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第18章 終わる世界と始まる想世
第442話:天空の女神 ヌゥト
しおりを挟むこれは――ロンドも忘れていた記憶の再現。
恐らく、この世に生まれ出でて最初の記憶なのだろう。
よく赤ん坊が「生まれる前のお母さんの胎内にいた頃のことを覚えている」とか「生まれた瞬間のことを覚えている」なんて聞いたことがある。
希に「前世の記憶もある」そうだが、そこまで行くとオカルトだった。
やや眉唾物だが、なさそうでありそうな話である
生後間もない幼児にどこまで外界を認識する能力があるかはわからない。だが、生を受けた瞬間から神経細胞は火花を散らし、脳は活動を始めている。
そして、脳の記憶力はバカにならない。
五感から伝えられる情報はすべて記録するとされている。
ただし、後先考えずに記憶を溜め込めば脳がパンクするのか処理が追いつかなくなるらしい。そこで自分の生存に有利な記憶を最優先で保持し、それ以外の記憶はなるべく無意識の底へ放り込んでいるそうだ。
この世に生を受けた瞬間――五感で得られる外界への認識は始まる。
それは脳が覚醒した瞬間でもあるのだ。
ならば、生まれた時の記憶があっても不思議ではない。
もっとも、思い出せるかどうかは個人差があるのだろうが……。
ロンドの場合、最初に認識したのは声だった。
『よもや我らの代で“終わりで始まりの卵”が顕現しようとはな……』
暗闇の中――怪訝そうに声は言った。
周囲からは取り巻くように複数の気配を感じられる。
どれも高位の魔族や神族だ。
本能的に彼らの存在を感知することができた。これは生来のもので、破壊神として滅ぼすべき獲物に鼻が利いてしまうらしい。
何も見えない闇は、まだ重たい瞼が開こうとしてくれないからだ。
鼓膜を打ち振るわせる声ばかりがいくつも聞こえてきた。
取り留めない会話へ耳を傾ける。
『しかし何故だ? 宇宙卵が現れるのは、真なる世界がそこに生きる民の手で荒廃し、数多の力ある者が絶望とともに死んでいく時のはずだぞ?』
『滅びこそ迫ってはいるが、それは外来者の手によるものだからな』
外来者――ツバサたちは蕃神と呼んでいた。
呼称の違いはあれど中身は変わらない。別次元からの侵略者のことだ。
『一方的に滅ぼされているなど認めたくないが……』
『だが、奴らは真なる世界にとってまったくの異物。この世界を生き物に例えるならば、免疫機能が把握できない別次元の業病に等しい』
『奴らの侵略行為による滅びを宇宙卵は認識できないとか……』
『宇宙卵による“廻世”は、あくまでもこの世界にまつわる一環だからな』
『まつろわぬ外来者の起こす騒動など蚊帳の外なのだろうさ』
『ならば――“終わりで始まりの卵”は出現しないはずではないか?』
ロンドを輪の中心に置いた彼らは議論を交わす。
時に声を上げて荒々しく、時に声を潜めて弱々しく、時に気高く誇らしく、時に不甲斐なく情けなく、悲喜交々に喧々囂々といった様子だった。
仮説、推論、憶測、推察……。
いくら議論を重ねても確定した答えが出ない。
初めて直面する未知のアクシデントに対応しきれないようだ。
そうした会話の内容を――ロンドは理解できた。
生まれ落ちたばかりの幼体だが、世界大蓮を通じて真なる世界の情報をいくらか与えられていたおかげだ。基本的な知識は概ね揃っていた。
だが、満足に活用できない。
未成熟な脳は耳から入ってくる情報を処理できず、ただただ無意識の底へ沈めるように溜めるのが精一杯。当時はよくわからないで聞き流していた。
何か言いたくても声さえ出ない。
発声器官も未熟だったので自己主張すらままならなかった。
ただただ、彼らの話を聞くしかない。
『……こんだけ内ゲバやってりゃ十分じゃねえか?』
渋味のある声が粗雑に言った。
その一言が重かったのか、議論の場に沈黙が訪れる。
『そもそもの話、真なる世界で争いは絶えたことがねえ。競い合うことが生命ある者の宿命だから逃れられねえがな』
『神族や魔族も所詮は動物……動く物に変わりはない』
『座して待つなら石でもできる。生命に突き動かされる者は、その意志を抱えて動く以上、他の者とぶつかる運命にあるからな……』
『生存を懸けての戦からは逃げられねえ、立ち向かうしかねぇからな』
『だから真なる世界では戦乱が絶えたことはない』
『それでも……世界大蓮が咲き、宇宙卵が誕生することはなかった』
『宇宙卵にも許容範囲ってもんがあんだろうな』
『生物としての進化、種族としての進歩、そのために争うのは必然だ』
『よって多少の戦乱は世界にとっての必要悪、あるいは進化や進歩を促すためのストレスとして見過ごしてもらえるのだろう。多少は……な』
『何事も度が過ぎなければ……ということか』
その度が過ぎた――目溢しできる許容範囲を超えたのだ。
結果として誕生したのが破壊神である。
ふと誰かが諦念のため息をついた。
『外来者の襲撃に、真なる世界に生きる全種族は一丸となって戦うようになったのは紛れもない事実……だが、過去の遺恨は拭えぬものだ』
『未曾有の敵が攻めてきたからとて、昨日の敵は今日の友とはすぐさま融和できるわけもなく、共通の敵が現れたところで敵対関係は改善されん』
『むしろ極限状態でこそ爆ぜるものだ』
『土壇場での裏切りは勿論、鉄火場での復讐劇もよく聞く話……』
『外来者そっちのけで内輪揉めを始めるバカ共も後が絶たん』
『啀み合ってきた敵の寝首を掻くには、またとない機会に変わりない。それがたとえ自らの尻に火が点いている状態でもやりかねんな』
『そこを外来者どもにまとめて足下ごと掬われてりゃ意味ねえぜ』
『更なる愚か者も続出している始末だ……』
厳めしい声が鼻息を鳴らすと、由々しき事態を語り出す。
『外来者の力に恐れを成したのか、それともこの世界にない未知の力に魅入られたのか、奴らに与する者、協力する者、軍門に降る者、従属する者……』
そういう輩も増えてきた、と厳めしい声は頭を振る。
『そんな奴らまで出てきたか、世も末だねえ……いやー末世末世』
『末世だからこそ出現の条件を満たしたのかも知れんな』
『……“終わりで始まりの卵”のか? しかし、これはどう見たって……』
出来損ないだろ――それがロンドに下された評定だった。
この評価に誰となく評論も加えていく。
『宇宙卵から生まれるのは、現世を塵ひとつ残さず滅する破壊神にして、来世の礎となる創造神……誕生した時より破壊神としての能力を発揮するはず』
『なのに、この姿はどうしたことだ?』
『まるで赤子……何の変哲もない、人間の子供のようではないか』
『神族や魔族らしさもなく、多種族の特徴もない……地球でようやく実を結んだという我らの因子、人間を彷彿とさせる幼子だな……』
『いや、微かに神族の気配を感じる……一応、破壊神のようだぞ』
『だとしても、この脆弱さはどういうことだ? 生まれたてだとしても、破壊神の血統ならば力強い“気”を感じさせなければおかしいぞ?』
『出来損ないというより……不完全ではないのか?』
誰かが異を唱え、新しい見解を示した。
『外来者による侵略戦争で真なる世界そのものが荒廃とともに疲弊し、混乱の直中にあるのだ……そこに生きる我々もその日の対応に手一杯、末世に乗じて内ゲバをやらかす凡愚もいれば、異次元からの来訪者に取り入る愚昧もいる……』
『かつてないシッチャカメッチャカな世界の終わりだな』
『ああ、前例がないのは間違いない』
『これまでならば“廻世”は、創造神族、破壊神族、世界維持神族の三大神族が主導する元、多くの神族や魔族の協賛によって行われてきたものだが……』
『別次元からの襲撃による末世など前代未聞か』
ゆえに――“終わりで始まりの卵”も困惑してしまった。
出現条件こそ満たしたものの、真なる世界は外来者という未知の脅威にさらされて混乱の極みにある。おまけに外来者は飽くことを知らない簒奪者だ。
真なる世界から活力の強奪を続けている。
生命、自然、資源……根源的な“気”さえもだ。
『未だかつて経験したことのない、別次元からの侵略者という圧倒的な存在……その強襲による壊滅的被害……宇宙卵を産み出そうにも、都合が付かないほど“気”を奪われて……それでも世界の終わりを予感して機構は動き出し……』
