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第15章 想世のルーグ・ルー
第371話:小文字の他者と歴史の重み
しおりを挟むもしもの話――身内に大罪人がいたとしたら?
その対応は一族によって千差万別、家族によって十人十色となる。顔も見たくないから縁を切る、門前に立っただけで追い返した時に塩を撒く、続柄という縁を断ち切るために勘当する……やり方も色々あるだろう。
しかし、これらの例には根底に共通する感情が働いている。
関わり合いたくない、という拒絶の意志だ。
それが血の繋がった親であれ子供であれ、罪人の穢れを厭う強烈な意志がこれまでの関係を頑なに拒む。やがては身内と認めなくなる。
最終的に辿り着くのは、無関係を突き詰めた無関心という境地だ。
怒られるうちが華――とはよく言ったもの。
過ちを犯して怒られるならば、まだ身内と認められている証拠である。どんな罪を犯しても、見限れないから叱ってくれる。やり直せる望みを見込むからこそ、我が事のように猛りながら説教してくれるのだ。
憎悪から生じる怒りとはまったく異なる。
親身に思うからこそ、「その心身を正せ!」と怒ってくれるのだ。
怒られるなんてまっぴら御免、そういう人間が圧倒的多数だとは思う。怒られる有り難みというものは、味わった者にしかわからない。
『あ……あ、ああ……あり、がとう、ございます……ッ!』
ガンザブロンから怒られたラザフォードは、涙ながらに感謝した。
自分はまだ――守護者でいられる。
無関心でも無関係でもない。だから怒られる。
仲間として認められているからこそ、叱責してもらえるのだ。
上官にして恩師と敬った人から怒られる喜びに感極まったのだろう。ガンザブロンの鉄拳は、500年間も自責の念に苦しんだラザフォードの錆びついた心の鐘を大きく打ち鳴らしたに違いない。
直後、トドメとばかりに総司令官から命令されたのだから堪らない。
『生き残った隊員とともに――真なる世界を守るため戦うこと』
自ら打ち立てた贖罪を後押しするかのように、スプリガンとして復職して守護者らしく戦えと命じられたら、涙腺爆発して号泣するのも致し方ない。
――ツバサも他人事ではない。
誰もが「おまえは悪くない」と慰めてくれても、折れた心が屈することなく立ち直った今でさえ、両親と妹の事故死への負い目がある。
許さなくていい……罵ってくれ、叱ってくれ、怒ってくれ。
墓前でひたすら願った日々が蘇る。
ダグやガンザブロンに介抱されるも、ラザフォードは地面に突っ伏したまま噎び泣くことを止めようとしない。溜め込んだ想いが堰を切って溢れているのだから、心を持ち直そうとしても理性が追いつかないのだろう。
どうしても胸に迫るものを感じてしまう。
決して罪が許されたわけでない。
それでも仲間の一人として認められたからこそ、殴られて、怒られて、叱られて、償うべき道を示された。それが嬉しくて堪らないのだ。
羨ましい……そんな羨望の眼差しでツバサは見詰めてしまう。
「……ツバサさん」
ふと気付くと、隣にいたミロに抱きつかれていた。
こちらの細い腰に両腕をしっかり巻き付けて、二度と離さないと言わんばかりに力強く抱きしめてきた。乳房に頬擦りしながら顔を埋めてくる。こちらを見上げずとも、切なそうな表情を浮かべているのがわかった。
ツバサを気遣ってくれているのだ。
ミロがいなければ、ツバサは死んでいただろう。
家族の死を受け止めきれず、自責の念と罪悪感に押し潰され、飲まず食わず寝ずのまま日々を過ごして、即身仏のような最期を遂げたと想像できる。
死者に引っ張られるように幽世へ旅立っていたはずだ。
『――アタシが家族になるから』
ミロの一言がツバサを絶望の淵から救い上げてくれた。
ラザフォードの感情に触れたツバサが、あの頃の絶望を甦らせようとしていることに勘付いたのだろう。アホの子だがそういう機微には敏い。
ツバサは潤む瞳をつぶるとミロを抱き寄せた。
彼女を慈しみながら感謝を伝える。
「大丈夫、もう幽世へ引っ張られたりしないよ」
「うん、ならいい……」
これだけ密着しても悪戯してこない。本気で心配されたらしい。我知らずのうちにそこまでラザフォードに共感してしまったようだ。
閉じた瞼からこぼれる一粒の涙が、その想いを物語っていた。
「フフッ、ウィング……女の子になって涙もろくなったんじゃない?」
「……いや、ジェイクほどじゃないと思うぞ?」
スプリガン族の再会を、ツバサたちは遠巻きに見守っていた。
ジェイクも両腕を組んで何も言わずに見つめていたのだが、さっきから男前に微笑んだまま滝のような涙を流しているのだ。ゴボゴボと音がしそうな勢いで、糊の利いたシャツはおろか、ジャケットやコートもまでびしょ濡れである。
「オレはいいんだよ。だって元乙女だもん」
「そのわりには男泣きだけどな」
男前にガチ泣きされながら女の子宣言とか、ジェンダーが乱れすぎだ。
すると、ミロが明るい声で言った。
「でも、ツバサさんだってムチムチ爆乳ケツデカドスケベ女神になって、アタシやみんなのお母さんやってるのに、まだ『俺は男だ!』っていうじゃん」
