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第17章 ローカ・パドマの咲く頃に
第425話:二者択一で選べる選択肢は四つ
しおりを挟むバグベアの過大能力――【小説は現実より奇想天外であるべし】。
運命というシナリオを書き綴る能力、とはバグベアの解釈だ。
実際にはレオナルドの見立て通り、運命と呼ぶべき他者のパーソナル空間に改変を加えることを主体とした空間操作系の過大能力である。
まず最初にバグベアが他者を認識する。
すると彼の手元へ一冊の書物が生成される。そこには認識した他者の人生が認められていた。今日までの半生は勿論、これから進もうとする道筋や選ぶべき選択肢まで、その人物のこれまでとこれからが綴られている。
これから――未来に関しては確定ではない。
その人物の性格や経験、置かれた状況に基づいた情報が小説的に描写されており、恐らくこうなるだろうという未来が憶測を交えて書かれている。
あくまでもその人物視点でだ。
ただ、未来予測の的中率は八割近いのでなかなかのものである。
これは運命を記した本であり、運命を一冊に綴じた空間。
一見すると書物にしか見えない圧縮された空間には、そこに記された人物の運命が綴られている。本人が忘れたことまで克明に書かれており、弱点と成り得る情報や恥ずかしい思い出に辛い記憶まで余すところなく記されていた。
ただし挿絵はない。文章のみで描写されている
これにより対象の個人情報を赤裸々に暴くこともできた。
それだけでも結構な能力だが、バグベアの真骨頂はここで止まらない。
この書物へ書き加えると当人に反映される。
極端な話、「果物ならリンゴが好き」という嗜好を「果物ならドリアンが好き」に書き換えれば、昔からドリアンが好物なんて現実改変が行われる。
趣味、思考、身長、体重、性別、外見、経歴……。
果ては年月日を変えれば、年齢までも書き換えることが可能だった。
過去を書き直すことで運命を修正できる能力である。
そして、未来さえ思いのままに誘導できた。
この運命を綴じた書物。未来へのページは白紙なのだが、そこに「こういう人生を選びなさい」とシナリオを書いてやれば、その人物は「こうするのは自分の意志だ」と信じて疑わず、バグベアの思惑通りに動いてくれた。
心理から情景まで事細かに描写するほど効力が高まる。
過去も現在も未来も――筆先の思うがまま。
バグベアの書いた運命というシナリオに翻弄されてくれるわけだ。
ただし、力関係による効果の差はある。
バグベアもLV999の神族(破壊神からの能力付与のおかげ)、普通の人間や現地種族、あるいは格下の神族や魔族ならば運命を改竄できた。
それはもう完璧にして完全にである。
かつてお試しで、十人くらいのヒャッハーな野郎どもの運命を書き換えて、ロリータ美少女のハーレムを作って遊んだりしたのだが、彼女たちが彼らに戻ることはなく、かつての記憶を取り戻すこともなかった。
過大能力によって課せられた強制力はそれほど強固なものだ。
だからこそ――同格には通用しない。
LV999の神族や魔族の運命は書き換えにくかった。
そもそもの話、ロンド様や敵方の大ボスだというツバサ氏のように常識の埒外にいる強さの人物は、運命を書物にすることさえ許されない。
他のLV999は大なり小なり書物化はできるのだが、重要なページは検閲されたかのように黒く塗り潰されていることが多い。前後の文章から類推すればなんとなく読み解けるのだが、肝心な部分は読めなくなっていた。
強さの格差で抵抗されるらしい。
それでも作家なりに加筆する箇所は見出せる。
たとえ格上の強者であろうとも、バグベアのシナリオを無視することはできない。運命に綴れたシナリオは逃げることも抗うことも能わないのだ。
『人は言います――事実は小説より奇なり』
物書きには心外な言葉だ。
我らの構想する小説より奇抜な筋書きなどどありはしない。あらゆる物語は事実を規範として描かれるが、それゆえに現実を凌駕するものだ。
一人の創作者として、バグベアはそんな自負があった。
『ならば小生、事実など及びもつかない奇異なる小説を書いて進ぜましょう』
そんな気概を掲げてバグベアは破壊神の傘下に伏した。
バグベアが描きたいのは――最悪のシナリオ。
いつまでも胸の奥にへばりつく嗚咽ような読後感。
昂揚感や到達感などは一切なく、残るのは心に傷を負うほどの後味の悪さ。登場人物の誰もが一人として幸せになれず、どうしようもない破滅を迎えて幕を閉じる、どんなに足掻いても救いがない末期な最期。
生死を懸けた勝負なら、壮絶な死闘の果てに凄絶な相討ちによる共倒れ。
敗者もなければ勝者もいない最悪の終わり方だ。
こんなシナリオばかり好んで書いていたから、ついには文筆業界からも追放された身の上であるが、バグベアには後悔など微塵もなかった。
『小生の書きたい物語を書いて何が悪いのですか?』
鬱々としたシナリオしか書けないこんな物好きな物書きであろうとも、幾許かの固定ファンはいたのは事実だった。バグベアは確信している。
――最悪を求める心はある。
どんなに幸せな人間でも心の片隅に巣食わせているはずだ。
血も涙も慈悲も救いもない、報いだけを強いられるえげつない終幕を欲する心は誰にでもある。終末思想はこの世の終わりという解放感を欲するばかりではない。
悪意に満ちあふれた終焉を望むものいるのだ。
ゆえに――最悪にして絶死をもたらす終焉。
すべての生ある者を殺し、あらゆる形ある物を壊し、形而下も形而上も区別せず滅する終わりを求めるため、バグベアも破壊神に膝をついた。
この世界とそれを守ろうとする者たちを滅ぼすために……。
いつか、破壊神とその先兵たちをも最悪で終わらせるために……。
しかし、彼らはバグベアと同格かそれ以上であるために、前述した通りに運命を操ることは難しい。こちらの用意したシナリオにも「誰が従うかバーカ!」と逆らい、反抗の意を示して思い通りになろうとはしなかった。
LV999のシナリオを書き換えるのは至難の業だ。
それでも――不可能ではない。
彼らの運命を記した書物を紐解けば、そこから為人が読み取れた。更に丹念に読み解いていけば、弱味ともいうべき心の歪さが浮かび上がってくる。
その歪みに付け込む。
まだ未来が確定していない白紙のページ。
バグベアはそこを真っ黒にするべく、圧倒的なテキスト量のシナリオで埋め尽くす。抗うこともできない宇宙的恐怖を描いた某SF作家の御大、その日本語翻訳版ばりに紙面を文字の洪水で覆い尽くしていく。
その際、心に生じた歪みを思い出すよう仕向ける。
忘却の彼方にあった罪悪感を想起させたり、恥ずかしく大っぴらにできない行為を込み上げさせて後ろめたさを募らせたり、とにかく刺激してやるのだ。
人間は時として嫌な記憶を思い出す時がある。
恥ずかしさや苦しさが原因でもいい。そうした記憶をふと呼び起こす。
こうしたマイナスの追体験は、平常心を保てなくなるほど精神を掻き乱すものだ。誰しも一度や二度は味わったことがあるのではなかろうか?