『……んで、無理やりひり出したのがこのちっぽけなガキか』
コツン、と誰かがロンドの頭を足蹴にした。
弱き者への気遣いこそあるものの、邪険にした扱いである。
大混乱の末世、足りない“気”、それでも出現条件は満たされた。だから宇宙卵は破壊神にして創造神となる御子を誕生させた。
たとえそれが、“気”不足のために未熟児であろうとも……。
この仮説はひとまず受け入れられたらしい。
『まったく力を持たない人間の子供……にしか見えない破壊神と来たか』
『だが、潜在能力は凄まじいものを感じるぞ。順当に成長すれば、他の追随を許さない無類の破壊神になるのではないかな?』
『然もありなん。宇宙卵は“そう有れかし”と産むはずだからな』
『なるほど、大器晩成というやつか』
『その晩成はいつ来るんだよ? 生まれた時点で人間と大差ねえって……俺たちを殺せる破壊神になるまで何万年かかる寸法だ?』
『御託はいい。それで……この赤子をどうするつもりだ?』
『その相談で俺たちは集められたんだろ?』
『相談を含め、どう対処するかまでの戦力も兼ねているがな』
『この世界の存続を願うならば、破壊神の段階で討ち取る一択のみだ。この世界を終わらせて“廻世”を請うならば、破壊神として暴れさせた後、創造神へと転じて新しい世界を創り出すよう託すしかない』
『ここに集まった面子は、最後の最期まで外来者に抗う覚悟だろ?』
『じゃあ破壊神を討つ一択のみだな……殺すか』
ジャキ、と攻撃的な金属音が響いた。
今にして思えば、刀剣を鞘から抜いた鯉口を切る音だ。
これを皮切りに武器を構える音が鳴り響き、魔法や気功による攻撃準備を整える音も聞こえてきた。目が開けばエフェクトが眩しかっただろう。
殺意を忍ばせた声が金属音に続く。
『ああ、世界はまだ終わらない。私たちの代で終わらせるつもりもない』
『なら始末するか、幸いなことにこの上なく殺しやすい』
『文字通り、赤子の首を捻る容易さだからな……』
『なんだよ、気まずそうだな? おめえ子供持ちだっけか?』
『気まずくもなろうさ……出自はどうあれ、360度どこから見ても産まれたばかりで幼気な赤ん坊だぞ? 大の大人が寄って集って殺すなど……』
『後味も悪そうだな。今夜の晩酌はさぞかし不味かろうて』
すべての武器の切っ先が、輪の中心にいるロンドへと向けられる。
その危機感を幼いロンドは知る由もなかった。
『やめんか――このあかんたれども!』
豪胆な気迫を通わせた一喝が、その場の全員を竦ませた。
懐かしい声。そして、一番よく聞いた声だ。
声の主の迫力に怯んだ周囲の者たちは、張り詰めさせていた殺気を薄めるとともに手にした得物を引き下げる。中には刃物を鞘へ収める者もいた。
『こないチビの坊に外来者も殺せる武器を向けるなんざ……』
正気の沙汰やあらへんぞ! と叱り飛ばしていた。
彼らを退かせる力強い足音がロンドの傍らで立ち止まる。
『宇宙卵から産まれた破壊神とか細かいことはどうでもええがな。見ろや、この無邪気な寝顔……これが世界を滅ぼす怪物に見えるんか?』
『ですが拳聖、この子は紛れもなく“終わりで始まりの卵”から産まれた……』
『じゃかあしい! そんなもん先刻承知やボケェ!』
口を挟んできた者を怒鳴りつけ、関西弁の主は説教をかましていく。
『抵抗する力はおろか立ち上がることすらできん赤ん坊をや、神族魔族の連合軍でも名うての猛者が取り囲んで滅多刺しとか……恥ずかしいと思わんのか!? なにカッコつけてビビッとんのや、こんいちびりどもが!』
あまりの剣幕に誰もが言葉を失ってしまっていた。
実際、何の力もない幼子を殺すという罪悪感もあったのだろう。
それでも追い縋るように問い返す者もいる。
『……それが、いつか真なる世界を滅ぼす破壊神だとしてもか?』
『当たり前やないか、おどれもド阿呆か賢者気取りめ』
冷静な声に指摘されても尚、関西弁の主は主張を曲げなかった。
『大人は子供を守るもんや――違うか?』
蹴出し正論に意見できる者は少なかったようだ。
それ以前に、関西弁の主が有する力に大半の神族や魔族が恐れを成しているのが感じ取れた。反論できるのは極少数の実力者に限られるらしい。
『……とまあ、ここまではオレの個人的意見や』
怒りの口調から一転、関西弁の主は落ち着いた声で説得を始める。
『おまえさんらが警戒するのもわからんではないけどな、こない形で宇宙卵の儀式を終わらせるもんやないやろ? 口伝にもあったやないか』
宇宙卵から誕生する者は――世界から遣わされた審判者である。
『真なる世界が存続すべきか否か? すべて白紙に戻してやり直すか否か? それを判断する審判でもあるちゅう話や。その審判員をやな……』
『世界の現状を見聞きさせずに殺すなど言語道断、と言いたいのか?』
ええがな、と関西弁の主は口癖のように答えた。
『そういうこっちゃ。災いの芽になるかもと蕾のうちに潰すなんざ愚の骨頂やで? もうちょっと待ったってもええやんか。取るに足らん、人間の赤子みたいに弱々しいんやろ? なら、も少し大きくなるまで見守ってもええやないの』
手に負えなくなれば――始末するしかない。
明言こそしないが、関西弁の主は言外にそう述べていた。
何の力も持たない赤子のロンドを庇いつつ、同胞である神族や魔族たちを納得させるための最大限の譲歩だったようだ。
負けた、と言わんばかりに彼の仲間は次々と矛を収めていく。
『神族なのに子沢山なアンタが言うと説得力あるな』
『あの蛙の王様に負けず劣らずなんだろ? 羨ましがられてるよな』
それこそ喧しいわ、と関西弁の主は鼻で笑った。
『そりゃ女房や愛人に産んでもらった子も多いけどな、オレ聖賢師やで? 弟子かて乳飲み子みたいな頃から面倒見てきたんも仰山おるがな』
『それだよノラシンハ――この子を育ててみないか?』
冷静な喋り方で指摘してきた神族が、再び関西弁の主に物申した。
『……なんやと? オレが? この赤ん坊をか?』
『そうだとも。多くの子供や師弟を一流に育ててきた君ならば、僕たちも安心して託せるというものだ。万が一にも後始末してくれるだろうしね』
後始末とは――破壊神を殺すこと。
手に負えないと判断したら即座に抹殺する。
冷静な神族は言葉にこそしないが、暗黙の了解を匂わせてきた。
この提案に関西弁の主も僅かに動揺する。
『だったら言い出しっぺのおどれが育てたらどないやモーヒニー? 男にも女にもなれるおまえさんなら、赤子のために乳を出すくらい朝飯前やろ? 同じヴィシュヌ族の誼や、子育ての権利をくれたってもええで?』
『セクハラはやめてくれ。最近は男の肉体で通しているんだからさ』
言い出しっぺは君だろ? と冷静な神族は譲らない。
『その赤子を殺すという多数決を否決して、暫しの間は成長を見守る……そう言い出したのは他でもない君だ。発言者は責任を持つべきじゃないかな?』
『ぬぅ……男ん時でも女みたいな屁理屈かましよってからに』
『屁理屈に男も女もあるものかね。みんなブーブーたれるもんだよ』
屁だけにね、と冷静な神族は寒いギャグで締めた。
『なあ、そいつ灰色の御子として育てねえか?』
軽く手を叩くような音がして、名案を思い付いたように誰かが言った。
ざわめきが走る中、声を発した者は補足するように続ける。
『不完全の出来損ない、だけど潜在能力はピカイチで大器晩成型……なら真っ当になるよう育てて、外来者と戦える戦力にすりゃあいい』
『その過程でこの子が破壊神の本能に目覚めたらどうする?』
『そん時はそん時さ。拳聖ん許にいればどうとでもなるべ』
当然の心配に発案者はあっけらかんと回答した。
『不確定要素はあるけれど……うん、悪くないアイデアだね』
この名案に冷静な神族の声も賛同する。
『いつか本性に目覚めて世界を滅ぼそうと動き出したら拳聖が止めればいい。あるいは真なる世界がどうしょうもないくらい外来者に壊された場合、すべてをリスタートさせる“廻世”のための切り札としても期待できる』
どちらにせよ――今すぐ始末するには惜しい。
活かしておけば有効活用の目も見える、ということになった。
『単純に外来者との戦力にも成り得るか……』
『うむ、破壊神の連中は戦績がいい。なにせ破壊活動に長けているからな』
