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第17章 ローカ・パドマの咲く頃に
第419話:自由意志の速度~考えるより速く動け
しおりを挟む「後生だモミジ……頼む! 行かせてくれ!」
「いけません! 行っちゃいけないです!」
エンオウは許嫁の制止を振り切ろうとするも、モミジは持てる限りの手段を使って制してきた。腕力では適わないことを彼女はよくわかっている。
物心ついた頃からの付き合いだ。もはや兄妹に等しい。
なので、魔女として全力を行使してきた。
「ダメです若旦那! 何回言ったらわかるですか!?」
奈落へ落ちたら死んじゃいます! とモミジは端的に説明した。
モミジは過大能力で他者から鬼を顕現させる。それを調伏させることで、かつて鬼だったものを護法神という使役神にすることができたのだ。
魔女医ネムレスと激闘を繰り広げたモミジ。
その戦いで召喚した護法神軍団は、まだ喚び出したたままである。
モミジは彼らを総動員したのだ。
奈落へ飛び込もうとするエンオウに、護法神たちが組み付いてくる。数人がかりで羽交い締めにしたり、ラグビーでいうスクラムみたいな陣形を組んで立ち塞がり、こちらを動かせまいと全力で阻止してきた。
身長2m弱、父親譲りの体格を鍛え上げた筋骨逞しい青年。
街を歩けばZ戦士と勘違いされそうな風貌のエンオウだが、その巨漢を越える護法の鬼に取り囲まれれば、さすがに身動きが取りにくい。
現在、エンオウたちは宙に浮いている。
神族ともなれば空を飛ぶのは当たり前となっていた。
エンオウVSグレンは飛んだり跳ねたりと忙しなかったか、まだ地上戦と言える部類だろう。しかし、モミジたちは空中戦を繰り広げていたらしい。
エンオウが駆けつけた時、モミジも宙にいた。
そこから奈落を発見し――このやり取りに発展している。
もはや攻防というべきレベルだ。
飛行系技能を最大出力にして奈落へ向かおうとするエンオウだが、護法神たちに阻まれ、移動速度は秒速1mにしか達していなかった
「いや、なんで秒速1mも出せるですか!?」
護法神全員で止めてるのに! とモミジは悲鳴を上げた。
怪力自慢の護法神が束になっても押し止めることはできない。
エンオウの底力をモミジは改めて思い知らされていた。
その小さな魔女ことモミジもまた、護法神とともにエンオウを止めるため奮闘中である。エンオウの腰に抱きついて必死に引き留めていた。
許嫁が身を案じてくれているのはわかる。
それを無下にしても尚、漢には譲れないものがあった。
「危険なのは百も承知だ! だが、それでも……あの奈落にヌン陛下が囚われている可能性が高い! 助けに行かなければ漢が廃る!」
山峰家の人間は恩を忘れない――この家訓にも悖ってしまう。
「無茶はしないと約束するから行かせてくれ、モミジ!」
「だぁかぁらぁ! その奈落へ飛び込むのが無理無茶無謀なんです!」
モミジは護法神たちに揉みくちゃにされながら喚いた。
ほとんど涙声の絶叫、エンオウを心配するからこその悲鳴だ。
モミジは半狂乱な声で説得してくる。
「確かに私もヌン陛下があの奈落に囚われていると思います! 私だって若旦那と同じ気持ちです! 助けにいけるものならお助けに行きたいです! でも、そんなことしたら二重遭難でミイラ取りがミイラになっちゃうんです!」
あの奈落はすべての力を吸い尽くす。
貪り尽くすといってもいい。手当たり次第に万物を飲み込んでいる。
そうして取り込んだものを奈落の底に広がる虚数空間で消化吸収し、絶賛拡大中なのだ。この消化と吸収に抗う方法はないという。
「私やマリナちゃんみたいな結界のエキスパートでも保って数分! しかも奈落に入れば最後、まず逃がしてくれません! その数分が過ぎたら塵も残さず奈落に溶けてしまうんですよ!?」
「だ、だが俺の九天法でエネルギーを補填すれば……」
「無理です! 若旦那の考えは甘すぎます!」
食い下がるエンオウの意見は、モミジの怒りに任せた剣幕に却下された。
九天法――大天狗の末裔たる山峰家に伝わる秘法。
人間は身体の正中線(頭頂部から股下までの一直線なライン)に、気を集積させるためのチャクラというものが7つある。気功を操るものはこの7つのチャクラを回すことで“気”を練り、身体機能を補強するのだ。
丹田などはよく知られたものだろう。
九天法は、このチャクラを7つから9つへと増やす。
大地を8番目、天空を9番目、天地それぞれをチャクラに見立てることで、森羅万象の“気”を自身のものとする野心的な気功術である。俗に外気功と呼ばれる自然の“気”を取り込む方法に似ているが、その出力は段違いだ。
チャクラは回転させる部位を増やすごとに出力が上がる。
その上昇率は倍ではなく乗。
7つのチャクラをフル回転させた場合、総出力は7倍ではなく7乗倍となる。そこに天と地のチャクラを加えたら8乗倍や9乗倍では収まらないだろう。
エンオウの場合、この九天法が過大能力として昇華されていた。
過大能力――【九天に満ちる遍く気は我が竅へ集え】
原理は九天法とまったく一緒である。
だが、神族と進化した肉体は人間だった頃とは比べ物にならない量の“気”を取り込めるようになっており、本物のZ戦士に匹敵するほどのエネルギーやパワーを思うがままに発揮することができるようになっていた。
界王拳や元気玉も夢じゃない。多分できる。
その九天法の力を使えば、奈落の消化吸収能力を防げるはずだし、もしかするとヌン陛下を助けて脱出することも叶うのではないか?
そう提案するつもりだったが、エンオウの見積もりは駄々甘のようだ。
「いいですか!? あの奈落は別空間なんです!」
奈落の解析を終えたモミジは激昂するように説き伏せてくる。
「この世界とは断絶してる場所なんです! 若旦那の九天法は世界から“気”を集める技! 世界と繋がってない奈落へ飛び込んだら……」
ようやくエンオウも奈落の危険性を理解した。
「九天法は使えなくなり、自前の“気”もすぐ奪われるか……ッ!」
無限大の“気”を当てにできない。
九天法があればこそ適う、無理を通せば道理が引っ込むようなゴリ押し戦法を取れないわけだ。助けに行けば否応なしに巻き込まれる。
「奈落の脅威を知っていながら殴り込むのは……自殺行為か」
ヌン陛下を助けるどころではなくなる。
最悪の場合は二重遭難、ミイラ取りがミイラになる。モミジが奈落へ侵入することを、これらの言葉に例えた意味がやっとわかった。
「だが、それでも……ッ!」
エンオウは口惜しさから、火花が飛び散るほど歯噛みした。
「……ヌン陛下を見捨てることはできない!」
「それは私も同じです! 同じ気持ちです! ヌン陛下にはすっごいお世話になったです! その恩を全然お返しできてないです! だけど……ッ!」
モミジは泣きながら訴えてくる。
「陛下を助けるために私たちまで命を落とすようなことがあったら……陛下は死んでも死にきれなくなるです! あの方はそういう方です!」
わかっている。陛下は若人の無駄死にを許さない。
あの老賢人は、未来を託す次世代に思い遣りを欠かさない御方だ。
2人はヌン陛下に恩がある。
命の恩人――この言葉がしっくり来るだろう。
どことも知れない異世界“真なる世界”を当て所もなく放浪した挙げ句、蕃神に襲われて次元の裂け目に飲み込まれ、気付けばすべてを洗い流す暴君の水に覆われた異相へと迷い込んでいたのだ。
既にLV999だったエンオウたちでも、皮も肉も洗い流して骨まで砕く異常な環境で生き抜くのは過酷……というより不可能だった。
――もう駄目か!?
