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第17章 ローカ・パドマの咲く頃に
第418話:大地母神ハトホルの予言
しおりを挟む走馬灯とは灯籠の一種である。
回り灯籠とも呼ばれており、灯籠の中に仕込まれた絵が影となってクルクル回転して映し出される仕掛けが施されたものだ。
中国で発明され、江戸中期には日本にも伝わっていた。
特に夏の風物詩という趣が強く、俳句などでは季語にも上げられている。夏は火を焚いて亡くなった祖霊をお迎えするお盆の時期とも重なるため、夜通し火を灯す灯籠の変わり種として、見る者の目を楽しませてきたという。
この走馬灯は二重の枠で作られている。
外側の枠には普通に紙を張り、これがスクリーンの役目を果たす。
内側の枠には走る馬などの絵を切り抜いた紙を張り、この内側の枠の上部に風を受けるため風車のように切った紙を取り付ける。
これで走馬灯の完成だ。
走馬灯の中に蝋燭を灯せば、内側の枠に張られた紙が影となる。
切り抜かれた馬の絵が影となり、外側の枠に張られた紙をスクリーンにして映し出されるわけだ。これがゆっくり回り出す。
――細工は簡単。
蝋燭の火を灯せば、わずかながらも上昇気流が発生する。この風を受けて内側の枠に取り付けられた風車が回る。蝋燭の炎なので風量こそ大したことないが、その弱々しさが走馬灯の穏やかな回転にはちょうどいい。
こうすることで、影絵の馬が灯籠の周囲を走っているように見える。
回り灯籠が走馬灯と呼ばれる所以だ。
この走馬灯、昨今は別の意味合いで用いられることが多い。
人は死の間際に遭遇すると、これまでの人生で出会してきた様々な情景が脳裏を駆け巡るとされている。これは極短時間で行われるが、思い出深いシーンが止め処なく浮かんでは消えていくという。
この臨死体験が「走馬灯のように」と例えられていた。
既に述べた通り、日本では走馬灯は夏の風物詩であり、お盆に祖霊を迎え送る際に灯籠として使われることもある。
また先述した荘子の言葉『白駒の隙を過ぐるが如し』に準えて、人生という時間があまりにも短い様から連想したのかも知れない。
いつしか走馬灯は、儚い人生を振り返る象徴となっていった。
死を覚悟したヌンも走馬灯に魅入っていた。
しかし神族の人生は長い。この場合、神生とでも呼べばいいのか?
どれだけ圧縮しても一万年以上に及ぶ記憶の情報量は凄まじく、走馬灯専用のムービーに編集しても、視聴時間は1時間を越えそうだった。
ハイライトシーンだけを切り抜いても百は下らない。
名場面ごとに振り分けていたら、長編シリーズになりかねない。
そんなヌンの走馬灯が――唐突に打ち切られる。
切っ掛けは夢現なヌンの前に現れた、ハトホル様の幻影におもいっきりビンタをされたことだ。少々気は引けるが幻影だと決めつけさせてもらう。
既にハトホル様はこの世にはいらっしゃらない。
故人ならぬ故神だ。
彼女は蕃神との戦争が始まった頃に亡くなっていた。
蕃神の“王”と呼ばれる大型個体の群れに立ち向かい、孤軍奮闘で多くの蕃神を打ち倒したものの、多勢に無勢ゆえ押し切られてしまったという。
ハトホル様は決して逃亡を選ばなかった。
小さな子供たちを守るため、彼女は単身でも果敢に戦ったのだ。
子供を最優先とする彼女らしい最後だったと聞いている。
ツバサ君はハトホル様と瓜二つで、彼女の因子の継承者かも知れない。
だがハトホル様ではない。もう彼女はこの世にいないのだ。
それは悲痛なくらい思い知っている。
ヌンはハトホル様の危機を知り、おっとり刀で駆けつけた。
だが――間に合わなかった。
ハトホル様は最後の力を振り絞り、己が身を超強力な爆発エネルギーに変換することで、蕃神の大型個体たちを一匹残らず葬り去っていたのだ。
遺体はおろか塵さえも残さない最後だった……と目撃者は語った。
この無念は何千年経っても癒えはしない。
彼女のために何もできなかった己の無力さを痛感し、豪の者と謳われても何もできない自分の不甲斐なさに、何百年も打ちのめされたのだから……。
自死を選びかけるほど鬱に悩まされた日々もあった。
我ながらよく乗り越えられたものだ。
それもこれも――ハトホル様の教えがあってこそである。
『悔いる時間があるなら動きなさい。悩む余裕があるなら進みなさい』
『成すべきことがあるのなら、立ち止まっている時間はないわ』
『準備も大切だけど、行動することを最優先としなさい』
数あるハトホル様の言葉を支えに立ち直ったのだ。
長い走馬灯を打ち切ったハトホル様のビンタは、ヌンの意識を遙か昔へと送り込んでいた。ちょうど次に振り返るはずだった走馬灯の場面だ。
時系列的には八千年前後は遡るだろう。
この頃のヌンは四千歳、神族としても漢としても脂が乗っていた。
人間の年齢に換算すれば30代くらい、何事にも勢力的に活動できる時期ではなかろうか。実際、ヌンもこのくらいから最盛期が始まった。
――水聖国家オクトアード。
小規模な王政ながらも建国を果たし、初代国王の座に就いた頃である。
他国にしても新興国家を値踏みしている最中だったろう。
ただし、ヌン自身は一目置かれていた。
創造神の一柱、蛙の姿をした大地母神ヘケトの孫。父と母はどちらも創造神の血を引きながら戦闘系であり、その血統の果てに生まれた武神。
混沌より滴り落ちた神水を操り、如何なる敵をも押し流す戦神。
黒蛙の瀑流神――ヌン・ヘケト。
蛙の王様が定着する以前、ヌンはこの勇名を轟かせていた。
弱きを助けて強きを挫く、仁義に厚く非道を見逃せぬ親分肌の熱血漢。
任侠を地で行くような生き方を選んだヌンは、武者修行の旅と称して真なる世界を思うがままに闊歩した。
ぶっちゃけ若い頃は好き勝手にやっていた。
ナメてかかった魔族の国を一時間で水没させたり、態度の悪かった火の巨人の国に止まない雨を降らせて鎮火させたり、渇きに苦しむ砂漠地帯の人々を救うために栄養豊富な泥を撒いて豊饒の大地に変えたり……。
滅びも救いも気分次第――まさしく神らしい振る舞いだ。
そうした無軌道な日々を過ごす中、多くの出会いと別れがあった。
盟友ノラシンハとの出会いも若き日の1ページである。
『死ねやデカ尻マニアの変態マゾドスケベ聖賢師がぁぁぁッ!』
『おどれが死ねやカエルのくせにデカパイマニアの哺乳類がぁぁぁッ!』
こんな具合に気が済むまで殴り合ったものだ。
そこから終生の友情が生まれたのだから、縁とは不思議である。
幾多の経験を経ることで暴れん坊だったヌンも大人として成長していき、自分を慕う民のために国を興そうという考えに至った。
多くの情と信に熱い家臣に恵まれ、後の防衛長官となるタフクや征夷将軍となるイムトといった将来性のある弟子と出会い、ヌンを王と奉ってくれる臣民も集い、国家として順風満帆な門出を踏み出そうとしていた。
黒髪ロングで爆乳巨尻な妻たちのために後宮を建てたのもこの頃だ。
小国なれど一国を起こすとなれば一大事業である。
建国当時のヌンは多忙を極めた。
ヌンのみならず、家臣一同も大わらわだった。
交渉能力に長けた家臣は、周辺の国々へ挨拶回りに派遣。隣国として認めてもらいつつ、波風の立たない交流を望み、侮られないよう根回しをしておく。
また近隣諸国からの訪問客も後を絶たない。