次から次へと賛同の声が上がった。
『而してノラシンハよ……育ての親はやはり汝が務めるべきだ』
厳めしい声の神族が予言めいた論調で告げる。
『なんや、先見のアガスティア。またぞろ神託でも届いたんか?』
関西弁の主は揶揄うように問い返した。
『余所んとこの神族や魔族と垣根を越えて、予言者同盟みたいなもん立ち上げよってからに……最近、灰色の御子どもに「地球へ渡れ」とか唆してんのもおんどれやそうやないか。予言も大概にせんと詐欺師呼ばわりされるで?』
悪態めいた忠告をぶつける関西弁の主。
しかし、厳めしい声の神族はびくともしなかった。
『それは荒行の末に“三世を見通す眼”を獲得した汝もだろう。なればこそ、この場に集いし戦士たちの反意を買おうともその幼子を庇った……』
違うか? と厳めしい声の神族は問い詰める。
これに関西弁の主は「へっ!」と笑うように吐き捨てるだけだった。
斯くして――幼き日のロンドは命拾いした。
養育に関しては、話の展開から関西弁の主が押し付けられていた。
破壊神を擁護したという事実もあるが、「5人育てるも10人育てるのも一緒や」と子供や弟子が多いことを公言していたのも手伝ったようだ。
『否応もない流れよの……仕方あらへんか』
はあーやれやれどっこいしょ、とこれ見よがしなため息をついた関西弁の主は、しゃがみ込みながら柔らかい布を取り出す音をさせていた。
産着代わりの布で包んだ幼子を抱き上げる。
抱かれた拍子で、ロンドは初めて瞼を開くことができた。
初めて見たのは――漢の顔だ。
右も左もわからない自分を、慈しんだ眼差しで見つめる笑顔。
『お互い、難儀な星の下に生まれたもんやな……坊』
まだ顔に皺もなく、頭髪も髭も黒黒として精悍な面立ち。体躯も拳聖に相応しく精力に満ちあふれていた頃のノラシンハ・マハーバリ。
ロンドが初めて眼を開けた時に見たのは、育ててくれた父親の顔だった。
思い返せば、刷り込みみたいなものだったのかも知れない。
卵から孵った雛が最初に見たものを親と慕う現象。
それに近いことが起こり、ロンドはノラシンハを父親と認めたのだろう。
あの日から、ロンドはノラシンハの息子として育てられた。
シェーシャ・マハーバリという名前で……。
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気を失っていたのは数秒か? それとも数分は経過したのか?
意識を取り戻せたので命拾いはしたらしい。
気絶しても破壊神の肉体は動いており、無意識のまま過大能力を働かせることで、致命傷を負わされた全身の修復作業をひたすら繰り返していた。
気怠さMAXだが、徐々に肉体へ血が通ってくる。
痺れた手足が動かせるようになるまで、しばらく時間が掛かりそうだ。
ロンドはどこかの壁に大の字で磔にされていた。そんな壁どこにあったよと訝しむものの、よくよく考えてみればそこら中に転がっていた。
世界大蓮――その残骸。
生気を失って煤けた大理石のように成り果てた、瓦礫群である。
蓮の花弁を模した破片があちこちにそそり立っていた。
その中でも最大級の花弁は岩山のように聳え立ち、ロンドはその中腹へと叩き込まれていた。崩れかけた残骸はロンドを中心にしてクレーター状にへこんでおり、四方八方へと走る亀裂がゆっくり広がっいる。
拳聖ノラシンハの奥義――人獅子絶殺打。
ただでさえ一撃必殺にして一撃全殺を成し得る必殺技。
必ず殺す技と書くタイプの必殺技だ。
無限大に匹敵する生命を持つ破壊神を殺し尽くすため、更なる力を注ぎ込むことで限界突破の強化を施した、乾坤一擲の一撃を叩き込まれた。
我ながら生きていることが不思議な威力である。
破壊神をしてお墨付きを与えたくなる、素晴らしい破壊力だった。
どれほど肉体が打ち破られたかわからない。
どれだけ身体が叩きのめされたか見当もつかない。
どれくらい五体を打ち据えられたか知りようもない。
だが、最後にロンドが殴られたであろう場所から、このクレーター状にめり込んでいる花弁の瓦礫まで、夥しい量の血溜まりが荒野を染めていた。
ドロリと溶融した肉片も混じる、粘り着いた血飛沫。
人間どころか神族や魔族であろうと失血死する出血量だ。
怪物で代替品となる血肉を補充できるロンドだからこそ、辛うじて息の根を留めているに過ぎない。油断していればとっくの昔に御陀仏だった。
あの時ならば――確実に死んでいる。
宇宙卵から生まれた直後、駆けつけた神族魔族の連合軍。
あの時ならば――絶対に殺されていた。
廻世の破壊神に用はないと、外来者をも仕留める武具を突きつけられた。
親父が庇ってくれなければ、ロンドはあの時に死んでいた。
だが、あの時は疾うの昔に過ぎ去った。
困惑の時代に生み落とされた、期待外れの未熟な破壊神は過去のものだ。
ここにいるのは――“輪廻の時はもう来ない”。
真なる世界に終止符を打つべく再臨した、真なる破壊神である。
「まだ……くたばらんのか!」
懐かしい怒鳴り声にロンドは顔を上げた。
千切れかけていた首がようやく繋がったので動かしてみると、血に濡れた視線の先には、紅白で彩られた闘気をまとう獅子顔の巨人が浮かんでいた。
――人獅子大帝。
拳聖と謳われたノラシンハが本領発揮した姿だ。
親子として長い付き合いがあったので、父親の能力はほとんど把握していたつもりだが、これほど強力な変身ができるとは初耳である。
『こいつを拝ませた輩は――みんな殺しとるからな』
そんな物騒極まりないもの、この親父が息子へ拝ませるわけがない。
知らなくて道理、教えられる際は勘当どころではない。
不出来なバカ息子として殺される瞬間だろう。
――今がまさにその時だった。
父親からの小言みたいな怒号が鳴り止まない。
「一撃全殺……いったい何万発叩っ込んだと思っとるんや! いくら無限の生命を生み出せる能力いうたかて、おんどれという存在は個に過ぎん! なんぼ破壊神いうたかてスタミナとか生命力とか気力……」
限界あるやろ普通!? とノラシンハは憤慨した。
そこには若干の驚きも含まれている。
花弁の瓦礫へ大の字にめり込んでいたロンドは、動かせるようになった首を身動ぎさせて、埋もれていた頭を前へと伸ばす。
「いやぁ……さしものオレも限界来てるぜ? さすがだよ、親父……」
かつて尊敬した最強の拳聖、その面目躍如といったところだ。
ノラシンハに顔を見せるように薄笑いを浮かべた。
頭はたんこぶだらけ、瞼はボールのように腫れ、笑う口元の歯は抜けている。眼球や視神経もやられたのか、視界がぼやけて仕方ない。
――フルボッコされたみっともない顔。
過大能力による再生も修復も追いつかない証拠だ。
胴体や手足が原型を留めているのも奇跡だった。瓦礫にめり込んで壁画みたいにされた五体は、全身複雑骨折で代替品と入れ替えている最中である。
首と頭以外、まったく回復する兆がない。
この状態で一撃全殺を食らえば――間違いなく死ぬ。
破壊神に終わりの幕が下りることだろう。
しかし、ノラシンハはいつまで経ってもトドメを刺してこなかった。
「……親父、泣いているのか?」
視力が戻ってきたロンドは見たままを告げた。
人間に獅子の要素を上乗せしたように変貌した顔立ち。
人と獣の中間にある顔は、鬼をも噛み殺す憤怒を表している。寄せた眉根は深い谷を刻み、反比例して釣り上がる眉尻は天を突き上げるかの如くだった。
歯噛みする口元は耳まで届きかねないほど左右に開いている。
そんな鬼の如き獅子の形相のまま――泣いていた。
「泣いたらアカンのか……こちとら、辛うて叶わへんのや……」
本当ならば号泣したいのだろう。
だが涙腺を締めているのか、細めた両眼からポタポタと滴がこぼれるくらいの涙で留めている。制限解除すれば滂沱の勢いとなるはずだ。
涙を拭えば視界を遮るため、戦闘中ならば隙となりかねない。
だから拳聖は涙に手を添えようとはしなかった。
しゃくり上げる呼吸で堪えながら胸の内を吐露してくる。
「バカで阿呆であかんたれで……どうしょうもない悪たれのバカ息子だろうと、愛した息子なんやぞ……その息子をや、なして何度も殴り殺させるんや……せめて、苦しまず一発であの世へ送りたいっちゅうんに……ッッッ!」
この拳で――どんだけ殺せばいいんや!?
