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第18章 終わる世界と始まる想世
第433話:すべてを水に流す大聖流
しおりを挟むジンカイは群衆という総体を憎んだ。
特定の個人を怨んだわけではない。すべての人間を嫌悪したわけでもない。種族としての人類に憎しみを抱いたのでもない。あくまでもその一握りだ。
しかし、その一握りが判然としない。
実態がよくわからない、曖昧模糊とした靄にも似た存在だった。
ネット界隈のそこかしこで罵詈雑言を喚く烏合の衆。
群衆――と呼ぶより他なかった。
一般人の意見なんて一歩引いたスタンスを空々しく気取っておきながら、誰かの間違いを指摘して制裁することで得られる優越感に浸る愚か者ども。
SNS、掲示板、情報サイトのコメント欄……。
益体もない空虚な意見を書き残せる場所には事欠かない。
自分が何者かが明かされないのをいいことに、面と向かえば決して口にできないような口汚い言葉で、会ったこともない第三者をこき下ろして悦に入る。
当人たちにしてみれば、憂さ晴らしに過ぎないのだろう。
自らの発言が正当だと信じて疑わない――傲慢。
我こそ正義であると主張して他者を裁く――独善。
その追求が誰かを傷付けても責を負う覚悟もない――蒙昧。
ジンカイを追い詰めた群衆の総意。
これらはその正体を織り成す一端に過ぎない。
それはもはや総意ではなく、誰かを責め立てることに駆り立てられた悪意と呼ぶべきドス黒い“魔”だ。愛や情といった一筋の光明さえ差さない。
しかし、それを生み出した群衆は認知しない。
悪意が誰かを死に追いやったとしても、他人事な一言で済ませてしまう。
ご愁傷様――と。
卑怯千万な群衆の有り様があまりにも業腹だった。
世はまさに仮想現実時代。
IT関係の犯罪増加に伴ってネット界隈の法整備も進み、ネット上の発言とはいえども、度が過ぎれば法的に告訴することもできるようになってきた。とはいえ、まだまだ行き届いていないところは多い。
殺人、暴行、テロ、この手の予告ならば即逮捕は当たり前。
主に警察や宣言した対象への威力業務妨害に当たる。
世間の有名無名を問わず、実在の人物を名指ししてあることないこと名誉毀損の発言をすれば、これもまたほぼ即終了に繋がる。逮捕までは行かないし警察沙汰にならないかも知れないが、裁判所か弁護士から告訴状が届くだろう。
これらの法整備は、VRの普及とともに急速に進んだ。
それまでのネット空間は文章による対話や音声による会話、カメラ映像を介したリモートによる対談が精々だった。それが自身をアバターという形で電脳空間に投影できるVRにより、良くも悪くも法整備を加速させる要因となった。
革新的な技術は、これまでにない悪徳を生み出す。
仮想現実も例外ではなかった。
アバターが覆面の役目を果たすためか、匿名性が高められたと勘違いした馬鹿者が電脳空間ではっちゃけ、アホらしい事件を起こすことが度々あった。
ネット黎明期の繰り返し――識者はそう呆れたものだ。
特に他者への誹謗中傷が横行したため、「電脳空間も公共の場である」という認識を定着させるべく、そういう事件が起こる度に縛りは強くされた。
それでも――世に悪口雑言の種は尽きまじ。
過ちだらけの正義感を拗らせた、愛と平和を愛する一般市民という群衆は、著名人が大なり小なりのミスをする度に言論で責め抜いた。
良心の呵責なく、飽くことを知らずにだ。
聖人君子でもミスはする、愛想笑いで誤魔化したいヘマもする。
そういったものでさえ群衆は容赦なく糾弾した。まさしく鬼の首を取ったかのように、重箱の隅に残った小さな埃を突き回すようにだ。
横綱昇進を間近に控えたジンカイも、群衆の餌食となった。
ジンカイも自身の正義を信じて生きてきたつもりだ。
あの時の行動も――その正義に基づいていた。
女性が刃物を持った暴漢に襲われていれば実情はわからずとも、まず暴漢を無力化して女性を助けるのは当然のこと。しかし刃物を持った相手には、いくら武道で鍛えた身とはいえ命の危険を覚えてしまう。
どれだけ武術を鍛えても、得物を手にした相手は脅威なのだ。
漫画やアニメの世界とはわけが違う。
武器を持った敵に無双できるものではない。
現実ならば、刃物の一突きで人間はさくりと死ぬ。果物ナイフでも100均の包丁でも、その気になれば人間をあっさり殺せるのだ。
だからジンカイは覚悟を決めて、暴漢に割り込んで女性を助けた。
その際、暴漢をおもいっきり突き飛ばしたのは間違いない。
横綱まで登り詰めんとする力士と、ろくに運動もしていないような男とでは体力に雲泥の差はあろうが、構っていられる状況ではなかった。
たった一度――張り倒しただけである。
事件後、警察からも過剰防衛ではないとお墨付きを貰っていた。
なのに暴漢は打ち身捻挫どころか、あちこちの骨を折る重傷とか何とか報道されてしまい、ジンカイが「やり過ぎだ」と非難された。
後にこの暴漢は、留置所の食事で喉を詰まらせて亡くなる。
これもジンカイは関係ないのに、「あの時の傷が原因で死んだのかも知れないのだから、神海関のせいじゃないか?」と世論は責任を負わせてきた。
テレビも、動画配信サイトも、情報サイトも――。
人助けをしたジンカイを暴力の権化として取り扱ったのだ。
無責任な世論に振り回された暴漢の父親は、ジンカイを息子の仇と憎むようになってしまい、ついには実力行使に移すまで追い込んでしまった。
その凶刃を受けたのが――兄弟子だった。
幸いにも命に別状はないが、左脚の腱を切られる大怪我を負わされる。
この傷が原因で、兄弟子は横綱を引退せざるを得なかった。
――ジンカイがキレないわけがない。
巨灘部屋の親方と女将さんを父母と敬い、兄弟子こと横綱呑海を実の兄貴のように慕ったジンカイにすれば、家族を殺されかけたも同然である。
逆上して突き飛ばすのも仕方ないことだ。
当たり所が悪くて暴漢の父親を死なせてしまったのは誠に遺憾だが、この件でも正当防衛は認められた。殺意を持つ人間が武器を持つことは、それだけで周囲の人命を危険にさらす存在だという証拠でもある。
それでも――ジンカイが悪者とされた。
兄弟子を凶刃から守れなかった不手際、犯人とはいえ暴漢の父親を勢いに任せて殺めた事実。この二点をジンカイの人格を否定するまで責め立てられた。
言い訳など許されるはずもない。
だが、暴漢の父親はジンカイの死角を狙ってきた。
それに気付けたのは、位置的にその死角にいた兄弟子だけだった。後輩や若手を大切にする兄弟子の優しさがジンカイを守ってくれたのだ。
尊敬する兄弟子を傷物にされて黙っていられない。
怒りを抑えきれないジンカイが、暴漢の父親を全力で突き飛ばしたのは紛れもない事実であり、その威力に彼の年老いた肉体は耐えられなかった。
暴漢の父親はかなり高齢のご老体だったのだ。
そこはジンカイの不注意でもあろう。
だからといって、ジンカイだけが全面的に悪いわけではない。
なのに、群衆はジンカイを悪者に仕立て上げた。
事故とはいえ人一人を殺めた事実は、群衆に「ジンカイはいくら叩いても許される悪だ!」という免罪符を与え、人間扱いしない口撃はヒートアップした。
群衆は責め立てる相手を一個人として認めない。
平然と呼び捨てにし、いくら叩いても壊れない玩具のように弄ぶ。
ネットにはジンカイを叩く言葉が溢れかえっていった。
もう時間の問題だ――ジンカイは諦めがついた。
これだけの騒ぎを起こせば、保身に走ることにかけては右に出る者がいない相撲協会の理事たちが、ジンカイを角界から追放するのは目に見えている。
既に横綱昇進も取り消されている頃だろう。
これ以上、世話になった巨灘部屋に迷惑をかけるわけにもいかない。
横綱の地位を奪ってしまった兄弟子にも会わせる顔がない。
兄弟子への罪悪感がより拍車を掛けてきた。
ジンカイは角界通報の報せが届くよりも一足早く、部屋を抜け出すと誰にも告げずに当て所もなく行方を眩ませることにした。
行き着いた先は――かの有名な霊峰の麓に広がる樹海だった。
その最深部まで分け入ると仰向けに寝る。
このまま誰にも知られずにくたばろう、ジンカイはそう決心した。
群集心理の醜悪さに追い立てられてきたジンカイは、人間というものに心底嫌気が差していた。散々なくらい嘲弄されたので怒りや憎しみも沸き立つが、そもそも嫌悪感が始めにあるので、もう関わりたくなかったのだ。
尊敬する親方や女将さん、憧れだった兄弟子……。
こんな自分を慕ってくれる弟弟子たち……。
切磋琢磨した同僚力士、後援会の人々やタニマチのお歴々……。
この騒動でも気にせず応援してくれるファンの皆さん……。
多くの善良な人たちがいるのは肌身に沁みている。
ネットの意見でも「神海関は悪くない」と擁護してくれた方々はいた。人間は悪意ばかりではない。それがわからないほどジンカイも馬鹿ではない。
だが――もうたくさんだった。
群衆が浴びせかけてくる悪意の猛毒に、ジンカイはすっかり参っていた。
怒りや憎しみに駆られて群衆を殴り飛ばせばいいのか?
