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第17章 ローカ・パドマの咲く頃に
第421話:漢の存在証明
しおりを挟む『正味の話――アスタロトでいいんスか?』
アキさんはちょっと怪訝に小首を傾げていた。
ミサキが内在異性具現化者のみが使える、2つ以上の過大能力を互いに暴走させることで成し得る“変身”。その名前について相談した時のことだ。
情報官――アキ・ビブリオマニア。
師匠と同じく世界的協定期間、秘密結社ジェネシスの(ヒラ)社員。
大規模な異世界転移装置にして、使用者の魂であるアストラル体に強制的な鍛錬を強いるシステム。VRMMORPGアルマゲドンの元GM。
今ではイシュタル女王国に所属し、一応ミサキの部下という扱いだ。
師匠であるレオさんもミサキに仕える軍師として家臣を気取っているが、ミサキは年功序列を気にする方なので大人の仲間と思っている。
自堕落を極めた引き籠もりニート。
IT関係を始めとした情報処理能力も極めており、過大能力も「空間や次元を越えて情報を集める」という特化したものだった。
ハトホル太母国のフミカちゃんとは血の繋がった姉妹である。
アキさんは「姉より優れた妹など存在しねぇッス!」と主張し、フミカちゃんは「女子力ゼロの行き遅れ駄目姉ちゃん略して駄姉!」と悪し様に罵る間柄だが、そこまで姉妹仲は険悪ではない。割と良好のようだ。
喧嘩するほど仲がいい――これを地で行っていた。
大きな胸とお尻が目立つ、グラマラスな体型の美女である。
現実で師匠が面倒を見ていた部下は4人いるのだが、アキさんを含めて全員女性で、どういうわけかみんなバストが大きいという。
おかげで社内では“爆乳特戦隊”と呼ばれていたとか……。
あと、大なり小なり面倒臭い性格をしていた。
度し難いド変態エロ、猪突猛進な猪武者、生活能力ゼロの自堕落怠け者、コミュ障ヤンデレ陰キャ……酷い意味で選り取り見取りだという。
クロコさん、カンナさん、アキさんまでは四神同盟に加わっている。
後一人、コミュ障ヤンデレ陰キャなナヤカさんという女性がいるらしい。
『見つかってほしいような、見つかってほしくないような……』
レオさんは複雑な表情で悩んでいた。
外見だけならば、爆乳特戦隊の誰もが美女で通るだろう。
アキさんもその例に漏れない。
フミカちゃんが健康優良児で、南方出身のお母さん譲りな小麦色の肌をしているのに対して、アキさんは引き籠もり生活が長いせいか色白だ。
いつも競泳水着かレオタードみたいなコスチュームしか身に着けておらず、女神っぽくショールみたいな羽衣をまとわりつかせている。
銀色の御髪は神々しいが、手入れが疎かで梳らずにゴワゴワ。
年中モニターに向かっているせいか、寝ぼけ眼はトロンとしている。
ミサキが変身について相談に赴いたときも、自室で工作者ジンが作ったキングサイズのビーズクッションにゴロゴロ寝転んでいた。
こんな彼女だが――情報戦では敵無しだ。
ミサキが「イシュタルから変身するとしたら、どんな女神の名前をつけるべき?」と相談したら、ものの数秒でいくつもの名前を列挙した。
フミカちゃんも物知りだが、アキさんもタメを張る博識振りである。
そんな彼女から注意を促されるように言われた。
『本当にその変身形態、アスタロトって名付けちゃっていいんスか?』
『いいんスかって……ヤバいですかね?』
似合ってないかな? とミサキは脳内に疑問符を浮かべた。
ツバサさんの殺戮の女神や魔法の女神を真似て、ミサキもイシュタルから派生した神や悪魔から変身のネーミングを付けようと考えていた。
最初の変身は、全身が黒に染まり漆黒のローブをまとっていた。
この姿が悪魔寄りだったので、イシュタルがキリスト教圏に取り入られたことで悪魔に堕とされたという、大悪魔アスタロトの名前を借りた。
極戦態――アスタロト・グランデューク。
魔界の大公爵アスタロト、その威厳に恥じぬ変身フォームである。
だが、アキさんは一言物申したいご様子だった。
『いや、実際に変身見せてもらったし、雰囲気とか見た目も悪魔っぽくてアスタロトのネーミングがぴったりしっくる来るスけど……この変身って謂わばパワーアップなんスよね? だとすると……』
なんか違う――って思っちゃうんスよね。
アキさんはパワーアップの部分にこだわりがあるらしい。
ベッドみたいなビーズクッションで寝返りを打ったアキさんは、頬杖をついてアンニュイな表情のまま感想を述べていく。
『変身してパワーアップした格好なら、名付けるべきは今よりも強い名前だと思うんスよね。いや、別にアスタロトさんをディスってるわけじゃないッスよ? 魔界の大公爵という強キャラの知名度を轟かせてるわけッスからね。ただ……』
アスタロトはイシュタルの零落した姿。
そのように考えるのが神話学や悪魔学では一般的だという。
『知っての通り、キリスト教は唯一神しか信じてないッス。多神教を始めとした多くの神がいること好ましく思ってない……正直、認めていないッス』
基本的に他の信仰に登場する神々を否定している。
『だけど、利用することも忘れないッス』
比較的友好な関係にあった信仰の神々は大天使などの位の高い地位に取り込み、敵対関係にあった信仰の神々は唯一神に刃向かう悪魔へと貶めた。
天使と悪魔によって唯一神の権威を高めたわけだ。
女神から悪魔に堕とされたイシュタルは、その最たる例だという。
『つまり、イシュタルから女神としての威光を奪ったのがアスタロトと言えなくもないわけで……変身の一形態として名付けるならわかるんスけど』
『パワーアップとしてはやや疑問に残ると……?』
ミサキ的には話を聞いてる限り、「イシュタル信仰が唯一神の宗派の普及によって変遷し、アスタロトという悪魔への信仰に移り変わった」と捉えていたのだが、アキさん的には「悪魔に零落した」という観点がネックらしい。
零落とパワーアップでは、確かに結びつけにくい。
人差し指を立てたアキさんは得意気に語る。
『イシュタルのパワーアップなら、その原点たるべきイナンナッスよ』
金色の戦女神――イナンナ。
イナンナの別名がイシュタルである。
どちらかと言えば、イナンナの方が正統まであるそうだ。
メソポタミア神話と呼ばれる、中東から西アジアにかけて広範囲で信仰されてきた神話体系がある。その原点となるべき神話はシュメール神話であり、これが周辺諸国の神話に多大な影響と及ぼしたという。
アッカド神話、バビロニア神話、アッシリア神話……。
これらの神話はシュメール神話の影響を色濃く受けており、ほぼ同じように伝わる話も少なくない。当然、そこに登場する神もほぼ同一視されていた。
これらの神話をまとめて、メソポタミア神話体系というそうだ。
――女神イナンナはシュメール神話での呼び名。
――女神イシュタルはアッカド神話での呼び方。
シュメール神話がオリジナルならば、イナンナが原点となるのだろう。
『でも、イシュタルの方がよく知られてませんか?』
ミサキの質問にアキさんはおちゃらける。
『日本だとアニメやゲームに使われるのは、間違いなくイシュタルがダントツトップッスね。きっと名前が“ル”で終わるからじゃないッスか?』
ミカエル、ウリエル、ラファエル、ガブリエル。
日本人は「~ル」で締める名前が好きなのだという推測だった。
『それを言ったら大体どこの地域の人間も「~ル」で終わる響きが好きなんじゃないですか? 「~ル」で終わるのって日本以外の神様のが多いですし』
ミサキの指摘にアキさんは同意する。
『ハトホルにケツアルコアトルもそうッスからね』
ルに限らず、ラ行で終わる名前が多いような気もする。
『ぶっちゃけ、ほぼほぼイナンナ=イシュタルッス。でも、イシュタルはあくまでのイナンナの派生。そして、オリエント全域でもっとも人気を集めたイナンナは、後に数多の女神の成り立ちに影響を与えた地母神でもあるんスよ』
愛、美、戦、富、実……あらゆるものを司る豊穣の女神。
金星の女神にして戦争の女神であり、百獣の王たる獅子を聖獣とする。
『パワーアップ変身ならイナンナが一押しッス』
アキさんの言いたいことはわかった。
なればこそ――安易にイナンナの名前を使えない。
ミサキは命名の相談に乗ってもらったことへ礼を述べると、アキさんのアイデアに理解を示したからこそ、その名付けは保留にさせてもらった。
極戦態――アスタロト・グランデューク。
漆黒の大魔王の如き変身には、やはりこの名を付けた。
