかった、わかったから姉ちゃん!」
勘弁してくれ! とアダマスは赤面してトワコを宥めた。
未だに現実世界の名前で呼ばれるだけではなく、母親のように「ちゃん」付けで
呼ばれるのは気恥ずかしいらしい。しかも人前だから尚更だ。
「いいから聞きなさい! ほっとけば一事が万事ずぼらなんだから……」
言い募る心配性なお姉ちゃんに弟も言い返す。
「そんな世話焼かなくても何とかすっから! 俺だってもう大人だぜ?」
「……いい大人はパンツ一丁で出歩こうとしないわよ?」
呆れ顔で過去を振り返るようにサバエは呟いた。
「サバエ!? それは内緒の約束だろ!?」
「いえ、別に約束した覚えもないんだけど……モガッ」
アダマスは焦りまくった顔で人差し指を唇に当てて「シィーッ!」と黙るようにジェスチャーを送り、その大きな手でサバエの口元を塞いだ。
ボソリと呈されたサバエの苦言を、トワコが聞き漏らすわけがない。
普段のお淑やかさを忘れてサバエは弟を叱りつけた。
「ほらご覧なさい! きっとサバエちゃんにも迷惑かけて面倒かけてお世話まで焼かせたんでしょう!? 本当ごめんなさいね、サバエちゃん……」
もう口調は完全にお母さんのそれだ。
出来の悪い息子が連れてきた可愛い女友達を構うみたいサバエに近付くと、彼女の細い指を手に取ったトワコはペコペコ頭を下げた。
「どうかウチの弟を……剛ちゃんのこと、どうぞよろしくお願いしますッ!」
「あ、えっと……はい、お願いされます……でいいんでしょうか?」
引き受けたもののサバエは困惑しきりだった。
「やめてくれよ姉ちゃん! 俺こっぱずかしいッ!?」
お姉ちゃんの暴走に弟は両手で顔を隠して項垂れてしまう。
「誓約の関係上、サバエさんの世話をするのはアダマスなんですけどね」
ミサキは正論をぼやいたが誰も聞いていない。
弟を亡くしたショックが大きいサバエは、贖罪の奉仕活動という第三の誓約こそ交わしたけれど、その中身は有名無実なものだった。
立ち直るまでの猶予が与えられ、時間制限はなく無期限。
それまではアダマスが保護という形の監視で見張り、もしも彼女が不都合を起こした場合、全責任はアダマスが負うという約束を交わしていた。
しかし、トワコはアダマスが心配で仕方ないらしい。
主に私生活での不安ばかりだが、当のアダマスが辟易するほどの世話焼きっぷりを見せていた。さしものサバエも戸惑いを隠せていない。
「ウチの弟をどうか……よろしくお願いしますね!」
「あ、はぁ……わかり、ました? 私がお世話になるんですけど……」
弟をよろしくと懇願するお姉ちゃん。
あまりに強烈な姉のプッシュに、狼狽しっぱなしのサバエはほとんど押し切られるように請け負っていた。眉で「?」を描いている。
サバエがトワコの「弟をよろしく!」コールに降参した時のことだ。
(※このお姉ちゃん、とうとう土下座で頼み始めた)
「アダマス殿――少々よろしいですかな?」
ンフフ、と含み笑いとともに怪僧ソワカが近付いていく。
ソワカの手にはいつ道具箱から取り出したのか、胸に抱くほどの包みが収められており、それを両手に持つとアダマスへ差し出した。
「差し出がましいかも知れませんがこれを……餞別とでも思ってくだされ」
「……開けてみてもいいかい?」
なんとなくアダマスは中身に見当がついている様子だ。
どうぞ、とソワカの許しも出たのでアダマスは包みを開いてみた。
ミサキの位置からだとよく見えない。
爪先立ちになって背伸びして身長250㎝あるアダマスの高い手元を覗き込むと、包みには数冊の本が入っているのが見て取れた。
すべては読み取れないが、表紙のタイトルが断片的に覗ける。
初心者、優しい、初めての、読解、仏教、般若心経、法華経、お経……なんとなくラインナップのわかる書籍が揃っていた。
恐らく、アキが都合してくれた現実世界の書物に違いない。
イシュタル女王国 情報官 アキ・ビブリオマニア。
レオナルドの元部下でGM、ツバサの元にいる次女フミカの実姉。自堕落引き籠もりニート生活しかできない女性だが、情報処理能力だけは随一。
先の戦争では情報戦でバッドデッドエンズを圧倒した。
その過大能力は情報収集に特化されており、現実世界に残されたデータまで回収できるので、電子書籍などの情報も拾ってこれるのだ。
あれらの本は、ソワカがアキに頼んで手に入れたものだろう。
――アダマスが剃髪した理由。
それはサバエのために捧げた誇りでもあるが、裏を返せば「終焉者はもう世界廃滅を企んでいません!」と身の潔白を証明する禊ぎでもあった。アダマスが漢としてケジメを付けた一面も有している。
もうひとつ、アダマスの新たな決意も秘められていた。
剃髪して頭を丸める――その行為が社会的に何を意味するか?