諦めかけた時に助けてくれたのがヌン陛下である。
ヌン陛下はエンオウとモミジを水聖国家の結界内に招き入れて、家臣団には内緒でヌン直属の教育機関でもある学院に匿ってくれたのだ。
内緒にしたのには理由があった。
エンオウとモミジは、異世界転移により地球から飛ばされてきたプレイヤー。今でこそ神族になっているが、元を正せば人間である。
ヌン陛下を初め、家臣団の主立った面子は神族だという。
彼らの中にはおおっぴらでこそないものの、多種族を卑下する傾向のものが少なくないらしく、地球から転移してきて神族化したプレイヤーを「人間風情が……」と見下す傾向があったからだと聞いている。
無用な軋轢は避けたい――この一心だったと思う。
ただでさえエンオウたちが転がり込んだ時期が悪い。あの頃の水聖国家は蕃神との開戦派と厭戦派が一触即発だったから尚更だ。
エンオウたちの存在は、この対立に一石を投じかねない。
ツバサ先輩率いる四神同盟の活動を把握していた水聖国家では、地球から来たプレイヤーの活躍は開戦派を焚きつけ、厭戦派にすれば忌むべきものだった。
水聖国家にプレイヤーが現れれば抗争の火種となる。
狡猾な領主ならば、厄介事は自国へ持ち込まないのが常だろう。
そうでなくとも揉め事の原因になるものは遠ざけるはずだ。
しかし、ヌン陛下は違った。
エンオウたちの苦難を感じ取るや否や、自ら暴君の水へ漕ぎ出して2人を救出すると、至れり尽くせりの世話を焼いてくれたのだ。
(※ツバサ先輩が率いる四神同盟との接触役を頼みたい、という下心はなくもなかったそうだが、その意図も至極真っ当なものである)
ある日、エンオウたちは訊いてみた。
『家臣の皆さんは神々として人間を下に見ている。たとえ神族化しても、成り上がり者だと軽蔑しているお聞きしました』
『なのに……どうしてヌン陛下はこんなにも良くしてくださるですか?』
この問いに蛙の王様は屈託なく笑った。
『ワシのような万年も生きたジジイからすれば、みんな同じよ』
家臣も君たちも同じ――孫を通り越して子孫じゃ。
『今の家臣団は大体二世、親世代には同年代もちらほらおったが……まあ蕃神との戦もあって長生きできんかった奴のが多い。あいつらの忘れ形見と思えば、出来が悪かろうと息子みたいなもんじゃ』
そして、エンオウたちは孫も同然だと言い切る。
『地球に人類が誕生した経緯には、この真なる世界が関与しとる。その際、ワシらの因子も相当ばら撒かれたようじゃからな……君らにすれば遠大な話になるかも知らんが、ワシにしてみれば孫の孫のそのまた孫……』
君らは遠い子孫じゃな、とヌン陛下は嬉しそうに仰った。
『人間も神族もないわい。困ってる孫を見捨てる祖父がどこにおるか』
これがエンオウたちを助けてくれた理由だという。
『……ま、母親の躾が良かったんじゃな』
ヌン陛下は遠い過去に振り返り、その人物への想いを綴る。
『実の母も優しい人じゃったが乳母……育ての母がな、アホみたいにデカい家族愛を抱えている御方でな。その影響じゃよ。「ちょっとでも世話したら我が子!」と言い張って譲らん母性愛の持ち主じゃったからのぅ』
その乳母にとって家族の概念はとんでもなく大きいらしい。
『ほとんど子供で構成されておるがな』
すべての子を養うビッグマムならぬグランドマザーだ。
彼女の言葉をヌン陛下は口遊んでいた。
『分け隔てなど狭量なこと――皆この世界より生まれたのだ』
乳母の遺志はヌン陛下へしっかり受け継がれていた。
『だが蕃神――てめぇらは駄目だ』
絶滅するまで戦るぞ、とヌン陛下は意気軒昂だった。
武闘派の戦神としての喧嘩っ早さは老いてなお健在である。
まあ蕃神は別次元からやってきた真なる世界の系統樹とはまったく異なる生命系統だからノーカウントということで……。
『だからな、この世界の者たちが捲土重来で勢いを巻き返してもいいし、地球からやってきた新しい種族となる君らが覇権を握ってもいい』
――皆が等しく我が子孫よ。
『子や孫が立派にやっていくのを見届けたい……老い先短いワシの楽しみはそれだけじゃ。それこそ出自で分け隔るなど狭量なことよ』
まさに好々爺といった風情でヌン陛下はケロケロ笑っていた。
ヌン陛下への恩情は、父母へ抱く孝行に匹敵する。
「だから、あの方を……死なせるわけにはいかない!」
「嘘ッ!? まだ動けるですか!? しかも、速度が上がってるです!?」
エンオウの移動速度は秒速10mになっていた。
組み付いている無数の護法神を、千切っては投げて千切っては投げてと振りほどいていく。エンオウはジリジリとだが前へ進む。
さすがに九天法で無茶ができるほど回復はしていない。
それでも諦めることはできなかった。
「遠い世界からやってきた俺たちを、孫と呼んで助けてくれたんだぞ? もう隠居してもおかしくないのに、この世界のためにまだ戦っておられるんだぞ? そんな人を……死なせて堪るものかッッッ!」
「私だって同じ気持ちです! 見殺しなんて以ての外ですけど……ッ!」
口では制するモミジだが、表情に諦めの色が浮かぶ。
その諦めさえも困惑気味だった。
ボロボロと涙をこぼす瞳はどうするべきか迷っている。
全力は尽くすけど半ば生還を投げ捨て、エンオウとともに奈落へ突入するか? 是が非でもエンオウを止めてヌン陛下を見殺しにするか?
愛する若旦那か、大恩ある国王か?
