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散文
貴方が今、幸せでありますように
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俺は死んだ。
不慮の事故とか、長年病気と闘ったとか、そんな大層な死因じゃない。自らの意思で天井の梁に、近所のホームセンターで購入したただの麻縄を括って、ついでに自分の首を括ったというだけだ。どうせだったら永らく苦しんだ持病で死んで、よく頑張ったねと褒められたかったものだ。もう考えたところで遅い話だが。
とにかく自身で「死んだ」と認識しているから、あっさりと「死んだ」と今現在思えているのだと思う。
そう。俺は死んだ。
俺は、死んだ。の、だが。
俺はある場所に立っていた。そこは沢山の美しい花畑だとか、青い空にふかふかの白い雲の上だとか、そんな物語の中で見る幻想的な場所なんかではない。もとより、そんな場所を思い浮かべていた訳ではないけれど。
墓地だ。しかも自分の先祖が埋まっているとされている場所。
何故、よりにもよって、自分の家系の墓に立っているのだろう。
周囲には誰もいない。田舎の、しかも朝日が昇る前の時間帯だ。いくら年寄りばかりの辺りだからと言っても、そんな早起きの人なんて居るわけがない。ましてや、外を歩いている人なんて。当然、この近くに住んでいたから知っているのだが。それにしたって、まるで、このだだっ広い世界に一人立ち尽くしているような錯覚を起こす。一人で、独り。寂しい。そんな感情が俺の中で育つ。これでは生前のままではないか。
否、死後に何かを求めていたわけではない。先祖に迎えられるとか、天国に行くと幸せになるとか、地獄に行くと永遠に苦しむとか。ましてや死んだら救われるだなんて、そんなことは微塵も考えてなぞ、いなかった。
しかし現実に―少なくとも俺の意識では―俺は先祖の、恐らく自身の骨も眠っているであろう墓地に理由も分からないまま孤独に立っていて、それがどうしようもなく寂しい、ということだけは事実であった。
薄暗い中、誰かを求めるように辺りを見渡していると、隣に誰かが来た気配がした。「来た」という表現より「降りてきた」の表現の方が正しい。厭、「跳んできた」が一番相応しいかもしれない。なんであろうと、俺の隣に人影があったのだ。
「やぁ、探したよ。なんで君はまだ生きているんだい?」
その人物を、俺は知っていた。知っているなんて部類じゃあない。
俺の―――――――……彼女だ。
容姿、声に何ら変わりは無かったが、それは彼女ではない別の誰かだった。
彼女は俺に対して、もっと若者の使う、砕けた、それでいて丁寧な喋り方をするし、表情だって忙しいくらいにコロコロ変化する子だった。目の前の人物はまるで違う話し方をするし、表情も彫られただけのように変化しない。例え彼女に限りなく近い誰かだったとしても、俺は別人だと分かっただろう。確信はあれど、理由はない。親が大勢の似通った子供の中から、自分の子供を正しく選ぶのに近いような、俺の確信はそこに近しいものだと思う。
隣の人物―――彼(性別は分からない。確かに前述した通り容姿は彼女そのもので、女性らしい曲線を描いているのだが、彼女本人ではないという時点で、俺の中ではその人物の性別すらも破綻している)は、俺から目線を逸らし、正面を見て次のように続ける。
「12月26日、午前3時2分。君、○○は17歳で首を吊って自ら命を絶ち、僕らの処に来る予定になっているのだけれど。しかしなんだ。一年経っても一向に来ない。まあね、予定はあくまで予定であって、決して決定ではないから、未定であるということに類似しているし、そもそもそれに過ぎないのだけれど。でも死亡したという知らせが担当の僕の所に来ているんだ。その時点で決定というか、確定している。勿論病死でも事故死でもなく、あくまで予定通り、自殺でね。人間世界でいう、現在から一年も前に。だのに君はいつまでも生きている。どうしてなんだい?」
ほぼ一息だった。あるいは息継ぎが分からなかっただけかもしれない。彼は捲し立て、僕の瞳を覗き込んだ。文字通り、目の、前で。彼は純粋な疑問として俺に尋ねているようだ。空が青い理由を母親に問う子供のように。
俺はそんな彼に待ったをかけた。
「待て、待ってくれ。……俺が生きている? 馬鹿言うな、俺は死んだんだ。何故だか知らないが、お前は俺が死んだことを知っているのだろう? それが事実じゃないか。そもそもお前は何なんだ? ここは一体どこだ? どうしてお前の所に俺が行かなければならないんだ? 聞きたいことなんて俺の方がたくさんある」
そりゃあもう、富士山の高さじゃ足りない。エベレストでも足りないくらいだ。
彼は俺の言葉を一通り聞いた後、あちゃぁ、そこからか、と片手で両目を覆い、天を向いた。ふざけているように。しかし声にあまり抑揚は無く、上から糸で操られているのではと疑った。
「僕が何だか分からない人間、君が初めてだよ。いや、正確には君は十何人目であり、君が初めてであるけれど」
《僕が何だか分からない人間、君が初めてだよ》? 《正確には君は十何人目であり、君が初めてであるけれど》? 矛盾した言葉をうんうんと納得して言う彼に、それについて問いかけようとするが、挟む隙も無く彼は続けた。俺自身もそれについて考えるよりも、次の彼の言葉に集中する。
「少なくとも検討はつけるものだと思うけれどね。君の脳味噌は死んだときに腐ってしまっているんじゃないかい? まぁ一年も経てば腐るかもね、うん」
回りくどいというか、面倒な話し方をする奴だと思った。遠まわしに言い過ぎて、何が言いたいのか寝起きの頭じゃ完全には理解出来ない。取り敢えず罵倒されたことだけは分かったが。
それにしても、そもそも彼に「話す」とか「喋る」という単語が似合わない。なんというか人に限りなく近い話し方をする機械みたいだ。だから「言葉を言う」「単語を発音する」に近いというか、ほぼこの表現が正解だ。
彼は一番高い、一家の名が刻まれた墓石の上へ跳び、腰かける。暗闇で型取った黒いワンピースが、上へ昇った際、空気抵抗でふわりと広がる。俺の彼女には似合わない服だ。しかし陶器のようにつるりとした、服とは対照的な真っ白な肌の彼には、とても良く似合っているように見えた。長く伸びた脚が見えたのは一瞬で、すぐにスカートの裾は肌に吸い寄せられ又元の位置へ戻ってしまった。一切肌の見えない長袖の服に、唯一露出される顔は際立って見える。その下で光が少ないにも関わらず眩しく輝く、首から下げているシルバーのリングは彼女とペアで買ったものによく似ていた。そこまで模倣しているらしい。
「少なくとも、君ら人間とは違うということに変わりはないよ。それくらいは君も分かるだろうけど。僕は簡単に言えば死神さ。君ら人間の呼ぶところのね。まぁ君らの世界の、物語に出てくるそれとは、多分、いや絶対と言い切ろう。絶対違うよ。君の知る死神とは違うものと思って貰っていいよ」
彼はどこから出したのか、古びた本を取り出しページを捲る。長い指が闇の間から垣間見えた。そこに何が書かれているか見当もつかないが、敢えて推測するなら、おおよそ人間一人一人の人生が記されているのだと思う。彼の今読む本が、絵本ほどの厚さしかないのはそのためだろう。
「さて、君が何かを話し出す前に、全ての質問に答えてしまおうか。『ここは一体何処だ』という質問だったか。君が思っている通りの場所だよ。君の家の近くの、君が彼岸や盆によく来ていた墓地。ちゃんと現実世界のね。幻想じゃない。もし幻想だったら、僕みたいな変な奴、君は想像しないだろうから」
彼はプログラムされた文章を読んでいるかのように、淡々と話し続ける。目線は手元の本から、正面に広がる田園風景に移っていた。ミディアム・ヘアの作り物のように流れる真っ黒な髪を指に巻き付けながら。うっすらと地平線が白み、色付き始めて来た頃だった。
「さて、最後の質問かな。『どうして僕ら死神の元へ来なくてはならないのか』。答えは一つさ。そういう風になっているんだよ、人間。決まりだと捉えて貰う他ない。そういう世の中の理なのだよ。夜が明けたら朝が来るように。秋の次に冬が来るように。摂理と言ってもいい。死んだら現実から離れなくてはならない。まぁ、意味というか、死者がこちらに来なくちゃならない理由は、無いことはない」
ぴり、と空気が張り詰め、俺は身動きを取るのをやめる。
「……無いことにはないが、それを知ってどうする? 植物状態の人間だったら、もしかしたらこの場に留まり続けることが出来たかもしれない。もしかしたら、もう一度同じ体で、もう一度人間が出来たかもしれない。だが君は死んでいるんだ。心肺も脳も、身体だって火葬されてもう細胞すら残っていない。一年も前に。もう物質として君は甦ることは不可能なんだ。だから僕らの処へ来る。消去法だよ。わかるよね? 君もそうやって死んだんだから。『生きられない。だから死んだ』。違うかい?」
最後の問いで、その空気から解放される。しかし空気が張り詰めている間の彼の口調は、機械のようなものではなく、吐き捨てるようなものだった。只、俺の聞き分けの悪さに苛立っただけだったのかもしれないが、人間に近い口調が聞けて、少し気持ちが軽くなった。人間に限りなく近い何かを見ると、人間は気持ち悪さや恐怖を感じる、と聞いたことがある。この知識は生前のもので、人間に近い何かというのはこの場合機械だったけれど、死神も似たようなものだろう。
「……ふむ、少々取り乱してしまった。それにしても君がこの世界に留まっている理由は、僕には分からない。突然自分が死んだことを認識していない状態で、何十年も留まるケースはあるよ。稀なケースだけど。幽霊とかお化けの類だ。君ら人間より動物達の方がよっぽど潔いよ。悟っているんだろうね、自身の寿命が尽きたのだと。まぁ人間の頭が良いから故に、現実を認めたくない、現実逃避をするのだとすればそれまでなんだろうけどさ。でも君は自分が死んだことを理解しているんだよね。君は死んでいる。死んでいるよ。でも生きているんだ。生きているんだよ。不思議でしょうがないよ、僕は。自殺者が自分の死を理解してそれを受け入れているにも関わらず、生き続けている理由なんて、一つだから、それをさっさと解決すればいいんだけどさ。…それにしたって君はまだ理解できないのかい? 自分がずっと浮世に留まり続けている理由」
長々と喋るやつだ。話を挟む隙がない。彼の声が数秒以上止まり、俺に話すタイミングを与えているのだと気付いた。俺は渇き始めている唇を舌で潤してから口を開く。死んでも生きていた時の癖と言うべきだろうか。
「死んだのに生きている、って。……矛盾がどうも理解出来ない。俺にも分かるように説明してくれないか? とりあえず、俺がお前らの処に行かなきゃならないのは分かったから」
納得はしていないが。理解と納得は違う。疑問は残るばかりだが、死神という存在に逆らうと、俺という存在が無かったことにされそうだ。元々それを望んで死を選んだから、本望と言えば本望だが、こんなよく分からない奴に無かったことにされるのはごめんだ。