「誰がムチムチ爆乳ケツデカドスケベお母さんだ!?」
しんみりした空気が台無しである。
台無しにしたのは怒鳴り声を上げたツバサだが――。
ミロはこちらの腰に回していた腕をほどき、ツバサの爆乳を持ち上げて自己主張させるためにたゆんたゆんと弾ませるように揺らしてくる。ここまでセクハラされれば、決め台詞が口から飛び出すのも当然というもの。
悲しくも重苦しい回想が、良くも悪くも吹っ飛ばされてしまった。
ジェイクは大泣きしたまま男前の微笑を崩さない。
組んでいた腕から右手を上げると、制するように押し出してくる。
「ミロちゃん……悪いがオレにおっぱい属性はない。そりゃカワイイ女の子には目移りするけど、オレはどっちかというと太もも派だ」
細い腰とむっちりした太もものバランスを尊ぶらしい。
「ジェンダーXとか宣っていた割には女の子が好きなのか……?」
「勘違いしてもらっちゃ困るな、ウィング」
右手の人差し指を立てたジェイクは、チチチと小刻みに振った。
「オレが尊ぶのは、あくまでも絶妙な腰のラインから、緩やかなヒップのラインの盛り上がりを経てからの、張りのある太もも……というバランスだ。そこに女の子も男の子も関係ない。美少女、美少年なら文句なしだけどな。できれば、高校生、中学生……発育次第では小学生も……」
「おまえの性癖がヤバいってことは理解した」
ショタもロリも食える、と公言したようなもんじゃねーか。
子供たちと会わせる際には注意しよう。
「別に青田刈りが好きなわけじゃない。オレの感性にベストマッチさえすれば、年上だろうが同年代だろうがOKさ。ただ、どういうわけか年下に興味を向ける比重が多いっていうだけで……」
「やっぱショタロリ大好きなんじゃねーか」
太もも派ではあるが年下好み、ということらしい。ならばツバサの爆乳に見向きもしないのも道理だ。元女性という意識も手伝っているのだろう。
「そういや君とは話が合ったのう。フェチ的な意味で」
横綱が頭上から覗き込むように話に入ってくる。
紛うことなき尻派のドンカイがジェイクを仲間と認定した。お尻と太もも、部位的に近いので話題も弾むのかも知れない。
ジェイクは頷くと、右手の親指を立ててレオナルドを指す。
「というわけでだミロちゃん。ウィングのボインボインダンスは、巨大乳房を愛して已まない獅子翁にやってあげてくれ」
「俺をおっぱい星人代表みたいに名指しするのやめてくれないか!?」
レオナルドが抗議の雄叫びを上げた。
軍服男が情けない顔で必死に言い返してくる。
「大体だな、ツバサ君の超爆乳が揺れ動く様はもうボインボインどころじゃない! ダプンダプンとかドムンドムンって擬音語がピッタリじゃないか!」
そりゃ大好物だけども! といらん一言を付け加える。
「誰がダプンダプンでドムンドムンだ!?」
揺らす身としてはズシンズシンって感じで結構痛いんだぞ!?
少し離れたところでは、生き別れたスプリガン族が500年振りの再会を分かち合うという感動的な場面なのに……なんでこっちはグダグダなんだ?
まあまあ――マルミが宥めてくる。
「久し振りの再会なんだもの、はっちゃけるのもしょうがないわ。この子も友達に会えて嬉しいあまり、感情がとっちらかっちゃったみたいね」
ほらしっかりなさい、とマルミはジェイクを引っ叩く。
言動と行動がオカン過ぎる。
体型もそうだが醸し出す雰囲気からして、ツバサよりよっぽどオカンらしい彼女に仲裁されると、みんな大人しくなってしまう。ふくよかな丸みを帯びた体型も相俟って、本当にメイド長のような安心感まで覚えてしまう。
「…………可憐じゃ」
「親方!?」
そして、ドンカイはまたマルミに見惚れていた。
横綱を務めた相撲取りでもあるドンカイの体格からすれば、マルミのぽっちゃりなど細めの部類だろう。ワイドなヒップラインに見蕩れている。
ドンカイが一人の女性に入れ揚げる。
もしかしなくても、これが初めてかも知れない。
クロコからのどぎつい逆セクハラにも耐え、命の恩人を崇めるハルピュイア族から「子胤をください!」とアピールされても宥め賺して、色事へ走ることのなかったドンカイは、大人として色恋沙汰には丁重だった。
それがマルミには一目でゾッコンである。
十中八九、一目惚れなのだろう。ドストライクな女性像だったらしい。
「重量級のカップルが誕生しそうな予感……だね!」
「ミロの発言は真実味が増すからやめろ」
直観と直感の技能を持つミロは、未来予知に等しい勘を働かせる。
ドンカイが横綱の功績を持つ親方で、マルミが母性満点の女将さん。などと想像してしまったら相撲部屋の出来上がりである。
母性が強いのもあるが、マルミは統率力にも秀でていそうだ。
四神同盟には2人のメイド長がいる。
片や外見こそ爆乳美女だが一皮剥けばド変態のクロコと、片や内面こそ真っ当だが筋骨隆々な漢女ことホクトの2人だ。
彼女たちと比べたら、マルミの方がメイド長に相応しい。
グダグダになりかけた場に割って入ると、母性的な笑みを投げ掛けて声を荒げた者たちを落ち着かせ、一枚のハンカチを取り出した。
「この子ったらクールぶってるくせして人の何倍も感受性豊かだから、すぐ熱くなっちゃっうのよね……ほら、ちーんしなさい、ちーんって」