モミジにしてみれば究極の選択であろう。
その時――不意にモミジの顔がキョトンとなった。
信じられないものでも目撃したのか、ただでさえ円らな瞳を眼鏡のレンズくらいに大きく見開き、エンオウに必死の形相で怒鳴りつけてくる。
「……ちょ、ちょっと待つです! 若旦那ストップ!」
「痛ぇっ!? そ、そこは反則だ!」
本気で待つです! と臍に指をねじ込んでグリグリしてきた。
これは痛い。臍なんて鍛えようがない。
臍はエンオウの弱点であり、モミジの最終兵器でもあった。なので「非常時以外は禁止とすること」を、2人とも暗黙の了解として交わしていた。
切り札を使ったモミジは真に迫った声で告げる。
「何か……来るです」
奈落の底から――とてつもない何かが浮かび上がろうとしている。
「今近付いたら、奈落とそれの鬩ぎ合いに巻き込まれます」
「奈落と鬩ぎ合うほどの何かだと……?」
その急浮上を感知したモミジは、奈落に飛び込む以前の問題として近寄ることさえ危険だと警告してきた。
エンオウは眼力を凝らして奈落の様子を観察する。
気功系の技能も使い、ヌン陛下の気配を探すのも怠らない。
変化はすぐに目に映る形で訪れた。
「奈落が……沸いている?」
奈落を真っ黒い沼に見立てれば、その黒に染まる水面がゴボゴボと汚い泡を吹き上げていた。奈落の闇も細かく波打ち、蠢動するかのようだ
大地に広がる面積も急激に広がっている。
だが、奈落そのものが肥大化している感じではない。
奈落の内に生じた何かが急激に膨れている。
その膨張率に奈落が追いつけないのだ。自慢のすべてを貪り尽くす消化吸収能力でも間に合わず、パンク寸前の風船よろしくまん丸に盛り上がってきた。
ついには限界を迎え――奈落が破裂する。
人間ならば食べ過ぎて胃袋ごと腹がパンクしたようなものだ。
奈落の闇を爆ぜ散らしたものの正体は――。
「大量の……水です!」
――空へと噴き上がる巨大な水柱だった。
天地を逆さまにした大瀑布の如く、空へ向かって落ちていくような勢いで激流が登っていく。あまりの勢いに龍が昇天する幻を見るかのようだ。
激流を越えた瀑流である。
一瞬にして湖を満杯にするほどの水は、大空へ舞い上がると薄い雲を作りながら大きな虹の橋を架け、雨となって地域一帯に降り注ぐ。
「若旦那! 水ですよ、ほらほら水水!」
巨大な噴水を目にしたモミジは、幼子みたいな歓声を上げていた。
奈落の闇をも押し退けた――莫大な水。
どう考えてもヌン陛下が何らかの奥義を使ったとしか思えない。奈落に囚われながらも、乾坤一擲の大技で反撃の狼煙を上げたのだ。
「……いや、水だけじゃないぞ」
止め処なく巻き上がる瀑流。そこに少しずつ違うものが混ざる。
まだ空へと噴き上がる巨大な噴水に、ちらほらと茶色いものや緑色のものが混じるようになっていた。それらは段々と自己主張を始め出す。
「水……じゃない。あれは、泥……いや、土か」
「緑色のは藻や苔……どころじゃないです! 草木がいっぱいです!」
水の中から様々な有機物が生まれつつある。
原初の混沌より滴り落ちた神水から、続々と生まれ出る大自然の塊。
その尽きることのない圧倒的な生命力を前にして、奈落の闇は押し潰されるように散り散りと消えかけていた。事実、最初の瀑流が立ち上った時点で奈落は粉微塵になるくらいバラバラに打ち破られていた。
泥は適度の水を含んだまま集まると、土の塊を形成していく。
やがてそれは強固な岩盤となる。
たくさんの魔力を含んでいるためか、重力に逆らって宙に浮いている。岩盤に泥がまとわりついて、空に浮かぶ新しい大地を形作りつつあった。
宙に舞う土の塊は、次第に空に浮かぶ島へと成長する。
そこに張りついた藻や苔が瞬く間に繁茂し、草や若木を伸び生やす。
気付けば――空に大きな島ができあがっていた。
水聖国家オクトアードと同じくらいの島だと思っていたら、あれよあれよという間に泥と土をまとって巨大化していった。エンオウの目測に誤りがなければ、水の王国の数十倍の大きさに達している。
水聖国家の大きさは、現実で比較すると淡路島と同程度。
国としてはかなり小さい方である。
だが、この空に浮かぶ島は四国くらいはあった。
まだ成長途中にあった奈落の闇。
そのサイズは琵琶湖と変わらない程度だったので、その内側にいきなり四国ほどはある大地が現れれば、いくら虚数空間といえど破裂するはずだ。
存在しない場所――虚数空間。
そこに圧倒的な実体を持つ大地を受け入れる許容量はなかった。いずれは世界をも飲み干す闇に育ったかも知れないが、そうなる前に自分の容積を上回る体積をぶち込まれて破裂してしまったわけである。
あの奈落、マッコウという敵幹部の気配を帯びていた。
モミジの見立てによると、恐らくマッコウが自分自身を変異させたものだろうという見解である。それが木っ端微塵に吹き飛んでしまったのだ。
つまり、それが意味するところは……。
守護神と破壊神の盤上――№01のコインが砕け散る。
それは内側からの圧力で風船のように膨らみ、音を立てて弾け飛んだ。
~~~~~~~~~~~~
かつて海水の女神と淡水の男神が恋をした。
海水の女神の名はティアマトー(海水を示す『苦い水』という意味)。
淡水の男神の名はアプスー(淡水を示す『甘い水』という意味)。
双方ともに創世を司る神々の一柱であり、この二柱の神の恋は新しい神々とともに、混沌の泥から豊饒の大地をたくさん生み出したという。
しかし、この夫婦神。子供である神々とは大変折り合いが悪かった。
天地を巻き込む壮大な親子ゲンカを繰り広げたほどだ。
結果、古き神々である夫婦神は敗れ、この世界からの退場を余儀なくされてしまったわけだが、それはまた別の神話である。
ヌンの使った切り札は、この創世の夫婦神の関係によく似ていた。
混沌より滴るもの №01――陰海。
混沌より滴るもの №02――陽水。
字面からもわかりやすいと思う。
片やすべてを生み出す混沌とした陰の“気”の神水であり、片やその陰から照らし出すように森羅万象を形作る陽の“気”の神水である。
陰と陽の気を含んだ神水、それだけだ。
他の混沌より滴るもののような能力は一切ない。
この2つが合わされば陰陽合一して太極、すべての根源となる。
創世の一面である太極を生み出すための要素。ヌンの奥義である混沌より滴るものの原点ともいうべき最終奥義を行使するためのものだ。
混沌より滴るもの №0――汽源。
淡水と海水が入り交じるところを汽水域という。
(※地理的に言えば川と海の境界、河口や干潟がそれに当たる)
汽水域は淡水でも海水でもなく、水の流れに応じて塩分濃度が混じったり分かれたりと混在している。このため水棲生物も海棲生物も行き来でき、極めて豊かな生物相を織り成している場所が多い。
№0から始まるこの神水も、海水と淡水を混ぜることで生まれる。
汽水より生じる始原――という意味合いだ。
混沌より滴るもので扱う多くの神水が様々な効果を発揮するが、この汽源だけは色合いが異なっていた。攻撃や防御、回復に補助といったものではない。
これは――創世の秘儀である。
蛙の地母神ヘケトより継承した、世界を創るための御業なのだ。
一万二千年を超えるヌンの長い生涯でも、この神水を使ったのはこれで二度目に過ぎない。一度目は八千年も前に遡る。
一度目は、水聖国家オクトアードを建国する時だ。
現在イシュタル女王国の沿岸に接岸して半島のようになった水聖国家だが、元を正せばヌンが混沌より滴るもので創った国土だった。
自分についてきてくれる民草が暮らせるだけの土地があればいい。
あまり領土を広げると、他国に難癖をつけられやすい。
こうした考慮を踏まえて、ヌンは水聖国家をコンパクトに収めたのだ。当時からして相当の加減をし、自前の国土を創造したのである。
今回は奈落を破るに当たり、手加減なしで最大馬力を出してみた。
マッコウの奈落は、消化吸収と肥大化に優れた胃袋だ。
その胃袋をパンクさせるために大量の質量を求めていたので、本来なら攻撃手段ではない創世の秘儀に頼ってみたのだが……。
やべ――ちとデカく作りすぎた。
魔力を宿して空に浮かぶのは、小振りながらも立派な大地だった。
大陸とは呼べないが、島というにはあまりに大きい。
水聖国家の何倍だ? 何十倍もありそうだ。
老化による能力の低下を計算に入れても、全力を出せばこれほどの神威は引き起こせるらしい。ヌンもまだまだ捨てたものではない。
頭脳はあれこれ考えるが、身体はまったく言うことを聞かなかった
「ゲコオオオオオオオォォォー……ッッッ!?」
蛙らしい悲鳴を上げながら、ヌンは無重力感覚で宙を舞っていた。
汽源により創出された、莫大な水と混沌の泥。
それらが起こした創世の大爆発は、奈落の闇を打ち破ることができた。
ヌンの目論見は大成功である。
噴き上がる巨大な水柱に乗って脱出はできたのはいいものの、そこで力を使い果たしてしまったヌンは、空を飛ぶことすらままならなかった。
見下ろせば、すぐそこに地面が見える。
急上昇した距離感からしても墜落が早くないか? とヌンは訝しむ。
――そこは地面ではない。
ヌンによって新たに創られた世界、空に浮かぶ大地だった。
生まれたてで強力な混沌の“気”を含んでいるおかげか、地表に降り積もって山になることなく、巨大な浮島として浮かんでいるようだ。
「コォォォォォォ……ぶぇ!?」