片足に重心を傾け、腕を組む。そんなでかくなった態度が気に食わなかったのだろうか。彼は眉をひそめて、相変わらず座り続ける墓石の上から俺を見下ろした。苛立っているとも、呆れているとも取れる表情で。
「僕の姿を見て思い出した人間はいなかった? いたと思うんだ。僕の姿は君が最期に浮かべた人間のものになるんだ。しかも君が好意的に想っていた人間のね。友人だか、妻だか、彼女だか知らないけれど、君と同じように君のことを思っていたんじゃあ、ないかい? ……まだ分からないかい?」
俺の目の前に降りてきて、首を傾ける。俺にはまだ話が繋がっていなかった。寧ろ彼女の話が出てきた事によって更に俺の中で混乱が生まれていた。黙っているのを彼は肯定と受け取ったのだろう。溜息をわざとらしく大きく吐き出して、くるりとワンピースを翻して歩き出す。記憶違いでなければ、俺の自宅の方向だった。
「早く。見に行った方が早いよ」
僕も暇じゃあないからね、と視線だけを一瞬俺に向けて軽い足取りで地面を踏んだ。歩き方まで彼女だ。
もう太陽はゆっくりと顔を出し始めている。
♦♢♦♢♦♢
正直、妙な気持だった。自分が死んだ後の部屋に入るというのは。
主人がいなくなって一年経ったその場所は、もう殆ど片付けられていて、自分の部屋じゃないようにも見えた。クローゼットの中も、洋服以外のものの大半は何処かに運び出されていた。この分だと隠れて買ったそういう類の本も片付けられているだろう。せめて完全に捨てるか燃やすかしておくべきだったと今更ながらに後悔した。恥ずかしいのと、親にそんな本を片付けさせてしまった罪悪感に苛まれる。
「……変な感じ、というか。こんなに俺の部屋は広かったんだな。物が無いとまるで違う」
「そう。僕が出会ってきた人は例外なくそう言うよ」
財布の中身は期限の切れたポイントカードやレシートを残して、すっきり綺麗になっていた。きっと弟が抜き取ったのだろう。彼以外にそんなことをする人物は家族にいない。死んだら何も残らないだろ、とよく言っていた弟だ、実の兄の俺にすら何も残してくれる気はないらしい。
「それにしても、物には触れられるんだな。てっきり触れないものだと」
「じゃなきゃ地面なんて歩けないでしょう。マントルまで沈んで、というかそもそもこの世界に居続けるなんて無理な話じゃないのかい?」
呆れたように彼は俺の普通の本棚を物色している。通信制高校の教科書、趣味で集めた有名作家のハードカバーの小説、アニメを観て気に入って買った漫画。それを取り出して表紙と裏表紙を見てから元の位置に戻すという行為を続けていた。あまり部屋の物を動かさないでいただきたい。俺の親が荷物の配置を覚えているとは思えないが、万が一動いていることに気付かれると多分面倒なことになるから。
「それにしても、一年でここまで片付けられるものなんだね」
今度は俺を押し退けて、クローゼットの中のアウターを眺めながら、独り言のように呟く。静かなこの部屋じゃなければ聞き逃してしまうくらい小さい声だった。
そうか。
一年で、充分なんだ。
それに気が付いた俺は少なからず寂しく思えた。俺の生きた十七年は、たった一年で充分だったらしい。親なりの、家族なりの俺に対する気遣いなのかもしれない。前を向いて歩いているのを見せる方が、俺のためだと。
俺は机の上に残ったままの作りかけのプラモデル、彼女から初めて貰ったマフラー、クリスマスプレゼントのネックレスと小さな手紙を一撫でする。それに俺が死んでから持ってきてくれたのだろう、見覚えのない、俺の名前と彼女の名前が差出人に書いてある、丁寧に封筒に入っていた手紙を読んで、机の上に戻した。ここに入るのは、どんな気持ちだっただろうか。あまり考えたくない。逆の立場だったら、俺は絶対入れないどころか、彼女の親にすら会えなかった。その点彼女は強い。俺にはない強さだった。そこを俺は尊敬していた。彼女は、自分は弱いと、俺がいないと生きていかれないといつも泣いていたが。今生きてられているんだ。強さの証拠だろう、と彼女に言ってあげたい。
俺は静かに、もう出ようと彼に声を掛ける。
「もういいのかい? 死んでから一度も来ていないだろう、自分の家に。もう少し懐かしんだらどうだい?」
そう言いながらも、待っていたかのように立ち上がって俺に歩み寄ってきた。口だけのようだ。業務的に言葉を発する。
「もういい。この家にもう俺は必要ない」
「……君がそう思うならそうなのかもしれないね。もういいというのならば、もう次に行こうか」
真っ黒のワンピースの埃を両手で払ってから、俺を見上げる。じっと数秒見つめられて、何かあるのかと問おうと口を開く。よりも先に彼は俺の部屋を出た。あの一瞬の間は何だったのだろう。
階段を軽やかな音を立てて降りていく彼の後ろを、駆け足でついていく。彼の身体は俺のものと違って実体があるらしい(俺は、物には触れられるが実体はない、と聞いた)。この時間は誰もいない。俺の家は、今の時代には珍しく、家族三世代で住んでいる。祖父と祖母は今の時間畑仕事に出ているし、両親は仕事。弟も昼間は部屋から出ない(俺と同じ通信制高校に通っているが、俺と違ってアウトドアな方ではあるが)だろうから実質誰もいないに等しい。
静かな家の廊下を歩いて、俺の仏間に入った。綺麗に掃除をされたその部屋の仏壇の真ん中。珍しく笑顔の俺が黒縁の写真立てに入っていた。その前には食事や俺の好きだった菓子類が置かれている。
「綺麗な部屋だね」
「そうだな」
「なんだい。思ってたより無関心だね」
無関心、というか他人事に見えている。俺は頭を掻きながら唸った。
「あんまり自分のものと思えないというか、なんというか…」
「あぁそういうこと。そんなものだよね。僕も自分の写真見ても自分の写真なのか疑うもの。この仕事していると自分の姿が分からなくなるよ。もう何年この仕事しているか分からないのと同じくらいね。まぁその度に姿形が変わるものだから、自分の顔を覚えていないのも当然というか」
彼はしゃがみ込みながら、菓子に手を伸ばす。俺は早く家を出たかった。なんというか、居心地は良くない。当然だ。自分の神棚なんて長くは見ていられない。
俺のどこか落ち着かない様子を察したのか、彼は饅頭を二、三個手に取りワンピースのポケットに仕舞い込んで立ち上がる。
「そろそろ行くことにしようか」
敷居はきちんとまたぎながら彼は障子を開け、部屋を出て行ってしまった。俺はその場に居たまま叫ぶように声を上げる。
「行くって、何処へ!」
「君が大事だと思っている人間の所」
廊下を歩く音と共に、比較的大きな声が聞こえた。
♦♢♦♢♦♢
「僕の事は、話す気なんてないよ」
自宅の最寄りの駅(と呼べるか分からない程小さい。千と千尋で、千尋が銭婆の所に行く際、一瞬映る水面より一段高くなったコンクリートの上にその駅名が書かれている看板が立っているだけ、というシーンを知っているだろうか。あれに酷似しているというか、まんまあれだ)から電車に乗り、揺られていた。その車中の沈黙を破ろうと、俺は彼に、彼の事を尋ねた。なんてことはない、仕事のことを訊いただけだ。純粋な興味で。しかし前述の通り、冷たく返され、心なしか機嫌を損ねてしまった。
ボックス式の座席の窓側に、向かい合って座ったまま沈黙が作られ続ける。俺たちの他は誰一人として乗っておらず、線路の繋ぎ目で車体がガタつく音だけが耳に響いてくる。流れる景色に意識を委ねようとした時、声という音を発したのは、彼だった。
「何故会いに行くのだとか、僕じゃなくて自分の事に興味を持つべきだと思うのだけれど。君は本当に変わっている」
彼は車窓の外を眺めたまま、何の感情も無しにそう言った。ただ田園風景が続く景色をつまらなそうに眺めたまま。俺はそんな彼を見たまま次の言葉をじっと待った。
次に彼女そっくりの、女性にしてはハスキーな声が言葉を紡いだのは体感的にまた数分程経ってからだった。
「特に聞かないという事は、別段質問は無いという事かな」
質問があることにはあった。でも無いことには無い。彼に聞いてもきっと答えてくれることはないだろうから、俺に彼に対する質問が無いと同義であった。彼は一拍置いて、また口を開く。
「まぁ、彼女に会えても向こうの声は一切聞くことは出来ないよ。僕らから彼女らに一切干渉出来ないようにね」
「……聞こえないのか?」
その問いが『こちらからの声が彼女に』なのか、『彼女の声がこちらに』なのか自分の中ですら定かではなかった。彼は少しだけ、ほんの数秒俺の方に視線を送り、再び窓の外を見てから唇を動かす。
「……よっぽど、強い思念じゃあない限りは、ね」
彼はゆっくりと座席から立ち上がった。
俺の最寄り駅からは二時間程掛かる彼女の住む街に着いたようだった。どうやら死んだ後は時間の流れが早く感じるらしい。太陽は西に傾き始めた頃だった。
♦♢♦♢♦♢
ホームに降りると、同じ車両から結構な人数の人も降りてくる。いつの間にか人が乗ってきていたらしい。成程、本当に人の声はこちらには本当に聞こえないようだ。墓地に独り立っていた時の信じられない程の孤独感も頷けた。
彼女の住む街は、第二の県庁所在地とも呼ばれる程には発展している土地だった。建物の階数は高く、様々な店が入っているビルが多い。当然人の数も、俺の住む土地とは比べ物にならない密度だ。
ホームにも当然人は多い。しかし死神はその隙間を器用に縫って歩いていく。俺もその後に慌てて続く。人が俺らを避けているようにも感じられるくらいスムーズに歩く事が出来た。
駅を出て彼女の家へ向かうバスを待つ。冬にしては柔らかな風が脚の間をくすぐった。今日はどうやら平日のようだ。駅構内と違い、外にはそこまでの人は歩いていなかった。人がいても、スーツケースを転がし、忙しそうにスマートフォンで電話をしながら駅の中へ向かって歩くサラリーマンがせいぜいで、バスを待つ人間は殆ど居らず、俺がいつも遊びに来ていた休日の時のような煌びやかさや華やかさはなかった。
ぼーっと忙しそうな影を眺めていると、時刻表を確認していた彼が俺の元に戻ってくる。
「どうやら君の彼女の家に行くバスの本数は少ないようだね。しかし僕らは幸運だ。あと十数分で次のバスが来る。それに乗って向かうとしよう。しかし、彼女が家に帰っているかギリギリのラインかな」
どうしようか、と彼は顎に手を当てて少しばかり考え込んでいるようだった。そして何かに気付いたように俺を見上げる。
「なんだか君は口数が少なくなっているようだけど、あまり乗り気じゃあないのかい? 生前想っていた人間に会いたいと思うのは殆どの人間に当て嵌まると僕は考えていたのだけれど、君は少数派なのかな」
瞬きをしながら俺に尋ねてくる。図星だった。
「彼女に、会いに行くって言っても、彼女は家の中にいるだろう。いくら見えないとは、言っても。不法侵入は良くないと思うが。外にいても、自転車に乗っているとか。お前ら死神に法律とかそんな概念があるとは思えないけれど」
俺が歯切れ悪くそう言って、彼から目線を外せば、少し食い気味に彼は言葉を挟む。
「そんなことで彼女の元を訪問するのを拒もうとしているなら、それは辞めておいた方がいいと僕は思うよ。勘違いしないでよ、君にだけじゃあない。僕は今まで出会ったこの世に留まり続けている人間全員に言っているんだ」
