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第10章 天梯の方舟と未完の巨神
第233話:その男、織部──
しおりを挟む動揺とは本人が思った以上に表に出るものだ。
古田織部──あるいは古田重然。
どちらの名前に反応したのかわからないが、ドンカイの口から出た名前にオリベはあからさまに狼狽えた。反応して身構えるように動こうとする身体を、無理やり押し止めたため“ビクンッ!”と痙攣めいた震えを起こす。
そして、微妙なポーズで固まってしまった。
このリアクションで「それがしの本名です」と認めたも同然だ。
「そ…………」
硬直したオリベは、仮面の奥から震える声を絞り出す。
「それがし……ウォホン! 織部助殿を……御存知か!?」
自爆したぞ──ご老体。
ツバサたちがジト眼で見据え、イヨも宝石の瞳を興味深げに向ける。この反応から察するに、オリベはイヨにも自分の来歴を明かしてないらしい。
器用なことに、飾り気のない仮面に冷や汗をかいていた。
ツバサは耳にした名前を並べて、フルネームを推察する。
「古田……織部助、重然殿……でいいのかな?」
やっぱり戦国期に名の知れた大名なのだろうか?
ツバサは横に並んだフミカに尋ねた。
戦国武将はそこそこ知るツバサだが、ほとんど武勇伝に偏っている。しかし、古田重然の名前は聞いた覚えがなかった。
武名ではなく、文化的な功績を残したのかも知れない。
ツバサは詳しくないが茶道や芸能で活躍した武将も少なくないはずだ。
博識なフミカなら知っているに違いない。
オリベの正体を確かめたくて、今日も同行したのだから──。
「そうッス、あの豊臣秀吉に仕えた大名さんッスよ。戦場で武功を上げて出世したタイプじゃないから、知名度はちょっとマイナーッスけど」
ある方面では「知らねばモグリ」なほどの有名人だという。
古田織部助重然──あるいは古田織部正重然。
若き頃は織田信長の使番(敵陣に書状を届ける、危険と隣り合わせな役目)を務め、後に太閤秀吉に取り立てられ三万五千石の大名となる。
(※諸説あり。8千石から1万石の大名になったという説もある。そもそも大名ではなく、とある領地の家老職みたいな存在だったとの説まである。しかし、豊臣秀吉が関白になった頃にはその功績を評価されて厚遇を受け、朝廷から従五位下の官位と「織部助」の名を授かっているのは事実)
彼の名声を高めたのは、戦場での武功ではない。
(※武功がないわけではなく、いくつもの重要な局面で武将の懐柔や説得を任せられており、いずれも成功させている)
茶の湯──茶道を極めた人物として名高いのだ。
あの千利休の高弟『利休七哲(もしくは十哲)』の1人。
利休からは「人と違うことをしなさい」との教えを受け、その利休亡き後は自らの茶道を極め、天下一の茶人にまで上り詰めた傑物。
豊臣政権下では茶人として重用されたという。
茶の湯のみならず茶器を初めとした陶器作製、茶室の設計に屋敷や御殿の建設、貴族の別荘普請、庭園作りまで手掛けた文化的才人でもある。
秀吉亡き後は徳川家康と懇意になり、二代将軍徳川秀忠を初めとした幕府の閣僚たちも、古田織部に茶道を師事して“宗匠”と敬われた。
しかし、大坂夏の陣──。
徳川方にも関わらず、豊臣方に内通しているという謀反の疑いを掛けられ、家康の怒りを買って切腹を言い渡される。
これに織部は申し開きを一切せず、潔く切腹にて果てた。
「……ってのが、古田織部さんの略歴ッス」
「講釈ありがとう、フミカ。おかげで大体わかった」
概略を聞いただけでも、気骨と才気にあふれた御仁だと知れた。
それだけの成功を収めた武将なら、もっと「それがしは天下一の茶人、古田織部であーる!」と威張っても良さそうなものだが……?