群衆とは誰だ? どいつを痛めつければいい?
ネットに悪口を書いている奴をいちいち裁判所へ訴えればいいのか? 十人百人では済まない数だ。何千という人々に訴状を出せというのか?
いや……直に張り倒したい顔はいくつか浮かぶ。
相撲を取ったこともないくせに相撲を語るテレビのコメンテーター、掲示板のスレをまとめて世に発信し群衆の代弁者を気取るサイト運営者、動画配信サイトで悪意まみれの映像編集でジンカイを蔑んだ動画投稿者……。
煽動者どもの顔は嫌でも覚えてしまった。
ああいう奴らは顔がルービックキューブみたいになるまで、張り手でボッコボコにしてやりたい! という復讐の衝動が込み上げる。
そんな時――兄弟子たちの笑顔が浮ぶ。
子供じみた仕返しを実行すれば、炎上の火種となるのは必至だ。
ジンカイは既に焼け野原だからいいが、今度は巨灘部屋や兄弟子にまで火の粉が降りかかるかも知れない。それだけは避けたかった。
恩義ある人々に迷惑はかけられない。
もう人間に……いや、群衆の悪意に振り回されるのは御免だった。
このままひっそり死んでやろう。
消息不明のまま、人間社会からドロップアウトしてしまおう。
すっかり心の折れてしまったジンカイは、生きる気力も萎えていたのを利用することで、樹海の奥地での衰弱死という自殺方法を選んでいた。
何日経過した頃だろうか――。
数日の飢餓状態に置かれた胃腸が激しい空腹を訴えてきたので、それを紛らわせるために別のことを考えようとするのだが、思い出すのは群衆の愚かしさと一方的で情けも容赦もない罵詈雑言ばかり。
それに対する激怒と憎悪で腸が煮えくり返ってきた。
彼らへの嫌気を蒸発させ、憎々しい殺意が沸き立ってくる。
おかげで空腹は紛れたが、怒りは自殺への決意を押し退けようとするし、憎悪は復讐心を刺激して暴力的な意欲をこれでもかと駆り立ててくる。
どうやったら――愚にも付かない群衆を皆殺しにできるのか?
考えることも段々と物騒になってきた。
『群衆は糞だ……いや、群衆を生む人間こそが害悪……』
ブドウ糖が供給されない脳細胞で考えるのは、憎悪と怨嗟が延々と巡る負のスパイラル。奈落の底を突き抜けそうな暗澹たる怨恨。
心の奥底に積み重なる暗い澱は、爆ぜる瞬間を待つ火薬のようだ。
些細な火種で大爆発を起こす確信があった。
『中途半端な愛と正義を謳うのに、群衆に巣食う悪には目も向けやしない』
――人間こそが最悪の根源ではないか?
『正義を騙るその口で、悪意をばら撒いていることに気付きもしない』
――人間とは愚劣を極めた生物の失敗作ではないか?
いつしかジンカイは人間すべてを憎んでいた。
群衆を生み出す人間こそが、最悪の大元だと認めていたのだ。
『人間は糞だ……いいや、糞ならいずれ自然に還る。しみったれた悪意で誰かを蹴落とすことしかできない人間は糞以下の汚物……』
そんなゴミ――この世にいらんだろ?
ジンカイが悟りにも勝る境地に至った時、破壊神が現れたのだ。
この瞬間を待っていたかのようなタイミングである。
『人間ってゴミが蔓延る世界……必要と思うかい?』
ジンカイは「いらない」と即答した。
人も通わぬ樹海の奥、話し掛ける誰かなどいないはずだ。
そこに疑問を抱けぬほどジンカイは朦朧としていた。
何者かがいる、と気配だけは感じる。
瞼を閉じていたのでは誰かはわからないが注意深く五感で探ってみると、いつの間にか枕元に立つ物々しい威圧感に気付かされた。
そっと眼を開けば、誰かが仰向けのジンカイを覗き込んでいる。
これが――破壊神ロンド・エンドとの邂逅だった。
『探したぜ次期横綱』
六本木か麻布の高級繁華街で遊び慣れている、高級そうなスーツで身を固めたチョイ悪親父といった風貌だ。貼りついた笑顔がいかがわしい。
自殺の名所な樹海には、およそ似つかわしくない人物№1である。
同時に――ゾクリとした怖気に見舞われた。
ゲーム好きな兄弟子の言葉を借りれば、「ここからの選択肢は一度でも間違えれば即BADでDEADなENDで御陀仏じゃ」という恐怖感。
一問一答、誤れば即死。そんな危機感にのし掛かられる。
それほどの畏怖がチョイ悪親父から押し寄せていた。
下手な受け答えはできない。緊張しながら渇いた喉で固唾を飲んだ。
――横綱昇進なら取り消されましたよ。
本当はそう切り返したかったが、人も通わぬ樹海の奥地まで自分を訪ねてくるにしては、あまりにも場違いな風体にジンカイは思わず問い掛ける。
『…………アンタ……死神か?』
『残念、オレは魂の取立屋じゃない。こちとら破壊神よ』
破壊神? 首を傾げたくても動かない。
この数日、ろくに飲食もせず森の奥の大地に仰向けになったまま身動ぎひとつしていないので、すっかり身体が固まってしまったらしい。
霊峰の裾に広がる樹海、その下は冷えて固まった溶岩の大地だ。
寝心地に関していえば最悪である。
ろくに反応できずにいると、チョイ悪親父は勝手に喋り始めた。
『しっかし、口喧しく誰かを罵ることしかできねぇ世のボンクラどもに袋叩きにされたくらいで、世を儚んで樹海で孤独死を選ぶとはな……相撲取りってのは意外と繊細なのかい? もっとポジティブなぶちかましとかしてもいいんじゃね?』
立て板に水とはこういう喋り方を言うのだろう。
ろくに息継ぎもせず捲し立てたチョイ悪親父は、ビシリと指差してくる。
『おまえさん今、人間はゴミだって断定しただろ?』
世界もいらねえと返事したよな? と念を押して確認してきた。
ジンカイは渇いた喉を震わせて答える。
『ああ、人間は総じてゴミだ……一生懸命な他人の足を引っ張るか、真面目にやっている奴に泥や石を投げつけて喜んでるクズばっかだ……』
そんな奴らの生きる世界などいらない。
群衆を生む人類も群衆が生きる世界も、必要ないとジンカイは断じた。
低血糖による意識の混濁か?