近かった距離を更に詰めて、俺の胸の中心に人差し指を突き立てる。
「想い続けている、人間の、今を、見ろと。君が死んだ後の世界で、相手が、どういう風に、生きているのかを、きちんと、自分の目で、確かめろ、とね」
句読点で言葉が切れる毎に、まるでボタンを押すように、胸を突いた。光の入らない瞳にそう言われ、思わず左足を一歩引く。
「君が今、この場に留まり続けている理由は、間違いなく彼女にある。理由は見ればわかると思うけれどね。兎に角君が彼女に会わないからには、君は僕の手で強制的にあちらに連れて行かれるか、君の家で地縛霊になるかのどちらかかの選択しか残されない。前者は僕がしたくない。無駄にそれらしい力を使うのは御免だ。後者も僕は辞めて欲しいね。私事で悪いけれど、少しでも多くの生物を再びこの場に送り込む事も僕らの仕事なんだ」
顔を背ける。俺は、怖かった。彼の言った『想う人間の、彼女の今』を見るのが。もしもう忘れられていたら。もしもう俺の事なんて過去に押しやられていたら。もし、俺が死んで清々していたら。考えれば考えるほどネガティヴな思考のスパイラルに堕ちていく。死ぬ前はそれでもいいと思っていた。寧ろその方が彼女には良いと思っていたくらいだった。でも死んだ今は違う。実際電車内やホームを歩いている間も恐怖しかなかった。
「怖い」
気が付いたらそう発していた。脚は立っているのもやっとな程、みっともなく震えていた。彼はそんな俺を見て、そうか、と一言零しただけだった。暫くの沈黙が流れる。ひっきりなしに足元を通っていく風を感じながら沈黙が破られるのを待った。
そしていつしか来ていたバスに乗り込む。当然無言。一人掛けの座席に、廊下を挟んで各々腰掛けた。発車し、駅とは対称的に無人の商店街の中を走る。まるで映画やドラマのために造られたセットだった。その景色の中を俺と彼女が二人歩く幻想が見えた、気がした。あくまでそれは幻想で、俺らは静かな商店街や、休日の煌めく道を歩いたことは無い。我儘を言うなら、こんな静かなセットの中を歩いてみたかった。
電車の時とは違い、俺から話すことは何もなかった。ドクドクと血液が流れる感触が、心臓のあたりの場所からする。生きていた時の感覚が残っているというよりは、緊張しているから心臓が脈打つと条件反射的に頭が勘違いしているのだと思った。俺から話しかける理由も無いのなら彼も同じで、窓の外を眺めていた。俺とは通路を挟んで反対側に座っているため、表情は伺えなかった。ただ、なんとなく、今までの無表情とは別の表情をしている気がした。あくまでも俺の推測で、もしかしたらいつも通り、何もかも見透かした顔でいるのかもしれないけれど。俺は彼から目を逸らし、周囲の建物に視線をやった。知っている建物は潰れて更地に、そして知らない建物が増えていた。一年も経てば街は変わるものだ。店があったところには普通の家が。大きい道路は半分程封鎖され、地面を掘っている。彼女の家に近づくと、俺の墓の周りに似た景色が見えてきた。色こそないが豊かな田畑に親近感を持った。
バスはゆっくりとスピードを落とし、終点の彼女の最寄りに止まる。ドアが開き、他の乗客に紛れて降りた。
「俺、彼女の家の場所は、厳密には知らないが、大丈夫か?」
そう死神に言えば、俺の前では変わらない無表情で呟くように言う。
「君の彼女は調べて君の家へ出向いたみたいだけど、君は…」
「調べようにも調べる媒体が無いだろう。スマートフォンはあるか? ナビは? ……悔しいけど今の俺に出来ることは何もない。せいぜいお前の後ろを黙ってくっついて行くことくらいしか、な」
両手を肩の辺りで天に向けて肩を窄めれば、彼は納得したようだった。
「それもそうか。僕は君を過信しすぎていたようだ。すまないね、君はそれで……。否、失言だった、忘れてほしい」
「……いいよ、もう終わったことだ。二重の意味でな」
彼は俯き、こっちだ、と俺の隣を通り過ぎた。
『耐え切れなくなって死んだのだったね』
恐らく彼が次に発する言葉はこうだっただろう。大して気にしていないというのに、自分の失言を悔いているようだった。人間でもあるまいに。そんなところまで気を回して言葉を選んでいたのか。彼に対する考え方を改める必要がありそうだった。
暫く畦道に近い草の合間を歩く。二人の間に流れる沈黙にはもう慣れていた。互いにアクションが無い限り、相手を空気にする。そこに無くてはならないもの。俺にとっての彼女に近いものを、今になって俺は目の前を歩く死神から感じ取っていた。見た目が似ているからじゃない。初めとは空気が変わっているからだろうか。それとも俺が彼のいるこの空気に慣れてきたからなのだろうか。
数分歩いて到着した一軒家。家族四人で暮らしているというその家は、明るい茶色の壁で彩られ、閉まっているカーテンの向こう側はライトが煌々と照っている。
「着いたよ。入るか入らないかは君に任せることにしよう。何度も言うように、僕は彼女に会うことを勧めるけどね。会うという表現は間違っているかな。彼女を見ることを勧めるよ」
「……」
此処に来ても尚、俺は悩んでいた。玄関の前に立ち、自分の足元を見つめる。
ここで彼女を見て、後悔しないだろうか。後悔するならこのまま踵を返して帰った方がいいと思った。また彼の機嫌を損ねて、今度こそ消されたとしても、強制的に彼らの世界に連れて行かれたとしても。寧ろ彼女に会うことを強制されないのなら、無理矢理にでも現実から離された方がマシだ。
「…俺は……っ」
「会わないのかい?」
俺は会わない、と発するのを遮り、彼は言葉を被せた。彼を見たが、彼はこちらを見てはいなかった。家の二階辺りを真っすぐ見つめている。何を考えているのか、全く分からなかったが、唯一、俺が『会わない』という選択をすることを知っていたという事だけは分かった。
「…きっと、見ないで僕らの世界に来ることは、止めた方がいい。それでも君が会わないという選択をするならば、僕はもう一つの方の選択肢を強制するよ。勧めるんじゃない。強制。命令に近しいものかもね。神、という名において」
彼は自分の足の先を見た。顔に掛かる前髪が彼の表情を暗闇の中に隠してしまった。生憎、機械の声から感情を読み取れる程俺の耳は良くない。俺は彼のその言葉に、頷くことしか出来なかった。
「ありがとう。じゃあ入ろうか。僕らは人間には見えないからね、正直人間の決めた法律やら規律やらなんて通用しない」
彼女の父親が煙草を吸うために扉を開けたその一瞬、その隙に家の中へと入る。初めて入る彼女の家は、とても片付いていて、いつだかに聞いていた通りだった。そのままリビングを抜ける。そこには彼女の母親と妹らしき人影と、犬。俺らの方に向かって犬が吠える、吠える。小型犬のクセして頭に響く高く大きい声で。
「……俺、犬より猫の方が好きなんだよな」
「そう。僕は断然犬が好きだね。…君の彼女の犬は躾がなっていないようだから苦手意識が働くけれど」
妹が犬を諫めているところを尻目に部屋の中を見渡す。彼女は……いない。ということはまだ帰宅していないのだろうか。あるいは。
「二階…、自身の部屋にいるみたいだね。彼女」
そう言って彼は犬を手で適当にあしらいながら、階段を上がっていく。俺も後ろを着いていくが、犬は俺には吠えなかった。不思議そうに俺を見ているようにも見える。流石彼女の愛犬。俺と会ったことは無くても、俺が彼女の大事な人間だという事がわかったのだろうか。まぁ、犬の考えていることなんて分からないが、そういう事だと思っておこう。
二階に上がると、一部屋だけ明かりの点いた部屋があった。廊下の突き当りの左側。白い明かりが、ぽつんと。入り口に隠れるように中を見れば、机の電気だけが煌々と照っている。本人は、その机に向かっていた。何をしているのだろう。音も気配も恐らく彼女には伝わらないが、気分的に音を立てないように部屋へ踏み入る。彼は壁に背を預けたまま、俺の動向を伺っていた。
彼女の前には、いくつかのアクセサリーとミサンガ。それと見覚えのある小さいくまのぬいぐるみ。と、俺の好きな菓子と飲み物、それと美しい花。全部、俺のためと思えたものが、彼女の目の前の机には所狭しと並んでいた。その隣にそっと立ち、座っている彼女を見下ろす形になる。彼女は下を向いて、表情は見えない。先程の死神に似ていた。正確には似ているのは、彼の方だが。膝に手を当て少しばかり屈み込み、彼女の横顔を見た。目を閉じている。ちょっと、髪は伸びただろうか。肩甲骨辺りだった髪の毛は、今は腰より上くらいになっていた。そして量の少ない梳かれた髪が好きだったはずだが、降ろしているその量は、かなり多いような気もする。好きだった横顔は、かなり大人びていた。元々大人っぽいような顔立ちだったが、この一年で更に成長したと感じる。……ちょっと、痩せただろうか。あぁ、折角なら彼女の成長を近くで見届けるべきだった。思えばそうだ。彼女は今、当時の俺と同じ年齢なのだ。一つ下だと思っていた彼女は、俺には追いつかないと思っていた彼女は、もう、俺と同じ線に立っているんだ。
「シュシュ、買ってあげる約束してたのにね。ごめんな」
聞こえないと分かっていて、彼女に声を掛ける。誕生日に守るはずだった約束、もしかしたら彼女は覚えていないかもしれない。本当は全部守ってあげたかった。割と本気で、自身で言ったことは全て守る気でいたんだけどなぁ。目頭が熱く、視界が滲み、やがて歪んでいく。衝動で死を選んだ自身を酷く恨んだ。
「ごめんね、ごめんなぁ。俺、おれが、弱いせいで。俺が弱かったから、一人にして。独りに、して、ごめんなぁ」
自然と言葉が溢れていた。いつも何でもないような、クールぶってる涼しい顔を滅茶苦茶に崩して、ひたすらに謝罪を繰り返す機械と化す。その瞬間、まるで声が聞こえたように彼女がはっとしたように目を開け、刹那眉間に皺を寄せ瞳一杯に雫を浮かべて声を上げた。
生憎、彼女が叫んだ言葉は分からなかった。俺にはわからないほうがよかったと思う。しかし、その内容は分からない中でも、俺の名前だけは、はっきり聞き取ることが出来た。
彼女が泣いているのは初めて見た。電話越しで「死なないで」と泣いていたことはあっても、こうして直接見るのは。案外子供っぽく泣くんだな。いつもにこにこと楽し気にしている彼女の表情からは、想像なんて出来ない。そんな泣き顔。
……あ、なんだ、声。聞こえてんじゃん。
彼女の泣き顔を見て、そして死神が電車で言っていた言葉を思い出した俺の涙は止まり、泣き笑いに似た表情を湛える。俺が彼女を見る前に考えていた恐怖は杞憂だったみたいだ。俺が未だ彼女を大切に想うように、彼女もまた、俺の事を強く想ってくれているのだと。だから、だったのか。
だから俺、今も生きていたのか。
彼女に俺、生かされていたんだ。
死神が言った「なんで君は生きているんだい?」。俺が生きていたのは、俺が今も尚生きているのは、彼女だ。彼女のおかげだ。
自信を持って言おう。彼女がいたから、俺がいる。彼女が、いたから。
俺の双眼からは再び熱い液体が溢れ、頬を伝った。彼女に負けないくらいぐしゃぐしゃになった顔で、彼女の事を抱きしめる。彼女には何一つ伝わらないだろう。俺の涙も、温もりも、両腕も、言葉も、何もかも。でも俺が死ぬ前に残した彼女への気持ちや想いはちゃんと、伝わっていて、今も彼女の中にある。それだけで充分だった。俺の中にあった恐怖は、その事実だけで消し炭の如く綺麗さっぱり消え去った。今俺が生きている理由が分かって、心なしか身体が軽くなった。