オリベはフミカの解説に肩を落とすばかりだ。
本人と認めないこともあってトラウマでもあるのか?
その最期にしても、一斉言い訳せず切腹したと言い伝えられているので、茶人としてだけではなく武人らしい気概も感じられる。
だからこそ、心残りがあるのかも知れないが──。
「それがし……ゴホンッ! 古織殿の生き様が後世にそこまで伝えられているとは意外でござるな……てっきり消されたものと思っておりましたので」
「……消された?」
古田織部という男の記録を消されたと思っていたのか?
時の権力者から不興を買って切腹させられたとはいえ、天下一の茶人にまで成り上がった傑物の人生をそう簡単に消せるものだろうか? 公的にはできるかも知れないが、人の口に鍵は掛からない。
それほどの人物ならば、必ずや評判が口伝てに市井へと広まるはずだ。
到底消し去れるものではないと思うのだが……?
ツバサが鸚鵡返しに尋ねると、オリベはわずかに目線を合わせてから顔を背けるように、あらぬ方向へと向いてしまった。
澄み渡る青空は、冬となって透明度を増した。
そんな澄んだ空を見上げて、オリベはポツリポツリと語り始める。
「確かに、それがしは古織殿と同じ時代を生きた者……それは認めましょう。その生き様に憧れたことも……だが、それは大御所様に否定されてしもうた……」
「否定された……徳川家康に?」
「あ、もしかして……切腹した後の話を聞いたんスか?」
フミカは思い当たる節があるのか、オリベの寂しい背中に尋ねる。
オリベは振り返らず、町作りに励む者たちへ目を向けた。
「あそこにいる者たちは徳川幕府が治めた世……江戸から流れてきた者も多い。彼らから、それとなく聞いておったからな……」
古田織部の死後──彼の生み出した風潮は全否定されたという。
織部好みとも評された前衛的な“歪み”を愛した独特の陶器を始め、その審美眼によって造られた庭園や建築物も取り壊されたらしい。
「関西地方の工事現場で地面を掘ったら戦国時代のゴミ捨て場が見つかって、そこに織部好みの陶器が山ほど捨てられていたって話もあるッス」
オリベの耳に届かぬよう、フミカはツバサに耳打ちする。
江戸時代──織部好みは排される風潮にあったらしい。
徳川が天下を牛耳る世の中となったのだ。豊臣に味方した逆賊として切腹させられた武将のムーブメントが敬遠されたのは否めない。
誰もが累が及ぶことを恐れたのだろう。
しかし、あまりにも徹底された感があった。
「大御所様がそれが……ゴホン! 古織殿の革新的な美を、面白きことを尊ぶ精神を毛嫌いしておったことは、薄々勘付いておった……これは推測だが、織部好みの気運が、幕府の統治を揺るがすことを恐れておったのかも知れんな」
決まり事に囚われない──自由奔放な精神。
師である千利休から「人と違うことをしなさい」と教えられた織部の美術には、既成概念に嵌らない自由への通念が窺える。
「ぶっちゃけ──アバンギャルドッスよね」
「あばんぎゃるど……? なんでござるか、そのカッコいい響きは!?」
オリベは字音の響きに食いついた。
さすがは戦国時代の前衛芸術家である。
それはさておき──オリベの推察はいい線行ってると思う。
土地に封じられて上下関係を重んじる封建制度において、枠に囚われない考え方は危険視させれるに相違ない。古田織部という武将が天下一の茶人として敬われていたならば、その影響力も無視できなかったはずだ。