日本人ならばピンと来るだろう。
ミサキも親友が髪を剃り始めた時点で察したが、この怪僧も僧侶の端くれとしてアダマスの志に気付いていたらしい。
だとしたら、これ以上の餞別はないはずだ。
「神も悪魔もいるこの世界で仏に祈る……ってのはどうなんだろうな?」
アダマスは自嘲とも失笑とも受け取れる笑みで鼻を鳴らした。
これにソワカは「ンフフ♪」と含み笑いで返す。
怪僧が大きな掌を上にすれば、そこに数々の仏が浮かび上がる。
仏の群像は曼荼羅を描きそうな勢いだった。
「如来、観音、弥勒、明王、諸尊……経を読むとは、形ある仏のために読むものではございません。本来、仏性とは形なきものにございますれば」
ソワカは幻影の曼荼羅を握り潰すことで消した。
そして説法を説くように語り始める。
「色即是空、空即是色……仏教の開祖たるお釈迦様、その思想とは『この世に認められるものはすべて実体がない』と無常を説くものです。森羅万象には定められた形などなく、いずれは遷ろう形なき儚いもの……その遷ろう世界にこそ尊き仏性を見出そうとするのです。それは何処の世界であろうと変わりません」
この真なる世界でもね、とソワカは噛んで含めるように諭した。
地頭は悪くないアダマスはこの考えを咀嚼できたらしい。
「うん、そういうもんか……アンタ、顔は胡散臭いのにいいこと言うな」
「こら剛ちゃん! ソワカ様に失礼でしょ!?」
トワコは「手の掛かる弟をよろしく!」とサバエに拝み倒していたが、旅の恩人でもあるソワカに無礼な物言いをするアダマスにお叱りを飛ばしてきた。
まあまあ、とソワカは鷹揚に両手で制する。
「ンフフ♪ 胡散臭いのは自覚ありますゆえ致し方ありませぬ。なんですかな、我が師もズバ抜けて胡散臭い御仁でありましたから……遺伝ですかな?」
怪しい笑顔が張りついた顔をソワカはつるりと撫でた。
彼の師匠である幽谷響なる老人も、妖怪じみた怪人物だったそうだ。
それを聞いたミサキはレオナルドを横目にする。
「弟子は師匠に似るんですか……気をつけとこ」
「ミサキ君? 師匠に似るのが嫌って聞こえるんだけど……ミサキ君!?」
レオナルドが縋りついてくるけど取り合わない。
最近、師匠を精神的に虐待して追い詰めることに快感を覚えるようになってきてしまった。これはもう一人の先生、ツバサさんの影響だと思う。
……やっぱり弟子は師匠や先生に似てくるのかな?
「餞別、ありがたく頂戴するよ坊さん」
ソワカから貰った包みを大切に懐へと収めたアダマスは、胸板の前で手を合わせて合掌すると、ソワカへ礼を述べるとともにお辞儀をした。
この所作からも彼の志に見当がつくだろう。
「ンフフ……贖罪のみならず、どうぞ精進に励んでくださいませ」
ソワカも同じように合掌する礼で返した。
頭を上げたアダマスはススス……とソワカへ踏み込むように近付くと、彼の耳元に顔を近付けて、トワコには聞こえない小声で囁いた。
「姉ちゃんのこと――よろしく頼むぜ」
この一言にソワカは露骨なくらい動揺していた。
胡散臭い笑顔が引き攣ったほどだ。
「ンンフッ!? よ、よろしく頼む……とは如何なる意味で?」
「惚けるなよ色男。伊達に暴走族トップとして舎弟たちの色恋沙汰を取り持ってきてねえぜ? アンタの顔色を見りゃ誰にホの字か丸わかりさ」
そういうの姉ちゃん鈍感だから、とアダマスはアドバイスを続ける。
「好きならはっきり言わねえと伝わらねえぜ」
「……ンンンフフフ、ありがたい助言として聞いておきましょう」
ニヤニヤするアダマスとは対照的に、笑顔こそ崩さないものの冷や汗にまみれたソワカは目元に皺が寄るほど堅く瞼を閉ざした。
ソワカは復讐を果たすため、トワコは弟を救うため――。
それぞれの利害が一致したので手を取り合い、打倒バッドデッドエンズのために旅を続けていたそうだが、それだけが理由ではなかったようだ。
少なくともソワカの本心は他にもあったらしい。
恋心と言い換えてもいいかも知れないが……。
「さて、名残惜しいし話も尽きないだろうが、そろそろ時間だ」
パンパン! とレオナルドが両手を叩き鳴らした。
和気藹々としたムードで話し込んでしまったが、アダマスとサバエは四神同盟から追放される身で、ミサキたちはそれを見送りに来たのだ。
うっかり忘れかけていた。
東の地平線から太陽が顔を出す頃合いである。
地下の避難シェルターから解放されて、自分の家へ帰ることを許された国民たちも目覚める頃だ。戦争の直接的被害はなくとも、間接的な天変地異で荒らされた街や国の建て直しに大わらわな一日が始まるだろう。
その前に――元凶だった終焉者には立ち去ってもらわなければ。
「贖罪が終わったらイシュタル女王国へ戻ってこいよ」
ミサキは握った拳を突き出した。
「お姉さんもウチへ籍を置いてもらうことになったし、誓約を果たせばどこへ行こうと自由だ。そしたら……オレの仕事を手伝ってくれ」
アダマスも大きな掌を握り締めた。
困ったように苦笑して口の端を釣り上げている。
「女王様の片腕なんか務まらねえぞ? 自慢じゃねえが政治とかちんぷんかんぷんだからな? 俺ができるっつったら蕃神との戦争くらいなもんだぜ? ったく、これから奴等をぶちのめしに行くのに……とにかく喧嘩にゃ困らねえな」
ミサキの拳にアダマスは自らの拳を突き合わせた。
口から発した言葉には新たな誓約が含まれる。