平素でも気持ちは揺らぎ、心の安定感も頼りない。
況してや戦闘中ならば気もそぞろになるのは確定事項である。
バグベアはそれを人為的に引き起こす。
この場合、運命というシナリオを綴る文学神による奇跡なので神為的という漢字が相応しいかも知れない。
隠していた心の隙間を思い出させ、最悪の気分を催させていく。
LV999の神族や魔族といえど、ほとんどが元を正せば地球で普通に暮らしていた元人間。心に負った古傷に爪を立てられれば身悶えよう。
極限の集中力が求められる決戦ならば命取りだ。
そこへ更なる追加シナリオを書き込み、自滅へと追い込んでいく。
まだ不確定な白紙のページ、これからが記される未来の余白。
バグベアは万年筆を走らせ、そこに最悪な方法で死に絶えるシナリオを書き足すのだ。コンマ一秒も永遠に感じる集中力を要求される、そういった決着の瞬間などはバグベアにとって最高のタイミングであろう。
そのタイミングを――絶死のシナリオで刺せばいい。
記憶を揺さぶり動揺を引き起こさせてトドメの一撃をしくじり、逆に相手から反撃を受けて死に絶える展開へと物語の道筋を整えてやればいい。
相手も相手で反撃できたはいいものの、受けた攻撃はやっぱり致命傷となるものでそのまま死んでいく未来を描いてやる。
如何なLV999とて、防ぐことはできない最悪の瞬間を狙う。
最悪にして絶死をもたらす終焉も四神同盟も関係ない。戦っている両者の運命を書物に綴じて、双方相撃つようなシナリオを仕立てればいいのだ。
……そう企んでいた時期もバグベアにはありました。
四神同盟の軍師――レオナルド・ワイズマン。
自分と同じく空間操作系の過大能力を持つこの男に、バグベアの運命を書き換える過大能力はすべて遮断されていた。こちらの書いたシナリオは届かないが、彼らの運命が変更されることなく進んでいくのは確認できた。
運命を記した本を端末にして対象の情報こそ受信はできているが、バグベアの書いたシナリオという送信だけを阻害されている感じだ。
自分の書いたシナリオが通らない、その現状を見せつけられている。
忌々しい――作家として屈辱だった。
書いても書いてもボツを喰らった暗黒時代を思い出してしまう。
最悪のシナリオを書くことを至上とするバグベアだが、まさか自分が最悪の目に遭わされるとは想定外も甚だしい。
ならばレオナルドに最悪のシナリオを書いてやろうと目論むも、悲しいかな戦闘力に歴然とした差があり、逃げ惑うので精一杯だった。おまけに書いても書いても悉く空間を操られて防がれるので通じやしない。
このまま追い詰められれば、あの“気”でできた杭で串刺しだ。
仕方なくバグベアは諦めた。
レオナルドには最悪ではなく最高のシナリオを贈ると決心する。
最高に幸せになれるシナリオだ。
彼にしてみれば幸福極まりないシナリオとなるに違いない。
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本物の吹雪と見紛うほど、空を埋め尽くした小説の断片。
1枚1枚のページは墨を塗りたくったのかと錯覚するほどの文字数で埋め尽くされており、おかげで紙吹雪も白と黒のコントラストが明滅している。
その中心にバグベアは佇んでいた。
我ながら大正時代の文士を見事に再現したファッションだと思う。
ざんぎり頭の再現率にも自信があった。
「人の心というものにはですね……必ずと言っていいほど内包しているものがいくつもあるのですよ……どんな人間にも標準的に備えているものがね」
口遊むバグベアは偽物だ。
本物はこの紙吹雪のどこか、1枚の紙片にまで圧縮された二次元空間に隠れ潜んでいる。他の紙吹雪にも自身の情報をコピーした囮を仕込んでいるので、探知能力を働かせれば働かせるほど困惑するに違いない。
先ほどから杭を乱射され、危うい場面があったのはご愛敬だ。
こうして偉そうに高説を並べる余裕はあった。
「喜怒哀楽は当然として……まあ、生まれ付きそれらの感情がないなんて主張する方もいなくはありませんが、実際にはちゃんとあるんですよ」
個人差があるだけでね、とバグベアは悠長にお題目を唱えていく。
その間も――右手に構えた万年筆は走っている。
左手で支えてこそいないが、手を添えるように宙へ浮いている和綴じの本。その真っ白な紙面を埋めるべく、猛烈な勢いで執筆を続けていた。
白紙の海は活字の海へと塗り変わる。
シャカシャカと小気味いい音を立てて紙面を踊る筆先は、秒間何万文字も綴っていき、ページを真っ黒に染めていった。
文字で埋まったページは切り離され、軽やかに宙へ舞い上がる。
そして、紙吹雪の一端として溶け込んでいく。
これらは活字の海、そして高密度に凝縮された情報の坩堝だ。
「心の隙間もそのひとつです……これを弱味や短所だと思う方が大半のようですが、実際にはそうではありません。心の隙間とは、何をどうやっても埋め合わせることのできない精神の亀裂……それは無意識下に追いやった真の願望……」
その発露なのです、とバグベアは持論を展開する。
口を動かしながらも執筆作業は止まらない。
むしろ書き上げられるページが増えていき、それが紙吹雪の量を瞬く間に増やしていくと、レオナルドの眼前に集まって一塊になろうとする。
「心ある者ならば誰しも望みを抱きます……ささやかなものならば容易く叶うでしょうが、様々な事情から達成困難なものがあるのも否めません」
欲望、渇望、熱望、要望、希望――望みの有り様は数え切れない。
だが、真なる世界ならば叶うものも少なくなかった。
特に多くの魂の経験値を稼いできたプレイヤーならば、神族や魔族になることで大概のことは思いのままとなる。力も技も肉体も思いのままだ。
物質的欲求も精神的欲求もほとんど満たせるだろう。
「だけれどね……叶わぬ望みはあるでしょう?」
貴方にもありますよね? とバグベアは丸眼鏡越しの目を細めた。
我ながらいやらしく弓なりに曲がるものだ。
厭味な視線を見咎める余裕すらないらしい。眼前に集まる紙吹雪が次第に形作っていく人型、その出来映えからレオナルドは目を離せずにいた。
バグベアの独白も耳に届いているか怪しい。
「他人に指摘されずとも、叶わぬ望みというのは自覚してしまうもの……そういった望みは得てして無意識の底に封じられます。夢見るだけに留めておかねば、やがて日常生活に支障を来しますからねぇ……」
だからと言って――忘れられるわけがない。
自意識や理性で蓋をしても、無意識に閉じ込めた欲望は膨れ上がる。
この時に起きる軋轢から心に隙間が生じるのだ。
既に述べた通り、神族や魔族となった多くのプレイヤーは大体の望みを叶えているはずだ。大概のことは魂の経験値で融通が利いてしまう。
現実世界では造れないものを完成させた工作者もいるだろう。
悩まされてきた肉体や体質を改善できた者もいるだろう。
これまで使えずにいた技術を扱えるようになった者もいるだろう。
だが、それでも尚――叶わぬ望みはあるものだ。
標的たるバグベアを探すことも忘れ、徐々に形作られていく幻影に目どころか心まで奪われつつあるレオナルドは痛感していることだろう。
彼の叶わぬ望みは実にわかりやすかった。
レオナルドの運命を書物にはできたが、ほとんど検閲されていた。
黒く塗り潰されて読めない箇所は多かったものの、彼がその30年足らずの半生で追い求めてきたものは手に取るようにわかった。
隠された部分が読めずとも、前後の文脈から読み取れる。
検閲で隠せないほど、彼の人生は彼女によって染め上げられているのだ。
レオナルドは1人の女性を想ってきた。
彼女と悲しい別れを体験し、失意の奈落へ叩き落とされてもだ。これは現在進行形であり、真なる世界へ転移しても彼女を忘れたことはない。
いいや、執拗といっていいほど固執していた。
それは――大きな心の隙間である。
バグベアはすべてを承知した上で焚き付けていく。
「たとえば……遠い昔に死んだ人、二度と会えない生き別れた人……そういう人と再会を果たし、幸せな逢瀬を過ごすなど叶わぬ夢……夢想の彼方ですよね?」
レオナルドの叶わぬ望みがまさにこれだ。
彼の運命から読み解いた情報を元に彼女を再構築する。
紙吹雪が形作っているものがそれだ。
幾重にも紙を貼り付けて張り子を作るかのように、紙吹雪はレオナルドが追い求めてきた女性を形作る。一枚一枚に彼の運命から拾い上げた情報が詰め込まれているので、少なくともレオナルドを信じ込ませることは可能だ。
これは――レオナルドの内面世界にいる彼女。
本人の正確な情報に基づいた精巧な分身ではなく、レオナルドがずっと心に抱いてきた理想の女性像を投影したに過ぎない。
ゆえに心の隙間へ入り込みやすい。
心の隙間を埋めるために思い描いてきた理想を、寸分違わず具現化したのだ。心の隙間へぴったりフィットすることが約束されている。
VRMMORPGのGM №03 マリア・ナムゥテール。
現実では大海真理明と名乗っていたらしい。
GMという同僚から交際へ発展したかと思えばさにあらず、レオナルドは幼少期に彼女と出会い、そこで抱いた恋心を今日まで引き摺ってきたようだ。
随分と年季の入った恋愛感情である。
確かに、一目見ただけで忘れられない印象的な美女だった。
身長は170㎝前後、女性としてはやや高い背丈になるのだろう。それゆえに頭身が高くて全体のスタイルバランスを取るのに一役買っている。
過剰なまでに母性的、慈愛の微笑みを絶やさぬ優しい容貌。
やや細い瞳はいつも微笑んでいるためなのだろうが、時として非常な冷徹さを秘めた細目の印象も受ける。侮れない強者の雰囲気さえ湛えていた。
亜麻色の長い髪をふんわり切り揃えている。
姫カットという髪型に似ているが、少々異なるバリエーションだ。
ここまで簡易的に記した文章だけで、マリアなる人物が優美な女性であることはご理解いただけたと思うのだが、「忘れられないほど印象的?」と懐疑的な訝しさを感じさせてしまうかも知れない。
安心していただきたい。その確信的な説明はこれからだ。
彼女はとてもインパクトのある体型をしていた。
有り体にいえばグラマラス、やや死語を使えばダイナマイトボディ。
並外れて大きな胸や臀部を抱えながらも、ウェストなどの胴回りはキュッと引き締まり、グラビアモデルも裸足で逃げ出すスタイルの持ち主だった。
ただし、乳房やお尻の大きさは尋常ではない。
それなのにウエストを始めとした胴体は引き締まり、手足にも余分な肉はついてないと思えるほど、奇跡的と褒めるしかないスタイルを成し遂げていた。
四神同盟を実質的に率いる大地母神ツバサ・ハトホル氏。
レオナルド氏に惚れ込でいる爆乳特戦隊。
彼女たちも類い希なる爆乳と巨尻の持ち主にして、負けず劣らずの奇跡的な体型をしているそうだが、マリア氏のボディバランスは彼女たちを凌駕するだろう。
バストサイズひとつとっても最大級だ。
レオナルドの運命の本から拾い上げた情報だが、ブラサイズは脅威のPカップとのことだ。彼はこの極秘情報をどうやって仕入れたのだろうか……?