日本を制した将軍が危惧してもおかしくはない。
密かに処分する機会を窺っていた可能性さえあるだろう。
「大御所様の心中、今となっては知る由もないが……江戸の世に織部好みが伝わってないことを考えれば、よほど嫌われたのであろうなぁ……」
オリベの遠い視線は、冬の青空の彼方を見つめていた。
一時代を築いた自分の流儀が、上からの圧力によって押し潰されるように消えたことを嘆き、世の儚さを実感しているのだろう。
「いや、世の中そう捨てたものでもないぞ──古織殿」
儚さに嘆くオリベに声をかけたのはドンカイだった。
未だに自分を「古田織部ではない」と否定するオリベを、はっきりとあだ名と思われる古織殿と呼んだのだ。
オリベが振り返ると同時に目を閉じたドンカイは牙のはみ出た口元を微笑ませると、「そうではない」と言う代わりに首を左右へ振った。
それから「フミカ君」と呼び掛け、彼女から1冊の本を渡される。
受け取ったドンカイはツバサより前に出て、その本をオリベに差し出した。
仮面の奥、オリベの眼が驚愕に見開かれる。
「こ、これは…………ッ!?」
ドンカイが差し出したのは、ツバサたちの時代に出版された書物だ。
「ワシらの生きた時代、広く世に出回った本の1冊じゃ」
大手出版社から発売されたそれは『歴史マガジン』という月刊誌。
研究により明らかになった歴史の真実や、意外と知られていない歴史上の著名人の逸話、などを記事にして載せている雑誌だ。
毎号必ず特集記事があるのだが、手渡した号は──。
「『その男、織部』……ッ!? の、後の世にこんなものがッ!?」
拝見仕る! とオリベは震える手で本をめくった。
そこには現代まで遺された織部好みの作品や、江戸時代を乗り越えて伝えられた織部風の茶道を受け継ぐ流派。また古田織部が作庭したと言い伝えられている南宋寺の庭園……今日まで伝えられている織部好みのオンパレードだった。
「重要……文化……財……? こ、これらの器が……それが……しではなく、古織殿が手掛けた品々が……未来にて国の宝となった……ッ!?」
更に織部を驚愕させたのは──。
「織部焼だとッ!? そっ……それがしの好みを受け継いだ焼き物が……江戸よりも先の世で……こんなにも広まっているというのかッ!?」
織部好みの精神を受け継ぐ陶器──織部焼。
確かに江戸時代には謀反者の流行なので遠ざけられもしたが、その流行が途絶えることはなく、ひっそり伝えられてきたらしい。
「あの地下洞窟を飾った陶製品──見事じゃった」
夢中で雑誌を読むオリベに、ドンカイは朗らかな声で告げる。
「……といっても、ワシは世話になった先輩力士の受け売りでな。そん人から教えられたもんばかりじゃが……そんなワシでも、“破調の美”と称されたアンタの作風は目に焼き付いておる。忘れられん」
それほど鮮烈じゃった、とドンカイは褒め称えた。
ここまで褒められたオリベは、貪るように読んでいた雑誌から顔を上げる。
仮面の奥、その眼差しはぼやけるくらい潤んでいた。
「そんな織部好みじゃ、いくら為政者が禁じようと数寄者が無視することはできんかった。こうして後の世にまでしっかり伝えられておる」
古田織部の起こした旋風は──未だ鳴り止まぬ。
「おおおおッ……あああああッ……ううううぉぉぉおおおおおおおおおッ!」
この一言を正面から受けたオリベは吠えた。
声にならぬ音を喉の奥よりも腹の底よりも深い場所から発して、天を仰ぐような咆哮を上げた。顔を隠している仮面が浮かび上がる威勢だった。
