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第17章 ローカ・パドマの咲く頃に
第416話:瀧夜叉姫の末裔
しおりを挟むモミジは誰から生まれたかを知らない。
両親の顔を見たことはないし、類縁も聞いたことがない。
出自についてはお師匠様から情報として教えられたが、父や母がどういう人間で何をしていたのかまでは「よくわからない」とのことである。
ただ、まともな家庭や夫婦ではなかったことは窺える。
少なくとも、生後間もない幼児を捨てるくらいには修羅場だったらしい。
産まれた時から孤児だった。
物心ついた頃には施設を転々とする生活を送っていた。家族はおろか知人や友人もおらず、誰かと馴染んでもすぐ離されるように遠ざけられた。
俗にいう盥回しの扱いを受けていた。
ただ、そうなる理由をモミジ自身が抱えていた。
モミジは気になる人を見つけると、飽きることなく見つめる。注目される側も、子供の視線とはいえ無視できないので理由を尋ねる。
するとモミジは、その人の傍らを指差してこう告げるのだ。
『――あなたの隣に鬼がいる』
こんなことをいう気味の悪い子供だったらしい。
よく施設の大人たちを指差したそうだが、彼らは当初「大人の気を引きたくて、構ってほしくてやってるのだな」と解釈したらしい。
実際、そういう子供はいるそうだ。
生憎、あまりにも小さい頃の話なのでモミジはうろ覚えだった。もしも当時を知る人に言われたら「覚えてないです」で押し通す。
だがモミジの発言を皮切りに、気味の悪い事件が起きた。
鬼がいると指摘された人物を中心にだ。
それだけは認めよう。現場を目の当たりにしたのだから。
あるいは――事件を引き起こした張本人だから。
まずはラップ現象、家鳴りとも言われる奇妙な音が周りで鳴り始める。気のせいでは済まされない頻度で起きるようになる。
次いでポルターガイスト現象。
その人物の周辺でひとりでに物が動くなんてのは当たり前。酷いものになると冷蔵庫やタンスといった大型の家具が揺れ動いたり、薄いガラスやプレスチックなら割れたり砕けたりすることもあった。
更にオカルトチックな色合いが強くなってくる。
モミジに「鬼がいる」と言われた人の近くに、幽霊や悪魔のような、この世ならざる幻影が目撃されるようになるのだ。モミジの発言に引かれるためか、「頭に角が生えた鬼だ」という証言が際立っていた。
第三者までもが、鬼と認識できる怪しい人影を垣間見るのだ。
やがて鬼がいると指摘された人は異常を来す。
前触れもなく発狂したり、突然に精神を病んだり、すべてを投げ捨てて失踪したり……こうして並べるとネガティブな変貌が目立つのだが、中には嘘みたいに陽気になったりするポジティヴな変化も現れることもあった。
なんにせよ――人格が変わってしまう。
モミジにしてみれば、なんら不思議なことではなかった。
『――あなたの隣に鬼がいる』
これは気を引くための虚言ではない。
見たままを嘘偽りなく告げたもの。
指差した誰かの隣――そこに本物の鬼がいた。
モミジが目にした鬼は、最初こそ幽霊のように淡いものだ。だがゆっくり力を付けていくのか、やがて現実を脅かすほどの悪さをするようになる。音が鳴るラップ現象や、物が動くポルターガイスト現象はこの触りだ。
触りが次第に悪質な障りとなる……笑えない駄洒落である。
あれこそ他人の気を引くアピールなのだろう。
子供が大人の注意を引きたい、そんな行為に似ていた。
やがて鬼は隣にいる人間へ入ろうとする。
幽霊みたいな半透明の姿を重ねるようにして、傍らにいる人間の内側へ潜り込もうとするのだ。これは比較的時間をかけてじっくり行われた。
あるべきところへ収まろうとしている。
この過程にモミジはそのような印象を持っていた。
この段階になると、その人は奇行ともいえる態度の変化が目立つようになり、ついには元の人格が見当たらないくらいの変化を遂げてしまう。
モミジには一連の流れが目に映っていた。
何度か説明したこともあるが、大人は真剣に取り合わず聞き流すばかり。
あるいは薄気味悪そうに顔を背けるくらいだった。
『これ……私にしか見えてない?』
幼心ながら気付いたのは早かった方だと思う。
おかげで目まぐるしく施設を変えられる理由も、誰に言われるまでもなく察してしまった。当人まで聞こえてくる陰口を聞けば嫌でもわかる。
――鬼を視る子。
鬼がいると宣告された者は遠からず破滅する。
モミジは孤児を預かる養護施設の関係者の間では、都市伝説の怪物じみた忌み子として扱われていることを知った。出物腫れ物どころではなく、特級呪物みたいな超が付く危険物として恐れられていたのだ。
そんな危険人物な幼児、なるべくなら預かりたくはないだろう。
盥回しにされるのは日を追うに連れて早くなった。
『我ながら回転率のいい子でした』
モミジには鉄板の滑らない話なのだが、いまいちウケが悪い。
若旦那には「ブラックが過ぎる」と窘められた。
自分の見るものが異端であり、大人から嫌悪されているという自覚は幼いモミジにもあったが、対策を打てるほど成長もしていなかった。
その頃は就学前の幼児――無理な話である。
それでも周囲の態度がヒソヒソ話から学習することはできた。
『あ……鬼が見えることを言っちゃいけないのか』
聡い子だったモミジはそれに気付くと、たとえ鬼が見えても黙っていることにした。下手に口を開かないよう無口にもなっていった。
だが、事態はなんら好転しない。
相変わらずモミジには鬼が見え、怪現象が起こり、誰かが変貌する。
言おうが言うまいが、鬼はお構いなしに現れた。
おかげでモミジの「鬼を視る子」という悪名は広がる一方だ。
施設の大人たちは「鬼を見られて人格を崩壊させられては堪らない」と、モミジには極力関わらないため、必要最低限の接触しかしない。その空気は子供たちにも伝播し、モミジには誰一人として近寄ろうとしなかった。
言い忘れたが――子供にも鬼は現れる。
そこに例外はなく、幼くても鬼によって壊されていた。
この噂も方々に流れており、タチの悪いいじめっ子ですらモミジに近寄ろうとはしなかった。危機管理能力のないアホの子の末路は言うまでもない。
被害者が増える度、モミジから人は離れていく。
元より孤児だったモミジは養護施設という場ですら孤立し、人との情を交わすことすら許されない孤独を強いられた。
親子の情愛はおろか、人と人との触れ合いすらない。
そんな幼少期を過ごしたモミジは感情表現が下手くそとなり、あらゆることに無感動に接して、ろくに口も開かない無愛想な子供になっていた。
――寂しい。
ありきたりな感情さえ、幼いモミジはわからなかった。
