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第16章 廻世と壊世の特異点
第386話:森の国の攻防戦~爆発こそが芸術だ!
しおりを挟むククルカン森王国――獣王神アハウ・ククルカンの治める国。
中央大陸のほぼ真南に位置する国土は、かつての現実世界でたとえるならインドのように大陸から大きく張り出した地形をしており、その国土の85%が深いジャングルに覆われている鬱蒼とした密林地帯である。
そう考えると植生的にはアマゾン川流域に近い。
細い川がいくつもの支流を編み目のように巡らせているから尚更だ。
地下を流れる水脈が豊富なため、それらが密林の土壌と生態系を支えていた。
ご多分に漏れず、この地も蕃神の触手が伸びていたらしい。
この地で暮らしてきたヴァナラ族(猿の亜人種)の長老たちによれば、この密林も蕃神によって貪られた過去があり、かつてと比べれば弱ってきているそうだ。
全盛期は今の比ではない瑞々しい深緑に覆われていたという。
だが、取られた分は取り返しつつある。
アハウ自身が過大能力で国土を改良してきたそうだが、ツバサ、ミサキ、クロウらの手も借りて、大地の活力も改善されていた。
おかげで王国のみならず、周辺地域も自然豊かな緑が広まっている。
その緑が――蹂躙されていた。
巨大ロボに匹敵する巨将たちが食い止めるも、それをすり抜けて進軍する巨獣の群れが、地響きを上げて森王国へと向かっていた。
大地を踏み破り、森林を踏み潰し、破壊の限りを尽くす進軍。
火炎、熱線、毒液、烈風、雷撃……何らかの遠距離攻撃手段を持つ巨獣は、そういったものを撒き散らす。甚大な被害がみるみる広がっていた。
巨獣は幅のある群れとなり、広範囲を踏み潰していく。
彼らの通った後には焦土しか残らない。
明らかに真っ当な生物の本能的な行動ではない。破壊神に創られた、この世を終わらせる怪物として擦り込まれた習性だ。
あるいは、そうするよう遺伝子に刻まれているのか?
ククルカン森王国へ進撃する巨獣群。
彼らを率いるかのように、一足先で先陣を切る影。
「絶ッッッ好ッッッ調ッッッッッォォォああああああーーーッ!」
人語を喋るマンモスと見間違えるかも知れない。
身の丈は人間の常識を遙かに上回る5mに達しており、筋骨隆々という単語を5倍掛けしたかのような巨躯。もしも町中で警察官に目撃されたら「筋肉モリモリマッチョマンの変態だ」と通報されかねないレベルである。
いや、規格外の図体なので完全にバケモノだ。
腰にプロレスパンツ一丁を帯びるのみ、後は両腕両脚に剛毛を生やした得体の知れない獣の毛皮を撒いてる。これはアームカバーやレッグカバーらしい。
頭からは巨大な牙を生やした獣の毛皮を被っていた。
その大きさや毛深さからマンモスと似ているが、特徴的な長い鼻はない。牙ごと頭蓋が残っているようで、それをヘルメットみたいに装着していた。
目深に被っているため、口元以外の表情はわからない。
ただ、精悍なイメージのある口はいつも大きく開かれており……。
「絶ッッッ好ッッッ調ぉぉぉぉぉおおおおおーッッッ!」
この台詞が唱えられるばかりだ。
頭から伸びた毛皮をロングコートのように羽織っており、走ればたっぷりとした毛皮がマントよろしく棚引いていた。
「絶ッッッッッ好ッッッッッ調ッッッッッォォォああああああああーーーッ!」
口癖を叫んで巨漢は爆走する。
№15 狂奔のフラグ――ゴーオン・トウコツ。
元バッドデッドエンズ四番隊副長を務めた(かどうかは怪しいが)、終焉者の20人に選ばれた一人である。
ゴーオンは走る。脇目も振らず真っ直ぐ走る。
狂奔の二つ名に相応しい、狂気に駆られたかの如き奔走っぷりだ。
走り方自体は、回転数を上げたスプリンター走法。
両腕を鈎状に曲げて激しく前後に振り、そのまま前へ倒れ込みそうな前傾姿勢を維持したままのキープ。両脚は膝が胸に当たるスレスレまで高々と持ち上げ、地面を後ろへ蹴り飛ばすような激走だった。
踏み出す度にマグニチュード8クラスの激震に見舞われる。
地盤はおろか地層をも割りかねない。
一歩が世界の芯に到達するようなインパクトを起こす。
中央大陸を蹴り割らんとする走り方も凄まじいが、ゴーオンもうひとつの特徴は騒音どころではない喧しい雄叫びだ。
彼が「絶好調ーッ!」と叫ぶ度、巨獣の群れが共鳴する。
呼応するかのように巨獣たちも遠吠えを返すと、まるでゴーオンに鼓舞されたかの如く進軍の速力を増し、明らかに全身の筋肉量を増大させていた。
増長を促されるが如く、巨獣の群れは力強さを増していく。
「うん、悪いねジョージィくん」
ボクまで同乗させてもらって、とタロウは素直に礼を述べた。
№12 爆滅のフラグ――タロウ・ボムバルカン。
かつてバッドデッドエンズ六番隊“アンゴワスエイクァート”という狂的美術家集団を率いた隊長であり、20人の終焉者に選ばれた一人だ。
一見すると和装の小男にしか見えない。
ギョロリとした目玉に、富士山のようなシルエットを描く口元。ざっくばらんな総髪をした、隠居風の着物を着込んだ初老の男である。
終焉者に選ばれるからには、ただの小っちゃいオッサンではない。
『――爆発こそが真の芸術だ』
この崇高なる信念の元、あらゆるものが爆ぜる瞬間に至高の美を、究極の芸術を見出さんとする、まさに狂的美術家を代表すべき男である。
その小さなオジさんはゴーオンの右肩に乗っかっていた。
ゴーオンが激しく両腕を振り回しているため、肩の端は揺れ動く筋肉のため座りにくい。だが首の根元近くならほとんど動かない。
そこにタロウはあぐらで腰掛けていた。
両手は胸の前で着物の左右の袖へ差し込んでいる。その姿勢のまま泰然自若にして不動なので、置物のように存在感がない。
マスコットと勘違いされそうだ。
「道行きが同じとはいえ、こうして便乗させてもらえると助かるよ」
うん、とタロウは口癖とともに頷いた。
タロウの反対側――ゴーオンの左肩から返事が聞こえてくる。
「お気になさらないでください、タロウ先生」
どうせ同じ道すがらです、とジョージィは穏やかな声で返した。
№16 旱照のフラグ――ジョージィ・ヴリトラ。
元バッドデッドエンズ四番隊隊長、ゴーオンにしてみれば直属の上司である。彼も……いや彼女も? ゴーオンの肩に座り込んでいた。
他人称を迷ったことからわかるように、ジョージィは性別不詳だ。
美形であることは間違いない。
横目でチラリと窺えば、タロウの美的センスが「爆破させたい!」という衝動に駆られるほどの美しい容貌だ。美貌だと太鼓判を押せる。
だが、性別がはっきりしない。
風になびく長い黒髪には強い女性的要素を感じるが、首の太さや顔の輪郭に柔らかくも男らしさを見出せる。かと思えば艶めかしい艶やほっそりした鼻梁にふっくらした唇は女性的だ。
美女と美男の因子が、妖艶に入り交じっている。
中肉中背の男性に女性らしい肉付きをまとわせればこうなるし、体格のいい女性に男性ホルモンが増加すればこうなるとも感じられる。
中性的――どちらかといえば両性的か。
身に付けるのは、薄手の白布を幾重にも巻いたようなローブのみ。
爆走するゴーオンの肩に乗っているので風圧が激しいため、ローブが体にピッタリ張り付いている。そうして浮かび上がるボディラインは胸元に大きな乳房を抱えており、腰回りも骨盤が広くて女性のものにしか見えない。
だというのに、どこか男臭さも漂わせている。
昔、付き合いで連れて行かれたスナック。そこにいたニューハーフやシーメールといった、女性ホルモン投与によって女性化した男性たちを思い出す。
努力によるものなのか、彼女たちも割と美しい者が多い。
(※無論、ピンからキリまで様々だが……)
だが、ジョージィの美貌には遠く及ばない。
男でもあり女でもあるが――そのどちらでもない美。
「うん、ジョージィ君。つまらないことを訊いてもいいかな?」
これから世界を滅ぼすのに気にしてどうする? とタロウの思考回路は論理的に考えるのだが、一握りの人間臭さが些末なことを気にしてしまう。
いや、これは細部にこだわる芸術家の性だ。
細かいことが気になるボクの悪い癖――とは誰の台詞だったか?