悲痛な叫びを迸らせるも、拳聖がその五指をほどくことはない。
固く握り締められた拳骨を引き絞り、今度こそ殺し切る覚悟で力を溜めようとしていた。拳が塗れるほど涙の量が増えても怯むことはなかった。
ロンドの唇は自然と綻んでしまう。
「嗚呼……アンタは本当に……いい父親だなぁ……」
息子からの掛け値ない賞賛だった。
損得なしに言わせてもらえば、ロンドは父親が大好きなのだ。
ファザコンとまではいかないが、大いにリスペクトさせてもらっていた。それくらい尊敬の念を抱いてきた、愛すべき親父である。
――たとえ血が繋がらずとも。
世の育児放棄や児童虐待で悦に入っているクソ親どもには、ノラシンハの爪の垢を煎じて凝縮した特製サプリを強制的に飲ませてやりたいものだ。いやいや、いっそ点滴のように長期的に無理やり投与してやりたい。
この人は最高の父親だ――育てられたロンドは自慢することができた。
本来ならば、いつ消されてもおかしくない問題児。
「だってのに……アンタは、オレを助け、庇い……育ててくれた……」
一人前の神になれるよう真心を込めて――。
「こんな状況でも……『どうして父親の言った通りの神生を歩まなかった!』とは怒らずに……オレのやらかしたことだけを叱りつけてくる……」
子供の自主性を尊重してくれている証拠だ。
もしかすると、心の片隅ではわかっていたのかも知れない。
いずれロンドは破壊神の本分に目覚める。
その時こそ、宇宙卵から誕生した者として真なる世界を滅ぼすだろう。
それを承知の上でロンドを引き受けてくれたのだ。
「あの時……同胞どもと一緒にオレを殺してりゃ……こんな手間も掛からなかったのに……アンタは、こうなるのも込みでオレを拾ってくれたんだ……」
拳聖にして“三世を見渡す眼”を宿す予言者。
この顛末を読めなかったわけがない。
いくつもの未来を見通した上で、こうなる未来も予測できたはずだ。それを推して尚、歯向かう力もない幼児に手を差し伸べてくれた。
「……本当、頭が下がるぜ」
ガクン、とロンドは伸ばしていた頭を項垂れさせた。
出自からして世界の趨勢に関わり、野放しにすれば世界を壊すことしか考えないような史上最悪の悪ガキを、ここまで立派に育て上げてくれた。
圧倒的な感謝の念を抱くよりない。
ロンドはノラシンハという父親を心の底から尊敬していた。
そして、家族として愛していた。
「だがな親父よ……父子と破壊神とは、話が別だぜ……わかるだろ?」
さっさと殺せ――ロンドは命令口調で吐き捨てた。
「それがオレを育てる条件だろ? 手に負えなくなったら……破壊神の性に目覚めたら殺す……お仲間にもそう約束してたじゃねえか……」
「……ッ!? お、覚えとったんか!」
生後間もなく記憶への言及だとノラシンハも察したらしい。
「忘れてたよ……今、思い出しただけさ」
綻んでいた口元を釣り上げ、悪役らしく厭味に歪めていく。
次の一撃をもらえば破壊神とて一溜まりもない。
ここまでロンドを追い詰めたノラシンハにも手応えはあったはずだ。いざトドメを刺す段になり、息子への愛情とともに仏心が騒いだに違いない。
本当――詰めが甘い男だ。
敬愛する父親ながらも、この一点は反面教師にせざるを得ない。
おかげで時間稼ぎができた。
ついでに思い掛けない副産物まで貰ってしまった。
「オレが“終わりで始まりの卵”から産まれた破壊神で……そのことに気付かないように、覚醒しないように、封印するように……一柱の破壊神として育ててくれたことには礼をいうぜ……本当、アンタは最高の父親だよ」
おかげで――神生を堪能することができた。
ついでに地球で人生も楽しめたのだから二倍お得といった感じだ。
「最高の父親のままでありたいなら……破壊神を殺せ」
「シェ、シェーシャ……ッ!」
自らを殺せと催促する息子に、父親は名前を呼ぶ以上のことができない。流れる涙は止め処なく増え、震える肉体は痙攣しているかのようだ。
「そうだ、愛した息子のまま殺せ……さもないと」
ロンドを磔にする世界大蓮の残骸。
ノラシンハの豪拳で叩き込まれたことでクレーターの中心に埋め込まれているが、ロンドを中心にして放射状に亀裂が走っている。
ビシバシと耳障りな音を立て、亀裂は蜘蛛の巣状に拡大していく。
そして、亀裂から強烈な気配が這い上がってきた。
「本気で……手に負えなくなるぜ?」
ロンドは修復が進んできた両手を握り締める。
力めば残骸が弾け飛び、クレーターからの亀裂が広がった。
その奥から――強烈な気配が現れる。
目に見えるほど濃厚な“気”を帯びるそれは、粘り気のある泥がこぼれるように亀裂から這い出てきた。一見すると真っ黒にしか見えないのだが、自ずと発光しており未知のスペクトルを発している。
名状しがたい光沢をまとう黒い泥――そんな雰囲気だ。
「なんや、それ……その、極悪な“気”できた油みたいなんは……?」
ノラシンハは危機感とともに瞠目する。
気配の強さも然る事ながら、そこに宿る猛威に気付いたようだ。
凄まじい悪の想念が滾っている。
世界の最底辺、地の底の更に奥底にまで追い遣られた最下層。そこを這いつくばる邪悪、悪意、怨念、妄執、悔恨、羨望……あらゆる負の想念を取り逃すことなく掻き集め、ドロドロに濃縮するまで煮詰めたものだ。
無念と未練、嘆きや怒りを晴らせぬまま死んだ者たちの妄念。
負け犬どもの喚き――その具現である。
見掛けだけならば、原初の混沌を思い出させる泥だ。ただし、この泥に含まれるのは徹底的な悪の想念に限られていた。
どいつもこいつも世界を滅ぼすという渇望に餓えている。
――最悪にして絶死をもたらす終焉。
彼らのようにこの世への恨み辛みを拗らせた残留思念の凝縮体だ。
かつて破壊神を孕む“終わりで始まりの卵”を呼び起こした要因であり、此度も新たな宇宙卵を創ろうとした原因でもある。
この混沌にはバッドデッドエンズの無念も混在していた。
あいつらが贄となることで混沌の泥を活性化させたのだ。悪党らしく悪し様に言わせてもらえば、投下された燃料である。
そして――悪意の粋たる混沌こそが破壊神の力の源となるのだ。
泥は亀裂から染み出すばかりではない。
先ほどノラシンハから立て続けに食らった一撃全殺の拳。
その連撃のせいで辺り一面に撒き散らした血飛沫。ミンチにされた肉片が混ざった血溜まりもボコボコと泡立ちながら沸き立つ。
ロンドの血を媒介にして混沌の泥が湧き上がってくる。
それは荒野におどろおどろしい重油が噴くような光景だった。
見渡す限りの大地が名状しがたい泥の海へ沈む。
混沌の泥は発していた強烈な気配を少しずつ変化する。更なる主張を叫ぶように力を増しつつ、本体と呼応するかの如く“気”を変質させていた。