他人の優しさや温かさに触れるという体験があまりにも乏しかったため、寂しいと感じるだけの感性を育めなかったせいだ。
それでも小さな心は、優しさに餓えて、寂しさに泣いていた。
だが、解消する術はどこにもない。
施設の大人たちは鬼を見られるのを恐れて最低限の世話しかしてくれず、同じ身の上である孤児たちですら距離を置いて会話さえもしてくれない。
小学生に進学する頃、モミジはすべてに諦めかけていた。
生きているだけでいい。でも、どうして生きているのかわからない。
ただ、何事もなく毎日を静かに送ることだけに専念した。寂しいとか甘えたいとか泣きたいとか、そういう年相応のリアクションすら忘れてしまった。
生きて、食べて、寝て、起きる。
心を揺れ動かすことなく、淡々とそれだけを繰り返す毎日が続いた。
ある日、モミジは嫌なことに気付いてしまう。
『誰かの隣に鬼がいるから……その人がおかしくなるんじゃない』
『私が鬼を見つけるから、その人がおかしくなるんだ』
『あの鬼は人の心の中にいて、私はそれを引きずり出しているみたい』
漠然とだが、この因果関係をモミジは理解した。
そして確信してしまう。
鬼を見ることができる能力――鬼を実体化させる能力。
この2つがセットで自分には備わっていた。
自覚したところで、モミジにはどうにもならない。
実体化させた鬼を自由に操れる能力がこの頃からあれば、モミジのその後の人生は大きく変わっていたに違いない。
少なくとも四神同盟側にはいなかったと思う。
恐らく、最悪にして絶死をもたらす終焉の側にいたはずだ。
そういう荒んだ道を選んだに違いない。
人の心を壊すほど、それまでの生き方を全否定して新たな有り様へと目覚めさせるほど強い力を持った鬼。そんなものを操れたりしたら……。
きっと、ろくな人間になれやしない。
幼いモミジは鬼を視覚的に捉え、色や形を与えるのが精々だった。
思春期の峠を越えて大人になりかけた今では、あの頃に操る能力を持っていなくて本当に良かったと思っている。おかげでお師匠様や大旦那様に拾われて、若旦那と出会うことで、真っ当な人間になれたのだから……。
異なる未来を想像しただけ身震いしてしまう。
鬼にまつわる異能に気付いたのは、小学校1年生くらいの頃。幼児ではないとはいえ、まだ一人では何もできないお子様である。
大人でも理解できない能力に気付いたところで対処しようがない。
『私が誰かを見ると、鬼を引っ張り出してしまう』
『なるべく他人を見ないようにしよう。口も利かないようにしよう。関わり合いも持たないようにしよう……鬼が出ても私のせいじゃない振りをしよう』
そうしないと――私はどうにかなってしまう。
一番怖いのは、周囲の人間にどうにかされてしまう可能性だ。
魔女狩りなんて言葉はまだ知らなかったが、いつか大勢の人々に追い立てられ、そのまま亡き者にされる悪夢を何度も思い描いてしまった。
有り得ない話ではない。
天涯孤独の孤児一人、人知れず片付けるのは容易いだろう。
感情は薄いが、それでも死ぬのは怖かった。
鬼を視る子、呪われた子、鬼の忌み子、魔女の子、鬼女の娘……。
モミジを指す悪口はバリエーションを増やし、児童保護や孤児の世話をする業界では知らぬものはいない厄ネタとして扱われた。
もう誰もモミジの面倒を見れない、いいや見たくない。
すべての養護施設が声をそろえてモミジの預かりを拒否しかけた矢先、モミジと養子縁組したいという奇特な夫婦が現れた。
痩せ馬みたいなひょろりとした男と、肥え豚みたいに太った女だった。
孤児を引き取り――養子として家族に迎え入れる。
これには一定以上のなかなか厳しいハードルが設けられているはずだ。引き受ける夫婦の事情や家庭環境のみならず、様々な公的証明を果たさなければ子供を預かることはできない。クリアすべきものはいくつもある。
だが、その夫婦はどうやら多額の金銭で解決したらしい。
施設の職員たちが「ぎょええええーッ!」なんて声を上げて仰天するほどの大金を積んで、人身売買紛いの違法スレスレの真似をしたそうだ。
ほとんど強引にモミジを引き取ったという。
施設側も「厄介払いができる!」と喜んだのは想像に難くない。
モミジはその夫婦とすぐさま養子縁組をさせられた。
衣食住は不自由せず、蝶よ花よといった具合に可愛がられ、夫婦はモミジに不快な思いをさせないようにと誠心誠意に尽くしてくれた。
ただし、ある約束を守らされた。
『――その魔眼で絶対に私たちを視ないこと』
魔眼の意味がわからず、当初は混乱したと記憶がある。
義母となった女性はこれをモミジに言いつけると、視界を遮るための目隠しをつけて生活することを強要してきた。
それでも生活には困らない。義理の両親がすべての世話を焼いてくれた。
日が経つと、彼らの魂胆が見え隠れしてくる。
『鬼を視る子だっけ……こんな子を貰ってきてどうするんだよ?』
あんな大金まで払って、と義父のぼやきが聞こえる。
義母は叱りつけるように言い返した。
『本当にバカだねあんたは……魔眼持ちなんてこの業界にも滅多にいない超レアな天然素材なんだよ? 有効活用しないでどうするのさ』
『活用するも何も、制御できてないって話だろ』
『そこをなんとかするのが、二流とはいえ拝み屋で食ってるあたしたちの仕事じゃないか。なぁに、どうしても使いこなせないとなれば、呪いたい相手をこの子に睨ませるって手もある。使い道はいくらでもあるさ。頭を使いなよ頭を』
どうやらオカルトな方面の業界関係者だったらしい。
この頃にはモミジも拝み屋とか退魔師といった、心霊系のトラブルに対応できる人がいることは知識として身につけていた。
神社やお寺でお祓いを受けさせられた経験のおかげである。
そういうことをした施設の職員もいたわけだ。
詳細まではわからないが、義理の両親たちがモミジも持て余している能力を利用することで、一山当てようと目論んでいるのは理解できた。
必要なのは、鬼に関係する能力のみ。
モミジはおまけでしかない。子供として求められたのではなかった。
正直、この養子縁組には期待をしていた。大きくなるにつれて家族というものに憧れを抱くようになり、知識が増すにつれて寂しさを理解したからだ。
いくら感情が薄くても、モミジだって人の子である。
子供心はいつも愛情を求めていた。
見てくれこそイマイチだが、こんなに優しくしてくれる人たちなら家族になってくれるかも……そんな希望を幼心が抱かないわけがない。
義母たちの思惑を知った途端、希望は淡くも打ち砕かれてしまった。
『…………まあ、それでもいいです』
絶望に打ちひしがれるも、諦めの境地からの立ち直りが早いのがモミジのいいところだ。生まれた時から孤独で慣らしてきたメンタルの強さである。