少なくとも、タロウの心境はまさにそれだった。
「私で答えられる範囲ならなんなりと」
ジョージィからお許しが出たので、単刀直入に問い質す。
「うん、君は男なのかな? それとも女なのかな?」
「元を正せば現実世界では男性――今は男女どちらでもあります」
淀みなくジョージィは即答してくれた。
「うん、なるほど。理解できたよ。ありがとう」
道理で男女両方の色気を読み取れるわけだ。タロウの美的感覚は間違っていなかったと自負できた。いわゆる両性具有というやつらしい。
ジョージィはふくよかな胸に手を添える。
「あまねく人々に愛を伝えるのが私の意義……そのためには性差の区別なく愛を受け入れることも授け与えることもできる、両性具有という肉体が完成形だと思っただけです……せっかくの異世界、肉体も変えられましたからね」
少々欲張ってみました、とジョージィはフェミニンに微笑む。
「うん、合理的だと思うよ」
アルマゲドン時代に魂の経験値を費やして変貌した者は多い。
バッドデッドエンズの構成員にしても、ロンドから破壊神の力を分け与えられたことで大きく変異した者は少なくなかった。
ジンカイは逞しい力士だったが、邪悪な地母神と化していた。
炎の巨人の力を授けられた者は燃え盛る肉体を得、伝説の海竜の力を授けられた者は何故か頭部がホオジロザメになっていた。
タロウの弟子にいた要塞みたいな巨人もその一人だ
彼らは力を優先して、本来の姿を捨てた者である。
リード、マッコウ、サバエ、ネムレス。
こういったメンバーは現実世界での苦しく辛い記憶を忘れぬため、世界を壊そうとする原動力を昂ぶらせるため、すべてを憎む原因になった肉体の欠点をそのままにしていると聞くが……詳細は知らない。
ジョージィは魂の経験値で変化したのか、それともロンドの力によって変異したのかは定かではない。敢えて、そこまで踏み込むつもりもない。
ただ、現状の彼について興味が湧いただけだ。
「見た目や性別など些細なこと……私が大切にしたいのは、すべてを目映い光で包み込む愛……これに尽きます。他のことなどすべて小事に過ぎません」
「うん、ボクも芸術のことばかり考えてるからね」
ボクらはそれでいい、とタロウは異論を挟まず賛同した。
最悪にして絶死をもたらす終焉に集いし者は、タロウを含め一点突破した思想を持つ者ばかりだ。それも果てには世界廃滅という終末への思いを馳せた、平和主義ボケした人々から見れば物騒極まりない思想の塊である。
過程はどうあれ――何も彼も滅ぼす。
だからこそ、破壊神はバッドデッドエンズを肯定するのだ。
こうして好き勝手に暴れようとも、どいつもこいつも最終的には世界を根幹から破壊するという渇望に餓えている。ゆえに放任を許されていた。
「ゴーオンも……突き進むことしか頭にありません」
ジョージィは手を伸ばすと、我が子を愛でるようにゴーオンを撫でた。
ただ、ゴーオンがあまりにも大きすぎるので、一連の仕種は大きな象を飼育員が撫でているようにしか見えない。
それでもジョージィの慈しみが垣間見られる。
聞くところによれば、ジョージィとゴーオンが四番隊の隊長と副隊長という関係性以上に、血縁関係ゆえ世話を焼いているという噂があった。
あながち風聞でもないようだ。
「妹……いえ、弟はすべてを蹂躙することしか頭にありませんから」
「うん、妹さんか…………うん、妹!?」
動揺したタロウは二度見してしまう。
ゴーオンも変身していた事実に驚きはしないし、ジョージィと血の繋がった兄妹だということも聞いていたが、この巨漢がまさか妹だったとは……。
失礼ながら、その一点に驚かされてしまった。
「言ったじゃありませんか。見た目や性別なんて些細なことだと……」
ジョージィはゴーオンを毛皮越しに撫でた。
そして、元妹に代わって苦悩を打ち明けるように元兄は語る。
「弟……いえ、妹はね、恵まれた体格と運動神経のおかげで、とある運動選手として嘱望される才能を持っていました。ですが……」
女性という理由で――その道を阻まれた。
彼女の才能に嫉妬した運動協会の男性たちが恣意的に阻んだのだ。
以来、ゴーオンはそれを是としたスポーツ界を嫌悪した。また、見て見ぬ振りをした世間を恨み、女性である自身の肉体を憎んだという。
この漢を追求した巨躯は、そうした過去への反動か。
「己を拒んだ世界すべてを踏み躙る……」
それがゴーオンの世界廃滅へ懸ける情熱です、とジョージィは言う。
「そんな妹……いえ、弟も愛おしい……愛しているのです」
ジョージィはゴーオンの頭に寄り添う。
それを横目に一瞥したタロウは正面を見据えた。
「それもまた最悪にして絶死をもたらす終焉らしいエピソードだね、うん」
タロウも似たり寄ったりである。
爆発こそが芸術だと主張するタロウの美術観は、思考停止に陥り退廃が蔓延った芸術界では一蹴されるばかりで、決して日の目を見ることがなかった。
『――花火と何が違う? 花火でいいじゃないか』
『――物が爆ぜる瞬間が美? 笑わせるな』
『――生物の爆発する瞬間だと? 正気か貴様!』
芸術家たちの嘲笑――評論家たちの罵声。
未だにタロウの耳朶に残る、忘れがたい悪言ばかりだ。
万人より否定され、社会から排斥され、外道へと堕とされた。
最悪にして絶死をもたらす終焉には、そうして人類社会から逸脱した者が集まっていた。だからこそ、世界廃滅に傾倒したとも言える。
自分を認めない世界など――壊してしまえ。