やがてそれは――破壊神の“気”となる。
「礼を言うぜ……親父」
ロンドはノラシンハに礼を述べた。
皮肉ではない、本心からの感謝の意である。
混沌の泥に覆われたロンドの肉体は瞬時に回復、以前よりも強靱さを増して再生を果たす。のみならず、防御壁となるべく立ち塞がろうとしていた。
「久し振りに親父の拳で殴られて、目が覚めた気分だ……」
本当の自分は何者か? それを知ることで原点に立ち戻れた。
初心に返るどころではない。起源に辿り着けたのだ。
「アンタはオレをただの破壊神として育てようとした……だが、本当は違った……真実のオレは“終わりで始まりの卵”から産まれたもの……」
それを思い出した瞬間――覚醒できた。
混沌の泥は、覚醒することで取り戻した力の一端である。
世界を呪う敗残者たちの悪意。
気が遠くなるような幾星霜の時を経て、延々と最下層へ積み重ねられてきたそれは、無尽蔵といっても過言ではない莫大なエネルギーだった。
ただし、ぶっちりぎでネガティブなパワーだ。
この悪意こそが世界を滅ぼす破壊神の原料となり、不死身に等しい肉体や無敵の過大能力を織り成す構成要素にして、無窮のパワーを与えてくれる。
一握りの勝者に対して――圧倒的多数の敗者。
おかげで底知れぬ悪意は尽きず、余すところなく破壊神へ還元される。
有象無象の想念すべてが絶大な力へと変換されていく。
宇宙卵から生を受けた破壊神――絶対者を奮い立たせる力の根源となるのだ。
『――オレは単独でも真なる世界を滅ぼせる』
ロンドは常々、自信たっぷりにこう豪語していた。
その自信を裏打ちした力がこの混沌である。
ノラシンハの育成という封印のおかげで忘れていたが、無意識下では密かに呼応や同調しており、ロンドに力を供給していたのだ。
記憶を取り出した今、呼応も同調も供給もこれまでの比ではない。
破壊神の全能力を惜しみなく解放できる。
「親父の拳で叩き起こされた気分だし……親父がオレを息子として育てることで封じてきた、本物のオレを思い出せた……正直、目が覚めた気分だぜ……いや、解き放たれたんだな……そして、封印はもう解けちまった」
世界に見捨てられたと盲信する、無様で哀れな敗北者どもの無念。
見境ない復讐心に世界を憎ませることで破壊神の力とする。世界の最底辺に沈む悪意すべてを我が物とし、そこから無限大のパワーを用立てることができた。
「さあ、手始めだ! まずはこの世界をブッ壊そうか!」
世界を掌握するのも容易い壮絶なエネルギーがロンドの内外に渦巻いている。
これが意のままとなれば成し遂げられないことはない。
――世界廃滅など朝飯前。
世界の輪廻である“廻世”を途絶えさせるのも夢ではなかった。
「な、なにをするつもりやおんどれ……ッッッ!?」
ノラシンハのギョロ目が忙しなく動いた。
拳聖としての勘が「これだけではない」と訴えているのだろう。
恐らく“三世を見渡す眼”で状況を確認しているのだ。
「……此処だけやあらへんやと!?」
「そうさ! 中央大陸の至るところが破壊神の射程圏内だ!」
破壊神の呼び声に応じて混沌の泥が戦慄いた。
ロンドとノラシンハが今世紀最大の親子喧嘩を繰り広げている此処、中央大陸の北部は既に地平線の彼方まで混沌の泥に覆われていた。あちらこちらで山よりも高く盛り上がった泥が、大洪水よろしく地表を押し流していた。
違う――貪っているのだ。
糧にするのではなく、滅亡へ導くための破壊に過ぎない。
混沌の泥は攻撃的なスライム、あるいは俊敏性の高い粘菌のように躍動感のある動きで波打ち、真なる世界の何もかもを滅ぼそうとしていた。
そして、混沌の泥が暴れているのは此処だけではない。
ツバサの治める領地――ハトホル太母国。
ミサキの統べる領土――イシュタル女王国。
アハウの仕切る国土――ククルカン森王国。
還らずの都も例外ではない。
クロウがまとめる都――タイザン府君国。
ジェイクが制する国――ルーグ・ルー輝神国。
これらの国々でも大地がひび割れ、地の奥底から這い上がってきた混沌の泥が広がっており、国家と民衆を根絶やしにするべく侵略を開始していた。
しかし、あくまでも周辺地域のみ。
防御結界を破り、内側から国を滅ぼすまでには至らない。
それでも最前線で戦うLV999の戦士たちも悪戦苦闘中だ。
斬っても叩いても燃やしても吹き飛ばしても効果は薄く、いくらでも地の底から湧いてきて、大海嘯のように押し寄せてくる。
神や魔王でもおいそれと食い止められる代物ではない。
国を守る最終防衛ライン――防御結界も長くは保たないだろう。
勿論、それ以外の土地も絶賛蹂躙中である。
隠れ里に潜む多種族たちも巣穴を突いて皆殺し、姿を現す機会を窺っている神族や魔族どもも秘密のアジトから引きずり出して血祭りに上げていく。
世界中で滅びによる侵攻が始まっていた。
「目覚めよ虐げられし神々たち! 復活しろ敗残者ども!」
破壊神の呼び掛けに混沌の泥は発憤する。
見たこともないスペクトル光を撒き散らしながら凝固すると、混沌から数え切れないほど巨獣や巨大獣まで創り出す。
破壊神の眷族たる彼らも真なる世界を踏み躙っていく。
この進捗ペースならば、中央大陸を消すのに半日も掛かるまい。
ロンドは両手を広げて混沌の泥を迎え入れる。
「さあ、破壊神の招集に応じやがれ! 馳せ参じよ! 起ち上がれ! おまえらがこの世界を大っ嫌いなのはわかってる! もう遠慮は入らねぇ!」
片っ端からぶっ壊せ――塵ひとつ残さずな!
溢れかえる混沌が、際限なく巨獣と巨大獣を解き放つ。
混沌は時に蠢く山脈となって海や湖をそこにいる生命もろとも飲み干し、あるいは大津波となって万物を洗い流すように滅ぼしていく。
破壊神――“輪廻の時はもう来ない”。
覚醒の時を迎えた宇宙卵の申し子は、使命を全うせんと動き出す。
「…………こらアカン!」
突然の緊急事態に呆け気味だったノラシンハははっと我に返るや否や、宙を蹴って砲弾のように飛び出し、ロンドへ距離を詰めてくる。
広げた左腕を突き出して照準に、引き絞った右腕へ力を溜め込む。
人獅子絶殺打による渾身の一撃を放つつもりだ。
「オレが本気になったら、阿呆坊も本気になりよるとはなッ! いや、勝負ちゅうもんはそういうもんか……真剣勝負なら殊更やないか!」
もう手加減などしない。仏心は握り潰す。
握り締めた拳骨から紅白の闘気と蒸気を渦巻かせて老兵は誓う。
「今度こそトドメ刺したるわ! こん馬鹿息子がぁッ!」
「ハアッハアーーーッ! 殺れるもんなら殺ってみやがれ馬鹿親父ぃ!」
挑発的な高笑いを上げたロンドが采配するように手を振れば、混沌の泥が空へ向けて伸び上がり、天を突くほどの大巨人へと変わっていく。