はたまた孤独に耽った瞑想がもたらす魔境という境地か?
いつしかジンカイの自我は途方もなく肥大化しており、これまでの怒りや憎しみを糧として、自分でもコントロールできないほど強大に膨れ上がっていた。理性や情愛といった感情は踏み躙られている。
突然現れた謎のチョイ悪親父の言葉も、ストンと腑に落ちた。
『そうだよな……死神だか破壊神だか知らないが……』
アンタの言う通りだ、とジンカイは同意して久々に身を起こした。
節々が軋む身体でその場に座り込む。
『こんなことしても……俺の怨みは晴れやしない……群衆という馬鹿どもが無駄に騒がなけりゃ……俺も、兄弟子も……こんな目に遭わなかったのに……』
――角界から追放されなかったのに!
ギシリ、と悔しさから歯並びが歪むほど噛み締めていた。
吐息とともに吐き出すは怨嗟の恨み言だ。
『あいつらに一泡吹かせる程度じゃ気が済まない……俺を陥れた愚か者どもを一人残らず地獄へ突き落としてやらなきゃ腹の虫が治まらないッ!』
ジンカイの意識に変革が起きていた。
理不尽な世論という名の暴力に叩かれてきた精神が反骨心を覚え、そこに怒りや憎しみを薪にした憤怒の炎がメラメラと燃え上がってきたのだ。
ジンカイの宣言を聞いたチョイ悪親父は指を鳴らす。
『それだよ、オレがここへ来た理由は』
待ってました! とばかりに用件を切り出してくる。
『おまえに悪意の石を投げつけてきた人間どもを皆殺しにしたくないか? そんな連中が我が物顔でのさばる世界をブッ壊したくないか?』
――破壊神の仕事を手伝うつもりはないか?
『そのための力をくれてやろう』
破壊神というよりも契約を迫る悪魔よろしく誘ってきた。
『……ついでに食う寝るところに住むところ、色々と入り用になるから準備金とかも賄ってやる。ウチはこう見えて福利厚生バッチリだぞ。源泉徴収払ってない分、子分どもを充実させてやってるんだ』
なんせ税金払ってねぇし! とチョイ悪親父は変なところを威張った。
現実的で生々しい提案も割と魅力的だ。
ギャップが面白いあまり、ジンカイは失笑してしまった。
『なんだよ……悪の組織の怪人にでもなれというのか?』
――何の因果か破壊神の手先。
そんなフレーズが頭を過り、昔の特撮番組を思い出してしまう。
ジンカイの冗談をチョイ悪親父は肯定的に受け取った。
『当たらずも遠からずだ。契約締結した暁には、おまえさんがこれまで培ってきた常識をまとめで吹っ飛ばすファンタジーワールドに案内してやるぜ』
ついては――こいつは勧誘の手付金だ。
『今のおまえさんには銭より喜んでもらえると思うぜ』
チョイ悪親父がまた指を鳴らすと、あちこちの闇が騒ぎ出した。
昼なお薄暗い樹海には、そこかしこに光の差さない闇が蹲っていた。そうした闇が煮えたぎる溶岩のようにボコボコと泡立つ。
沸いた闇から現れたのは、恐怖を象った影の群れだった。
怪物、妖怪、化物、異形……呼び方は何でもいい。
そうしたものが嘘みたいに実体化し、生命の躍動を感じさせる一個の生物として出現すると、ジンカイたちを取り囲んできた。
死ぬ間際の悪夢と思い過ごしたいが、現実感がありすぎて無理だった。
影から生まれた異形たちはチョイ悪親父に跪く。
彼との雑談で少しばかり気が紛れたため薄れていたが、あの即死を思わせる威圧感が蘇ってくる。発信源は他でもない、このチョイ悪親父だった。
そして、異形の群れも恐るべき力を漲らせている。
総身から「この世を滅ぼす」という力強い決意を発散させていた。
世界を滅ぼす異形を従える――破壊神。
チョイ悪親父の世迷い言を鵜呑みにするつもりはなかったが、こうも浮世離れした光景をまざまざと見せつけられては、いくら横綱寸前まで登り詰めた関取であっても尻込みせざるを得なかった。
夢や幻だと疑いたいが、なまじ鍛えた精神力が否定する。
――これは紛うことなき現実だと。
『う~む、やっぱ地球で怪物を創るとパワーダウンすんのな』
チョイ悪親父はやや不満げだった。
『マッコウさんも“気”が不足してるから、灰色の御子全般に不具合が生じてるって診断してたし、破壊神にも影響はあるんか……まぁいいやな』
手足として使うには十分だし、と勝手に納得していた。
その異形の群れから悲鳴が上がる。
地獄を連想させる獄卒の鬼みたいな異形たちが、その姿に似付かわしくも悲鳴を上げる罪人たちを強引に引っ立ててきたのだ。
罪人たちはジンカイの前に無慈悲なくらい力尽くで放り出される。
数は三人――その顔触れにジンカイは目を奪われた。
力士経験もないのに相撲を語るコメンテーター。
掲示板を適当にまとめて発信するサイト運営者。
悪意の映像編集で他人を蔑む動画投稿者。
ジンカイを責めるよう煽動した、急先鋒ともいうべき三人だった。
刹那、脳内が真っ白に染まったと錯覚する。
それは理性の箍を吹き飛ばす、心の深淵に沈んでいた本心の解放だった。
こいつらを――この手で打ちのめしたい!!