残念ながら、その点は運命の本でも厳重に検閲されていた。
2ページに渡って削除されていたので、余程のことがあったようだ。
普通、ここまでバストが大きいと全身もそれに引っ張られるようにふくよかになりがちだ。端的にいえば太った肥満体に見えることが多い。
だが、マリアの体型は素晴らしい均整を保っていた。
彼女の肢体に見蕩れない男がいれば性癖を疑うべきだろう。
ロリータ趣味のバグベアでも一目置くほどだ。
スタイルのいい女性を「ボン! キュ! ボン!」とオノマトペで表現することはあるが、マリアは「ズドォン! キュッ! ドカァン!」といった具合で桁違いの迫力なのだが、決して太っているようには見えない。
神懸かり的なバランスの良さだ。芸術的な仕上がりと讃えるしかない。
身に着ける衣装はGM時代のファッションのようだ。
教会のシスターを連想させるものの、ほんの少しだけ露出度を増した尼僧服。エロティックなファンタジー漫画に採用されそうなデザインである。
バグベアは彼女――マリアに関する執筆を終えた。
ずっと恋い焦がれてきたマリアがレオナルドの前に立ち尽くす。
憧れの女性を前にした男は茫然自失だった。
恐らく、心の何処かで理性的な部分は警鐘を鳴らしているはずだ。
これはバグベアの罠。目の前の彼女は幻影に過ぎない。
どんなに警戒しても無駄ですよ、とバグベアは声を大にして言いたい。
幸福には逆らえない――これは摂理だ。
苦痛を与えられたら逃れようとする、困難にあっても立ち向かおうとする、逆境ならば燃え上がる、不幸に嘆けば遠ざけようとする、不運に見舞われて途方に暮れるも忘れようとする、辛酸を舐めても諦めはしない……。
心ある者は苦しさに対処する術を心得ていた。
逃げる、戦う、避ける、防ぐ、抵抗して反抗して、やり過ごそうとする。
心が揺れ動く限り、どうにかして処理しようとするものだ。
だが、幸福だけはどうしようもない。
苦痛からは逃げられても、幸福からは逃げられない。
飛んで火に入る夏の虫よろしく、自ら飛び込んでいくことだろう。
叶わぬ望みと諦めていたものが、追い縋るように求めた幸福が手の届く場所へ現れたのなら、絶対に目を背けることはできない。
自制する我を忘れて、無我夢中で手を伸ばすはずだ。
そして、掴んだ幸福の虜になる。
無意識の底に封じるほど叶わない願望ならば殊更に逆上せるだろう。
その幸福がたとえ罠だったとしても――。
もはや沈着冷静に采配を奮う軍師の面影はそこにはない。
恋に恋い焦がれて恋に慟哭した青年がそこにいた。
愛したマリアの面影に魅入っている。
世界を巡る大戦もバグベアのことも眼中にあるまい。
レオナルドの両眼はマリアに夢中だった。
現実の彼女よりレオナルドにとって都合がいい、彼の脳内にある理想的なマリアを完全再現したのだから、目どころか心まで奪われているに違いない。
完全に堕ちた――バグベアは手応えを感じる。
一度でも術中に嵌まれば抜け出すこと不可能。
後はこちらの思惑通り、最高のシナリオで夢見心地を味わっていただこう。
まずは叶わぬ望みを疑似餌にして相手を釣る。
この餌にほんの僅かでも心が食いついたら最後、バグベアの用意した特殊な結界に囚われているのだ。
レオナルドの場合、マリアの姿を認めた時点でアウトだった。
そこは閉じ込められた当人の運命を読み解いて資料とし、バグベアが神速の筆捌きで書き上げた虚構のシナリオ世界。叶わぬ望みが叶えられた幸せな世界となるべく書かれており、最高の気分のまま物語の幕は閉じる。
そして、物語を最初からやり直す。
最高に幸せな瞬間まで同じ道筋を辿り、また幸せのまま終わりを迎える。
これを延々と繰り返す。幸せの無限ループを味わわせていく。
最高に幸せな人生を描き、それを一冊の本に綴じる。
その本こそ対象者を封印したバグベアの結界であり、綴じられて閉じ込められた者は自らの願望が満たされた物語を永遠に繰り返すのだ。
苦難からは逃げられるが、幸福からは逃げられない。
神になろうとも心は脆弱なまま……幸せという甘い蜜には勝てないのだ。
「小生としては不愉快千万なのですがね」
致し方ありません、と目を閉じたバグベアは小さく頭を振った。
位置のずれた丸眼鏡をインテリっぽく直す。
宣言通り――バグベアは最悪のシナリオを至上とする。
誰かが幸せのまま終わりを迎えるハッピーエンドなど糞食らえ、みんな平穏で終わるグッドエンドさえお断りなのだ。
そんなバグベアからすれば、最高のシナリオなど反吐しか出ない。
「ですがね……幸福とは究極の麻薬なのですよ」
ストイックな哲人であろうとも、ストレングスな鉄人であろうとも、マッドマックスな廃人であろうとも、幸せというドラッグを吸えば堕落する。
幸福というぬるま湯は、一度浸れば抜け出せない。
心の弱さを追求したバグベアの奥の手――究極の封印術式である。
レオナルドは覚束ない足取りでマリアに近付いていく。
一歩、また一歩。歩みを進める度にゆっくり両手が持ち上がる。
「そうです……そのまま愛しい彼女を抱き締めなさい」
その時こそ最高のシナリオ――バグベアの封印術式が完成する。
厄介なレオナルドさえ封じてしまえば邪魔者はいない。
バッドデッドエンズもかなり倒されてしまったが、まだ手元には彼らの運命を綴じた本が8冊も残っている。まだ最悪のシナリオを描けるのだ。
この男さえ片付ければ……!
バグベアはやきもきするも、レオナルドの一挙手一投足を見守った。
急かせば夢見心地が冷めてしまうかも知れない。
せっかく封印まで王手を掛けたのだ。下手な真似は打ちたくない。
「ほら、もう少し……あと少し……ッ!」
レオナルドがマリアを抱き締める瞬間を心待ちにする。
~~~~~~~~~~~~
現実世界でのレオナルドは賢持獅子雄という本名だった。
至って普通の家庭に生まれたつもりである。
割と裕福だったのか、金銭的に不自由した記憶はない。そこそこの商社に勤めていた父と専業主婦だった母。両親の仲はサッパリとしたものでドライだったと思うが、実際には円満だったらしい。父母の実家とも関係は良好だった。
絵に描いたような中流家庭だったのかも知れない。
何事もなければ平凡な人生を歩んでいたのでは? とよく妄想する。
今では何の因果か、異世界の国の軍師を務めていた。
しかも国を治める王様は愛弟子と来た。
平凡な家庭に生まれた男が、どうしてこんな非凡な人生を歩む羽目になったのだろうか? 今では神族・軍神なので神生にランクアップしている。
最初に平凡から踏み外したのは、隣家との付き合いだ。
レオナルドの家の隣は2つの道場を構える武術家の家だった。
女騎士――カンナ・ブラダマンテ。
産まれた病院と時期まで一緒の幼馴染み、世界協定機関では上司と部下の間柄になる彼女の実家だ。母親が剣術家で父親が空手家、生粋の武闘派一家である。
ご近所なのでレオナルドはカンナとよく遊んだ。
幼い頃から道場にも出入りして、門前の小僧習わぬ経を読むノリで空手の真似事をしていたら、カンナの父に才能を見出された。
――強い奴はカッコいい!