『この変身形態は、練習に練習を重ねてやっと編み出したもの……でもオレとしてはまだこの先、もう一段階上のパワーアップがある気がするんです』
漆黒に染まった外見が高位の悪魔を連想させること――。
更に高みを目指せる変身形態を模索していること――。
この2点を踏まえて、イナンナではなくアスタロトを選んだのだ。
『イナンナの名前は取っておきますよ』
ミサキがそう約束すると、アキさんは「そっスか」とだらけた笑顔で納得してくれた。その上で更なるアドバイスをしてくれた。
『もしも新しいパワーアップができたなら、カラーリングは金がいいッスよゴールド。イナンナは金星の女神とされてるッスからね。あと、ライオンが聖なる獣なんで、デザインに獅子を取り入れてほしいッスね』
獅子のデザインは、師匠へのリスペクトも兼ねている。
レオナルド・ワイズマン――かつては獅子翁と名乗っていた。
本名も賢持獅子雄なのでライオン尽くしだ。
『あ、ライオン押しなのはウチのアイデアだって、レオ先輩に絶賛アピールしてくださいッスよ? そこんとこよろしくッス!』
必死さを臭わせるアキさんのお願いに、ミサキは苦笑いを浮かべる。
『……なるほど、そういう魂胆ですか』
道理でイナンナをここぞとばかりに推薦するわけだ。
アキさんを含む爆乳特戦隊は、レオさんにベタ惚れである。
当のレオさんは同じGM内の、それも上役に当たる人に想いを寄せているそうなので、爆乳特戦隊もほとんど片想いになっていた。
それでも――恋心はアプローチを忘れない。
弟子に協力した件と、その変身形態に師匠の造形を取り込んだことにアキさんが関わったと知れば、レオさんへのポイントを稼げると踏んだのだろう。
実際、師匠は弟子に駄々甘なのでそうなる可能性も否めない。
アキさんの健気な努力、無下にするのは可哀想だ。
『わかりました、イナンナですね。ちゃんと覚えておきます』
アドバイスに助けられたのは事実、だからミサキは苦笑で承諾した。
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金色の戦女神――イナンナ。
2つの過大能力を暴走させて発動させた魔界の大公爵アスタロトへの変身から、龍脈の根源となる過大能力を見詰め直すことで、初心に立ち返った気持ちで発動させることができた新たな変身形態である。
ミサキは自らが生み出した龍脈への認識を改めた。
今までは過大能力から迸る、新たな“気”の流れだと考えていた。
自分から生じる龍脈を取り込むことで“気”を増強させたり、故意に暴走させることでアスタロトモードへの変身を行っていた。
これが誤りだと気付けたのだ。
きっかけは“自由意志の速度”への目覚めである。
自らの肉体が現実世界の血と肉でできたものではなく、高密度の“気”によって構成された魂魄。アストラル体となっていることを再確認し、もはや脳細胞や神経細胞による電気信号など必要としないことを実感する。
自由なる意志はそのまま“気”と伝わり、アストラル体を突き動かす。
そこにコンマ数秒もかかる運動準備電位はいらない。
この“自由意志の速度”を我が物としたミサキは、自らが生み出す龍脈もまた己の一部であるという事実を遅ればせながら知ることができた。
過大能力から生まれた別個の“気”ではない。
ミサキの根源である過大能力から葉脈のように伸びた“気”なのだ。
過大能力に限界はなく、暴走させる必要などない。
己の一部として意のままに扱える。
自由意志の速度を物にした今なら思うがままだ。
望めば望むほど龍脈は力を増して加速し、ミサキの体内で猛り狂う。それを肉体強化の過大能力に注ぎ込めば、莫大な“気”の恩恵によって際限のない肉体能力の向上へと推し進められる。
肉体が強くなれば龍脈の出力もまた上げられる。
2つの過大能力が円環を成すようにお互いの力を凄まじい勢いで回転させることで、無尽蔵のエネルギーを生み出せるようになった。
暴走させることなく、無限大の龍脈という“気”を我が身に宿す。
これによりミサキは新たな変身形態を獲得できた。
金色の戦女神――イナンナ。
アキさんと約束した通りの命名であり、その変身フォームには獅子のデザインも取り入れている。無意識のうちに師匠や先生に肖っていた。
以前のアスタロトモードは変装に近い。
顔に黒い隈取りめいた化粧が施されたり、全身を覆うスーツが漆黒に染まったり、龍脈が変形した黒い帯状のローブをまとったり……装いこそ悪魔らしいものに変わりはしたが、ミサキ自身に大きな変化は見られたなかった。
新たなイナンナモードは明らかに変身である。
まず体格が大きくなっていた。
全長4mの巨人と化したアダマスへの対抗意識も手伝ったのだろうか、170㎝あったミサキの身長は180㎝弱まで伸びていた。
筋肉も見苦しくない量で増している。
外見的にはそれほどバルクアップしたとは思えない。むしろ大人の女性的な柔らかい肉付きが強くなり、腕力や脚力にかつてない充実を覚えていた。
体格的な成長はスリーサイズも激変させる。
ウエスト据え置きで、バストやヒップが肥大化していた。
大地母神たる先生の足下にも及ばないものの、追いつこうとするかのように大きくなっている。カップ的にはKとLの間くらい……?
ヒップの拡大は、脚力増強した太ももの厚みだと思っておこう。
おかげで戦闘用ボディースーツがはち切れそうだった。
伸縮性に富んでいるのと、ミサキの状態に応じて可変する機能が搭載されているためか、体型の変化に合わせてモデルチェンジを果たしている。
……ギリギリの際どい、エロスを追求する方面でだ。
カラーリングも一新、ブラックを残しつつゴールドに転じていた。
そして――足下まで届きそうな長い髪。
女神の象徴とも言うべきロングヘアは、素のミサキなら紫がかっている。アスタロトモードだと癖のないストレートな黒髪になるのだが、イナンナモードではバリバリに逆立つ金髪に変じていた。
どこぞの戦闘民族の変身みたいだった。
ほら、アレだアレ。「穏やかな心を持ちながら激しい怒りによって目覚めた伝説の戦士」というやつだ。しかもヴァージョン3。
体型的な変化には、先生へのリスペクトが現れていた。
そして、黄金の獅子を思わせる髪型の変化には、獅子をモチーフとした師匠からのリスペクトだった。アキさんのアドバイスもあるのだろう。
二人の師――彼らへの尊敬が具現化したものだ。
「自由意志の速度は完璧にものにした……」
イナンナと化したミサキは瓦礫の野を踏みしめていく。
工作者ジンの作ってくれた超巨大闘技場は跡形もなく、精緻を極めた造形の残骸が見るも無惨に散らばっているばかりだ。
「アダマスの兆も確実に捉えられるようになった……」
喧嘩番長の鳩尾に叩き込んだ拳は、まだ燃える蒸気を発していた。
拳を打ち込む衝撃と同時に、体内で練り上げた狂暴な龍脈をありったけ注ぎ込んでやったのだ。アダマスの臓物は物理的に煮えくり返っているはずだ。
「腕力もタメを張れるまでに持ってこれた……」
体内で加速を続けている龍脈のおかげだ。
膨大な“気”の奔流である龍脈を、常時果てしなく光速に近い速さで加速させることで、予備動作なしでも凄まじい力を発揮できるようにした成果である。
龍脈を乗せた拳――略して龍拳。
怪力と台風の力を乗せたアダマスの豪拳に拮抗しうるものだ。
「……もう、負ける理由を探す方が難しい」
ミサキはアダマスの前へと立った。
先ほどの一撃がまだ響いているのか、アダマスは呻いている。
膝こそ突いてないものの、長く太い両足を四股でも踏むかのように大股開きで開いて踏ん張り、ミサキに殴られた腹を抱えて顔を顰めていた。
「負ける理由だぁ? そんなもん探すなよ……」
目の前まで来たミサキにアダマスは濁る声で応じた。
口内に溜まった血反吐の性だ。それを唾ごと吹き出すように吐き捨てた。
「ぺっ! 喧嘩してる時はなぁ……勝つことだけ頭にありゃいい!」
他はみんな野暮天だ! とアダマスはどんな痛みも吹き飛ぶすような歓喜に相好を崩した。その形相は笑顔だが獲物に噛みつく猛獣のようだ。
この言葉を受けてミサキも微笑む。
「――違いない」
アダマスは力を溜める雄叫びを喉の奥で鳴らしていた。
活を入れ直すために胸板や腹筋を叩いている。
「……ぉぉぉぉおおおおおっ! さあ、こっからが俺たちの最高潮だ! その超サイヤ人みてえな姿! また強くなったんだろ兄弟!?」
味わわせてくれよ――おまえの本気を!