そして謝罪の次に出た言葉は。
「ありがとう」
ありがとう、ありがとう、ありがとう。その言葉で頭の中が一杯になる。こんな俺の事を好きになってくれてありがとう。こんな俺と少しでも一緒にいてくれてありがとう。こんな俺に「死なないで」と言ってくれてありがとう。こんな俺の為に泣いてくれてありがとう。まだまだ言い足りない。どうか全部君に伝わってくれ。聞こえなくても、直接、全部君に伝わってくれ。そう願いながら彼女の身体を、文字通り力の限りに抱き、締めた。彼女の涙も止まり、
「ありがとう」
そう言ってくれた。彼女のありがとうに、どんな意味が込められているのか、俺には全く分からない。俺は彼女にお礼を言われるようなことは何一つしなかったから。ごめんな、死んでしまって。君の傍にいることが出来なくて。でも、気持ちはいつも傍にいるから。
「行こうか、○○。自分の身体を見てごらん。君が生かされている理由を知ったから時間が来たのさ。迎えと言えば人間らしいかな。どの人間も、自分が死んだ事と、且つこれからもこの世で生きている、生かされていることを知ると迎えが来る。普通四十九日を迎える頃に皆知るものなんだけれどね。君は少し遅すぎた。でも、これでようやく僕らの元へ来られるね。良かった」
彼はこちらに手を伸ばした。手を取れ、という事らしい。もう、この場所から離れ難くなっていたが、そうなったら彼女の負担になってしまうだろう。所謂地縛霊になる。これ以上彼女を困らせたくはない。名残惜しいが彼女に回していた腕を外す。そして彼の元へ足を向けた。
「…元気でな」
振り返って見た彼女の表情は、実に笑顔で、飾られた花に負けていなくて、綺麗の言葉が似合う。そういえば俺が死ぬ前、最期に会った際見た彼女の顔は「またこうして一緒に出掛けられるよね?」と薄っすら涙を浮かべ不安げに揺れる瞳が印象的だった。最期に見た顔が泣きそうな顔じゃなく、綺麗な笑顔になって良かった。
どうか君の人生、これから先幸せでありますように。俺がいなくてもきっと君なら幸せになれるはずだ。どうか幸せに。そう彼女に呟いて、俺は彼の手を取る。指先は真水の如く透明で消えかかっていた。本来この感覚を四十九日に味わうべきなんだな、と他人事のように思う。そのまま歩き出し、彼女の家を出て、元来た道を戻っていく。今度は一度も振り返らなかった。振り返ってしまったら、もう彼の手を振り払い地縛霊になってしまいそうだったから。下唇を噛んで、自分の足元を見つめながら、彼に手を引かれるがまま歩みを進めた。
彼も俺も、墓地への帰路は沈黙を守った。バスの中も、電車の中も。バスに乗る前、彼が一言。
「僕らの元へ行くのには、例えば君なら最初にいた墓地から行かなきゃいけないんだ。時間は掛かるけれど、そういう決まりなんだ」
そう言っただけだった。
ただずっと手だけは互いに離さなかった。もしかしたら迎えが決まった人間の手を離してはいけない決まりがあるのかもしれない。俺からも離すこともなかった。別に、理由はない。彼女と会ったから、彼女に似た彼に、彼女の熱を求めていた。彼女とまたこうして手を繋ぎたいが為。ただ、それだけ。
月が南の空に浮かぶ頃、最初の墓地に着く。
「長旅お疲れ様、○○。さぁ、行こうか。何か言い残したことは?」
俺は少し時間を作って考えた。彼が一切急かして来ないという事は、そのための時間を待ってくれるという事を暗示していた。靴を履いていない、ワンピースの隙間から僅かに見える闇に浮かぶ光のように白い彼の足の先を見つめた。
「お前は初めに『君の担当の僕に』と言ったな。どうして俺の担当だったんだ? 理由が無ければそう答えてもらって構わない。伝えられない決まりがあるならそう言ってもらって構わない。ただ…」
視線を彼の瞳と絡ませる。
「何か、規則性があって決まるなら、どうか教えて欲しいと思って」
彼は俺が考えていた時間の倍以上を掛けて、言葉を考えていた。今までの辞書のような、コンピューターのような彼ではなかった。人間の、俺ら人間のような表情に見えた。何度も口を開いて、閉じてを繰り返して、五度目。空気はようやく音に変換されて俺の耳に届いた。
「……、前世からの、因縁ってやつかな」
それきり、再び黙ってしまった。まだ話が続きそうな終わりだったため、静かに言葉を待つ。が、それ以降待ったそれが彼の口から紡がれることはなかった。口元が震えては、下唇を噛み、眉を寄せる彼を見てたまらず声を掛ける。一歩距離を詰めて。
「何か言いたい事があるなら言えばいいだろう。後悔するんじゃないのか。俺はお前の事を全く知らないし、お前のその、死神って仕事柄言えない事もあるんだろうけどさ…」
語尾になるにつれて段々と小さくなる声と、下を向き小さくなる身体とが情けない。また彼の機嫌を損ねるのではないかと今更になって怖気づいた。しかし俺の予想とは裏腹に、彼は静かなままだった。彼に視線をやれば、背を向けられていて表情は伺えなかった。言う気、話す気はさらさらないのだ。ただそれを言葉にしないだけで。察せという事だ。そんなところまで彼女に似せなくていいのに。言わないと彼自身が決めたならそれでいいと、俺は思う。それならば口を出す権利なんて、ない。
ずっと繋がれていた手が離される。すうっと冬の乾いた冷たい風がその手を撫でた。寒さを感じないはずなのに、それがどうしようもなく耐え難く寒くて、自分の両の手を擦り合わせてそれに耐えるしかなかった。彼の手は既に衣服の闇に隠されてしまったから。
「さて、条件はやっと満たされた。もう行こう。行こうか」
そう振り返った彼の顔は仮面でも被っているように無表情で、先程どんな顔をしていたかなんて検討もつかなかった。俺は彼の言葉に頷いて不敵に笑う。彼とは反対に。
「そうだな。本来の時間の何十倍と掛かり過ぎたと思う。とはいえ俺の意識は一年たった今日に目覚めたばかりで、死んだ次の日みたいな感覚だけど」
肩を竦めれば、彼は僅かに笑って、否、僅かに表情を綻ばせて、もう透明で輪郭しかなくなっている俺の手に何かを握らせた。広げて確認すれば、それはネックレスだった。彼が首から下げていた、彼女とのペアに似ている、それを、俺の手に握らせていた。
「…本当はこんなことはしてはいけないんだ。仕事の規律違反ではないけれど、あまり好ましいとは決して言えない。きっと僕は君を送った後に酷く叱られるだろうけれど、後悔はしたくない。君に後悔すると彼女と会うのを強要したのに、僕だけ恐怖から逃げるのは良くない。自身が出来ない事は人に言わない、と人間は教えられるだろう? 僕もこの世界で仕事をする身として、従わなければ」
彼は両手で優しく俺の手を包み、しっかりと握らせる。絶対に無くすなとでも言うように。
「もし、次生まれ変わったら、これを探す人間を探してくれ。そんな人間に会わないかもしれない。…そうしたら、その次の人生でまた探してほしい。僕の我儘だと思って、お願いだ」
俺は何も言えず、それを黙ってズボンのポケットに入れる。彼の手は、指は、先程までの温もりは無く雪のように冷たかった。しかし悲願するように見上げてくる目に、会ったばかりの冷たさはなく、手指とは反対に人間らしい温かさが感じられる程だった。
彼は一、二歩足を引き、勿体ぶるかのように瞬きをした。次の瞬間には機械の表情に、口調は人工知能と酷似したものになり、切り替えの早さに寂しさ等を通り越して、いっそ感心した。彼は俺の額に手を当てて、小さく呟く。
「死者よ、安らかに眠りなさい。幸多き来世があらんことを」
俺は思わす僅かに噴出した。
「幸多き、ね。死神の癖にそんな事言ってくれるんだな」
「確かに僕は人間界で言う死神かもしれない。魂を違う世界に連れて行くという点ではね。始めに言ったじゃないか。人間界で言う死神みたいなものだって。『みたい』なわけで、正確には違うんだよ。それに仕事だからね。言いたくてこんなこと言っているとは限らない」
目を閉じたまま淡々と話す。残念だな、と零せば次に言葉を続けた。
「君に対してそんな事願わずに言ったとは言ってないだろう。割と本心で君には幸せになって欲しいと思っているよ」
「なんだよ。…ありがとうと言うのが正しいかな。精々幸せを願ってくれたら嬉しいよ」
四肢の末端から徐々に感覚が消えていくのが分かる。見えなくなっていても、感覚はあったのに、すげぇ、アニメ見たいだ、と他人事のように考えながらポケットに手を入れた。カツンと爪にリングが当たる。
「これ、生まれる時に持ってるのか? 赤ん坊がこんなの持って生まれてきたら普通にホラーだと思うんだが」
消えていくのは早いもので、こういうところはアニメとは違うらしい。もっと勿体ぶって時間を掛けて消えてくれてもいいじゃないか。しかしこれが現実というところか。死神が現実にいるという事がそもそも面白い話だが。
「まさか。でも気付いた時に君が拾うか、プレゼントされるか、とにかく君の物として手の中にあるさ。それを探している人間を探して欲しい。君の物を探している人間なんて中々いないだろうから、直ぐ分かるよ、きっと」
薄っすらと笑った顔は今日一番彼の表情で人間っぽくて、あぁこの顔が彼女の顔なら一番好きだったなと考える。
「時間だね。さようなら○○。またいつか」
目の前が白んでいく。時間が迎えに来たみたいだ。ぎゅっとネックレスを握りしめて、消え入る意識に身を任せた。
♦♢♦♢♦♢
「行ったか。…全く、彼はいつも僕の手を煩わせるんだから。毎度毎度こうだと、愛想も尽きてしまうよ」
僕は大袈裟に溜息を吐いて、彼の行ったであろう空を見つめる。それは曇っていて、死んだ人間を送るには決して相応しくなかった。出来れば美しい空の下、見送った方が幻想的なのであろうが、天気ばかりは神であろうと操れない。まぁ、神は神でも僕は縁起が無い方だが。
先程まで、それ相応の重量を持つチェーンがぶら下がっていた首を擦る。彼の前世より前に貰ったものだった。僕は彼の専属の死神になったのはきちんと理由がある。
僕もかつては自殺者だった。正確には彼ではないが、ずっと前に生きていた彼を一人置いて、僕は死を選んだ。彼のそれから先の人生をずっと、自殺で終わらせてしまう運命を辿らせるようにしてしまった罰として、彼を正しく、所謂天国に連れて行く役目を担うようになった。僕らは魂を現世から別次元に連れて行くという点では、死神かもしれないが、イメージ的には天使に近いのかもしれない。しかし、あまり僕らに良い印象を抱いて欲しくないため、一般的にマイナスの死神という表現を使うようにしている。彼以外の人間もたまに担当させられるのだが、大抵は僕を天使か神か、それらしい存在として認識するのだが。彼だけだ。僕が誰だか質問する人間なんて。今回も例外じゃあなかった。こう、ここまでいつも同じだと面白味もなくなってくるというものだ。