終焉者の心根で疼いているのは、鬱積した昏い激情に相違あるまい。
「うん、ところで……君たちはどうして森の王国へ?」
タロウはククルカン森王国を目指す理由があるものの、ジョージィとゴーオンがあの国を標的に選んだ理由があるのかを尋ねてみた。
ジョージィはゴーオンに寄り添ったままだ。
毛皮に顔を埋めたまま、上目遣いに森の地平線を見つめている。
「特に大した理由はありません……強いて挙げさせていただくとすれば、競争相手が少なそうだから、といったところでしょうか?」
うん、なるほど――タロウは得心した。
他のバッドデッドエンズは殺すべき意中の相手がいたり、一番に滅ぼすべき四神同盟の国や施設をどれにするか決めていた。
タロウを含め、彼らと交戦経験のある者ほどそういった傾向が強い。
ジョージィとゴーオンにはそれがないようだ。
四神同盟については伝聞情報しかないため、それらを吟味しながら仲間の動向を探った結果、ククルカン森王国を標的に定めたらしい。
ジョージィは口元に指を這わせ、アンニュイに理由を明かす。
「他の終焉者があまり選んでおりませんでしたので、競争相手がいない手薄なところを抑えておくべきかとおもいまして……それに」
周囲にいくつもの光球が浮かぶ。
光球は流線型の軌道を描き、光の尾を引いて飛び交う。
それら深緑の大地に落ちていくと、着弾とともに爆発音を伴わない光のドームを盛り上げるように広げた。光のドームに包まれた場所は一瞬にして草木が枯れ果てて風化し、地面の土は水気を失って砂場となってしまう。
生命の鼓動を許さない乾燥した砂。
大地の力も途絶てしまい、雑草すら芽吹くことはない。
「これだけの緑……見過ごす手はないじゃありませんか」
点在するように生じた砂漠を見て、ジョージィの口角は愉悦に緩む。
「私の愛ある光に包まれて、幸せのまにまに消えていく……幸福な消滅に迎え入れれて上げられる生命が、この地には満ちあふれているのですから」
「うん、まったく同感だね」
タロウも袖から抜き出した右手を眼前に広げる。
その掌中には小さな火の玉が灯り、瞬く間に分裂して数を増やすと四方八方に飛び散っていく。それらは密林を焦がす無数の爆発を巻き起こした。
「緑の補色に爆発の赤が映える。うん」
ここは絶好のキャンパスだ、とタロウも表情を変えずご満悦だ。
大地を割り砕くゴーオンの突進と、その雄叫びに鼓舞される巨獣の群れ。ジョージィの干上がらせる愛の光に、タロウの塵さえ残さない爆発。
滅びの浸食が徐々にジャングルを蝕んでいく。
「そういえば……タロウ先生はどうしてククルカン森王国に?」
私たちと似たような理由ですか? とジョージィは聞き返してきた。
タロウはやや躊躇いがちに「うん」と頷く。
「うん、大したことじゃないけど……そうだね、うん。仕返しかもね」
お礼参り、と言い換えるべきかも知れない。
かつてタロウは敗北を喫し、一度は死にかけた。
(※第339~342話参照)
社長――ヒデヨシ・ライジングサン。
女房――ネネコ・オーマダムドコロ。
愚弟――ランマル・サンビルコ。
タロウの愛弟子で構成されたバッドデッドエンズ六番隊、超常絶技美術家集団“アンゴワスエイクァート”を壊滅させ、あまつさえタロウさえ殺しかけた日之出工務店とかいう組織をまとめているトップスリーだ。
ネネコにも敗北寸前まで追い詰められたが、最終的にタロウを反物質爆弾で亡き者にしようとしたのは、その夫であるヒデヨシという青年だった。
彼が日之出工務店を率いる棟梁である。
三幹部の一人であるアリガミの配慮で九死に一生を得たタロウは、涼しい顔をしているものの、心の内では彼らへの復讐心を掻き立てていた。
日之出工務店はククルカン森王国に身を寄せている。
今では四神同盟に合流して一組織として収まり、ククルカン森王国の発展に勤しんでいるとか建設的な話を聞いていた。
「ボクを追い詰めたふくよかなお嬢さんと、トドメを刺そうとしたその旦那……ついでにその弟だか妹だかを爆ぜ散らせてあげようと思ってね」
「それで仕返しと……合点が行きました」
ジョージィは瞼を閉じ、それ以上は詮索しなかった。
どうやらククルカン森王国へ赴くのは、この三人で決まりのようだ。
こちらの攻勢にあちらも無視できまい。そろそろ反撃のためにククルカン森王国の精鋭が現れる頃合いだと思うのだが……。
「……その予感、当たりです」
ジョージィは瞳を開いて空を見上げた。
釣られてタロウも顔を上げると、眼よりも先に鼓膜が刺激された。
──ひゅぅるぁぁぁぁぁぁぁああああああああああぁぁぁぁぁぁ……ッ!!
雄々しくも哀切を奏でた咆哮が谺する。
どれほどの高度から音速をも超える速度で急降下してきているのか知れないが、それは弾丸の如く大気の層を突き破り、自らを赤熱化させながら飛行機雲を棚引かせ、まっすぐにこちらへ急降下してきた。
豪壮な角の王冠を掲げ、空を覆う広大な翼を広げ、巨龍の尾を打ち振るう。
獣の王と讃えるしかない猛々しい神が降臨する。
獣王神――アハウ・ククルカン。
ククルカン森王国の代表者が直々にお目見えのようだ。
迎撃に打って出てきたアハウを、逆に返り討ちにしてやろうとタロウもジョージィも身構える。気付いていないゴーオンは直進をやめない。
タロウたちが態勢を整えるより早く、アハウが先手を打ってきた。
──ひゅぅるぁぁぁぁぁぁぁああああああああああぁぁぁぁぁぁ……ッ!!