ジェイクの涙まみれの顔を手早く拭う。
最後に鼻へ押し当てると、鼻をかむように言い付ける。ジェイクもよく躾けられているのか、顔を顰めて「ちーん!」と鼻をかんでいた。
……ツバサよりお母さんをしているな、この人。
単に「面倒見がいい」だけでは片付けられない、母性本能とかオカンとかママみを身に付けた者しかできない気配りがそこにあった。
それがわかってしまう辺り、ツバサのオカン力も着実に……。
「――誰がオカンだ!?」
「いや、どうしてアタシにばっか当たるの!?」
アホの子ならいつ叱っても世間的におかしくないからだ。
「……ふぅ、失礼」
マルミに顔を拭ってもらったジェイクは、自分でもハンカチを取り出してシャツやコートを拭いて身嗜みを直すと、無理やり仕切り直してきた。
「じゃあラザフォード君たちスプリガン軍団は、古巣でもある方舟艦隊……スプリガンの本隊に合流させるってことでいいのかな」
ウィングとこにいるんでしょ? とジェイクは問い掛けてくる。
あまりにも反射的な発言にツバサは難色を示した。
「俺たちは別に構わないし、ダグ君たちも異存はないと思うが……ルーグ陣営はそれでいいのか? あれに乗せたお客はどうするんだ?」
ツバサはラザフォード号が牽引する客車を見遣った。
生命体を感知するツバサの過大能力では先ほどから、千には届かないが数百にも及ぶ生命反応を感じていた。内訳は三種類に分けられる。
正式名称はわからないが、特徴を並べてみる。
「大地の属性を強く感じる子供みたいに小柄な種族と、変温動物に近い体温維持の肉体を持つ種族と、竜とよく似た波動を発する亜神並みに強い種族……」
「ノッカー族、リザードマン族、ドラゴノート族のみんなだね」
ジェイクが答え合わせをしてくれた。
「確かにウチで預かっているこの世界の人たちだ。彼らが安全に暮らせる土地を探して旅してるから、ラザフォード君の“脚”がないと困るんだけど……」
「……だけど?」
言葉尻を濁すジェイクに、ツバサはオウム返しで尋ねる。
「どの子も特徴的なところがあってね。暮らす場所や気候を選びそうなんだ。どこかいい場所知らないかな? それと、彼らについてもうちょっと詳しく調べないと、性質とか体質とか……この環境がベストであの環境はバッドとか」
「はいはーい、そこら辺はウチも分析済みッス」
すかさずウチの博覧強記娘、フミカが割り込んできた。
エジプシャンな踊り子めいた格好をしながらも、眼鏡に姫カットな文系女子らしさを忘れないこの次女は、博物学的なことが大好きなのだ。真なる世界の種族も子細漏らさず調べ上げ、自身の【魔導書】に記録している。
まだ見ぬ新種族がいると知り、既に調査を終えていたらしい。
豪華に飾り立てた百科事典みたいな【魔導書】を宙に浮かべ、それが独りでにページを捲っていくと、画像を交えて解説してくれた。
レオナルドは蘊蓄たれだが、この娘は解説者の気がある。
重要な話に流れていきそうな場面だったので「説明は後にしなさい」と注意するつもりだったが、ジェイクが食いついてきた。
「お、あの子たちについてわかるの? オレはゲーム由来の知識しかないから、なんとなくしかわかってなかったんだけど……」
知ってるなら教えてよ、と水まで向けてしまった。
「はいはい、OKッスよ。原典からざっくり説明できるッスから」
こうなるとフミカは止まらないし、ジェイクが希望したことでもあるので差し止めるのも野暮だ。しばらく成り行きに任せよう。
ツバサも講義を受けるつもりで耳を傾けることにした。
「ノッカーは割と有名な妖精ッスね」
原典はイングランド、コーンウォール地方に伝わる鉱山の妖精。
この地方にはあちこちに錫の鉱脈があり、それを掘るための鉱山が数多く点在していた。この鉱山に棲み着いた妖精がノッカーである。
彼らは鉱山夫顔負けの働き者だ。
身長は10㎝程度しかないものの、しっかり鉱山夫の格好をして錫を掘るための装備を整え、24時間年中不休で錫の鉱石を掘っているという。
ノッカーは鉱山夫にとって幸運を招く妖精でもある。
親近感を覚えるのか、ノッカーは鉱山夫と仲良くなりたがる。いい錫が埋まっている場所を教えてくれたり、落盤やガス爆発といった危険が迫れば教えてくれて、時には疲れを癒やすため音楽まで奏でてくれるそうだ。
そういった時、ノッカーは岩盤をコンコンと叩いて合図をする。
つまり――ノックしてくるのだ
「このKnockがノッカーの名前の由来らしいッスね」
「あのおチビちゃんたち、やっぱり鉱石関係が得意なのか」
「ウチのノームちゃんたちは幼稚園児くらいの身長だけどね」
ジェイクは心当たりがあるのか感心し、マルミは情報を追加してくれた。
背丈に関してはフミカも把握済みだ。
「鉱山や大地の妖精っていうのはドワーフ然りコボルト然りノーム然り、小柄なものだと相場が決まってるッスからね」
揃ってきたッスね、とフミカは満足げに【魔導書】を読み返す。
ドワーフ族はミサキ君の治めるイシュタルランドで暮らしており、コボルト族とノーム族はツバサのお膝元ハトホル国にいる。大地の精霊系種族が集まってきたことを評して「揃ってきた」と言いたいのだろう。
……コンプでも目指しているのか?