新興国家ではあるけども、その王様が武勇で知られたヌンとなれば無下にするなどできるはずもなく、礼儀を欠かぬようお祝いの挨拶にやってきた。
内外ともにてんてこ舞いだったのを覚えている。
ヌンも猫の手を借りたいくらい忙しかったため、弟子として引き取ったタフクやイムトを小姓(身分の高い人の傍にいて雑務を引き受ける仕事。武家では見習いの少年が就くことが多かった)に引き立て、仕事を手伝わせた。
ある日――ヌンは執務室で事務作業に追われていた。
各方面への公的な届け出や、国内の諸事業への認可。
これらの書類を入念にチェックし、問題がなければ署名する。気になる点があれば再確認の手続きを取る。ほとんどが書類仕事だ。
しかし、数は膨大だった。一日中机に向かっても終わらない。
武闘派のヌンには強敵以上の難敵である。
イライラでストレスを昂ぶらせるも文官たちに宥められ、机の両サイドに天井へ届くほど積み上げられた書類を片付けていく。
不意に廊下の向こうから騒がしい足音が近付いてくる。
『大変ですお師匠様! 一大事にございます!』
『お師さんお師さん! えらいおっぱい……いえ、御仁がおいでなすったぜ!』
若き日のタフクとイムトが執務室に駆け込んできた。
まだ10代半ばくらい、2人とも生意気盛りの青少年だった。
真面目なデスクワークに疲れていたヌンは、若者たちの甲高い声すら気に障ってしまい、つい苛立ちを爆発させて怒鳴ってしまう。
『やかましいぞ小童ども! 陛下と呼べと言っただろうが!』
この馬鹿弟子どもが! と大声を張り上げるヌン本人が、小姓に取り立てた弟子たちに師匠風を吹かしてしまった。
以前は師匠と呼ばせたが、その関係性は更新されたのだ。
ヌンが彼らにとって武術の師であることに変わりない。だが水聖国家オクトアードの王とそれに宮仕えする小姓となった以上、公の場では「陛下と呼べ」と命じたのだが、このバカ弟子どもはなかなか覚えない。
叱りつけられたタフクとイムトは背筋を正して敬礼する。
『『――ハッ! 申し訳ありません陛下!』』
謝りはするも、すぐに砕けた調子で話を続けてくる。
『……いえ、それどころではなくてですな! お師匠様……いえ、陛下にお客様でございます! いや、まさかあの方がお出でなさるとは……』
タフクは流れる冷や汗を一生懸命に拭っていた。
それほど恐れ多い客人なのか? しかしヌンはすぐに思い返す。
『……今日は面会の予定はないはずだぞ?』
訝しむヌンにタフクは、気のいい顔に苦笑を浮かべて頭を掻いた。
『はい、面会の約束はされておりません。飛び込みですな』
『国王への挨拶は営業と違うぞ!? ほとんど押し売りではないか!?』
だからお師さん、とイムトが割って入る。
『いやさ陛下、飛び込みが許される大物ってことでさ』
イムトはいい女と巡り会えたことを喜ぶ眼になると、両手を胸の前で円状に動かして「ボインボイン♪」と言いたげなジェスチャーをした。
どうやら客人は女性らしい。しかも見事な爆乳の持ち主だという。
ならば大目に見てもいいかも知れない。
ヌンは地球で言うところのおっぱい星人なのだ。
しかし、弟子どもの反応が引っ掛かる。
アポイントメントもろくに取らずにヌンへの訪問が許されるほどの大物で、とんでもない爆乳を抱えている美女……。
ここまでの情報でヌンは客人の正体にピンと来た。
『……それを早く言わんかバカタレ!』
仕事やってる場合じゃねえ! とばかりにヌンは飛び出した。
執務机に手を掛けて書類を撒き散らしながら飛び越えると、タフクやイムトの脇を抜けて「散らばった書類を片付けとけ」と雑用を与えておく。
そのまま廊下を駆け抜け、客人の待つ応接室へ走る。
扉の前で緊急停止し、呼吸と身嗜みを整えてから部屋へと入る。
『失礼します――ヌン・ヘケトが参りました』
国王でありながら謙った断りを入れて応接室の扉を開けると――。
『ヌン坊ぉぉぉーッ! 久し振りぃぃぃーッ! 元気してたーッ!?』
ハトホル様がハイテンションで抱きついてきた。
『ご無沙汰しております、ハトホルさ……ま゛あああああああーッ!?』
礼儀を極めた挨拶をしようとした矢先、抗うことも許されない超爆乳の圧力が迫ってきた。圧倒的な母性という津波に逆らえず飲まれてしまう。
幼い頃からこの胸に何度抱かれてきたことか。
蛙なのに哺乳類と笑われるほどヌンの異性へのタイプを決定付けた女神は、ヌンを我が子同然にその豊かな乳房へと抱き締める。それこを乳房の谷間に押し込めるどころか、胎内に埋め戻すような勢いでだ。
ヌンは一国一城の主――妻も子もいる一端の大人だ。
一万年後には老いのため小柄になったものの、全盛期だったこの頃の図体は一般的な成人男子を上回り、鍛え抜かれた戦士の風格があった。
そんな大柄な男を捕まえて全力の抱擁。
奥手な青少年ならば一発で勘違いする熱烈さだった。
ハトホル様にしてみれば、ヌンはいつまで愛すべき子供の一人。
だからこそ産み直したいとばかりに抱き寄せ、残像が現れるほど撫で回し、親愛の情を表すフレンチキスを口と言わず顔中に押し付けてくる。
彼女の別名は――神々の乳母。
その抱えきれぬほど大きい乳房は母性の権化であると同時に、ハトホルミルクという万能薬に勝る神乳を無限にもたらす豊穣の象徴でもあった。
彼女の乳に養育された子供は数知れず――。
神族、魔族、亜神族、準魔族、多種族、種の分け隔てすらない。
ハトホル様は制御ままならない母性本能の塊であり、自分より年下であれば誰であろうと幼子扱いする子供好きでもあった。
見境ない究極の子煩悩――そう評したのは誰だったか?
脅し文句は『おまえも我が子にしてやろうか?』。怖いんだか笑わせてるんだか、よくわからない座右の銘を掲げているようなものだ。
とにかく、乳母という権能に偽りはない。
ヌンもハトホル様に育てられた一人だ。
ヌンを産んでくれた実母は産後の肥立ちが悪かったため、療養する間はハトホル様がヌンの乳母を務めてくれたという経緯があった。
一度でも乳を与えた子は、ハトホル様にとって我が子に等しい。
どんなに成人しても子供扱いするのだ。
『んんんーっ! このカエル顔も久々ーッ! チュチュチュッー♡ あれ、そういえば普通の顔はやめたの? でも、こっちの顔も似合ってるわよねー♡ ヘケトの姐様そっくりで大好きよー♪ ほぉら、チュッチュッ~♡』
創世の獣の一柱――蛙の大地母神ヘケト。
祖母を引き合いに出されたヌンだが、それどころではない。
『ハ、ハトホル様タンマ! ストップ! ステイ! ハウスーッ!?』
どんなにヌンが喚いても糠に釘だ。
蛙にしか見えないヌンの顔を愛おしげに抱き寄せたハトホル様は、フレンチキスの猛連射してくる。子供の頃ならくすぐったくて面白かったが、いい年した大人がさられるのは赤面羞恥の辱めを受けているようなものだ。
超爆乳を鷲掴みにしても動じない。
組んず解れつ、その豊満な肢体を触りまくっても気にしない。
そのまま押し退けようとしても抵抗される。
グギギギギ……なんて効果音が聞こえるほど攻防を繰り広げてしまう。別に戦ってなどいない、育ての親である女神と取っ組み合っているだけだ。
この頃のヌンはいい大人である。
いくら憧れの女性とはいえ、こんな子供扱いされるのは恥ずかしい。
全力で抵抗するのも仕方ないというものだ。
しかし、年を食って老境に達した今になって思い返してしまう。
……もっとキスされておけば良かったと!