「俺なんぞに何ができるかわからねぇが、兄弟の頼みなら断れねぇよな」
贖罪の務めを果たして――必ず此処へ帰ってくる。
こうしてミサキと約束を交わしたアダマスは旅立っていった。
サバエという旅の道連れを連れて……。
~~~~~~~~~~~~
「……ありがとう、アダマス」
ふいにサバエの唇から感謝が漏れてしまった。
その一言を向ける相手はアダマスをおいて他にいない。見送りで手を振るミサキたちの姿は、もう遠く地平線の彼方へ消えていた。
何処とも知れない荒野を進む二人。
二人きりになったのを機に、改めて御礼を言いたくなったのだ。
「そいつはオセロットに言ってやんな」
俺はお節介を焼いただけさ、とアダマスは頭をつるりと撫でた。
「俺――このまま坊主になろうと思うんだ」
不意打ちなカミングアウトを告げられたサバエは、感情を失っていた顔に驚きを取り戻すと、隣を歩くアダマスの顔をまじまじと見上げた。
こちらの視線を意識したアダマスは展望を打ち明ける。
「ロンドさんに騙されたことや勘違いを差し引いたとしても、俺のやったことは許されるもんじゃねえ……贖罪のために働くだけじゃ足りねえと思ってな」
これまで殺めた者の菩提を弔うためにも出家する。
経を読むにしろ、供養の作法しろ、これから勉強しなければならない。
「先輩の坊さんもいい餞別くれたしな」
アダマスは懐に収めた本の束をポンと叩いた。
ソワカがくれたのは初心者向けのお経の読み方や、仏門に入ったらするべき礼儀や作法の手解き、そういった僧侶となるための入門書だった。
「それで……頭を丸めたの?」
「それもあるから頭を丸めたのさ。一朝一夕だろ?」
サバエを庇うために漢の誇りを擲ったのは事実であり、坊主として出家するのはそのついでだ。白い歯を見せる男前の笑顔にはそう書いてあった。
もう一回、寒そうになった頭をつるりと撫でる。
その顔は遙か遠く――ずっと先の未来を見つめているかのようだ。
「これまで手に掛けた奴らの冥福を祈って弔いながら、蕃神とその眷族どもを蹴散らして、困ってるこの世界の人たちを四神同盟へ連れて行く……ああ、こんなカラカラの土地も緑でいっぱいにするのも仕事の内だったな」
そういう技能も覚えんとな、とアダマスは額をピシャリと打った。
先の長い話だが苦にしている風ではない。
むしろ逆、多くのやるべきことを楽しみにしている様子だった。
「償っても償いきれねぇし、謝っても許されねえ罪をやっちまったんだ……そいつを背負っていくしかねぇんだよな。自分の不始末なんだしよ」
これもケジメだ――漢はあっけらかんと覚悟を示した。
やっぱりこの人は強いんだ。
弟を失って、虚しさが巣食うようになったサバエの胸の内。
その薄い胸中にすら熱いものを通わせる。
別格ばかりを揃えた108人のバッドデッドエンズの中でも、破壊神さえ一目置く特別枠だとは思っていたけれど、良くも悪くもここまで清々しくも肝が据わった好漢であることを、サバエは昨日と今日でつくづく思い知らされた。
勿論――良い意味でだ。
その侠気に助けられたサバエは感謝の念に耐えなかった。
でも、言いたいことは言わせてもらう。
「それを言うなら一朝一夕じゃなく……多分、一石二鳥ね」
「ん? おお、それだそれ。また言い間違えちまった。訂正ありがとな」
サンキュウ♪ とアダマスは愛想良く片手で拝んできた。
そこから前を向くと、歩きながら尋ねてくる。
「サバエ――俺と一緒に来ないか?」
最初、アダマスの問い掛けてくる意味を聞き取りかねた。何度か頭の中で繰り返したが理解できず、サバエは小首を傾げながら問い返す。
「一緒にって……そういう約束でしょ? だから、こうして……」
第三の誓約――贖罪の奉仕活動。
別次元の侵略者である蕃神の撃退や排除、凶暴かつ危険なモンスターの討伐、当て所なく彷徨する現地種族の保護や誘導、路頭に迷うプレイヤーの説得や勧誘、荒廃した大地の開拓、生態系や土壌といった自然の復興……。
これが終焉者たちに科せられた罰である。
しかし、サバエのみ第三の誓約に猶予を与えられていた。
弟を亡くした精神的ショックが鑑みられ、誓約こそ交わしたものの気持ちが落ち着くまで無期限で待ってもらえる寛大な措置だった。
それもこれも、アダマスが身を挺して庇ってくれたおかげ。
漢の誇りと掲げていたリーゼント(正しくはポンパドールなんだけど)のヘアスタイルを剃り、頭を丸めて誠意を示したことが認められたからだ。
同時に責任も負うことを約束させられていた。
サバエが第三の誓約を執行できるまで同行し、もしもサバエが誓約に反するような事態に手を染めれば、すべての責任をアダマスが取らされる。
この条件さえアダマスは文句を言わず丸呑みした。
二人が連れ立って旅をするわけがこれだ。
アダマスは終焉者の監督役を務める身元引受人とはまた別口の、サバエの見張り役みたいなものだ。その役を自ら買って出てくれたとも言えた。
こんなサバエだが、アダマスには恩を感じている。
彼の迷惑になるような真似をするつもりはないし、またバッドデッドエンズとして活動するほどの気力もない。いつになったら弟を失った悲しみが癒え、科せられた贖罪のために動き出せるかは自分でも予測が付かない。
迷惑かも知れないが、それまでアダマスと一緒に旅をするつもりだが……。
アダマスは「違う違う」と大きな手を振った。