「リザードマンは日本語に直訳すれば、まんまトカゲ人間ッス」
ファンタジー作品によく登場する種族だが、出典ははっきりしない。
ヨーロッパの伝承に『天罰や呪いによってドラゴンやトカゲにされた人間』というものがあるため、ここからインスパイアされた説がある。
人間のように二足歩行の体格だが、体表はトカゲの鱗皮で覆われており長い尻尾を持つ。顔はトカゲそのものだが理性的な眼を持つ。
ただし、登場作品によって知性や文化レベルはまちまちだ。武器や防具は使えるが原始的な生活を営んでる場合もあれば、人間と対等に渡り合える知能と文化を備えていることもある。
後者の場合、高潔な性格をしている例が多い。
また湿原のような湿地帯を好んで生息域とし、種族的に左利きという設定がなされている場合がほとんどだ。
「でも、こちらのリザードマンは随分と人間寄りッスね」
フミカはディスプレイ代わりの【魔導書】を興味深げに見つめていた。
どれどれ? とツバサもヒョイッと覗いてみる。
確かに――人間的なトカゲというよりトカゲっぽい人間だ。
分析結果として【魔導書】に描かれているのは、標準的なリザードマンの体型をデザインしたものだが、体系的にはほぼ人間だった。
顔立ちもかなり人間の風貌に寄せている。
長い尻尾と鱗の表皮があるため、リザードマンだとわかるが……。
「一昔前にカナダの古生物学者が『もしも恐竜が絶滅せずに人間と似たような生物へ進化したら……?』っていう学説を提唱して、恐竜人間っていう想像図が描かれたりしてましたけど……それよりもっと人間っぽいッスね」
「ああ、頭蓋骨も人間と遜色ないな」
それでも彼らはリザードマンには違いない。
ツバサも解析する限りでは、彼らの体温維持機能は恒温動物のものではなく爬虫類によく見られる変温動物のそれだ。つまり、トカゲである。
寒いところには住まわせられないな、と案じてしまう。
幸いなことに四神同盟の国々はハトホル国を始め、温暖な地域ばかりなので移住を検討するのであれば歓迎できそうだ。
「そんでラスト、ドラゴノート族って人たちッスけど……」
彼らは亜神族みたいッスね、とフミカはほぼ特定したらしい。
「漢字で書くなら“竜人”という文字を当てたいな」
「そうッスね、彼らはまさしく竜と人の能力を併せ持つ“竜人”ッス」
ツバサが提案すると、フミカも賛成してくれた。
一見すると、リザードマンに似ている。
どちらかと言えば「人間にドラゴンの要素を加味した」という表現がしっくり来るかも知れない。
手足の先が竜の鱗に覆われており、爪もやや鉤爪状になっている。顔立ちはほぼ人間だが歯並びは犬歯よりも尖った牙がメインだ。頭髪をかき分けるように生える角は個人差があるものの、鬼よりも動物らしさが際立つ。
尾骶骨から伸びた尻尾は、リザードマンより長くて太め。
背中には収納式の翼があり、広げるとドラゴンの風格が増す。
「ファンタジー系の創作物語には、よく竜と人を掛け合わせたような獣人の一種として登場してるッスね。呼び方は竜人を始め、ドラゴニュート、ドラコニアン、ドラゴンボーン、ドラゴノイド……と色々ッス」
「あ、ドラゴニュートってのはゲームなんかで見かけるね」
退屈そうに聞いていたミロも、得意のゲームで聞きかじった単語には反応した。そのままツバサの巨尻に抱きついてくるのは余計だが。
「創作だけじゃなく、竜人を語った伝承もなくはないんスけどね」
実のところ、あまりメジャーではないらしい。
「龍やドラゴンが人間に化けたお話や、人間が呪いや魔法で竜に変えられたって話はわんさか掘り返せるんスけど……いわゆるドラゴニュートみたいな竜人が登場する伝承って限定的なんスよね」
東ヨーロッパ――ルーマニア地方。
この地では“ズメウ”という種族が言い伝えられている。
人間のような体格で二足歩行だが、全身がドラゴンの鱗で覆われて尻尾や翼を生やしており、顔は完全にドラゴンのものだとされている(※お話によっては人間など遠く及ばない美形のズメウもいたりする。彼らの顔立ちは人間寄りらしい)。
地下に巨大な王国を造って暮らしているズメウは、高度な知性と優れた身体能力を持っており、男なら人間が束になっても敵わない強力な戦士であり、女なら魔法や幻術を心得た魔術師として物語に登場するという。
しかし、今日のファンタジ―作品にズメウはほとんど出てこない。
そのことをフミカは私見を交えて語る。
「エルフにしろドワーフにしろオーク……はちょっと違うけど、こうした幻想系の種族や妖精は、多かれ少なかれ原典となるものがあるんスよね。でも、竜人やドラゴニュートはあんまりズメウと結びつけられてないッス」
「共通点はいっぱいなのにね。なんでだろ?」
ツバサの巨尻に顔を埋めて首を傾げるミロに、フミカは「ウチもまだ調査不足ッス」とお手上げのポーズで肩をすくめた。
「とまあ――こんな感じで三種族の説明は以上になるッス」
ご清聴ありがとうございました、とフミカは【魔導書】を閉じて道具箱に収めると、ジェイクやマルミに向かって一礼した。
パチパチパチ、と惜しみない拍手を送るジェイクとフミカ。
