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第17章 ローカ・パドマの咲く頃に
第417話:三つ子の魂百までも、蛙万まで恩を忘れず
しおりを挟む鬼とは情動の現れである。
大昔の中国では成仏できずこの世を彷徨う死者(つまり幽霊)を意味し、日本では頭に牛の角を生やして虎の皮をまとう怪物とされ(鬼門である丑寅の暗喩)、時代と地域によって様々な姿に変わってきた異形の存在。
――それが鬼だ。
モミジはそれを人の内に眠る力として捉える。
それは名状するのも形状するのも難しく、爆ぜるように膨れ上がる激情。抱えている本人も理解できず、自らの意志で制御できない欲動。
まさに捉え所なく掴み所もない異形だ。
だが、心の一端であることに変わりはない。
望むと望むまいとに関わらず、喜怒哀楽と密接に関わっていた。
鬼は――気付かぬうちに心の奥底で蠢いている。
表向きには公言できない行為で喜びを感じたり、他人にすれば些末なことに拘泥する怒りだったり、誰にも理解されないと思い込んで胸に秘める大きな悲しみだったり、どうでもいいことを踊り明かすほど楽しむ心持ちだったり……。
自覚せずに抑えていた罪悪感もあるだろう。
そうした激情が鬼となる。正しく昇華すれば神となる。
強大すぎる心の力は、人間の精神と肉体を変えるのに十分なものだ。鬼となれば破滅の道を突き進み、神となれば更なる高みへと至れる。
それでも人間の心には違いない。
直視すれば――否応なしに当てられる。
人々が様々な物語と出会うことで感動に心を震わせるように、鬼を目の当たりにすれば心の琴線を激しく弾かれてしまう。
モミジは鬼を介して、いくつもの心の有り様を目にしてきた。
それは鮮烈であり強烈なものばかりだった。
モミジの過大能力は鬼を具現化するだけではなく、そこに秘められた感情と記憶までも伝えてくるという難点があった。相手の記憶を追体験するような感覚に見舞われた挙げ句、心を寄せざるを得なくなるのだ。
理解できない気持ちもあるが、ほとんどは共感を覚えてしまう。
そうでなくとも影響を受けることからは免れない。
モミジは心の弱さに自信があった。
孤独に浸された幼少期はモミジの精神力を硬く強くした反面、脆くて壊れやすくもした。感情の許容量が限界に達するとテンパってしまうのだ。
三つ子の魂百まで――。
幼き記憶に起因する弱味は、大人になってもつきまとうものだ。
ネムレスの人生には自業自得な面もある。
それを差し引いても、人間関係に恵まれない不運さが際立った。
鬼を視る子――そう差別された孤独な日々。
怪我のせいで醜くなったため、家族や婚約者から排斥されるように孤独へと追いやられたネムレスの苦しみが、モミジに苦い過去を思い返させた。
「はぁ、はぁ……嫌ぁ……もう一人はイヤァ……」
人並みの幸せを知った現在、あの頃の記憶は精神的外傷でしかない。
山峰家での幸せが幻のように霞んでしまう。
魔女帽子を両手でギュッと握り締めて顔を帽子の中に埋め、消えていくネムレスのために止め処なく流れる涙を止めることができない。
小さな肩は痙攣のように震え、内股で擦り合わせる膝も崩れそうだ。
モミジが過大能力を出し惜しみした理由。
ひとつは具現化される未知数の鬼を危険視してのことだが、もうひとつの理由がこれである。敵の心理と意図せずシンクロしてしまうのだ。
共感ならばまだしも同情するのは頂けない。
万が一、油断した隙を突かれたら命取りになる。
なのでモミジは過大能力を発動させる時、必ず若旦那の傍にいた。
若旦那は具現化した鬼と戦ってくれる肉弾盾であり、能力を通じて敵と同調するあまり、動揺するモミジの精神的な支えになってくれるのだ。
しかし、今日この場に若旦那はいない。
ネムレスと強敵と認めたモミジは、無謀な真似をしてしまった。
「大旦那様……お師匠様……」
弱ってきた心は家族の名前を縋るように呻く。
「若旦那……もう一人は嫌……一人にしないで……」
ネムレスの悲哀に取り憑かれたモミジは譫言を繰り返し、やがてグラリと体勢を崩した。飛行系技能で宙に浮いているにも関わらずだ。
このまま地上まで堕ちてしまおうか。
投げ遣りにも似た気分で、モミジはそのまま自由落下していく。
ネムレスは倒した――しかし巨獣の群れは健在だ。
飛竜型の巨獣はそこら中に飛び交っている。
護法神軍団が懸命に撃退しているが、すべての巨獣を無力化するにはまだまだ時間が掛かりそうだ。こうしている間にもモミジを狙っている輩もいる。
防御結界を張り直さなければいけない。
しかし、精神的外傷に苦しむモミジは反応が遅れていた。
周囲に展開させていた特製巻物の結界も集中力が乱れるとバラけてしまい、ろくに防御力を保てなくなっていた。
このまま巨獣に噛みつかれたら一巻の終わりだ。
大きく顎を開いて牙を剥く巨獣がこちらへ近付いてくる。
視界の隅でその接近を捉えたモミジは、気力を奮い立たせて対応しようとするのだが、重くなった心で動かす肉体はなんとも鈍いものだった。
駄目――間に合わない!