腹に一物あろうとも、必要とされるだけマシだ。
目隠しの生活をさせられるが、美味しいものは食べられるし、好きな服は着せてもらえるし、家もあって自分の部屋まである。義理の両親の言うことを聞けば、それなりに大切にしてもらえる。
この能力が悪用されるかも知れない。誰かを傷付けるかも知れない。
その事実に怯え惑うも、仮初めの家族に絆されてしまう。
針の筵みたいな施設での日々とは比べるまでもない。
愛情のない家族に囲われ、道具として使われながら生きることも……。
見ず知らずの人に鬼を視て、呪い殺す真似をすることも……。
誰かと仲良くなることはおろか、笑い合えることもできずに……。
これからは義理の両親に命じられるがまま、唯々諾々と生きていけばいい。
それで生活は保障され、家族の愛情を味わえるのだ。
もう寂しい思いをしなくていい。
若干6歳にして諦念を覚えたモミジは、そう自分に言い聞かせた。
だが――転機は訪れた。
義母がモミジをお披露目した日の出来事だった。
彼女は多くの業界関係者を集めるとモミジの魔眼を喧伝し、「御用向きの折には我々に連絡してほしい」などと顧客を募っていた。
御用向き=鬼を視る魔眼での呪殺という意味だろう。
広めの大きめの会場で、意外と大々的にお披露目式を行っていた。
モミジは御札のような目隠しで両眼を覆われていたので、その場で何が起きたのかは目撃していない。ただ、凄まじい荒事があったのは感じた。
突如、絶叫が迸った。
何らかの脅威が会場に殴り込んできたらしい。
絶叫はすぐに連鎖し、野火が広がるように会場を埋め尽くす。
どうやら血で血を洗うような乱闘が起きているらしい。
ただし、一方的な虐殺に近い。
暴力の化身が暴れている――そんな風に感じた。
モミジの耳に木霊したのは泣き叫ぶ悲鳴や逃げ惑う嗚咽、中には立ち向かうために雄叫びを上げる者もいたが、肉と骨をまとめてミンチにする重厚な殴打音とともに静かになった。時折、綺麗な爆発音もした気がする。
屋内とは思えない爆風が肌に打ち付ける。
最後に義母と義夫の情けない悲鳴が聞こえ、バタバタと聞き覚えのある2人の足音が遠退いていくのがわかった。
この状況で、モミジを置き去りにして逃げたのだ。
所詮その程度の関係か……諦めはついたが泣きそうだった。
乱闘騒ぎは終わったのか、静まりかえる会場。
目隠しをされたモミジの眼前には、巨大な気配が立ち尽くしている。彼か彼女かは知る由もないが、この荒事を引き起こした張本人に違いない。この場に集まった人々を暴力で追い出した、とんでもなく恐ろしい人なのだろう。
――本当にそれは人間か?
それこそ本物の鬼ではなかろうか? モミジは恐怖に震え上がる。
『……目隠しを取るぞ』
眩しいかも知れないから気をつけなさい。
口数こそ少ないが、そんな気遣いを感じられる声が届いた。太く響く重低音ではあるものの、久し振りの誰かの優しさに触れられた気がする声だ。
目隠しを外され、恐る恐る瞼を持ち上げる。
モミジの前に立っていたのは――山のような巨人だった。
当時はまだ100㎝もない幼女だったモミジにしてみれば、2m越えの大男なんて巨人でしかない。思わず身をすくめて腰が引けてしまった。
巨人のような大男は困ったように苦笑する。
『怖がらせたかな……無理もない、少々荒っぽかったか』
武骨だけど少年のようにあどけない笑顔だった。
その優しい笑顔にモミジは見蕩れ、知らず知らず安堵の吐息を漏らした。
これが山峰大央――エンオウの父、最強の大天狗と恐れられた男。
モミジにとって大旦那様との出会いである。
久し振りにちゃんと目を開いたモミジは、キョトキョトと辺りを見回す。目を皿のように大きく開いたまま絶句した。
竜巻が通り過ぎても、ここまでの惨状にはならないだろう。
まさに暴力の化身が駆け抜けたかの如きだった。
壁にはいくつものクレーターや穴ができており、そこに得体の知れない怪しそうな人物が何人もめり込んだまま気絶していた。血飛沫や得体の知れない液体がそこら中を濡らしており、よくわからない肉塊まで散らばっている。
……本当に何があったの?
激しい戦いが繰り広げられたのはわかる。
その惨劇の一端を作り上げたのは、目の前にいる巨人のような大男。
そして、もう1人は――。
『仕方ないですよ。あちらも結構な玄人揃いでしたからね。こちらも本気で対応しないと、足下を掬われかねませんでした』
――小柄だけどスタイルのいいお姉さんだった。
巨人な男性とは対照的なくらい小さい。成人していると思うのだが、高校生……いや中学生でも通りそうな、若々しくもコンパクトな女性だった。
大きな丸眼鏡をかけているのが印象的だ。
これが山峰円――エンオウの母、最後の大魔女と謳われた女。
モミジにとってのお師匠様との出会いである。
2人はモミジを前にして話し込む。
『この子がおまえの言ってた子か? 確か滝姫、いや夜叉姫……』
『瀧夜叉姫――その血に連なる末裔の子です』
瀧夜叉姫とは伝説上の鬼女、あるいは魔女とされる人物。
あの平将門の娘である。
関東周辺での権力争いに巻き込まれ、何もしないしてくれない中央政権の怠慢に嫌気がさし、ついには自らを“新皇”と名乗って兵を挙げ、日本全土に未曾有の大乱を起こすきっかけとなった伝説の武将。
瀧夜叉姫とは、その平将門の遺児とされる姫君だ。
本来は瀧姫、あるいは五月姫というらしい。
実際には将門の関係者ながらも処刑を免れており、尼寺に預けられて静かな余生を送ったとされている。だが、奇妙な伝承も言い伝えられていた。
彼女が類い希なる妖術使いだという伝説だ。
父である将門は討たれ、一族郎党も皆殺しの憂き目に遭った。
たった一人生き残った五月姫は恨みと怒りに狂い、丑の刻参りの呪詛で名を馳せる貴船明神の荒御霊から妖術を授かると、大勢の部下を率いて中央政権を転覆させるために暗躍したとされている。
この時、名前を瀧夜叉姫と改めたらしい。
彼女が貴船明神の荒御霊から授かった妖術とは魔物を操るもの。
大量の骸骨を呼び出して兵隊にする、それらの骸骨を合体させて巨大ながしゃどくろを造り出す、魑魅魍魎を喚び出して敵に襲いかからせる……。
そして、鬼を召喚することもできたという。
モミジ・タキヤシャのハンドルネームは彼女に由来する。
お師匠様は残念さを滲ませて呟く。
『紅葉の系譜は絶たれてしまったそうだけど、瀧夜叉の系譜はどこかで傍流が残っているはず、と随分前からまことしやかに囁かれていました』
『ここ最近ずっと調べていたのはそれか』
そうです、とお師匠様は大旦那様に頷いていた。