自分の生み出した大地、そのどこかの草むらにヌンは不時着した。
疲れから来る深呼吸を繰り返していると、新鮮な露草の香りがこれでもかと鼻腔や喉に突き刺さってくる。その清涼感が心地よい。
時間にして数分か数秒か、ヌンは寝返りを打って仰向けになる。
「……か、勝ったのか?」
カエル面でボソリと呟く。身体も年老いた短軀に戻っていた。
こちらの姿の方が馴染んでいる証拠だ。
あのゼウス様やユピテル殿にも例えられる姿は全力を出すのには適しているが、老体には堪えた。人前でカッコつけて無理な虚勢を張る感覚に似ている。
無意識に楽な方へと戻っていたらしい。
「そんなことより、あのマッコウとかいうおデブちゃんは……ッ!?」
奈落は爆破したし、仕留めた手応えも確かにある。
だが、痩せても枯れても神族。それも灰色の御子の血を引く者。
命冥加に生き残って、再生でもされたら一大事だ。またぞろ奈落が広がって、この世界の命が貪り食われでもしたら堪ったものではない。
もう一度寝返りを打って身を起こそうとした時だ。
ヌンの目の前にベチャ! と湿った音を立てて黒い粘液が降ってきた。
真っ黒な闇を凝り固めた泥濘――奈落の断片だ。
それは周囲のものを貪って成長しようと闇の触手を伸ばすのだが、とてもか細く若草を濡らす露さえ啜れない有り様だった。
完全に弱り切っている。これでは復活など望めない。
ヌンの創り出した新世界の圧力は、マッコウの奈落を完膚なきまでに打ち壊していたようだ。そのことへ肩の荷が下りたように安堵する。
「嘘よ……こんなの……まだ……まだ……」
蚊が鳴くよりも弱々しい涙声にビクン! とヌンは過剰に震えた。
闇に染まるスライムにしか見えない奈落の断片。
「神からも魔からも疎まれ……人の世に生まれても……すべてを貪りたい欲求から除け者にされて……マイノリティなんて言葉で差別されて……」
見覚えのある肉厚な顔を闇に浮かび、苦しげに言葉を紡ぐ。
「虐げられたあたしが、すべてに仕返しを……何もかも貪れると……」
思っていたのに……苦悶の表情で呻いている。
「こんな終わり……あたしが……みんなから蔑まれたあたしが……」
こんもりした頬を避けるように、熱い涙が流れ落ちていく。
「奴らを見返して、復讐して……あたしの奈落に突き落として……嗚呼、ロンドさん……あたし、許さないから……あたしたちを、虐げた連中を……」
怨嗟の声を漏らしながら、奈落の断片は散り始める。
もう存在を維持する力さえ残ってないのだ。
「みんな奈落に突き落として……みんな破壊して……みんな、みん、な……」
そうして――マッコウは事切れた。
恨み言を呟いていた断片は、細かい塵となって消滅する。
ヌンは、ガクンとその場に崩れ落ちた。
さっきまでは身を起こそうと努力していたが、マッコウの最期を見届けた瞬間、「ワシの仕事はここまで」と肉体が音を上げてしまったのだ。
「……ツバサ君、やったぞ」
年甲斐もなく覚えた達成感が口から漏れてしまう。
「見ていてくれましたか、ハトホル様……敵の最高幹部を……斃しましたぞ」
あなたの愛した大地を――守ることができました。
達成感はあるものの、老人として幾許かの悔いはあった。
「身内であるはずの灰色の御子を処す日が来ようとは……なんて因果よ」
その一点だけは悲しみを覚えてしまう。
いくらか憐憫は湧くが、マッコウの自業自得だと割り切った。
一万二千年に及ぶ戦闘経験は、ヌンに優しさと冷酷さを使い分ける胆力を培ってくれた。哀れには思うが、敵対した敗者に情を寄せるつもりはない。
「だが、ワシにできるのはここまでじゃ……」
もう本当に身体がいうことを聞かない。
「あー……言いたかないが、年は取りたくないモンじゃな」
疲れたため息しか出てこないのが情けない。
若い頃ならばマッコウ程度の敵、ちゃちゃっと倒してわずかな休憩で心身を回復させて、すぐさまツバサ君の応援に駆けつけたことだろう。
それが適わぬほどヌンは老いてしまった。
「この様で馳せ参じても……足手まといにしかならんわなぁ……」
しかしまあ、敵の最高幹部を倒せたのだから大金星だ。
「後のことは若い者に託そう……なあ、ツバサ君」
頼んだぞ……その言葉を最後にヌンの意識は闇の底に沈んでいく。
別に死んではいない。
疲れすぎて、泥のように寝落ちしただけである。
~~~~~~~~~~~~
イシュタル女王国電撃戦 四番勝負。
第一戦 エンオウ・ヤマミネ○ VS グレン・ビストサイン●
第二戦 モミジ・タキヤシャ○ VS ネムレス・ランダ●
第三戦 ヌン・ヘケト○ VS マッコウ・モート●
ここまでの戦い、四神同盟がストレートに三勝を収めていた。視野に入らないほど遠く離れているが、仲間の勝利はミサキの耳にも入ってきている。
情報網ネットワーク様々だ。
情報官であるアキさんと、還らずの都のククリちゃんに感謝しよう。
みんな勝ったのだ。ミサキも負けていられない。
第四戦 ミサキ・イシュタル VS アダマス・テュポーン。
その戦いは混迷の様相を呈しつつあり、最高潮どころか佳境にも届いておらず、小競り合いにも似た殴り合いに終始しているところだった。
「こなくそ……ッッッ!」
ミサキは美少女に似付かわしくない悪態をついていた。
――生まれついての女顔。
幼い頃から「女の子みたい」と陰口を叩かれてきたが、ミサキが気にしたことはほとんどなかった。ゲームのアバターを女性キャラで通したのも「美少女のが見栄えいいじゃん」という単純な理由である。
他意はない――ミサキはいつもあるがままだ。
真なる世界で戦女神に転生しても、ミサキの本質は揺るがない。
ミサキ・イシュタルは石田実咲という少年のままである。
殴られればお口が悪くなるのも致し方ない。
いくら周囲が美少女だ女神だと持て囃しても、ミサキの中身は格闘アクションゲームが大好きな少年のままだった。
そんなミサキの顔面に、アダマスの豪拳がお見舞いされている。
体格差のため巨大な鉄球で殴られている気分だ。
少年的な凜々しさを失わない戦女神の美貌、そこに鉄塊も打ち砕く巨大な拳が叩き込まれていた。頭蓋骨の変形しそうな打撃力である。
だがミサキも男の子、やられたらやり返す喧嘩の心得があった。
「エキサぁ……イトォォォォォォッッッ!?」
アダマスは口癖を叫ぶも、途中にノイズが混じっている。
日本人らしからぬ彫りの深い顔立ち、その唇と鼻の中間点にミサキの蹴り込んだ爪先がめり込んでいるからだ。ここは人中という急所でもある。
交差気味に両者相打ちとなっていた。
アダマスの左ストレートを躱そうとするも紙一重で失敗したミサキは、顔面に彼の鉄拳をもらうものの、下半身を振り上げて限界まで足を伸ばす。そして爪先に龍脈を乗せると、お返しとばかりにキックをお見舞いした。
龍脈の“気”はアダマスの体内に流れ込む。
それは暴走する龍となり、体組織を食い破ってダメージ量を押し上げる。
最後には爆発を引き起こして致命傷を与えるのだ。
もっとも、アダマスは異常にタフなので大して効かないのだが……。
「……うぉわあッ!?」
「ぼ、ぼ……ぼぉらららぁあっ!?」
互いの攻撃により吹き飛ぶミサキとアダマス。
当人たちが吹き飛ばされるだけなら可愛いものだろう。
だがしかし、ミサキは龍脈という膨大な“気”を率いる戦女神。アダマスは超巨大積乱雲を子分のように従える暴嵐神。
そんな神族たちが激突すれば、龍脈と積乱雲もそれに追随する。
この地域に天変地異がマシと思える激震が轟いた。
もはや自然現象かも怪しい、空間までも歪ますほどの波及だ。
雷鳴が轟く大嵐と大地震が絶え間なく続いている。
吹き飛ばされた2人は、辺り一帯に転がる瓦礫を蹴散らしながら転がっていき、勢いが収まってきたところで何かの残骸に叩きつけられて止まった。
「……ったく、アホが付くほどの馬鹿力ってどうよ?」
アホバカセットで手に負えない! とミサキは瓦礫を蹴り飛ばす。
殴られた頬をさすって立ち上がる。
幸いにも顔の形は変わってなさそうだが、歯の噛み合わせが悪くなったような気がする。骨格にまで打撃が浸透したためだろう。
体内から壊すような殴り方、中国拳法でいう勁などの使い方。
それをアダマスは少しずつ学習していた。
失礼だとは思うが、とても学校の成績が良かった優等生には見えない。喧嘩番長のガキ大将らしく、体育などで活躍したタイプだろう。
だからなのか――肉体の学習能力がスゴい。
対戦相手の格闘技術、それを文字通り身を以て味わうと、スポンジに水が染み込むような速さで覚えてしまうのだ。
気軽に使いたい言葉ではないが天才である。
真剣に武術を学んだらどうなるか? 想像するだけで戦慄する才能だ。
アダマスも無造作に瓦礫を退かして立ち上がってくる。
「へへへっ……こんだけ殴っても立ち上がってくるし、俺のパンチを食らっても怯むことなく、即座に反撃キックをぶち込んでくる……」
独りごちるその声は楽しげで、ワクワクが止まらないようだ。
「今までいなかったぜ、そんなイカス野郎はよ!」
大抵パンチ一発で相手がノックアウトして終了だったらしい。
現実でもヤンキー漫画を地で行くような喧嘩番長だったのが窺える。
「やっぱりミサキは最高だ――俺の最高の友達!」
アダマスからの荒々しい高評価に、ミサキは疲れた苦笑いで答える。
「俺の友達にとうとうベストが付いてきたか……」
最終進化形は「兄弟!」になるのか?