死の一文字が脳内を埋め尽くした瞬間のことだ。
飛竜型の巨獣、その大きく顎を開いていた頭が消し飛んだ。
どこからともなく高密度の“気”の光弾が飛来すると、その直撃を受けた巨獣は頭どころが全身を爆散させるように撃墜されていた。
光弾はひとつではない。弾幕と呼ぶに等しい物量で放たれる。
無数の光弾は巨獣のみを撃ち落とし、護法神の軍団には掠りもしない。
まるでモミジへの援護射撃のようだ。
助かったと思って気が抜けると、一緒に力も抜けてしまう。
自由落下の速度は増していき、落ちていく感覚に心地良さまで覚えてきたモミジは目を閉じて、死と隣り合わせの没入感に陥ろうとする。
不意に――抱き留められた。
逞しい腕に抱き上げられる安心感に包まれる。
重たい瞼を恐る恐る開いて顔を上げると、そこには若旦那が心配そうにこちらを見下ろしていた。息せき切らした呼吸で問い掛けてくる。
「……モミジ大丈夫か!? 怪我はないか、どうして泣いている!」
また鬼の記憶に触れたのか? と叱責も混じる。
モミジの身を真剣に案じてくれるからこそのお説教だった。
「まったく、俺がいないのに無茶をする……だが、敵は倒せたみたいだな。特に傷はないみたいだし……相手に当てられただけか」
おまえが無事で良かった、と若旦那は安堵のため息をついた。
「うっ、ぐすッ……わ、若旦那ぁ……」
涙腺が壊れたみたいに涙が止まらない。これは嬉し涙だ。
――モミジが無事で良かった
これがどんな言葉よりも嬉しい。家族の一員として大切に思われていると実感できたからだ。孤独に病んできたモミジには最高の良薬である。
「あああぅ……わぁぁぁぁぁん! 若旦那ぁ若旦那ぁ若旦那ぁぁぁーッ!」
もはや恥も外聞もなかった。
こんな時、デキる許嫁として取るべき行動は「宿敵グレンを倒して凱旋した若旦那の勝利を祝う」ことだったり、「自分の窮地に息を切らしながらも颯爽と駆けつけてくれた若旦那に御礼のキスをする」ことだったりするはずだ。
しかし、そんな余裕はない。
幼稚園児くらいの精神年齢に退行したモミジは、ワンワン泣き喚きながら若旦那の頼もしい胸板に縋りつき、我を忘れて泣きじゃくった。
涙どころか鼻水も涎もあふれて、癇癪を起こした赤ん坊みたいだ。
「よしよし……怖かったな」
若旦那も心得たもので、なるべく刺激しないよう抱え直す。そして背中に手を回すと、子供をあやすように柔らかく何度も叩いてくれた。
しゃくりあげるモミジを若旦那は慰めてくれる。
「俺がいなくても過大能力で鬼を喚び出して、その鬼も調伏できたんだろう? 凄いじゃないか。ちゃんとやれば一人でも戦えるようになった証拠だ」
「……ひっく! は、はい、ありがとうございます」
まだしゃくりあげるも、落ち着いてきたモミジは礼を述べる。
ようやく理性を取り戻してきたモミジは、顔の穴という穴から漏らしてしまった体液を手早くハンカチで拭い、その涙と涎と鼻水まみれの顔を押し付けたことでグショグショにしてしまった若旦那のシャツも拭き取っていく。
……鍛えられた筋肉がシャツに透けるほど濡らしていた。
「コホン、お見苦しいところをお見せしたです……」
もうじき成人するのに、赤ちゃんみたいに真似をしてしまった。
気まずさと気恥ずかしさで赤面する顔は、魔女帽子を深々と被って隠す。泣いていた余韻のある喉は強めの咳払いで誤魔化しておく。
「こちらも何とか一人倒せました……それで」
そちらの首尾はどうです? とモミジは聞くまでもない質問をする。
こうして戻ってきてくれたことが雄弁に物語っていた。
「ああ、グレンなら倒したよ……一応、封印したということになるのかな。おまえとツバサ先輩の指導あってのことだ」
ありがとう、と若旦那は寂しさに陰る微笑みで返してくれた。
殺しても殺し足りない――腐れ縁の悪友。
とは言うものの、永久の終身刑という死刑よりも過酷な罰をグレンへ科したことに、あれやこれやと思うところはあるのだろう。
若旦那はお優しいから仕方ない。
この優しさが美徳なのだとモミジは割り切ることにした。
誰よりも優しいからこそ、疲弊しきった動かすのも辛いはずの身体に、これでもかと鞭打ってでもも、モミジの危機に駆けつけてくれたのだ。
若旦那はズタボロだった。
愛用のフライトジャケットやズボンは切り刻まれてズタボロ。
ひっかき傷どころではない。肉厚な刃で何度も刻まれたかのようだ。
気功による自動回復で傷こそ塞いでいるが、全身の至るところに深々とした裂傷が残っている。顔や首にも歴戦の勇士みたいな疵痕があった。
奥義である九天法も使っていた。
この奥義は肉体を酷使するため、疲労感がこちらにも伝わってくる。いくら外界より無制限に“気”を取り込めても、肉体への過負荷は和らげない。
グレンと死闘を繰り広げたのは一目瞭然である。
本当なら立つのはおろか、飛行系技能を使うことさえ自由になるまい。
そんな疲労を振り切って駆けつけてくれたのだ。
若旦那の家族愛に感謝し、許嫁冥利に尽きると心を打たれてしまう。
惚れ直す――とはこういうことだ。
傍目ではそう見えないだろうが、モミジは若旦那にベタ惚れでゾッコンなのだ。もし許嫁を解消されたらその場で自決できる。
惚れ直した回数も、何百回を数えたかわからない。
だから慰められた拍子に抱き上げられたのをいいことに、まだ抱っこされたままで若旦那に胸へ甘えるように寄り添っておいた。無意識に赤ちゃんみたいに親指を加えているのだが、本人はまったく無意識でやっている。
表情だけ「若旦那の補佐!」らしく引き締めているのでギャップが酷い。
苦笑する若旦那は遠くの風景へと視線を移す。
「さて、お互いに倒すべき敵を倒したので勝利を祝したいところなんだが……どうにものんびり構えている事態ではなさそうなんでな」
知ってることがあれば教えてくれ、という若旦那の声は震えていた。
「あれは……何だ?」
怖い物知らずの若旦那が怯えている?