「贖罪をやる気になっても一緒に来ないか? って訊いたんだよ」
「え、それって……」
驚くサバエが次の句を紡ぐよりアダマスの言葉が早い。
というか、いつもより早口に聞こえた。
「生きる気力が戻ったにしろ、なんかの目的ができたにしろ、贖罪のお勤めやってる途中で、またぞろ悟郎を思い出して心細くなりそうで心配だからよ……あんまり一人でフラフラさせたくねぇからさ」
サバエさえ良ければだが――アダマスは鼻の頭を掻いて目を逸らす。
言い訳めいた理由を付け足すのも忘れない。
「それにほら、アレだアレ……俺はほら、わらすぼだからよ」
「わらすぼ……?」
弟のために料理上手になったサバエだから、辛うじてその名前にピンと来た。確か九州の有明海で獲れる特徴的なハゼ科の魚だ。
ウナギやドジョウみたいにヌルッとした見た目で、泥の中に生息しているためか眼は退化しており一見すると眼球がない。下顎がしゃくれた口には鋭い牙が無数に並んでおり、付いたあだ名は有明海のエイリアン。
癖はあるけど歴とした食用魚。よく干物を見掛ける。
なんで自分をわらすぼに例えるの? とサバエは首を傾げてしまった。
構うことなくアダマスは話を続ける。
「今みてえに言い間違いなんかしょっちゅうだし、身嗜みなんかに気ぃ使ってくれる奴が傍にいないとよ……いずれパンツ一丁でそこらを練り歩きそうだし」
「……? ……ッ! ああ……そういうこと」
また言い間違えただけか、解読するのに時間が掛かってしまった。
「それを言うなら……ずぼらでしょ?」
「そうそう、それだそれ」
ほらな? とおかしそうに笑うアダマスはサバエを抱き上げた。
「ちょ……あ、アダマス?」
「いいからいいから、こっちの方が早い」
サバエは抵抗する間もなく、アダマスの肩に乗せられてしまった。巨人に担がれた少女よろしく、彼を乗り物代わりにして楽に移動できた。
心なしかアダマスの歩幅も大きく速くなる。
先ほどまではサバエの歩調に合わせてくれていたのがわかった。
嗚呼ッ……と嗚咽が喉から溢れそうになる。
こんなに誰かが大切に扱ってくれたのはいつ以来だろう? 無論、悟郎もサバエのために頑張ってくれたが、それは姉弟ゆえの愛情から来るものだ。
他者から施される損得なしの慈愛。
本当の優しさに触れられたのは久し振りだった。
頼るものを求めるように、サバエはアダマスの頭に抱きついていく。
綺麗に剃られたスキンヘッドを愛おしげに一撫ですると、潤みそうな瞳を閉じたまま彼の頭へ身を寄せるように抱きついていく。
震えそうな声でアダマスからの訊かれたことに答える。
「ええ、そうね……あなたについていくわ」
この返事がいずれ違う意味を持つ。
それにサバエが気付くのは、そう遠くない未来の話だった。
~~~~~~~~~~~~
同日同刻――ホムラも穂村組から旅立っていた。
新組長となったバンダユウからのキツい厳命で、何人たりとも見送りは許されななかった。バンダユウはホムラの出立に立ち会わず、兄妹であるレイジやマリでも玄関に近寄ることさえ禁じられた。
せめて別れの挨拶だけでも……と切望したゲンジロウも、自室へ何重もの結界を張られて一時的に封禁されたほどだ。
それだけの大きく重い罪を犯した――嫌でも思い知らされる。
日も昇りきらぬ薄闇の中、ホムラは穂村組から発った。
この敷居を再び跨ぐことは許されない。
贖罪の誓約を果たし、犯した罪を濯ぐまでは……。
屋敷の門構えも潜り抜けたホムラはふと立ち止まり、そっと振り返るが見送る影が現れる様子はない。当たり前だ、そう言い渡されているのだから。
寂しさに涙が零れそうになり、口元が情けなく戦慄く。
それをグッと堪えたホムラは屋敷に向かって深々と頭を下げた。
「……長い間、お世話になりました!」
自分の気持ちに区切りを付けるためにも大声で叫ぶと、そのまま身体を反転させて脇目も振らずに走り出す。後ろを振り向くなどあってはならない。
LV990に戻ったが、それでも魔族の走力だ。
あっという間に穂村組の屋敷は遠退き、街の風景も後ろへ流れていく。
多くの現地種族が暮らすハトホル太母国の首都。舗装された石畳を蹴っていた脚が、やがて自然のままな大地を踏み締める。
気付けばハトホル太母国の領域からも脱していた。
乾いた大地の所々に草原や小さな森が散らばる、サバンナみたいな地帯までやってきていた。それでも微かにツバサの気配を感じることができた。
彼の過大能力は自然の根源となるもの。
龍脈とか地脈と呼ばれる莫大な“気”の流れを全身から常時発しており、周囲の土地に豊饒をもたらしているという。ハトホル太母国周辺のみならず、自然を活性化させる“気”の流れはこんな遠くまで届いているようだ。
そう、いつしか彼方までやってきていた。
恐る恐る振り返っても、ハトホル太母国は影も形もない。
我武者羅に走っている間に、かなりの距離を稼いでしまったらしい。
穂村組の屋敷からはどれくらい離れただろうか?
中央大陸はまだまだ広い、この程度は離れた内に入らないかも知れない。彼方というほど遠くもない。神族や魔族ならひとっ飛びだ。
それでも――故郷から離れていくやるせなさを感じた。
穂村組の開祖・迦具土の悲願、流浪の民だった先祖が追い求めた望郷。
家族や仲間とともに暮らせる黄金の穂に満ちた村。
それが如何に大切なものだったか?