いつの間にかソージ、レン、アンズといったルーグ陣営の高校生トリオも集まっており、2人の後ろから耳を傾けていたらしい。
「ありがとう、為になる話だったよ」
ジェイクが礼を述べると、マルミは手を合わせて願い出てくる。
「フミカちゃん……だったわよね? 差し支えなければ、原典や出典も交えた今のデータ、コピーして譲ってもらえないかしら? あの子たちが病気や怪我をした時に、回復魔法や薬をどんな案配で使うかの参考にしたいんだけど……」
「いいッスよ。まとめて報告書形式にしときますね」
こういう仕事はフミカにお任せである。
恐らくマルミも分析系の技能は習得しているだろうが、フミカの分析や走査は微に入り細に入り、それこそ細胞レベルまで調べ上げる念の入り用だ。
ツバサも舌を巻く精度なので欲しがるのも頷ける。
「……あれ? スプリガン族はいいんですか?」
マルミは三種族のためを思って基本データを求めたが、ルーグ陣営と行動を共にしていたのはラザフォード率いるスプリガン軍団も変わらない。
だから「スプリガン族のデータは?」と訊いてみた。
マルミは得意げに答えてくれる。
「あの子たちならよく知ってるわ。トラン○フォーマーでしょ?」
「いや、その解釈であながち間違ってませんけど……」
そこはかとなく危険な香りが漂う。
するとジェイクが眼鏡がズリ落ちるほど目を丸くしていた。
「え、あの子たちってマシ○ロボじゃないの!?」
「おまえら確信犯でボケてるよな!?」
乗物がロボットに変形するアニメを上げとけば納得してもらえるとか思ってるんじゃないのか!? と声を荒げそうになってしまった。
冗談よ冗談、とマルミは訂正してくる。
微笑む口元に片手を当てながら、もう片方の手でヒラヒラと仰いでくる。こういう仕草までお母さんらしさ満点なのはもう褒めるしかない。
「できればスプリガン族の身体検査みたいなデータもいただければありがたいわね。でも、それを活かせるのはあたしじゃなくて……」
「――僕の方が活用できますね」
前に出てきたのはソージ・スカーハだった。
ダインの幼馴染みの少年だというが、VRMMORPG時代に故あってアバターを女性化させたため、真なる世界では女性になってしまったらしい。
元少年のためか身長が高く、可愛いというより凜々しい。
車掌の制服みたいなダブルのスーツをしっかり着込んでいるが、バスト、ウェスト、ヒップのメリハリは隠せていない抜群のスタイル。もしも現実世界で女子校にでもいたら、あだ名はまず間違いなく「王子様」で通るだろう。
ソージは軽く会釈してから説明する。
「スプリガン族を復活させたのはジェイクさんの過大能力ですけど、彼らの機体や外骨格に当たる“巨鎧甲殻”を修理したのは僕ですからね。彼らの健康診断みたいなものはやりましたけど……あの詳細な分析データを見せられたら、僕も参考にしたくなっちゃいますよ」
いいかなフミカちゃん? とソージは了解を求める。
現実でもダインを通じて知り合いだったので気安いところのあるソージに対して、フミカはちょっとたじろぎながら愛想笑いを浮かべる。
挙動不審なのがバレバレだった。
「……も、勿論ッスよ、ソージくん!」
これにはソージも苦笑いするしかないようだ。
「……あの、まだ僕がダイちゃんを盗るとか思ってるの?」
「わかってるッス! そんなことは有り得ないって!」
ソージへの申し訳なさを露わにしたフミカは半泣きになると、スプリガンの再会を漢泣きで見つめていたダインに、扉をぶち破る勢いのショルダータックルを決め込みながら抱きついた。
ブフォ!? とダインも噴き出す威力である。
ダインは神族・機械仕掛けの神。骨髄まで鋼鉄製なので頑強さが売りだというのに、それを怯ませるとはフミカも逞しくなったものだ。
ダインは自分のもの! と公言するがの如くフミカは熱烈に抱き締める。
非戦闘職にあるまじき腕力を発揮していた。
「あがががッ!? フミィ! 背骨のメインフレームがアカンぜよ!?」
「ダイちゃんとソージくんが男同士の幼馴染みで、昔っからロボットアニメ大好き愛好者だから無二の親友っていうのは百も承知ッス! でも、だけど……そんな美人な女神さんになってたら、新妻のウチは戦々兢々計り知れないッス!」
失礼だとわかってるんスけどー! とフミカは泣き出した。
寝取られるとは思えないが、万が一心移りでもされた……と想像するだけで居ても立ってもいられなくなるのだろう。
本当、この次女はヤンデレ気質で困る。
それでもまあ、ちゃんと当人の前で思い違いから沸いてくる嫉妬だと公言しているだけマシかも知れない。陰湿なことをしないのが救いだった。
ソージは大声でフミカに言い聞かせる。
「わかった、わかったから! そうだ、こうしよう! 僕がダイちゃんと話したり相談する時、もういっそ用があって会う時には、必ずフミカちゃんに立ち会ってもらうってことで!」
どうかな? とソージは譲歩案を切り出してきた。
「……ぐすっ、それならいいッス」
迷惑掛けてごめんなさいッス……フミカは子供みたいにショボーンと俯きながら小声で謝罪していた。自分が間違っている自覚はあるのだ。
それでも――ようやく結ばれた愛しの伴侶。
ダインを奪われたくない一心で暴走してしまうらしい。