(※大旦那様、お師匠様、ツバサさん、このお三方は除く)
寄り添う若旦那の肌からは未知に対する警戒心が伝わってきた。照れ隠しで目深に被っていた魔女帽子からそっと様子を窺う。
若旦那の頬を伝う一筋の冷や汗、目線は地平線の彼方を見据えていた。
モミジも恐る恐る腹を据えてから振り返る。
そこに――闇があった。
他の色を認めない圧倒的な漆黒、細やかな光も許さない暗黒。
絶対的な闇が絶賛拡大中だった。
場所はちょうど、イシュタル女王国の第一次防衛ライン。
多少の起伏やちょっとした丘もあったが、比較的開けているし周囲に現地種族が隠れていた気配がなく、生息する生物もそれほど多くはなかったので、バッドデッドエンズを迎え撃つための陣を張ったところだ。
その地表が闇一色に染められていた。
闇と形容するしかないのだが、実際には穴のようだ。
底知れぬ深淵としか目に映らない。
光さえ飲み込むブラックホール、どこに通じているかもわからない奈落の底へと落ちるための闇深い大穴。しかもこの穴、徐々に広がっている。
ドス黒い墨の滴が和紙にじんわり染み込んでいく。
イメージとしてはこれに近く、しかも墨は滾々と湧き出ずる。
広がる闇は都市を飲み込む規模になっていた。
まだ成長途中ならば、大地がどれほど蝕まれるか予測できない。
「あれは……奈落です」
「奈落? って、奈落の底の奈落のことか?」
若旦那の疑問を解消するべく、モミジは魔法使いとしての見識に基づいて分析した結果を、体育会系にもわかりやすく説明する。
「すべてを飲み干さんとする無明の闇……性質的にはツバサさんの高等技能である重力操作の限界点ともいうべきブラックホール創成や、アハウさんの過大能力が操る虚無に近いものですが、似て非なるものです」
あの奈落には――意志がある。
この世のすべてを取り込まんとする欲望が感じられた。
現に今も食事中である。
遠目に見れば徐々に広がっているようにしか見えないが、間近にすれば恐ろしいスピードで周囲の土地を貪るように奈落へ引きずり込んでいるはずだ。
飲み込まれているのは地面とその上に動植物だけではない。
空気や大気も渦巻く勢いで吸い込んでいた。
鯨飲馬食という言葉あれど、この食いっぷりは上回っている。
「まさしく底の知れない欲望です。暴飲暴食の権化というか極みというか……あの闇はこの世界を侵す毒のように見えますが、実際にはああいう生き物です。種族的には神族寄りになると思います」
「生き物、しかも神族寄り……モンスターみたいなものか?」
そうです、とモミジは断言しかけるも曖昧に濁した。
「モンスターだとすればスライムやブロブといった、不定形の粘液状モンスターが近いかもです……あの闇に捕まればどこまでも墜ちていくみたいです」
広がる闇に足を取られれば、無間地獄へ墜ちていく。
そこには上も下も右も左もない。
まさしく底無し沼、無辺際の深淵と繋がっている。
何もない真っ暗闇の空間をただただ「墜ちていく」という感覚だけに支配され、やがて闇の一部となるまで溶かされるように侵食されるようだ。
奈落の底へと墜ちていくかのように……。
「……だから一目見た瞬間、思わず奈落と名付けてしまいました」
「わかりやすいのは俺みたいな単細胞には助かる」
ではシンプルに行こう、と若旦那は素早く頭を切り替えた。
初めて目にする未知の恐怖を「ああいうものだ」と見たまま受け入れ、どう対処すべきかを検討し、的確な処理方法を把握する。
シンプル・イズ・ベストを尊ぶ大旦那様譲りの思考方法だ。
「あの広がり続ける奈落は見過ごせない脅威として排除対象とすべきだろう。気になるのは、あれが誰の仕業によるものか? という点だな」
「少なくとも四神同盟側ではないと思うです」
魔法か召喚かはわからないが、身内にあれを使うタイプはいない。
どう見ても敵役が使う奥の手だ。
「ヌン陛下の使う“混沌より滴るもの”は原初の時代を思わせる、混沌とした水の魔法が多いですけど……あんな悪性なものがあるとは思えません」
「陛下は由緒正しき創世神の血筋だからな」
ヌン陛下は善良を絵に描いたようなカエル顔の老紳士だ。
もしも“混沌より滴るもの”にこのような魔法があったとしても、周囲への被害を鑑みて使うことはあるまい。禁呪として封じるだろう。
「でも……その陛下と連絡が取れないです」
冷静さを取り戻したモミジは、不穏なことに気付いた。
この戦争中は情報官アキさんを中継器として、四神同盟内では秘密の通信ネットワークを構築している。この情報網には勿論、ヌン陛下も加わっていた。
なのに――数分前から連絡が付かない。
SNSならば「既読が付かない」状態になっていた。
第一次防衛ラインで戦っていたのは合計八人。
四神同盟から4人、最悪にして絶死をもたらす終焉から4人。
形式的には4VS4のバトルマッチ。
若旦那と殺戮鬼の戦いは、既に述べた通り決着済みだ。
グレンを反生反剋の術式で封じ込め、二度と暴れられないようにした。
第一試合は完封である。
モミジとネムレスの戦いは、辛くもモミジが勝利した。
ネムレスの記憶に当てられたため痛み分けになりかけたものの、若旦那が大急ぎで戻ってきてくれたおかげで事なきを得る。
……本当に感謝している。
第二試合は甘めに評価しても辛勝だろう。
第三試合と第四試合は、まだ判定が下されていない。
イシュタル女王国の代表であるミサキくんは、バッドデッドエンズの中でも別格の強さを誇る喧嘩番長アダマスと交戦中。
ただし、第一次防衛ラインからは遠く離れてしまっている。
これはバッドデッドエンズ側の策略らしく、最上級の戦闘能力を有するミサキくんを第一次防衛ラインから押しのけるためであったらしい。反面、ミサキくんもアダマスと全力で戦うため、被害を最小限にできる僻地へ誘導したようだ。
2人の激闘は未だ継続中である。
この戦いは長引きそうなので第四試合になるだろう。
では――第三試合。
これは蛙の王様ことヌン陛下と、バッドデッドエンズの三幹部の一人マッコウ・モートと呼ばれる超肥満体オネエの激突になっていた。
両者にはちょっとした因縁もある。
蕃神から逃れ、異相という亜空間に落ち延びた亡命国家。
神族や魔族を王と頂くこの亡命国家はいくつもあったのだが、バッドデッドエンズは「生き残られたら困る」という理由から殲滅作戦を実行。
凶軍と呼ばれる部隊を編成し、亡命国家を片っ端から滅ぼしていた。
この凶軍を率いていたのがマッコウ・モートだった。