あの事件以来、溜まりに溜め込んできた鬱積した負の感情。
怒りや憎しみに怨みといったものが積層し、樹海で孤独に思い悩んだことで醸造された怨念が、大爆発を引き起こしたのだ。
前述した通り、積み重ねられた怨念は火薬庫に等しい激情の澱。
小さな火種でも危険なのに、放り込まれたのは大きな篝火。
しかも3つ――大爆発は避けられない。
全身に凄まじい活力が行き渡り、衝動的に突き動かされる。
ここ数日ろくに動かしていない身体だというのに、ジンカイは地面に座り込んだ姿勢から地を蹴って飛び出した。ベストコンディションで挑んだ取り組みでも滅多にできない最高の初速度で、目指す獲物へと間合いを詰めていく。
最初に選んだのは、テレビのコメンテーターだ。
立ち上がった羆が前肢を獲物へ振るうように、五指を目一杯広げた張り手を顔面へお見舞いする。パァン! と小気味いい破裂音が鳴り響いた。
コメンテーターは顔中の穴から血を噴き出す。
勢いは止まらず、ジンカイは張り手から相手の頭を鷲掴みにすると、そのまま片手一本で押し切り、手近にあった大木へ叩きつけた。
グシャリ! 頭蓋骨と内側に詰まった柔らかいもの。
それらが一緒くたに潰れる音が、手から腕を通じて肩まで伝わってきた。
全身の毛穴から蒸気を噴き出すような昂揚感に打ち震え、溜め込んだ澱が燃えていく快感に頬が自然と釣り上がってしまう。
かつてない満足感を覚えるが、まだまだ足りない。
次にサイト運営者へと振り返る。
既に異形から解放されているが、目の前で起きたショッキングな光景に腰が抜けたのか、みっともない四つん這いで逃げている。
ジンカイは牛歩の歩みで追い詰めていく。
せめて立ち上がるまで待ってやるつもりだった。
逃げられるかも知れない、サイト運営者の眼に期待が灯る。
這うよりも立って走った方が早い。無理にでも二足歩行に戻ると、遮二無二なって走ろうとするサイト運営者。その背中にジンカイが迫った。
力士の瞬発力を最大限に活かしたぶちかまし。
背骨があり得ない方向へ急激にへし曲がり、ベキボキと脊髄のひしゃげる感触に耳を澄ましながら、ジンカイはぶちかましの勢いを強めていく。
進む先には岩石があり、思いっきりぶち当たる。
血と肉と骨を詰め込んだ肉袋が弾け飛ぶ時の音がした。
この時点で達成感を覚えたものの、取りこぼしは良くないしお目こぼしをするつもりもない。情けをかけるなど以ての外だ。
それに鬱積した怨念は燃え尽きることを知らない。
燃やしても燃やしても、怒りと憎しみの薪がくべられた。
『いいもんだろう、負の情熱ってやつは』
チョイ悪親父の思わせ振りな声が、逆上せた頭へ染み込んでくる。
『憎しみは心を強くする。怖い物知らずの原動力となる極上のガソリンだ。怒りはそれを加速させる促進剤であり、怨みを実行に移す起爆剤にもなる』
もっと正直になれ――心の本音に耳を傾けろ。
『次期横綱、おまえさんは今、本当に殺りたいことを殺ってるんだぜ?』
その言葉だけは素直に納得することができた。
最期の一人、動画投稿者。
失禁でもしたのかアンモニア臭が漂ってくる。
先の二人の終わりを目の当たりにして、逃げる意欲もなければこの状況を飲み込むこともできないらしい。半笑いで止まらない延々と涙を流しており、顔といわず身体中を汗まみれにしてへたり込んでいた。
正直、ジンカイも何が起きているのかよく理解していない。
しかし夢でも幻でも構わなかった。
積み重ねてきたマイナスの感情が渾然一体となり、自分を迫害した群衆への殺意になったと自覚した今、それを解消できる歓喜に満ち足りている。
逃げるのも忘れた動画投稿者の前に立つ。
無造作に彼のベルトを引っ掴み、上手投げの要領で地面に叩きつけた。
受け身なんぞ取らせてやりはしない。
冷えて凝固した硬い溶岩の地面に、原型がなくなるまで投げ飛ばす。もはや投げるのではなく、溶岩の鑢に擦りつける感覚に近かった。
ベルトが千切れたところで興が冷める。
動画投稿者は原形を留めておらず、赤い染みとなっていた。
ジンカイが憎んで已まない群衆の代表格。
その三人を前にして殺意を爆発させたジンカイは、破壊神に唆されるまま殺人を犯してしまったが、後悔の念を覚えることはなかった。
満足感と達成感――そして得られる充足感。
何より、これらを満たす根底にあるのが正義感だと思い知らされた。
『ああ、群衆も……これを求めていたのか』
自らの正義で、悪と決めた誰かを打ち据える。
ジンカイもまた、自身の正義に基づいて自分を陥れんとした不逞の輩どもに処罰を下すことができた。天誅ならぬ人誅だ。
それを成し遂げた時、甘美な興奮に酔い痴れていた。
傲慢で独善で蒙昧な――群衆という生き物。
彼らが他者へ石を投げることに、ほんの少し共感できた。
身勝手な正義感で悪と定めた対象を叩くのは、得も言われぬ幸福感と道理を忘れるほどの多幸感をもたらしてくれるのだ。
『こういうのも“ざまぁ系”っていうのかね?』
チョイ悪親父は疑問形で嘯いた。
『主人公を酷い目に遭わせた周囲が、何らかの形で主人公によって倍以上の酷い目に遭わされるのを傍観して爽快感に浸る……随分と前に流行だったそうだぜ。追放系とか復讐系とか、主観的な正当性を正義と断ずる読み物がな』
滑稽だねぇ――破壊神の笑みで嘲る。
『読み物程度で満足するそのチャチな精神性がさ。そんなに満たされねえ正当性があるんなら、おまえさんみたいに実力行使に打って出りゃあいい』
絵空事で満足しないで実行すればいい。
事もなげに言い切るが、チョイ悪親父は反対意見も想定していた。
『それができたら苦労しねえって意見が飛び交いそうだけど、苦労してできるならやったらいい。やるだけやってパッと散りゃあいい』
ウジウジするより百倍マシだ、とチョイ悪親父は切り捨てる。
わかるようなわからないような――。
聞く者が聞けば厳しすぎる正論かも知れない。
あるいは叶うことのない暴論だ。
ただ、自分が実力行使に出たのは認めなければならない。
これが正義か否か? 既にジンカイは客観的な判断ができなかった。
確かなのは――群衆への復讐心のみ。
三人を殺したことで火を投じられた、ジンカイの心の底に積み重なった澱。それは火の点いた重油の如く燃えている。
この重油の貯蔵量は計り知れず、いつ底が尽きるかわかったものじゃない。
彼らの息の根を止めたくらいでは収まりそうになかった。
それこそ群衆を根絶やしにするまで、復讐の炎は燃え続けるだろう。
横綱昇進まで登り詰めたジンカイを、こんな樹海の奥まで追い遣った群衆すべてに……いいや、人間の悪意そのものを根絶したい衝動に駆られていた。
人間を鏖にして――世界を壊す。
チョイ悪親父の提言に、かつてない魅力を覚えつつあった。
パンパンパン、と乾いた拍手が響いた。
『さて、いい取り組みだったぜ次期横綱。どこもかしこも血塗れだな』
空々しい賞賛とともにチョイ悪親父が近付いてくる。
『喜んでいただけたようで何よりだ』
オジさん奮発して正解だったぜ、とチョイ悪親父は“手付金”と評した例の三人を連れてきた甲斐があったような口振りだ。
ニヤニヤと勿体振った微笑みで話を振ってくる。
『正義感やら復讐心やらと頭の中で色々と小難しいことを考えて折り合いつけてるみてぇだが、今ならオレの質問にもすんなり答えられるだろ?』
本性をさらけ出した今なら――。
破壊神は立てた人差し指を突きつけてくる。
『人間ってゴミが蔓延る世界……必要と思うかい?』
『いらないです……むしろ、この手で壊したい!』
GOOD! と会心の笑みとともに追い打ちをかけてくる。
『人間どもの鏖と世界の壊滅……破壊神の仕事、手伝ってくれるかい?』
『ああ、手伝いましょう……アンタが俺を満足させてくれるなら!』
正義感と復讐心が、暴走した怨嗟を急き立てる。
一度怒りと憎しみで大炎上した腹の底は、炎上したまま鎮まる気配がない。この激情は世界を焼き尽くすまで消えないという予感があった。
斯くして――ジンカイは破壊神の麾下に加わった。