単純だった子供時代のレオナルドは毎日練習に励むようになった。
カンナと仲良くなったのもこの頃だろう。
このまま何事もなければ、カンナとの親密度がどこまで右肩上がりして、彼女との恋愛を成就していたかも知れない。彼女もそれを望んだことだろう。
だが、レオナルドは出会ってしまった。
己が内にある恋心のすべてを捧げた女性――マリアと。
最初、彼女はカンナの遠縁だと聞いていた。
所用でカンナの家をマリアが訪れた際、初めてレオナルドは挨拶をした。
初対面で即座に、一目で恋に落ちてしまったのだ。
当時まだ9歳か10歳くらいの小僧だったが、彼女の微笑みを絶やさない柔らかい美貌に見蕩れ、とてつもない大きさのおっぱいに魅入られてしまった。
凄まじい巨乳の美人なお姉さんに一目惚れである。
普通の少年ならば憧れのお姉さんにドキドキするくらいのはずだが、レオナルドの恋心はそんな思春期の思い出で終わらせることを許さなかった。
彼女と添い遂げることしか頭にない。
彼女のためならばたとえ火の中水の中、マリアのハートを射止められるならば、どんなことでも厭わないと自らの魂に誓えるほどに惚れていたのだ。
少年期に芽生えた揺るぎない恋心。
それは確固たる決意として成長し、成人する頃には大樹の如き巨大さと堅牢さを誇っていた。諦めの悪い執念と捉えられても構わない。
道を間違えていれば、史上最悪のストーカーになっていたかも知れない。
だがレオナルドは偏執に狂うことなく真っ当に歩けた。
それもまたマリアのおかげであり、また加護だと言い切れなくもない。
……振り返れば矯正されたきらいがあった。
初めてマリアと顔を合わせた時の会話は他愛ないものだった。
それでもレオナルドは忘れずに覚えている。
『獅子雄くん――カンナちゃんと仲良くしてあげてね』
勿論、元気よく「はいッ!」と約束した。
だからレオナルドは何があってもカンナを見捨てなかった。
カンナとは小中高と同じ学校に通っていたが、猪突猛進な彼女がポンコツなことをやらかす度に、レオナルドはそれをパーフェクトにフォローした。
幼馴染みの縁というのもある。
それ以上にマリアとの約束を果たす使命感があった。
既に成人していた彼女からすれば、レオナルドなど遠縁の家の道場に入り浸っている近所の男の子に過ぎない。はっきり言って取るに足らない存在だ。
再会した時、果たして彼女はレオナルドを覚えていてくれた。
初恋を覚えた少年はそれだけで有頂天だった。
その後もマリアは度々カンナの家を訪れ、その都度レオナルドに顔を見せに来てくれた。純粋な小学生男子が勘違いするには充分の逢瀬だろう。
マリアの前に立つと、レオナルドの態度がガラリと変わる。
それが面白くないカンナからの風当たりも強くなった。
そんなもの何処吹く風、少年レオナルドはマリアへ夢中になっていく。
思えばこれが平凡な道を踏み外す第一歩だった。
恋に情熱を燃やすレオナルドは、愛しい女性であるマリアの気を惹きたくて堪らない。彼女を振り向かせるためならば、いくらでも手を尽くした。
ここでレオナルドは幼いなりに建設的な思考を働かせる。
彼女に相応しい男になろう――強くて賢くて優しくて格好いい男にだ。
そのための努力にひたすら邁進した。
カンナの道場ではこれまで以上に足繁く通って同年代では最強格、師範であるカンナの父と対等に渡り合えるまで武術を磨き上げた。
だが、この程度では物足らなかった。
師範の紹介を得、各地の流派へ出稽古に赴いたほどだ。
自身としては精進の成果だが、他人に言わせれば武術の素質あったということになるらしい。それも天才と呼ばれる部類だと。
塾に通ったことはない。学校の勉強を欠かさずにやれば事足りる。
無論、予習復習などの独力で行える勉強は欠かさない。興味があることは何でも進んで学んでいき、博識になることにも務めた。
後に厚かましい蘊蓄たれと呼ばれる素養がここにあった。
学んだ知識をベラベラと喋りたくなるのだ。
誠実であれと心掛け、物事には真摯に取り組み、紳士な振る舞いを忘れない。
才能というものを意識したことはない。
だが周囲はいつしかレオナルドの秀才や天才と褒めそやした。高校時代には先輩からも一目置かれる新入生として扱われたくらいだ。
そんな折――マリアから呼び出された。
すべての用事をキャンセルして駆けつけたのは言うまでもない。
喫茶店で待ち合わせというのでデート気分で出掛けたのだが、勘付かれたカンナに着いてこられたのは痛い誤算だった。
カンナとマリアは遠縁、レオナルドと会うより道理はある。
仕方なく一緒にマリアへ会いに行けば、「ちょうど良かった」とまさかの歓迎を受けてしまう。カンナもいた方が都合が良かったというのだ。
恋に目が眩んだ少年には予想できなかった。
レオナルドがカンナを連れてきたように、マリアにも同伴者がいたのだ。
魔女――ナヤカ・バーバーヤガ。
真なる世界ではまだ再会できていないが、彼女もまたレオナルドの部下で元ゲームマスターの1人。極度の人見知りで対人恐怖症なコミュ障娘である。
ただし、美人で色々とデカい。
爆乳特戦隊ではすべてに置いて最大値を記録している。
なにせ付いたあだ名が「八尺様」だ。
身長も女性にしては並外れて高身長なので、恥ずかしいのか目立ちたくないのか両方なのか、いつでも猫背になって縮こまりがちである。
隣に座るナヤカを宥めるように、マリアは彼女を紹介してきた。
『この子は知人の娘さんなんだけどね……ちょっと人見知りでなかなか友達ができないのよ。獅子雄くんなら気兼ねなく仲良くしてくれると思って』
同じ高校に通う同級生なので交流もしやすいはず。
マリアは如才ないレオナルドを見込んで、ナヤカのと顔合わせをするために呼び出したらしい。デート気分はどこかへ飛んで行ってしまった。
だが、惚れた弱みとはこういうことだ。
『獅子雄くん……ナヤカちゃんをお願いできるかしら?』
両手を合わせて上目遣いでマリアにお願いされた。
テーブル越しに超爆乳が押し寄せる。母性という名の暴力だ。
『お任せくださいマリアさん!』
一も二もなく引き受けた。カンナに喚かれたが聞き流した。
『そもそもマリアお姉ちゃん! なんでしし君にそんなこと頼むの!? 女の子なら女の子同士、私に頼んだ方がいいじゃない! なんでなんでぇ!?』
駄々を捏ねるようにカンナは騒ぎ立てた。
いつもなら屁理屈だが、今回ばかりは彼女の言い分に理があった。
異性の友人より同性の友達がいいと思うのだが……?