あの大地母神の巨大おっぱいに抱かれて、どんなに頬擦りしようが鷲掴みにしようが怒られるどころか、彼女から「ウエルカム!」状態だったのだ。
どんなサービスタイムだよ!?
今になって過去を振り返ると誠に惜しい。
彼女からの無条件な愛を堪能しておくべきだったと猛省する。
もう二度と――彼女に抱かれる日は帰ってこない。
その事実を受け止める度、乳母として育ててくれたハトホル様から注がれた愛情に、素っ気ない振る舞いをした若き日の自分を悔いてしまう。
擦った揉んだの末、ハトホル様も落ち着いた。
女中にお茶の用意をさせ、二人は応接室のソファに腰を落ち着ける。
『……まったく、お戯れが過ぎますぞ』
ヌンのカエル顔のあちこちに刻まれたキスマークをハンカチで拭いながら、どういう苦言を呈してやろうかと頭を悩ませていた。
『いい年こいたカエル顔の男を捕まえて、こんなにもみくちゃになるまで赤子のように愛でまくるなど……勘違いでもされたらどうするのですか?』
『何を言う、母と子は戯れるものさ』
勘違いする輩の心が汚れてるのだよ、とハトホル様はケラケラ笑う。
大地母神――ハトホル。
神々の乳母や牝牛の女神の異名を持つ女神。太陽神を初めとする優秀な子供たちに恵まれ、数多の子供の乳母を務めた乳母神である。
美と愛を司る神でもあり、豊穣を司る大地母神としての権能も持つ。
また、魔法のエキスパートでもあった。
当人曰く「私のは魔法の女神の受け売りだからそこまでじゃない」と謙遜するも、そのイシス様が「ハトホルは私と同格」と太鼓判を押していた。
子供関連の権能がとても強く、妊婦の守護神、多産の女神、子供の守り神……と何通りもの加護を備える。母や子供を守るためならば無限に強くなる力を持ち、その暴力的な一面は殺戮の女神に匹敵すると話題だ。
子供好きな才女であり、多方面で活躍するキャリアウーマン。
地球風に言い直せばこんな具合になるだろう。
その容貌はツバサ君にそっくりだが、いくつか異なる点がある。
黒髪ロングで身長と尻と乳がデカい美人。
概要はほぼ一致しており、顔立ちもよく似ている。姉妹や母娘だと血縁を主張されたら、100%信じてしまうほどのそっくりさんだ。
だからこそ、ヌンは密かに信じている。
ツバサ君はハトホル様の因子を受け継いだ御子ではないかと……。
だがハトホル様はツバサ君ほど背が高くはない。ツバサ君は身長180㎝だと聞いたが、ハトホル様は170㎝を超えるか超えないか程度だった。
足下まで届きそうな長い黒髪も髪質が異なる。
ツバサ君は野性味あふれるバサッとした獅子の鬣のような質感だが、ハトホル様は癖のないストレートヘアだった。
スリーサイズはほとんど一緒、体格がある分ツバサ君のが大きそうだ。
合気という武道の達人でもあるツバサ君の方が筋肉質でもある。ハトホル様も戦わせたら殺戮の女神に勝るとも劣らない戦闘能力を発揮したが、全体的にもっとムッチリした質感の肉体美をしていたと思う。
過去と現在の記憶がごちゃ混ぜになりそうだった。
おかげでヌンは回想に耽っているはずなのだが、ハトホル様のお姿にツバサ君の幻が重なるように見えてしまう。
それでも記憶をなぞるように、過去の自分は同じことを繰り返す。
これは――忘れていた記憶の再現だ。
ハトホル様の幻影が「思い出して!」と訴えてきたのだろう。
渾身の平手打ちとともに、ヌンの衰えた脳細胞に活を入れてきたのだ。
育てた子との久方ぶりな再会にテンションMAXだったハトホル様も、可愛がりで満足して落ち着いたのか、ソファに身を預けていた。
背もたれに寄りかかった寛いでいる。
その贅沢すぎる豊満なボディは、適度なエロスを演出した余所行き用のドレスで着飾っていた。彼女はその自慢ともいえる豊満な乳房の谷間を露出させる着衣を好むので、いつでも胸元はオープンにされている。
何人もの子供を育てたとは思えぬ――若々しい美貌。
ヌンを撫でて悦に入る表情は、少女のように可憐で初々しかった。
運ばれてきたお茶を一口啜ったハトホル様はほくそ笑む。
『それに……お戯れが過ぎるなんて世間体を気にするようなことを言いながら、実はあながち嫌でもなかったんじゃないかい? ねえ、ヌン坊?』
心を見透かしたようにハトホル様は仰った。
悪い気がしなかったのは事実だ。
近くに女中たちの目もあるため国王らしく立ち居振る舞ってはみたものの、内心は憧れの女神に良いようにされて喜ぶ自分がいたのは否定できない。
ヌンは咳払いをすると、居住まいを正して冷静に答える。
『いいかげん坊はおやめくだされ……一時とは言えハトホル様を乳母として養われた身ではありますが、自分も既に一国一城の主にござりますれば……他人の耳目がないとはいえ、坊と呼ばれるのは面映ゆくあります』
『私にしてみれば、坊はいつまでも坊だよ』
母子の絆は幾年月経ても変わらないさ、と持論を突きつけてくる。
その上でハトホル様は揶揄うように笑みを濃くした。
『それにさぁ……ここへ通される前に偶然、後宮とやらに迷い込んでね。アンタの奥さんや妾さんに挨拶できたんだけど……ねぇ?』
『ゲ、ゲコォッ!? カミさんたちに、あ、ああ、会われたのですか!?』
動揺したヌンは蝦蟇の鳴き声を上げた。
狼狽するヌンを弄ぶようにハトホル様は勝ち誇った笑みで続ける。
『うん、会ったよー。みんな可愛くて美人ばっかりじゃない……腰を追い越すくらい長い黒髪でー、おっぱいは牝牛の女神みたいに大きくってー、お尻もズドンって感じて重そうでー……いやー、他人とは思えなかったねぇ』
敢えて「自分にそっくり♪」とは言葉にしない。
遠回しに「私のこと好きすぎでしょ♡」とぶつけてきたのだ。
婉曲に振ってきたのをこれ幸いにヌンは再び咳払いをすると、この話題をスルーして、ハトホル様への奏上するべき御礼を述べることにした。
はっきり言って誤魔化そうとしたのだ。
『……そ、そういえば建国についての礼がまだでしたな』
『蛙なのに哺乳類かー。お嫁さんたち言葉選びにセンスあるじゃん♪』
『流そうとしたのに蒸し返さんでください!』
妻や側室たちからの評価など承知の上だ。彼女たちは隠し事ができない明け透けなタイプなので、ヌンに面と向かってそう言ったのである。
違いない――ヌンも笑って認めたものだ。
ちなみに元ネタはノラシンハである。
先日ふらっと遊びに来たあの風来坊は、奥さんたちを交えての宴を楽しんでいる席で、ヌンの異性に対する好みを端的に言い表した。
これが後宮でちょっとした流行になってしまったのだ。
酒の席だったので無礼講である。
ただ、殴り合いのケンカになったのは言及するまでもない。
女房たちなら笑って許せるが、あのインチキ聖賢師にネタにされるのは我慢ならなかったので、本気で殴り合ったのもいい思い出だ。
しかし、ハトホル様に指摘されると恥ずかしい。
ヌンの性癖を決定付けたのは、ほとんど彼女なのだから……。
喉が破れる勢いで咳払いをして、何とか話を逸らそうと努力する。いや、ヌンにしてみれば建国の御礼を伝えるのが話の本筋だった。
『そ、それはそうと……建国のお手伝いについての礼が……』
『そういえばさ、どうしてカエル顔なの?』
『アンタ本当にマイペースだな!?』
育てられた恩は忘れられず、その美貌に憧れを抱いて已まないものの、この他人の話を軽視するゴーイングマイウェイな話の進め方は少々苦手だった。
お母さんは人の話を聞かないものである。
子供の話は適当に相槌を打って聞き流し、自分の聞きたいことを問い質したり話したいことを一方的に喋るものだ。