樹海の奥地から連れ出されたジンカイは、ロンドに言われるがまま従った。本当に衣食住の世話になり、求めれば金銭や生活の補助も自由だった。
だが現実世界にはあまり長居しなかった。
すぐさまジンカイはめくるめく驚天動地の体験することになる。
VRMMORPG、異世界への転移、真なる世界……。
本当にファンタジーな展開が待っていたのだ。
ロンドが予言した通り、常識を疑うような幻想体験を何遍も味わわされたが、ジンカイは差して動揺せずにすんだ。群衆への憎悪に駆り立てられていた精神からすれば、大概の出来事は些末なことだった。
真なる世界へと渡り、そこでの生活が始まる。
来たるべき世界壊滅に備えて、力を蓄える日々が続いた。
やがて神族へと昇格し、LV999という絶対強者の領域まで辿り着く。
それでも――ジンカイは満足できなかった。
いずれ真なる世界に転移してくるであろう人間を……群衆を一人残さず滅ぼし尽くすための力を求めた。LV99で覚醒したジンカイの過大能力は、汎用性こそ優れていたが殲滅に向かない能力だったから尚のことだ。
だから破壊神の眷族に相応しい力を求めた。
横綱を志した矜持など疾うの昔にかなぐり捨てた。ただただ群衆を殺し尽くせる破滅の力が欲しいと願ったジンカイは、更なる力をロンドに願い出る。
『あー、えっとな。くれてやりたいのは山々なんだが……』
ロンドは思い掛けず難色を示した。
『おまえさんに適合する破壊神の力は見当が付いてんだけど、120%のフルパワーを発揮できるのが大地母神……女神系なんだよね』
神、人、世――。
多くのものを創造したにも関わらず、それらの愚かしくも騒々しいことに耐えかねて、世界ごと駆逐するために数多の怪物を生み出した女神。
大海の化身にして、巨大な龍だったとされる大地母神。
それがジンカイに最適の力だという。
『これがおまえさんに最高に適してるベストマッチな力なんだが……女神だよ? 受け入れたら女になっちまうんだけど……どないするよ?』
破壊神なのに妙な気遣いをしてくれたらしい。
ジンカイは一も二もなく返答する。
『構いません! 群衆を殺し尽くせるなら……どんな力でも受け入れます!』
邪悪な大地母神の力をジンカイは受け入れた。
破壊と殺戮の力が手に入るなら、どのような姿になろうと厭わない。
何メートルにも及ぶ大蛇の下半身になろうとも、そこから無数の怪物の足が生えようとも、腹の奥に女性の器官が備わろうとも、腰回りが女性らしくくびれ、山と見紛うほどの乳房を抱えようとも、翼や角がいくつも増えようとも……。
怪物の如き巨女に変貌するのも受け入れた。
新しい横綱になるはずだった男はもうそこにはいない。
世界を食い散らかす怪物を生む――魔母。
ジンカイ・ティアマトゥの誕生した瞬間だった。
~~~~~~~~~~~~
「――だから俺は人間を憎むッ!」
何枚もの翼を羽ばたかせてジンカイは空に舞い上がる。
仕舞い込んでいた積年の想いを吐露したためか、少しは冷静さを取り戻せたのだろう。両腕をぶん回すだけにも飽きたらしい。
怪物化した両腕を振り上げて、握った拳を合掌させるように組む。
そのままハンマーよろしく叩き落としてきた。
プロレス技でいうところのダブルスレッジハンマーというやつだ。
間違っても両手の指を組み合わせてはいけない。小指の骨がイカレてしまう。勘違いされることが多いが、ジンカイのやり方がテクニック的に正しい。
怪物化した巨大な拳なので、破壊力も申し分ない。
その腕に膨大な“気”が宿っている。
あまりにも濃厚で強力な“気”に覆われた腕は、ただでさえ怪獣みたいに厳ついのに、その上に半透明の装甲で鎧われたような案配になっていた。
強化の度合いも半端ではない。
「……いかん!?」
ドンカイは反射的に防御姿勢を取ったことを後悔した。
こちらも頭上、大銀杏の上で野太い豪腕を交差させて防ごうとしたのだが、この体勢は不利になると事前に悟ってしまった。
ジンカイのハンマーを受けた瞬間、身体の真芯を電流が駆け抜ける。
防いだ両腕は短時間ながら痺れて感覚を失った。
のみならず、ドンカイを中心に隕石が直撃したように地面へクレーターが刻まれており、下駄を履いた足は臑まで地中にめり込んでしまった。
これでは咄嗟の足捌きに僅かな遅れが生じる。
まとわりつく泥土は、意外と行動に制限を掛けてくるものなのだ。
ジンカイは機を逃すことなく、追い打ちを仕掛けてきた。
相撲取りの面影がないほどくびれた腰を悩ましくうねらせ、半分蛇の鱗に覆われていても超安産型とわかる巨大な尻をたわわに弾ませる。
「群衆という愚かな群れとなる人間を憎むッ!」
大蛇の下半身を極太の鞭にして、必殺の威勢で叩き付けてきた。
埋もれた足では完璧に躱すことはできない。
ドンカイは豪腕を交差させたまま防御体勢を維持し、肉体の強度を上げて硬化させる技能を総動員させた。回避できないなら防御に専念するしかない。
案の定、大蛇の下半身にも“気”が満ち満ちている。
「人類という種全体を許せぬほどの怒りだッ!」
爆発的に膨れ上がったかと思えば、鞭の威力を倍加させていた。
耐えて防いだものの、クレーターごと薙ぎ払われる。
「ぐぬぬぬぬ……ッ!」
呻きながらも堪えたドンカイは、吹き飛ばされる最中に柔術系の技能を駆使して宙返りを繰り返すと、どうにか姿勢を整えて着地する。
足下を踏み締める両足は、地面を後退って長い線を引いていく。
山頂に広がる土俵にも似た戦闘領域。
気付けば――その土俵際まで追いやられていた。
「こやつ……気付きおったか」
痺れが取れない両腕を振りながら、ドンカイの口を突いて出たのは毒突くように荒っぽくも、研鑽を忘れない弟弟子への褒め言葉だった。
土俵の半分を食い千切る――巨大な牙を象ったエネルギー波。
それに先ほどから怪物化した腕や大蛇の下半身に這わせている、瞬間的にとてつもない強化を走らせる莫大な“気”。
それらはジンカイの過大能力を応用したものだった。
彼の能力は、邪悪な大地母神として怪物を無制限に生み出すもの。
その怪物を生み出す力を上手に転用していた。
子供を産む――それは恐ろしいほど生命力を要する行為だ。
人間ならば十月十日、どんな生物でも長い妊娠期間を経て自らの因子を受け継がせた子供を産む。そのためにすべての生命力を費やす種も少なくなし、万全の体調を保つために番となった雄まで貪る雌もいるくらいだ。
そうした観点で見れば、ジンカイの過大能力は非常に効率が悪い。
際限なく怪物を生める無限の生命力。
兵力や人手を無尽蔵に用意できると言えば聞こえはいいが、そのために莫大な生命力を消費しているのは否定できまい。
コストパフォーマンス的には最悪の部類だろう。
いくら常識はずれな過大能力といえども、個別の意志の持つ生物を生み出すのに費やす労力は計り知れないはずだ。一個の生命を創造するだけのエネルギーを他に回すことできれば、能力的に行える幅が大きくなるに違いない。
だから――無限の生命力を別のものへ転化させればいい。
本来なら怪物として生まれてくる生命力を“気”に戻し、破壊的なエネルギー波として放出したり、攻撃力や防御力を上げる強化へ使うようにしたのだ。
戦いの最中、無意識に閃いたのだろう。
その機転には触れず、ジンカイは恨み言を募らせる。
「俺が愚かしい群衆の戯れ言にどれだけ弄ばれたか……ッ!」
兄弟子は知ってるはずだ! ジンカイは悲痛に吠えた。
魔母の叫びは物理的な威力を帯びており、怪物として生まれてくる生命力が硬質的なエネルギー波となって襲いかかってくる。
「俺の善意を、俺の正義を……群衆は裏返しにしやがったじゃないか!」
それはもう哭き女の慟哭にしか聞こえなかった。
幾重にも連なる曲がった鉤爪、隙間なく刀剣を並べたような牙。
ハスキーな女性の声となったジンカイが咆哮を上げる度、そうした野獣の武器を意識した形状のエネルギー波が発射されてくる。
吠える声は止むことを知らず、ほとんど乱射の有り様だった。
それも一発が城を崩す大砲レベルである。