追い出されて初めてわかることもある。家族がどれほど尊いものかは痛いほど身に染みたし、帰郷の念に恋い焦がれて身悶えそうになる。赤ん坊のように駄々を捏ねてでも家に帰りたい、幼稚なワガママも心の片隅で泣き喚いていた。
しかし、そんな甘えは許されない。
若くして組長に推され、家族や仲間も一生懸命に支えてくれた。
なのに――ホムラはすべてを裏切ったのだ。
叔父貴の期待を、長兄の献身を、次兄の補佐を、長女の保護を、組員たちの希望を……一身に背負っていたのに、それらを自ら投げ捨ててしまった。
追い出されて当たり前の失態を犯したのだ。
血を分けた家族への背信、もはや大罪と言うべきだろう。
いくら幼稚であろうともホムラとて16歳、もうすぐ17歳……いや成人になろうというのだから、物事の分別くらいはつく年頃だ。
それが一時の感情に流されて暴挙を犯したのだから始末に負えない。
我を取り戻して一昼夜掛けて叔父貴に説教される中、冷静かつ客観的に自分のやったことを振り返り、ホムラは腹の底から血の気が引いてしまった。
――そして実感する罪の重さ。
自責の念も凄まじく、後悔という重圧に押し潰されそうだった。
叔父貴の差配に異を唱えなかったのはこのためだ。
反論できる立場ではなく、罪の大きさを考えれば長兄共々極刑に処されて当然だ。ヤクザの流儀ならば、コンクリ詰めで海に沈められてもおかしくはない。
誓約を科して贖罪を強いて、やり直す機会を与えてくれる。
他の終焉者と同様に扱われただけでも恩情があった。
誰にも頼ることを許さず、ひとりっきりで追放させられたのも、ホムラの未熟な甘えを払拭したいバンダユウの親心が酌み取れた。
ホムラも心底バカではない。それくらいの機微は読み取れる。
これを機に――0からやり直そう。
自身の愚かさを噛み締められたからこそ、叔父貴の追放処分という情けに感謝できるし、これからは自分を見つめ直す時間だと心構えを改められた。
甘ったれな弱い精神から鍛え直すのだ。
決意表明というわけではないが、ホムラは外見を一新していた。
素で女の子と間違われる男の娘みたいな顔や体型は変えようがないが、イキって伸ばしていた姫カットのロングヘアはバッサリ切ってきた。
おかっぱみたいに肩口で切り揃えたざんばら髪。
格好つけて羽織っていたギンギラギンの着物は脱ぎ捨てて、地味な着物に細袴という出で立ち。肩に背負う長巻だけは愛用してきたものだ。
竹刀でも担いでいれば剣道少年に見えるだろう。
道場に通う新鮮な気持ちでやり直した方がいいのかも知れない。
世界を荒らす蕃神や怪物を退治し、困っている人々に手を差し伸べ、自然を回復させていく……これが第三の誓約。終焉者に課せられた奉仕活動だが、ホムラにしてみれば自分を鍛え直す修行の一環と捉えられた。
叔父貴の親心に応えるためにも、悪友に負けないためにも。
そして、憧れのあの人に許してもらうためにも……。
何年、何十年、何百年掛かろうとやり遂げる覚悟だ。
思いを馳せていたら、走る速度が鈍っていた。
決意も新たに踏み出そうとした足がたたらを踏んでしまう。
目の前に立つ人影がホムラを踏み留まらせた。
人も通わぬ異世界の荒野に、彼女の姿をした彼は溶け込むように佇んでいた。どう考えてもホムラの行く手で待っていたとしか思えない。
「……ウィングさん」
思わず口をついて出たのは、彼の昔のハンドルネームだった。
ハトホル太母国 女王 ツバサ・ハトホル。
現在――それが彼の肩書きだった。
美しい女性と見紛うほどの美貌と、背が伸びないホムラにすれば垂涎の180㎝というちょうどいい高身長(※デカすぎは好きではない)。
これらはアシュラ時代から変わらない。
だが、VRMMORPGを経て異世界転移した際、内在異性具現化者として男性から女性に裏返り、女神化してしまったことはBLを愛読する腐男子になってしまったホムラには莫大なマイナスポイントだった。
乳牛みたいな超爆乳、砂時計のように細い腰、超安産型の巨尻。
それらを支える柱のような太ももも女性らしさを過剰に強調し、素敵なイケメンお兄さんに憧れていたホムラの趣味にはそぐわないものだった。
逆に叔父貴なんかは大好物だと思う。
あのエロジジイ、バ○ェラーとかいう海外の爆乳お姉さんのヌードばかり掲載されたアダルト雑誌を定期購読していたのだが、今のツバサさんは彼女たちとタメを張れる超グラマラスボディになっていた。
興味がないのに叔父貴があちこちに転がしてるものだから、見たくもないのに本の名前とその意味を覚えてしまった……バチ○ラー。
(※バチェラー=未婚男性、独身の男性のこと)
女性としては身長が高いので、あれだけ爆乳巨尻になっても見苦しくないのが不幸中の幸いだろう。抜群のプロポーションだとは思う。
みんなの母役をやっているそうで、まさにオカン系女神だった。
元からオカン系男子だとも聞いたが……。
長い黒髪を靡かせているのも女性らしさを誇張していた。
「誰も見送りに来ないのは寂しいと思ってね」
アシュラ時代、試合後に見せてくれた爽やかな笑顔と変わらない。
母親のような女性らしさが加味されたものの、VR格闘ゲームに明け暮れた頃の懐かしさがこみ上げてくる。楽しい思い出ばっかりだ。
コートみたいな真紅のロングジャケットに黒いストレートのパンツ。
女性的なファッションではないが、この程度では豊満に女体化した肉体を隠しきれるものではない。爆乳も巨尻もこれでもかと主張していた。
どうしても眉間に皺が寄りそうになる。
BL物でも受け役が性転換したりするシチュエーションもなくはないが、ここまで暴力的に女性化すること、母性の権化になることはない。女体化シチュは許容範囲だが、スリーサイズは控えめでお願いしたいところだ。
女性に不慣れなだけかも知れないが……。
そんな趣味嗜好はさておき、ツバサを前にしたホムラは反射的に背筋を正すと頭を下げようとしたのだが、それでは圧倒的に足りないと責っ付かれた。
ツバサさんに――四神同盟にとんでもない迷惑をかけた。
なんなら損害賠償を請求されてもおかしくはない。
ミロを亡き者にしようとした殺人未遂まで追加されるだろう。
仮にも組を率いた組長として、他の組織のトップに手を煩わせたのだから謝罪の弁を欠かすわけにはいかない。とっくに事後で手遅れだとしてもだ。
勢いよく地面に跪いてから渾身の土下座!