その愛称はいらないので、そろそろ勝負に決着をつけたい。
だが――アダマスが許してくれなかった。
ミサキとの喧嘩が楽しくて終わらせたくないのと、致命傷を与えても秒で復活する不死身のタフネスが、この戦いを無駄に長引かせていた。
短期決戦など望めない。
逆にこちらのスタミナが削られそうで、ミサキは戦々恐々である。
イシュタル女王国から西南――かなり離れた無人の地。
そこの原生林に即席で作られた闘技場だ。
正しくは過去形、闘技場だった場所というべきだろう。
工作者ジンが作ってくれた魔法道具。一時的に異相を真なる世界へ召喚し、周囲に悪影響を及ぼさない領域を作り出すものだ。
これにより直径150㎞に及ぶ超巨大闘技場が作られていた。
LV999の神族が争えば破滅が吹き荒れる。
その破滅という名の余波で自然破壊をさせないためにも、大目に土地を確保しておこうとジンが計算した結果、こんな途方もない面積になったそうだ。150㎞の円周なんて、小さな国なら数個は収まるだろう。
……まあ、ミサキとアダマスがぶつかっただけで壊れたたわけだが。
破壊力を抑える封印結界も役には立たない。
即席とはいえ、凝り性のジンが手間を掛けたデザイン力のある闘技場。
それが2人の小手調べで一撃粉砕である。
ミサキは悪くない! 手加減を知らないアダマスが悪いんだ! と好敵手に罪を被せたところで大して意味はない。ミサキも同罪である。
後でジンに謝ろう、このことだけは詫びておこう。
それに破壊を防ぐための封印結界や闘技場その物が壊れても、まだ異相から召喚した直径150㎞にも及ぶ領域が残っている。
これだけの戦闘用フィールドがあれば、余所へ迷惑をかけにくいはずだ。
この点も礼を言っておかないとな……。
意識がまだ鮮明なうちに、ミサキは心のメモ帳に記しておいた。
アダマスとの勝負はまだ前半戦を消化した程度。
これから殴る蹴るどつくを超越した、限界バトルがまだ続くのである。あの鉄拳に殴られ続けたら、意識が朦朧とすること請け合いである。
双方ともに全力を出せる形態に変身していた。
ミサキの変身――極戦袋アスタロト・グランデューク。
内在異性具現化者は2つ以上の過大能力に覚醒する。
これを活用したパワーアップ方法だ。
最初に考案したのはミサキに合気道を教えてくれる先生でもあるツバサさんで、アハウさんやクロウさんも習得済みである。
ミサキだけは『次元を創り直す』という3つめの過大能力も持っているが、自らの魂の経験値を消費するデメリットがあるため軽々に使えない。
なのでツバサさんへ倣うことにした。
2つの過大能力を同等に暴走させつつ連動させていく。
フミカちゃんが「平行励起ッスね」とか難しい単語を使っていたけど、要するに2つの過大能力の出力を臨界点を越えて暴走状態にまで追い込みつつ、バランスを崩さないよう連動させていけばいいのだ。
口で言うのは簡単だが、実際にやると至難の業である。
はっきり言って死を覚悟した曲芸レベル。暴走する2台のモンスターマシンを、平行して操作するような真似をしなければならないのだ。
また、過大能力の連動にも個人差があった。
片方の過大能力を暴走させて得られたエネルギーを、もう片方の過大能力へ注入するようなやり方もある。そこは人それぞれなのだ。
大事なのは――暴走させて連動させること。
この2点を抑えなければならない。
ミサキは連動こそ意識するものの、実質的には注入に近い。
過大能力――【無限の龍脈の魂源】。
大自然を流れる“気”の奔流、龍脈の発生源となれる能力だ。
自らの発する龍脈を暴走させて、暴発寸前のエネルギーを昇華させていく。
過大能力――【完璧に完成された完全なる肉体】。
いつでも身体機能を万全に整え、非の打ち所のないコンディションにする。必要とあらば心身を増強させることもできる、肉体強化系でも最強の能力だ。
暴走させた龍脈の力を、完全無欠の肉体で受け止める。
龍脈によって留まるところを知らない強化が掛かり、それが更なる龍脈を暴走を引き起こし、すべての能力を天井知らずで高めていく……。
この連動の果てに、変身という一段階上の強化へと至れるのだ。
変身と名付けるだけはあり、姿形がすっかり変わる。
紫色のウェービーなミサキの長い髪は、まっすぐで癖のないストレートな黒髪へと変わり、顔には隈取りのようなフェイスペイントが施される。
体型的な変化はほとんどない。
幸か不幸かバストやヒップが大きくなるなどの、ツバサさんみたいに女神らしい肉体へと成長することはなかった。
アハウさんやクロウさんのように巨大化することもない。
ただ体内で暴れ狂う龍脈があふれるのか、黒い帯状になった龍脈を全身にまとうため、漆黒のローブをまとうような風体になっていた。帯となった龍脈はミサキの攻撃力を高めてくれたり、敵の攻撃を自動防御する優れものだ。
見る人が見れば、美貌の悪魔に見えるだろう。
だからミサキはこの変身形態に魔界の大公爵の名を付けていた。
変身による強化は――内在異性具現化者の特権。
2つ以上の過大能力を持たなければ、成し遂げられない秘奥義だ。
その理由は過大能力の暴走にあった。
過大能力を暴走させれば、誰でも一時的に強い力を得られる。ただし、肉体に過度の負荷を与えるため度が過ぎれば自滅する。
これは当たり前のことだ。
なので暴走する過大能力を、もうひとつの過大能力で受け止める。
受け止めた側の過大能力も暴走を誘発されるが、これをまたもう一つの過大能力で受け止め、もっと暴走させる。更に暴走した過大能力を、再びもう一つの過大能力で受け止めて……これを回転させるように繰り返す。
レッドゾーンの極限を超えてエンジンをぶん回すようなものだ。
その先に――未知の安定した領域がある。
想像を絶する絶大な力を得るも、我が身を損なわない状態があった。
その状態へ辿り着けるのは内在異性具現化者のみ。
成功した証として変身を果たすのだ。
「そんな風に考えていた時期があったんだんだけどな……」
立ち上がったミサキは汚いとは思ったが足下に唾を吐いた。血の味を吐き捨てたかったのと、口内に入り込んだ砂利が鬱陶しいからだ。
あと――想定外な出来事への苛立ちもあった。
内在異性具現化者のみができるはずの変身パワーアップ。
アダマスは変身をやってのけたのだ。
内在異性具現化者にしかできないはずの、複数の過大能力を暴走させながら安定させるという方法を、ひとつの過大能力で成功させてしまった。
暴走させた過大能力を受け止めるもの――。