慟哭にも聞こえる咆哮が鳴り響く。
アハウの咆哮はあろうことか目に映るほど強力であり、青白い光線となって彼の喉から解き放たれた。さながら極太のレーザービームだ。
咆哮の一閃は地表を横薙ぎにする。
横に幅を取って突き進む巨獣たちを阻むかのようにだ。
レーザービームにしか見えない咆哮が辿るライン、そこから絶壁のような爆発が迫り上がる。直撃を受けた最前列の巨獣など一溜まりもなかった。
タロウの脳裏に「巨神兵」という単語が過る。
どこからともなくハスキーな女性の声で「薙ぎ払え!」という命令も聞こえてきそうだが、それは記憶の向こうからやってくる幻聴に過ぎない。
ただし、威力と破壊規模はあれを上回っている。
ただの音波攻撃でないのは確実だ。
でなければ、巨獣の群れが易々と蹴散らされるはずがない。
「そういえば……ロンド君に注意されてたね、うん」
四神同盟の代表者は例外なく内在異性具現化者だという。
彼らは世界を変える過大能力に覚醒した“選ばれし者”だと、破壊神が意味深に嘯いていた。そして、あの獣王神はその一人である。
なるほど――これは褌を引き締めて事に当たらねばなるまい。
万里の長城よろしく立ち上る爆発の絶壁。
色彩はイマイチだが、十分なくらい専門家を魅了する出来映えだった。
「絶ッ……好ォォォ調オオオオオオオォォォーーーッ!」
だが、ゴーオンは物ともしない。
この程度の爆撃でゴーオンの突進を止められるわけがない。タロウとジョージィ大きな両手で庇いながら、頼もしい巨漢は爆発の壁を突き抜けていく。
爆発を乗り越えた瞬間――鉄拳がお見舞いされる。
ゴーオンの横っ面、頬を抉るように鉄拳が突き刺さっていた。
爆発を抜けてきたタイミングを見計らい、真横からミサイルみたいな勢いで飛んできたのは、本物の“鉄拳”を振るう少年だった。
鉄拳児――カズトラ・グンシーン。
アリガミから回された情報にあった、アハウの懐刀的存在。
ククルカン森王国ではアハウに次ぐ戦闘能力の持ち主だとのこと。
その第一印象は――痩せた狼。
まだ高校生くらいの少年にしか見えないが、凶悪な目付きと細身ながら練り上げられた長い手足ゆえ、もう少し年長に見えなくもない。
タイトなズボンにシャツ。羽織るジャケットやブーツには防御力を上げるためなのか見た目重視の格好良さなのか、やたら金属片を貼り付けている。
長めの髪は狼の背中に揺れる体毛のようだ。
特筆すべきは――鋼鉄と宝石を練り合わせてできた右腕。
他の部分が生身なのでサイボーグのような義手なのだろうか、機械的でありながら彫刻的な美術性もある風変わりなものである。
鋼玉の義手とでも呼ぶべきものだ。
その硬そうな鉄拳が、ゴーオンの左頬に突き込まれていた。
しかし、この程度の横槍でゴーオンの狂奔を制止できるはずもない。それはカズトラも承知の上なのか、更なるアクションを仕掛けてくる。
「――ガンマレイ・アームズッ!」
それが鋼玉の義手の正しい名前なのか。
カズトラの掛け声を音声認識が如く受け取った鋼玉の義手は、最初からそういう形だったと錯覚させる迅速さで変形した。
刹那――変形完了まで0.000001秒も要していない。
コマ送りでフィルムを飛ばして映像を別物に切り替えたような速さだ。
少年の長い手足に適応させたサイズの義手が、ゴーオンの巨体に張り合う豪拳と豪腕に拡張され、火器を思わせる武装が追加されていた。
ぱっと見では拳銃の回転輪動だ。
肘には撃鉄に相当するパーツも付属している。
「――インパクトブリット! マキシマム・ファーストッ!」
回転輪動が物々しく回り、撃鉄が撃ち込まれる。
瞬間、圧縮されたエネルギーが炸裂。
密着したゼロ距離からの爆発的な衝撃が余す所なく叩き込まれ、さしものゴーオンも少し首を曲げ、直進していた走り方が揺らいだ
「――エクストリーム・セカンドッッ!」
二発目は一発目よりも威力が数段跳ね上がっている。
ゴーオンの野太い首が傾いでいき、耐えるために歯を食い縛っていた。こうなると走法にも影響し、どんどん右へ軌道修正されつつある。
「――デストロイ・サードッッッ!」
三発目に走った衝撃は、タロウやジョージィを弾き飛ばす。
直撃したわけではないが、波及だけでゴーオンの近くにいられない威力にまで高められていた。球状に広がっていく透明な余波に跳ね飛ばされながらも、それに乗ってゴーオンの両肩から飛び退く。
タロウとジョージィが離れた直後、カズトラが四発目を叩き込む。
「ジェノサイドぉぉぉ……フォォォォーーースッッッ!」
――鋼玉の義手が吼える。
蒸気にも似た白銀の“気”を噴く義手は回転輪動から、大量虐殺の名に恥じない大国をも討ち滅ぼす衝撃波を叩き出した。
その衝撃に任せて、とうとうカズトラは拳を振り抜く。
「絶っ絶っ…………ッ好調ぉーーーッ!?」
ついにゴーオンも押し負け、殴り飛ばされてしまった。
顔から吹き飛ぶゴーオン。太い首が右に曲がりながら伸びていくと、それに引き摺られるまま5mを越す法外な体躯がかなりの速さで宙を舞う。
密林の木々を押し倒し、何百mも転がっていく。
「ハッ! 絶不調の間違いだろうが、デカ物マンモス野郎!」
そんなゴーオンを、カズトラは獲物を狙う餓狼のように追いかける。
「いけません! ゴーオン……ハッ!?」
世界廃滅を志すとも、兄妹の情は捨てられないらしい。
派手に殴り飛ばされた弟(元妹)の身を案じるジョージィは追いかけてゴーオンに加勢しようとするも、この行動は見通されていた。
──ひゅぅるぁぁぁぁぁぁぁああああああああああぁぁぁぁぁぁ……ッ!!
獣王神アハウが空から急襲をかけてきた。
先ほど爆発の絶壁を造り上げた、破壊光線のような雄叫びがジョージィを狙っているが、彼女がこれにたじろぐ様子は見られない。
(……一応、外見的にはほぼ女性なので彼女と呼んでおこう)
ジョージィはアハウに向けて片手を翳す。
その手には万物を干涸らびさせて幸福感を与えつつ消滅させるという、ジョージィ曰く「愛の光」が集まり光球となっていた。
ばら撒いていたものとは大きさが段違いだ。
さっきのが卓球サイズなら、これはバランスボール大はある。
直撃すれば山の三つ四つさえ塵に還すと思われる光球を、ジョージィはアハウの大きく開かれた口に目掛けて投げ飛ばす。
咆哮を迸らせる寸前だったアハウは――相殺を狙ってきた。
滅びの愛をもたらす光玉と獣王の咆哮が激突する。
双方が競り合った瞬間、大木をも根こそぎ引き抜く暴風をまとった大爆発が密林の空に発生した。このためタロウは敵や仲間の姿を見失う。
「うん、いいね……悪くない」
白と青、寒色系が入り交じる静かながらも躍動感ある爆発。
暫しタロウはこの大爆発に魅入ってしまった。
~~~~~~~~~~~~
してやられた――と考えるべきだろう。
獣王神アハウの攻撃、あれは盛大な目眩ましだった。
大地を薙ぎ払う咆哮の一閃。
あれは進軍する巨獣の出鼻を挫く目的もあったが、主題はゴーオンを初めとしたこちらの目を欺く煙幕としての役目が大きい。
おかげで、カズトラの不意打ちを許してしまった。
アハウが起こした爆発の絶壁さえなければ、タロウやジョージィはおろか、ゴーオンもカズトラという小僧の接近に気付けたはずだ。
カズトラはゴーオンを殴り飛ばし、そのまま直接対決にもつれ込む。
アハウはジョージィを相手取るつもりのようだ。
その判断は正しいと言わざるを得ない。
何故ならククルカン森王国にやってきたバッドデッドエンズ3人、その中で最も力が強く要注意すべきは彼女で間違いないのだから。
破壊力や殲滅力で比較すれば、3人の力はどっこいどっこいだろう。
だが、本気のジョージィはそれらの規模が拡大する。
のみならず、総合的な能力においてもタロウやゴーオンを上回り、破壊神の足下に及ぶくらいの存在には格上げされるのだ。
伊達に四番隊を任されていない。
彼女ならば内在異性具現化者の相手も務まることだろう。
「……うん、ボクはあぶれたわけだね」
タロウは密林のどことも知れない場所に放り出されていた。
切り開かれたように木々がなく、地面には乾いた砂と土が入り交じっているところを見ると、ジョージィの光球を受けた場所のようだ。先ほどの乱戦で程良く払われたため、このような開けた場所になったらしい。
ジョージィやゴーオンの助勢に駆けつけるつもりはない。
ロンドの配下として仲間意識はあるが、助け合いの精神などという安っぽいセンチメンタリズムなどお呼びではない。
孤高を愛するのが芸術家だ、とタロウは自認する。
それゆえ六番隊“アンゴワスエイクァート”の隊長に推薦されても、名誉職として引き受けはしたが、実務は弟子たちに投げっぱなしだった。
(※第339話参照)
「うん、そもそもボクは目的があって森王国に来たわけだし」
そう――お礼参りだ。
弟子を皆殺しにされた件はどうでもいいが、惨敗して宇宙の果てまで飛ばされた挙げ句、爆殺されかけたことが腹立たしい。
爆発の芸術家たるタロウ・ボムバルカンがだ!