筋骨隆々にして厚い鱗で鎧われた竜巨人。
ロンドを守るべく、怒号を上げてノラシンハへ襲いかかる。
「去ねやウドの大木ッ!」
拳聖は馬鹿息子への鉄拳制裁のために溜め込んでいた、トドメの一発用の豪拳を迷うことなく竜巨人へ叩きつけた。勿体ないとは微塵も思うまい。
人獅子絶殺打は、一撃必殺にして一撃全殺。
打ち込んだ拳の先に立つ者は、のべつ幕なしに鏖殺する。
竜巨人ごとロンドへ引導を渡すつもりなのだ。
せめてもの救いは竜巨人の図体がデカいので視界を遮っているため、ロンドを殴り殺す瞬間を目の当たりにしないで済むことだろう。
「往生……せぇいやぁぁぁぁぁーーーッッッ!」
ノラシンハの豪拳が竜巨人を木っ端微塵に粉砕する。
大爆発が巻き起こり、砕け散る竜巨人の骸が粉塵となって舞った。
こうなると煙幕と変わらない。
視野が悪くなるとノラシンハは微動だにしなくなった。
正しくは動けないのだ。突き出した拳はそこから先に進むことはなく、何者かの掌によって妨げられている感触に戸惑っているようだ。
「惜しかったな、もうちょいだったんだぜ?」
粉塵の晴れた向こう側、豪拳を片手で阻んでいたのはロンドだった。
「シェーシャ……おんどれは……ッ!」
ノラシンハは悔しげに呻くが、指先さえピクリとも動かない。
豪拳を押し込むことさえままならないのだろう。
全長5m近い人獅子と化した巨体。その肉体からは絶えず赤い闘気と白い蒸気を吹いているが、あからさまに赤い闘気が減っていた。
一方で白い蒸気の噴出量は跳ね上がっている。
すると、徐々にだが人獅子の身体が萎んできていた。
人獅子大帝の変身が解除されつつあるのだ。
「力量に衰えはねぇし、技量も錆びつくどころか研ぎ澄まされてやがる」
空気が抜けて縮むように元の老人へと戻るノラシンハを見据えながら、ロンドはほんの少しの哀れみを添えた同情を寄せる。
「――だが寄る年波には堪えるだろ?」
息子からの追求にノラシンハは怒り顔のまま苦笑した。
「そうやなぁ……言いたかあらへんけど、年齢は取りたくないもんやな」
大量の蒸気を噴いて見る見るうちにノラシンハは縮む。
豪拳は枯れ果てた老人の拳に戻り、5m越えの体躯も痩せ細った痩身へと立ち返る。大木や鉄柱に例えられた豪腕も剛脚も痩せ衰えた。
年月の流れとは残酷なものだ。
いくら不老不死の神族とはいえども、一万年以上も生き存えた肉体は老化が進行しており、高出力の持久力に耐えられるものではない。
神であれ魔であれ、時間によって年齢を数えることに抗えなかった。
「ケジメを……つけたかったんやけどな……」
無理が祟ったのか、ノラシンハの顔面は蒼白である。
「ロンドをこない風に育てたんは……全部、オレの……責任や……」
血の気が失せた表情で、ゼェゼェと聞いてる方が不安になる呼吸を短い間隔で繰り返しながらも、言いたいことを吐き出していた。
「これはモーヒニーやアガスティア……仲間たちへの義理立てやない……」
ノラシンハは涙をこぼす。
流す涙すらも先刻の勢いはなく弱々しく一雫の涙だった。
「親として……おまえの行いに責任を……取りたかった……愛した息子が、おっかないことに手を染める前に……止めたかった……ただ、それだけなんや」
もう言葉を紡ぐことさえ辛いようだ。
ゼェゼェゼェ、と嗄れた喉を鳴らしてノラシンハは俯いてしまう。
「そりゃあ親のワガママってもんだぜ」
ロンドは既に子供ではない。妻子を持つ立派な大人だ。
一人の大人として父親に意見させてもらう。
「親はな、子供を大切に育てることへの義務がある。だが、育てた子供が何処で何をしようともだ、その行いに責任を負うことはねぇんだよ」
子供の不始末は当人だけのもの、親が果たすのはお門違いである。
「息子の罪はオレのもの、破壊神の業はオレのものだ」
――父親が負う義務はこれっぽっちもない。
「それを主張するのは親のエゴってもんだぜ」
ニヒルな笑みを浮かべるロンドに、元の長身痩躯な老人へと戻ってしまったノラシンハは、よく似た微笑みで返しながら両眼を閉ざした。
「罪も業もオレのもの、取り上げられちゃ困る」
「フン……やれやれ、どしてこない弁が立つようになったんやろな」
「そりゃあおめえ、父親に似たんだろうよ」
カカカッ! と両者は音調までそっくりな笑い声で喉を鳴らした。
「老いぼれでも気張ればまだまだイケる! と踏ん張ってみたものの……ホンマ、年寄りの冷や水で終わってもうたなぁ……」
既に蒸気の噴出は収まっている。あれほどの闘気まで見る影もない。
汗に塗れたノラシンハの細い身体がグラリと傾いだ。
「やっぱ年寄りが幅利かすのはのはアカンな……そんなん老害やん……」
――未来のことは若い者に託すわ。
遺言代わりに言い残して、かつて拳聖だった老人は落ちていった。
飛行系技能で落下制御することすらままならず、頭から落ちていく自由落下。ロンドは手を差し伸べることもなく、無言のまま見届ける。
この場に誰もいなくて良かった。
破壊神のこんな顔――他人様に見せられるわけがない。
「……未来は若者に任せる、か」
ノラシンハの示唆する若者には見当が付いていた。
落ちた父親から目を背けるみたいに、ロンドは地平線の彼方へと振り返る。そちらの方角は元いた場所、還らずの都がある大陸の中央付近だ。
地平線の際で混沌の泥がざわめいている。
まるで無意識の縁で踊り狂うという“対象a”そのものだった。
その彼方から何かがこちらへと近付いてくる。
近付くなんて表現では生易しい。まさしく急接近だった。
道中で襲いかかるであろう巨獣も巨大獣も歯牙に掛けず、いくら吹き飛ばしても切りがない混沌の泥をも物ともせず、一心不乱にこちらへ向かっている。
「――来てるな」
接近を感じるもロンドは身構えず、泰然自若の態度で待ち構えた。
名状しがたい光沢を帯びる暗黒の泥。
世界を覆い尽くすほど拡大した混沌の泥を蹴散らす者がいる。
それは黄金の軌跡を描いて、混沌の泥を湧かして沸かす中心に佇む破壊神を目掛けて突き進んでいた。その軌道は1㎜たりともブレない。
混沌の泥はその行く手を阻んでいる。
だが、まったくの無力だった。
LV999の強力な神族であろうと、一度でも足を取られれば底無し沼へハマるが如く絡め取られるはずなのに、黄金の軌跡を描く者は鬱陶しい靄でも振り払うくらいの些末な労力で、立ち塞がる混沌の泥を突き破っていた。
黄金の軌跡が走ったところから混沌の泥も失せる。
軌跡からキラキラと煌めく黄金の羽毛めいた粒子が舞い上がり、それが混沌の泥を啄むように消し去っているのだ。
「巨獣も、巨大獣も、奥の手な混沌にもビビらねえか……」
そうだよな――兄ちゃんなら!