人付き合いに難があるのならば尚更だ。
これにマリアさんはちょっと困った苦笑で明かしてくれた。
『うーん、カンナちゃんに……とも考えたんだけどね。やっぱりほら、何かあった時は男の子の方が頼りになるし、万が一には身を挺して守ってくれそうだから……獅子雄くんなら面倒見もいいと思って……ね?』
マリアの意味ありげな視線にカンナは敏感だった。
『私がしし君のお世話になりっぱなしみたいな言い方しないでよ!?』
『……………………』
事実、カンナのお世話を焼いていたが黙っておいた。
斯くして――レオナルドはナヤカの面倒も請け負うことになった。
つまり彼女とは高校時代からの付き合いである。
それから一ヶ月もしないうちに懐かれ、三ヶ月もすれば付きまとわれ、半年頃にはストーカーの域に達し、進級した時にはすっかり依存されていた。
『……私、もう獅子雄はん無しでは生きていけへん』
妙な関西訛りでよくそう囁かれたものだ。
『カンナはんが惚れてはるのも知っとります……そんで、獅子雄はんが本当に好きな御方がマリア姐はんなのも……それでも、私も好きなんどす……』
愛人でもいいから……これが彼女の口癖だった。
恋愛沙汰でもナヤカは引っ込み思案なところがあり、カンナやマリアに譲るような素振りを見せた。が、レオナルドとの関係は諦めなかったのだ。
彼女もまた恋に盲目だったわけである。
レオナルドもマリアにぞっこんだったので他人事ではない。
結局、なあなあの関係はいつまでも続いた。
高校生活ではカンナとナヤカに左右を挟まれていたため、校内では『爆乳サンドイッチ』なんて不名誉な陰口を叩かれたのも恥ずかしい記憶だ。
爆乳特戦隊のはしりみたいなものである。
レオナルドが大学に進学すると、彼女たちも同じ学校を選んだ。
カンナの世話を焼いてナヤカの面倒を見る日々は契約更新され、マリアとの約束を守ることに徹した。だが、レオナルドは憧れの女性への恋心を断ち切ることはなく、月日を追う毎にマリアへの愛情は高まっていくばかりだ。
なんだかんだで彼女は週一くらいで逢ってくれる。
恋心が冷め切らない要因でもあった。
おかげで様々な感情が熟成されていくかのようだった。
彼女について知りたくて、成長する過程で身につけた様々な手練手管を使いこなして、マリアの身辺について調べ始めていた。
――彼女には謎があった。
カンナの遠縁でありナヤカの親族に縁がある、という関係性はわかるのだが、よくよく調べてみても詳しいことはまるでわからない。彼女の素性を探れば探るほど、深く広く多種多様な人脈と繋がっていることがわかるだけだ。
彼女については謎が深まるばかりである。
もっとマリアのことを知りたくて、レオナルドは徹底的に調査した。
いつしか何でも根掘り葉掘り調べる癖がついた。
自身を成長させてきた向上心がこれを加速させ、積み重ねた年月が恋心をやや拗くれさせてもいたのか、これがある種の性癖となっていく。
これがレオナルドの詮索癖にした原因だった。
やがてマリアの謎は、ジェネシスという巨大結社へと紐付いていく。
全世界規模でグローバル展開をしつつ、いくつもの巨大企業が協力提携することでひとつの組織のように振る舞っている世界的協定機関。
――それがジェネシスだ。
揺り籠から墓場まで、ダイナマイトからブラジャーまで、爪楊枝からスペースシャトルまで、手掛けぬものはないとまでされる無節操っぷりである。
裏では色々と妖しい噂も絶えない巨大結社だ。
陰謀論者が好きそうな話題に事欠かず、都市伝説となったものまである。
遠い世界へ全人類を移住させる計画はその最たるものだろう。
マリアは世界的協定機関の中枢に関わっていた。
一介の学生が躍起になって調べても追いつかない、それほど厳重な機密に携われる人間だったのだ。今にしてみれば納得である。
彼女は真なる世界の重要人物――恐らくは灰色の御子。
猛将キョウコウや破壊神ロンドのお仲間だ。
その力や位も高いものだったのだろうと推測される。
真なる世界へ戦力として人間を送り込む計画にも一枚噛んでいるのだが、それはトップシークレット扱いになるだろう。彼女自身、500年前から人類史の陰に隠れて営々と活動を続けていたに違いない。
これらは真なる世界に来てから成り立たせた憶測だ。
十中八九間違いないと思うが、当時の大学生のレオナルドには思いも寄らないことばかりである。特に異世界の事情など知る由もない。
おかげでマリアの謎は深まるばかりだった。
わからないなら是が非でも知りたい。
そこでレオナルドは世界的協定機関への入社を決意した。
外から駄目なら内から、という魂胆である。
幸いなことにちょうどマリアが最新鋭のVRシステムを搭載したゲーム開発を行う事業部に籍を置いていた時期なので、彼女に近付くためにもそのゲーム開発会社への就職を希望するように就活した。
当たり前のようにカンナとナヤカも一緒なのはお約束だ。
そして、マリアの縁故という手助けがあった。
何事もなくジェネシスに入社した直後――クロコと出会った。
メイド長――クロコ・バックマウンド。
ツバサ君にメイドとして押し付け……オホン! 預かってもらっている彼女だが、爆乳特戦隊トップの問題児はこの頃から健在だった。
……初めての出会いは思い出したくもない。
何者かに仕組まれたとしか思えないラッキースケベの連発を、クロコからひっきりなしに食らったのだ。レオナルドは巻き込まれただけである。
1日で20回を超えるなど普通ではない。
知っての通り、彼女は表面上こそ礼儀正しく上品だ。
しかし、内面はピンクのお花畑に覆われているようなエロス一辺倒に全力を注いだド変態である。そんな彼女とハプニングが起こる度、胸の谷間に顔を埋めたり、顔をお尻で敷かれたり、股間に鼻先を突っ込んだり……。
当初レオナルドは非はこちらにあると謝罪した。
だが、クロコは瞳を輝かせていた。
『このようにエロティック満載でドラマティックな出会いを何度も何度も重ねるなんて……これはもう運命といっても過言ではありません』
『いや、アクシデントが続いただけで迷惑を掛けたと謝りたいのだが……』
『貴男様こそこの黒子の運命の相手……結婚してください』
『話を聞いていたか!? いきなり結婚って……ッ!』
『これこれは失礼しました……婚約が先でございましたね』
『そういう順番を正せと言ったんじゃない!』
『ああ、なるほど……開通式が先と言うことですね。畏まりました』
『その卑猥なジェスチャーはやめないさい! なんだ開通式って!?』
『言わずもがな、私の処女膜を賢持様の剛直で――』
『うがああああああああーッ! このお馬鹿ああああああああーッ!?』
初対面の女の子に罵声で怒鳴りつけた挙げ句、掌底で力任せに黙らせたなんてハプニングしかない出会いなど、後にも先にもクロコだけである。
これが合縁奇縁となり――気に入られてしまった。
翌日出社すればさっそくクロコにまとわりつかれ、無理やり腕を組まされて一緒に歩いているところをマリアに目撃された時のバツの悪さはなかった。
『あら、良かった。紹介する前に仲良くなっててくれたのね』
嬉しそうなマリアの一言にレオナルドは絶句した。
聞けばクロコもマリアの縁戚であり、「性格ではなく性癖に難あり」との相談を受けていたので、レオナルドに任せたかったらしい。
同年代だから話も合うと見込んだそうだが、完全にお守り役である。
……面倒臭い娘を押しつけられてないか?