子供が大きくなるほど、この傾向が強くなるように思える。
要するに慣れなのだろう。ヌンはため息をついて諦めた。
ヌンは神族として2つの顔を持つ。
神としての権能においてという意味ではなく、物理的な意味で2つの顔を使い分けられるのだ。本当に顔が2つある、と言ってもいいだろう。
ひとつは祖母へケトより受け継いだ蛙に似た容姿。
もうひとつは、父母から受け継いだ人間らしい外見である。
気分次第でこれらを使い分けることができた。
以前ハトホル様とよく会っていた時期は人間の見た目だったのだが、建国を機に蛙の王様というニックネームが似合うこちらを選んでいた。
水掻きのある掌で蛙の顔を撫でてみる。
『あちらの顔は厳つくて険しいのか……子供受けがイマイチよくありませんでな。こちらの祖母譲りの顔のが愛嬌があるようなので……』
こちらの顔で通すことにいたしました、とヌンは説明した。
『子供受けかー。いいね、それなら私も納得だよ』
案の定、子供を引き合いにすればハトホル様も納得してくれた。
子供に目がない母性本能の化身だから仕方ない。
今度こそ場の空気を正すために大きく咳払いをしたヌンは、雰囲気からお堅いものへと正して、両手を両膝に乗せてから深々と頭を下げた。
『我が乳母にして養母たるハトホル様――』
この度は水聖国家建国へ御尽力いただき誠にありがたく存じます。
『……育てていただいた恩も含めて重ね重ねの御恩。このヌン・ヘケト、一生を賭してでもお返ししていく所存にございます。これからもハトホル様へ実母に勝るとも劣らない親孝行をしていかなればと肝に銘じている次第にて……』
ヌンの口上にハトホル様はヒラヒラと手を振る。
彼女なりの「やめなー」の合図だ。
『あー、そういうのいいから。堅苦しい御礼ならいらないよ。母親が我が子のために骨を折るのは当たり前のことじゃない』
ヌンには――国を興すだけの器量がある。
『息子の器を信じたからこそ手伝ったんだ……私はお母さんだからね』
孝行息子でいてくれればそれでいい。
ハトホル様はそこで話を打ち切り、これ以上の御礼の言葉をヌンに言わせぬよう先手を打ってきた。御礼を言われるのがこそばゆいのかも知れない。
こちらの乳母様は奥ゆかしくも照れ屋さんなのだ。
しかし、ヌンがハトホル様に大恩を抱いている事実は変わらない。
養育の恩は元より、建国への協力も絶大と言えよう。
ハトホル様の助けがなければ、ヌンはまだ建国のけの字にも辿り着けていなかっただろう。彼女の援助があればこそ、トントン拍子に話は進んだのだ。
彼女の尊称は――神々の乳母。
その溢れんばかりの母性で多くの子供を育ててきた。
ハトホル様の豊かな乳房より流れ出ずるハトホルミルクで育った子は、無病息災で健やかな成長を約束される。だが、それだけではない。
地母神の神乳は、それを飲んだ子を凄まじい力を授けるのだ。
英雄、豪傑、賢者、達人、強者……その子に相応しい潜在能力を開花させるらしく、ハトホル様が乳を与えた幼子は例外なく傑物へと育つ。
武名や高名で知られる者は、大体ハトホル様が乳母を務めていた。
他でもない、ヌンもその一人である。
これが何を意味するか――おわかりであろうか?
ハトホル様が望む望まないに関わらず、優れた能力を持って権力を有する多くの者が乳母への多大なる恩を感じているわけだ。
彼女は別段、優秀な者を育てようという意図はない。
ハトホル様の子育てに対する信条は、『元気で健やかならそれでいい』という母親として当然の域に留まっている。英才教育など念頭にない。
のびのび育ってくれれば満足なのである。
だが、ハトホルミルクは容赦なく子供の秘められた才能を開花させる。
そこにハトホル様の養育が多大な強化を掛けるのだ。
彼女に育てられた者のほとんどが、その恩恵をとても強く実感している。このため大なり小なり差はあれど、ほとんど彼女に頭が上がらない。
乳母にして養母――二重の意味で“母は強し”だ。
ハトホル様の一声で真なる世界の勢力図が変わる、といっても過言ではない。
それだけの実権を彼女は無自覚に持ってしまっていた。
乳母が権勢を振るう。
こういった例は地球にもあったと聞いている。
(※徳川家光の乳母を務めた春日局が、大奥で思うがままに権力を振るったのは有名な話。他にも淀君とその子である豊臣秀頼の乳母を務めた大蔵卿局も、徳川家康が危険視して一度は追放するほどの権力を持っていた。彼女の息子である大野治長たちは母の後ろ盾もあり、後期の豊臣政権を牛耳ることとなる)
たとえ乳母が恩返しを求めずとも、育てられた子が大成して権力者となった時、世話になった恩に報いることも往々にしてある。
(※こちらの例は鎌倉幕府の家系によく見られる。源頼朝は自分を育ててくれただけではなく、流人として苦しい時代にも援助を欠かさなかった乳母の比企尼とその一族を大いに引き立て、二代将軍となる源頼家の乳母をも任せた。最も、それゆえに幕府内で幅を利かせるようになった比企家は目立ちすぎたのか、執権である北条家と勢力争いを起こして滅ぼされている)
無論、ハトホル様はそんなことをなさらない。
権謀術数とは無縁であり、そんな暇があれば子守をする女神だ。
しかし、育てた子供に頼まれれば嫌と言えず、その子に見合うだけの力量が正当性があれば、こうして力を貸してくれるのである。
ただし――常識の範疇でだ。
以前、どこぞのアホが「世界征服をしたいのでお力添えをお願いします!」と巫山戯たお願いをしたことがあるそうな。
身の程知らずのバカさ加減に、ハトホル様もキレたらしい。
高等魔法を駆使してそのアホから全能力と記憶を取り上げ、赤子になるまで時間を逆行させると、もう一回最初から育て直したという。
これはハトホル様に育てられた者の間では語り草となっていた。
どうしても彼女の力を借りたい時は、その良識に働きかける戒めにもなっている。独力だけではどうにもならず、ハトホル様へ助力をお願いするにしても、彼女に迷惑を掛けるのは言語道断の所業だった。
今回、ヌンは建国に当たってハトホル様へ協力を求めた。
協力とはいうものの、王家設立のための借金とか、国土を確保するための譲渡や分与を頼んだわけではない。もっと些細な援助をお願いしたのだ。
ハトホル様が乳を与えた子は誰もが一廉の傑物になっている。
国家や組織に属していれば、当然のように立身出世してほぼ要職に就いていると言っていい。大体が派閥の長をやっていた。
そうでなくとも各方面へ影響力のある人物になっている。
そんな乳兄弟たちへの口添えを頼んだわけだ。
(※同じ乳母の乳で育った兄弟という意味。本来は乳母の実子と、乳母に育てられた貴人の子息の関係性を指す。乳母の実子が出世するのに有利に働く)
『今度あんたの乳兄弟が国を作るからよろしくね~♪』
彼女はあちこちを回って、こんな風に触れ回っただけ。
これが――効果絶大なのだ。
ハトホルミルクのおかげで立派に成長できた偉人ほど、ハトホル様には頭が上がらないのが常である。ヌンもそうなのだから、乳兄弟も同様のはずだ。
そんな乳母様のお願いである。蔑ろにできるわけがない。
おかげでヌンの建国は驚くほどスムーズだった。
初めて訪れる国の代表が「よお兄弟!」とフレンドリィに挨拶してきたかと思えば、彼もハトホル様に育てられた口だった。おかげで交渉は難航せず、あっという間に建国を認めてもらえたことが何度もあった。
神々の乳母の偉功は偉大である。
『さあ、難しい話はもうやめやめ。やめなー』