「すまんなぁソージ。気ぃ遣わせてしもうて……」
自分にぴったりくっついて、両腕どころか両足まで使って蟹挟みよろしくしがみついてくるフミカを撫でてやりながら、ダインもソージに謝った。
いいよ、とソージは気さくな返事をする。
「好きな人を奪われたくない、って気持ちは痛いほどわかるからさ……」
どこか悟った表情でソージは呟いた。
まだ高校3年生くらいだと聞いたのだが、その年で略奪愛とか寝取られ行為みたいな悲恋でも味わってきたのだろうか? それくらいの実感があった。
沈みがちなソージを励ますようにダインは快活な声を張る。
「ところでソージよ、われスプリガン族を直してったんはええが、“巨鎧甲殻”をイジりすぎて道具箱に戻せんなっちゅーんやないか? やきアイツら、ビークルモード状態にして出しっぱにしちゅーんやろ」
「え!? それ一目でわかるの!? ダイちゃんさすがぁ……」
すかさずフミカもサポート的助言を提示する。
ヤキモチを妬いたお詫び、ということもあるのだろう。
「スプリガン族の“巨鎧甲殻”は神族のウチらなら改修してあげることができるんスけど、その時に亜空間にある道具箱も設定し直す必要があるんスよ。それを処置してあげないと“巨鎧甲殻”が出っぱなしになっちゃって……」
「そうそうそう! 困ってたんだよ、その問題で! 解決策があるならラザフォードさんたちのために是非とも教えてほしいんだ!」
どうやら難儀していた問題らしい。
ソージは約束通り、フミカを交えて3人でダインと相談していた。なかなか律儀な少年(?)だ。女体化仲間としても好感が持てる。
そのうち、真なる世界に来て女性化した面子で集まって愚痴ったり女性の身体についての感想を言い合う会でも開こうか、とぁ思ってしまった。
「あの、ところでなんスけど――」
スプリガン族の“巨鎧甲殻”についてソージにレクチャーをする傍ら、フミカは思い出したかのように尋ねてきた。
「さっき三種族を調べてる時、ちょっと気になったんスけど……ドラゴノート族の人たちだけ、若いというか……子供ばかりなのは何故なんスか?」
何かあったの? というニュアンスでフミカは質問した。
ツバサもその点は気になっていた。
分析系の技能を走らせて覗いてみると、ノーム族やリザードマン族は老若男女がちゃんと揃っているにも関わらず、ドラゴノート族だけが異様に若々しい。
具体的に言えば、成年前の少年少女しかいないのだ。
これを受けてジェイクの表情が強ばる。
いや、強ばるどころではない。目尻と眉尻は天を突くばかりに釣り上がり、自然と口角も持ち上がると牙を剥くように歯噛みしていた。
無意識のうちに殺気を漲らせている。
フミカの「地雷を踏んだ!」という狼狽の顔を見て、ジェイクは怒りに囚われつつあったことを再認識したらしい。
「あ、いや……フミカちゃん、ごめんね?」
ジェイクは我に返ると、怖がらせたことをフミカに詫びた。
恐らく、最悪にして絶死をもたらす終焉絡みの案件だろうということは容易に想像がついた。でなければ、ここまで豹変することもあるまい。
「バッドデッドエンズと何かあったようだが……」
聞かせてくれないか? とツバサは事情を明かすよう促してみた。
ジェイクは辛そうに唇を噛んで目元を伏せると、ロングコートを翻して数歩だけ歩いた。顔を見せられないから、こちらに背を向けたのだ。
「よくある話さ……俺は、復讐したいだけなんだよ」
最悪にして絶死をもたらす終焉に――ジェイクは忌々しげに吐き出した。
微かに肩を震わせながら拳を握り締める。
「お察しの通り、ドラゴノート族の大人は……奴らに皆殺しにされた。それだけじゃない、ノッカー族やリザードマン族も被害を受けている……現場にいなくて無事だったのは、ルーグ陣営とスプリガン軍団だけ……」
そして――ジェイクの最愛の人を殺した。
「このケジメはつけさせる……必ず! 絶対に! 何が何でもだ!」
ジェイクは誓約するかの如く慟哭を漏らした。
~~~~~~~~~~~~
「ぶっちゃけると――“小文字の他者”ってやつだ」
暗闇の中、ロンドは独り言のように呟いた。
最悪にして絶死をもたらす終焉・本拠地――混沌を拡販せし玉卵。
その地下施設の一角に、何もないホールがあった。
本当にがらんとした大きな空間が広がっているだけで、照明はおろか採光や換気のための窓すらなく、施設も設備も何もない。ただガランとしている。
倉庫ぐらいにしか使い道のない場所だ。
そのホールの出入り口付近に、ロンドは腰掛けていた。
チョイ悪親父よりぶっ飛んだ極悪親父らしく、高級ブランドのスーツをだらしなく着込んでいる。持ち込んだ社長仕様の豪勢なチェアにふんぞり返って頬杖をつくと、照明すらないホールの暗闇を見渡していた。
何もないはずのホールは今――みっしり埋め尽くされている。
決して光の差さない地下深いホールだが、神族や魔族となった者なら見通せないことはない。ロンドは経過を見守るように眺めていた。
「専門用語だと思うんだが、どれくらいの普及率なのかねこれ?」
繰り言だが尋ねられているようにも聞き取れる。
近くにいる者は話し掛けられたと思ってしまうので、ついつい返事をするように言葉を交わさざるを得ない。