もう先刻のダメージを忘れたのか、すっかり意気を取り戻したアダマスはミサキからの返事を待つことなく、先手必勝とばかりに殴りかかってきた。
拳の連打、ただし先の勝負のやり直しではない。
絶壁よろしく迫ってくる圧こそないものの、一発一発に込められたパワーは段違いだった。当たれば木っ端微塵が約束される爆撃みたいな威力がある。
拳の速さも残像が質量を持つかのように実体を伴う。
そんな豪拳の乱撃が襲いかかってくる。
ミサキ自身を狙うのは数発、他は回避する間を塞ぐためのものだ。
臆することなくミサキは前へと踏み出していく。
既にアダマスの動き出す“兆”は捉えられる。喧嘩のテンションによって緩急がつけられるも、イナンナモードならば対応できるはずだ。
豪拳の乱撃を掻い潜り、アダマスの懐へ飛び込んで肉薄する。
踏み込んでいくミサキの足下にローキックが飛んできた。
いくら180㎝近くまで身長が伸びても相手は4mの巨人、そもそもリーチの差が歴然だ。間合いの外からいくらでも攻撃を繰り出してくる。
乱撃は気を引くための目眩まし、下段蹴りは勢いをそぐための牽制。
この間隙を突かれ、本命の左ストレートがミサキの左頬に直撃した。
骨の髄まで沸騰する痛みに気が遠くなりかけてしまう。
体内を走る龍脈のうねりが衝撃を弾いてダメージを軽減するはずなのだが、まったく機能してないんじゃないか? と疑いたくなる鈍痛だった。
この期に及んで――まだ膂力が上がっている!?
追いついて追い抜いたかと思えば、すぐ追いつかれる。
窮地に追い込まれるほど“自由意志の速度”に開眼したり、金色の戦女神という変身形態を覚醒させているミサキが言えた義理ではないが、追い込まれれば追い込まれるほどパワーアップするのはアダマスも同じだった。
あるいは同類というべきか……。
類は友を呼ぶ、兄弟と親しまれるのも致し方ない。
顔面を潰すような右フックが、ミサキの頬へ抉るように突き刺さる。
まごまごしている暇はない。
アダマスは拳の乱撃を放っている。狙い澄ました他の拳が続々と追い打ちを掛けてくる。こんなもの立て続けに食らえば即お陀仏だ。
せっかく新しい変身ができたのに、初手で後れを取るなど恥ずかしい!
ミサキは慌てて防御のために腕を振り上げる。
ゴギン! と鉄骨同士を叩き合わせるような激音をさせて、アダマスの豪拳を防ぐことができた。それでも骨身に染みる痛みに頭の芯が目眩を起こす。
嵐を帯びた乱撃は止まらない。
反撃に打って出たいが、防戦に徹しなければ凌ぎきれない。
イナンナの真価を試したいがここは辛抱どころだ。
乱撃は一息ついたが、アダマスは攻勢の手を休めない。一気呵成に攻め立てるべく猛攻を続けてくる。使えるものはすべて使い切る勢いでだ。
暴嵐神として率いる小型の台風群。
オプションよろしく追随する独眼の怪物たちを動員させてきた。
「爆――嵐!」
いくつかの小型台風をまとめて圧縮、破壊力倍増で撃ち出してきた。
反射的に防いでしまったのは失敗だった。
極限まで凝縮された爆弾低気圧だと推測したミサキは、受け止めてからバラすことで強風を拡散できると踏んだのだが然にあらず。
台風の衝撃が――内側へ刺すように捻じ込まれてくる。
「こ、これは……オレの!?」
原理的にはミサキの必殺技“螺旋突”と同じものだ。
既に何度か食らっているアダマスは、文字通り身体で覚えていた。
天賦の才と褒め称えるべき漢だ。つくづく敵として出会ったことが惜しく、敵でなければここまで真剣に拳を交えられなかったことを幸運に思う。
「くっ、おっおおお……わあああああああーッ!?」
身体の内側に乱気流を叩き込まれ、ミサキは後方へ吹き飛ばされた。
山みたいな瓦礫へ幾度となく打ち付けられる。
やられっぱなしに見えるが、ちゃんと反撃の機会は窺っていた。
体内を掻き毟る乱急流みたいな衝撃は、ミサキの内側で原動力となっている龍脈に噛み殺させた。むしろ荒れ狂う力を龍脈を活気づける餌とする。
「こな、く、そ……があああーッ!」
瓦礫を転がりながらも姿勢を直すと一転跳躍。
一足飛びでアダマスの眼前まで戻り、反転攻勢を仕掛けていく。
「それでこそだぜ兄弟! 期待を裏切らねぇな!」
待ち構えていたアダマスは、カウンターの左ストレートで迎え撃ってきた。その初動を完全に補足したミサキは、兆を読んで攻撃を避ける。
そのパンチを合気の技で逆利用してやった。
力配分を間違えたかのように、アダマスは拳を突き出しすぎる。
前へとつんのめって体勢を崩すアダマスの左頬に、ミサキは「お返しだ!」と言わんばかりの龍拳をお見舞いしてやった。
顔面にクレーターを描いて、おもいっきり右を向くアダマス。
確かな手応えは感じるのだが、首から下は微動だにしていないので効いているとは思えないところに恐怖を覚えてしまう。
まさにタフネスの怪物である。
だがアダマスが怪物なら――ミサキはそれを倒す戦女神だ。
「まだだ! まだ終わりじゃないぞ!」
アダマスへ叩き込んだミサキの拳が新たな神威を顕す。
「行け――怒れる龍蛇!」
拳から解き放たれたのは、実体を持つ“気”で象られた龍脈。
それはミサキの拳からアダマスの頬を伝って体内へ侵入すると、これまでの龍脈のように内側で暴れてダメージを与えていく。
一通りアダマスの体内を荒らすと、反対側の頬へと突き抜けた。
そこから目にもとまらぬ速さでグングン伸びていく。
そして音速を超える速度の中で変化する。
龍脈という“気”の流れでありながら、風を切って飛ぶ毎に物質的な威力を増していた。長い蛇のような身体を持つ龍の形を取り、雲をまとって空を舞う。
それでも“気”の流れという龍脈の本質は失っていない。
どこまでも伸びていく怒れる龍蛇。
加速によって威力を上げ、今度はアダマスの頭頂部に突き立った。
鍛えようのない頭に直上から急降下による強力な打撃を加えつつ、正中線を真っ二つに割るような衝撃を与えるために龍脈がひた走る。
「ぐがっ!? 脳から穴まで……痺れるッ!」
痺れるだけかよ!? とミサキは悪態をつくも悪い気はしない。
不死身のタフネスを痺れさせたという事実は、痛みに鈍感なアダマスから着実に体力を奪えている証左でもあった。
怒れる龍蛇と名付けられた、この特別な龍脈。
アダマスの右頬から侵入してその体内をメチャクチャにかき回した後、貫通するように左頬から突き出て、2人の周囲を取り巻くように駆け巡り、今度はアダマスの脳天から股下までを突き抜けていった。
この間――わずか0.00005秒。
音速を超えて光速に近付く速さで、怒れる龍蛇は駆け抜ける。
しかも時間を追うごとに速度と攻撃力を上げていく。
「ほら、アレだアレ……このグネグネは俺でも疑わしいぞッ!」
さしものアダマスも危ういものを感じたのだろう。痛みで腰の乗らない脚を振り上げると、無造作な蹴りでミサキを遠くへ追いやろうとした。