政治と権力に一方ならぬ影響力を及ぼす乳母の権勢についてヌンが考え込んでいると、ハトホル様はパンパンと甲高い拍手でそれを打ち切った。
少女のような笑顔で一気に捲し立ててくる。
『私からは建国の式典でお祝いの挨拶も贈答品も贈ったんだし、あんたも御礼やお返しの品もくれたじゃない。そういう堅苦しいのは終わったんだから、それこそ蒸し返さないの。せっかくお母さんが遠路遙々やってきたんだから……』
もっと楽しい話をしましょ♡ と話の舵を切ってきた。
正直な話、ヌンは多忙である。
先ほどまで執務室で事務処理に追われていたのだ。きっと文官たちもヌンの署名がされた重要書類を今か今かと待ち侘びているに違いない。
だが、ハトホル様に請われてしまうと逆らえない。
乳母の頼みを断れないのが子供の性だ。
それに――ハトホル様の思惑も薄々ながら勘付いてはいる。
「……では、しばし歓談としゃれ込みましょうか」
ヌンはやれやれと嘆息するも、ちょっとワガママな乳母様のよもや話に付き合うことにした。2時間も好き放題に話をさせれば落ち着くだろう。
しばらく彼女の茶飲み話に耳を傾けた。
~~~~~~~~~~~~
――5時間が経過した。
ようやくハトホル様の口に疲れの兆しが窺える。
気付けば応接室にも西日が差し込み、夕暮れ時も近付いている。お茶は何杯おかわりしたか覚えていないし、話の内容も半分くらいしか覚えていない。
それでもヌンは、ハトホル様が話を休むまで待った。
そろそろ夕餉の時間も近いし、ハトホル様も今夜は泊まって行く気満々だろう。
気が利く女中たちに目配せして、これらの手配を頼んでおいた。
女中たちは全員、音もなくスルリと退室していく。
これが契機となったらしい。意図せず人払いに近い態となったのだが、それを見計らうかのようにハトホル様は小さなため息をつかれた。
『……ふうぅ、随分と話し込んじゃったね』
飽きずにお茶を飲むハトホル様。
大量のハトホルミルクを分泌するためか、彼女はよく水分を取るし人一倍の食事量を誇っている。母乳とは血を変化させたものだと聞くから、栄養と水分の補給は乳母にとって必須なのだろう。
ようやく話が途切れたので、ヌンはお伺いを立ててみた。
『ハトホル様、自分に相談があるのではありませんか?』
それも内密に――とは付け足さない。
ヌンの差し込んだ一言のニュアンスから、彼女なら明言せずとも察するはずだ。現にハトホル様はティーカップを持つ手をピクリと震わせていた。
飲もうとしていたお茶をソーサーへと戻す。
『……………………』
ハトホル様は押し黙ってしまった。
饒舌さが形を潜め、明るい笑顔も微笑みまでトーンを落とす。
ヌンは先を促すように推論を上げてみる。
『仰った通り、建国へ助力していただいた御礼や贈り物は先日の式典で済んでおります。不意に育てた子の顔を見たくなったと言っても、式典からそう日は経っておりません……なのに、貴方様は飛び込みを装って電撃訪問された』
ハトホル様の行動力なら有り得る、という態で偽装したのだ。
何らかの密談を求めてきたとしか思えない。
『……厄介事ですかな?』
『まだ厄介事にもなってないよ……だから殊更に厄介なんだけど』
核心を突かれたからか、明朗だった声のトーンが落ちる。
ハトホル様は再びティーカップを手に取ると、温くなってきたお茶を一息に飲み干した。それから意を決したように語り出す。
その口調は先ほどまでとは一転、真に迫る真面目なものだった。
『……近頃、星詠みたちが騒がしいのは知ってる?』
星詠みとは予知能力者の勿体振った呼び方だ。
星の運行から未来を読み解く占星術師から取ったものらしい。
彼らに関する噂ならば聞き及んでいる。
『報告は受けております。占術師、予言者、軍師、予知者、易者、卜筮……そういった連中が挙って不穏な未来を予測しているとか』
ただし、その内容はあまりにも曖昧模糊だった。
真なる世界に危機が訪れる――絶対的な絶望が降り掛かりつつある。
要約するとこれだけだ。
危機とはどのようなものなのか? 天災か? 戦争か? 疫病か? その危機に関する具体性は何ひとつ詳らかにされていない。その危機によって逃れようのない絶望にも襲われるそうだが、こちらも内容は明らかにされてない。
漠然とした不安を煽るばかりなのだ。
これでは対処しようがない。
それでも予知能力を持つ者たちは、明日この世界が終わるかのように騒ぎ立て、いつか到来するであろう危機を世界中に警告しているのだ。
だが、真剣に取り合う者はいなかった。
誰しもが明日への不安を大なり小なり抱えている。万物に必ずや訪れる滅びや死は、運命にも勝る絶対的な絶望とも言えるだろう。
星詠みの警告は、そんな不安と大して変わらなかった。
いちいち気にしていたら何もできない。いつやってくるかわからない天災に脅えて、一歩も踏み出せないようでは何事も立ちゆかない。
それに国家や組織ならば、常日頃より非常事態に備えている。
防衛は怠らずに食料も備蓄し、国民や仲間の安全を第一に考えて、国力の維持に努めたり、万が一に備えての避難地も確保していたりする。
国難に見舞われても対応できるよう準備は怠らない。
なので、星詠みたちが騒いでも「おまえは何を言っているんだ?」という今更感しかなかった。改めて追加ですべき対処も見当たらないのだ。
ある有力者は星詠みに問い質した。
『危機が来るのはわかった。それで、どうするべきなのだ?』
『……わかりません』
星詠みは未来を見通すことはできるが、迫る危機への警告しかできず、その危機への対抗策を提示できるプランナーではなかった。
それでも彼らは未来予知を続けて、飽きずに警告を繰り返す。
このため、ちょっとしたトラブルになっていた。
建国したばかりの水聖国家ではそれほど騒動になってないが、大きな国では星詠みが先導して国民の不安を煽るような真似をしているため、逮捕されたり処罰されたりが後を絶たないらしい。
そこまで星詠みを駆り立てる――危機的な絶望。
確かに不安を誘われるが、仔細がわからなければ対処しようもない。
何も見えない霧の彼方に恐れ戦くようなものだ。
その霧から怪物でも現れれば話は別だが……。
『我が国ではそれほど大事にはなっておりませんが、付き合いのある国々の官僚からそれとなく噂は流れてきております』
星詠みが視たのは危機的な絶望――真なる世界の終焉。
逃げることはできず、抗うことは許されず、避けることはままならず、逆らうことも適わず、ただただ一方的に蹂躙されることしか認められない。
そうして真なる世界が終わりを迎える未来。
ヌンはわかる範囲での感想を口にする。
『末法思想というやつですかな。文明や文化が一定の発展を遂げると、そこから転げ落ちるように衰退していく様を想像して、この世の終わりや世界の最後を思い描いてしまうのやも知れませんな。盛者必衰とは申しますが……』
『視ちゃったの――私もその予知夢を』
ハトホル様の沈鬱な一言に、ヌンの会話は遮られた。
そういえばハトホル様も魔法のエキスパート。そして、星詠みどもに負けないほどの未来予知能力に長けた予知夢を視ることで知られていた。
密かな相談はこのことか――ヌンは得心する。
予知夢に悩まされる彼女を刺激しないよう言葉を選ぶ。
『まずは我が子に等しいと仰ってくれたこのヌンを信じ、相談を持ちかけてきてくれたこと、誠に嬉しく思います……して、ハトホル様が視られた夢は、星詠みたちが騒いでいる予知と同じなのでしょうか?』
それとも――より詳細な内容を伝えられたのでしょうか?