アダマスの場合、それは生まれついての強靱な肉体だった。
どんな高負荷のダメージを与えられても数秒足らずで「はぁい!」の元気いっぱいな掛け声とともに回復する。不死身というより他ない無限のタフネス。
この無尽蔵な体力で、自らの暴走する過大能力を制御していた。
極闘体――超破滅積乱雲形態。
変身形態をアダマスはこう名付けていた。
ミサキをリスペクトしつつ、仲間のネーミングセンスに任せたそうだ。
その変貌した姿は、一言で言い表すならば風神雷神。
ただでさえ3m越えの筋肉モリモリマッチョマンな巨体は、4m近くまで巨大化している。もはや巨人としか思えない。ギリシャ神話の英雄みたいな上着をまとっていたが、大きくなる際にビリビリ破いていた。
露わになった胸板や豪腕には、風をイメージした紋様が浮かんでいる。
両肩には暗雲から織ったような羽衣めいたものをまとっていた。
これが風神や雷神を思い出させるのだ。
漢の誇りと掲げた巨大リーゼントはプラズマ化して逆立っている。
「ふぅ……今の鼻っ柱への一撃は聞いたぜ」
鼻下にある急所・人中へミサキが蹴りを突き込んだことにより、いくらか鼻血を吹き出していたが拭うどころか舌先で舐めもしない。
代わりにダイヤの櫛を取り出すと、プラズマリーゼントを整えていた。
……それ整髪できるの? とツッコみたい。
アダマスの周りには、独眼を持つ小型の台風がいくつも取り巻いている。
ミサキの龍脈が黒い帯状のローブへ転じたように、暴嵐神であるアダマスの嵐の力がオプション的に具現化したものらしい。
ガ○ダム好きならファンネルビットという兵器に例えそうだ。
大きさはバレーボル大だが侮るなかれ。
あの台風ひとつで、東京を壊滅に追い込める威力があった。
そんなものをいくつも従え、当人も超破滅積乱雲の名前が示すとおり超特大の台風なのだ。もしも地球上に現れたら、大陸を滅ぼす天災となるだろう。
まさしく暴嵐を司る神である。
「どんな時でも身嗜みは大切にしないとな」
姉ちゃんからそう教わったぜ、とアダマスはプラズマリーゼントのセットに満足したのか、どこからともなくハンカチを取り出して鼻血を拭いた。
チーン! と盛大に鼻を鳴らすのも忘れない。
「……上半身むき出しの人に言われても説得力ないな」
これではお姉さんの大事な教えも話半分だ。ミサキは苦言を呈する。
そこでふと妙なことに気付いた。
アダマスのお姉さん――このフレーズに聞き覚えがあった。
ミサキは眼を据わらせると、丁寧な口調でアダマスに問い掛ける。直感的にだが、この質問はセンシティブになりそうなので態度を慎んだ。
「なあ……アンタのお姉さんはどうしてる?」
ミサキから問われたアダマスは硬直した。
ほんの一瞬。それよりも短い刹那だが、明らかに狼狽したのだ。豪快な笑みを忘れない漢の横顔は、瞬間冷凍みたいなスピードで凍り付く。
「死んだよ――俺が殺した」
感情の失せた声で、アダマスは白状するように答えた。
え? とミサキはその返事に目を見張る。内心困惑したが、なるべくポーカーフェイスを装い、こちらの動揺を悟られないようにする。
『アダマスのお姉さんは生きているのでは?』
口から飛び出しかけた台詞を飲み込むのに苦労した。
「どうしょもないクソ親父も、何もできなかったお袋も……そして、俺やお袋のためにすべてを擲った姉ちゃんも……俺が殺したんだ」
こちらの驚きをどのように解釈したのか、アダマスは罪状を告白するように自らの犯した過ちを語り出す。それは悪党が悪事の数々を自慢するものではなく、犯した罪を重く受け止め、再確認しているようにしか聞こえなかった。
どうしようもない後悔。その苦汁があふれるほど滲んでいた。
そして、家族への態度も気に掛かる。
明らかに父親へのヘイトが高い。母親やお姉さんには同情を寄せている。
複雑な家庭環境だったのは間違いなかった。
他人の家庭へ口を挟めるほど、ミサキは老成していない。ここで余計な一言を挟むような愚かな真似は差し控えるべきだろう。
ボケ担当な親友のせいで、ミサキはツッコミ役が板についている。
それゆえにツッコミのタイミングには厳しいのだ。
ただ、ひとつだけ断言できることがある。
トワコ・アダマス――という神族化したプレイヤーがいる。
ちょっと幸薄そうな趣があるけれど、純和風の美しい女性だ。十二単を意識したデザインの衣装を身にまとい、見たことも聞いたこともない不思議な弦楽器を操り、神聖なる音で様々な奇跡を起こす過大能力を持っている。
彼女はアダマスの姉だと名乗っていた。
戦争が始まる前――四神同盟で新しい仲間を探していた時のこと。
ツバサさんたちがジェイクさん率いるルーグ・ルー陣営を見つけた際、彼らと一悶着を起こすものの、同時に仲間入りした怪僧ソワカ・サテモソテモ。
そのソワカさんに付き添っていた女性である。
どちらも最悪にして絶死をもたらす終焉に因縁があるということで、利害も一致したため協力関係を結び、パーティーを組んでいたという。
ソワカさんの目的は――仇討ち。
一方のトワコさんの目的は、弟の改心だと聞いている。
その弟こそ、目の前のアダマスに他ならない。
今頃思い出すか普通!? とミサキはポンコツな記憶力を恥じた。
アダマスとトワコさんの関係性については、用心深いレオさんに指示された情報官アキさんが裏付けを取ってくれていた。既に証明済みなのだ。
トワコさんはアダマスの実の姉である。
しかし、アダマスはトワコさんを「この手で殺した」と断言した。
――この齟齬はなんだろうか?
アダマスの性格からして嘘をつくとは思えないし、トワコさんも悪い道に踏み込んだ愚弟を立ち直らせたいと心配する気持ちは本心だ。
ツバサさんとレオさんが二人掛かりで面会しているから疑う余地はない。
なのに姉弟で意見が食い違っていた。
これは何を意味するのか? どちらかが虚言なのか?
あるいは――両方とも誰かに謀られている?
「……下手な考え休むに似たりか」
ミサキは考えることを放棄し、この話題は持ち出さないと決めた。
今さら話し合いに持ち込める空気じゃない。
アダマスはミサキとの喧嘩を血湧き肉躍るまで楽しんでいるし、ミサキもアダマスという強敵に戦士としての血が騒ぎ出していた。
激化の一途を辿るこの戦いに、無粋な水を差す真似はしたくない。
お姉さんを引き合いに出して交渉を持ちかける。
上手に立ち回ればアダマスとの戦闘を避けられるかも知れないが、そんな展開はアダマスよりもミサキが望んでいなかった。
この漢の中の漢――喧嘩番長に素手喧嘩で勝ちたい!