自らが爆発であるにもかかわらず、反物質爆弾とかいうわけのわからない爆撃で死にかけたこと、殺されそうになったことが業腹である。
是非とも殺り返さねば――タロウの気は晴れることはない。
ザク、ザク、ザク、と足音が聞こえてくる。
気配を潜ませない足音に、殺意で沸き立つ物思いに耽っていたタロウは振り向くと、ギョロ目がこぼれ落ちそうなほど目を剥いてしまった。
富士山のような口もちょっとだけほぐれる
「うん、噂をすれば影……あるいは、ボクの思いが通じたのかな?」
タロウは身体ごと足音の主へ振り返る。
現れたのは、タロウに敗北の味を舐めさせた女性だった。
女房――ネネコ・オーマダムドコロ。
女性ながら190㎝に届きそうな長身、特徴的な美女である。
ハワイアンだが特注仕立ての特大ムームードレスを身にまとい、その上に丈の長いジャンパーのようなものを羽織っていた。天然のウェーブが強くかかった茶色の濃い長髪はきっちりまとめられている。
初対面の時――ネネコは極度の肥満体だった。
可愛らしく「おデブちゃん」といっても誤魔化せないほどの巨体。相撲取りも道を譲るであろう、見事なくらいまん丸に太っていたのだ。
だが、先の激闘では見る見るうちに痩せていった。
どうやら彼女の過大能力は、体内に貯めた脂肪を様々なエネルギーに変換できるものらしく、それゆえに凄まじい攻撃力を発揮した。
過大能力──【聖脂は万能なる熱量となりて神威を示す】
神の聖脂を燃焼させた脅威的な力。
これに押し切られたタロウは一敗の地に塗れたのだ。
こちらに歩いてくるネネコは、最後に見掛けた長身モデルみたいに痩せた姿と比べれば、大分ふくよかさを取り戻している。だが、まだまだ痩せていた。
ちょっとポッチャリ程度の太り方である。
目の当たりにしたタロウは内心ほくそ笑んだ。「勝ち目が出てきたじゃないか」と表情をまったく変えずに嬉々としてしまう。
彼女にとって最大の武器、それは多様な使い道のある聖脂。
タロウとの戦いでは掌底とともに爆発力に変えた聖脂を叩き込むことで、こちらを体内から破壊する攻撃手段に用いていた。本来は自他の回復をさせたり、攻撃を遮るため防御能力に回すことがメインなのだろう。
大層な平和主義者のようだから尚更だ。
難点があるとすれば――消費したら貯める必要があること。
体質的に太りやすいとしても、あそこまでスリムに痩せてしまったら、この短期間で力士顔負けの体型まで戻すのは無理だったと見受けられる。
彼女にとって、脂肪がないのは燃料がないのと同義。
いつぞやタロウを押し切ったほどの出力も再現できないだろう。
ならば、タロウが爆発力で後れを取ることはない。以前の戦いでは、得意分野である爆発でも負けたことが屈辱だった。
ネネコは無言でタロウの元へやってくる。
距離が狭まるにつれて、ネネコの足取りが速さを増す。
タロウの間合いに踏み込む寸前、軽い跳躍とともに躍りかかってきた。
一直線な拳打を瞬時にいくつも突き込んでくる。
「うん、君もリベンジマッチがお望みかい? 気が合うね、うん」
ボクもなんだよ、とタロウからも打って出る。
武術の構えとは言えない自然体から緩慢に両手を持ち上げると、滑らかな動きでネネコが打ち込んできた突きを払う。
あちらが中国拳法なら、タロウは日本の古流柔術だ。
現実世界では芸術に打ち込むあまり、身体を動かしたことなどろくにないタロウだったが、ロンドに誘われて異世界へ転移するに当たり、VRMMORPG時代にしっかり鍛錬を重ねて極めておいた。
どんな奴でも思うがまま爆ぜさせるために――。
芸術のためならば努力を惜しまない、それがタロウのモットーだ。
コンボというのか、ネネコは両手を一時たりとも休ませることなく器用に連携させており、絶え間ない連打を放ってくる。
ただし、一発一発が一撃必殺の破壊力を秘めていた。まっすぐストレート、直線的かつシンプルな攻め手である。
猛攻と褒めるべきそれを、タロウの両手は軽やかに受け流す。
その際、ネネコの身体に触れるのを忘れない。
柔らかく、ソフトに、触ったことを勘付かせない接触でいい。
本来、そこを支点にして相手の力を殺さず引き寄せ、体勢を崩しながら投げるのが古流柔術なのだが、タロウの戦闘方法はそこまでしなくていい。
相手に触れる体捌きのみ重視する。
手が触れた瞬間、こちらの“気”を流し込めばいい。
過大能力――【玄妙なる幻彩にて無終の美を飾る爆烈師】。
この過大能力によってタロウの体質は変化していた。
タロウの身の内に宿る“気”、血肉から吐息に至るまで、そのすべてが爆発物と化すのだ。自分自身を爆発の化身という怪物に変えることも可能。
爆発の大きさや強弱は元より、色彩や形状も自由自在。
時間経過で終わる現象である爆発を、タロウの意志で破壊力を保ったまま維持させるなんて常識外れな芸当もできるのだ。
爆発の芸術家たるタロウの信念に基づいた過大能力である。
既にネネコの両腕には何度もタッチ済みだ。
先日の戦いでタロウの手の内はバレているので警戒されたものの、それでもこちらが一枚上手だったらしい。手数としては十分である。
触られた自覚があるのか、ネネコは露骨に嫌な顔をして遠ざかった。
だが、触れてしまえば距離など関係ない。
「――ボン!」
タロウは唇をすぼめて破裂音のような声真似をすると、五本の指をパッと開いて爆発のジェスチャーをして見せた。
それを合図に、ネネコの身体へ流し込んだ特殊な“気”が爆ぜる。
ネネコの両腕にいくつもの小規模な爆発が起きた。
軽いタッチでは少量の“気”しか流せないので、腕を落とすような再起不能までは望めないが、戦闘能力の低下は期待できるだろう。
しかし、タロウは拍子抜けだった。
「人には適正体重というものがあると聞いたことがあるね、うん」
うん、とタロウは喉を鳴らして歩を進めた。
余裕な足取りのタロウに対して、ネネコは眉をしかめて後退る。もっと饒舌だったと思うが、今日は言葉もないほど追い詰められている。
その弱気な態度に嗜虐心を煽られた。
「うん、平均を尊ぶ日本の風潮はよろしくないとボクは思うんだ。何事においてもその人に適した個人の適正値というものがあるんだよ、うん」
体重などは最たるもの――これがタロウの持論だ。
その論理に従えば、今のネネコは適正値から痩せすぎである。
「ふくよかなお嬢さん、君の場合はあのまん丸な体型が適正なんじゃないのかな? だからなのか、今日の君はまったく精彩を欠いている」
前回は武術でも丸め込まれたが、今回は最初からタロウが押しており優勢だ。負ける気がしない、とはこういう心境なのだろう。
両手をぶらりと下げたまま躙り寄る。
勝ち目が見えているうちに、勝敗を決めさせてもらおう。
「万全じゃないのにボクの前に出てきて再戦を挑む……うん、その心意気はありがたいし、ボクとしても嬉しい限りだよ……うん!」
頷いたタロウは積極的に踏み込んだ。
タロウとネネコの両腕が激しく交錯するが、ネネコのストレートな拳打や突きはとても読みやすく、タロウは的確に捌いていく。そして、彼女の190㎝ある長身と自分の150㎝に満たない体格差を逆手に取る。
タロウは深く身を屈め、ネネコの懐に潜り込んでいった。
彼女のまだふくよかになりかけの腹部に、両手を突き出すダブル掌底を叩き込むと、ここぞとばかりに爆発する“気”を注入する。
ネネコの腹部が膨れ上がり、爆発のエネルギーが蓄積されていく。
真っ赤な光を帯びて妊婦のようなお腹になっていくネネコ。自身の腹部を見下ろして狼狽する彼女を、勝利を確信したタロウは睨め上げる。
「うん、悪いけどこれ戦争だからね」
遠慮なく殺させてもらうよ、とタロウは破顔した。
鉄面皮の表情を壊すような笑みだ。
タロウの笑顔に――ネネコも表情が崩れるほど異形に笑う。
人妻である淑女が浮かべるべきではない、どちらかといえば子供っぽさが抜けない悪戯小僧みたいな笑い方だ。思わずタロウはギョッとした。
そして、ようやく違和感に思い至る。
「直線的な攻撃……うん? いや、君は確か……」
一度は拳を相見えたのに、どうして忘れてしまったのか?