「うぅぅぅおおおおおおおああ……あっあっあっあっあっ!!」
迸る絶叫は、やがて歓喜の雄叫びとなる。
「左介の……古田織部という男の生き様は決して無駄ではなかったのだ! いくら大御所様が禁じようと……こうして後に続く者が……我が道に続く者がおったのか……こんなにも、こんなにも……あっあっあっ!」
トドメの泣き笑いで締めたオリベは、唐突に宣言する。
「古田織部という男は──死に申したッ!」
死して、破調の美を目指す織部好みという流行を世に遺した。
「ここに居るのはオリベ! 乙将のオリベ! 古田織部助重然などという男とは縁もゆかりもない、新しい数寄を追い求める一介の乙将にござりますッ!」
喜びと共に過去を振り切ったオリベの宣言は終わらない。
「大御所様の仕打ちに拗ねておった自分が恥ずかしいわ! へうげものたるそれがしが求めておったのはただ一念! 人々に一笑をもたらす、誰もが笑いと幸せに興じられる世! ただ、それだけよ!」
「え、あの……オ、オリベ様あぁッ!?」
イヨが驚きの声を漏らすのも無理からぬこと。
ドンカイのもたらした雑誌によって吹っ切れたオリベは、イヨの両脇に手を差し込んで高々と持ち上げたのだ。
父親が幼い娘を「高い高い」するように──。
「オリベ様、待って! 落ち着いてください! こんな、子供がされるような……この年になっては恥ずかしいです! 降ろしてくださいませッ!?」
イヨは珍しく、悲鳴じみた大声で抗議する。
見かけこそ10歳前後の幼女なイヨだが、現実では40近くまで邪馬台国の女王を務め、この世界に来てから100年も生き存えているのだ。
その中身は大人の女性──恥ずかしいらしい。
しかし、吹っ切れたオリベの耳には届いていなかった。
「それがしは新しい人生をここより始めますぞ! 異界に迷う我らを導きたもうた姫様を敬い、上も下も貴賤もない、誰もが分け隔てなく笑い合える王道楽土をこの地に築き上げますぞッ!!」
数寄武将、古田織部が夢見た──皆が笑える福々しい世界を!
ようやくイヨを降ろしたオリベは、ツバサたちの前に来るや否や地面に膝をつき、両手もついて深々と額づくように頭を下げた。
「ツバサ殿! 並びにドンカイ殿、フミカ殿! 感謝ッ……感謝の極みにございますれば! これほどの心地に返り咲けたのはあなた様方のおかげ……偏に来世より参った神々たる皆様のおかげにござりまする!」
「大したことはしてませんよ。むしろ、謝りたいくらいだ」
正体を隠していたオリベの過去を、興味本位から暴き立てるような真似をしてしまったのだ。反感を買ってもおかしくはない。
だが、未来の評価を知ってここまで喜んで貰えたので幸いだ。
「姫様は迷える我らに道を示してくれた導き手! そして、ツバサ殿は我らを救うため来世よりいらっしゃった弥勒菩薩! 恐悦至極に存じますッ!」
さあッ! と礼もそこそこに織部は立ち上がる。
「やるべきことは山積しておるぞ! まずは我らが暮らす街を造らねばな! それから先住されておるネコ殿、トリ殿、アザラシ殿、彼らに支援していただいた食材や物資の返礼もせねば! その際、それがしの作りし面白き器で一笑を買おうぞ! 我が“数寄”をこの地でも普及させるのだ!」
あっあっあっ! とオリベは独特な笑い声を高々と上げる。