「もしかしなくても鬱陶しいって言いたいんだろ!?」
易々と躱したミサキは、まだ右拳と繋がっている龍脈を操作する。
「逃がすかよ! 怒れる龍蛇ッ!」
右の拳から龍脈の放出を維持したまま、左の拳も突き出す。そこから新たな龍脈が飛び出すと、濃い“気”を凝らす怒れる龍蛇と化した。
2匹の怒れる龍蛇は、ミサキの拳を乗せた鞭だ。
当たれば龍拳のインパクトで筋肉を打ち据え、筋肉の隙間を貫くように龍脈として浸透することで内臓へダメージを負わせ、肉体を穿つことで肉が爆ぜるようなショックを与え、そこから目にも止まらぬ加速をして猛追撃を行う。
その一撃が四重奏に値する龍脈攻撃だ。
怒れる龍蛇はアダマスを取り巻き、幾度となく叩きのめしていく。
その過程で――怒れる龍蛇の頭が枝分かれする。
八岐大蛇も斯くやという形状にして、圧倒的な数で攻め立てるためだ。
「――数多の頭持て噛み破る暴龍!」
焦熱を帯びた龍脈の群れが、暴嵐神を喰らい滅ぼさんとする。
「うぉぉぉぉッ! ホラあれだホラッ!」
超必殺技ってやつかあッ!? とアダマスは大興奮だった。
怒れる龍蛇の巣窟に放り込まれ、肉体の外側からも内側からも食い破られるような衝撃を受けているはずなのに、その眼と声はまったく死んでない。
むしろ、かつてないほど活き活きとしている。
死地という死と隣り合わせのスリルを満喫しているとしか思えない。
激しい痛みさえも彼にしてみれば興奮剤のようだ。
「うぃははははーッ! 間に合わせで悪いが俺もいっちょやってやんぜ!」
アダマスは豪胆な足取りで踏み出してくる。
無数の怒れる龍蛇による噛みつきを意にも介してない動きだ。
一歩踏み出した足を支点にして、そこから爆発的な踏み込みを行うと一気に間合いを詰めてきた。暴嵐神として颶風を取り巻いた突進だ。
下手な柱よりも太い腕を高々と振り上げる。
その腕で殴ってくるとすれば、見え見えのテレフォンパンチだ。
ミサキにすれば避けることは造作もない。
怒れる龍蛇を使うまでもなく、自らの手で受け流すなりしてまた体勢を崩してやり、筋肉の鎧を緩めて体力を大幅に削る打撃で反撃してやればいい。
そう読んだのが――ミサキの慢心だった。
アダマスはミサキの怒れる龍蛇という超必殺技に、喧嘩屋として敬意を表するために「自分も即興で超必殺技で返してやる」なんて趣旨の発言をしていた。
明言ではないので意訳である。
暴嵐神の超必殺技――そこへの警戒を失念していた。
振り上げたアダマスの豪腕に強風が渦巻く。
元より嵐の神として突風をまとっていたが、その風圧が物理的威力を持つまでに高められていた。気圧という名の暴力、風の姿を借りた凶器。
暴嵐神ではなく破壊神としての側面を強調させている。
豪腕を中心にして立ち上ったのは、破滅を練り上げた竜巻だった。
延々と螺旋を描く颶風は重々しく粘ついている。
あれに巻き込まれたら竜巻を一巡りする間に、骨も肉も粉になるまで粉砕される。それほどの回転速度に超常的な圧力が掛けられていた。
超巨大な削岩機――岩を砕くための刃は鍛え上げたアダマント鋼。
そんな風に形容するしかない威容だ。
山脈や大地を貫くシールドマシンでさえ道を譲るド迫力である。
黒々とした物質化寸前の竜巻を掲げたアダマスは、右腕だけが何十倍にも黒く膨れ上がったように見えた。凄まじい重圧に肌がビリビリする。
竜巻の内部には1000G級の重力波を蓄えていた。
大陸をも断ち割る大竜巻の一撃。
それが躊躇なくミサキへと真っ向から振り下ろされる。
「――バルカンマウンテンブレイカーァァァッ!」
技名も即興のようだが、曰くありげなものを感じさせた。
この超必殺技は受けてはいけない。
どんなに防御や結界を重ね掛けしても防ぎきれず、恐ろしい勢いで命を奪い取るタイプの技と見た。ゲームならば、強化したガードでも平気で体力ゲージを削ってゲームオーバーへと追い遣るタイプの超必殺技だ。
受けてはいけないが――もはや避けることも適わない。
振り下ろすと同時に、竜巻が爆ぜて局地的な嵐と化したのだ。
圧縮した爆弾低気圧が間近で発生したも同然である。
神族の瞬発力を全力で行使しても、攻撃範囲から逃れられなかった。
「ちぃぃぃぃ……受けてやらぁ!」
自棄っぱちになったミサキは言葉尻を荒らげると、アダマスに襲いかからせていた怒れる龍蛇を呼び戻した。迫り来る嵐への迎撃要員とするためだ。
そして、世界を滅ぼす嵐が吹き荒ぶ。
浴びただけで身も心も魂までもが張り裂けそうな滅びの烈風。
破壊力抜群の風と雷と渾然一体となっており、重い質感を備えたプラズマの爆風となってミサキに総身を苛んできた。
咄嗟に防御系技能を使い、盾となる結界を張り巡らせる。
その上で呼び戻した怒れる龍蛇たちを四方に展開、降りかかるプラズマの強風を打ち払うべく縦横無尽に踊らせた。
ミサキ自身も神速で踏み出し、この嵐を突き抜けんとする。
結界は文字通りの紙装甲、あっという間に砕け散った。
頼みの綱はイナンナの強靱性と、何匹にも枝分かれした怒れる龍蛇。
対○忍みたいとよく言われるエロス満点なボディースーツの各部が引き裂かれ、美しい艶とともに強度も増している肌にも裂傷を刻まれる。引き千切るようなプラズマの爆風に嬲られ、血が膿むほどの打撲めいた傷も負わされた。
それでも――身体は動く。
運動性能に影響が出るほどの負傷がないだけで丸儲けだ。
アダマスの超必殺技を真正面から受けるも、潜り抜けることに成功する。
目の前には逆立つプラズマリーゼントが聳え立っていた。
ミサキは迷うことなく右拳を握り締め、やられた分をやり返していく。
「――龍王脈螺旋勁ッ!」
螺旋突の強化版、硬質化させた“気”をドリルにして叩き込むまでは同じだが、その中に爆発的な勁を数え切れないほど仕込んである。
相手の体内で幾度となく、高性能爆弾を爆発させるようなものだ。
あるいは地中貫通爆弾を速射かつ連射で打ち込む。
そんな致命の一撃を、自慢のリーゼントごと潰すように脳天へお見舞いする。
しかし、すんでの所でアダマスに避けられた。
「ふんんぐぅぅぅ!?」
反射的に首を曲げたアダマスは、誇りであるリーゼントの代わりに自らの顔面を差し出した。眉間にミサキの拳を叩き込まれても顔色ひとつ変えない。
間違いなくダメージは通っている。
分析すれば体力や生命力の減りを確認できる。確かに効いていた。
それをおくびにも出そうとしない。
痛がる素振りを見せず、不動のやせ我慢も漢の勲章と言わんばかりだ。
「ぐぅぅぅぅぅ……ほらあッッッ!」
綺麗な歯並びを見せびらかすように食い縛り、無理やりに暑苦しい笑顔を浮かべたアダマスは、返礼として左アッパーを振り上げてくる。
それはミサキの胴体にジャストミートした。
曲がりなりにも女性の肉体。下腹部には子宮や卵巣もある。
そこを避けて胸の下、横隔膜のある辺りを殴ってきたのは最低限の紳士のマナーか? それとも単なる気まぐれの偶然か?