ハトホル様は残念そうに頭を振った。
『私が視た予知夢でも、詳しいことは全然わからないの……』
悔しげなハトホル様をヌンは宥めてやる。
『それでも構いませぬ。ハトホル様が視られた予知夢のすべて、余すところなく教えていただけませぬか? 自分なりに情報を拾い上げてみます』
そこから判明する新事実があるかも知れない。
ヌンが先を促すと、ハトホル様はポツリポツリと話してくれた。
彼女の予知夢――その要点は4つに絞られる。
ひとつ、未来の真なる世界に破滅的な何らかが来訪すること。
ふたつ、この世界の住人はその何かに為す術なく敗北を喫すること。
みっつ、結果として真なる世界は見るも無惨に荒廃していくこと。
『そして、破滅的な何かは外からやってくると……』
『ええ、この世界じゃない何処かみたい……真なる世界の別階層でもない……かといって最近流行りの地球みたいな違う次元からでもない……』
真なる世界は多層世界でもある。
ヌンたちの暮らす広大な世界。これと似て非なる世界が次元の壁に囲まれながらいくつも重なり合っており、何段階もの積層状態になっていた。
この多層世界すべてを“真なる世界”と称するのだ。
とてつもない広大さを誇るこの世界ですら、多層世界のほんの一部に過ぎないと考えると、真なる世界の全貌は想像も及ばないほど途方もない。
次元の層が異なる世界とは行き来が難しい。
それでも太古より様々な形で交流が行われていた。
『別の層にある世界とは戦争や侵略といった付き合いもありましたからな。大規模な侵攻があるとしても、そこまで危機的な状況に陥るとは……』
『……思えないわよね?』
ハトホル様の言葉にヌンは頷いた。
次元の壁を越えて別の層にある世界に攻め込むのは、ハイリスクローリターンにしかならない。はっきり言って実入りを探す方が難しい。
攻め込んでくるメリットがないのだ。
そんな無謀な真似をするより、世界の中でやりくりした方が堅実である。
別の層の世界を滅ぼす勢いで侵攻する理由が見当たらない。
『多分だけど……もっと別……だと思う』
ハトホル様はボソッと呟いた。
『予知夢で視たのは、真っ黒くて見通せない靄みたいなのが世界を覆い尽くすように迫ってきてたけど……あれは名状しがたい怪物としか思えなかった』
別次元から訪う怪物――外より来たる異形。
『あれは……私たちの理解が及ばない存在、そういう脅威よ……』
『そいつらが我らの世界を襲うのですか?』
そう……とハトホル様は辛そうに肯定した。
嫋やかな両手で顔を覆うと、そのまま項垂れてしまった。
『こんな荒唐無稽な話、誰も信じてくれなくてさ……でも、他の星詠みさんたちが大声を上げる理由が私にはよくわかるの……あんなもの見たら』
恐怖で胸が張り裂けそうになる、とハトホル様は苦しげに訴えた。
何らかの脅威が迫りつつあるのは理解できる。
しかし、相変わらず正体は掴めなかった。こうなると各国の代表や組織のトップにも相談しづらいだろう。彼らを動かすには確かなものが必要だ。
確固たる証拠がなければ動けまい。
いくらハトホル様の頼みとはいえ進言があまりにも不確かなため、様々な要職に就いている乳兄弟たちも鵜呑みにするのは難しいはずだ。
ヌンもどうすればいいかわからない。
脅威が迫っている警告に対して、用心することはできる。
ただし、あくまでも防衛の範囲内でだ。
いつどこから攻めてくるわからない、正体も素性も勢力もわからない、まさしく不安そのものな脅威への対策など取りようがなかった。
備えあれば憂いなし、とはいうものの何事にも限度がある。
防衛も度が過ぎれば支障となってしまうのだ。
しかし、だが、もしも――。
最強の神族や魔族すら及ばない、想像を絶する力を持つ存在が、こちらが思いも寄らない大軍勢を率いて、電光石火を上回る速度で侵攻してきたら……。
真なる世界は終焉を迎えてしまう。
太刀打ちする暇もなく、瞬く間に討ち滅ぼされること請け合いだ。
そんなことはあり得ない、と鼻で笑う者もいるだろう。
――あり得ないことはあり得ない。
この懸念をあり得ないと鼻で笑えるのと同じように、こうした危機感が起こりうることもあり得るわけだ。況してやハトホル様を初めとして、高い精度で未来予知をできる星詠みたちが騒いでいるのだ。
ヌンでなくとも、胸にざわめきを覚えるに違いない。
『どのみち、滅びは避けようがないわ……』
天も地も、神も魔も、人も獣も――すべてが蝕まれる。
『私の愛した世界も子供たちもみんな……あいつらに食べられてしまうの』
『よもや……もっと先の未来を覗いたのですか!?』
星詠みの予知者はその多くが「得体の知れない危険が迫っています!」と熱っぽく唱えるだけで、その先どうなるかまでは触れないのだ。
彼らの予知能力ではそこまで読み取るのが限界なのらしい。
ハトホル様は――その先を垣間見てしまったのだ。
『視たわ……はっきり視てしまった……』
真なる世界の滅亡を――滅びる寸前まで追い込まれる瞬間を。
ヌンは耳聡くも気になる言葉に反応する。
『滅びる寸前? 追い詰められはすれど、完全な滅亡は……』
『ええ、辛うじて免れるわ……でも、本当に瀬戸際のギリギリよ……』
ハトホル様も腹立たしいのか歯軋りを漏らした。
そこまで追い込まれた事情を目の当たりにしたと思われる。
『全世界に危機が迫っているというのに……国々はろくに手を取り合わず、ここぞとばかりに変な企みを始めたり、他の国を蹴落とすことを考えたり、自分たちさえ無事ならそれでいいと保身に走ったり……足下が絶望に埋め尽くされるまで、くだらない政治ごっこに腐心して……はぁ、バカばっかりよ』
育て方間違ったかしら? とハトホル様は責任を感じていた。
醜態をさらした国々の中に、乳母として育てた子供たちの姿を見つけてしまったのだろう。予知夢ながら失望したのかも知れない。
まあ――よくある話だ。
国難に際して、まともに機能する国家は珍しいと思う。
他国の助けもどこまで期待できるか知れたものではない。普段は当たり障りなく仲良くしているつもりでも、いざ有事となれば馬脚を表すものだ。
これは国の内外どちらでも起こり得ることである。
政は1人で行うものではない。
有能な為政者でも、国家運営を単独で取り回せる手腕はない。
大臣、将軍、行政官、文官、武官、官僚……こういった各分野を受け持つ臣下が揃っていなければ国政を執り行うことはできないのだ。
だが、その臣下が時として枷となる。
単純に裏切りへ走ることもあれば、国のためを慮って無謀な行動に出る者もいるだろうし、それこそ保身のために王の決断を妨げることもあろう。家臣団が一枚岩であることはまず有り得ず、派閥同士の争いも泥沼化しそうだ。
そんな些事に捕らわれて、押し迫る絶望に対抗できない。
愚物どもに足下を掬われ、滅んでいく国家が目に浮かぶようだった。