「下手に反論すれば悪手! 群衆は殊更に騒ぎ立てる! 人の噂も七十五日と我慢していれば、あることないこと次から次へと燃料を投下してくる! 庇ってくれる人や擁護してくれる人がいても! 自演と決めつけてこき下ろす!」
泣き声になりながらもジンカイは吠え立てる。
咆哮とともに放たれるエネルギー波を捌きながら、ドンカイは土俵際から離れるように前へと迫り出す。土俵際を嫌うのは力士の性なのだ。
敢えてドンカイは防戦に徹した。
ジンカイに思いの丈を吐き出させてやりたくなったのだ。
あの事件以来、口数が少なくなり塞ぎ込んでいた様子を思い出せば、誰にも相談せず打ち明けもせず、一人で抱え込んできたのだろう。
昔から何でも自力で解決したがる性質だった。
だからこそネガティブとなり、闇へ落ちる結果となってしまった。
そこに兄弟子として何の手助けもできなかった経緯を考えれば、弟弟子の苦悩に耳を傾けるのも罪滅ぼしみたいなものだ。
「群衆は醜いッ! 醜悪だ! 邪悪だ! 劣悪だ……人間なんかッ!」
大っ嫌いだあああーッ! ジンカイは絶叫を迸らせる。
それは山をも頬張る大きな顎を模した硬質的エネルギー波となって、ドンカイのいる山頂の広場を噛み砕いてしまった。
さすがにこれは防げん! ドンカイは一目散に飛び退いた。
二番目に選んだ土俵も消滅したので、新しい山頂の広場を選び出すと、そこを三番目の土俵とした。まだ空に舞うジンカイもそれを追ってくる。
「……俺はもう、人間を信じられない」
吐くだけ吐いて落ち着いたのか、声のトーンが下がっていた。
怒りや憎しみは行動を促す原動力としては爆発力こそあるものの、燃焼スピードが速くてすぐ燃え尽きる。そしてマイナスの思考に陥りやすい。
テンションが乱高下しやすいのが難点だ。
ジンカイもややダウナー状態に入ったと見える。
「人間どころか、この異世界の住人も……心ある者を誰一人として信用できない。似た境遇に遭ってきた……あいつらにしか心を許せなかった……」
「最悪にして絶死をもたらす終焉じゃな」
その構成員の大半が、悲惨な経歴を持つ者だと聞く。
言われなき迫害を受けた者、家族や身内に捨てられた者、不運な事故ですべてを失った者、他人の醜さから人間不信に陥った者……実に様々らしい。
同類相哀れむ――そんな心境なのだろう。
俯き加減でボソボソと泣き言めいたことを呟いていたジンカイだが、眉根を寄せてキッと顔を持ち上げると、叱責するような声を張り上げる。
「アンタにもわかるはずだ兄弟子!」
横綱としての現役時代――どれほど叩かれたことか。
「忘れたとは言わせませんよ! 俺にあんな愚痴ったじゃありませんか!」
「ぬぅ……耳が痛いのぉ」
この指摘は否定できない。ドンカイも眉尻を八の字に下げた。
世間から嘲笑されたのは大関・神海関ばかりではない。
横綱・呑海関もまたネットやマスコミの格好の餌食とされたのだ。
ドンカイはゲーム愛好家を公言している。
(※ついでに女性の臀部をこよなく愛することも公に認めている)
これはゲーム業界や多くのゲームプレイヤーからは賛同を得られたものの、一部の頭の硬い連中には不評だった。何かにつけてドンカイを叩く際に利用され、人格まで否定されることさえままあった。
やれ横綱の品格がどうとか、いい大人がお遊戯に夢中とか……。
テレビ、動画配信サイト、掲示板、SNS。
ドンカイがちょっとでも話題になる度、面白おかしく興味を引くようなタイトルで、個人の尊厳を踏み躙るように取り扱われたものだ。
他者を話のネタにして貶すことに悪気がない。
本人が傷付くなどの思慮は及ばず、気遣わないのだから当然だ。
その話題を見て嘲る群衆もまた然り――。
到底許せるものではない。ドンカイも業腹を極めたものである。
ジンカイの心中も酌み取ってやれた。
だがしかし――それをしては世が成り立たないのだ。
「人間なんて数が増えればこの様だ! 俺やアンタみたいに努力を重ねて夢を追う者を嘲笑して愚弄して蹴落とそうと……悪意の石しか投げてこない!」
ジンカイの巨体から絶大な“気”が膨れ上がった。
「そんな群衆に未来なんて勿体ないんだよ!」
吠える声に乗せていた硬質的エネルギー波を、全身を使って放出してくる。破壊力はおろかその規模も桁違いに跳ね上がっていた。
「世界諸共……来世の果てまで消えてしまえばいいッ!」
――翼を広げる巨大な魔神。
そう見間違えるほど驚異的なエネルギー波が降臨するように襲い来る。
「これが俺の本気だ! 兄弟子でも避けるしかあるまい!」
ドンカイが立つ土俵どころか、周囲の山脈ごと消滅させかねない。
これにドンカイは正々堂々と迎え撃った。
相手を生命力を押し固めたエネルギー波とは判断せず、巨大な魔神として見ることで攻撃の尖端を正確に捉える。そこさえ外さなければ問題ない。
逸らすように受け流し、そこに自身の力を足す。
海と繋がる過大能力で海流を乗せることで、更に加速させていく。
「――潮流うっちゃり!」
ジンカイのエネルギー波を巻き込んで取り込み、空へ打ち上げる波動砲のような海流へと仕立てる。直撃すれば無敵艦隊でも一飲みにする威力だ。
大空を海の激流が貫かんとする。
「はっ!? え!? なっ……海流が空を飛ぶだと!」
上空へと押し寄せる想定外の津波に、ジンカイもたじろいでいた。
条件反射は身についた癖が出やすい。
大地母神の力に頼っていたジンカイは、空を征く海流を避けきれないと判断するや否や、無数の魔獣を創り出して防御壁にした。
浴びれば皮や肉どころか、骨さえ藻屑とする激流。
魔獣たちは瞬く間に溶けて消えたが、ジンカイはノーダメージである。
しかし、防御壁のせいで視界が塞がれていた。
海流を空へ打ち上げた直後、その後ろへ続くように間合いを詰めていたドンカイにまったく気付かず、懐まで踏み込むのを許してしまったのだ。
ドンカイは張り手を打ち出す構えを取った。
警戒して身構えるジンカイのガードを、ドンカイの腕はすり抜ける。
「こぉのぉ…………大馬鹿者がッッッ!」
突き出したのは兄弟子からの愛の鞭――ビンタだった。
無論、ただのビンタではない。
指導した兄弟子としての愛情も込められているが、海と繋がる過大能力の応用で編み出した、大打撃を負わせる震動波を仕込んでおいた。
まともに喰らえば数秒は行動不能となる。
張り手を用心したジンカイは、左頬がへこむほど食らっていた。
「ぶほぉ……い、痛ぇ……ッ!」
飛行系技能を使うどころか飛翔能力があるか怪しい翼も羽ばたけなくなり、ジンカイは重力に引っ張られて土俵へと墜落した。
「くっ、おのれ小癪な……ッ!?」
仰向けに倒れ伏したジンカイは急いで上半身を起こそうとしていた。
その前に降り立ったドンカイは説教を始める。
「人間が俗悪で群衆が醜悪なのはな……当たり前なんじゃ!」
「……え? は、はぁ!?」
兄弟子の口から人間否定の言葉が出てきた。
逆に言えば、ジンカイを肯定して擁護するような発言である。
意外すぎて呆気に取られたのか、ジンカイは開いた口が塞がっていない。腫れ上がるくらい真っ赤な手形がついた頬を痛そうに摩っている。
反論する暇を与えず言葉を連ねていく。
「人間はそもそもからして悪なんじゃ! 人間が五本指なわけを知っておるか? その指三本はな、貪欲、嫉妬、愚痴を司っとるからじゃ! 残りの指二本が慈愛と知恵を司っているんじゃ! ほれ、三対二でそもそも負けとる!」
人間は醜く愚かで哀れなさもしい生き物。
「慈愛と知恵で抑え込んでも、貪欲な心は誰かを嫉妬して愚痴ってしまう。これはもう人間の性じゃ……大なり小なり、人間はそういう生き物なんじゃ」
群衆となって集えば尚更だ。
烏合の衆や衆愚などの言葉通り、ただただ愚劣な集団と成り果てる。
謂われなき中傷を浴びた横綱も痛感してきた。
「目立つ者はな、いつもそれに振り回される……人気者、為政者、権力者、そうした地位にある者は、悪口雑言に耐えかねてすべてが疎ましくなろう」
だが――間違っても群衆を憎んではならん。