『ようやく見付けたと思った矢先、どこぞの三流呪術師コンビが変な噂の方を嗅ぎつけて、トンビが油揚げかっさらうみたいに連れてかれちゃいましたけど……悪用される前に保護することができて良かったです』
お師匠様はしゃがみ込んでモミジと目線を合わせてくれた。
『もう大丈夫だからね、平良紅葉ちゃん』
本名をフルネームで呼ばれたのはどれくらい振りだろう。
大旦那様に負けず劣らず人懐っこいお師匠様の笑顔に、モミジの凍り付いた心も蕩けそうになる。だからこそ、モミジは彼女から視線を逸らしてしまった。
こんな素敵な人に――鬼を見ちゃいけない。
鬼の犠牲になんてしちゃいけないんだ! とモミジは両眼を瞑った。
瞼を閉じるだけでは物足りず、両手で目を覆い隠す。
『あの、私……人を見ると鬼を出しちゃうから……ごめんなさい』
合わせる顔がない、とばかりにモミジは顔を逸らす。
お師匠さまは「あ、そうか」と何かを察した声を上げた。そしてモミジの小さな肩に両手を乗せ、安心させるように言い聞かせてくる。
『私たちなら大丈夫よ、あなたの言う鬼を飼い慣らしてるから』
『……え? か、飼い慣らすって……?』
おっかなびっくり眼を開いたモミジは驚愕してしまった。
大旦那様とお師匠様を改めてマジマジと凝視してみる。すると、どちらも鬼を見る時に感じる独特な燐光を総身から立ち上らせていたのだ。
その輝きは今まで見たものと比べ物にならない。
神々しい明るさは、後ろめたい闇を吹き払うように力強いものだ。
鬼の燐光ではなく神の閃光だと感じた。仏像が背負っている光背のように、彼らの威徳が光となって現れているのかも知れない。
たとえ鬼だとしても鬼神、邪気を払う天部という護法だ。
『ほらね、大丈夫でしょう?』
丸眼鏡の向こう、お師匠さまはチャーミングにウィンクした。
『俺たちは鍛えているからな』
大旦那様は言葉の意味こそよく通じないものの、とにかくすごい自信満々に言っていた。見たこともない筋肉量には相応の説得力があった。
実際、筋肉による暴力でこの場を解決したのだ。
モミジの眼を悪事に使おうとした連中を一掃したらしい。
お師匠様も魔術で手伝ったそうだが、九割方は大旦那様の実力行使でわからせられたという。軽く40人はいたと思うのだが……。
『あなたの能力は、人間の内に眠る鬼神を目覚めさせてしまうのね』
『鬼神……鬼じゃなくて?』
モミジの素朴な疑問にお師匠様は答えてくれた。
『鬼となり神となるもの、そのどちらにも成り得る力よ。だから鬼神と呼んだ方がいいと思って……多分、解釈次第では色んな呼び方ができると思う』
本来、それは純粋な力に過ぎないという。
ただし、あまりにも強すぎて脆弱な人間は受け止められない。
その正体についてお師匠様は熱弁を奮う。
『それは生物が太古から繰り広げてきた生存競争に基づく闘争本能に由来する原始的な本能とも言えなくもないし、すべての人類の根底に息づくとされる集合的無意識から湧き上がる破壊衝動なのかも知れないし、もっと高次元からもたらされる神秘の領域を感得するために降ろされた一本の蜘蛛の糸かも……』
『待て待て待て、円ストップ。子供には難しすぎる』
俺も六割ぐらいしかわからん、と大旦那様の制止が入った。
実際、当時7歳くらいのモミジもちんぷんかんだ。
『あ、ごめん。つい蘊蓄たれの血が騒いじゃって……コホン、とにかく、人間の中に眠っているスッゴいパワーってわけなのよ』
『そのパワーが……あたしには見えて、引きずり出しちゃう……ですか?』
『お、飲み込みいいね。いいよー、ナイスな魔女センス』
小さい頃の私そっくり♪ とお師匠様は上機嫌でモミジの頭を撫でた。
お師匠様は立てた人差し指を振って講釈を続ける。
大旦那様に注意されたせいか、幼いモミジにもわかりやすくだ。
『神威あるいは神意か……とにかく神や鬼の名前を使いたくなるほどの強大なこの力はね、誰の心の内にも眠っているものなの』
滅多なことでは呼び起こせないし、覚醒することもない。
『一生眠らせたままの人が大半よ。その方が人間として幸せに暮らせる』
ただ、目覚めさせる人も少なくはない。
『歴史に名を残した偉人や英雄は、大概目覚めさせてたでしょうしね』
一方、覚醒に失敗した者も数え切れない。
そういった症例は昔話や伝承に言い伝えられている。
怒りのあまり鬼になった人の話、怨みのあまり蛇になった人の話、何らかのルールを破ったがために竜となった人の話……そうでなくとも人間から人間以外のものに変身したという話は枚挙に暇がない。
こうした話は、内なる鬼神を目覚めさせた結果だという。
『魔女的な目線で言わせてもらえれば、典型的な悪例ね』
内なる鬼神に耐えきれず、心身ともに劣悪な変異をもたらしたとのこと。
『程度の差はあれど、正しく覚醒させれば無類の力になるものよ』
変性意識状態――というものがある。
極限を超えた修行、深く静かに己を無にするかの如き瞑想、このような想像を絶する過負荷を肉体や精神に与えた時になるという特殊な精神状態だ。
(※薬物の使用によっても発生する場合もある)
宇宙との一体感、全知全能の感触、多大なる至福感。
こうしたもので心が満たされるという。
異常なまでに集中力が高まり、世界からもたらされる情報すべてを感じながら置き去りにして、自身の感覚がひたすら鋭敏になっていく。集中力は天元突破しているのに、それを負担に感じないほどのリラックス状態。
そして、現在進行形の活動にかつてないパフォーマンスで挑むことができる。
スポーツ業界でよく囁かれる「ゾーンに入る」という現象。
『ゾーンもある種の覚醒……それも初歩の初歩ね。ゾーンを超える覚醒体験。絶大な力が身の内から湧き上がる感覚には誰もが翻弄されるでしょう』
ここで勘違いすると、やっぱり暴走してしまうらしい。
『超サイヤ人になれたと思い込んで空を飛びたがり、アイキャンフラーイ! とか叫びながら高層ビルの屋上からダイブしちゃったりするかも』
『傷ひとつないぜ俺たち、ってわけにはいかんなそれは』
俺でもかすり傷は負うぞ、と大旦那様は自嘲気味に苦笑していた。
かすり傷で済むですか……と子供心に感心したものだ。
『そうした状態をいくつも段階的に経て、人は内に眠る鬼神という神意を目覚めさせることで、様々な力を身に付けられるの……たとえば私たちみたいに』
大旦那様は大天狗と呼ばれ、お師匠様は魔女と呼ばれていた。
お二人の血筋がそういうものに目覚めやすい素質を備えた一族というのもあるが、自らの血に眠る力を覚醒させたのはご本人の努力によるものだ。
だが、モミジの能力はそれを簡略化する。
『あたしが見たら……その眠ってる力が鬼になって出てきちゃう?』
一足飛びに飛び越えてしまうのか、踏み越えていくべき段階を全部すっ飛ばして、最終段階にある力を鬼神という形で出現させる。