ネネコは紛れもなく中国拳法の使い手だ。
だが、今戦っている彼女とはスタイルがまるで異なる。先に戦ったネネコは曲線や回転を主体とした動きをしていたはずだが、こちらのネネコはまっすぐで直線的な攻撃しかしてこない。おまけにわざとらしい単調さが目立つ。
武術の技量も比較にならない。
目の前の生意気そうな顔で笑うネネコもそれなりの腕前だが、以前のネネコと比べれば一歩譲る実力だ。おまけにわざと手を抜いている節があった。
腹をパンパンにしたネネコは口を開く。
「ああ、戦争だもんな――悪いけどハメさせてもらうぜ、オッサン」
ネネコの声じゃない!? と気付いた時には遅い。
タロウが注いだ爆発の“気”で膨張したネネコは背後へ跳ぶ。
しかし、後ろへ下がっていくのは顔だけ。肥大化した肉体はタロウの眼前に残ったままだ。まだボコボコと泡立つように膨張を続けている。
ネネコは――分離していた。
爆発の“気”が溜まった胴体を肉襦袢のように脱ぎ捨てたのだ。
着ぐるみを脱いだかのように一回り小さくなったネネコは、顔や体型が見る見るうちに変わっていく。見覚えのある姿にタロウは目を見張った。
「うん、君は…………妹だっけ弟だっけ!?」
愚弟――ランマル・サンビルコ。
男でも女でも通じる、愛らしい顔立ちの青年だ。
均整の取れた細マッチョの肉体。半裸の上半身には直にジャンパーを羽織り、ダブッとしたズボンをはいている。長い黒髪は特徴的なおさげに揺っており、大きな数珠玉を繋げたかのようなそれを振り乱している。
過大能力――【愛の滴りを浴びて我が身は変容する】。
情報に寄れば変身系の過大能力、ネネコに化けていたのか。
おまけに変身させた身体の一部を切り離すこともできるらしい。ネネコの肉襦袢は原型を失い、スライム状の物質に変わりつつあった。
爆発の“気”を昂ぶらせたまま――。
ドロドロと溶けるスライムは高速で動き出す。
意表を突かれたタロウは捕まってしまい、五体を雁字搦めにされる。ほぼ全身にスライムが覆い被さってきた瞬間、大爆発を引き起こした。
「うぅん……うううぅぅぅぅーんッッッ!?」
この程度では爆発の申し子たるタロウはビクともしない。
ダメージこそないが、爆風で吹き飛ばされることは余儀なくされる。肉襦袢の中には可燃物でも仕込まれていたのか、想像より強力だった。
ネネコだと思っていたのはランマルの変身。
その真意を探るべく考えを巡らせると、答え合わせからやってきた。
「うん……こっちが本物か!?」
爆発で飛ばされた先に、本物のネネコが待ち構えていた。
ネネコに化けたランマルが、あらゆる手段を用いてタロウの注意を引く。その隙にネネコが気配を隠して接近し、絶好の機会に備えていたのだ。
現在、タロウは宙を舞っている。
グチャグチャにまとわりついたスライムが不規則な爆発(タロウ目線で言わせてもらえば芸術性のない支離滅裂な爆発だ)によって、タロウは体幹を崩されて姿勢を整えることもままならない。
応戦するどころか、受け身さえろくにできない状態だ。
ズン、とネネコの震脚が大地を踏み鳴らす。
「倒したと思ったのに……再生怪人なんて流行らないのよ今時!」
はぁぁぁぁっ! とネネコの気迫は凄まじい。
そんな彼女から繰り出される会心の一撃が、タロウの土手っ腹に叩き込まれた。一緒に彼女ならではの聖脂によるエネルギーも染み込んでくる。
ボン! と音がしてタロウが一回り大きくなった。
四肢が弾け飛びそうな衝撃が走る。
一撃食らっただけで地平線の彼方まで吹き飛びそうな掌底。
「まだまだッ! はい、はいはいはいはいはいはい……はいぃーっ!」
それが往復ビンタのように連続で続く。
だというのに運動エネルギーは発生せず、激痛とともに骨の髄から弾け飛びそうな力のみが流れ込んでくる。それはどんどんタロウの中に溜まっていき、逃げ場がないから河豚のように全身が膨れ上がってしまう。
そして、ネネコも逃がしてくれない。
掌底を打ち込みつつ、巧みにタロウも方向転換させてくるのだ。
ネネコが中心に立って自転を続けながら、タロウはその周囲をグルグルと回り続けており、ひたすら力を浸透させるための掌底を叩き込まれる。
発勁という技術も使われているため、えげつない鈍痛だ。
とうとうネネコの頭上へ持ち上げられる。
最後の一撃は最初の一撃と同じ箇所、下腹部へお見舞いされた。
その直前、ネネコは超高速回転する。
すぐさま竜巻が立ち上る回転力。天を突き上げるかの如き一撃には螺旋状の発勁(纏絲勁)が極限を越えて捻り込まれていた。
「八卦掌・改――大龍翻身!」
「出た、姉ちゃん48の必殺技のひとつ! 青龍翻身の改良技!」
愚弟ランマルの賛辞が聞こえる。
「うん……うぅぅぅぅおおおおぉぉぉぉ…………んんんんんッ!?」
タロウはそれどころじゃない。
竜巻が砲身、回転する強風がライフリング、更にネネコの必殺技が起爆剤となって、風船のように膨らんだタロウを打ち上げたのだ。
気分は完全に大玉花火である。
玉のように丸くなるまで膨らんだ体内には、ネネコによって封入された聖脂によるエネルギーが火薬よろしく、今か今かと爆ぜる瞬間を待っていた。
遙か上空に打ち上げられたタロウは爆発する。
爆発する以上は、爆発のアーティストとしての美学があるので、真昼の空であろうと輝かしい大輪の花を咲かせてみせた。
「たぁまやぁ~~~~~ッ! かぁぎぃや~~~~~ッ!」