どんな人間に対してもそうだが、自分の罪を償うために、魂をあちらの世界に送る担当になっている相手に、正体は気付かれてはいけないのだ。元々知っている人間だと。勿論、記憶を無くして生まれ変わるから、気付かれることなど、滅多に無いのだが、自分が何故、決まった、担当としている人間の元に現れるのかを話すことはタブーとされている。表情からも聡い人間であれば気付くため、無表情を強いられる。意外と疲れるのだ。死んだからといって感情が全て消え去る訳じゃあない。頬を両手で挟み、筋肉を解す。
墓石の前にしゃがみ込み、手を合わせた。彼をこうして送る度に彼の墓に手を合わせ、心の中でせめてもの謝罪をしている。彼の親族に悲しい思いをさせているのは、僕だから。そして僕の意識が少しばかり混じっている彼女にも、毎回の人生、こうして悲しい思いをさせてしまっている。彼女の悲しみは混じった意識から、酷い痛みとして心の臓のあった辺りに伝わってくる。それだけの事を、かつて僕はしたのだから、自業自得だ。
でも、もうこの仕事も終えることが出来そうだった。彼が死んでからこの世に留まる時間が短くなってきていることが証拠だ。毎回僕の身体も中心から消えかけていて、もう服の下は四肢以外は輪郭すら残しておらず、また、首から上しか残っていない。それも薄らいで来ている。曇った空に手をかざせば、文字通り透けて空が見えた。
「今度はきっと、最後まで生きられればいいなぁ」
勿論、彼と二人で。
もうこんなきつい仕事、懲り懲りだ。
♦♢♦♢♦♢
数年後、日本の某所で男児が産声を上げる。彼の掌にはチェーンの付いた指輪のような痣があった。また別な場所では同じ時期に、女児が産声を上げた。彼女は首の辺りを何かを探すように擦ることが癖だった。
その二人が二十年後に、彼の自宅の近くで出会う事になることは、また別の話である。
REPETIZIONE
不慮の事故とか、長年病気と闘ったとか、そんな大層な死因じゃない。自らの意思で天井の梁に、近所のホームセンターで購入したただの麻縄を括って、ついでに自分の首を括ったというだけだ。どうせだったら永らく苦しんだ持病で死んで、よく頑張ったねと褒められたかったものだ。もう考えたところで遅い話だが。
とにかく自身で「死んだ」と認識しているから、あっさりと「死んだ」と今現在思えているのだと思う。
そう。俺は死んだ。
俺は、死んだ。の、だが。
俺はある場所に立っていた。そこは沢山の美しい花畑だとか、青い空にふかふかの白い雲の上だとか、そんな物語の中で見る幻想的な場所なんかではない。もとより、そんな場所を思い浮かべていた訳ではないけれど。
墓地だ。しかも自分の先祖が埋まっているとされている場所。
何故、よりにもよって、自分の家系の墓に立っているのだろう。
周囲には誰もいない。田舎の、しかも朝日が昇る前の時間帯だ。いくら年寄りばかりの辺りだからと言っても、そんな早起きの人なんて居るわけがない。ましてや、外を歩いている人なんて。当然、この近くに住んでいたから知っているのだが。それにしたって、まるで、このだだっ広い世界に一人立ち尽くしているような錯覚を起こす。一人で、独り。寂しい。そんな感情が俺の中で育つ。これでは生前のままではないか。
否、死後に何かを求めていたわけではない。先祖に迎えられるとか、天国に行くと幸せになるとか、地獄に行くと永遠に苦しむとか。ましてや死んだら救われるだなんて、そんなことは微塵も考えてなぞ、いなかった。
しかし現実に―少なくとも俺の意識では―俺は先祖の、恐らく自身の骨も眠っているであろう墓地に理由も分からないまま孤独に立っていて、それがどうしようもなく寂しい、ということだけは事実であった。
薄暗い中、誰かを求めるように辺りを見渡していると、隣に誰かが来た気配がした。「来た」という表現より「降りてきた」の表現の方が正しい。厭、「跳んできた」が一番相応しいかもしれない。なんであろうと、俺の隣に人影があったのだ。
「やぁ、探したよ。なんで君はまだ生きているんだい?」
その人物を、俺は知っていた。知っているなんて部類じゃあない。
俺の―――――――……彼女だ。
容姿、声に何ら変わりは無かったが、それは彼女ではない別の誰かだった。
彼女は俺に対して、もっと若者の使う、砕けた、それでいて丁寧な喋り方をするし、表情だって忙しいくらいにコロコロ変化する子だった。目の前の人物はまるで違う話し方をするし、表情も彫られただけのように変化しない。例え彼女に限りなく近い誰かだったとしても、俺は別人だと分かっただろう。確信はあれど、理由はない。親が大勢の似通った子供の中から、自分の子供を正しく選ぶのに近いような、俺の確信はそこに近しいものだと思う。
隣の人物―――彼(性別は分からない。確かに前述した通り容姿は彼女そのもので、女性らしい曲線を描いているのだが、彼女本人ではないという時点で、俺の中ではその人物の性別すらも破綻している)は、俺から目線を逸らし、正面を見て次のように続ける。
「12月26日、午前3時2分。君、○○は17歳で首を吊って自ら命を絶ち、僕らの処に来る予定になっているのだけれど。しかしなんだ。一年経っても一向に来ない。まあね、予定はあくまで予定であって、決して決定ではないから、未定であるということに類似しているし、そもそもそれに過ぎないのだけれど。でも死亡したという知らせが担当の僕の所に来ているんだ。その時点で決定というか、確定している。勿論病死でも事故死でもなく、あくまで予定通り、自殺でね。人間世界でいう、現在から一年も前に。だのに君はいつまでも生きている。どうしてなんだい?」
ほぼ一息だった。あるいは息継ぎが分からなかっただけかもしれない。彼は捲し立て、僕の瞳を覗き込んだ。文字通り、目の、前で。彼は純粋な疑問として俺に尋ねているようだ。空が青い理由を母親に問う子供のように。
俺はそんな彼に待ったをかけた。
「待て、待ってくれ。……俺が生きている? 馬鹿言うな、俺は死んだんだ。何故だか知らないが、お前は俺が死んだことを知っているのだろう? それが事実じゃないか。そもそもお前は何なんだ? ここは一体どこだ? どうしてお前の所に俺が行かなければならないんだ? 聞きたいことなんて俺の方がたくさんある」
そりゃあもう、富士山の高さじゃ足りない。エベレストでも足りないくらいだ。
彼は俺の言葉を一通り聞いた後、あちゃぁ、そこからか、と片手で両目を覆い、天を向いた。ふざけているように。しかし声にあまり抑揚は無く、上から糸で操られているのではと疑った。
「僕が何だか分からない人間、君が初めてだよ。いや、正確には君は十何人目であり、君が初めてであるけれど」
《僕が何だか分からない人間、君が初めてだよ》? 《正確には君は十何人目であり、君が初めてであるけれど》? 矛盾した言葉をうんうんと納得して言う彼に、それについて問いかけようとするが、挟む隙も無く彼は続けた。俺自身もそれについて考えるよりも、次の彼の言葉に集中する。
「少なくとも検討はつけるものだと思うけれどね。君の脳味噌は死んだときに腐ってしまっているんじゃないかい? まぁ一年も経てば腐るかもね、うん」
回りくどいというか、面倒な話し方をする奴だと思った。遠まわしに言い過ぎて、何が言いたいのか寝起きの頭じゃ完全には理解出来ない。取り敢えず罵倒されたことだけは分かったが。
それにしても、そもそも彼に「話す」とか「喋る」という単語が似合わない。なんというか人に限りなく近い話し方をする機械みたいだ。だから「言葉を言う」「単語を発音する」に近いというか、ほぼこの表現が正解だ。
彼は一番高い、一家の名が刻まれた墓石の上へ跳び、腰かける。暗闇で型取った黒いワンピースが、上へ昇った際、空気抵抗でふわりと広がる。俺の彼女には似合わない服だ。しかし陶器のようにつるりとした、服とは対照的な真っ白な肌の彼には、とても良く似合っているように見えた。長く伸びた脚が見えたのは一瞬で、すぐにスカートの裾は肌に吸い寄せられ又元の位置へ戻ってしまった。一切肌の見えない長袖の服に、唯一露出される顔は際立って見える。その下で光が少ないにも関わらず眩しく輝く、首から下げているシルバーのリングは彼女とペアで買ったものによく似ていた。そこまで模倣しているらしい。
「少なくとも、君ら人間とは違うということに変わりはないよ。それくらいは君も分かるだろうけど。僕は簡単に言えば死神さ。君ら人間の呼ぶところのね。まぁ君らの世界の、物語に出てくるそれとは、多分、いや絶対と言い切ろう。絶対違うよ。君の知る死神とは違うものと思って貰っていいよ」
彼はどこから出したのか、古びた本を取り出しページを捲る。長い指が闇の間から垣間見えた。そこに何が書かれているか見当もつかないが、敢えて推測するなら、おおよそ人間一人一人の人生が記されているのだと思う。彼の今読む本が、絵本ほどの厚さしかないのはそのためだろう。
「さて、君が何かを話し出す前に、全ての質問に答えてしまおうか。『ここは一体何処だ』という質問だったか。君が思っている通りの場所だよ。君の家の近くの、君が彼岸や盆によく来ていた墓地。ちゃんと現実世界のね。幻想じゃない。もし幻想だったら、僕みたいな変な奴、君は想像しないだろうから」
彼はプログラムされた文章を読んでいるかのように、淡々と話し続ける。目線は手元の本から、正面に広がる田園風景に移っていた。ミディアム・ヘアの作り物のように流れる真っ黒な髪を指に巻き付けながら。うっすらと地平線が白み、色付き始めて来た頃だった。
「さて、最後の質問かな。『どうして僕ら死神の元へ来なくてはならないのか』。答えは一つさ。そういう風になっているんだよ、人間。決まりだと捉えて貰う他ない。そういう世の中の理なのだよ。夜が明けたら朝が来るように。秋の次に冬が来るように。摂理と言ってもいい。死んだら現実から離れなくてはならない。まぁ、意味というか、死者がこちらに来なくちゃならない理由は、無いことはない」
ぴり、と空気が張り詰め、俺は身動きを取るのをやめる。
「……無いことにはないが、それを知ってどうする? 植物状態の人間だったら、もしかしたらこの場に留まり続けることが出来たかもしれない。もしかしたら、もう一度同じ体で、もう一度人間が出来たかもしれない。だが君は死んでいるんだ。心肺も脳も、身体だって火葬されてもう細胞すら残っていない。一年も前に。もう物質として君は甦ることは不可能なんだ。だから僕らの処へ来る。消去法だよ。わかるよね? 君もそうやって死んだんだから。『生きられない。だから死んだ』。違うかい?」
最後の問いで、その空気から解放される。しかし空気が張り詰めている間の彼の口調は、機械のようなものではなく、吐き捨てるようなものだった。只、俺の聞き分けの悪さに苛立っただけだったのかもしれないが、人間に近い口調が聞けて、少し気持ちが軽くなった。人間に限りなく近い何かを見ると、人間は気持ち悪さや恐怖を感じる、と聞いたことがある。この知識は生前のもので、人間に近い何かというのはこの場合機械だったけれど、死神も似たようなものだろう。