どちらにせよ、五臓六腑がひっくり返るような打撃である。
血反吐こそ吐かないものの、胃の内容物が胃液にまみれて逆流しかけた。
「げ、ほごっほ……ぉぉぉドラアッッッ!」
頭に血が上ったミサキは何も考えずに膝蹴りでお返しした。ほとんど何も考えずに、カッとなった勢いだが怒れる龍蛇を仕込むのは忘れない。
こめかみで受けたアダマスは一瞬、白目を剥いてグラリ……と蹌踉けかけた。
「かっ、はっ……ッ! ほ、ほらあっ!」
だが、すぐに黒目とともに意識を取り戻して反撃してくる。
「ぼへっ! こんのぉ……ドラララァ!」
ミサキもまともに反撃を喰らうが、負けじと殴り返して蹴り返す。
そこから先――両者ともに我を忘れていた。
目の前の敵を倒すことに執着する修羅と化してしまったのだ。
もはや理性も曖昧となり、技もへったくれもなかった。純粋な殴り合いに興じていたのは間違いない。どちらの攻撃もかわすことはおろか防ぐのも難しく、先にへばった方が負けだと暗黙のルールを取り決めていた。
無言で取り決められたルールならば、もうひとつ課している。
相手の攻撃を避けない――受け切る。
酒の飲み比べならば、出された杯を断らないのと同様だ。
ここまで来たら、意地と根性で鎬を削るしかない。
ミサキが金色の戦女神として覚醒したことで、フィジカル面でもタイマンを張れるようになったからできることだ。通常モードなら押し潰されかねない。
混じり気なく純粋、心行くまで拳と拳で語り合う
これぞ一対一、漢の自尊心を懸けた真剣勝負だった。
『ほら、アレだアレ! 先にぶっ倒れた方が負けな!』
『じゃあ、膝を突いても10カウント以内に立ち上がればOKにしよう!』
そんなルールまで目配せで決めていた。
この素手喧嘩は長続きしない、と双方ともに勘付いている。
これまでの戦いにより蓄積されたダメージ、それと連動するような疲労感。いくら神族といえども、超常的な戦いを繰り広げていれば疲弊する。
どちらとも限界が近付いているのだ。
ミサキは自由意志の速度を習得し、イナンナという変身形態を手に入れたのはいいものの、この変身はまだ不慣れでおまけに体力の消耗が著しい。
まだ長時間の運用は難しいようだ。
龍脈による莫大な“気”の供給――常に肉体を万全にする強化。
2つの過大能力をフルスロットルで使っている弊害か、本来ならば疲れを知らない神の肉体から想像を絶する速さでスタミナが減っていた。
もう間もなく枯渇する、その予感がひしひしと忍び寄っていた。
あと数分も保てばマシである。
一方、アダマスも平気そうに見えてほとんど体力が残っていない。
この戦闘が始まってから、何度も何度も致命傷レベルの攻撃をまともに受けているのだ。撃破寸前まで追い込めていて当たり前である。
頼みの超高速自動回復も、極度の疲労ゆえか追いついていない。
もし生命力を数値化できるならば、アダマスのそれはもう一桁くらいしか残っていない。虫に刺されてもノックアウトするほどフラフラのはずだ。
なのに、ミサキの攻撃をいくら食らっても倒れない。
喧嘩番長は気力のみで戦い続けていた。
「ほっらああああああああぁぁぁぁぁーーーッ!」
「ドラアアアアアアアアアァァァーーーッッッ!」
アダマスの拳とミサキの脚が交錯し、クロスカウンター気味な相打ちとなる。互いの顔面と胴体に一撃を食らい、その反動で間合いを取るべく離れる。
そんな一進一退の攻防が続いていた。
漢の意地にかけて、両者とも一歩たりとて引かない。
距離を置いたミサキは、血で汚れた口元を拭いながら荒い呼吸で肩を揺らす。
息切れが過ぎて、深呼吸でも追いつかない。
神族の肉体でここまで呼吸が荒ぶるのは相当なものだ。肩を揺らすばかりではなく、大きくなった乳房や臀部の肉まで恥ずかしいくらい震えている。
先ほどの破滅的な竜巻で、ボディースーツはズタズタに引き裂かれていた。
おかげで扇情的な格好になったが恥ずかしがってる暇はない。
「ったく、世界は広いや……」
ミサキはニヒルな笑みを浮かべて独りごちた。
身体の節々が痛くて堪らず、自然とそこに手を伸ばしそうになるが、意志の力で抑え込むと戦うための構えを維持し続ける。
「師匠、先生、横綱、剣豪……オレが勝てないのはこの四人くらいだと思っていたのに……乗り越えるべきはあの人たちだけと思ってたのに……」
タメを張れる奴が他にもいたとはな、とミサキはアダマスを睨んだ。
これはミサキからの純粋な賞賛である。
そして、まだ未熟だと思い知らせてくれたことへの感謝だった。
「そりゃお互い様だぜ兄弟……」
さすがのアダマスも息が切れ、声に疲れが漂わせている。
閑話休題と一休みのつもりか、ミサキの呟きに付き合ってくれた。
盛り上がった僧帽筋や三角筋、はち切れんばかりの乳房と見間違えそうな胸筋。そういった筋肉を激しく上下させて、発する声も息絶え絶えである。
その熱気から吐息が蒸気のように真っ白だった。
「おっかねえのはロンドの大将か、大将をしてタメを張ると言わしめたそっちの親玉……ツバサの兄ちゃんか? くらいだと踏んでたのに……」
おまえは最高だぜ兄弟、とアダマスはまっすぐな賛辞を贈ってきた。
強者に認められるのは嬉しいものだ。
ミサキは小さな微笑みを浮かべ、褒め言葉で返してやる。
「いいや、無敗の喧嘩番長には引けを取るぜ……オレはまだ修行中の身だ」
この返答に――アダマスは苦い顔をした。
不服というより納得のいかない表情だ。恋愛ゲームならヒロインからの選択肢を間違えて、バッドコミュニケーションで好感度が下がったかのようだ。
気に障ること言ったかな? とミサキは小首を傾げる。
ミサキなりに褒めたつもりなのだが、喧嘩番長はお気に召した様子ではない。
アダマスは珍しく眉尻を下げて呟いた。
「俺は無敗なんかじゃねえ……俺は、ずっと負けっぱなしだった」
どうやら「無敗」の二文字が琴線に触れたらしい。
悔恨を打ち明けるように喧嘩番長は続ける。
「俺は生まれた時から、物心ついた時から……ずっと負けてきた……だから怖いんだ、強い奴が……そいつに勝ちたい一心で、たらふく飯を食らって、身体を大きくして、喧嘩で強くなって……おかげで戦う楽しみも知れたが……」
怖いものは怖い――どうしても強い奴が怖い。
「おまえみたいに強い奴は好きだが……やっぱり怖ぇえんだよ」
まるで告解を聞いているかのようだ。
以前にも「強い奴は怖いから殺したい」という話は聞かされていたが、アダマスの人格形成にこの問題は深く根を張っているらしい。
武骨な拳を開いたアダマスは、掌中をジッと見下ろしている。
「気付いたら……俺も強くて怖い奴になってたんだがな……」
そして――自分自身に恐怖を覚えた。
両眼を閉じたアダマスは精神を落ち着けるためなのか、愛用のダイヤモンドの櫛を取り出すと、プラズマ化したリーゼントをゆっくり梳った。
あれは彼なりの精神安定剤なのだろう。
気持ちを落ち着かせるため、漢の象徴を手入れするのだ。
「俺は無敗なんかじゃねえんだよ兄弟……俺は弱い、弱いんだ……」
強くないという自負――裏を返せば過信しない。
慢心や油断こそ見え隠れるするアダマスだが、強さへのこだわりはこの自身への過小評価に裏付けられているらしい。
「俺は弱い……だから強くなった! 強い奴を皆殺しにしたくなった!」
その殺害対象に例外はなく、アダマス当人も含まれる。