やがて水聖国家にも魔の手が伸びる。
しかし、水聖国家には若旦那とモミジが身を寄せていたため徹底抗戦。そこへツバサさんたちが運良く駆けつけてくれた。
間一髪、凶軍の侵略を阻止することができた。
この水聖国家を巡る戦いで、ヌン陛下とマッコウは交戦していた。
多少なりとも因縁が生じてしまったらしい。
ミサキくんや若旦那、そしてモミジも対戦相手とともに第一次防衛ラインを離れてしまったため、両者はそこを主戦場として争っていたはずだ。
そこに――奈落の闇が蟠っている。
「さっきからヌン陛下の気配を探しているんだが……」
さっぱり掴めん、と若旦那は渋面である。
モミジも仲間の気配を探る探知系魔法を広範囲に飛ばしているのだが、ヌン陛下のいる場所を特定できずに困惑していた。
少なくとも、モミジたちが見渡す風景にヌン陛下はない。
ついでにマッコウの姿も見えなかった。
だが、あのガスタンクみたいな超肥満体から発散していた気配は、漠然とだが感じられる。どういう理屈か、散らばりながら広まっているようだった。
マッコウの気配は――奈落から発せられている。
若旦那とモミジの探知能力が及ばない場所はひとつだけ。
奈落の闇、その深淵の底からだ。
「あの奈落がヌン陛下のしたこととは考えにくいです……」
「ああ、同感だな……あの闇からはマッコウっていう敵方の副将の匂いがプンプンする。そして、ヌン陛下はどこを探してもいない……」
これらの事実から導き出される結論はひとつ。
「ヌン陛下はあの奈落の底で――今もマッコウと戦っているんだ」
若旦那は導き出した推測を断定的に述べた。
~~~~~~~~~~~~
「……ここは、どこじゃ?」
ワシは誰じゃ? と続けるまでもなくヌンは自分をヌンだと認識するだけの意識は保っていた。だが、酷い倦怠感から来るだるさに苦しめられていた。
精神と肉体、脳細胞から神経までもが疲れ切っている。
おかげで、どうしてこんなところにいるのかわからなかった。
ヌンがいる場所は――闇だった。
どこまでも果てしなく闇が広がっている。
一切の光が差し込まない闇。自身の手元にすら目が届かない。足下まで覚束なく、無限に墜ちていくような頼りない浮遊感に包まれていた。
まるで奈落の底――光も届かない深淵の海溝。
黒がメインカラーでもあるヌンは紛れてしまいそうだった。
蛙を擬人化した老人、それがヌンの見た目である。
創世の獣であった祖母から受け継いだ外見なので文句はない。獣頭人身の神は割と真なる世界ではメジャーであり、ヌンの他にいくらでもいた。
今となっては何人生き残っていることか……。
老いて小柄な体躯になってきたが、人間とほぼ変わらない五体を有し、手足の指も五本ずつ。ただし顔だけが蛙という風体である。
そして、肌は真っ黒だった。
地球の日本という地からやってきたツバサ君たちは、蛙といえば緑色のイメージが強いらしく、黒い体色をしたヌンは少々珍しいようだ。
黒い肌はこの闇に馴染みやすいだろう。
威厳を示すために蓄えるようになった長い白髭や、王様と武将のいいとこ取りをした軽装なれど煌びやかな鎧装束はちょっと浮くかもしれない。
とにかく微睡みを強いてくる闇だ。
この闇の中にいると、絶え間ない疲労感に襲われる。
一刻も早く抜け出さねば……そう危機感が騒いでいるのだが、次から次へと重ねられる分厚い布団のような疲れに気力が麻痺してしまう。
理性さえも眠気に負けそうだった。
「わしは、どうして闇におる? わしは……何をしていたんじゃっけ?」
疲れ果てた脳細胞を必死に叩き起こす。
思い出せ、思い出せ、思い出せ……と強く念じ、これまでの経緯を振り返る。この闇に至るまで経緯と、ここから脱出する対策を講じていく。
ヌンは――戦っていたはずだ。
イシュタル女王国と水聖国家オクトアード。
2つの国家を防衛するべく引いた第一次防衛ラインで、世界を滅ぼさんとするバッドデッドエンズの主力を迎え撃っていた。
若人たちが各々の対戦相手を選んで戦う中、ヌンも数日前に自国を侵略してきた凶軍なるチームを率いていたマッコウと再び激突する。
どちらもリターンマッチ気分だ。
あるいは消化不良に終わった前回からの仕切り直しだろうか。
最悪にして絶死をもたらす終焉 20人の終焉者。
№01 冥蝕のフラグ――マッコウ・モート。
幹部の中でも古参であり、三幹部という重職についている。その三人の中でもリーダー格であり、破壊神からは頭脳役と頼りにされているそうだ。
実質、組織の副将にして№2。
20人の終焉者で最初の番号を預かっているだけはある。
その首級を取れば戦功は大きいだろう。
何かと援助してくれているミサキ君への恩返しは無論のこと、国の危難を救ってくれた大恩あるツバサ君にも顔が立つというものだ。
老骨に鞭打ってでも勝利をもぎ取る価値はある。
ただ、マッコウの風体はなんともやりにくいものだった。
およそ戦う者とは思えない出で立ちである。
身長3mを超える巨漢、胴回りはその倍はありそうな大玉と見間違えるほぼ球体の超肥満。ツバサ君たちはよく「ガスタンク」と言っていた。
そんな巨体を豪華絢爛な錦で着飾っている。
あれは日本独特の衣装で「着物」とか「友禅」というらしい。
本来は女性が着る衣装なのだそうだが、マッコウは男なのに女性用の着物をしっかり着付けし、脂肪まみれの顔面にもド派手なメイクを施していた。
盛り上げた髪型も孔雀色のケバケバしさだ。
マッコウみたいな者を地球では「オカマ」や「オネエ」というそうな。
『難しい言葉だと異性装倒錯者なんていうんですが……ここら辺は多様性が云々とか騒がれることが多くて、タブー視されがちでセンシティブなワードとしてあまり公言はされなかったんですよね……』
ヌンは説明を求めたのだが、ツバサ君も返事も歯切れが悪かった。
どうにも地球の文化は面倒臭いことになっていたらしい。
比較的「オネエ」という単語ならマシだという。
要するに男だけど女の格好をするのが好きだったり、同性を愛してしまう男たちという括りでいいのだろう。ヌンも大枠で捉えることにした。
そんなマッコウとヌンは激闘を繰り広げていた。
イシュタル女王国と水聖国家を守る――3つの防衛ライン。
その最前線となる第一次防衛ラインを戦場とし、マッコウは過大能力で兵隊となる餓鬼を無限に沸かせると、陣を組ませて攻め寄せてきた。
圧倒的な数に任せた、ただ横幅があるだけの杜撰な鶴翼の陣だ。
しかし、この餓鬼の兵団が実に厄介だった。