「……ふむ、少々取り乱してしまった。それにしても君がこの世界に留まっている理由は、僕には分からない。突然自分が死んだことを認識していない状態で、何十年も留まるケースはあるよ。稀なケースだけど。幽霊とかお化けの類だ。君ら人間より動物達の方がよっぽど潔いよ。悟っているんだろうね、自身の寿命が尽きたのだと。まぁ人間の頭が良いから故に、現実を認めたくない、現実逃避をするのだとすればそれまでなんだろうけどさ。でも君は自分が死んだことを理解しているんだよね。君は死んでいる。死んでいるよ。でも生きているんだ。生きているんだよ。不思議でしょうがないよ、僕は。自殺者が自分の死を理解してそれを受け入れているにも関わらず、生き続けている理由なんて、一つだから、それをさっさと解決すればいいんだけどさ。…それにしたって君はまだ理解できないのかい? 自分がずっと浮世に留まり続けている理由」
長々と喋るやつだ。話を挟む隙がない。彼の声が数秒以上止まり、俺に話すタイミングを与えているのだと気付いた。俺は渇き始めている唇を舌で潤してから口を開く。死んでも生きていた時の癖と言うべきだろうか。
「死んだのに生きている、って。……矛盾がどうも理解出来ない。俺にも分かるように説明してくれないか? とりあえず、俺がお前らの処に行かなきゃならないのは分かったから」
納得はしていないが。理解と納得は違う。疑問は残るばかりだが、死神という存在に逆らうと、俺という存在が無かったことにされそうだ。元々それを望んで死を選んだから、本望と言えば本望だが、こんなよく分からない奴に無かったことにされるのはごめんだ。
片足に重心を傾け、腕を組む。そんなでかくなった態度が気に食わなかったのだろうか。彼は眉をひそめて、相変わらず座り続ける墓石の上から俺を見下ろした。苛立っているとも、呆れているとも取れる表情で。
「僕の姿を見て思い出した人間はいなかった? いたと思うんだ。僕の姿は君が最期に浮かべた人間のものになるんだ。しかも君が好意的に想っていた人間のね。友人だか、妻だか、彼女だか知らないけれど、君と同じように君のことを思っていたんじゃあ、ないかい? ……まだ分からないかい?」
俺の目の前に降りてきて、首を傾ける。俺にはまだ話が繋がっていなかった。寧ろ彼女の話が出てきた事によって更に俺の中で混乱が生まれていた。黙っているのを彼は肯定と受け取ったのだろう。溜息をわざとらしく大きく吐き出して、くるりとワンピースを翻して歩き出す。記憶違いでなければ、俺の自宅の方向だった。
「早く。見に行った方が早いよ」
僕も暇じゃあないからね、と視線だけを一瞬俺に向けて軽い足取りで地面を踏んだ。歩き方まで彼女だ。
もう太陽はゆっくりと顔を出し始めている。
♦♢♦♢♦♢
正直、妙な気持だった。自分が死んだ後の部屋に入るというのは。
主人がいなくなって一年経ったその場所は、もう殆ど片付けられていて、自分の部屋じゃないようにも見えた。クローゼットの中も、洋服以外のものの大半は何処かに運び出されていた。この分だと隠れて買ったそういう類の本も片付けられているだろう。せめて完全に捨てるか燃やすかしておくべきだったと今更ながらに後悔した。恥ずかしいのと、親にそんな本を片付けさせてしまった罪悪感に苛まれる。
「……変な感じ、というか。こんなに俺の部屋は広かったんだな。物が無いとまるで違う」
「そう。僕が出会ってきた人は例外なくそう言うよ」
財布の中身は期限の切れたポイントカードやレシートを残して、すっきり綺麗になっていた。きっと弟が抜き取ったのだろう。彼以外にそんなことをする人物は家族にいない。死んだら何も残らないだろ、とよく言っていた弟だ、実の兄の俺にすら何も残してくれる気はないらしい。
「それにしても、物には触れられるんだな。てっきり触れないものだと」
「じゃなきゃ地面なんて歩けないでしょう。マントルまで沈んで、というかそもそもこの世界に居続けるなんて無理な話じゃないのかい?」
呆れたように彼は俺の普通の本棚を物色している。通信制高校の教科書、趣味で集めた有名作家のハードカバーの小説、アニメを観て気に入って買った漫画。それを取り出して表紙と裏表紙を見てから元の位置に戻すという行為を続けていた。あまり部屋の物を動かさないでいただきたい。俺の親が荷物の配置を覚えているとは思えないが、万が一動いていることに気付かれると多分面倒なことになるから。
「それにしても、一年でここまで片付けられるものなんだね」
今度は俺を押し退けて、クローゼットの中のアウターを眺めながら、独り言のように呟く。静かなこの部屋じゃなければ聞き逃してしまうくらい小さい声だった。
そうか。
一年で、充分なんだ。
それに気が付いた俺は少なからず寂しく思えた。俺の生きた十七年は、たった一年で充分だったらしい。親なりの、家族なりの俺に対する気遣いなのかもしれない。前を向いて歩いているのを見せる方が、俺のためだと。
俺は机の上に残ったままの作りかけのプラモデル、彼女から初めて貰ったマフラー、クリスマスプレゼントのネックレスと小さな手紙を一撫でする。それに俺が死んでから持ってきてくれたのだろう、見覚えのない、俺の名前と彼女の名前が差出人に書いてある、丁寧に封筒に入っていた手紙を読んで、机の上に戻した。ここに入るのは、どんな気持ちだっただろうか。あまり考えたくない。逆の立場だったら、俺は絶対入れないどころか、彼女の親にすら会えなかった。その点彼女は強い。俺にはない強さだった。そこを俺は尊敬していた。彼女は、自分は弱いと、俺がいないと生きていかれないといつも泣いていたが。今生きてられているんだ。強さの証拠だろう、と彼女に言ってあげたい。
俺は静かに、もう出ようと彼に声を掛ける。
「もういいのかい? 死んでから一度も来ていないだろう、自分の家に。もう少し懐かしんだらどうだい?」
そう言いながらも、待っていたかのように立ち上がって俺に歩み寄ってきた。口だけのようだ。業務的に言葉を発する。
「もういい。この家にもう俺は必要ない」
「……君がそう思うならそうなのかもしれないね。もういいというのならば、もう次に行こうか」
真っ黒のワンピースの埃を両手で払ってから、俺を見上げる。じっと数秒見つめられて、何かあるのかと問おうと口を開く。よりも先に彼は俺の部屋を出た。あの一瞬の間は何だったのだろう。
階段を軽やかな音を立てて降りていく彼の後ろを、駆け足でついていく。彼の身体は俺のものと違って実体があるらしい(俺は、物には触れられるが実体はない、と聞いた)。この時間は誰もいない。俺の家は、今の時代には珍しく、家族三世代で住んでいる。祖父と祖母は今の時間畑仕事に出ているし、両親は仕事。弟も昼間は部屋から出ない(俺と同じ通信制高校に通っているが、俺と違ってアウトドアな方ではあるが)だろうから実質誰もいないに等しい。
静かな家の廊下を歩いて、俺の仏間に入った。綺麗に掃除をされたその部屋の仏壇の真ん中。珍しく笑顔の俺が黒縁の写真立てに入っていた。その前には食事や俺の好きだった菓子類が置かれている。
「綺麗な部屋だね」
「そうだな」
「なんだい。思ってたより無関心だね」
無関心、というか他人事に見えている。俺は頭を掻きながら唸った。
「あんまり自分のものと思えないというか、なんというか…」
「あぁそういうこと。そんなものだよね。僕も自分の写真見ても自分の写真なのか疑うもの。この仕事していると自分の姿が分からなくなるよ。もう何年この仕事しているか分からないのと同じくらいね。まぁその度に姿形が変わるものだから、自分の顔を覚えていないのも当然というか」
彼はしゃがみ込みながら、菓子に手を伸ばす。俺は早く家を出たかった。なんというか、居心地は良くない。当然だ。自分の神棚なんて長くは見ていられない。
俺のどこか落ち着かない様子を察したのか、彼は饅頭を二、三個手に取りワンピースのポケットに仕舞い込んで立ち上がる。
「そろそろ行くことにしようか」
敷居はきちんとまたぎながら彼は障子を開け、部屋を出て行ってしまった。俺はその場に居たまま叫ぶように声を上げる。
「行くって、何処へ!」
「君が大事だと思っている人間の所」
廊下を歩く音と共に、比較的大きな声が聞こえた。
♦♢♦♢♦♢
「僕の事は、話す気なんてないよ」
自宅の最寄りの駅(と呼べるか分からない程小さい。千と千尋で、千尋が銭婆の所に行く際、一瞬映る水面より一段高くなったコンクリートの上にその駅名が書かれている看板が立っているだけ、というシーンを知っているだろうか。あれに酷似しているというか、まんまあれだ)から電車に乗り、揺られていた。その車中の沈黙を破ろうと、俺は彼に、彼の事を尋ねた。なんてことはない、仕事のことを訊いただけだ。純粋な興味で。しかし前述の通り、冷たく返され、心なしか機嫌を損ねてしまった。
ボックス式の座席の窓側に、向かい合って座ったまま沈黙が作られ続ける。俺たちの他は誰一人として乗っておらず、線路の繋ぎ目で車体がガタつく音だけが耳に響いてくる。流れる景色に意識を委ねようとした時、声という音を発したのは、彼だった。
「何故会いに行くのだとか、僕じゃなくて自分の事に興味を持つべきだと思うのだけれど。君は本当に変わっている」
彼は車窓の外を眺めたまま、何の感情も無しにそう言った。ただ田園風景が続く景色をつまらなそうに眺めたまま。俺はそんな彼を見たまま次の言葉をじっと待った。
次に彼女そっくりの、女性にしてはハスキーな声が言葉を紡いだのは体感的にまた数分程経ってからだった。
「特に聞かないという事は、別段質問は無いという事かな」
質問があることにはあった。でも無いことには無い。彼に聞いてもきっと答えてくれることはないだろうから、俺に彼に対する質問が無いと同義であった。彼は一拍置いて、また口を開く。
「まぁ、彼女に会えても向こうの声は一切聞くことは出来ないよ。僕らから彼女らに一切干渉出来ないようにね」
「……聞こえないのか?」
その問いが『こちらからの声が彼女に』なのか、『彼女の声がこちらに』なのか自分の中ですら定かではなかった。彼は少しだけ、ほんの数秒俺の方に視線を送り、再び窓の外を見てから唇を動かす。
「……よっぽど、強い思念じゃあない限りは、ね」
彼はゆっくりと座席から立ち上がった。
俺の最寄り駅からは二時間程掛かる彼女の住む街に着いたようだった。どうやら死んだ後は時間の流れが早く感じるらしい。太陽は西に傾き始めた頃だった。
♦♢♦♢♦♢
ホームに降りると、同じ車両から結構な人数の人も降りてくる。いつの間にか人が乗ってきていたらしい。成程、本当に人の声はこちらには本当に聞こえないようだ。墓地に独り立っていた時の信じられない程の孤独感も頷けた。
彼女の住む街は、第二の県庁所在地とも呼ばれる程には発展している土地だった。建物の階数は高く、様々な店が入っているビルが多い。当然人の数も、俺の住む土地とは比べ物にならない密度だ。
ホームにも当然人は多い。しかし死神はその隙間を器用に縫って歩いていく。俺もその後に慌てて続く。人が俺らを避けているようにも感じられるくらいスムーズに歩く事が出来た。
駅を出て彼女の家へ向かうバスを待つ。冬にしては柔らかな風が脚の間をくすぐった。今日はどうやら平日のようだ。駅構内と違い、外にはそこまでの人は歩いていなかった。人がいても、スーツケースを転がし、忙しそうにスマートフォンで電話をしながら駅の中へ向かって歩くサラリーマンがせいぜいで、バスを待つ人間は殆ど居らず、俺がいつも遊びに来ていた休日の時のような煌びやかさや華やかさはなかった。