3人目の時点でようやく思い知らされるレオナルドだった。
それでも入社したレオナルドはマリアに見合った男になるため全力で働き、彼女の明かされていない謎に迫るべくジェネシスの秘密を探った。
メキメキと頭角を現して、若手ながら順調に出世していく。
この時期も周囲から天災や秀才などと陰口のように褒めそやされ、いらない不興を買うことも多くなった。同期のゼガイというゲームマスターには目の敵にされたのをよく覚えている。
レオナルド自身、情に厚い彼のことは嫌いじゃなかったのだが……。
そんな折、マリアからまた問題児を委ねられた。
情報官――アキ・ライブラトート。
レオナルドと同じく愛弟子の収める国で情報収集を任されている。
元々引き籠もりのニートだった彼女は、独学で身につけたハッカー技術を暇潰しに使っており、あろうことかジェネシス本部のサーバーに侵入しようと目論んだのだが、本部のサイバーセキュリティに御用と相成った。
割といい線まで潜り込んだらしい。
独学でこの才能は惜しいということで、スカウトする運びとなった。
彼女の世話を任されたのもレオナルドである。
これらの手配をしたのが他でもないマリアだ。警察に引き渡せる前に彼女と取引を交わすとスカウトする手筈を整え、社員に取り立ててしまったのだ。
聞けばアキとも浅からぬ縁があるという。
アキの父親が著名な学者で、マリアが恩のある人物だとのこと。
恩人の娘さんとなれば警察に差し出すのは忍びなく、社内で役に立ちそうなスキルも習得済みだ。上手いこと活用すべきと判断したのだろう。
ただし――監督役は欠かせない。
そこでマリアはまたしてもレオナルドに白羽の矢を立てた。
猪武者カンナ、コミュ障ナヤカ、ド変態クロコ。
彼女たちの世話を焼いた実績を買われてだ。はっきり言えば傍迷惑の四乗掛けなのだが、惚れた弱みで文句をぶつけられるわけもない。
ボサボサ頭を梳ることもなく、着慣れてよれたジャージ姿。
マリアはそんな格好のアキを引き渡してきた。
『ども、文渡玲ッス、よろしくッス』
開口一番、アキは舎弟みたいな口調で挨拶してきた。
本名の玲を略してのアキだ。
引き籠もりニートの割には弁が立つし社交的なので、意思疎通は他の3人より遙かにマシだった。その天才的な情報処理能力には今も昔も大いに助けられている。
詮索癖なレオナルドには重宝する人材だった。
これは後々判明することで、この時点ではうさん臭い女でしかない。
どう見ても部屋から出ない引き籠もりに見えたから尚更だ。
さすがにこの頃になると申し訳ない気持ちを全面的に押し出して、神仏に祈る勢いで合掌しながらマリアは頼み込んできた。
『あの、できれば獅子雄くんに教育してもらいたいんだけど……』
『…………わ、わかりました』
また押しつけるんですか!? という怒鳴り声が喉元まで出掛かったが、どうにか飲み下した。笑顔を取り繕うも引き攣っていたことだろう。
案の定――アキにも惚れられてしまった。
せめてもの救いは先の3人ほどアグレッシブではないこと。
そもそも出不精の引き籠もりな怠け者、カンナたちほどアクティブに活動しないのでまとわりつかれずに済んだ。しかし、別の問題が発生する。
彼女には社内のサーバーやITシステムを管理する仕事が割り振られたのだが、自宅にいてもネットを介して遠隔操作できるため、滅多に社へ顔を見せないという弊害があった。一応、曲がりなりにも部下である。
結局、彼女の家まで出向いて監督する羽目になった。
栄養面での食生活を心配したり、部屋の片付けまでやってやったくらいだ。
こうして爆乳特戦隊は出揃った。
レオナルドは彼女たちとはなるべく個別に接していた。
特にカンナが顕著なのだが、一緒に扱うとヤキモチを焼くからだ。アキは無頓着な方だし、ナヤカやクロコはあまり気にしないのだが。
曲がりなりにも女性、レディーファーストの気遣いはいるだろう。
全員トラブルメイカーだとしてもだ。
レオナルドが世話を焼き面倒を見て監督して教育する一方、彼女たちも新人社員や問題児ということで、教育係のマルミ先輩に調教されていた。
おかげでちょっとは使えるようになってきた頃のこと。
レオナルドはマルミ先輩から呼び出され、仕事の引き継ぎを頼まれた。
『賢持くんゴメーン。今度また円田のオッサン(破壊神の人間名)がまたぞろどこからともなく新しい社員をわんさか引っ張ってきたからさ、その子たちの教育でてんてこ舞いなのよ……本当に悪いとは思ってるんだけどね』
あの問題児ムスメ四人組の調教――よろしくね。
公私ともに彼女たち上役に任命されてしまったのだ。
『嗚呼、俺はきっと……こういう星の下に生まれたんだな……』
そう諦念するより他なかった。
レオナルドを指揮官とする爆乳特戦隊の完成である。
問題児な彼女たちの才能を最大限に引き出し、手足のように使役したことで会社に貢献していたらしい。これも出世に一役買ったそうだ。
以後、レオナルドはトントン拍子で昇進。若くしてジェネシス日本支部の幹部の一員に数えられるまで登り詰めていく。
キョウコウ・エンテイ、ロンド・エンド、マリア・ナムゥテール。
彼らと肩を並べる最高幹部の末席に加わったのだ。
この頃にはある別れも経験していた。
万が一にも世界的協定期間の機密を漏らさないため、アシュラ・ストリートを始めとしたネット上での友人関係を断たねばならなかったのだ。
異世界開拓計画、隕石による地球崩壊、全人類の異世界転移――。
とんでもない機密が多々あるため、ほんの少しでも情報漏洩したら大事だ。
そのための措置であり、これもまた幹部の務めである。
何よりも手塩に掛けた愛弟子との別れが辛かった。
まさしく断腸の思いである。
ミサキの強さの果てをこの眼で見届けたい! 仙人みたいな老人になるまで共に歩み、彼が成し遂げていく成果を師匠らしく後方腕組みで見守りたい!
そこまで入れ込んだ愛弟子なのだ。辛くないわけがない。
その後、VRMMORPGで再会できたのは良いのか悪いのか……。
~~~~~~~~~~~~
レオナルドは成功を収めたと言えるはずだ。
一人前の男となった今こそ、マリアに告白をする好機である。
告白だけならば既に幾度も果たしていた。
小学校卒業、中学校卒業、高校卒業、大学入学、ジェネシス入社時……。
何らかの節目を記念として、レオナルドはマリアに告白していた。胸に秘めてきた恋心を明け透けなく、思いの丈を打ち明けたのだ。
その度にマリアは――曖昧な微笑みで浮かべるばかりだった。
レオナルドの想いには気付いていたらしい。
マリアもレオナルドを見初めたからこそ気に懸けてくれた。理由を付けては会いに来たのは、そうした想いに後押しされたからだという。
しかし、彼女が告白に応えてくれたことはない。
その時限りにご褒美めいたものはくれたが、それで終わりだった。
筆降ろし――これで伝わるだろう。
彼女はレオナルドにとって初めての女性でもあるのだ。
年上の余裕もあったのかも知れない。若いツバメとの戯れかも知れない。
レオナルドの恋心にマリアは報いてくれたが、本当の想いから発せられた告白はいつもはぐらかされた。彼女は明言を避けてきたのだ。
『ですが……今日こそちゃんとした返事をいただきたい』
レオナルドは厳かな声でマリアに詰め寄った。
異世界転移計画――その実行まで残り一週間を切った日のことだ。
VRMMORPGのワールド内の一角。
そこにプレイヤーもゲームマスターも寄せ付けない空間遮断型の結界を張り巡らせたレオナルドは、呼び出したマリアに告白の返事を求めた。
互いに男女としての両想いなのは疑いようがなかった。
これまでの逢瀬でレオナルドは確信している。
だが「結婚してほしい」という告白は先送りにされてきた。
いつも彼女は「年の差が……」とか「私なんておばちゃんでしょう?」とか「もっと若くて可愛い娘がいるじゃない」と、冗談交じりに誤魔化してきた。
マリアは照れ臭そうな苦笑いで口を開いた。
『わかってるでしょう? 私の実年齢を……獅子雄くんとは母と子くらい離れているんだから……私はもうじきお婆ちゃん、ううん本当は……』
『年齢なんて俺は気にしませんよ』
『あなたが気にしなくても私が……いいえ、これは言い訳よね』
悲しげに首を振るマリアに、レオナルドも言葉が詰まる。
確かに二人の年の差は大きく離れていた。
レオナルドが10歳にもならない頃、既にマリアはジェネシスに勤務していた。経歴書が正しければ、現時点でマリアの年齢は50を越えている。
とてもそうは見えない。出会った頃のままだ。
美魔女という言葉もあるし、老化を感じさせない人はいる。
だが、彼女はあまりにも変化に乏しい。
まるで人魚の肉でも食べたかのように若々しかった。
『……幹部連中は色々と人間離れしてるよな』
『本当に人間じゃなく、実は異世界から来た神や悪魔だって話だぜ』
『それじゃ異世界に渡るんじゃなく自分の世界へ帰るのか?』
異世界転移計画が進む最中、社内では老けることなく不思議な逸話を持つ最高幹部を指して、こんな風聞が囁かれていたほどだ。