餓鬼は何種類かおり、最弱のものならば少々死ににくい動く死体みたいなもの、最強のものだと全身をアダマント鋼の鱗で覆われた身長5mはあろうかという巨人めいた体格を持っている。
種別ごとの強さはさておき、厄介なのはその固有能力だ。
あらゆるものを貪り尽くす――無限の食欲。
有機物無機物問わず、砂や岩石に海水といった飲食に適さないものでもモリモリ食べて、痩せた餓鬼のくせに筋肉隆々に肥え太っていくのだ。
そして、ある一定段階まで肥育すると分裂する。
一体から無数の餓鬼が生まれて、そいつらがまた貪り始めるのだ。
ねずみ算式どころではない。倍々ゲームである。
恐らく、ただの使い魔ではない。
マッコウの過大能力を使いやすく変化させたものだろう。
この無限に増え続ける餓鬼の軍勢を、ヌンは見事に食い止めて見せた。
ヌンの秘奥義――“混沌より滴るもの”。
ツバサ君たち新しい神族や魔族が覚醒する過大能力に勝るとも劣らない、創世神であるヌンの祖母、蛙の地母神ヘケトより受け継いだ能力だ。
原初の時代、混沌よりしたたり落ちた神秘の滴。
様々な効能を発揮する、聖や魔に分化する前の太古の神水。
それらを自由自在に操る創世の御業である。
この“混沌より滴るもの”を駆使して、餓鬼の軍勢を迎え撃った。
まず平野に即席の大河を流した。
これを城塞でいうところの水堀に見立てて、餓鬼の行く手を塞ぐ防壁の代わりにすると同時に、多くの餓鬼を激流に巻き込みながら水圧で潰していく。
更に――強力な酸性の雨を降り注がせた。
ヌンが敵と認定した者のみを焼く特別な酸性雨だ。
硫酸や王水どころの話ではない。オリハルコンをも溶かす自信がある。
これで軍勢の行進を大幅に遅くすることができた。
更に駄目押しをしておくのが、デキる将帥というものだ。
重量のある液体で作り上げるのは、勇猛な武将と勇壮な戦乙女を象った水人形ともいうべき形代。それを大軍勢を編成できる規模で用意する。
目には目を歯には歯を――兵団には兵団を。
餓鬼の兵団を討ち果たすべく、水人形の軍勢に立ち向かわせたのだ。
即席の大河、敵のみを焼く酸性雨、水人形の大部隊。
これらを作り出す奇跡の神水こそが“混沌より滴るもの”である。
そして、ヌンは小国とはいえど1万年に渡って水聖国家の独立を維持してきた、超武闘派の王として名を馳せている。本人の戦闘力が高いのは優に及ばず、寡兵ながらも戦術に長けた用兵を行う軍略家としても評価されてきた。
頭脳役のマッコウだが、ろくに戦を知らない。
当然といえば当然であろう。
ツバサ君に聞いたのだが、地球の日本という地域は病的なまでに戦争と縁がなかったという。過去の大きな戦争でやらかしたのが原因らしい。
軍隊こそあれど、戦争経験のある人間はほぼ皆無。
軍略シミュレーションはできたが、実戦を体験したことはない。
マッコウも例外ではあるまい。
数を頼みとした人海戦術しか取り柄のない作戦指揮に、百戦錬磨のヌンが後れを取る道理がなかった。水人形の兵隊は餓鬼たちを駆逐していく。
部隊戦での勝敗は、ほぼヌンの勝利が確定した。
だが敵も然る者――マッコウもこのまま黒星で終わる気はないようだ。
「あちょぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉーーーッ!」
怪鳥のような奇声を上げて、マッコウ自らが特攻を仕掛けてくる。
ガスタンクと揶揄される、ほとんど球体の超肥満体。そんな体型では手足を伸ばしても、ろくにパンチやキックを打てまい。そう高を括りたくなるが、その球体が丸ごと飛んでくれば、質量だけで十二分な脅威となった。
巨大な肉の塊が――大玉転がしのように宙を転がる。
高等技能で全身の脂肪と筋肉をアダマント鋼よりも硬くしており、そこに猛烈な回転も加えていく。超特大のライフル弾で狙われてるも同然だ。
ヌンは宙に浮かぶ水球に座っていた。
乗り物代わりの水球から早めに飛び退くと、回転するマッコウは水球を吹き飛ばしながら脇を通り過ぎていく。
そのまま地表に落下し、隕石が落ちたような激震を走らせていた。
回転は止まらない。むしろ激しさを増している。
「まだまだぁ! この程度で済むと思ってんじゃないわよぉ!」
マッコウの叫び声がブレる。激しく回転しているせいだ。
そして回転速度が跳ね上がると、竜巻のような突風をまといながら、電磁波やプラズマを撒き散らし、災害を引き起こす巨大肉団子と化した。
こうなると高速移動する天災発生装置だった。
しかも、本体がアダマント鋼より硬い特大砲弾となっている。
「あちょぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおーーーッ!!」
怪鳥のような奇声も絶好調だ。
再びライフル弾のようにヌンへと突撃してくる。
ヌンの動体視力と運動神経なら、いくらでも躱すことができるだろう。
「然りとて、そんな傍迷惑な攻撃を見過ごすこともできん」
ヌンは愛用の杖を構えた。
棒術と呼ばれる、杖や棍などの長柄武器を扱う武具術の構えだ。
「混沌より滴るもの №67 河束」
杖を握るヌンの両手から水流が迸った。それは高圧洗浄機に勝る威力となり、あっという間に滝壺のような激しい飛沫へと強まる。
やがて瀑布の如き激流になるも、コンパクトに収まっていく。
それは水流でできた棍を形作った。
ただ長いだけの棒に等しい武器である。ヌンは愛用の杖を核として、それに水流をまとわせることで、絶えず水の流れる棍としたのだ。
ちょっと大きい柱みたいなサイズはある。
太さを意に介することなく、ヌンは水の棍を巧みに振り回す。
「はん! そんな水の棒っきれでアタシを止められると思ってるの!?」
「思ってるからこそ使うんじゃろうが」
岩や瓦礫を巻き込んで破壊力を増した突風、稲妻や雷鳴を鳴り響かせて飛び散るプラズマ。それらをまとったマッコウが突進してくる。
ヌンは真っ向から受けて立ち、水柱の棍で真正面から突き込んだ。
威勢では明らかにマッコウに軍配が上がっている。
次の瞬間――洪水が起きた。
迫り来る超肥満体に水柱の棍が触れた瞬間、そこから大量の水が爆発するように湧き出して、マッコウを突き返すように押し流していた。高速回転は止まり、全身にまとっていた風や雷も勢力を弱めながら消える。
すべてが水に流されていった。
「何この水……ガボゴボボボボフンッゴボボボベベバボ……ッ!?」
莫大な津波に呑み込まれた巨大オネエが溺れかける。