大事な一点をきつく申し渡す。
「奴らは自身が特定されないからこそ、悪となるだけの愚か者に過ぎん。その本性は、小悪党にもなりきれぬ臆病な小心者……そう思って見過ごさねばならん。決して憎んだり疎んだりしてはならんのじゃ」
上にいる者が下を憎み――下にいる者が上を疎む。
それはいずれ最悪の事態を招くだろう。
「そうなれば誰も幸せになれん。上に立つ者はすべてを下劣と拒み、下にいる者は非生産的な狂乱に惑う……世は無法の地獄となって乱れるじゃろうな」
だから耐えろ、聞き流せ、相手にするな。
群衆に構う暇があるなら、更なる高みを目指せ。
「かつておまえが横綱を目指したように……直向きに精進せよ!」
言い切った兄弟子に弟弟子が反論してくる。
泣きそうな顔で、教えを請うような必死の形相だった。
「何を言われてもか!? 俺の人生を否定するような批難でさえも……!」
だったらこう考えんか! ドンカイは叱り飛ばす。
「悪口を言われたら悪口で返す! どこのアホたれな悪ガキじゃ! そんなもん猿より低能、進化も進歩もしとりゃせんわい! アホな餓鬼どもの繰り言なんぞ無視を決めればいいんじゃ! おんどれも腕っ節一本で大関までのし上がったのなら、そんな幼稚な連中の戯れ言に付き合うな馬鹿たれが!」
言わせたい奴には言わせておけばいい。
「自らの行いを是とするならば、ひたすら邁進すれば良い!」
匿名の名無しでなければ自分の主張も口にできないような連中の言葉に、自分の夢に取り組む求道者が耳を貸すことはない。
「果てない高みを目指す者が、心ない連中の妄言に惑わされるな!」
道を踏み外したのは群衆の愚劣さではない。
「愚鈍な群衆に感化された……おまえの敗北であり愚かさじゃ!」
ジンカイの表情から張り詰めたものが抜ける。
面と向かって言葉を投げ掛けなければ、わからないことはあるものだ。
同様に、自分の過ちにも気付けないものである。
「おまえが娘さんを救った一件はちゃんと褒められたではないか! 陰口を叩いていたのはほんの一部! おまえの功績を妬むやっかみ連中じゃ! そんなもん時が流れれば自然と収まるもの! 横綱昇進は時節を弁えて延びただけ! だから辛抱せいと、口が酸っぱくなるまで申しつけたではないか!」
張り裂けんばかりに声を荒らげるドンカイ。
「神海! おまえは……呑海を越える横綱になれたはずなんじゃッ!」
本心を打ち明けた時、感極まったこと思い知る。
「なのに、愚か者どもに惑わされて道を誤りおって……このバカモンが!」
ドンカイは滂沱の涙を流していた。
片手で涙を拭い落としてから、ドンカイは静かに言葉を続ける。
「その後に起きた事件は、不幸と言わざるを得ない……あの男も息子を亡くして正気を失い、世間にあふれる情報に踊らされた犠牲者じゃ……」
出刃包丁を突き立てられた左足が疼く。
この一件に触れると、ジンカイの顔色も悪くなり強張っていた。
未だに自責の念を感じるのだろう。
自分の事件に巻き込んだせいで、兄弟子から横綱の称号を奪ったと……。
ドンカイは明言する。
「ワシの怪我は――あの場に居合わせた結果に過ぎん」
緊張が漲るジンカイの表情に変化が現れる。
思いも寄らぬ言葉が出てきたことに、露骨なくらい狼狽を露わにしていた。刹那のうちに喜怒哀楽が駆け抜けたような目まぐるしい変化だった。
小刻みに震え、濡らした目元を俯かせていく。
顔を逸らすジンカイに、ドンカイは伝えられなかった言葉を手向ける。
「おまえのせいだとはこれっぽっちも思っておらん」
もはや過ぎたことだ。思い返しても禍根にするつもりはない。
そう付け加えるとジンカイは完全に項垂れ、現役時代よりも女らしく撫で肩になった柔らかい肩を痙攣させるように震わせていた。
「おまえがワシを守ろうとして頭に血が上ったあまり、あの男を突き飛ばしたのは詮無きこと。死なせてしまったことは……不運というより他はない」
事実、ジンカイは正当防衛が認められている。
業務上過失致死にも問われたが、あの状況では致し方あるまい。
「あの怪我でワシが引退したことや、あの男の死について罪悪感は覚えよう……だがな、自らの人生を投げ捨てることには繋がらん」
自暴自棄となり、道を踏み外した理由は群衆憎しばかりではない。
――兄弟子への申し訳なさ。
事件に巻き込み、横綱の称号を奪ったという罪の意識もあるはずだ。
「犯した罪から逃げるなとは言わん。ただな、群衆に憎しみをぶつけて誤魔化そうとするでない……いいか、ワシが怪我をした一件はな」
ジンカイが責を負うことはない――自身を責めることはない。
「いいかげん自分を許してやれ! そして、人間を憎むのを止めよ!」
――群衆を憎むなとは言わない。
あれは構わなければ大したことはない。見向きしなければ無害なものだ。覗き込めば引きずり込もうとする底無し沼に似ている。
『深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているのだ』
怪物という名の精神破綻した犯罪者と戦う者への格言だが、群集心理もこれに似通っている。群衆に関わる者は、群衆の愚かさに汚染されやすい。
関わらないのが吉――これがドンカイの持論である。
ジンカイはまだ撫で肩を震わせていた。
俯いた顔からこぼれ落ちた涙が、土俵を思わせる広場の地面に水滴の跡となって刻まれている。涙の滴は降り始めた雨のように数を増していく。
「……くっ、ふっ……フフ、フフフフ……」
怪物化した手で口元を覆うジンカイ。
押し殺した笑いが漏れてきた時、さしものドンカイもギョッとした。
骨の髄まで墜ちたか!? と思わず警戒する。
「…………ズルいですよ兄弟子」
持ち上げられたジンカイの笑顔は穏やかなものだった。
涙を流したまま情を求める声で訴えてくる。
「群衆の醜さに散々やり込められたのは、兄弟子だって同じ……そう思って動揺を誘ったり、こちらへ引き込もうとしたのに……そんな高潔なところをまざまざと見せつけられたら……兄弟子は、俺にとって憧れだったから……」
両腕を地面についたまま、再びジンカイは項垂れようとする。
見ようによっては土下座にも見える姿勢だ。
「そんな人に、そんな風に言われたら……俺は、俺は…………ッ!」
ジンカイは泣き崩れそうになっている。
この涙にドンカイは一縷の望みを垣間見た。
まだ――やり直させられるかも知れない。
死して償うよりも修羅の道だが、弟弟子にはその過酷な道を勧めたい。
将来を見込んだ若者をドンカイは見捨てたくなかった。
ジンカイの額が地面に触れる寸前、ドンカイは四股を踏んだ。
土俵代わりにしていた山頂の広場。それが揺らぐばかりではなく、周囲にいくつもある台形の山々、山脈丸ごと揺るがすほどの四股である。
力士の本能で察したジンカイは顔を上げた。
「泣くのは勝負が終わってからじゃ。ほれ、まだ決着はついとらんぞ」
四股を踏み終えたドンカイは身体をせり上げる。
伸ばした両手を顔の前で叩き合わせ、左右へ大きく開いていく。
「こんな説教でサッパリ落ちるほどの闇じゃあるまい。ノイローゼになるまで抱え込んだ鬱屈した想念……この場で全部吐き出すがいい」
兄弟子が――胸を貸してやる。
横綱らしく不知火型に構えたドンカイは、弟弟子を迎え入れてやった。
ジンカイは泣き腫らした顔のまま頬を釣り上げる。
好戦的な笑み、勝負に挑む眼差しだ。
「……感謝します、横綱」
身体を起こしたジンカイはお辞儀をしてきた。
ゴジラみたいになった手でも器用に涙を拭うと、大蛇の下半身をうねらせてドンカイから離れていく。適正距離まで移動するつもりだろう。
神族化した力士に普通の土俵は狭すぎる。
半径500mはある、この広場でさえ窮屈に感じるほどだ。
100m程度の間合いを目算で計ったジンカイは、その場で腰を下ろした。相撲の立ち会いらしい所作だ。後は行司の合図を待つばかり。
ドンカイも腰を落としてその瞬間を待つ。
短い静寂が訪れた後、二人の力士は行司からの掛け声を夢想する。
はっけよい――のこった!