最期にツバサたちに敬礼して場を離れる挨拶をすると、上機嫌で街作りの指揮に戻っていった。あまりの機嫌の良さに声を掛ける暇もなかった。
「……結局、オリベさんって古田織部さんでいいんスよね?」
呆気に取られて見送ることしかできなかったフミカは、去りゆくオリベの背中を見つめたままぼんやりと言った。彼女はそれを確認したかったのだ。
その上で──当時の話をあれこれ聞きたかったらしい。
オリベは自分が古田織部であることを示唆する台詞は幾度となく吐いたが、自分がその人だとは一度も言明していなかった。
あれらの台詞では、限りなく黒に近い状況証拠だ。
もしかすると、古田織部をよく知っていて彼に近しい人物。たとえば息子という線もある。息子が父の名を借りているだけなのかも知れない。
ツバサは目を伏せると、フッと鼻から息を漏らして微笑んだ。
「そこをツッコむのは野暮だぞ、フミカ」
「そうじゃな。今日ぐらいはオリベ殿の好きにさせてやらんとな」
かつてないほど満たされた承認欲求──。
誰からも天下一の茶人として認められながら、時の天下人に全否定された過去。その悔恨の念を吹き飛ばすほどの、未来での賞賛と栄光。
そして、自らが確立した美術が受け継がれていくという誉れ。
芸術家ならば法悦の境地だろう。
イヨは「高い高い」されたことに包帯の下でまだ眉根を寄せているが、オリベを見送る口元には安堵の笑みがこぼれていた。
「オリベ様が先頭に立ってくれるからこそ、みんな心置きなくついてきてくれるのです……あんな気力の充実したオリベ様、初めてかも知れません……」
わたくしからも御礼申し上げます──イヨも頭を下げてきた。
一応、神族として彼らの上に立っているとはいえ、歴史上の有名人たちからこうも御礼を述べられるのは、恐れ多いというか……畏まってしまう。
ツバサは慌てて頭を上げるよう催促する。
「いやいや、そんな頭を上げなくてもいいですから……こちらも氏素性を知りたかっただけなんだ。顔を隠しているのとかが気になってね」
「そうッス! あわよくば信長公とか関白秀吉の話を……」
「おまえはちょっと黙ってなさい」
知識欲丸出しのフミカをツバサは母親らしく制した。
「しかしまあ……思い掛けずオリベ殿の本心も聞けたしな」
これは予想外の収穫だったと言える。
元が大名らしいので領地経営はお手の物だろうが、一歩間違えれば「天下統一」とか言い出しそうな野心家だったらと危惧したのだが、感極まったあの台詞は本心からのものだった。
嘘を見抜く系の技能を通したので間違いない。
「人々が分け隔てなく笑い合える世界か……それが一番難しいのに」
声高らかに歌い上げるところに、オリベの人柄の良さを見出せる。
そのオリベだが──今日は供回りを連れていない。
いつもなら護衛役として三将がついているはずなのだが、オリベは1人で建設中の街を東奔西走しているのが遠目からでも見えた。
イヨもこうして1人で自由にしている。
ツバサたちもいるし、目の届く範囲に仲間がいるので心配ないが……。
「そういえば……三将たちは別件で動いているんですか?」
気になったツバサはイヨに尋ねてみた。
妙剣のウネメ──。
鍛鉄のオサフネ──。
破脚のケハヤ──。
妖怪化した人々の中でも突出した戦闘能力を誇る3人は、オリベから『三将』と呼ばれており、地下洞窟を守る戦力として頼りにされていた。
ハトホルの谷は結界に守られており、外敵が寄りつくことはない。
だからお役御免になったわけではないと思うが……?