ランマルの無責任な声が聞こえる。言葉の意味をわかっていまい。
ここまでは――前回の焼き直しだ。
ランマルという変拍子を加えられたものの、ネネコに叩きのめされた挙げ句、空に打ち上げられて爆発するところまでは同じ道筋を辿っている。
それをタロウが凌ぐのも同じ流れだった。
『うん、やっぱり……痩せた分だけ万全じゃないね、ふくよなかお嬢さん』
「うわ、しぶと気持ち悪ッ! またかよオッサン!?」
空を見上げるランマルが、変異したタロウの姿に毒突いていた。
タロウの過大能力は爆発の“気”になるもの。
その能力を駆使して爆発の化身となり、いつまでも消えることのない爆発の権化となってタロウは空を覆い尽くした。
自身が爆発となれば、爆破ダメージなど恐るるに足らない。
こうなればタロウの独壇場である。
なにせ実体のない爆発だ。いくら拳法の腕が凄かろうとも殴ることも蹴ることも能わない。頼みの綱である聖脂も今の攻撃で店仕舞いのはずだ。
見下ろすネネコは――またしても痩せていた。
乳房やお尻は爆乳や巨尻といえるほど皮下脂肪を残していたが、それだって全盛期の彼女と比べたら高が知れている。
もうネネコは高出力の攻撃を放つことはできない。
『うん、本調子じゃない君ではボクを倒せないよ……ふくよかなお嬢さん』
肥満体だったネネコ。その最後の一撃は本当にタロウを爆散させかねないほどの破壊力だったが、今回の威力はそれに遠く及ばない。
比較すれば3分の1くらいである。
『聖脂を使い切った君はガス欠同然……うん、おまけに物理攻撃主体だから、爆発そのものとなったボクとは相性最悪だよ、うん……さあ……』
見せてくれるかな――君たち姉弟の爆ぜるところを!
待ち侘びた復讐、そして爆発という芸術の開花。
待望の二つが同時にやってきた瞬間、タロウは狂喜乱舞した。
空を覆い隠す入道雲にも似た爆発の化身となったタロウは、ネネコとランマルを爆発させるべく急降下していくと――。
「――ロケットパァァァーーーーーーーーーーーーーーーンチッ!!」
鼻っ面に鉄拳がめり込んできた。
こんなところまで再現しなくてもいいのに! とタロウの脳内に苦情めいた言葉が過る。この爆発さえ殴り飛ばす鉄拳も記憶に新しい。
実体を持たない爆発をも殴打する――鋼鉄製の巨大な拳。
それはネネコとランマルを守るため、彼女たちの背後に広がる森の奥から地面を突き破りながら飛び出してきた。
「ずっとスタンバってた甲斐があったぜ……」
待たせたな爆発オヤジ! と気っ風のいい男の怒鳴り声を響いた。
大地を割って、木々を跳ね飛ばし、土煙を巻き上げる。
現れたのは――天を衝く武装した巨人。
純和風の鎧武者みたいな装甲をまとった上半身が起き上がり、石垣のように根太くズッシリとした両足が立ち上がる。
豪華絢爛な前立てを飾った兜が勇ましい。
それは天守閣を備えた日本の城郭をモチーフにデザインされた、鋼鉄の巨城が如きフォルムの巨大ロボットだった。全長300mに達しており、爆発の化身となったタロウを殴った鉄拳はその前腕部が分離したものだ。
独自の高速推進機関を備え、飛び道具として機能するらしい。
文字通り“ロケットパンチ”である。
和風ロボの兜、その前立て付近に腕を組んだ青年が仁王立ちしていた。
彼を一言で言い表すなら――イケメンなボス猿。
あまり上背が高くなく顔立ちも若作りなので少年のイメージがあるが、子供とは思えない力強い眼力の持ち主だ。強気を象徴する太い眉をつり上げ、猿という印象が強い大きな口には不敵な笑みを湛えている。
小柄な体躯にまとうのは、頭から爪先まで大工職人風な衣装。
マントとして羽織っている丈の長い半纏はギンギラギンに目映く瞬いており、背中に“大棟梁”と染め抜かれている。これがボス猿たる所以だ。
日之出工務店 社長――ヒデヨシ・ライジングサン。
反物質爆弾とかいうふざけた爆発物でタロウを抹殺しようとした張本人であり、タロウが殺したい三人組のトップといっていい男である。
そうだった、この男を失念していた。
前回は不意打ちのような乱入から滅多打ちにされて痛い目に遭わされたが、今回は最初から奇襲を狙っていたらしい。
あんな巨大ロボを地中に隠せるわけがない。
潜んでいたのはヒデヨシのみ、巨大ロボは後から出現したのだ。
過大能力――【夜明けと共に聳え立て絶対無敵大戦城】。
前回の戦いでも、あの巨大ロボは突然現れた。
あれだけの質量を持った存在を瞬時に出し入れできるとすれば、それはヒデヨシの過大能力に他ならない。技能などでは不可能な現象だ。巨大ロボの操作も込みだろうが、あのサイズを神出鬼没させるとは恐ろしい。
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「おまえさんらもおれたちについてコソコソ調べてたみてぇだが、こっちにも一流の情報屋がいてな。おまえらのことは興信所よろしく調べてたのよ」
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「豊満さが自慢なおれの女房を一度ならず二度までもガリガリ痩せさせやがっただけじゃなく、おれが守ると誓ったこの世界の牙なき人々を殺すために、性懲りもなくのこのこやってくるたぁ……もう勘弁ならねぇ!!」
――完膚なきまでに叩きのめしてやる!