ミサキの内にいる少年の心が、声高らかに我が侭を叫んでいた。
「悪いことを聞いたな……ごめん」
背筋を正したミサキは、無礼なことをしたとアダマスに詫びた。
「気にすんな俺の最高の友達、昔の話さ」
過ぎたことよ、と気さくなアダマスは水に流してくれた。
お姉さんの件を蒸し返すのは控えて正解だ。
実は先日の手合わせ(第376~第377話)の時、トワコさんが音を操る過大能力でアダマスに叱りつけた場面があったのだが、アダマスはショックこそ受けたものの聞き間違いだと思い込んでいるらしい。
『ほら、アレだアレ……玄奘三蔵ってやつだ』
『……もしかして幻聴って言いたい?』
それだそれ、とアダマスはこちらの指摘に言い間違いを自嘲していた。
玄奘三蔵の方が難しくない? とツッコんでおいた。
アダマスはお姉さんであるトワコさんが死を、当人の声が聞こえたとしても幻聴と聞き流すほど、頑なに信じ込んでいるのだろう。
理由アリなのは理解できる。それを問い詰めるのは決着の後でいい。
「無駄話で一休みできたし、そろそろ始めるか?」
アダマスは太い首を左右へ倒して、ゴキゴキと小気味よく鳴らした。
「ああ、死合再開だな」
ミサキも了承すると身構える。その手足に黒い帯状となった龍脈を巻き付かせ、打撃力と破壊力、ついでに瞬発力アップを狙う。
ファイティングスタイルを取った瞬間、アダマスが動いた。
「行くぜほらあああぁぁぁぁぁぁーーーッ!」
高密度で圧縮された嵐がまっすぐに向かってくるようなものだ。
天地をかき乱しながら突進してくる暴嵐神。
高々と振り上げられる豪拳は、武術を嗜んだ者の視点からすれば大振りもいいところなのだが、奇妙なほど素早く突き込まれてくる。
巨体に漲る膂力が勁に練り込まれ、パンチの威力を否応なしに高めていた。
おまけに小型の台風たちもアダマスの拳に乗ってくる。
一撃滅殺――大型都市をも吹き飛ばす。
超絶的な威力の嵐を押し固め、破城槌にしたようなパンチだ。
ミサキは逃げも隠れも避けもしない。
真正面から来る豪拳に、意を決して飛び込んでいく。
体格差を利用した身軽さを活かし、アダマスの豪拳に手を添えて飛び越えるように乗る。下手な丸太より直径のある巨樹みたいなアダマスの腕、その上で前転する要領で転がるように登っていく。
ただの前転ではない。龍脈の力で加速した超高速スピンだ。
渦巻く龍脈はあらゆるものを巻き込む。
アダマスのパンチ――その破壊的な推進力も容赦なく巻き取ることができた。
「ほら、アレだ……引っ張られるッ!?」
焦りの声を漏らしたアダマスは、前のめりに姿勢を崩していく。
師匠から教えられた拳法や柔術の冴え――。
先生から学んできた合気や古流武術の妙――。
それらを遺憾なく発揮したミサキは、このままアダマスの体勢を崩すべく思いっきり投げ飛ばそうとしていた。その瞬間、必ずや隙ができるはずだ。
攻撃ができる隙ではない。
体勢を立て直すため、筋肉の硬直を緩めた隙だ。
アダマスの筋肉は分厚すぎる。これが鎧の役割をして攻撃を通さない。
不死身のタフネス、その一角を担っているものだ。
だから何としてでも筋肉に隙間を生じさせる。そこに攻撃を叩き込むとともに、ありったけの龍脈を注ぎ込んで、無防備な内臓に痛恨の一撃を加える。
そうでもしなければ、この喧嘩番長を弱らせられない。
目論見通り、アダマスは前傾姿勢になって構えが少し乱れていた。
だが――そこまでだ。
「憤ッ! 雄ぉぉぉぉぉぉおッ!」
倒れかける寸前、アダマスは前足を踏み込んで堪えた。
大地が熱い泥になるまで沸き立つほどの踏み込み。
震度が二桁に達する大地震まで引き起こす。
野太い腕を神速の前転で伝うように駆け上っていたミサキは、予想外の減速を強いられていた。こちらの体勢が崩されかねない。
原因はわかっている。アダマスの力が強すぎるのだ。
アダマスは何気ない正拳突きでさえも、触れただけで何もかも木っ端微塵にする衝撃波を帯びている。おまけに変身でパワーアップしてからは、全身にまとう小型の台風がその衝撃波に拍車を掛けていた。
それらの余波を考慮したミサキは、龍脈の力で相殺していた。
だが、そこに震脚――大地震を起こす踏み込みが加えられたことで、アダマスの力を逆用して投げ飛ばそうとする流れを狂わされてしまったのだ。
武術は高度になればなるほど精密さを求められる。
コンマ一秒も遅れず、寸分違わず狙いを定め、正確な体捌きで繰り出す。
この前提をクリアせねば技として成立しない。
アダマスの尋常ならざるパワーは、この大前提を覆してくる。
あまりにも桁外れな力が、武術家の織り成す精密動作を最初から最後まで台無しにするのだ。軌道修正すらことさえ許してくれない。
「くそったれ……またかよ!?」
ミサキは女の子らしい声で下品な文句を叫んだ。
先ほどの相討ちも、本来ならば体勢を崩す投げ技だった。
しかし、今みたいに技を仕掛けている途中でアダマスが思いっきり力んだものだから、中途半端な蹴り技に切り替えることしかできなかったのだ。
苦肉の策、苦し紛れにしかならない。
ミサキは投げ技を諦め、前転の遠心力を乗せた踵落としに切り替える。
肩の付け根、首の根元のわずかな隙間に振り下ろす。
その直撃は多少アダマスを怯ませるも、クリーンヒットには程遠い。
「ぐぅぅ……効くけど、ほら、アレだ……もうちょい刺激が足らねぇなあ!」
ほらぁ! とアダマスはもう一度震脚をする。
その踏み込みの威力を勁にして上半身まで持ち上げてくると、ショルダータックルに乗せて打ち込んできた。
咄嗟に防いだものの、ミサキはまともに喰らってしまう。
逆らわずにタックルを受けて吹き飛ばされる。ダメージを軽減することにミサキは専念した。ひとまず飛び下がり、距離を取ることにした。
アダマスに接近戦を持ち込めば調子を狂わされる。
かといって、格闘ゲームでいうところの飛び道具のような遠距離攻撃もアダマスには通じない。腰の乗らない一撃は軽々いなされてしまう。
脳筋なんて言葉はあるが、極めるとここまで厄介になるとは……!