『残念だけど、そういうことらしいわね……異質な能力だわ』
お師匠様は同情の眼差しでモミジの瞳を覗き込んだ。
『まだ調査中だから多分と前置きさせてもらうけど、あなたは瀧夜叉姫の傍流……本家から枝分かれした血筋よ。でも隔世遺伝なのか、御先祖様の力がおもいっきり発現しちゃったみたいね。しかも、まだ成長過程にあるから不安定だわ』
本来ならば、他人の鬼神を目覚めさせる能力。
当人に適した段階まで鬼神の力を引き出し、肉体や精神を破壊することなく増強するに留め、潜在能力を発揮できる超人にすることができたはずだ。
ただし、容姿は多少なりとも変わるだろう。
人によっては鬼や化け物と呼ばれるほど変わるに違いない。
その過程でナチュラルに主従関係の契約を結び、鬼神の力に覚醒した強者を手懐けて配下にできる能力になるらしい。
瀧夜叉姫がそうした妖術使いだったように――。
魔物の軍勢を操った滝夜叉姫だが、普通に人間の家来もいた。
夜叉丸や蜘蛛丸と呼ばれた野盗まがいの連中だ。彼らは常人離れした怪力を有し、滝夜叉姫とともに朝廷転覆のために暴れたという。
彼らは滝夜叉姫の能力で覚醒を促された超人かも知れない。
この場合、鬼人とでも言うべきだろう。
『つまり……この子は瀧夜叉姫と同じ妖術を使えるというわけか』
『いずれそうなるでしょう。でも、今はまだ心も身体も未成熟すぎて使いこなせていません。完全に持て余しちゃってますからね』
大旦那様がシンプルにまとめ、お師匠様が補足を添えた。
『ひとまず、鬼神を引き出す魔眼だけでもなんとかしないと……』
お師匠様は肩から提げた鞄の中に手を入れ、ゴソゴソと何かを探している。目当てのケースを見つけると、箱を開けて中から眼鏡を取り出した。
レンズの大きい丸眼鏡――お師匠様と同じものだ。
『はいこれ、私のスペアを改良したんだけど……ちゃんと魔眼封じよ』
試しに掛けてみて、とお師匠様は眼鏡を顔に宛がってきた。
おどおどするモミジだが、お師匠様の善意を疑う気持ちになれない。されるがまま眼鏡を掛けると、すぐに視界がクリアになった。
度が入っているわけではない。自慢じゃないが視力はいい。
ただ、お師匠様の眼鏡越しに見る世界からは、鬼神の存在を匂わせる燐光が綺麗さっぱり消えていたのだ。大旦那様やお師匠様から放たれる神々しい光さえも目には映らない。ありのままのお二人を拝むことができた。
この眼鏡があれば――もう鬼を見なくても済む。
『見え、ます……お兄さんとお姉さんが、ちゃんと、見えます……ッ!』
ずっと悩まされてきた苦しみから解放されたモミジは、震えが止まらない声でそう訴えると、思わず涙ぐんでしまった。
お師匠様は「うんうん」と満足げに微笑んでいる。
すると大旦那様がわざとらしい咳払いをして、お師匠様の気を引いた。
『おっと、そうでした。こんな余所様の縄張りで大暴れしたっていうのに、のんびりお喋りしてる場合じゃありませんでしたね。目的も済んだことですし』
一緒に来ない――紅葉ちゃん?
『…………え?』
思いも寄らない提案に、モミジはその日2度目の絶句をしてしまった。
お師匠様は気にすることなく理由について語り出す。
『私の家系も古くから魔女の末裔とか言われててね。他の魔女や鬼女の家系はほとんど死に絶えて、今では私が最後の魔女とか呼ばれてる始末なんだけど……もう私一人じゃないってわかったからね。そりゃ親近感も湧くってものよ』
良かったら――ウチの子にならない?
お師匠様の口から、立て続けに予想外の台詞が飛び出してくる。
突然すぎてモミジは唖然呆然するしかなかった。
そんなモミジの心中を慮るように、お師匠様は母親のように慈愛のある笑顔を湛えると、ゆっくり噛んで含めるように言い聞かせてくれた。
『あなたの本当のお母さんやお父さんにはなれないかも知れないけど、二人に代わってあなたを守ってあげるくらいはできるわ。大丈夫、心配しなくていいの。ウチにもあなたと同じくらいの年の頃の子がいるんだから』
一人育てるも二人育てるも一緒よ、とお師匠様の言葉は頼もしい。
『……というか、本当だったらダース単位で子供が欲しかったんだけどね、私たちみたいな人種って子供ができにくいらしいのよ』
『ゴホン! ゲホンゴホンッ!』
いきなり大旦那様が慌てて咳払いを繰り返した。
少年みたいな顔も真っ赤だ。何か、余程のことがあったらしい。
『だから、紅葉ちゃんがウチの子になってくれたら、それはそれで嬉しいなーって思ったわけ。私の魔女としての技術も受け継いでくれたら尚のこと……決して無理強いはできないけど、あなたさえ良かったら……どうかな?』
約束する、とお師匠様はモミジに誓ってくれた。
『寂しい思いはさせないわ。勿論、不自由にもね。窮屈だと感じたり、私たちが嫌だというなら、ちゃんとしたところを紹介することもできる』
少なくとも――こんな悪党どもの好きにはさせない。
『ひとまず家に来るといい』
口を挟まずにいた大旦那様も柔らかい声で説得してくれた。
『身の振り方は落ち着いてから考えればいい。俺たちには君を養える余裕があるし、円は君を助ける縁を感じているんだ』
遠慮することはない、と大旦那様は大きな掌を差し出してくれた。
モミジは泣いた。大粒の涙をこぼして泣いた。
こんなに親身になってもらえたのは生まれて初めてだった。
鬼を見る能力の副産物で、モミジは他人の心の機微を察することに長けていた。読心術ではないが、相手の気持ちを感じられるのだ。
発言に伴う燐光の動きで、本心で思っていることに勘付ける。
態度につきまとう燐光の変化から、どう考えているかが読み取れる。
完璧にではないが、心の方向性くらいは把握できた。
無理やり養子縁組をしてきた義理の両親たちに、いまいち心を開けなかった理由がここにある。彼らの魂胆と性根がわかってしまったからだ。
大旦那様とお師匠様の言葉は――すべて本音だった。
お師匠様は本心から「ウチの子になってほしい」と打ち明けてくれているし、大旦那様は「ウチで面倒見てやるから心配するな」と諭してくれていた。
こんなに優しく迎えられたのは初めてだった。
『な、なりたいです……お二人の子供に、なり、たいですっ……ぅッ!』
だからモミジも涙ながらに本心で訴えた。
こうして――モミジは山峰夫妻に引き取られた。
お師匠様はあらゆる手管を使って、三流の呪術師コンビの夫婦からモミジの親権を取り上げたそうだ。そこからちゃんと正規の手続きを踏んで、モミジを正式に山峰家の養子として縁組してくれたらしい。
初めて山峰家を訪れた日が、若旦那との初顔合わせでもあった。
若旦那――山峰円央である。
当時のモミジからすれば若旦那は「お義兄ちゃん」だ。それをいったら大旦那様は「お義父さん」で、お師匠様は「お義母さん」となるだろう。