反応したのは魔女医ネムレスだった。
「精神分析学の祖ジークムント・フロイト……その教えを受け継いだフロイトの大義派、通称ラカン派が提唱した概念でしたね」
作業の手を止めることなく、滑らかな口調で答える。
分厚くも厚い生地で縫製された、ドレス調のナース服とでもいうべき衣装で身を固めた美人女医だ。艶やかな黒髪のストレートヘアには、逆十字のナースキャップなんて反骨精神旺盛なアクセントを付け加えている。
大層な美人なのだが、口元はいつも薄紫のフェイスベールで隠していた。
彼女の手元の明るさが、このホールで唯一の光源だった。
「さすがは元医者、専門外なのによく知ってんじゃんネムネムちゃん」
ネムネム、という可愛らしいあだ名にネムレスはちょっと眉をひそめる。調子が狂いそうな彼女に気付くことなく、ロンドは機嫌良さげに続けた。
「中二病っぽく“対象a”と呼んでもいいぞ」
「昨今ではそちらの方が通りが良いかも知れませんね」
それは“小文字の他者”の別称だ。
手元に投影させたスクリーンタイプのキーボードをブラインドタッチで弾きつつ、目の前に浮かぶいくつものウィンドウから目を逸らさない。
これが光源の正体だ。
ネムレスは作業を続けたまま諳んじる。
「人間の知覚領域の外にある存在……それは名付けられぬ得体の知れないものではあるが、人間は決してそれを無視できない」
怪物、魔物、妖怪、化生、妖精、悪魔――あるいは神や精霊。
「学術的に分類すれば、学者の数だけ分類が成されるに違いないでしょう。しかし、普遍的で一定した分類を見出せずに終わる。何故ならば、彼らは常に意識で認識できる世界の縁に佇んでおり、その縁を人間は見通せないからです」
世界の縁を見ることはできるだろう。だが、完全に見通せる人間などいない。
見渡すことさえ以ての外、ぼんやり眺めるのが関の山である。
もしも完璧に把握できる者がいたら――そいつはもう人間ではない。
意識ある者からすれば、その縁はあやふやで曖昧なものに過ぎないのだ。
今にも崩れ落ちそうなほど儚いものとして目に映るものの、何故かそこから目を逸らすことはできない。それでいて意識では御することもままならない。
何の影響も及ぼさない無害なものと侮っていれば、気付かぬうちに心身を食い潰すほどの影響を与えるものへと成長していることもある。
何の力もない無力なものかと見捨てておけば、自他を巻き込んで滅ぼす絶大な力を持ったものへと肥大化していることもある。
それはどんな形をしていているのか? 絶対に把握できない。
力、要素、構造、すべてがわからない。
理解しようとすればするほど無理が生じる――矛盾した存在。
「そうして思い悩むうちにも次から次へと沸き上がり、一つ一つの個性を把握する暇もなく一気に膨れ上がる。それは意識が設けた常識の範疇には収まらず、異形にして無形、一個にして多数、意識の秩序から大きく逸脱するもの……」
「かーっ、言うねぇ語るねぇ! オジさんにはさっぱりだよ!」
ロンドは二日酔いで痛む頭を押さえるように「くーっ!」と呻きながら顰めっ面になっていた。単に知恵熱を起こしているだけかも知れない。
すぐにケロリと表情を戻してロンドは言った。
「……要するに、意識の手に負えない“何か”ってことでいいよね?」
よろしいと思います、とネムレスは同意した。
「この意識の縁に佇むものは無限大です。人間が未知とする存在が犇めいています。先に挙げた幻想的な存在に限らず、幽霊、怪異、宇宙人に異星人、未確認生物、フィクションの登場人物……枚挙に暇がありません」
意識の及ばない“何か”に、仮の姿を与えたに過ぎない偶像の群れだ。
決して本質を捉えることはできない。
「だが――どんなものより人間が未知と恐れるものがある」
それは無意識の深淵に蹲るものだ。
知恵者のネムレスもすぐには思いつかないのか、小首を傾げていた。
「それは……なんでしょうか?」
「ネムネムちゃんでもわからない? すっげー身近にあるモンさ」
――生と死だよ。
ぶっきらぼうにロンドは種明かしをした。ネムレスは意外そうな表情を浮かべてロンドへと振り向く。それでもキーボードの操作は誤らない。
「生き死に……がですか?」
「そうさ、人が何処から来て何処へ行くのか? なんて言った奴もいた。我思う故に我在り、なんて宣った奴もいた。それでも人間は生死についてちゃんとした答えを出してはいない。いや、答えなんてもので割り切れないんだよ」
誕生と死滅のメカニズムを解明しても、どうしてそれが自分たちの身に起こるのか? 未だに明確な答えを出していなければ、納得もできていない。
生命への疑問は解決していないのだ。
「どうして生まれたのか? なんで生まれたのに死ぬのか?」
誰にもわからねぇ、とロンドは頭を振った。
いくら言葉や理論で武装しても、その本質を謎のままだ。だから意識の果て、無意識の底に鎮めることでやり過ごしている。
幸いなことに、この謎はそうそう持ち上がってこない。
「だが、人間ってのは厄介なもんでな。意識の底から湧き上がってくる生の欲動と死の欲動から、どうやっても逃げられないようになってんだよ」