もしくは全身で拝み倒す五体投地という謝り方だ!
これしかないと腹を括り、謝罪の弁を叫びながら実行する。
「この度は多大な迷惑をお掛けして、誠に申し訳ありませんでし……ッ!?」
「謝らなくていい。俺への謝罪はいらないよ」
膝をつく前にツバサの声で制された。
「君はミロに謝ってくれた……そして、育ての親や家族にも」
意表を突かれたので間抜けな顔になってしまったホムラに対し、ツバサは友人の子供を言い聞かせるような口調で話し掛けてくる。
両眼を閉ざして軽く俯いたツバサの口元は綻んでいた。
「俺はそれで満足だ。これ以上の謝意を求めるつもりはない」
それよりもだ――ツバサは片目を薄く開けた。
ウィンクにも似た表情を浮かべたツバサは問い掛けてくる。
「俺個人に伝えたいことはないのかな?」
どこか悪戯っぽい蠱惑的な微笑みで、意味深長な質問してくるツバサにホムラは弾かれるように顔を上げた。同時に彼がここへ現れた理由も悟る。
ホムラの心に食い込んでいる――禍根。
ミロに大敗を喫したことで過去の蟠りを解き、バンダユウに本気で叱られたことで家族の大切さを知り、ホムラの精神は幼さを脱却しつつあった。
芋虫が蛹になり、そこから脱皮して羽化の時を迎えようとしている。
だが、まだ解決していない問題がひとつあった。
ある意味、ホムラが道を違えた最大の原因ともいえる禍根。
――ツバサさんへの恋心だ。
ホムラは背筋を正して気をつけをすると、ツバサの瞳を見つめた。彼も受けて立とうと言わんばかりに、ホムラの目線に合わせてきた。
心臓が早鐘のように打ち鳴らされ、頬が燃えるみたいに紅潮する。
一世一代の告白のチャンスを与えられたのだ。
ここではっきり宣言しておかなければ、この禍根は根腐れしかねない。
「ずっと……ウィングさんのことが好きでしたッ!!」
勢いの良すぎる屈伸みたいなお辞儀をした後、バネ仕掛けのオモチャにも勝る反動で顔を上げたホムラは、ツバサを見つめたまま返事を待った。
思考回路はショート寸前、心臓はパンク寸前。
送り出された血流は尋常ではなく、血圧もエラいことになってた。
それでも、ここで逃げたら男が廃る。
ツバサからの返答はわかりきっているが、真正面から受け止めなくてはならない。自らの犯した過ちを認めて更生し、一番大事なものに気付かせてくれた悪友への詫びも兼ねて、今日まで拗らせてきた初恋にピリオドを打つ。
幼年期に決着をつける――そうしなければ先に進めない。
終焉者として交わした誓約とは違う、これはホムラなりの誓いだった。
ツバサは困ったように眉尻を下げて微笑んでいた。
「うん、そうか……嬉しいよ。誰かに好いてもらうのは悪い気はしない。もっと早く……アシュラ時代に気付いてあげられたら良かったな」
ありがとう――でも、ごめん。
「俺には……心に決めた人がいるんだ」
だからごめんな、とツバサは丁寧に重ねて謝ってくれた。
そんなことはわかっている。
ミロと再会したあの日、刃を交えて久し振りに喧嘩をしたあの時、ミロから言われた言葉と、ツバサの態度からいくらでも推測できた。二人の関係を読み取ることができた。いくらバカでガキでもそれくらいは察することができる。
だけど――認めたくなかった。
せめてツバサ当人の口から聞くまで信じたくなかったのだ。
「こちらこそ……ありがとう、ございます」
泣きそうになる涙腺を意志の力で堰き止め、張り裂けそうな泣き声を発そうとする喉を筋肉で締め上げ、なるべく笑顔を取り繕って明るい声を出す。
「おかげで吹っ切れました! じゃあ行ってきます!」
堪えられるのは短い時間だ。
初恋は実らないなんて格言は知っているが、それでも失恋を体感した身としては身も心も爆発しそうになる。ツバサさんの前でそんなみっともないことはしたくないから、笑顔のままもう一度一礼すると同時に走り出した。
顔を下に向けたまま前傾姿勢で一気にだ。
このまま不様に泣き叫ぶ声が誰にも届かないところまで行って、一切の制限なく思いっきり叫びたい。そのための全力疾走である。
ツバサの脇を通り過ぎようとした、ほんの一瞬のことだ。
「ここへ来られなかった二人からの伝言だ」
ホムラの耳へちゃんと届くよう隣へ並んだタイミングで呟かれた。
叔父貴からは――「身体に気をつけろよ」。
悪友からは――「絶対にへこたれるなよ」。
「……そして、これは俺を含めて三人から君に贈る言葉だ」
全部やり遂げて――ちゃんと帰ってこい。
もう我慢も辛抱もできない。緊張の糸も切れてしまった。
「あ、あああ、うぅぅぅあぁ……ありがとうございましたあああぁぁぁッ!」
ドンッ! とロケットの発射音みたいな音がする。
ホムラが飛び出した爆発音だった。
下唇を突き上げて口元を富士山みたいにしながら歯を食いしばり、流れる大量の涙が空中に線を描く初速度で、恥も外聞もなくしゃくり上げる声で感謝を告げながら、地の果てを目指すが如く一心不乱に駆け出した。
遮二無二走るホムラは、泣きながら家族の名を呼ばわる。
「叔父貴ぃ……バン爺! ゲン兄ぃ! レイ兄ぃ! マリ姉ぇ! みんな……みんなぁ! ワシ、いつか必ず帰るから……きっと絶対に帰るからぁぁぁッ!」
わああああッ! とホムラは涙ながらの雄叫びを上げる。
土煙を巻き上げて爆走し、誰もいないところを目指して走り続けた。
「ミロぉぉぉぉッ! すまんかったぁぁぁぁ!」
ワシが餓鬼じゃったぁぁぁッ! と酷い思い込みでずっと毛嫌いしてきた悪友へ謝る声も天高く木霊する。謝っても謝っても気が済まなかった。
林を突き抜け、川が飛び越え、山があっても力任せに突き抜ける。
「ツバサさぁぁぁん! ずっと好きだったんじゃあぁぁぁッ!」
さっきの告白で踏ん切りは付いたものの、失恋のショックは未練となって心という器にへばりついている。それを吹き飛ばすように叫んだ。
堰を切って溢れる爆流のような感情。
溜め込むこともできず、ありったけの声に乗せて解放するしかない。
どれくらい泣き叫びながら爆走しただろうか?