「それでも……おまえとの喧嘩は楽しくて仕方ないんだ! 兄弟ッ!」
ベキリ、とダイヤモンドが割れる音がする。
感極まったアダマスが、手にした櫛をへし折った音だった。
「強い奴は怖ぇ……だが、強くなって兄弟みたいな奴と競い合うのは超楽しい……俺はどっちつかずだ、どっちかわからねえ……だけどな」
大きな拳でアダマスは心臓を力強く打ち鳴らした。
「この昂ぶりだけは――本物だ」
そして、両手を振り上げて猛々しいファイティングポーズを取る。
「さあ決着つけようぜ兄弟! 世界の終わりなんざどうでもいい! 俺とおまえ! どっちが強いかをこいつで決めてやるぞッ!」
お互い後がないのはアダマスもよくわかっているのだろう。
次の一撃――どちらとも最後になる。
それほど余裕がない。余力気力ともに底を尽きかけているため、全身全霊を振り絞った究極の一撃を放つことに集中していた。
すべてを賭した大技、これを破られた方が敗北する。
「ああ、そうだな……決着をつけよう」
ミサキもアダマスの熱気に煽られるように身構えた。
悔いが残らないためにも、疲れた肉体に鞭打って最後のコンディションを整えようと、ミサキもアダマスも物静かなまま躍起になっていた。
適度な間合いを推し量り、乱れた息を正して距離を取っていく。
その時――両者同時に違和感に見舞われた。
二人とも最後の一撃のために気を練っているので、一時的に静けさが訪れていたのは認めるが、いきなり物音ひとつしなくなったのだ。
神々の激闘により、天候は風吹き荒ぶ嵐の様相を呈している。
なのに――まったくの無音。
殴り合いをやり過ぎて鼓膜をおかしくしたか? と勘違いしかけたが、調べてみても体調に不備はない。音がしない絡繰もすぐ判明した。
何者かが超絶的な演奏によって無音を奏でているのだ。
ミサキとアダマスを取り巻く空間。
そこに鳴り響くすべての音を聞き分け、相殺させる音色を奏でていた。音と音、まったく同じ音波によって打ち消されていたのである。
ツバサさん家のイヒコちゃんが似たような芸当をやっていた気がする。
真似したのか覚えたのか――彼女の仕業らしい。
音の消えた世界だからこそ、か細い彼女の叫びは胸に届いた。
「もう喧嘩は止しなさい、剛ちゃん!」
悪いこともやめて! と弟を心配する姉の金切り声で割り込んできた。
振り向いた先にいたのは和装姿の美女。
かなり着込んでいるが、長身でスタイルの良いのがわかる。
複雑な構造をした弦楽器らしきものを奏でる、十二単をアレンジしたような衣装の純和風な美しい女性。やや薄幸そうなのがチャームポイントだ。
長い黒髪は癖なのか左右に広がり、前髪も目線が隠れるほど伸ばしていた。
弦楽器を胸に抱いた目隠れ美人。ミサキは彼女を知っている。
トワコ・アダマス――アダマスのお姉さんだ。
四神同盟会議で、ツバサさんやレオさんを通して紹介され、アダマスと一戦交えた後は「どうかウチの弟をお願いします」と懇願された経緯があった。
彼女もLV999、この戦争に参加すると聞いている。
その役割は言うまでもなく、実弟アダマスへの抑止力が期待されていた。
「ね、姉ちゃん……!?」
実姉の登場にアダマスは――呆然としていた。
仕方あるまい。彼の言動を信じるならば、アダマスは「姉も母も父も、家族と言える者は、この手でみんな殺した」と言い張っていたのだ。
しかも、明らかな後悔を仄めかしていた(※父親以外は)。
姉や母を手に掛けたことは、彼も不本意だったはずだ(※父親除く)
「な、なんで……こんな、嘘だろ……夢か!? 幻か!?」
殺したはずの姉の登場にアダマスは度肝を抜かれ、ヨタヨタと気が動転した足取りで何歩か後退った。まるで幽霊に怯えるかのようである。
正しくアダマスにすれば幽霊に等しいだろう。
死んだはずの実姉の出現に戸惑い、アダマスは戦意を喪失しかける。
だが、それでも――彼の拳がほどかれることはなかった。
~~~~~~~~~~~~
アダマスの本名は大金剛といった。
かつてのVRMMORPGでのハンドルネームはアダマス・ビッグダイヤと名乗っていた。輝くダイヤモンドが自身の象徴だと信じていた。
ダイヤモンドは日本語で金剛石と書く。
自分の名前は大金剛、大きな金剛石という意味になる。
アダマスはこの名を気に入っていた。ダイヤモンドを愛するくらいにだ。
大金剛の名前は祖父から受け継いだものだった。
明治の頃から続く学者の家系な一族で、孫に自らと同じ名前を付けた祖父は、民俗学における異端児でありながら権威として敬われたそうだ。
アダマスが小学生の頃には鬼籍に入ったが……。
母親は物静かで穏やかな人だったが、子煩悩で世話焼きな人だった。
姉は大金十和子といい、儚げな美しさが評判でアダマス自慢の優しいお姉ちゃんだった。ブラコンと笑われるほどの弟思いでもある。
そしてアダマスは、気は優しくて力持ちを地で行く少年だった。
幼少期は普通の少年で悪目立ちすることはなく、ピカピカに光る石が好きで鉱石集めを趣味としていたくらいしか特筆すべきことがない。
ここまでの家族構成に問題はない。
最悪なのは父親ただ一人――あの男が家庭の和を乱していた。
端的に言えば、暴力を振るうDVな男だった。
父親はアダマスの祖父、つまり自分の父親と同じ民俗学者としての道を選んだのだが、そのために学会の顔役まで務めた祖父と比較されていた。伝説の名教授だった祖父と比べられれば、その実績はどうしても見劣りする。
親の七光りで無下にはされないが、いやらしい陰口は鳴り止まない。
――偉大な父のおかげで教授職にありついた二代目。
民族学会からは大なり小なり、そのような評価が落とし所だったらしい。
父親なりに努力はしたのかも知れない。
ただし、それは大して認められず、また祖父の功績が比較にならないほど目映く煌めいていたため、余計に父親の評判に影を落としていた。
そうしたストレスを、あの男は家庭で噴出させた。
最初は家庭を顧みない程度で済んでいたが、アダマスが物心を付けた頃には、少しでも気に食わないことがあれば家族に当たる立派なDV男になっていた。
漢として見下げ果てるべき下衆に成り下がったのだ。
夕飯の支度をする母が突き飛ばされ、部屋で静かにしてた姉が殴られる。
特に姉への暴力は日を追うごとに顕著になった。
姉が生まれ付き耳が良く、絶対音感なるものを持っていた。
それもあってか音楽を聴くのも歌うのも奏でるのも大好きで、母から誕生日に贈られたヴァイオリンを宝物にして、将来は音楽家を目指していた。
それが父親の癇に障ったらしい。
大金家は明治から続く由緒正しい学者の一門。
祖父や父親は民俗学者だが、親戚の多くも何らかの学問に通じていた。
アダマスの鉱石好きも「将来は地質学者が鉱物学者か」と期待されており、これは父親にも認められていたようだ。
だが、姉が音楽の道を目指すことを否定された。
学問に固執する父親にしてみれば、音楽や美術などは「所詮は芸事」と小馬鹿にするものであったらしい。絶対に認めようとしなかった。
父親は事あるごとに折檻という名の暴力で姉を責め立てた。
『――音楽を捨てろ! 真っ当な学問を選べ!』
反論すれば物理的な倍返しで戻ってくる。そう学習していた姉は、黙って父親の暴力に耐えるしかなかった。壊されそうになるヴァイオリンを胸に抱えて、懸命に耐えるしか選択肢がなかったのだ。