ぼーっと忙しそうな影を眺めていると、時刻表を確認していた彼が俺の元に戻ってくる。
「どうやら君の彼女の家に行くバスの本数は少ないようだね。しかし僕らは幸運だ。あと十数分で次のバスが来る。それに乗って向かうとしよう。しかし、彼女が家に帰っているかギリギリのラインかな」
どうしようか、と彼は顎に手を当てて少しばかり考え込んでいるようだった。そして何かに気付いたように俺を見上げる。
「なんだか君は口数が少なくなっているようだけど、あまり乗り気じゃあないのかい? 生前想っていた人間に会いたいと思うのは殆どの人間に当て嵌まると僕は考えていたのだけれど、君は少数派なのかな」
瞬きをしながら俺に尋ねてくる。図星だった。
「彼女に、会いに行くって言っても、彼女は家の中にいるだろう。いくら見えないとは、言っても。不法侵入は良くないと思うが。外にいても、自転車に乗っているとか。お前ら死神に法律とかそんな概念があるとは思えないけれど」
俺が歯切れ悪くそう言って、彼から目線を外せば、少し食い気味に彼は言葉を挟む。
「そんなことで彼女の元を訪問するのを拒もうとしているなら、それは辞めておいた方がいいと僕は思うよ。勘違いしないでよ、君にだけじゃあない。僕は今まで出会ったこの世に留まり続けている人間全員に言っているんだ」
近かった距離を更に詰めて、俺の胸の中心に人差し指を突き立てる。
「想い続けている、人間の、今を、見ろと。君が死んだ後の世界で、相手が、どういう風に、生きているのかを、きちんと、自分の目で、確かめろ、とね」
句読点で言葉が切れる毎に、まるでボタンを押すように、胸を突いた。光の入らない瞳にそう言われ、思わず左足を一歩引く。
「君が今、この場に留まり続けている理由は、間違いなく彼女にある。理由は見ればわかると思うけれどね。兎に角君が彼女に会わないからには、君は僕の手で強制的にあちらに連れて行かれるか、君の家で地縛霊になるかのどちらかかの選択しか残されない。前者は僕がしたくない。無駄にそれらしい力を使うのは御免だ。後者も僕は辞めて欲しいね。私事で悪いけれど、少しでも多くの生物を再びこの場に送り込む事も僕らの仕事なんだ」
顔を背ける。俺は、怖かった。彼の言った『想う人間の、彼女の今』を見るのが。もしもう忘れられていたら。もしもう俺の事なんて過去に押しやられていたら。もし、俺が死んで清々していたら。考えれば考えるほどネガティヴな思考のスパイラルに堕ちていく。死ぬ前はそれでもいいと思っていた。寧ろその方が彼女には良いと思っていたくらいだった。でも死んだ今は違う。実際電車内やホームを歩いている間も恐怖しかなかった。
「怖い」
気が付いたらそう発していた。脚は立っているのもやっとな程、みっともなく震えていた。彼はそんな俺を見て、そうか、と一言零しただけだった。暫くの沈黙が流れる。ひっきりなしに足元を通っていく風を感じながら沈黙が破られるのを待った。
そしていつしか来ていたバスに乗り込む。当然無言。一人掛けの座席に、廊下を挟んで各々腰掛けた。発車し、駅とは対称的に無人の商店街の中を走る。まるで映画やドラマのために造られたセットだった。その景色の中を俺と彼女が二人歩く幻想が見えた、気がした。あくまでそれは幻想で、俺らは静かな商店街や、休日の煌めく道を歩いたことは無い。我儘を言うなら、こんな静かなセットの中を歩いてみたかった。
電車の時とは違い、俺から話すことは何もなかった。ドクドクと血液が流れる感触が、心臓のあたりの場所からする。生きていた時の感覚が残っているというよりは、緊張しているから心臓が脈打つと条件反射的に頭が勘違いしているのだと思った。俺から話しかける理由も無いのなら彼も同じで、窓の外を眺めていた。俺とは通路を挟んで反対側に座っているため、表情は伺えなかった。ただ、なんとなく、今までの無表情とは別の表情をしている気がした。あくまでも俺の推測で、もしかしたらいつも通り、何もかも見透かした顔でいるのかもしれないけれど。俺は彼から目を逸らし、周囲の建物に視線をやった。知っている建物は潰れて更地に、そして知らない建物が増えていた。一年も経てば街は変わるものだ。店があったところには普通の家が。大きい道路は半分程封鎖され、地面を掘っている。彼女の家に近づくと、俺の墓の周りに似た景色が見えてきた。色こそないが豊かな田畑に親近感を持った。
バスはゆっくりとスピードを落とし、終点の彼女の最寄りに止まる。ドアが開き、他の乗客に紛れて降りた。
「俺、彼女の家の場所は、厳密には知らないが、大丈夫か?」
そう死神に言えば、俺の前では変わらない無表情で呟くように言う。
「君の彼女は調べて君の家へ出向いたみたいだけど、君は…」
「調べようにも調べる媒体が無いだろう。スマートフォンはあるか? ナビは? ……悔しいけど今の俺に出来ることは何もない。せいぜいお前の後ろを黙ってくっついて行くことくらいしか、な」
両手を肩の辺りで天に向けて肩を窄めれば、彼は納得したようだった。
「それもそうか。僕は君を過信しすぎていたようだ。すまないね、君はそれで……。否、失言だった、忘れてほしい」
「……いいよ、もう終わったことだ。二重の意味でな」
彼は俯き、こっちだ、と俺の隣を通り過ぎた。
『耐え切れなくなって死んだのだったね』
恐らく彼が次に発する言葉はこうだっただろう。大して気にしていないというのに、自分の失言を悔いているようだった。人間でもあるまいに。そんなところまで気を回して言葉を選んでいたのか。彼に対する考え方を改める必要がありそうだった。
暫く畦道に近い草の合間を歩く。二人の間に流れる沈黙にはもう慣れていた。互いにアクションが無い限り、相手を空気にする。そこに無くてはならないもの。俺にとっての彼女に近いものを、今になって俺は目の前を歩く死神から感じ取っていた。見た目が似ているからじゃない。初めとは空気が変わっているからだろうか。それとも俺が彼のいるこの空気に慣れてきたからなのだろうか。
数分歩いて到着した一軒家。家族四人で暮らしているというその家は、明るい茶色の壁で彩られ、閉まっているカーテンの向こう側はライトが煌々と照っている。
「着いたよ。入るか入らないかは君に任せることにしよう。何度も言うように、僕は彼女に会うことを勧めるけどね。会うという表現は間違っているかな。彼女を見ることを勧めるよ」
「……」
此処に来ても尚、俺は悩んでいた。玄関の前に立ち、自分の足元を見つめる。
ここで彼女を見て、後悔しないだろうか。後悔するならこのまま踵を返して帰った方がいいと思った。また彼の機嫌を損ねて、今度こそ消されたとしても、強制的に彼らの世界に連れて行かれたとしても。寧ろ彼女に会うことを強制されないのなら、無理矢理にでも現実から離された方がマシだ。
「…俺は……っ」
「会わないのかい?」
俺は会わない、と発するのを遮り、彼は言葉を被せた。彼を見たが、彼はこちらを見てはいなかった。家の二階辺りを真っすぐ見つめている。何を考えているのか、全く分からなかったが、唯一、俺が『会わない』という選択をすることを知っていたという事だけは分かった。
「…きっと、見ないで僕らの世界に来ることは、止めた方がいい。それでも君が会わないという選択をするならば、僕はもう一つの方の選択肢を強制するよ。勧めるんじゃない。強制。命令に近しいものかもね。神、という名において」
彼は自分の足の先を見た。顔に掛かる前髪が彼の表情を暗闇の中に隠してしまった。生憎、機械の声から感情を読み取れる程俺の耳は良くない。俺は彼のその言葉に、頷くことしか出来なかった。
「ありがとう。じゃあ入ろうか。僕らは人間には見えないからね、正直人間の決めた法律やら規律やらなんて通用しない」
彼女の父親が煙草を吸うために扉を開けたその一瞬、その隙に家の中へと入る。初めて入る彼女の家は、とても片付いていて、いつだかに聞いていた通りだった。そのままリビングを抜ける。そこには彼女の母親と妹らしき人影と、犬。俺らの方に向かって犬が吠える、吠える。小型犬のクセして頭に響く高く大きい声で。
「……俺、犬より猫の方が好きなんだよな」
「そう。僕は断然犬が好きだね。…君の彼女の犬は躾がなっていないようだから苦手意識が働くけれど」
妹が犬を諫めているところを尻目に部屋の中を見渡す。彼女は……いない。ということはまだ帰宅していないのだろうか。あるいは。
「二階…、自身の部屋にいるみたいだね。彼女」
そう言って彼は犬を手で適当にあしらいながら、階段を上がっていく。俺も後ろを着いていくが、犬は俺には吠えなかった。不思議そうに俺を見ているようにも見える。流石彼女の愛犬。俺と会ったことは無くても、俺が彼女の大事な人間だという事がわかったのだろうか。まぁ、犬の考えていることなんて分からないが、そういう事だと思っておこう。
二階に上がると、一部屋だけ明かりの点いた部屋があった。廊下の突き当りの左側。白い明かりが、ぽつんと。入り口に隠れるように中を見れば、机の電気だけが煌々と照っている。本人は、その机に向かっていた。何をしているのだろう。音も気配も恐らく彼女には伝わらないが、気分的に音を立てないように部屋へ踏み入る。彼は壁に背を預けたまま、俺の動向を伺っていた。
彼女の前には、いくつかのアクセサリーとミサンガ。それと見覚えのある小さいくまのぬいぐるみ。と、俺の好きな菓子と飲み物、それと美しい花。全部、俺のためと思えたものが、彼女の目の前の机には所狭しと並んでいた。その隣にそっと立ち、座っている彼女を見下ろす形になる。彼女は下を向いて、表情は見えない。先程の死神に似ていた。正確には似ているのは、彼の方だが。膝に手を当て少しばかり屈み込み、彼女の横顔を見た。目を閉じている。ちょっと、髪は伸びただろうか。肩甲骨辺りだった髪の毛は、今は腰より上くらいになっていた。そして量の少ない梳かれた髪が好きだったはずだが、降ろしているその量は、かなり多いような気もする。好きだった横顔は、かなり大人びていた。元々大人っぽいような顔立ちだったが、この一年で更に成長したと感じる。……ちょっと、痩せただろうか。あぁ、折角なら彼女の成長を近くで見届けるべきだった。思えばそうだ。彼女は今、当時の俺と同じ年齢なのだ。一つ下だと思っていた彼女は、俺には追いつかないと思っていた彼女は、もう、俺と同じ線に立っているんだ。
「シュシュ、買ってあげる約束してたのにね。ごめんな」
聞こえないと分かっていて、彼女に声を掛ける。誕生日に守るはずだった約束、もしかしたら彼女は覚えていないかもしれない。本当は全部守ってあげたかった。割と本気で、自身で言ったことは全て守る気でいたんだけどなぁ。目頭が熱く、視界が滲み、やがて歪んでいく。衝動で死を選んだ自身を酷く恨んだ。
「ごめんね、ごめんなぁ。俺、おれが、弱いせいで。俺が弱かったから、一人にして。独りに、して、ごめんなぁ」
自然と言葉が溢れていた。いつも何でもないような、クールぶってる涼しい顔を滅茶苦茶に崩して、ひたすらに謝罪を繰り返す機械と化す。その瞬間、まるで声が聞こえたように彼女がはっとしたように目を開け、刹那眉間に皺を寄せ瞳一杯に雫を浮かべて声を上げた。