短い手足でジタバタ藻掻いたマッコウはどうにか津波から抜け出すと、泥塗れになって地面にゴロゴロと転がっていた。
凄まじい洪水を浴びせられたマッコウは、口の中にも大量の水を押し込められたためか噎せており、咳き込みながら驚愕していた。
「ゴホッ……な、なに今の!? まるで土石流に巻き込まれ……ッ!?」
弱り目に祟り目、隙がある時にこそ猛攻を仕掛ける。
戦の鉄則、ヌンは地に伏したマッコウに追い打ちを仕掛けていく。
水柱の棍を高々と振り上げると、遠心力を加えつつ重力に任せて振り下ろす。マッコウは咄嗟に身構え、真剣白刃取り風に受け止めた。
次の瞬間――また洪水が起きた。
今度は大きな滝、あるいは瀑布の滝壺のように水があふれ出す。大規模な間歇泉よろしくダムを満たすほどの水量が巻き上がり、瞬時に大地を抉って海を作り出すような水圧がマッコウを叩き潰した。
水圧による圧殺、ついでに水没により窒息も狙える威力だ。
一帯が湖面に覆われ、マッコウは水底に沈む。
かと思いきや、スゴい速さで浮上してきた。筋肉よりも脂肪が多そうらから比重の関係で浮かびやすいのかも知れない。
想像を絶する水圧にも耐えたらしい。ボールみたいな体型は弾力もありそうだ。
一度は宙に浮かんだマッコウは、水面へと波紋も立てずに着水する。
メイクはドロドロ、髪型も崩れて着物もずぶ濡れだった。
「……なるほど、河を束ねるから河束ね」
憮然とした面持ちながらマッコウは冷静だった。
二度の洪水攻撃を浴びて翻弄されているかと思いきや、転んでもタダでは起きないとばかりに分析したらしい。頭脳役の肩書きは本物のようだ。
ネタは割れたようなので、改めてヌンが教えてやる。
「うむ、その通り。一見すると水の棒にしか見えぬじゃろうが、その実この棒には何本もの大河に匹敵する豪流が圧縮されておる」
攻撃した瞬間、それが解放されて洪水が巻き起こるのだ。
ヌンは降伏を勧めるように忠告する。
「あと数撃も喰らえば、衣服はおろかその張り詰めた皮とその内側にたっぷり詰まった肉さえも、すべてを清める神水に流されて削げ落ちるじゃろうて」
「あら、ダイエットには良さそうねぇ」
皮肉をぶつけたら相乗りするように返してきた。
だが、そこに余裕は見当たらない。むしろ諦めの境地にも似た態度が見え隠れしている。頭脳役と名乗るだけあって賢い男だ。理解したのだろう。
自分では蛙の王様に勝てないことを――。
「悪かったわよ……謝罪するわ」
殊勝なことを言い出したマッコウは大きくため息をついた。
兵隊を指揮する用兵では勝ち目を見出せず、直接対決に望んでも手も足も出ないどころか、全身全霊を使って挑んでもあしらわれてしまう。
ヌンとマッコウでは力の差が歴然だった。
まだ“混沌より滴るもの”をすべて披露していない余力のあるヌンに対して、マッコウは餓鬼の兵団を全軍投入しても敵わない。
実力行使に出ても御覧の通りである。
「正直、見た目で侮ってたわ……あたしじゃアンタは荷が勝ちすぎる」
でもね――マッコウの顔付きが変わる。
是が非でも勝利を得る、そんな決意を固めた表情だ。
決死の覚悟とは言うけれども、本当に死を引き換えにしてでも勝ちたいと願う者は実際には多くない。そこまでの覚悟を引き出す理由は、自分ではなく敬愛する誰かのためか、もしくは揺らぐことのない理想に託すためだ。
太い眉をつり上げたマッコウは漢らしく言い放つ。
「あたしも最悪にして絶死をもたらす終焉の最古参、そして最高幹部という実績と意地があるわ。あたしの前の前の前の前のご先祖様というべき……」
――灰色の御子から受け継いだ意志もある。
ヌンは口を開けず喉の奥でゲロロと鳴き、僅かばかり眼を大きくした。
「御主……地球に渡った灰色の御子の1人か!?」
ロンドが灰色の御子だとはツバサ君から聞き及んでいた。
飲み会で当たり前のようにバラしたらしい。特に頓着はないようだ。
だが、他にもいたとは少々驚きである。
「ロンドさんとあたしたち三幹部はそうよ……もっとも、灰色の御子グループからは爪弾きにされて、人間社会っていう苦海に身を落としてたけどね」
頭脳役――マッコウ・モート。
右腕――アリガミ・スサノオ。
秘書――ミレン・カーマーラ。
この3人は灰色の御子の血を受け継いだ末裔だという。
「ロンドさんやアリガミみたいな破壊神もそうだけど、ミレンみたいな快楽神の血を引く者や、奈落神の子孫であるあたしなんかは……まあ真っ当な神の血を引いてる連中からしてみれば目障りだったんでしょうね」
真なる世界を救うために活動する。
こうした使命感がそもそも薄弱だったらしい。
地球や真なる世界を問わず、世界を破滅させたい破壊神が最たる例だが、快楽神は日々の楽しいこと気持ちいいことを追究することしか頭になく、奈落神はすべてを深淵へ引きずり込むのが本分だった。
非協力的な態度を取り、除け者にされたのは想像に難くない。
そうでなくとも排斥されたに違いない。
神々の種族などと偉ぶっているが、神族はそんなお行儀のいい種族ではない。
好き嫌いは当然のようにあった。忌避される権能を持つ神族への差別や、力量や血統といった格差で起きる問題も珍しくはない。
結局、人間と大差ないのだ。
むしろ、こうした悪癖は神族から人間に遺伝したと思っている。
破壊神、快楽神――そして奈落神。
どれも確かに色眼鏡で見られがちな神族だった。
その末裔である彼らは普通の人間として、市井に紛れていたようだ。
「しかし、神や魔の因子はその身に色濃く宿ったことじゃろう」
血は水よりも濃い。なかなか薄まらない。
ヌンが推論を口にするとマッコウは「仰る通り」と肯定した。
「あたしもそうだし、アリガミやミレンも神族の因子とやらが心の内で騒いで大変だったわ……だからこそロンドさんに見出されたんだけどね」
冷遇された者たちを拾い集めていた節が窺える。
恐らく――気紛れだろう。
ロンドほどの破壊神ともなれば、単身で世界を壊すことも厭わないはずだ。仲間など足枷になるだけ、率先して求めるタイプとは思えない。
だが、あの極悪親父は親分肌なところもある。
良くも悪くも面倒見がいいため、妙なカリスマを持っているのだ。
マッコウたちは運良く拾われた部類と思われる。
逆に言えば灰色の御子の組織だという世界的協定機関から省かれ、破壊神にも拾われることなく地球で散った灰色の御子も少なからずいたはずだ。
埋もれて消えるか? 悪事に加担して悪目立ちするか?