動き出したのはほぼ同時、先手を打ったのはジンカイ。
大蛇の下半身をスプリングにして空高くへ跳躍し、何枚もある翼を広げて威嚇のような姿勢を取る。その体内では凄まじい生命力を滾らせていた。
先ほどの全身から放ったエネルギー波。
あれをより洗練させたもの打ってくるのは明白だった。
「兄弟子! アンタみたいに技へ名前を付ける趣味が俺にはないッ!」
膨張させた“気”を硬質化させて解き放つ。
増大させすぎたエネルギー波は、質量を備えて世界を圧壊する域に達しており、複数の国を攻め落とすような範囲攻撃と化している。
「だから生のままで喰らえええええええええええええええーーーッッッ!」
攻め寄せてきたのは――巨大な女神だった。
先刻の攻撃だと巨大な魔神と見間違えたが、この硬質的エネルギー波は翼を広げた女神の外観を保っている。純白に染まる偉容があまりに神々しい。
もしもこれにジンカイの心象が現れているとしたら……。
更生の機会はまだあるのかも知れない。ドンカイの眼差しに希望が走る。
見た目を整えただけではなく攻撃力も段違いだ。
次元が違うレベルで高められており、為す術なく押し潰されかねない。
先刻のようなうっちゃりで投げ返すのも難しいだろう。
「ならば……正面から打ち破るのみよ!」
ドンカイは「見合って見合って」の姿勢から身を起こす。
両足を広げて不動の構えを取り、左手を前に突き出しながら右手を引き絞るように腰撓めへと構えていく。正拳突きのポーズに近い。
引き絞った右手に過大能力を発動させる。
過大能力――【大洋と大海を攪拌せし轟腕】。
ドンカイの両腕は真なる世界の海と繋がっている。
海洋や河川の流れを召喚するに留まらず、津波の震動波を利用したり海流の力場のみを喚び出したりと、ドンカイなりに試行錯誤を繰り返していた。
ジンカイの範囲攻撃を押し返す。
いいや、いっそ押し流す。ジンカイの負の感情ごと洗い流すようにだ。
そう決意した瞬間――異変が起きた。
【過大能力――未踏極到達・未界真力層・解放】
どこからともなく無機質な音声が何事かを知らせてくる。
機械的で人間味のない声だった。
過大能力――【大洋と大海を攪拌せし轟腕】。
――【聖化確認】
過大能力――【大海洋の神流にて万物を聖浄せし豪腕】。
これまでにない手応え、新しい領域が広がるのを感じる。
過大能力の本質こそ変わらないが、これまで不可能とされた効能を付与できるようになった感触だ。しかも、この状況に即した効果を期待できる。
――過大能力を強くするのは想像力。
軍師を標榜する仲間の台詞を思い出し、同意せざるを得ない。
新しい力に目覚めた過大能力を使い熟すべく、ドンカイは腰に溜めていた右手に更なる力を注ぎ込んだ。臨界点に達した時、一気呵成に解き放つ。
「――巨灘蒼海波ッ!」
渾身の張り手から繰り出されるのは、万象を押し流す大津波。
ジンカイの放った巨大な女神の形をしたエネルギー波を食い止め、こちらに猛襲を掛けてくる前に押し返す。エネルギーを洗い落とすように奪い取り、その余波は連なる山脈を根刮ぎ削り取るように洗い流していく。
「これが……兄弟子の本気かッ!?」
女神型のエネルギー波を盾にすることで、ジンカイは直撃を免れていた。
津波が通り過ぎた後――山脈の七割が流されていた。
女神型のエネルギー波も消え去っており、いくらか津波を被ったのかジンカイも頭からずぶ濡れになっていた。
「ただ強い津波じゃない……なんですか、あれは?」
どこか訝しげなジンカイは、非対称に見開いた両眼で睨んでくる。
濡れそぼった邪悪な大地母神。
その翼が酸でも浴びたかのように溶けかけており、怪物化した腕からは鱗や獣毛が剥がれ落ち、大蛇の下半身に生えた無数の足も萎縮していた。
十数mあった巨体もかなり縮んでいる。
「俺の力が、破壊神の力が弱まってる……これは、弱体化か!?」
弱体化ではない。だが、ネタばらしには早すぎる。
ドンカイは右手を突き出したまま黙っていた。
「だが……兄弟子の全力を凌げることがわかった! だったら根比べだ! どちらから力尽きるまで、何度でも何度でも大技をぶちかまして……ッ!?」
勝負はこれからと意気込むジンカイの動きが止まる。
姿勢を保てないほどの追い風を受けて、前のめりに転びかけたからだ。
「なんだ、この風は……ッ!?」
弱体化したとはいえ怪物の母になれる巨体は健在。
それほどの恵まれた体格でも倒れそうになるほど、強烈な激風が吹きつけてきたのかと驚いていた。思わず背後へと振り返る。
瞳孔を縮めたジンカイは、眼球をこぼれそうになるまで眼を剥いた。
流れ去ったはずの大津波が戻ってきたからだ。
追い風の正体は、戻る津波が連れてきた強力な波浪である。
「――波とは寄せて返すものじゃ」
右手で突き出した張り手を構えたままのドンカイは、その時の反動で腰撓めに引き絞った左手に、海と繋がる過大能力を再発動させていた。
左手に渦巻く海の力は、最初に放った大津波と呼応する。
わざと呼び戻してもいた。
「押し寄せる波が大きく、引き返す波が大きいほど、次にやってくる波の高さと規模は果てしなくは大きくなる……それは絶壁と見紛うほどにな」
右手の一発目は渾身の力を込めた牽制。
これで勝てれば儲け物だが、LV999相手に慢心は命取りである。
左手の二発目は――全身全霊を叩き込んだ本命だ。
一発目の津波が戻る際、見渡す限りの空間を徹底的に掻き乱して、防御はおろか反撃さえままならぬよう仕込むのも忘れていない。
戻る波は押し流した一切を取り込み、その力を確実に増幅させている。
そんな波をドンカイの左手は吸い上げていく。
寄せて返す荒波に、魔母と化したジンカイの巨体ですら翻弄される。
ドンカイの間合いにまで寄せてきた瞬間が好機だった。
一発目とは比較にならない、すべてを大海に沈める大津波を起こす。
「――巨灘呑海波ッッッ!」
すべてを水に流す大聖流が解き放たれる。
「ぐぉっ……あああああああああああああがぼごぼぼぼぼっごぼ……ッ!?」
邪悪な大地母神は悲鳴とともに波へ浚われていく。
大地どころか空まで覆い尽くすような、すべてが海の底へ飲み込まれてしまうと恐れを抱くほどの、規格外な巨大津波が発生したのだ。
ジンカイはその直中へ放り込まれていた。
そして、浄化の力を付与された海流に身も心も浄められていく。
心ない群衆のせいで心に溜め込んできた澱も――。
破壊神の眷族として授けられた破滅の力も――。
愚直で実直がゆえに汚濁に染められた純真さを取り戻すまで、聖なる力を宿すようになった海流で念入りに清めてやった。
その際、破壊神と交わした契約も破棄させる。
兄弟子として、悪党との縁切りを弟弟子に強要した気分だった。
守護神と破壊神の盤上――№08のコインが水へ溶けるように消えていく。
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