泣きながら走っていたので前方確認がとても疎かになっていた。
「おっと――ここから先は行かない方がいい」
いきなりハスキーな女性の声が鼓膜に届いたと思えば、目の前に柔らかいけど大きな壁が立ちはだかった。ホムラはそこへ突っ込んでいく。
ボヨン! と包容力にあふれたクッションに押し止められる。
例えるなら超肉感的な弾力のあるビーズクッション。
中に高性能ゴムでも仕込んだかのような固めの低反発シートの感覚もあるが、それが気にならないほどの心地よい柔軟性に沈んでしまいそうだ。
そして、しっかりと抱き締められる。
「何やら気が昂ぶっていたみたいだが、周囲にくらい目を配っておいた方がいい。神族も魔族も滅多なことでは死なないが……」
ここから落ちたら痛そうだぞ? と女性の声は背後を指し示す。
そこは――千尋の谷だった。
獅子が我が子を落とすという深い渓谷。いや、ホムラの行く手にあった谷は千尋などでは片付けられず、万尋はありそうな深さだった。
さすが真なる世界、地球ではありえない地形の目白押しだ。
どうやら断崖絶壁の際に立つこの女性は、前も見ずに走ってその谷底へ落ちようとする自殺未遂なホムラを寸前で抱き留めてくれたようだ。
ホムラを子供扱いする大柄な女性だった。
抱き上げられた体勢から降ろされたホムラは、改めて彼女を見上げる。
「アンタは、確か……ジンカイ、さん?」
「昨日振りかな、ホムラくん」
終焉者 魔母 ジンカイ・ティアマトゥ。
いや、既にバッドデッドエンズではなく誓約を交わして終焉者の肩書きも意味を失ったので、ドンカイ親方の弟弟子ジンカイと呼ぶべきだ。
ツバサより身長のある190㎝の巨女。
それに見合った巨大なスリーサイズをドン! ギュッ! ズドン!と誇示しているが、多少筋肉質とはいえ女性らしい柔和なスタイルである。腐男子なホムラにはピンとこないが、こういう豊満恵体な女性が好みの男も多いだろう。
彼女は――かつて彼だった。
横綱・呑海の弟弟子、角界一のイケメンと持て囃された大関・神海だ。
世間から向けられた心ない悪感情に苛まされてバッドデッドエンズ加入を決心したジンカイ。彼が破壊神から与えられた力は大地母神のものだった。
そのせいで終焉者を辞めても女神のままらしい。
現役時代の姿をネットか何かで見た覚えがあるが、力士とは思えないほどスリムで、イケメンの看板に嘘偽りのない美形男子だったのを覚えている。
イケる……! 腐男子のセンサーに引っ掛かったのは事実。
美男が性別反転すれば美女になる。
体格に見合わず小顔な面相は、やや童顔に寄った美少女の面立ちだった。
昨日振りだが――着ているものが一変していた。
白地の着物に真っ赤な緋袴。まるで巫女さんのようだ。
袖の部分は「邪魔!」と言わんばかりに引き千切ったのかと思えば、最初からない仕様のようだ。ノースリーブみたいな着物である。細い腰に巻いた帯は注連縄というか、土俵入りの廻しみたいな派手派手しさだ。
肩には金糸銀糸を織り込んだ豪華な女物の単衣を羽織っている。
マント代わりのそれはドンカイ親方のそれに似ているが、あちらは青海波という青い波をデザイン化したものが青色。
ジンカイの単衣も同じ青海波だが、彩色が緑に近い碧色だった。
ウェーブの掛かった緑色の髪に合わせた配色なのだろう。
その髪も旋毛に近いところで結っており、大振りのポニーテールになっていた。それを結う髪留めも注連縄みたいに縒った縄である。
ドンカイ親方の弟弟子――いやさ妹弟子。
一目でそれとわかるファッションだ。意図したに違いない。
「……こんなところで何をしとるんじゃ?」
見目の変わったジンカイを頭から爪先まで眺め終えたホムラは、彼がここにいる理由を尋ねた。ジンカイは屈託ない笑顔で答える。
「君を待ってたんだよ、ホムラくん」
一緒に旅をしよう――大きなお姉さんはそんな提案をしてきた。
へ? と素っ頓狂な声をホムラは出してしまう。
これまで何の接点もないジンカイから予想外のお誘いを振られて、頭の整理が追いつかなかった。いや、ドンカイ親方を通じて縁があると言えばあるし、同じバッドデッドエンズの終焉者というつながりもなくはないが……。
だとしても、ともに旅をする理由が見当たらなかった。
「実を言えば……これは兄弟子からの頼みでね」
当惑しきりのホムラへ、ジンカイは種明かしみたいに切り出した。
「誓約を交わしたのだから監視なんて不要だが……こういう言い方は失礼かも知れないが、君はまだ未成年だ。後進育成に心を砕いてきた兄弟子にしてみれば、年若い君をひとりきりにするのは不安だったんだろう」
「それでアンタを……ジンカイさんをお守り役に就けようと?」
そんなとこだね、とジンカイは実情も明かしていく。
「後は……互いに見張らせたいんだろうね」
「互いに? ジンカイさんがワシ……ワシがジンカイさんを見張る?」
ジンカイは頷いてから自分の考えを説明する。
「そう『小人閑居して不善を為す』なんて戒めもあるからね。いくら誓約があろうとも、一人にさせれば何をやっているかわからない……だけど、他人の目があればそれなりに気が引き締まるものだ。それにこうも言うじゃないか」