誰も取りこぼさずに拾い上げることは難しかったのだろう。
「アリガミやミレンはロンドさんへの恩返しや愛情ゆえに奉仕してるって感じだけど……あたしは違う、脈々と受け継いできた意志があるのよ」
それは口伝などで言い伝えられてきたものではない。
マッコウの本能に根差しており、彼の行動原理を支配するものだった。
恐らくは――先祖である灰色の御子が抱えた願望。
あるいは神族としての果たすべき権能に根差すものかも知れない。
「……その意志とは何じゃ?」
興味本位でヌンが尋ねると、マッコウは挑発的に微笑んだ。
「――森羅万象を奈落に堕とすことよ」
ロンドが破壊神として「この世のすべてを滅ぼす」と公言するように、マッコウの願いは奈落神として「この世のすべてを堕とす」ことだった。
「あたしは万物すべてを貪りたいの!」
マッコウは快哉と猛り吠える。
鷲掴みする手付きを胸の前に掲げて叫んだ。
「食物という食物を食べ尽くし! 飲料という飲料を飲み干し! 知識も情報も思想も理念も知り尽くして! 男も女もどちらの性欲も貪り尽くして……ありとあらゆるものをあたしという奈落の底に叩き落としてやりたいのよぉ!」
手にした獲物にむしゃぶりつく――貪欲の怪物。
雲が流れて陰が差したマッコウは、陰影の加減でそのように見えた。
「……そんだけ貪ってりゃ肥えるわな」
マッコウの超肥満体、その原因をヌンは知った気がする。
本性を暴露したマッコウは猛獣のような吐息を盛んに繰り返し、そのガスタンクみたいな体型が爆発しかねない“力”を解放させようとしていた。
しかし、それは力の解放というより流出に近い。
ヌンの攻撃により泥塗れのマッコウ。
水浸しの着物からも泥が滴っているが、その色があまりに暗い。
真っ黒に染まった泥がマッコウから流れ出している。
いいや、彼自身が溶け崩れており、黒い泥に変わりつつあるのだ。
しかも質量までもが凄まじい勢いで増えている。
手足やまん丸の顔も泥で覆われていたが、その泥の下から光沢も差さない黒い泥が湧いてくる。それはとろみのついた流れ落ちる闇にしか見えない。
闇の奥には途方もない深みを感じる。
一度でも踏み込めば最後、二度と戻って来られない奈落の底だ。
「最悪にして絶死をもたらす終焉、最高幹部の意地……」
漆黒に染まる両腕は闇を垂れ流す。
「奈落神の因子を受け継ぎ、その意志に目覚めた者としての矜持……」
染みるように闇が広がり、底無しの虚が大地を穿つ。
「この身魂を余す所なく奈落に変えてでも成し遂げてみせるわ!」
そうして――奈落が口を開いた。
~~~~~~~~~~~~
「そうじゃった……段々、思い出してきたぞ……」
マッコウは神族・奈落神として培ってきた全能力と存在、そのすべてを代償とすることで奈落その物に変わり果てた。
流動する闇は生きており、そこに飲まれれば果てない奈落へ堕とされる。
この闇は生きている――マッコウの成れ果てだ。
そして、奈落という闇の空間を内に抱えたスライム型の生命体である。
この奈落は生物として意志を持ち、自発的に行動している。
そして、手当たり次第に奈落へ陥れていた。
ヌンもまた奈落に囚われている。
どちらかといえば、これがマッコウの真の姿なのだろう。
「しかし、奈落神とはまた珍しい……」
奈落神とは奈落が神格化されたもの。
大地に穿たれた大穴、底が知れない谷底、どこまでも続く深い洞窟……。
こうしたものを畏怖する心から生じた神族だ。やがて地の底にある異界、冥府や地獄などを司る神族が現れ、その役目を譲り渡すことになる。
あるいは、奈落神が地獄神や冥府神という権能を得ていったものだ。
「奈落を司る神族など疾うに絶えたと思うとったが……」
最後の因子を引き継いだ灰色の御子、その子孫がマッコウである。
過大能力――【渇き飢え餓え貪りし冥低世界】
マッコウの過大能力は、ただ餓鬼を生み出すものではない。
その真髄は――自身が奈落になること。
有象無象に生み出される餓鬼は奈落が形を変えたもの。獲物を奈落へと引きずり込むための手先であり、奈落と一体化させるための触手なのだ。
奈落を開放したマッコウは周囲を冥い闇へと堕とす。
猛毒が肉体を蝕むように、奈落の闇を拡大しながら万物を飲み込んで己が一部へと変換し、どこまでも奈落という虚無空間を広げようとしていた。
ヌンはそれを阻止するため、最初は徹底的に抗戦した。
あらん限りの混沌より滴るものを使った。
それこそ使い果たす勢いで迫り来る奈落の闇と戦ったのだが、すべてを奈落へ堕とすと豪語するだけはあり、いくら攻撃をしても梨の礫だったのだ。
こちらの攻撃エネルギーすら貪り喰らう。
恐るべき貪欲さで、あらゆるものを消化吸収する。
いくら喧嘩巧者といえどヌンも老境に達した身、まだまだ若い者に後れを取るつもりはないが、老いから来るスタミナの低下は避けられない。
技術面では精緻を保てるが、肉体面での持久力はどうしても衰える。
人間でも神族でも魔族でもこの点は変わらなかった。
世界を侵食せんとするマッコウの奈落を阻止するべく戦い続けたものの、疲労が溜まってきた隙を突かれて引きずり込まれてしまったのだ。
無論、奈落から脱しようと努力した。
だが奈落はヌンの力まで貪る。
混沌より滴るものは出した側から吸収されていき、ヌンの“気”も闇に身を置くだけでどんどん削り取られていく。足掻いているうちに体力は底を突き、気力さえ奪い取られ、いつしか気を失っていたらしい。
微睡んでいるだけで衰弱する一方だ。
ここまでは思い出せた。しかし、ヌンにはもはや打つ手がない。
『……奈落にハマった時点でどうにもならないわよぉ?』
闇の方々からマッコウのダミ声が響いてくる。
『言ったでしょう? 奈落はすべてを貪り尽くす……蛙の王様、あんたが強い技を使えば使うほど、奈落はそれ養分のように啜って肥え太るのよぉ……』
おわかりぃ? と腹の立つ疑問形を押し付けてきた。
暗闇にぼんやりと白い残像の線が浮かぶ。
その線が輪郭を形作るのか、奈落の闇にマッコウの顔が描かれた。
暗闇に浮かぶ超肥満体オネエの顔面どアップ。
ヌンは気怠げな半眼のまま見据えると感想を述べる。
「……むさ苦しいのぉ」
『まぁだそんな憎まれ口を叩く余裕があるのぉ!? ったく、マスコットキャラみたいなカエル面のくせして、不貞不貞しいおじいちゃんねぇ!』
まあいいわ――どうせもう終わりよ。
勝利宣言をするマッコウは、これからにどうなるかを語り出す。
『遅かれ早かれこうするつもりだったしねぇ……あたしはこのまま世界中を貪り尽くしてやるわ。外でもそろそろ、ロンドさんが世界廃滅のために動き出すはず……奈落と破壊で真なる世界を蹂躙してあげようじゃないの』
――最悪にして絶死をもたらす終焉の最高幹部。
そう自負するだけのことはある。
ロンドの破壊神としての能力は尋常ならざる脅威だが、マッコウの奈落もまたそれに匹敵する。世界を破滅へ追いやるに十分な災いとなるものだった。
奈落を放置すれば、世界のすべては闇に葬られる。
そうして奈落へ墜ちた世界に、破壊神がトドメを刺すつもりだ。
奈落神はお望み通りに森羅万象を貪り尽くしたまま満足げに世界の終末へと辿り着き、破壊神は跡形もなく世界を壊して悦に入ることだろう。
『あたしが世界を貪って終わりにしてもいいし、ロンドさんが世界を壊して終わりにしてもいい。同時にやるのも楽しいし、貪り合うのも悪くないわぁ……』