「ったく、この馬鹿力をなんとかしないと!」
ミサキが不利のままだ。劣勢に追い込まれ、いずれ敗北する。
まともにぶつかれば力負けするのは自明の理。
父のように慕う師匠から教わった柔術や、母のように想う先生から学んだ合気。それら高等武術を駆使して、アダマスの力を逸らそうと試みた。
なのに――上手く行かない。
常軌を逸した脳筋のバケモノは、鍛えてきた武術を「小細工だ」と言わんばかりに、不言実行でことごとく打破してくれるのだ。
相手の初動は読めている。動き出す兆も捉えらる。
いわゆる後の先を取り、アダマスに先手を打つことはできるのだ。
しかし、彼の常識はずれな怪力に邪魔されて、仕掛けるはずの技が成立する前に破られてしまうのだ。ミサキほどになれば別の技を派生させることもできなくはないが、どれも中途半端な小技になるばかり。
そういえば――穂村組のバンダユウさんもぼやいていたっけ。
アダマスと戦って唯一生き残った人物だ。
合気の別流儀とも言えばいいのか、目眩ましやフェイントを多用する武術を収めた初老の紳士だが、アダマスの強さをこんな風に評価していた。
『馬鹿力とはアイツのためにある言葉よ。度が過ぎた力は本当に厄介だ』
今にしてみれば、この評価がよくわかる。
アダマスの度し難い厄介さに、ミサキは翻弄されていた。
「せめて後一歩……オレが速ければ……ッ!」
もっと素早く動ければ! ミサキは臍を噛む思いで悔やんだ。
4mなんて巨人みたいなデカさになったにもかかわらず、アダマスは敏捷性まで異常なくらい上昇していた。素早さならばスマートなミサキに一日の長があったのに、ほぼほぼ追いつかれてしまっていた。
おかげで――技を仕掛けるタイミングが遅れている。
コンマ0.0000数秒ほどの遅延だ。
このため、ほんのわずかながらアダマスが攻撃を放ってくる兆から遅れており、相手の技に十分な力が乗るのを許してしまっていた。
この遅延を埋め合わせることができれば……ミサキは必死に考える。
それができないから苦労しているのだが。
思い返せば――ツバサさんたちにもこの遅れを感じていた。
ミサキは若輩ながらも、四神同盟の代表の一人として数えられている。
だが、武術家としてはまだまだ半人前だ。
師匠、先生、横綱、剣豪――。
この四人にはよく稽古をつけてもらうが、未だに敵わない。
歯が立たないというほどボロ負けこそせず、善戦している方だと思うのだが、彼らが本気になると一分と保たずに白旗を揚げるしかない。
そういう負け方をする時は、今と似たような感覚に囚われる。
後一歩、もう少し、ほんの僅か、もうちょっと。
そんな泣き言を連呼したくなるような遅延。ツバサさんたちと比べて、どうしてもワンテンポ遅れる鈍さにずっと悩まされてきた。
彼らはミサキを越える達人。
神族化しても、武芸に磨きを掛けることに余念がない。
相手の行動を予知するが如く、その兆を先読みするような神速の体捌きを会得しているらしいのだ。勿論、ミサキは土下座してその教えを請うた。
だが――誰も教えてくれなかった。
ミサキに駄々甘である師匠のレオナルドさえもだ。
『別に意地悪で教えないわけじゃない』
自分で気付いてもらうしかないんだ、とレオさんには説得された。
『教えてどうにかなるものではないしのぅ』
考えるな感じるんじゃ、とドンカイさんにも諭された。
『……よ、良ければ俺が手解きしてあげようか?』
何故か嬉しそうに浮き足だったツバサさんが、その超爆乳の谷間を見せつけるように近付いてきたので、ミサキは大喜びでお願いさせてもらった。
ツバサさんは上機嫌で教えてくれた。
この時ばかりは、ツバサさんから母性的なママ味を感じられた。
『この素早く動くコツを俺たちは“自由意志の速度”と……』
『おいおい、若人を甘やかすなよオカン』
しかし、話の途中でセイメイさんに遮られてしまった。
『誰がオカンだ!? 引っ込んでろ酔いどれニート!』
『うんにゃ引かねえ。ここで甘やかしたら……』
ミサキちゃんは強くなれねえぞ? とセイメイさんも譲らない。
いつもにも増して当たりが強いツバサさんを宥めたセイメイさんは、師匠たちが体捌きの秘密を教えてくれない理由を話してくれた。
『獅子翁の野郎も言った通り、イジワルじゃねえんだ。むしろミサキちゃんのためを想って教えたくねえ。ちゃんと物にしてもらいてぇからこそなんだよ』
0.0000数秒の時間を縮められる体捌き。
その原理は単純なのだが、教えてものになるわけではないらしい。
『発見の仕方はいくらでもあるし、解釈だって人それぞれなんだ。現におれのやり方と、ツバサちゃんたちのやり方では考え方がまるで違う』
だから――自分で見極めてくれ。
柔らかい口調だが、厳しさを含んだ剣豪の言葉。
ミサキは我知らず頷いており、セイメイさんは相好を崩していた。
『よし、その意気だ。じゃあ一個だけヒントをやろう』
――考えるより速く動け。
言葉の意味がわからず、ミサキは困惑するしかなかった。
正直、ドンカイさんの『考えるな感じろ』の方がアドバイスとして遙かにマシだと思ったくらいだ。ヒントではなくタチの悪いナゾナゾである。
しかし、セイメイさんが出鱈目をいうとも思えない。
わざわざヒントと前置きしたのだから……。
「ほらほらほらほらほらぁーッ! どうした俺の最高の友達ッ!?」
――ボサッとしてるとおっ死ぬぞ!
アダマスの雄叫びでミサキはハッと我に返った。
半ば無意識にアダマスとの激しい攻防を続けていたらしい。全身にまとう龍脈は千々に乱れ、アダマスの巻き起こす暴風に絡まれていた。
考えるより速く動け――この謎はまだ解けない。
反射神経みたいなものはあるが、基本的に動物は考えてから動くものだ。
頭で考える前に身体が動く、なんて話も聞くことはある。
とある有名なフィクション作品でも、頭で考えて動くのではなく、戦闘経験を積んだ肉体を思考するより速く動かす奥義があるとも聞いた。
……身勝手の極意とかいうんだっけ?
そういう奥義はあるかも知れないが、ミサキは体得できていない。
師匠たちも教えてくれず、自力で編み出せと難しい課題を突きつけてくる。
「――ほらあっ!」
セイメイさんからの謎かけに思考回路を縛られていたらしい。
まとまらない考えをアダマスの咆哮に引き裂かれた。
気付けば眼と鼻の先に、ミサイルみたいな肘鉄が迫っている。まともに喰らえばいくらミサキでも重傷は免れず、勝算は大きく下がることだろう。
判断が間に合わず、思い浮かんだ対処に身体が追いつかない。
終わった――と諦めかけた瞬間である。
ミサキの身体は思い通りに、考えるよりも速く動いていた。
アダマスの肘鉄、その兆を完全に捉える。
宙に浮いたまま一回転したミサキの爪先は、肘鉄の先端を蹴り上げて力の流れを上へと持ち上げるように逸らした。力を完全に乗せる前に肘の行き先を空へと方向転換させられたアダマスは、勢い余って仰け反りかけている。
ちゃんと技が通っている!? ミサキは刮目した。
「おおっと!? これも合気って技か!」
暢気に驚くアダマスだが、姿勢が崩れた肉体に隙が生じていた。
胸板の脇腹の境目――そこの筋肉が緩んでいる。
手に取るようにわかったミサキは空中でもう一度身をよじらせると、全身にまとわせた龍脈を螺旋状に束ねて、得意とする必殺技を発動させる。
「――螺旋突」
硬質化した“気”をドリル状にして、相手の内側にねじ込む強打である。
それをアダマスの緩んだ筋肉の隙間に打ち込む。
筋肉の鎧をすり抜け、無防備な内臓へ大ダメージを与えるためにだ。
「えっ……エキサイトぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉおッ!?」
いつもの口癖を叫ぶが、明らかに様子が違う。
確実に大ダメージを受けた時の悲鳴だ。数秒待ってみるが、これもいつもみたいに「はぁい!」の掛け声とともに回復する気配もない。
「…………つ、通じた?」
ミサキ自身、半信半疑でそう驚くより他なかった。
今のはミサキの意志が伴わない動きだ。
反射神経などで身体が勝手に動いたわけではない。
ミサキの全身を駆け巡る龍脈がミサキの意志を感じ取り、神経が伝達するよりずっと速く、アダマスの攻撃に対応するよう肉体を突き動かしたのだ。
考えるよりも速く身体が動いたことになる。
「あ……まさかッ!?」
ようやくミサキは思い至った。これがまさに答えであろう。
脳が肉体を動かす指示――神経が伝える信号より速く動けばいい。
セイメイさんはこの秘訣を教えてくれたのだ。
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