アダマスはまだ幼く、母も目を背けるほど暴力を受けている。
他の家族に助けを求められない。姉は孤独に耐えた。
これにアダマスが黙っていられるわけがない。
幼いながらも父親の暴力に理不尽を覚えたアダマスは、姉や母を守るべく父親に立ち向かったが、大人と子供ではとても勝負にならなかった。
父親はアダマスへも容赦なく暴力を振るった。
乳歯のほとんどは父親に折られ、骨折や脱臼も指折り数えて足らない。
これがアダマスにとって強烈な原点となる。
まだ小さくか弱い幼児にとって、暴力を振るう大人など鬼か魔物としか思えない。強大な力を持つ、絶対に敵わない強者として恐れるしかなかった。
強い者は怖い――強い者は俺の大切な家族をボロボロにする。
強者を恐れ、強者を嫌い、強者を憎む。
恐怖と憎悪を綯い交ぜにした感情を、強者へ抱いた原点だった。
十歳にも満たない幼児にも遠慮なく手を上げる。
どう考えても児童相談所案件であり、母や姉の暴力沙汰を考えれば警察に通報されてもおかしくはない。そういうのに敏感な時勢でもあったから尚更だ。
しかし、父親は世渡り上手だった。
学者としてはイマイチのくせに、人付き合いだけは呆れるほど達者だった。家族以外との交流では清廉潔白な人物を装い、世間体を重んじて後ろ指指されることなく誠実な演技をして、家庭のことはあまり臭わせようとしない。
唯一の汚点であるDVは隠し通されてきた。
社交性があったと言えば聞こえはいいが、悪用のみに使われたのだ。
母は姉やアダマスを連れて逃亡を図り、いわゆる避難場所へ逃げ込もうとしたのだが、どうしても上手く行かなかったと聞いている。
父親の世間の評判が良すぎて、DVに結びつかないのが理由だった。
あの男は自らの地位を守るため姑息に立ち回ったのだ。
アダマスは父親の強さに恐れながらも、それに反抗する気概を育てていた。
強さに立ち向かうには、それを越える強い力を手に入れるしかない。
アダマスは強くなるための努力を始めた。
筋トレや武道を学ぶなど初歩の初歩、殺しかねない勢いで暴力を振るってくる父親に対抗するには、本物の暴力をこの身で体験するしかない。
気付けば少年期のアダマスは喧嘩に明け暮れていた。
言い訳を許されるのなら、弱い者イジメをしたことは一度もない。
喧嘩を挑む相手はいつも格上の強さを持つ者のみ、あるいは同等に強い奴を何人か敵に回した時は受けて立った。
無抵抗な弱者を甚振るなど――漢として恥ずべき行為。
最低な暴力男だった父親を反面教師としたのだ。
小中高と喧嘩に次ぐ喧嘩を飽きることなく繰り返したアダマスは、いつしか最強のガキ大将と恐れられ、近隣の少年たちの頂点へと君臨した。
名実ともに喧嘩番長となったのである。
そして、姉トワコの謝り癖もこの頃に定着した。
昔から父親の暴力には土下座で「ごめんなさい、許してください」と訴えることしかできなかったトワコだが、アダマスの喧嘩した相手にも「ウチの弟がすいません! 怪我させてごめんなさい!」と謝罪に出向いたのだ。
これが癖になってしまったらしい。
鈍感なアダマスも、さすがにこの件では姉に迷惑をかけたと反省している。
誠に申し訳ない――こちらが謝り倒すしかない。
自動二輪の免許を取れる年齢になると、かねてより欲しかった大型バイクを購入して(※バイトと姉の援助)、念願のバイク乗りとなった。
いつしかアダマスは暴走族のリーダーにも祭り上げられていた。
アダマスはリーダーとして仲間に鉄の掟を強いた。
ひとつ、弱い者には決して手を出さないのが強者の務め。
ふたつ、強い者は無闇に力を振るわず他人に迷惑を掛けない。
みっつ、力があるなら親兄弟を守って大切にすること。
このためアダマスが率いた集団は世間的には暴走族と認知されながらも、非常にクリーンな走り屋集団となってしまった。
ある意味、アダマスが更生させてしまったのである。
まあ、スピード違反では度々お巡りさんの世話になったのだが……。
走り屋と喧嘩屋の青春を満喫したアダマスだが、実は裏で真面目に勉強にも取り組んでおり、地質学の勉強をしようと専門の大学を目指していた。
姉も志望していた音楽系の大学への受験を控えていた。
この頃、アダマスの家庭はもっとも穏やかだった時期のはずである。
理由は簡単――父親が家に寄りつかなくなったからだ。
母や姉を守るために幼稚園児の頃から歯向かってきた息子が、いつの間にか喧嘩慣れした2mを越える大男に成長した。これが決め手だったらしい。
アダマスからの復讐を恐れたのだろう。
親子喧嘩になれば完敗する――まかり間違えば殺されかねない。
そういう危機管理能力は人一倍なのだ。
学会の用事で出張、などと理由を付けて家に帰ってくなくなった。生活費はちゃんと振り込まれるので、アダマスたちが文句を言うことはない。
姉も念願だった音楽の道を進めて嬉しそうだった。
だが平穏だった日々は打ち砕かれ、幸せだった毎日は叩き壊された。
他でもない――アダマスの手が終止符を打ったのだ。
ある日、アダマスが家に帰ると空気が一変していることに気付いた。
玄関には最近見なくなった革靴があった。
久し振りに父親が帰ってきたと気付いたアダマスが応接間へ駆けつけると、そこには悪い予感をそのまま描いたような光景があった。
応接間の床には姉がへたり込んでいた。
長い髪は散り散りに乱れ、唇の端には赤い滴が流れている。
髪を無造作に掴まれて、泣き叫ぶまでビンタをされたに違いない。両の頬が赤く膨らんでおり、グッショリという表現が似合うほど涙で濡らしていた。
彼女の前には父親が立っており、肩で息をしている。
その父親に母が縋りつき、必死の形相で押し止めようとしていた。
父親の手には壊れたヴァイオリンが握られていた。
姉の宝物――母から貰った大切な品だ。
何があったかは聞くまでもない。一目瞭然だった。
音楽の道を志す姉を、父親は不快に思っていたのは知っている。
一族総出で何らかの学問に進んでいるというのに、1人だけ芸事に精を出す姉を許すことはできなかったのだ。アダマス不在の隙を突くように家へと戻り、母と姉をこれでもかと暴力で詰ったのは想像に難くない。
――アダマスはキレた。
頭のリーゼントが爆発したかと錯覚したほど血が滾った
喧嘩でも白熱忘我の瞬間はあったが、本当に我を忘れて鬼のように暴れ狂ったのは、後にも先にもこの時だけだ。まったく記憶に残っていない。
我に返ったのは、すべてが終わった後だった。
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そして、あろうことか母や姉も倒れ伏していた。
頭や腕からかなりの血を流しており、ピクリとも動こうとしない。
アダマスの両の拳はやたらめったら殴ったためか、あちこち皮に破れていた。そうした皮膚の裂け目が気にならないほど血化粧に濡れている。
この血は父親と――母や姉のものだ。
理性を失ったアダマスは、父親のみならず母と姉まで殴り倒したらしい。
まったく覚えていないが、惨状がそれが事実だと物語っている。
クソみたいなDV男である父親のことなどどうでもいい。
元より「いつかこの手で殺してやる」と誓った、強くて怖い奴だ。その宿願を成し遂げたと思えば達成感さえ覚えそうだった。
だが、大切に想ってきた母や姉を手に掛けたことは…………ッ!