破壊神の周辺には濃密にして濃厚な混沌の泥が蟠る。
この世で最も危険な領域にもかかわらず、黄金の軌跡を描く者は混沌の泥を触れただけで蒸発させながら、とうとうロンドの前に姿を現した。
他でもない――大地母神ツバサ・ハトホルだ。
「雄雄雄々男男男々々王王王殴殴殴々雄雄雄嗚嗚嗚嗚々々ーーーッッッ!」
女神とは信じたくない猛々しさだ。
過度なくらい女性性を突き詰めた美貌なのに、悪鬼羅刹を叩っ斬る明王に勝るとも劣らない形相で、魔獣の帝王をも平伏させる咆哮を轟かせていた。
宙を駆けるしなやかさは女豹のそれだ。
ただし、そのスピードは第二宇宙速度に達していた。
(※地球の重力を振り切るのに必要な初速度。秒速11.2㎞)
我武者羅に飛んでいるものだから色々スゴい。
頭より大きく実った超爆乳は、空気抵抗なのか高速移動の反動なのかバルンバルンとダイナミックにバウンドしている。揚力の作用なのだろうけどロングジャケットは身体にピッタリ張り付き、超安産型の尻を際立たせている。
噎せ返るほど長い黒髪はすべて後方へと棚引いていた。
「来たなぁ……ちちしりふともも兄ちゃん!」
いけないいけない、思わず口から本音が飛び出てしまった。
いつものツバサなら「誰が乳も尻も太もももごんぶとの姉ちゃんだ!」と聞き間違えてツッコんでくれそうだが、今日はその余裕もないらしい。
まだ男らしい雄叫びを鳴り響かせている。
そんなツバサが引き従えているのは――金翅鳥の大群。
悪を啄んで勢力を増やしていく魔法生物だ。
ツバサの移動する後に黄金の軌跡を描き、混沌の泥を打ち消す羽毛のように見えたもの。その正体はあの金ピカ鳥だったらしい。
混沌の泥さえ悪と断じて滅ぼす力があるようだ。
金翅鳥の率いるツバサは、脇目も振らずロンドへ突っ込んでくる。
右の拳を固く握り締めて殴りかかる体勢だ。
右腕を取り巻くように黄金に翼がいくつも生えている。いや、よく見たらこちらに掴みかかろうとしている左腕も黄金の翼に埋もれていた。
恐らく、金翅鳥を腕に仕込んでいるのだろう
「なんか小細工してるみたいだが……無駄無駄無駄無駄無駄ぁ!」
間近にまで迫る金色の拳を振り翳すツバサ。
ロンドは逃げも隠れもせず、真正面から迎え撃つ。
「バリバリ最強№1! な破壊神になったオレに敵う奴なんざいねえ!」
ほんの少し前なら多少なりとも警戒心を働かせたかも知れないが、本当の破壊神として覚醒したロンドに恐れる者はない。
宇宙卵の使命を思い出し、世界中の悪念を自身の力へと変換する。
真なる破壊神だと自覚したロンドに敵はない。
全世界の悪意――混沌の泥。
その中枢とも言えるロンド本体の肉体強度も跳ね上がり、段違いの頑健さを誇るまでに強化されていた。金翅鳥の啄みに逃げ惑うのも終わりだ。
両腕を広げてツバサを抱き留めるべく熱烈歓迎する。
「来いよ兄ちゃん! なるたけ乳を押し当てるように飛び込んで…………ッ!?」
真っ向勝負を挑んだことをロンドは後悔する。
ツバサの拳で殴られた瞬間、上半身を消し飛ばされてしまった。
ダンディな顔がへちゃむくれになる程度のパンチ。それを鼻っ柱にもらってしまったと自覚した時には、上半身が臍の下くらいまで消滅していた。
体内で小規模の恒星爆発が起きたような威力だ。
普通ならこれで終了である。
しかし、これでも破壊神の端くれ。いやさ頂点の最先端。
下半身だけになろうとも滅びはしない。
『覚醒して調子に乗ったら御覧の有様だよ!』
自虐のセリフが口を突いて出そうになったが、あいにく上半身を失ってしまったので声帯を使えない。お尻の穴からおならを使って言語化できないかと試すつもりだったが、その下半身もすぐに上半身の後を追わされそうだった。
「悪いが聞く耳は持たないぞ」
金色に瞬く右のストレートを放ったツバサは、右拳を引き戻すとともに反動させるように左拳をフック気味にロンドの下半身へ打ち込んでくる。
「この瞬間を……火を飲む思いで待ってたんだからな!」
極悪親父を叩きのめす時を! とツバサは覇気を漲らせて凄む。
繰り出される左フックは反則な金的狙い。お茶会に無理やり付き合わせた腹いせか、フックなのにストレートな仕返しを叩き込んできた。
『ちょ……自分にゃもうないからって金玉責めとかえげつなくない!?』
「誰がタマ無し野郎だテメエッ!?」
抗議したくても喋れないのに、ツバサはこちらの動揺する下半身の些細な動きから思考を読み取り、的確なツッコミを入れてくる。
睾丸が体内へ上がる痛みを感じる暇もなく下半身まで消失した。
防御したのが失敗だった。
反射的に右脚を持ち上げてツバサの左拳をガードしたら、内側から弾け飛ぶような衝撃を感じる間もなく下半身が消えていた。
やっぱり身体の内側から爆ぜるような爆発力を感じる。
残ったのは高級そうな革靴を履いた足の先端のみ。
ロンドの五体、そのほとんどを吹き飛ばした黄金に輝く鉄拳。
2発も体験したため原理を把握することができた。
――金翅烈日光。
悪を許さない金翅鳥という魔法生物を創り出す創成魔法。
殴りつける拳にそれを仕込むことで、拳を打つインパクトとともに衝撃波に乗せて金翅鳥を体内に送り込み、相手の内側から爆発させるものだった。
身体の中から金翅鳥たちに食い破らせるとはえげつない。
中国拳法の奥義、浸透勁をアレンジしたらしい。
魔法と武術のハイブリッド――これもツバサの持ち味なのだろう。
恥ずかしながら全身が爆発するほど効いた。
いくら真なる破壊神といえども腸はそれなりに柔らかいのだ。
こんなもん防げるかよ!? とロンドは文句を言いたい。
「……ったく、油断も隙もねえのはどっちなんだか」
ロンドは即座に肉体の再構成を終えた。
過大能力で失った肉体の代替品となる怪物を創り出す。その手法こそ変わらないが、いくらでも都合が付く混沌の泥を使うことで大幅な時短となった。
今までが八拍子なら一拍子になったくらいの短縮だ。
おかげ左足だけでも瞬時に全身を立て直せる。
高級スーツもロングコートもストールも、忘れずに再生させておいた。
元通りの極悪親父に復活したロンドは、ツバサのパンチやキックが届かない位置まで後退し、慎重に間合いを計りながら改めて対峙する。
破壊神の宿敵と認めた守護神とだ。
「真なる破壊神になったオレを一発で粉砕とか……バケモノかよ」
毒突くようだが最高の褒め言葉だった。
誰も敵わない絶対無敵な魔王の前に、対等に戦える力を秘めた聖剣を携えて現れる勇者。勝敗の行方が誰にもわからない、実力伯仲する戦い。
このヒリヒリした肌が焼けそうな緊迫感が堪らない。
ロンドがツバサを気に入った理由がこれだ。
この滅びかけた世界で唯一、破壊神を斃せるかも知れない力を持つ者。
二人の勝負はやがて最高潮を迎えるだろう。
その最高潮を少しでも長引かせたいから、あんな自分でも「長ぇな」と飽きていたお茶会に誘ったのだ。できうる限り引き延ばさせた。
焦らした成果は――絶大だった。
またぐらがいきり立つほどの昂揚感が突き上がってくる。
ツバサも似て非なる状態らしい。
「……もう破壊神の御託に耳を貸す気はない」
そう断言したツバサはファイティングポーズを解かない。
据わった眼でロンドを睨みつけている。
「無駄話の時間は終わりだ。いいかげん決着をつける頃合いだぜ」
このまま苛烈に攻め立ててくるつもりだった。
しこたま待ちぼうけを食らわされて、仲間が傷ついているのに何もできない悔しさに我慢と辛抱を重ねた末、ようやくお預けを解除されたのだ。
その解放感たるや想像を絶するだろう。
「そしてな……とろくさいこと言ってんじゃねぇぞ、極悪親父」
ツバサの長い黒髪が風もないのにはためいた。
ザワ……ザワ……と雑踏のざわめきみたいな音をさせながら脈動する黒髪は見る間に真紅へ染まり、女神の肢体から強大な闘気が起ち上がる。
――燃えるような真紅の闘気。
全身の筋肉量まで跳ね上がり、女性的なナイスバルクの筋肉美となった。
殺戮の女神とかいうツバサの戦闘形態である。
どう見てもフィジカル系特化、肉弾戦最強としか思えない様相だ。想像だが、この姿になるとメスゴリラとかメスライオンと誹謗中傷されるに違いない。
これくらいゴツくてもロンドなら守備範囲内だ。
ボインちゃんであることには変わらない。
ギュッと握り締めた拳骨は、先ほどの金翅鳥を宿していた黄金の輝きとは打って変わって、真紅の闘気を練り込めた赤黒い色に染まっている。
まるで紅炎を燃え滾らせているかのようだ。
やがて、拳から本当に赤黒い炎が立ち上る。
見覚えのある紅炎に、ロンドは焦りながら指差した。
「ちょ、待て、それ……終焉の炎ッ!?」
「終焉……ああ、キョウコウのおっさんも言ってたな」
世界の終わらせて再生させるために解き放つ最期の炎。破壊神の系譜に連なる神族のみが扱える、形あるものを滅する究極の業火である。
「俺は“滅日の紅炎”と呼んでいる」
業火をまとう拳を掲げてツバサは教えてくれた。
どちらかと言えば、ツバサは創造神や守護神に連なる系譜のはず。
いくら変身形態を編み出したとはいえ、まったく逆系統の破壊神しか使えない力を使えるわけがない。ゲームならスキルツリーがバグっている。
「な、なんで兄ちゃんが使えんだよそれぇ!?」
これはクレーム案件だとばかりにロンドは糾弾した。
「過大能力や技能を掛け合わせて色々な……そんなことよりもだ」
とろくさいこと言ってんなよ、とツバサは繰り返す。
破壊神の方がお似合いの加虐的な笑みで唇を歪ませていた。
「破壊神をフルボッコに粉砕するのは……」
これからなんだからよ! と殺戮の女神は詰めてくる。
刹那を振り切る速さの歩法だった。
コマ送りにしか見えない神速でロンドの懐へ飛び込んできたかと思えば、終焉の炎で燃え上がる拳を息もつかない連打で殴りつけてきた。
終焉の炎を宿した――業火による滅びをもたらす鉄拳。
ノラシンハの人獅子絶殺打に匹敵する重い拳だ。
「ぷおっあ……ゥ!?」
情けない呻き声を漏らすのが精々だった。
灼熱の鉄拳を貰った瞬間、またしても顔面を跡形もなく消し飛ばされた。
爆滅とでも造語を作ればいいのか?