『まともに協力体制すら取れませんでしたか……』
一国の王であるヌンも他人事ではない。耳の痛い話である。
いつの日か同じ目に遭うかも知れない。
家臣に足を引っ張られて身動きが取れなくなる日を迎えるやも……。
大きなため息をついたハトホル様は話を続ける。
あからさまにうんざりした声でだ。
『外から訪う脅威の恐ろしさが世界中に知れ渡る頃、遅きに失するけど世界規模で助け合える連合ができるみたいなんだけどさ……時既に遅しってやつよ』
どの国家もこの組織も、主力となる戦士は殺されている。
当然といえば当然だ。ウダウダやっている間にも脅威は真なる世界へ攻め入っており、それに抗戦していれば戦える者から被害を被るのは道理。
大連合を組んだ頃には手遅れである。
戦力はダメ押しのジリ貧――敗残兵の寄り合いだ。
『そんなんじゃあいつらには勝てない……真なる世界の最強クラスな戦士たちが勢揃いして初めて、五分五分に持ち込める可能性が無きにしも非ず……ってくらい力の差は歴然の相手なのに……あいつらは……奴らは…………』
別次元からの侵略者――外から来たる者あるいは蕃神。
~~~~~~~~~~~~
これら2つの名を聞いたヌンは我に返った。
それらは遙か未来で名付けられたもの。前者は真なる世界の住人が別次元から来た奴らを言い表したもので、後者はツバサ君たちが命名した蔑称だった。
この記憶の時点では、ハトホル様とて知る由もないはず。
途端、ヌンの視界がグラリと揺らぐ。
応接室の風景が消え失せ、嘆いているハトホル様も見失う。
気付けばヌンは奈落の闇に舞い戻っていた。
走馬灯から過去の記憶を揺り起こされ、追憶を疑似体験するほど没入してしまっていたらしい。顎を触ればあの頃にはなかった白髭の感触がある。
本来の時間軸に戻ってきたのだ。
「良いのか悪いのか……夢でも見ていた気分じゃな」
胡蝶の夢か一炊の夢、感覚的に意識が飛んでいたのは数秒だろう。
だが、懐かしい一時を味わうことができた。
死ぬ間際に憧れの人との思い出にこれほど浸れたのだから、これまで頑張ってきたご褒美とでも思っておこう。わずかでも意識を休めたおかげか、意識もクリアとなって気力も少しばかり回復していた。
これならば――奈落を打ち破る大技を二回は放てそうだ。
そろそろ一か八かの大勝負に出よう……ヌンが決心した時である。
『蕃神によって真なる世界は絶望に打ちのめされるだろう』
脳裏にハトホル様の声が蘇ってきた。
俯き加減だった顔を持ち上げると、奈落の闇に目映い閃光が走る。
この光はヌンにしか見えていないらしく、奈落の化身であるマッコウが騒ぐ様子はない。幻覚に近いようだが、はっきりした気配を感じる。
懐かしくも尊い――ハトホル様の気配だ。
いつもの口調ではなく、厳かにハトホル様は告げられる。
『神族も魔族も多種族も絶滅寸前にまで追い詰められ、私の愛した子供たちの多くは死に絶え、私の血と肉でもある世界は穢されながら食い潰されていくだろう……この未来は覆せない……だが、決して諦めてはいけない』
見上げるヌンと視線を合わせたハトホル様は微笑む。
『世界を覆う絶望の闇を打ち破る希望の光……私はそれを見たのだ』
蕃神により虐げられた真なる世界。
『その荒廃した大地にいつの日か7つ……いや9つ……強大な力を宿した光が降臨する。それらの光こそが希望の化身だ』
希望の光は弥増す力で、世界を覆う絶望の闇を払う。
『彼らは遠い未来に誕生する、我らの因子を受け継いだ新しい種族……神族も魔族も超える者となり、この真なる世界に新たな秩序と平穏を齎す』
その1人――希望の光の最先端に立つ者がいる。
『……彼女は……いいや、彼は……ハトホルの似姿をしていた』
「そ、それはもしや……ッ!」
ハトホル様とツバサ君は、母娘と疑わんばかりに瓜二つだ。
彼女は確と頷いた。
『あの子は我が因子を受け継いだ者……孫、曾孫、玄孫……もっと遠く、ずっと先、果てしない未来に生まれる、ハトホルの力を引き継いだ末裔』
問い掛けずともハトホル様はお認めになった。
「やはりツバサ君はハトホル様の御子……色濃く因子を継承した者!」
ヤバい――入れ揚げてしまいそうだ。
ただでさえ、ハトホル様の生き写しな容貌に一目惚れして、真なる世界のために獅子奮迅の活躍に惚れ込んで大ファンになったというのに、本当にハトホル様の血を引いているとなれば、ヌンの孫も同然である。
そして、ようやく思い出せいた。
ハトホル様はツバサ君の出現を予言されていたのだ。
『……やっと思い出してくれた?』
光の中のハトホル様は、昔通りの気安い笑顔で首を傾げていた。
そして、懐かしいフランクさで語り出す。
『あの時点で真なる世界が蕃神どもに滅ぼされる未来は決まっていた……でも、私が視た予知夢はそこからもっと先……ハトホルの末裔が率いる、新たな真なる世界の連合軍が巻き返す未来まで視ることができたの』
ハトホル様の視た希望の光――。
それは恐らく、内在異性具現化者を暗示しているのだろう。
現在、四神同盟は5人の内在異性具現化者に取りまとめられており、ツバサ君はその筆頭格。リーダーと呼んでも差し支えあるまい。
ハトホル様の予言が的中していたのだ。
『ヌンがツバサ君と呼び慕うあの子こそ、私の因子を受け継いだ遠い子孫……地球からやってきたのがちょっと腑に落ちないけど……間違いないわ』
地球生まれにはやや懐疑的らしい。
しかし、その能力は全盛期のハトホル様を超えつつある。
神々の乳母としてだけではなく、魔法の女神や殺戮の女神といった権能を変身という形で成し遂げた以上、総合力では上回っているはずだ。
『でも、まだ年若く幼い……はっきり言って未熟だわ』
「地球の文化に照らし合わせても若造と自重しておりましたからな……」
他でもない、ツバサ君が自らを未熟者と断じていた。
『だからヌン――あなたに頼んだんじゃない』
未来のハトホルの後見人。その若い背中を見守ってやってほしい。
ヌンはハトホル様にツバサ君のことを託されたのだ。
『私は予知夢で、あの子が多くの仲間を率いて蕃神との戦争に最前線で戦うところを確かに視た……その仲間の一人にヌンを見つけたの……』
ツバサ君が現れるまでヌンは生き延びる。
絶望に覆われた真なる世界でもヌンは生き抜いて、遙か未来まで息を繋ぐことをハトホル様は予知夢で知っておいでだったのだ。
この事実を突きつけられたヌンは面目なさそうに悄げた。
「お恥ずかしい……異相に亡命し、おめおめ生き恥を晒しました」
自らの情けなさを恥じるヌンをハトホル様は慰めてくれる。
『それもあなたを慕う民草を思えばこその行動、あなたの子らが遺した孫たちの身を案じての逃避……どうして私が責められると思うの?』
ヌンは――親として立派にやってきた。