守るべき者たちに暴力を振るってしまった。
これでは侮蔑と嫌悪の対象だった父親と変わりはしない。
『うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!』
アダマスはその場に両膝を突いて泣き叫んだ。
そのままアダマスは茫然自失となっていたが、騒ぎを聞きつけた誰かに通報でもされたのか警察が駆けつけ、気付けば留置所に拘留されていた。
やがて拘置所へと移された。
そこに父親の弟、祖父に瓜二つの叔父が面会へとやってきた。
綺麗に頭を剃り上げた禿頭の苦み走った中年男。大柄だがズングリムックリした体型をしており、スーツもマントみたいなコートも黒で統一している。
口元と顎を覆う髭も祖父とそっくりだ。
父親と違って、叔父は話のわかる誠実な人物だった。
『おまえたち家族の身に何が起きたか、おまえがどうしてこんな暴力事件をしでかしたか、私にはなんとなく察しが付いている……』
そういって叔父は左腕の袖をまくった。
手首から肘に掛けて、大きな疵痕が走っている
一目で理解した。父親の兄弟として一つ屋根の下暮らした経験のある叔父もまた被害者だった。あのDV男は家族に暴力を振るう癖があったのだ。
『だとしても――おまえはやり過ぎだ』
叔父は事件を起こした原因を鑑みて情状酌量するも、アダマスを厳しく叱りつけた。姉や母にまで怪我をさせたのだから当たり前だろう。
叔父の説教は身に沁みた。アダマスは涙が止まらなかったのを覚えている。
それでも叔父は親身になってくれた。
アダマスのために弁護士の手配などをしてくれたのは彼である。
『おまえは親父……祖父さんのお気に入りだったからな』
叔父はアダマスに援助する理由を打ち明けた。
『兄貴……おまえの父親の身内に手を上げる本性を知っていたのに、離れたらあいつの外面の良さに騙されて、おまえたち家族がここまで追い詰められてることも知らなかった間抜けさを笑ってくれ……せめて、できることはさせてもらう』
そうしなければ――亡き祖父に面目ない。
叔父の口から祖父の話が出てきて、アダマスはぼんやり思い出した。
アダマスと同じ名前の祖父、民俗学教授の大金剛は既に亡くなっている。
祖父との思い出は少ない。
アダマスが小学生に進学するとすぐに亡くなってしまったのだ。
次から次へと新説を打ち出すため民俗学会の異端児と呼ばれるも、やがて名教授と呼ばれるまでになり、死に際まで勢力的に研究を続けていた。
祖父との記憶でアダマスが覚えているもの。
それは握り拳にまつわるものだった。
『いいか剛……漢ってのはな、我慢して堪えなきゃいけない時がある。そういう時はギュッと拳を握れ。拳ってのは漢にとって最後の武器だからな』
地位も名誉も財力も、張り子の虎と変わらない。
いつかはベリベリと剥がれ落ち、その中身を露わにするものだ。
『そんな時に漢は試されるのさ……自分の鍛えてきた拳をな』
祖父は握り締めた拳を見せてきた。
老いてなお厚い肉に覆われた拳は、とても民俗学者とは思えないほど使い込まれて鍛えられ、また数え切れない傷に覆われていた。
『拳にはな、漢の生き様が刻まれるのよ』
漢の勲章とも言うべき拳を、祖父は誇らしげに掲げた。
『漢がその日まで生きてきた経験が、握るとともに掌へと宿るのさ……辛いことも楽しいことも悲しいことも苦しいことも嬉しいことも全部……そのひとつひとつが、漢を強くしてくれるんだよ』
拳を力いっぱい握り締めれば、それを思い出すことができる。
それは漢を培う自信となり――やがて誇りとなるものだ。
『辛くても苦しくても、拳をギュッと握り締めれば耐えられる。どうしても気に入らない奴がいれば、ぶん殴ることもできる。間違ったことをしている奴がいたら、殴り飛ばしてでも止めてやればいい。大切なものを守りたい時だって、拳ひとつあれば立ち向かえる……漢の拳にはな、それができる力があるんだ』
謂わば――漢の存在証明。
拳をほどいた祖父は、温かい掌でアダマスの頭を撫でた。
『何を失っても漢には拳がある……おまえも漢なら、それを忘れるなよ』
祖父の言葉が脳裏に甦ってきた。
この時アダマスは、すべてを失ったといっても過言ではない。
この拳で憎たらしい父親をぶちのめしたことに後悔はないが、大切に想ってきた母と姉にまでアダマスは深い傷を負わせてしまった。
漢の存在証明たる――己が拳でだ。
守るべき家族を、この拳で打ち壊してしまったのである。
悔やんでも悔やみきれない。漢の拳について熱く語ってくれた祖父にも、あの世で合わせる顔がなかった。その拳ですべてを台無しにしたのだから……。
アダマスは頭を抱えて激しく懊悩した。
『母ちゃんや姉ちゃんは……無事か? 大丈夫なのか?』
そのことだけが心配で堪らない。
面会を終えた叔父の帰り際、祖父を思い起こさせる背中に問い掛けた。
深いため息の後、重苦しい口調で叔父が答える。
『みんな死んだよ……よほど打ち所が悪かったんだろうな』
人並み外れた怪力から繰り出される拳。
鍛えていない人間が殴られれば、当たり所で即死もあり得る。
どこかで覚悟はしていたが、いざ事実を突きつけられると心は耐えられそうにもなかった。握り締めた拳を、自らの握力で壊すまで追い込もうとする。
父親だけではない――守ると誓ったはずの母や姉まで傷付けた。
あまつさえ、彼女たちの命をも奪ってしまった。
漢の存在証明たる拳で、もっとも大切な人たちを打ち砕いたのだ。
耐え難い自責の念にアダマスは狂わされた。
『おおおぅ……ああああああああああああああああああああああーーーッ!』
この日、魔獣の如き凄まじい慟哭が留置所に轟いたという。
これよりアダマスの記憶は曖昧だった。
破壊神を名乗る胡散臭い男が現れるその時まで……。
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蘇生魔法を授かった僕は戦闘不能の前衛(♀)を何度も復活させる
フルーツパフェ
大衆娯楽
転移した異世界で唯一、蘇生魔法を授かった僕。
一緒にパーティーを組めば絶対に死ぬ(死んだままになる)ことがない。
そんな口コミがいつの間にか広まって、同じく異世界転移した同業者(多くは女子)から引っ張りだこに!
寛容な僕は彼女達の申し出に快諾するが条件が一つだけ。
――実は僕、他の戦闘スキルは皆無なんです
そういうわけでパーティーメンバーが前衛に立って死ぬ気で僕を守ることになる。
大丈夫、一度死んでも蘇生魔法で復活させてあげるから。
相互利益はあるはずなのに、どこか鬼畜な匂いがするファンタジー、ここに開幕。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
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