殴られたところが終焉の炎で爆発とともに消滅するのだ。
大急ぎで混沌の泥を呼び寄せて顔を治した直後、今度は胸板に黒焦げの風穴を開けられる。そこをまた泥で埋めれば別の部位を吹き飛ばされる。
再生と爆滅の無限ループ、酷いイタチごっこだ。
そんなものを連続で打ち込まれる身にもなってほしい。
ほらアレだ、「なんとかのガトリング!」とか「オラオラオラ!」とか「無駄無駄無駄!」とか「ドララララーッ!」とか「アリアリアリ!」とか……。
そんなカッコイイ叫び声が聞こえてきそうだった。
おまけに業火はロンドを殴る度に舞い上がる。
終焉の炎が飛び移ると、それが小さな火の粉であろうとも混沌の泥は盛大に燃え上がった。見た目通り重油みたいな可燃性があるように見えた。
実際には違う。この業火は触れたものを焼き尽くす。
野火が広がるように、火がついたものを焼き滅ぼすまで蝕むのだ。
混沌の泥であろうと例外ではない。
周囲を埋め尽くす泥の海が大胆な勢いで目減りしていた。
「ぐぅおおお……ちょ! タンマタンマタンマッ!」
仕切り直す時間をくださーい! とロンドは大声で喚き立てる。
破壊神の呼ぶ声に反応して追加の泥が湧いてくると、質量を増大させて泥津波を引き起こし、ツバサを牽制しながらロンド自身を押し流させる。
これで多少なりとも距離が稼げた。
同時に更なる泥津波を覆い被せ、ツバサを飲み込ませる。
「よーしよしよし! そのまま兄ちゃんを抑えつけとけ! オレが体勢を立て直すまでな! 乳とか尻とか太ももとか揉みしだいてやれ!」
混沌の泥津波に命じ、この隙に自分の肉体を万全にする計算だ。
保って3分、いや1分稼げれば十分だろう。
その1分で真なる破壊神に相応しい肉体へと改造していく。パワーアップに必要な力は混沌の泥からいくらでも抽出することができた。
さあ取り掛かろうと意気込んだその時だ。
「……嘘、5秒保たんの?」
ロンドは泣きそうな声で鼻水を垂らしながらぼやいた。
実は1分の時間稼ぎも甘めな見積もりで、本当は30秒と予想していた。
混沌の泥津波が5秒で破られるのは予想外が過ぎる。
てっきり終焉の炎で燃やされたのかと思えば様子が異なり、ツバサを抑え込んでいたはずの泥津波がどこかへと吸い込まれているらしい。
汚水が排水溝へ流れていく感覚に近い。
混沌の泥が吸い込まれていく場所――そこは二次元の亜空間だった。
空間操作系の高等技能だろう。この世界では平面でしかないが、そこに入れば無限の奥行きがある二次元の世界を創ったようだ。
そこに混沌の泥津波が呑み込まれていく。
「――空色掌」
掌の先で二次元空間を操りながらツバサが技の名前を諳んじる。
その姿も殺戮の女神から見違えていた。
ナイスバルクな筋肉は削げ落ち、平素よりも女性ホルモンが増したかのようにグラマラスさ強調された女体美が誇張されている。
心なしか、スリーサイズのメリハリもアップしている感じだ。
燃えるような真紅の赤髪は、癖のないストレートの銀髪に塗り替えられている。まるで爆乳巨尻の雪女みたいな風体である。
……それと、何故か人妻っぽい色香を漂わせていた。
あの強化形態は確か――魔法の女神。
ウチの右腕がコテンパンにやられた魔法特化の変身だったはずだ。二次元空間をスナック感覚で使ってくる時点で頭がおかしい異常さである。
地平線まで塗り尽くしていた混沌の泥。
それらは悉く二次元空間へ回収されてしまった。
「色空掌でブラックホールを創っても良かったんだけどな……」
ツバサは混沌の泥を収めた二次元空間を折り畳む。
「この泥は呆れるほど穢れているが、それでも真なる世界由来のものだ。後で綺麗に浄化してから世界に還させてもらおうか」
そう言ってコンパクトにした空間を自身の道具箱へと仕舞い込んだ。その所作ひとつとっても、殺戮の女神と比べたら断然フェミニンである。
全体的に白がベースなので非常に上品でもあった。
清楚な色気に見蕩れるも、ロンドは顎を伝う冷や汗を拭う。
「……ったく、特撮ヒーローはいくつもの変身フォームを持つのがお約束だが、そうコロコロ変わられちゃ悪役は目が回っちまうぜ」
色んなボインちゃんを拝めるのは役得なので、そこは黙っておこう。
それとは別にロンドは危惧を感じていた。
次元や空間さえ自由自在――もはや過大能力に等しい。
終焉の炎にしてもそうだ。破壊神でもない神族が扱える代物じゃない。
努力や精進なんて言葉で片付けられるレベルの話ではなかった。
この兄ちゃん――どこまで強くなるつもりだ?
果てを知らない研鑽に。底が見えない畏怖を覚えてしまう。
「兄ちゃん……おまえさん何者だい?」
ロンドは意味深長に問い詰める。
「知るかよ。未だに自分でも男なのか女なのかで悩んでるんだからよ」
しかし本人も答えに窮していた。
ふぅん、とロンドは鼻を鳴らしてこの場での追求は控えておく。
辺り一帯はただの荒れ地に戻っていた。
寂しい風景を眼下に踏んで、ロンドはツバサと空中で睨み合う。
無闇に混沌の泥をばら撒いても消されるだけとわかったので、自身のオプションとして使い勝手がいい分だけを呼び起こしておく。
「悪いな、ちと遊びが過ぎたようだぜ」
思い掛けず調子に乗ったことをロンドは率直に詫びた。
「使えるように新しい能力、つい夢中になっちまったが……こんな泥んこ遊びじゃ興が乗らねぇな。やっぱ兄ちゃんとはガチンコしとかないとな」
もっとバチバチに殴り合おうぜ! とロンドは煽る。
ツバサはこの申し出を冷淡にあしらってきた。
「悪いが断る――本来オレの流儀はガチンコじゃない」
手を上げて「お断りします」とばかりにこちらの意見を制したツバサは、唇の端を挑戦的に釣り上げ、総身から発する“気”を変化させる。
なんだと!? と刮目する間にそれは始まった。
「おいおいおい、まさか……三番目の変身フォームかよ!?」
その通り、とツバサは得意気に姿を変えていく。
「殺戮の女神は超絶パワータイプ、魔法の女神は究極マジカルタイプ……どちらも俺が最も得意とするものとは縁遠い。だから一から練り直した」
ツバサ本来の流儀――それは合気。
「俺自身が積み重ねてきた技術を活かせる最高の形態をな……」
目映いほどの銀髪――その色が変わっていく。
海ではなく空を連想させる清々しい蒼だ。蒼に染まる髪はただでさえ長いのに、足下で蛇のように蜷局を巻くほどの量になっていた。
発する“気”も青みがかり、視覚に訴えるほど実体化する。
それは透き通る蒼さを湛えた羽衣となり、ツバサの身体に寄り添う。
流れる蒼髪と羽衣をツバサは幾重にもまとう。
蒼を基調とする女神となったツバサは独りごちる。
「こいつはなんと名付けたんだっかな……そうそう、ウチの博覧強記娘に相談して、殺戮の女神や魔法の女神に縁のある女神にしたんだった」
天空の女神――ヌゥト。
自分らしさを追求した果てに見出した新たなる強化形態。
それが蒼に染まる姿に付けられた名前だった。
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