燃える恋心にはどうでもいいこと、彼女が鬼でも蛇でも構わない。
年齢差が話題に登る度、レオナルドは力説した。
『年齢など関係ありません……俺には、マリアしかいないんです』
カンナ、ナヤカ、クロコ、アキ――。
爆乳特戦隊を預けてきた理由も薄々だが察している。
レオナルドと同年代で、どこかマリアと似た雰囲気の風貌。それらの要素を持つ少女をマリアの代役として宛がったつもりなのだろう。
自分のような年増ではなく――若い彼女たちと恋をしなさい。
それはレオナルドへの気遣いに違いない。
だがしかし、大切にしてきた恋心を侮辱された気分だった。
『彼女たちとの付き合いも長い。憎からず想うことは多々ありますが……それでも、マリアへの思いを断ち切る理由にはなりません』
小学生の頃から繰り返す告白の文言を飽きることなく繰り返す。
飾らないシンプルな言葉で本心を伝える。
『好きです――結婚してください』
しばらく逡巡した後、マリアは極上の微笑みではにかんだ。
『…………ごめんなさい』
はっきり言い渡されたのはこれが初めてだった。
足下が崩れ落ちて、どこまでも落ちていくような喪失感。
重力から解放された浮遊感にも似ていた。
失恋の衝撃はどんなパンチよりもレオナルドを打ち据え、胸に巨大なドリルで穴を開けられた心地だが、不思議と理性的に考えることはできた。
心の片隅でフラれることへの予感もあった。
もしもOKが貰えるならば、もっと早い段階で返事が貰えたはずだ。
そうでなくとも女性は婚期を気に懸ける。
他にいい男がいるという話もマリアには聞かない。なのにレオナルドの婚約を受け入れてくれないのには、相応の理由があると考えてきた。
どうやら、その予想が的中してしまったらしい。
マリアは幼子を慰める声色で、レオナルドに釈明してきた。
『私もね……レオナルド君は好きよ、大好き……ずっと小さな弟みたいに可愛がってきた男の子が……こんな立派な男性になってくれて……自分が育てたみたいに感無量で……そんな子が、私なんかと夫婦になりたいと告白してくれて……』
私は果報者ね、とマリアは笑顔のまま涙を零した。
すぐに表情を曇らせると、顔色に後ろめたい罪の色を滲ませる。
『でも、ごめんね……私にはあなたの気持ちに応える資格がないの……私はね、幸せになる権利がない……どうしても、やらなきゃいけない仕事があるの』
マリアには隠された使命があった。
ほとんどが極秘なため、最高幹部すら全貌を知らない密命。
『一週間後、VRMMORPGの全プレイヤーを異世界へ転移させる……そして、私たちゲームマスターもあちらの世界へ渡る……』
これについてはレオナルドも把握している。
最高幹部と上位GMにのみ開示されている機密情報だ。
彼女が帯びる密命は、更に数段上のトップシークレットだという。
すべては開かせないが核心のみ教えてくれた。
『私はね……あちらの世界のためにこの身を捧げるの』
人柱、人身御供、犠牲、生け贄、供物。
詳細は伏せられたが、マリアは異世界転移後にその世界へ我が身を捧げることで、あちらの世界を保全する役目を担うことだけは理解できた。
身を捧げると聞いてレオナルドは真っ先に危惧する。
『それは……異世界のために我が身を捧げて……ま、まさか死……』
『いいえ、死ぬわけじゃない……でも、近いかも知れない』
レオナルドの言葉を遮るように否定するものの、マリアは掌を返すように死ぬのと同じようなものだと口を濁した。どうなるのかまるでわからない。
マリアも上手く説明できないようだ。
『死ぬわけではないけど……二度と会えない、あなたは勿論、誰とも……そして、あの世界を保つために生涯を捧げる……人柱みたいなものかもね』
だから、レオナルドの想いには応えられない。
『ごめんね、獅子雄くん……こんな私に、ずっと付き合わせちゃって……』
賢持獅子雄の青春を台無しにしてしまった。
詫びるように、許しを請うように、マリアは涙ながらに謝ってくる。
やめてくれ! の一言を返すことができなかった。
長年温めてきた恋が失恋という結果に終わったのは、心が引き裂かれそうなくらい悲しいこと。だが、いずれ時間が解決してくれる。マリアに振られたからといって、青春を無駄にしたなんて徒労感はこれっぽっちもない。
マリアのおかげでレオナルドはここまで来られた。
彼女が目標の先にいてくれたからこそ、レオナルドは努力を怠らず精進することを忘れず、いつまでもどこまでも高みを目指すことができた。
マリアへの捧げた想いが、レオナルドを立派な漢にしてくれたのだ。
感謝こそすれ――懺悔される謂われはない。
愛した女性に謝らせる罪深さ、その罪悪感に臍を噛む思いだった。
『あ、謝らないでください! そんなことより……なんとかならないんですか!? あなたが……マリアさんがその、犠牲にならない方法は!?』
異世界に身を捧げなくてもいいじゃないか。
維持とか保全という単語に転移先の異世界に対する潜在的な危険性を感じるも、そのためにマリアが生け贄となる構図に得心がいかない。
解決策を見つけるために問い質す。
『あなたじゃなきゃ駄目なんですか!? 他に代わりの……人ではなく物や道具、機械……それこそ今なら技能で習得した魔法とかで!』
激しく言い募るレオナルド、マリアは無情に首を左右へと振った。
『これは私にしかできないの……』
少しでも異世界を長く保たせるため、欠かすことのできないお役目。
マリアの決意は固い。レオナルドは音が鳴るまで拳を握る。
『……俺が力尽くでもそれを阻止するとしたら?』
目を据わらせたレオナルドは、暴挙を匂わせた問い掛けをした。
覚悟を決める男を、優しい女は窘めてくる。
『その選択肢を選んじゃいけないわ……私の決意は揺るがないし、すべてのものが不幸になるだけよ……世界も、空間も、次元も、生命も……』
誰も救われない……マリアは儚い呟きで嘆いた。
こういうシチュエーションは昔よく流行ったと聞いたことがある。
世界を取るか――唯1人を取るか。
誰か1人を捧げれば、世界とそこに暮らす人々は救われる。
その1人の助ければ、世界と全人類は呆気なく滅び去る
究極の選択というやつだ。
大抵この1人はヒロイン設定だった。
レオナルドも似たような立場に立たされている。
マリアを力尽くで我が物にして異世界への犠牲になるのを防げば、彼女と添い遂げることはできるが世界的協定期間を敵に回すだろう。
それは世界を敵に回すに等しい。
マリアに異世界へ身を捧げさせれば、どういう効能があるかは定かではないが、これから行われる地球から異世界への転移計画は順調に進むらしい。
世界とそこに生きる者たちは幸せに過ごせるだろう。
だが恋に破れたレオナルドは、愛しい女との永遠の別離を強いられる。
まさに究極の選択だった。
『獅子雄くん……変な気を起こしちゃ駄目だよ?』
7:3でマリアを選ぶつもりでいたら、当人から釘を刺されてしまった。
涙を拭いた最高の笑顔でマリアはこちらに振り返る。
そして、別れの言葉を告げてきた。
『異世界に身を捧げるのは、私自身が選んだ道……多くの人々に、たくさんの生命に、明るい未来への可能性を持たせてあげたい……そのために、自分から行くんだから……決して、誰かに敷かれたレールの上を歩くわけじゃない』
視界が霞むようにマリアの姿が消えていく。
『これで本当にお別れ……今までありがとう、獅子雄くん』
大好きよ――この一言を添えるのも忘れない。
たとえリップサービスだとしても、男は信じて疑わなかった。
『マリアさん! 待っ……ッ!』
ゲームからログアウトするつもりだ。レオナルドは制止する。
しかし間に合わず、彼女を抱き留めようとして伸ばした手は空を切った。
消える間際、マリアの透ける笑顔と見つめ合う。
『あっちの世界でも頑張ってね……私、ずっと見守ってるから』
これがマリアとの最後の別れだった。
『まっ……マリ……ああああああああああああああああああああああッ!』
その場に膝をついたレオナルドは我慢できず、泣き崩れるまま地面を何度も叩き続けた。野獣のような慟哭をいつまでも迸らせる。
悲嘆に明け暮れたまま、天を劈く咆哮を轟かせた。
以降、マリアとは再会できてない。
一週間後、異世界転移が始まるまで思い当たるところをすべて探したが、マリアの姿は見つからなかった。転移直前のミーティングにも顔を出していないので、もしかすると一足先に転移していたのかも知れない。
またレオナルドと顔を合わせれば決心が揺らいでしまう。
そんな心の弱さを見越して、彼女は先立つように旅立ったらしい。
残された男には残酷すぎる仕打ちだった。
これがレオナルド一世一代の大失恋――その顛末である。
~~~~~~~~~~~~
「マリアを取るか、世界を取るか……選択肢は2つに1つ」
呻くような声を漏らしたレオナルドは手を伸ばす。
今生の別れを告げられたあの日、届かなかった手を悔いるように両腕を持ち上げて、理想のマリアを象った幻影へと近付いていく。
早く抱き締めなさい! それで小生の封印術式は完成します!