しかし、モミジはこれらの単語を使ったことはない。
――大旦那様、お師匠様、若旦那。
山峰一家をモミジがこう呼ぶのは一種の照れ隠しである。
養子縁組も済んで、モミジも「お世話になります」と山峰家の一員になりたい旨を告げると、お師匠様は「私たちのことはママやパパと呼んで!」とモミジを実の娘以上に、場合によっては実の息子よりも溺愛してくれた。
大旦那様は武骨なお人柄なので、あまり目立ったことはされない。それでも遠出する度、女の子向けのお土産を山ほど買ってきてくれた。
おかげでモミジの部屋は、ぬいぐるみで埋もれかけたくらいだ。
お二人ともドン引きするほど猫可愛がりしてくれた。
実子である若旦那を蔑ろにするくらいだから余っ程だ。お師匠様は「男の子だと可愛がり甲斐がなかったから女の子が欲しかったー!」とよく仰っていた。
紅葉を抱き締めて頬擦りしながら、若旦那の目の前で堂々とである。
……若旦那、よく臍を曲げなかったと思う。
その若旦那もモミジを妹として世話を焼いてくれたので、一族総出で娘を甘やかしかっただけかも知れない。
とにかくモミジは大事にされ、一人娘のように愛された。
あまりに愛情を注がれた反動でモミジから一歩退いてしまい、どうしても「お母さん」「お父さん」「お兄ちゃん」と呼ぶことができなかった。
最初の引き取り手だった三流呪術師コンビでさえ、そう呼んだことはない。
モミジはお師匠様も大旦那様も尊敬している。
若旦那も兄として、一人の男性として敬愛している。
彼らが愛してくれる以上に、彼らを本当の家族として愛しているのだ。
だからこそ――父や母や兄と呼べない。
心の底から慕うのに、そうお呼びすることが憚られてしまう。
そこでモミジは代替策を見出した。
多分、児童向けの小説とかで仕入れた知識だろう。
父である山峰大央を家長で一番偉いという理由から「大旦那様」と呼び、母である山峰円をモミジに魔術を教えてくれるから「お師匠様」と呼ぶ。
尊敬の念を露わにした、モミジからの尊称である。
……お二人とも許してくれたけど、ちょっと受けが悪かった。
この流れで円央も「お兄ちゃん」とは呼べなくなり、大旦那様の息子だから「若旦那」と呼ぶのが定着してしまった。
モミジは山峰家の応接間で若旦那と初めて対面した。
『紅葉ちゃんだ。今日からおまえの妹になる』
ええっ!? とモミジは驚きの声を上げてしまった。
大旦那様は細かい説明をすべて省き、「家族になるから可愛がってあげなさい」と要点をシンプルにまとめて若旦那に伝えていた。
シンプルを求めるが故、アバウトなのが大旦那様の悪い癖だった。
そんな大旦那様の血を若旦那も継いでいる。
『わかった。じゃあゲームして遊ぼう』
大旦那様の性格をわかっているのか似たもの同士なのか、若旦那は詳細を問い質すこともなく、ありのままを受け入れてモミジを手招いてくれた。
そこには疑いや警戒の心など微塵もない。
新しい友人として迎え、父の言葉を信じて妹のように接してくれた。
『一人で遊ぶのも飽きてたんだ。妹、大歓迎だよ』
若旦那は屈託なく笑った。
この頃から若旦那は、まっすぐな性格と優しい心を持っていた。笑顔でモミジの手を握ると、自分の部屋へ案内してくれた。
鬼を見る子と疎まれ――魔女の娘と忌み嫌われた。
モミジの手を離さぬように握り、そちら側へと引っ張ってくれたのだ。
この日、モミジは本当の意味で山峰家の一人となった。
~~~~~~~~~~~~
過大能力――【貴方の傍らに侍るは幽く強き想念の鬼神】。
人の内に眠る鬼神を視て、その鬼神を具現化する能力。
現実にいた頃から瀧夜叉姫の末裔として備えていた能力が、真なる世界に転移した後に過大能力として再覚醒したものだ。
能力的に拡張もされていた。
他者の内側に眠る力を、鬼神という形で発現させる。
これは過大能力が発動するとともに、無差別かつ無秩序に行われる。
モミジの近くにいれば否応なしに巻き込まるのだ。
高度の防御術を使わない限り、完全に防ぐことはできない。事前に発動すると教えられていなければ、鬼神の具現化を妨害するのはほぼ不可能。
現れた鬼神は誰の命令も受け付けない。
喚び出したモミジの指示は勿論のこと、その鬼神を心の奥底に眠らせていた本人の意のままにもならない。実体を得た鬼神は激情の赴くままに暴れ、モミジに襲いかかることもあれば、本体を殺そうとすることさえある。
その行動原理は混沌として凶暴極まりない。
ゆえに誰にも制御することはできず、暴虐の限りを尽くすのだ。
もしも当人が鬼神を制した場合――。
鬼神は当人の心の内へと還ることができ、それは強大な力へと変換されて素晴らしいパワーアップをもたらすだろう。
上手に使えば超レベルアップを促す成長系の能力にもなるはずだ。
ただし大抵の場合、鬼神に殺されるのがオチである。
鬼神の強さは半端ではなく、生半可な覚悟では返り討ちになるのがオチだ。そして、それだけの力量がある人は自ずと覚醒を済ませている場合がほとんど。
覚醒まで後一歩……そんな人にはオススメできるかも知れない。
あるいはモミジが鬼神を制した場合――。
鬼神を構成する霊的なデータを回収することができ、それらの情報はモミジが操作する巻物へ記録され、魔力を注げば護法神として召喚できる。
この作業をモミジは“調伏”と名付けていた。
若旦那の助けがあれば、強力な鬼神でも調伏は容易である。
(※モミジに鬼神を調伏された人間は元に戻る。多少なりとも精神的肉体的な解放感を得られるが、自身の力で鬼神を抑え込めた人間ほど強烈な覚醒パワーアップは望めない。モミジの操る護法神はあくまでも鬼神の写し身)
ネムレスの繰り出してきた巨獣の大群に対抗するべく、モミジは護法神を軍団規模で召喚した。彼らはモミジたちが調伏してきた鬼神の写し身だ。
人間がそうであるように、鬼神にも個性がある。
先ほどから飛龍型の巨獣を次々と打ち倒している様々な魔法は、そうした個性の表れだった。強者の内なる鬼神ほど、強大な力を持っている。
この護法神軍団はモミジにとって切り札。
護法神を大々的に召喚するならば大量の魔力が必要となり、鬼神を具現化させる過大能力も発動させないと追いつかないのだ。
(※数体ならば高等技能で喚び出せる)
それは取りも直さず、戦う相手の鬼神を喚ぶことにもなる。
この場合、ネムレスの内に秘めた鬼神だ。
どんな鬼神が出てくるか? これはモミジにも予測できない。
取るに足らない平凡な鬼しか出てこないこともあれば、近寄ることも適わない強力無比な大鬼神が出現することもある。
ガチャを回すのと変わらない。謂わば鬼神ガチャだ。