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「ハ、ハトホル様……ッ!」
お褒めいただいたこと、感謝の極みである。
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『幾星霜の時の果てでまた会いましょう……愛しい子』
その言葉を最後に、ハトホル様の気配は完全に途絶えてしまった。
瞬間、ヌンの総身にかつてない力が湧き上がる。
「うっ、あ、ううぅ……ぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおーーーッ!」
いつもの蛙の鳴き声ではない。
熱い怒号が喉の奥から迸り、瀑流が飛沫を上げて逆立った。
奈落の闇さえも水底に沈めそうな激流は、夥しい電光を帯びていた。片や漆黒に染まる黒雷であり、片や純白を突き詰めた白雷である。
止め処ない水流は雷光を浴びて煌めき、闇を照らし出そうとしていた。
『なにぃ!? なんなの、この桁違いのパワーはッ!?』
奈落に“気”を吸われて干涸らびる寸前。
そんなヌンが唐突に力を昂ぶらせたので、驚きを隠せないらしい。
突然の事態に動揺するマッコウは、闇のスクリーンに再びデカい顔面を浮かび上がらせてきた。だぶついた頬の贅肉を震わせて戸惑っている。
その困惑振りをヌンは小気味よく眺めた。
せっかくなので、力を取り戻した理由を教えてやろう。
「母の愛が成せる業……じゃよ」
『……はあっ? なにそれ意味わかんないわよぉ!?』
わからなくて結構だ。
ハトホル様の幻影か残留思念か、どちらが正しいのかはわからない。
しかし彼女が去り際に抱きしめてくれた時、ヌンに残されていた気力を限界以上に増強してくれたのだ。一時的ながら全能力も増幅されている。
最高の置き土産である。
これだけの強化を受けられたなら、大技二回など容易いことだ。
いいや、超大技を同時に発動させることもできる。
「そうじゃった……ワシはハトホル様に頼まれてたんじゃったわ」
耄碌しとったわい、とヌンは自嘲する。
未来に誕生するハトホルの世話役を任されていたのだ。次代のハトホルとなる若きツバサ君を見守るために、今日までなんとか生き存えてきた。
「こんな奈落の底でいちびっとる暇なぞないわ!」
猛々しい咆哮とともに、逆巻く激流が左右に割れてヌンが姿を見せる。
それを目にしたマッコウは驚愕していた。
『だ……誰よアンタぁッ!? イケメン……いやイケオジ!?』
イケメンジジイ――略してイケジジじゃない!
激流のカーテンから現れたのは、神々しい老爺だった。
ギリシャ神話のゼウス、あるいはローマ神話におけるユピテル。こういったものを連想すると外見的に似通っているかも知れない。
美事というしかない白髪と白髭を振りかざした老齢男性である。
老いてなお筋肉に鎧われた巨軀は190㎝を超えていた。
その顔立ちはカエルとは似ても似つかず、厳つくも険しさを湛えた彫りの深い顔は荘厳なる漢の美貌と評されるはずだ。臍に届くまで蓄えられた豊かな白髭と相俟って、神話に語られる主神の貫禄を感じさせた。
軽めの武装を施した装束も、今の体格に合わせて変形している。
これもまたヌン・ヘケトの素顔。
父母より受け継いだ人間に近い風貌である。
黒蛙の瀑流神と恐れられた時は、主にこの見た目で活動していた。
久し振りの変身なので関節が強ばっている気がする。
「掛け値なしの本気を出すには、こっちの身体の方が都合が良くてのぅ……戦闘系に秀でた父や母の肉体的特徴が遺伝しているようでな」
ヌンは首や肩をバキボキ鳴らして、軽いウォーミングアップを済ませる。
そして、一気に超大技二連発への発動に着手した。
「混沌より滴るもの №01 陰海」
ヌンの右手に渦巻くのは、陰の色と黒雷をまとった海水。
奈落の闇とは一味違う暗い色を宿した塩気のある水だ。そこには各種ミネラルとともに、生命の前段階となる濃密な“気”の脈動を感じられる。
「混沌より滴るもの №02 陽水」
ヌンの左手に渦巻くのは、陽の色と白雷をまとった淡水。
それは生命力を活性化させる明るい陽の力を漲らせた真水だった。これ自体の力では然程でもないが、胎動する“気”を成長させる触媒となるものだ。
陰と陽の神水を両手に握り締めたヌンは奈落を見据える。
「おデブちゃん、おまえさんの奈落は無限ではない」
一見すると果てしない暗闇に見える奈落。
虚数空間という物体や質量が意味を成さず、広大無辺な奈落の闇に囚われるだけだ。そこでジワジワとすべてを吸収されながら終わりを迎える。
「だが、おまえさんの奈落は有限じゃ」
如何に強大な神族といえど、無辺際の空間を生成するなど不可能。
どれだけ広く見えようとも必ずや限界がある。
「現に……おまえさんは自らの領地を拡大するが如く、手当たり次第にそこらのもんを貪っては、自らの奈落に還元しとるではないか……のう?」
図星――押し黙るマッコウの顔に焦燥感が滲む。
謂わばマッコウの奈落とは、剥き出しのバカでかい胃袋である。
消化吸収と成長肥大が異様に速いだけだ。
「そんな奈落の闇でも貪り尽くせないほどの大量の物質を……いきなり放り込まれたらどうする? ドカ食いして胃袋がパンクするようなもんじゃ」
たとえば――ひとつの新しい世界を創造する。
「陰海と陽水、これらの神水は1つずつだと大して意味を成さん」
ヌンは左右の神水を胸の前へと運んでいく。
「だが、この2つを混ぜると互いの陰の“気”と陽の“気”が凄まじい化学反応を起こし、太極という混沌より生じたすべての源ができあがるんじゃ」
そこから新世界を誕生させるほどの力が巻き起こる。
まさに創世の御業だった。
『ま、まさか……やめなさいよぉッ!』
奈落の闇に浮かぶヌンの形相は、露骨に狼狽していた。
『こんなところでそんな世界創世みたいな大技を炸裂させたら、アンタもタダじゃすまないってわからないの!? ちょっとは考えてよお爺ちゃん!?』
正論を取り混ぜて制してくるマッコウを鼻で笑ってやる。
「考えた末の結論よ。そんくらいせねば、この奈落は破れんじゃろ?」
何を言われても止めはせぬ――実行するまでよ。
「こんくらいせんと……あの御方への恩返しには足らんからなあッ!」
ありったけの覇気を込めて黒蛙の瀑流神は咆哮を上げる。
『はぁ!? あの御方って誰のことよ!?』
おまえの知ったこっちゃないわ、とヌンは吐き捨てた。
ヌンは神への祈りを捧げるように、左右の手を胸の前で合わせていく。
陰海と陽水――太極に至る神水を混ぜ合わせる。
陰と陽が混ざり合い太極が生まれ、そこから森羅万象があふれ出す。
「混沌より滴るもの №0――汽源!」
爆発する創世の力、そこから生じる世界は奈落を押し退けた。
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