「生への欲動はさておき……死にも欲動などあるのでしょうか?」
ネムレスの質問にロンドは丁寧に答えた。
「死を想え──なんて言うだろう。生を想うならば、その終焉である死を想わない人間はいねぇんだよ。生を苦しみで死を解放と受け止める者もいるし、武士道みたいに忠義を重んじれば、自らの志に殉ずるのは何よりも誉れだろう」
生きている以上、死からは逃れられない。
生きることのみに専念したとしても、それは死への恐怖を無意識の底に沈めて生存欲求という蓋をしているだけに過ぎない。
蓋の下、無意識という釜では死という煮え湯がグツグツ滾っている。
「死は生とともにある……わかる気がしますね」
あらゆる生命は毎日死んでいますから、とネムレスは例を上げる。
「生命体の細胞は数ヶ月で完全に入れ替わる……という話を聞いたことがあるでしょう? それは多細胞生物にとって不必要な細胞や古い細胞が、その個体を正常に保つため自死するようにプログラムが仕込まれているからです」
「ああ、アポトーシスとかいうんだっけか」
「そちらは生体が自らの肉体を整えるため余剰な細胞へ死を促すシステムですね」
これもまた生を支えるための死である。
「不必要な細胞を殺すのがアポトーシス、古い細胞を廃棄のため殺すのはネクローシスです。どちらも生きるために自らの細胞を死なせるプログラムですね」
死ぬからこそ生きる。この現象ひとつ取っても、生と死は切り離せない。
それが死への欲動――生まれた以上は死ぬ。
「単純に突き詰めれば、たったそれだけの些細なことなんだけどね」
それだけなのだが、どうしてそうなるのかがわからない。
だから人間は生死の欲動を持て余す。
「無意識の底から湧いてくる生死の欲動と、意識で組み立てられる理知的な体系は、謂わば水と油だ。どうやったって馴染みゃしねえ」
ゆえに意識と無意識の境界線で衝突する。
「意識はあれこれ知恵を振り絞って無意識から這い上がってくる欲動を制御しようとするが、これを防ぎきれなきゃ欲動は意識に流れ込んできちまう。それは過剰な力となって、そいつの精神や心をかき乱すだろうな」
たとえ抑え込めたとしても、欲動は意識の枠からはみ出そうとする。
「そうした無意識からはみ出てきた欲動を意識は捉えるんだが、さっきも言ったとおり何が何だかわからねぇ状態だ。それでもわかろうとする、無理やり形を与えたり、名前を付けたりして、どうにかこうにか理解しようとする」
その形なき異形こそが――小文字の他者。
「……対象aというわけですね」
ネムレスが得心したように単語を繰り返すと、「そういうこった」とロンドは返しながら掌を広げた。そこにキラキラと光沢を発する黒い粒が浮かぶ。
それらは怪物を生む有精卵へと早変わりした。
「おれの過大能力ってのはな、その対象aに色を付けるようなもんだ」
無意識の深淵から湧き上がる欲動は、未知への恐怖に起因する。
理解が及ばないもの、想像が追いつかないもの、自らの知る限りの常識が通用しないもの、これらの脅威を意識は受け止めきれない。
それでも認識しようとして、様々な仮の姿を与えようとする。
「妖怪大戦争に出てくる化け物でもいいさ。特撮ヒーロー番組で暴れてる怪人や怪獣でもいい。そいつらと戦う変身ヒーローや巨大ロボ、漫画で超カッコイイ能力を使う主人公やそのライバル、古典を紐解けばこれらの元型となった怪物に英雄、小説、物語、舞台、神話……なんでもござれだ」
意識が生と死の欲動を受け、そこから溢れ出した自己の過剰性。
それらには多様にして多彩なる理想の形態を仮託される。この場合の理想とは良い意味ばかりではなく、悪い想像を形作るという意味でもある。
「即ちロンド様の過大能力とは、対象aを具現化させる能力……」
そう解釈して構いませんか? とネムレスは問う。
「ああ、構わねぇよ。知れたところで対処しようがねぇのは、これまでの話でわかってもらえただろうからな」
誰にも無意識は手懐けられねぇ、とロンドは言い切った。
ロンドの掌の上では、禍々しい怪物の胎児が何十匹の群れとなってグツグツと蠢いていた。身の毛もよだつ咆哮が轟いてくる。
奴らが解き放たれれば――世界は瞬時にして灰燼と帰すだろう。
無意識の底で胎動していたバケモノと聞けば納得できる。
一転、ロンドは寂しそうにため息をついた。
「だがな、おれが対象aから創るものにはどうしょうもない欠点がある」
「それの欠点を補うのが……この作業なのですね?」
ようやく話が繋がった、とばかりにネムレスはロンドへ振り返っていた顔を前へと向き直る。そして、暗闇に広がる光景を見据えた。
闇に浮かぶのは――無数の卵。
漆黒に沈むホールは、大小無数の卵で埋め尽くされていた。
ネムレスの操作するスクリーン型のキーボードからは、配線のように黄色くて細い触手が何万本も伸びており、それの伸びた先は卵の内側へ侵入していた。
「ああ、そうだ。ネムレスにやってもらってんのは他でもねぇ……」
ロンドは掌中に生じた怪物どもを握り潰す。
「歴史の重み――そいつを書き加える作業だ」
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