おまけに現れた鬼神は誰の言うことも聞かず、敵味方関係なく暴れ回る。
若旦那不在の場で切り出すのは危険な賭けだった。
もしもネムレスの鬼神がモミジと護法神で手に負えなかった場合、敗北どころか死を覚悟せねばならない。だから出し惜しみしていたのだ。
「まさか……こんなことになるなんて……」
予想外の展開を目の当たりにして、モミジは開いた口が塞がらない。
ネムレスから喚び出された鬼神は2体の巨鬼。
一人から複数の鬼神が現れる。
これは特に珍しいことではない。何らかの理由で胸の奥にわだかまる激情がいくつかに分裂しているのだ。葛藤や二律背反が原因だと見ている。
ネムレスの場合、それが2つだった。
憤怒の相を滾らせる巨鬼――悲哀の相で嘆き悲しむ巨鬼。
憤怒の鬼が暴れ出して護法神を蹴散らされた時には、さすがのモミジも肝を冷やして最悪の事態を覚悟したが、そこからは予想を裏切られた。
最初、悲哀の鬼はまったくの無反応だった。
憤怒の鬼が暴れると何も言わずに動き出し、右手を手刀にすると背後から憤怒の鬼を刺し貫いた。背骨をへし折りながら心臓までをも突き破る。
何もさせないと言わんばかりに一撃で葬っていた。
2体の巨鬼を味方だと勘違いするネムレス。
勝ち誇る彼女へ徐に手を伸ばし、その大きな掌で握り締めた。
身体中の骨という骨を砕き、肉という肉を潰し、血と臓物を溢れさせる。
手加減や躊躇が見当たらない握力の込め方だった。
「………………………………え?」
悲哀の鬼が握り締める手。
そこから血塗れの顔だけをはみ出させたネムレスは、まだ何が起きたかを把握できずに、折れた首を力なく不思議そうに傾げていた。
モミジも迂闊に動くことはできない。
鬼が本体でもある人間に牙を剥くのは珍しいことではなかった。
しかし、その行為は「近くにいるから暴力を振るった」という巻き込み型の場合が多く、ここまで明確な意志を持って人間を攻撃した例はなかったはずだ。
兄弟に等しい憤怒の鬼も仕留める動きも明らかに狙っていた。
嘆き悲しむ激情に、確かな行動原理を伴っている。
次に悲哀の鬼がどう動くか? 一手先がまったく読めなかった。
大勢の護法神を差し向ければ抑え込むことも可能だと思うが、彼らは今ネムレスが無責任に放流した巨獣を駆除するのに手一杯である。
モミジを警護する護法神も少ないくらいだ。
打てる手が限られるため、しばらく傍観するしかない。
「な、何故……どうし、てぇ…………?」
ようやくネムレスも何が起きたのかを理解できたらしい。
神族の肉体ならではの不死性ゆえ、まだ息はあるようだ。しかし、このまま握り潰されれば、遠からず重要な臓器の治癒が間に合わずに死んでしまう。
手足はおろか肩の関節まで折られて身動ぎもできまい。
ネムレスは辛うじて首を動かして、モミジと悲哀の鬼を交互に見遣る。
「この鬼は、私から生まれたはず……私の感情を元にして……動くのでは……? どうして、怒りの鬼のようにモミジを攻撃せず……わ、私を……?」
「その鬼神は――罪悪感の化身です」
ネムレスの疑問に答えるべく、モミジはわかる範囲を明かした。
モミジの過大能力で具現化された鬼はこちらの意に添うことはないものの、能力を介して鬼神の源となった感情は推し量れる。
憤怒の鬼は外見通り、ネムレスの怒りを具現化したもの。
この世の生きとし生けるものを、特に人間への強烈な怒りが感じられた。人間の愚かしさを恨んで憎んで毛嫌いしているのだろう。
ネムレスを最悪にして絶死をもたらす終焉へと走らせた原因がこれだ。
一方、悲哀の鬼は罪の意識が実体化したものだった。
「貴女自身、気付かないのか目を逸らしているのか……それは第三者の私にはわかりかねますが、その鬼は罪の意識に苛まれる良心の表れです」
自己嫌悪とも捉えられる罪悪感が具象したもの。
自らを殺してでも押し止めたい、自制を拗らせて歪んだ理性。
ずっと憤怒の鬼に抑えられていたが、具現化によって解き放たれたのだ。このチャンスを待ちかねたように姿を現したらしい。
「罪悪感なんて、馬鹿な……私にあるわけが……」
ないのに……そう続けられずネムレスは咳き込んでしまった。
血飛沫の混じる激しい咳を彼女が繰り返すと、血に染まるフェイスヴェールがずり落ちていく。悲哀の鬼に握り潰された衝撃で緩んでいたらしい。
現れたネムレスの素顔にモミジは瞠目した。
女性が公共の場で顔を隠す理由はいくつか考えられる。
真っ先に思いつくのは怪我や傷跡、あるいは痣などを隠すためだろう。
少なからず予想はできたが、想像以上に酷いものだった。
鼻の下にある人中(鼻と口を結ぶ溝のこと)を境目に、右側は美人の相貌なのだが、左側は皮も肉も削がれて口中が剥き出しになっていた。
真っ白い歯が並ぶ歯茎まで丸見えなのだ。
「……事故、ですか?」
固唾を飲んだモミジは慎重に尋ねた。
「フフッ……生まれ付き、には見えませんよね……ッ」
一見して先天的とは思えない痛々しい古傷だ。
事故で負った怪我の痕だと認めるたネムレスは、血反吐で濡れる唇につまらなそうな失笑を浮かべて打ち明ける。
「婚約者の運転していた車に乗ってて……事故に遭って……運転していた彼は無事で……助手席に座っていた私だけが……割を食っただけ……」
運が悪かったわ……ネムレスの口調は諦めていた。
だが、心の奥底で熾火のように燻る悔恨の念は隠せない。
昏い欲動が形になったものこそ、憤怒と悲哀の鬼に他ならなかった。
モミジの過大能力は鬼にまつわるもの。
それは微に入り細に入り多岐に渡る。
悲哀の鬼からネムレスの記憶が断片的にモミジへと流れ込んでくるのは、副作用みたいなものだ。印象的な場面が紙芝居のように浮かんでは消えていく。
由緒ある医者の名家に生を受けたネムレス。
才色兼備を地で行く彼女もまた、医者としての道を志す。
年頃になると、名門の医家に生まれた婚約者と引き合わせられる。両家が血縁になれば、とある巨大病院の実権を掌握できるからだ。
これは――ある種の政略結婚である。
野心もあったネムレスはこれに乗り気、婚約者とも気が合った。
医者としての地位は約束され、良き伴侶に恵まれて順風満帆の日々。
しかし、魔が差したのか交通事故に巻き込まれる。
婚約者は運良く無事だが、ネムレスは顔に酷い怪我を負ってしまう。
左頬の肉をほとんど失ってしまったのだ。
最先端の整形技術でどうにか見た目を取り繕うことはできたが、かつての美貌は大きく損なわれてしまった。笑顔を浮かべてもぎこちなく、修復された左頬が不自然に引き攣れて気味が悪い顔になる。
両親や家族に親族、そして婚約者も目を背けるようになった。
「み、んな……私を……見離し、たわ……」
不意にネムレスが口を開いた。