「三将の皆様でしたら、今日はお休みをいただいているので思い思いに過ごしていると思います。例えばケハヤ様でしたら……」
「シャギャア! ゲェヤァ? ギャウギャウ! アッアグゥアッアーッ♪」
相変わらず、言語として聞き分けられない奇声が聞こえてくる。
大工たちの頼みに応じて、妖怪化した彼らでも容易に運べない巨大な建材を担いでは、右へ左へと運んで跳び回っていた。
「……あちらで職人さんのお仕事を手伝っておられます」
「意外と働き者だったんだな、あの野人さん」
ツバサが感心すると、町外れに立てられた作業小屋から金槌を打つ音が聞こえてきた。これで2人目が何をしているかがわかった。
「オサフネ様は刀鍛冶だそうですが、今日はお家を建てるための釘などを打つ作業に手を貸しているそうです。皆さん、とても助かってらっしゃってます」
あと1人──ウネメの姿が見えない。
すると、“万里眼”を使ったわけでもないだろうが、イヨの水銀のような髪が動き出して、ある方向へと矢印を差していた。
「ウネメ様はあちらに……先ほど、川の方へ歩いて行かれましたね」
~~~~~~~~~~~~
「……すっかりあいつの姿になっちまったか」
緩やかに流れる川の水面──それは鏡のように己の姿を映す。
川縁に立ったウネメは、川面に映る変わり果てた己を冷めた目付きで見下ろしていた。これが自分でなければ、飽きることなく魅入っていたことだろう。
ツバサ殿の誘いを受け、皆がこの谷に移住して2週間。
穏やかな土地で心安らかに過ごせば“気”とやらの影響も薄れ、人間らしい姿を取り戻せる。ツバサ殿の謳い文句は眉唾物だと思っていたが……。
「どいつもこいつも……元に戻ってきてやがるしな」
ハトホルの谷に居着いて1週間もすると、多くの者に姿が戻る兆しが現れた。
これには喜びよりも驚きが勝るほどだった。
イヨやオリベはまだ包帯や仮面で顔を隠しているが、その下はほとんど昔の自分を取り戻しているらしい。
イヨは──両眼を完全に失っていた。
あの包帯の下には眉や睫毛どころか、上下に開く瞼やその奥にあるはずの眼球さえ失っており、ツルンとした肌がそこにあるだけだった。
それでも涙腺は残っているのか、泣けば両眼のあったところから涙が染み出してくるらしい。彼女は宝石の眼を持った一つ目小僧になっていたのだ。
「いやいや、仮にも姫さん……小僧はおかしいか」
一つ目だったのは間違いない。
しかし、今では包帯の下では両眼が戻っていた。
宝石でできた一つ目や水銀の髪に挿したる変化はないが、部分的にではあれ人間らしさを取り戻したのは事実である。
オリベは──原形を留めぬ粘土と化していた。
彼は硬さも柔らかさも自由自在となる粘土を操る異能に目覚めたが、全身がその粘土に変わり果ててしまったのだ。外側は硬い陶器のようなもので覆っているが、その中身は絶えず流動する粘土となっていた。
なので、あの仮面の下は不定型な粘土だった。
眼球だけは人間のままなので、仮面越しに覗けるオリベの双眸は紛れもない本人の眼力。逆に言えば、人間の部分はそこしか残っていなかった。
そのオリベも、今では顔を取り戻している。
仮面の下にはチョビ髭の好々爺な顔が戻っており、首、肩、胸までは人間の部位が戻っていた。そこから粘土の身体が生えた案配になっている。
全身ドロドロよりは遙かにマシだ、と笑っていた。
イヨやオリベだけではない。
獣じみた者は獣毛が薄くなり、口が嘴になっていた者は柔らかくなり、肌が鱗になった者はそれが剥がれて……少しずつ人間らしさを取り戻していた。
とは言っても、ちゃんとした人間に戻れたわけではない。
誰も彼もが──端から見れば百鬼夜行の妖怪変化。
それでも、あの地下洞窟で身も心もバケモノになりそうな日々からすれば、見違えるほど人間らしい身体と生活に戻れていたのだ。
「…………ま、全員じゃねえけどな」
ウネメは自嘲の笑みで唇を歪め、川面に映る自分を毒突いた。
もう深編笠で顔を隠すのはやめた。
あれから──更に伸びた金色の髪。
つむじの辺りで高く結い、佐々木小次郎みたいな髪型を気る。
顔立ちも女らしさが増す一方で、好色一代男と呼ばれた色男は面影は消え、化粧をしなくても花魁顔負けの美貌がそこにあった。
セイメイから「骨格は男」と言われた身体は見る影もない。
サラシをやめた胸元は山のように盛り上がり、着物の合わせ目からあふれそうな乳房の谷間が覗ける。帯を巻いた腰はすっかり細くなり、大きくなった尻が腰回りの丸さをやたらと主張していた。
妙剣のウネメは──金髪碧眼の女性に変わりきっていた。
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