「もしくは……互いを保険と見なしているのか……」
マッコウの呟きがそうとも受け取れた。
破壊神がしくじっても、奈落神が世界を闇へ堕として終わらせる。奈落神が誰かに負けても、破壊神がその仇を討って世界を壊して終了させる。
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ロンドは「実は何も考えてない」と評されるほど、行き当たりばったりな行動が目立つ無責任一代男だという話を聞くが、裏ではあれやこれやと変な手を打っている策士だという風評もある。
どちらが真実なのかは判然としない。
だが、こういう二段構え三段構えの策は打っているのかも知れない。
実際、バッドデッドエンズの一番隊を率いていた隊長も仲間内から「ロンドさんの保険」と呼ばれていたそうなので、複数人いるようだ。
――世界を廃滅させる引き金となり得る者。
ならば尚のこと、ここでマッコウを倒しておく必要がある。
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使命感にも似た感情が沸き、残り少ない気力を賦活させていく。
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「そんなこと……させるわけないじゃろ……」
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奈落の闇という虚数空間。
この空間は生きており、マッコウその物である。
これくらいの芸当は容易いだろう。
精神攻撃でとことんヌンを追い詰めるつもりらしい。
無数のマッコウは口々に喧しい嘲笑で煽ってくる。
『あたしの奈落に取り込まれて手も足も出ないくせにさぁ!』
『どんな攻撃でも奈落の虚数空間は貪るわよぉ!』
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『片っ端から飲み干して奈落に変えてあげるからぁ!』
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息子や娘たちも仲が良かったが、孫たちも頗る仲が良い。
仲良く手を取り合い、国の統治に励んでくれるはずだ。
水聖国家の穏やかな発展を夢見るヌンは、夢見心地に罪悪感を抱いた。
「ライヤ……すまなんだ……」
不甲斐ない祖父であることを孫娘に謝った。
直にヌンが退位して、ライヤが新たな女王となり王位を引き継ぐ。
戴冠式を心待ちにしていたが、残念ながらヌンは彼女の晴れ姿を拝むことができなさそうだ。そう考えると、心残りが次から次へと浮かんでくる。
心残りを数えていると、その元となった過去の記憶が甦ってきた。
これが――走馬灯と呼ばれるものだろう。
返す返すの未練とともに、これまでの記憶が脳内を一気に駆け巡る。
悲喜交々といった過去の日々が、早送りのダイジェストで場面毎にクルクルと流れていく感じだ。まさしく走馬灯であろう。
『人生とは壁の隙間を駆け抜ける白馬を見るようなものだ』
(※正しくは「白駒の隙を過ぐるが如し」といい、月日の流れる速さや、短すぎる人生の儚さを言い表した荘子の言葉)
……などと地球の言葉では言うらしい。
だが、生憎とヌンは神族。人間の百倍くらいは寿命が長い。
おかげで早送りのダイジェストな走馬灯だというのに、中々終わりが見えてこなかった。その分懐かしさに浸れるのはいいのだが……。
走馬灯がどれほどの時を遡ったのだろう。
不意にヌンの脳内が目映い光に包まれ、その中心に何者かの影を見た。
光に近付くにつれ、人影の輪郭がはっきりしてくる。
豊穣を地母神として相応しいワイドでふくよかな臀部、神々の乳母と呼ばれるに値する豊満で抱えきれぬほどビッグに盛り上がる乳房。
それでいて腰回りは嫋やかで細い。
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長い黒髪を足下近くまで棚引かせて優美に微笑む彼女は……。
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この恩をヌンは忘れたことがない。
一万歳を超えようとも、決して忘れ得ぬ御恩なのだ。
憧れの女性にして建国の恩人。
ハトホル様はヌンの長い人生を語る上で決して欠かせない女神だった。
「そ、走馬灯とはいえ……こうして再会できようとは……」
不覚にも大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちた。
本当に死ぬ間際なのか、ヌンは夢現を彷徨っていた。
もはや脳内の走馬灯なのか、現実の風景なのかもわからない。まだ奈落の闇に囚われているはずだが、視界を埋め尽くすのは燦然と輝く光しかない。
その中心に御座すのがハトホル様だった。
「ハ、ハ、ハッ……ハトホル様ぁぁぁぁ~~~ッ!」
いつしかヌンは走り出し、ハトホル様に飛び付こうとしていた。
蓄えた白髭が揺れるのも忘れて、童心に返ったつもりで彼女の豊かな胸へと飛び込んでいく。幼き日のヌンはよく彼女の胸に抱かれたものだ。
嬉しさのあまり感情を爆発させ、我を忘れてのジャンピングダイブだ。
ハトホル様の懐へ飛び込んだ瞬間――。
左の頬に思いっきり平手打ちをもらってしまった。
「ゲッ……ゲコォッ!?」
思いも寄らない返報にヌンは困惑しきりだった。
これが走馬灯が見せている幻覚ならば、もうちょっと自分に都合のいい展開になるのでは? と期待したのだが、思った以上にシビアへ寄せてきた。
ハトホル様の表情も険しい。
いつも慈愛に満ちた柔和な笑みを絶やさないはずのハトホル様が、眉根を寄せて顰めっ面だ。こんな表情をした彼女をお目に掛かったことがない。
……いや、少しだけある。
蕃神との戦争が苛烈を極めた頃、彼女はこんな顔をしていたはずだ。
ハトホル様は険の抜けない顔のまま美声を張った。
『しっかりしなさいヌン坊! こんなところで終わったらダメでしょ! あなたには大切な役目があるじゃない……神々の乳母との約束を忘れたの!?』
瞳を潤ませたハトホル様からお叱りを受ける。
彼女の発する一言一句が、ヌンには叱咤激励にしか聞こえなかった。
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そうとは知らずに、彼を追放した赤いバラは、今までシロウのサポートのお陰で強くなっていたことを知らずに、ダンジョンに挑む。だが、初めての敗北を経験したり、その後借金を背負ったり地位と名声を失っていく。
一方自由になったシロウは、新な町での冒険者活動で活躍し、一目置かれる存在となりながら、追放したマリーを助けたことで惚れられてしまう。手料理を振る舞ったり、背中を流したり、それはまるで押しかけ女房だった!
これは、チート能力を手に入れてしまったことで、無能を演じたシロウがパーティーを追放され、その後ソロとして活躍して無双すると、他のパーティーから追放されたエルフや魔族といった様々な追放少女が集まり、いつの間にかハーレムパーティーを結成している物語!
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