モミジが自分の記憶を垣間見ていることに気付いたのか、脳内を駆け巡る記憶の走馬灯へ解説を入れるように言葉を紡いでいた。
「父や母は……不気味な顔になった私を人前へ出さなくなり……足繁く通ってくれた婚約者は……月に一度も顔を合わせてくれなくなった……」
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ネムレスもまた、ひとりきりで負の感情を煮詰めていった。
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心に負った傷を最深部まで暴き立てる過大能力の誕生である。
――魔女医ネムレス・ランダ。
これが医者を志した女性が、ネムレスと名乗るまでの一連の流れだった。
「そ、そんな、私が……罪悪感、だなんて……」
ネムレスは決して認めなかった。
自らの罪の意識に殺されかけているる現実を直視できずにいるが、罪悪感の化身である悲哀の鬼は手の握力を緩めようとしない。
大きな指の隙間から溢れる血が段々と減ってきていた。
もう長くはない――時間の問題だ。
魔女帽子の鍔を摘まんだモミジは、俯き加減のまま話し掛ける。
「……人の心ほど複雑怪奇なものはないです」
モミジは鬼を具現化する眼を通じて、たくさんの人間の心を覗いてきた。
鬼神たちの行動は深層心理の表出でもある。
その多くが鬼神を抱えていた人間を破滅させるようなものばかりだったが、それらを目の当たりにしてきたから言えるのだ。
人間は――思った以上の自分の意志で行動できていない。
「ツンデレなんて言葉が流行りましたけど、行動と思惑が相反するなんてよくあることなのです。自分の思い通りに動いているつもりでも、実際には何に動かされているのかわからない……それが人間なんです」
心の底から現れる鬼神の行動が読めないのは、その最たる例である。
ただ、モミジに断定できることはひとつ。
「その泣いている鬼は、ネムレスの罪悪感を司っています」
「だか、ら、それが……おかしいのです! 私が罪を感じるなんて……ッ!」
ネムレスは頑なに認めようとしなかった。
折れた首を揺らしてでも声を荒らげ、モミジの言葉を否定する。
「名家との縁談が破局した私を……父は励ますどころか近寄りもしなかった! 父の言いなりだった母も同じ! どんなに私が泣いても見向きもせず遊び歩いて……あの男だってそうよ! 私の顔が醜くなると逃げるように離れていって……婚約解消してすぐに他の女のところへぇッ!」
どいつもこいつも――自分の保身ばかり!
ネムレスは導火線に火が付いたように恨み言を炸裂させた。
「誰も彼もが私から目を背けた! 傷つき醜くなった私がどんなに嘆いても、誰も私を慰めも助けてもくれなかったッ! 誰も、だれも…………ッッッ!?」
その時、ネムレスは閃くように思い出したらしい。
痛む首をギシギシと鳴らして、自身を握り潰す悲哀の鬼を仰ぎ見る。
その涙で晴れた巨鬼の顔をマジマジと見つめて一言。
「……おばあ……さま……?」
次の瞬間、再びネムレスの走馬灯が回り出す。
モミジの脳内にも映し出された風景には、深い傷を負って悲しむネムレスを愛おしげに守り、彼女を蔑ろにする者たちへ抗論する女性の姿があった。
老境に達するも凜とした佇まいを崩さない老女。
ネムレスの祖母に当たる人物が、我が身を呈して彼女を守っていた。
『ドラ息子にバカ嫁め……自分たちの思い通りにならないとわかった途端、大事な一人娘をほったらかしにするなんてどういう了見だい!』
『○○家の総領息子もなんだいありゃ! 他人様ん家の嫁入り前の娘を傷物にした挙げ句、責任も取らずに逃げちまうとはね……クズだよクズ!』
『安心おし、合歓子……アタシだけはあんたの味方だよ』
『アタシの目が黒いうちは、絶対にアンタを不幸になんかさせないから!』
こういう女性を鉄火肌というらしい。
内でも外でも孤立したネムレスにとって唯一の味方である。
祖母はネムレスにこう言い聞かせた。
『だから……どんなに辛くても、人の道だけは踏み外すんじゃないよ』
この約束は――守られていない。
最悪にして絶死をもたらす終焉の一員となったネムレスは、心の何処かで祖母との約束を破っているという後ろめたさを感じていたはずだ。
それが悲哀の鬼となって現れたのか知れない。
烈女だったネムレスの祖母は落ち込む彼女を励ますと、ネムレスへ酷薄になった連中を責め立て、1人1人を追い詰めるように糾弾していった。
名家の刀自という権威を振るい、ネムレスを助けようとしたのだ。
しかし、寄る年波は残酷である。
彼女は志半ばにして、持病が元でこの世を去ってしまった。
祖母の努力は元の木阿弥となり、ネムレスの両親はお目当ての名家と婚姻できない娘を見限った。元婚約者も他の女に目移りする始末。
ここから――ネムレスの箍が外れた。
そこへ破壊神が唆せば、容易く堕ちること請け合いである。
逆に言えば、この祖母こそがネムレス最後の心の拠り所であり、罪悪感を始めとした精神的な善性の象徴でもあった。
憤怒の鬼は般若面だがネムレスの面相を模している。
悲哀の鬼もまた般若の面構えだが、そこに誰かの面影が窺えるのだろう。
祖母と孫娘――その面立ちは似通っているに違いない。
「ごめんなさい……おばあさま……」
最後にそう呟いたネムレスは、力なく首を前に倒した。
それを見届けた悲哀の鬼は一度だけ頷くと、全身から青白い炎を上げて自ら燃え尽きていく。握り締められたままのネムレスも一緒にだ。
塵さえ残すことなく、青白い業火は燃え盛りながら消えていく。
『――ご迷惑をおかけしました』
年老いた女性の声がモミジの鼓膜を震わせた。
モミジはいつしか両手で魔女帽子をギュッと掴んでおり、顔が埋まってしまうくらい帽子を深々と被り直していた。
小さな手は元より、細い肩も小刻みに震えている。
押し殺したくても嗚咽は漏れて、頬を流れる涙は衣装を濡らしていく。
「もう、鬼のことでは泣かないって決めたはずなのに……ッ!」
ネムレスの過酷な人生を見てしまった。
周囲の人々から排斥されるように疎まれ、孤独という痛みを伴わない拷問に苛まれる日々にモミジの半生を重ね、少なくない同情を寄せてしまう。
今、モミジの涙は彼女のために流れている。
「つ、辛いです、若旦那……今すぐ、会いたいよぉ……ッ!」
ただただ、ギュッと抱き締めてもらいたい。
幼き日々の孤独を思い出したモミジは、愛しい人の温もりを求めていた。
守護神と破壊神の盤上――№04のコインが燃え上がる。
その青白い炎が消えると、ネムレスのコインも跡形なく消えていた。
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