ビシリッ! と効果音が聞こえそうな勢いでタロウを指差した。
『うん、また無差別砲撃でボクを散らすつもりかな?』
させないよ、とタロウは爆発の規模を拡大した。
もはや入道雲どころではない。見渡す限りの空を爆発という雲で覆ってやる。ここまで広がれば、如何に巨大ロボの一斉掃射でも散らせまい。
『前回は弱っているところに、そのお城型ロボットからの乱射を浴びてしまったからね、うん……今度はそう易々と散らされたりしないよ』
お返しに――爆撃の雨をご馳走しよう。
空を覆い隠す爆発の暗雲となった今、タロウは言葉に違わぬ“絨毯爆撃”を敢行できるのだ。爆発の雨を降らせることもできるし、このまま地表へ舞い降りれば無差別にすべてのものを爆ぜ散らすことも適うだろう。
ジョージィやゴーオンも巻き込まれるかも知れない。
だが、知ったことか――。
どうせすべて爆発とともに滅ぼすのだ。過程がどうあれ滅びさえ迎えればロンドは文句あるまいし、タロウの芸術家としての感性も満たされる。
『うん、爆発という極上の美……存分に味わうといいよ!』
「やかましいッ! 言ったろうが爆発オヤジッ!」
叩きのめしてやるって! とヒデヨシは得意気に指を鳴らした。
ズドン! と爆発の暗雲に新たな鉄拳がめり込む。
ヒデヨシの巨大ロボが放った巨大ロケットパンチだ。先刻タロウの顔面に撃ち込まれたものは既に右腕へと戻っており、これは左腕の分である。
実態を持たない爆発をも殴る鉄拳。
どうやら巨大ロボ自体、特殊なフィールドに包まれているらしい。
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『うん、まだ……この程度でボクの爆発は消えたりしないよ』
「そいつを吹き消すのが日之出一家の仕事だ!」
ヒデヨシが檄を飛ばすと、巨大ロボは上半身を反らして胸部を開いた。その奥から現れたのは、大砲と呼ぶのも烏滸がましい巨大な砲身。
「今度こそきっちり引導渡してやる! とっておきのコイツでな!」
間髪入れずに撃ち出されたのは漆黒の砲弾だった。
巨大なボーリング球にも見える砲弾は、照準で捉えたタロウ目掛けてまっしぐらに昇っていく。そして、狙いを外すことなく直撃した。
砲弾の移動速度は凄まじい。
このまま外宇宙の果てまで追い出されてしまいそうな勢いだ。
しかし、タロウは砲弾に張り付いて踏み止まる。
『うんっ! もしかして、また……うん、反物質爆弾というやつかな!?』
性懲りもないのは一体どちらなのか?
反物質の爆発力をこの身で味わったタロウは、同じ轍は踏むまいと心構えを改めていた。具体的な対策として、再び反物質の爆発を受けたらそれを自身のものとして取り込み、パワーアップできるよう画策していたのだ。
『うん、愚かだねぇ……実に愚かだよ、うん』
目論み通りなので、ヒデヨシは卑しい笑顔になる自分を止められない。
爆発と化した肉体を広げ、砲弾を取り込む準備を始める。
『この反物質爆弾を取り込んで、爆発の化身として更なる高みへ昇る……その爆発で君たちは滅ぶのだ! うん、己が愚行を後悔するといいよ!』
その時――砲弾に異変が生じた。
砲弾の表面に穴が開いた。中心に向けて漏斗状にだ。
漏斗状の穴が開いた砲弾の中心では、局所的ながらも無秩序にして無限大の質量が増大していき、空間を歪ませるほどの力へ消化しつつあった。
砲弾を中心に空間が湾曲する。
漏斗状の穴は砲弾に起きた変化ではなく、砲弾周辺の空間そのものが曲がろうとして起きた現象に過ぎなかったのだ。
この空間歪曲を――シュバルツシルト面という。
強すぎる重力が発生したため、そこから抜け出すためのスピードが光速を越えてしまった時に見られる。その空間領域の境界面を浮き彫りにするものだ。
別名、事象の地平面。
この現象を引き起こすものの正体は――。
『うん、まさか……これは……うん、ブラックホールッ!?』
「これぞツバサ君直伝! 暗黒孔巨砲!」
ヒデヨシの掛け声が届くはずもないが、宇宙空間に到達した砲弾はその言葉をきっかけにして花弁を開くようにほどけていくと、中心に生じたブラックホールに吸い込まれていった。
これに――タロウも巻き込まれる。
『ううぅん……うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉッ!?』
高密度の爆発エネルギーを食らったブラックホールは、宇宙空間を漂う隕石なども引き寄せて取り込み、降着円盤というものを渦巻かせる。
これはブラックホールに取り込まれつつある物質が、その周囲へ円盤状に広がって形成されるものだ。中心ではブラックホールが超重力を発揮して、それらの物質を抵抗できない吸引力でどんどん吸い込んでいる。
暗黒の穴へタロウも吸い込まれつつあった。
『うぅぅぅん! こ、こんなところで、このボクが……爆発の芸術を極め、世界を爆ぜさせるという……有終の美を飾る、最後の芸術家となる……うぅん!』
このボクがああああぁぁぁーッ! とタロウは絶叫する。
まだだ――タロウは諦めない。
光速を越えるための爆発を幾度となく繰り返す。
『この重力さえ振り切れば……爆発で振り切ってしまえばあああーッ!』
形振り構わずブラックホールからの脱出を試みるタロウの視界に、無視することのできない閃光が差し込んできた。
『うん? あ、あれは……あの光は……あの爆発は……ッ!?』
タロウはつい目を奪われてしまう。
爆発を繰り返してブラックホールから脱出することも忘れるほど……。
それは――クエーサー反応という光だった。
ブラックホールを取り巻く降着円盤は、無数の物質で構成されている。
それらの物質はブラックホールの周りにある潮汐力という重力場によって素粒子にまで分解され、やがてブラックホールへ飲み込まれていくのだが、その際にとてつもない摩擦力を発生させた。
この摩擦によって1億度に達する超高熱プラズマが起こる。
ブラックホールを中心とした降着円盤の上下から、1億度もの火力を秘めた純白の火柱がジェットのように噴き上がるのだ。
タロウが見蕩れたのは、このクエーサー反応である。
一切の混じり気がない――純粋な爆発。
あらゆる事象を虚無へ落とし込む昏い穴から噴き上がる、すべてを爆発によって平等にかき消してくれる無常の閃光。
『うん……あれは、ボクが求めた……ずっと、探していた……』
爆発の化身となったタロウにも生み出すことができたなかったもの、人間の意識がある限りは再現することできなかった天然の美しさ。
あれこそが――真の爆発だ。
タロウはその光へがむしゃらに手を伸ばす。
憧れ、求め、望み、追い、縋り、ひたむきに欲した爆発がそこにある。
宇宙で最も美しい爆発がここで爆ぜていた。
『ああ、ボクは……間違っていなかった、ここに、あったんだ……ずっと、宇宙にあったのか……うん、地上を這いつくばっていちゃ……』
見つからないはずだ、とタロウは至福の笑みを綻ばせていた。
タロウが生涯を賭した究極の爆発。
『うん、そうか……ビッグバンも……爆発を繰り返す恒星も……命尽きた星が爆ぜるという超新星爆発も……うん、ボクが夢にまで見た真の爆発は……』
すべて――宇宙にあったんだ。
人の手では決して成し得ない、本当の美は宇宙にあったのだ。
ブラックホールの彼方、事象の地平面の向こう側へ追いやられるまで、タロウはクエーサーの光を見届けると、安らか笑顔で最後に呟いた。
宇宙に散らばる幾多の爆発を見つめながら――。
『うん……爆発は、芸術、だ…………うん』
――数分後。
守護神と破壊神の盤上から№12のコインが消えた。
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転移した異世界で唯一、蘇生魔法を授かった僕。
一緒にパーティーを組めば絶対に死ぬ(死んだままになる)ことがない。
そんな口コミがいつの間にか広まって、同じく異世界転移した同業者(多くは女子)から引っ張りだこに!
寛容な僕は彼女達の申し出に快諾するが条件が一つだけ。
――実は僕、他の戦闘スキルは皆無なんです
そういうわけでパーティーメンバーが前衛に立って死ぬ気で僕を守ることになる。
大丈夫、一度死んでも蘇生魔法で復活させてあげるから。
相互利益はあるはずなのに、どこか鬼畜な匂いがするファンタジー、ここに開幕。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
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