――旅は道連れ世は情け。
「ひとりぼっちは寂しいもんな……なんて名言もあるしね」
ジンカイは女性的になった細い指を差し出した。
「お互い恩人に迷惑を掛けた者同士、手を取り合うのも悪くないだろ?」
「……傷を舐め合うつもりはないぞ」
減らず口を叩くホムラだったが、ジンカイの手を取った。
「じゃが、ドンカイ親方にはアシュラの頃から眼を掛けてもらった。その恩義に顔を立ててやらねば、元組長とはいえワシの沽券に関わるからな……」
その申し出――受けようではないか。
まだ尊大さの抜けきらないホムラの態度にジンカイは破顔した。
「偉そうに言っちゃってまあ……今の君はただの少年だ」
穂村組組長という肩書きを取り上げられ、家族や仲間との縁も絶ち切られ、残っているのは大罪の購いとして科せられた誓約と贖罪のみ。
同情と共感の念を込めて、ジンカイはホムラの頭をガシガシと撫でた。
「もっと身の丈に合った振る舞いをするがいいさ」
「ちょ、こら、やめ……やめんか!? ワシを子供扱いするな! 頭ガシガシするな! こんなんでもセットして……痛い痛いッ!? 背中叩くなッ! おい、そのデカ乳でワシをズドンズドン押すのをやめんかぁ!?」
「ハッハッハッ、いいじゃないか少年。役得と思っておきたまえ」
「いや、ワシの趣味は……うぉ、乳に呑まれるぅ!?」
ジンカイに背中を叩かれたホムラは両肩を掴まれると、ジンカイの山盛り乳房に突き飛ばされるように前へと押し出される。
否が応でも進むしかない状況だ。
その小さな背中を守るようにジンカイも歩き出す。
巨女と少年の凸凹コンビは――こうして贖罪の旅へと踏み出した。
「先は長いぞ。ゆっくり行こうじゃないか、なあ少年」
「その前に乳押し付けるのやめ……ドムンって弾んだぞおい!?」
「おや、大きなおっぱいは嫌いかい? サービスのつもりだったんだが……」
「嫌いとかどうとか以前にデカさが暴力の域に達しとるんじゃが!?」
「あっ! もしかして俺が元男だから? TSとかいうジャンルに抵抗ある?」
「腐男子にしてみれは女体化は割と……ってなに言わすんじゃ!?」
「抵抗ないなら良かったよ。俺も生まれ変わった気分でやり直すつもりだからさ」
「順応早すぎやせんか!? あーもう……調子狂うんじゃあッ!」
2人の賑やかな掛け合いは野山にいつまでも木霊した。
~~~~~~~~~~~~
ジンカイとホムラに気取られない圏外の距離。
周囲一帯を見渡せる高い山の開けた場所に、四つの影が気配を消して佇んでいた。誰も何も言わず、黙したまま二人の旅立ちを遠巻きに見届ける。
「……これで宜しかったですかな?」
頭に大銀杏を結った横綱のような影が口を開いた。
「ああ、上出来すぎる……礼を言うぜ親方」
褞袍を羽織る老爺の影が、苦み走った声で感謝を述べる。煙管を一服して紫煙を吐き出すと、息子に秘した想いも吐き出した。
「厳しく躾けると公言して突き放したバカ息子だが、それでも心配の種は尽いちゃくれねえ。せめてお守り役を……と思って相談して正解だぜ」
身内の甘やかしと――他人の親切。
これらは似ているようでまったくの別物だ。
何より依存する度合いが違う。
「ジンカイ君が世話を焼いてくれたとて、それはあくまでも他人行儀……そこを履き違えるほどアイツもバカじゃねえだろ……と思いたいねぇ」
「大丈夫でしょう。彼は変わりましたよ」
超爆乳を支えるように腕を組む大地母神の影が言った。
「いつまでも子供じゃいられない……そんな強い意志を眼に感じました」
「ケッ! どうだかなぁ……本当、世話のかかるバカ息子だ」
褞袍の影は口こそ悪いが感傷的だった。
「行ってきな……そして、立派になって帰ってこい」
嬉しくもあり寂しくもあり、不安は後を絶たないが期待も膨らむ。
いくつもの感情が入り交じる声でホムラを送り出していた。
三つの影の後ろに――もう一つの影が蟠る。
元穂村組若頭にして終焉者 ゲンジロウ・ドゥランテ。
頭は以前のように短く髷を結い、髭は綺麗に剃刀を当てている。
大昔の農民みたいな野良着を着ており、脇には大きな鍬を置いている。これから開墾作業に出掛ける格好にしか見えなかった。
今日中に工作者たちが、この場所へ庵を建てる予定だ。
そこを塒にしてゲンジロウの贖罪生活が始まる。
ホムラたちのように大陸中を旅するのではなく、バンダユウ率いる穂村組の目の届く範囲で土地の開拓をメインに屯田兵みたいなことをする。
決して――末弟を追いかけること罷り成らず。
これがゲンジロウのみに与えられた罰だ。
ホムラの幼さゆえの暴走を窘めず、率先してその暴挙を手助けした。
この罪状に対する追加懲罰である。
農奴めいたゲンジロウは、地面に突っ伏して土下座で額ずく。
ホムラの後ろ姿を拝むように平伏するゲンジロウの噤んだ口は嗚咽を漏らし、閉ざした瞼からは滂沱の涙が滴り落ちていた。
「若! どうか! どうかッ……ご健勝であらせますように!」
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