命じるように叫びたい気持ちを堪えて、バグベアはその時は待ち侘びた。もうレオナルドの手はマリアの幻影、その両肩の上まで来ているのだ。
あとは抱き寄せて、おもいっきり抱擁すればいい。
この1分にも満たない短い時間が、狂おしいばかりにもどかしかった。
レオナルドの両手がマリアの肩へ触れる。
「あなたは俺に究極の選択を突きつけてきた。なるべく、俺が世界を取るように逃げ道を塞いだ上で、俺が困らないように最大限の手を打った上で……だがね、それはあなたの思い上がりというものだよ……」
その直前――革手袋で覆われた両手は軌道を変えた。
殺意に満ちた五指が女の柔首を捕らえる。
「読み間違えたな……俺の思いを……ッ!」
レオナルドは表情を一変させ、鬼気迫る激怒の相となる。
「情れなく袖にされた男の妄執……それがどれほどの憎悪に昂ぶるかを!」
あなたは俺の執念を侮った! とレオナルドは激昂した。
愛しい女を抱き寄せるためと思われていた両手は、マリアの肩を掴むことはなく彼女の細い首を両側から絞るように握り締めていた。
喉を潰して気道を塞ぎ、それでも満足できず頸椎をへし折らんとする。
おっと? まさかの展開にバグベアも意表を突かれた。
「男の長年の想いを袖にして……一方的に別れを告げて……自己犠牲を満足げに語りながら消えて……俺が『はいそうですか』と納得すると思ったか!?」
失恋の逆恨み、情念を込めてレオナルドは訴える
「フラれた男が乱暴に出るかも知れない! すべてをご破算にするような真似に出るかも知れない……あなたほど聡明な女がどうして予測できなかった!?」
マリアを取るか――世界を取るか。
そんな理不尽な選択を迫られるなら、すべて無かったことにしてやろう。
「どちらも選ばず破り捨てる、そんな第三の選択を……ッ!」
どうしてわからなかったッ!? とレオナルドは鬼の形相で号泣する。
泣き叫ぶほど首を絞める握力は強まっていく。
「はっ、ぐっ……あっ、し、し、お……ぐぅ、んやめぇ……ッ!」
マリアの幻影はレオナルドを騙すための演技をする暇もなく、一声も発することができずに絞殺される苦しみで綺麗な顔を歪ませていた。
思い掛けないドンデン返しに、さすがのシナリオライターも面食らう。
まさかのバグベア好みな最悪展開だ。
おまけに、これはこれで絶好のチャンスに違いない。
――予定変更だ。
最高のシナリオではなく最悪のシナリオにまとめよう。
不思議な選択肢とともにマリアから別れを告げられたレオナルドは、失恋の怨みから彼女を縊り殺す。そんな殺人エンドで幕を引いてやればいい。
彼は愛した女を絞め殺す永遠の無限地獄に囚われるのだ。
すぐさま虚構のシナリオ世界を書き換え、封印術式の構成を修正する。
「いやぁ、棚からぼた餅とはまさにこのこと……ククッ♪」
いやらしい笑い声が自然とこぼれてしまう。
いくら強敵を倒すための封印術式とはいえ、書きたくもないハッピーエンドは気乗りしなかったのだが、こういう血生臭い終わり方なら大歓迎である。
さっそく和綴じの本を広げて、万年筆を走らせていく。
ドン! とバグベアに衝撃が走る。
短いけど強い地震が起きたような衝撃に筆先が揺れてしまった。
パタタッ、と紙面にインクを滴らせてしまう。だが、その色彩が墨とは思えないほど赤いので眼を疑う。まるで血のように真っ赤な点ができていた。
真っ白な紙面に赤い牡丹が咲いたかのようだ。
「……はて? 興奮しすぎて鼻血でも出ましたかね?」
空いている手を鼻先に触れるため、やや顔を前へと傾げていく。
その時――自身の胸から生える異物を見つけた。
「なに……これ?」
それは一本の杭だった。
背中から貫かれたのではない。ここではないどこからから放たれた杭が、次元や空間を無視して、バグベアの体内から胸を突き破っているのだ。
赤い牡丹を咲かせた血飛沫は、そこから噴き上がっていた。
「そこにいたか――三文文士」
激情のまま泣き喚いていた男とは思えない。
鬼神をも噛み殺すほど猛々しく吠えていた形相は、沈着冷静でクールさが売りの軍師に立ち返っていた。顔を濡らすほどの涙まで跡形もなく消えている。
銀縁眼鏡の奥にある双眸は勝算を弾き出していた。
「今の演技はどうだったかな?」
マリアの幻影は既に破られ、形を作っていた紙片が剥落して色落ちした張り子のようになっている。残骸を投げ捨ててレオナルドは続けた。
「以前友人からラズベリー賞しか貰えなかったが……その杭が直撃してから気付いたところを見るに、すっかり騙されてくれたようだね」
アカデミー賞ものだったかい? とレオナルドは嬉しそうに笑っていた。
思い通りに計略が成功した軍師らしい笑みだ。
舞っていた紙吹雪は、風が途絶えたように落ちていく。
胸を貫かれたバグベアは、紙片に紛れさせていた二次元空間を保つことすらできなくなり、レオナルドの前へ引きずり出されることになった。
胸を穿つ杭は心臓を射貫いている。
神族といえど重要臓器を壊されれば命に関わるものだ。
「この杭……ぐぼっ! どう゛やっ゛……でぇぇ゛……小生、にぃ!?」
食道と肺も破られたのか、喋ろうとすると血の泡が混じった。
濁音を聞き分けたレオナルドは種明かしをする。
「逆探土竜杭と名付けた技でね。こちらに向けられた相手の能力、その一端でも掴むことができれば、能力を逆探知しつつ能力その物をパイプラインとすることで、必殺の杭を叩き込むことができるんだ」
バグベアの術中に嵌まったのは故意、居場所を逆探知するための策略。
作家がシナリオの完成を待ち侘びる間、軍師は自ら罠へと掛かることで、その罠を作った張本人を探り当てようと試みていたのだ。
「だか、ら゛……わざと幻影を……づか、ん゛で……ッ!」
「どうせなら、君が興味をそそられそうな最悪の結末を目眩ましにしてね」
なるほど――失恋の半狂乱はバグベアを欺くための演技か。
してやられました、とバグベアも合点が行く。
「正直、ああいう終わり方もあったかも知れないな……」
レオナルドは独り言のように呟いた。
寂しげに虚空を見つめる視線は、彼女の背中を思い描いているのだろう。
運命を綴じた本はまだ開かれたままだ。
そこに綴られるレオナルドの本心から目を離せない。
口から漏れる告白と心中の独白。
ふたつが折り重なり、彼の気持ちを赤裸々に暴き立てていく。
「彼女の身勝手さに振り回されて、挙げ句の果てに置いてかれたという怒りにも似た気持ちはあったさ……選択肢を無視して彼女も世界も駄目にする、そんな破壊神が喜びそうな未来を選んだ可能性も無きにしも非ずだ」
だけどね、とレオナルドは両手に“気”を凝らす。
そこから無数の痛々しくも刺々しい杭を研ぎ澄まさせていた。
「俺はね、四番目の選択を見つけたいんだよ」
「よ、よんばんめ……?」
マリアを取るか――世界を取るか。
選択肢は2つ、しかしこれは一方的に強制されたもの。押しつけがましいにも程がある。こちらの意志を蔑ろにするなど業腹ものだ。
誰が素直に2つから選ぶものかよ。
レオナルドはこう見えて偏屈なところがあった。
「選ぶのは俺だ。どちらを選ぶのも自由だし、何もかも嫌になってどちらもぶち壊す第三の選択をするのも俺次第さ。そして……」
マリアを手に入れて世界も守る――そんな第四の選択を見つけ出す。
これもまたレオナルドの自由である。
真なる世界のデタラメさなら、それが叶うかも知れないのだ。
手伝ってくれそうな心強い仲間もたくさん増えた。あらゆる奇跡を成し遂げられる愛弟子にも恵まれた。決して不可能だとは思わない。
レオナルドは野心的な笑みで構え直す。
「二者択一は2つに1つじゃない。選び方は人それぞれさ」
強要された選択など知ったことか。
進みたい未来を選ぶのが人間、我が道を選び取ってこその人生だ。
「俺はまだ――彼女を諦めてないんだよ」
両腕を振り上げたレオナルドは、杭を雨霰の如く撃ち放つ。
守護神と破壊神の盤上――Øのコインにいくつもの穴が生じた。
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