生憎、彼女が叫んだ言葉は分からなかった。俺にはわからないほうがよかったと思う。しかし、その内容は分からない中でも、俺の名前だけは、はっきり聞き取ることが出来た。
彼女が泣いているのは初めて見た。電話越しで「死なないで」と泣いていたことはあっても、こうして直接見るのは。案外子供っぽく泣くんだな。いつもにこにこと楽し気にしている彼女の表情からは、想像なんて出来ない。そんな泣き顔。
……あ、なんだ、声。聞こえてんじゃん。
彼女の泣き顔を見て、そして死神が電車で言っていた言葉を思い出した俺の涙は止まり、泣き笑いに似た表情を湛える。俺が彼女を見る前に考えていた恐怖は杞憂だったみたいだ。俺が未だ彼女を大切に想うように、彼女もまた、俺の事を強く想ってくれているのだと。だから、だったのか。
だから俺、今も生きていたのか。
彼女に俺、生かされていたんだ。
死神が言った「なんで君は生きているんだい?」。俺が生きていたのは、俺が今も尚生きているのは、彼女だ。彼女のおかげだ。
自信を持って言おう。彼女がいたから、俺がいる。彼女が、いたから。
俺の双眼からは再び熱い液体が溢れ、頬を伝った。彼女に負けないくらいぐしゃぐしゃになった顔で、彼女の事を抱きしめる。彼女には何一つ伝わらないだろう。俺の涙も、温もりも、両腕も、言葉も、何もかも。でも俺が死ぬ前に残した彼女への気持ちや想いはちゃんと、伝わっていて、今も彼女の中にある。それだけで充分だった。俺の中にあった恐怖は、その事実だけで消し炭の如く綺麗さっぱり消え去った。今俺が生きている理由が分かって、心なしか身体が軽くなった。
そして謝罪の次に出た言葉は。
「ありがとう」
ありがとう、ありがとう、ありがとう。その言葉で頭の中が一杯になる。こんな俺の事を好きになってくれてありがとう。こんな俺と少しでも一緒にいてくれてありがとう。こんな俺に「死なないで」と言ってくれてありがとう。こんな俺の為に泣いてくれてありがとう。まだまだ言い足りない。どうか全部君に伝わってくれ。聞こえなくても、直接、全部君に伝わってくれ。そう願いながら彼女の身体を、文字通り力の限りに抱き、締めた。彼女の涙も止まり、
「ありがとう」
そう言ってくれた。彼女のありがとうに、どんな意味が込められているのか、俺には全く分からない。俺は彼女にお礼を言われるようなことは何一つしなかったから。ごめんな、死んでしまって。君の傍にいることが出来なくて。でも、気持ちはいつも傍にいるから。
「行こうか、○○。自分の身体を見てごらん。君が生かされている理由を知ったから時間が来たのさ。迎えと言えば人間らしいかな。どの人間も、自分が死んだ事と、且つこれからもこの世で生きている、生かされていることを知ると迎えが来る。普通四十九日を迎える頃に皆知るものなんだけれどね。君は少し遅すぎた。でも、これでようやく僕らの元へ来られるね。良かった」
彼はこちらに手を伸ばした。手を取れ、という事らしい。もう、この場所から離れ難くなっていたが、そうなったら彼女の負担になってしまうだろう。所謂地縛霊になる。これ以上彼女を困らせたくはない。名残惜しいが彼女に回していた腕を外す。そして彼の元へ足を向けた。
「…元気でな」
振り返って見た彼女の表情は、実に笑顔で、飾られた花に負けていなくて、綺麗の言葉が似合う。そういえば俺が死ぬ前、最期に会った際見た彼女の顔は「またこうして一緒に出掛けられるよね?」と薄っすら涙を浮かべ不安げに揺れる瞳が印象的だった。最期に見た顔が泣きそうな顔じゃなく、綺麗な笑顔になって良かった。
どうか君の人生、これから先幸せでありますように。俺がいなくてもきっと君なら幸せになれるはずだ。どうか幸せに。そう彼女に呟いて、俺は彼の手を取る。指先は真水の如く透明で消えかかっていた。本来この感覚を四十九日に味わうべきなんだな、と他人事のように思う。そのまま歩き出し、彼女の家を出て、元来た道を戻っていく。今度は一度も振り返らなかった。振り返ってしまったら、もう彼の手を振り払い地縛霊になってしまいそうだったから。下唇を噛んで、自分の足元を見つめながら、彼に手を引かれるがまま歩みを進めた。
彼も俺も、墓地への帰路は沈黙を守った。バスの中も、電車の中も。バスに乗る前、彼が一言。
「僕らの元へ行くのには、例えば君なら最初にいた墓地から行かなきゃいけないんだ。時間は掛かるけれど、そういう決まりなんだ」
そう言っただけだった。
ただずっと手だけは互いに離さなかった。もしかしたら迎えが決まった人間の手を離してはいけない決まりがあるのかもしれない。俺からも離すこともなかった。別に、理由はない。彼女と会ったから、彼女に似た彼に、彼女の熱を求めていた。彼女とまたこうして手を繋ぎたいが為。ただ、それだけ。
月が南の空に浮かぶ頃、最初の墓地に着く。
「長旅お疲れ様、○○。さぁ、行こうか。何か言い残したことは?」
俺は少し時間を作って考えた。彼が一切急かして来ないという事は、そのための時間を待ってくれるという事を暗示していた。靴を履いていない、ワンピースの隙間から僅かに見える闇に浮かぶ光のように白い彼の足の先を見つめた。
「お前は初めに『君の担当の僕に』と言ったな。どうして俺の担当だったんだ? 理由が無ければそう答えてもらって構わない。伝えられない決まりがあるならそう言ってもらって構わない。ただ…」
視線を彼の瞳と絡ませる。
「何か、規則性があって決まるなら、どうか教えて欲しいと思って」
彼は俺が考えていた時間の倍以上を掛けて、言葉を考えていた。今までの辞書のような、コンピューターのような彼ではなかった。人間の、俺ら人間のような表情に見えた。何度も口を開いて、閉じてを繰り返して、五度目。空気はようやく音に変換されて俺の耳に届いた。
「……、前世からの、因縁ってやつかな」
それきり、再び黙ってしまった。まだ話が続きそうな終わりだったため、静かに言葉を待つ。が、それ以降待ったそれが彼の口から紡がれることはなかった。口元が震えては、下唇を噛み、眉を寄せる彼を見てたまらず声を掛ける。一歩距離を詰めて。
「何か言いたい事があるなら言えばいいだろう。後悔するんじゃないのか。俺はお前の事を全く知らないし、お前のその、死神って仕事柄言えない事もあるんだろうけどさ…」
語尾になるにつれて段々と小さくなる声と、下を向き小さくなる身体とが情けない。また彼の機嫌を損ねるのではないかと今更になって怖気づいた。しかし俺の予想とは裏腹に、彼は静かなままだった。彼に視線をやれば、背を向けられていて表情は伺えなかった。言う気、話す気はさらさらないのだ。ただそれを言葉にしないだけで。察せという事だ。そんなところまで彼女に似せなくていいのに。言わないと彼自身が決めたならそれでいいと、俺は思う。それならば口を出す権利なんて、ない。
ずっと繋がれていた手が離される。すうっと冬の乾いた冷たい風がその手を撫でた。寒さを感じないはずなのに、それがどうしようもなく耐え難く寒くて、自分の両の手を擦り合わせてそれに耐えるしかなかった。彼の手は既に衣服の闇に隠されてしまったから。
「さて、条件はやっと満たされた。もう行こう。行こうか」
そう振り返った彼の顔は仮面でも被っているように無表情で、先程どんな顔をしていたかなんて検討もつかなかった。俺は彼の言葉に頷いて不敵に笑う。彼とは反対に。
「そうだな。本来の時間の何十倍と掛かり過ぎたと思う。とはいえ俺の意識は一年たった今日に目覚めたばかりで、死んだ次の日みたいな感覚だけど」
肩を竦めれば、彼は僅かに笑って、否、僅かに表情を綻ばせて、もう透明で輪郭しかなくなっている俺の手に何かを握らせた。広げて確認すれば、それはネックレスだった。彼が首から下げていた、彼女とのペアに似ている、それを、俺の手に握らせていた。
「…本当はこんなことはしてはいけないんだ。仕事の規律違反ではないけれど、あまり好ましいとは決して言えない。きっと僕は君を送った後に酷く叱られるだろうけれど、後悔はしたくない。君に後悔すると彼女と会うのを強要したのに、僕だけ恐怖から逃げるのは良くない。自身が出来ない事は人に言わない、と人間は教えられるだろう? 僕もこの世界で仕事をする身として、従わなければ」
彼は両手で優しく俺の手を包み、しっかりと握らせる。絶対に無くすなとでも言うように。
「もし、次生まれ変わったら、これを探す人間を探してくれ。そんな人間に会わないかもしれない。…そうしたら、その次の人生でまた探してほしい。僕の我儘だと思って、お願いだ」
俺は何も言えず、それを黙ってズボンのポケットに入れる。彼の手は、指は、先程までの温もりは無く雪のように冷たかった。しかし悲願するように見上げてくる目に、会ったばかりの冷たさはなく、手指とは反対に人間らしい温かさが感じられる程だった。
彼は一、二歩足を引き、勿体ぶるかのように瞬きをした。次の瞬間には機械の表情に、口調は人工知能と酷似したものになり、切り替えの早さに寂しさ等を通り越して、いっそ感心した。彼は俺の額に手を当てて、小さく呟く。
「死者よ、安らかに眠りなさい。幸多き来世があらんことを」
俺は思わす僅かに噴出した。
「幸多き、ね。死神の癖にそんな事言ってくれるんだな」
「確かに僕は人間界で言う死神かもしれない。魂を違う世界に連れて行くという点ではね。始めに言ったじゃないか。人間界で言う死神みたいなものだって。『みたい』なわけで、正確には違うんだよ。それに仕事だからね。言いたくてこんなこと言っているとは限らない」
目を閉じたまま淡々と話す。残念だな、と零せば次に言葉を続けた。
「君に対してそんな事願わずに言ったとは言ってないだろう。割と本心で君には幸せになって欲しいと思っているよ」
「なんだよ。…ありがとうと言うのが正しいかな。精々幸せを願ってくれたら嬉しいよ」
四肢の末端から徐々に感覚が消えていくのが分かる。見えなくなっていても、感覚はあったのに、すげぇ、アニメ見たいだ、と他人事のように考えながらポケットに手を入れた。カツンと爪にリングが当たる。
「これ、生まれる時に持ってるのか? 赤ん坊がこんなの持って生まれてきたら普通にホラーだと思うんだが」
消えていくのは早いもので、こういうところはアニメとは違うらしい。もっと勿体ぶって時間を掛けて消えてくれてもいいじゃないか。しかしこれが現実というところか。死神が現実にいるという事がそもそも面白い話だが。
「まさか。でも気付いた時に君が拾うか、プレゼントされるか、とにかく君の物として手の中にあるさ。それを探している人間を探して欲しい。君の物を探している人間なんて中々いないだろうから、直ぐ分かるよ、きっと」
薄っすらと笑った顔は今日一番彼の表情で人間っぽくて、あぁこの顔が彼女の顔なら一番好きだったなと考える。
「時間だね。さようなら○○。またいつか」
目の前が白んでいく。時間が迎えに来たみたいだ。ぎゅっとネックレスを握りしめて、消え入る意識に身を任せた。
♦♢♦♢♦♢
「行ったか。…全く、彼はいつも僕の手を煩わせるんだから。毎度毎度こうだと、愛想も尽きてしまうよ」
僕は大袈裟に溜息を吐いて、彼の行ったであろう空を見つめる。それは曇っていて、死んだ人間を送るには決して相応しくなかった。出来れば美しい空の下、見送った方が幻想的なのであろうが、天気ばかりは神であろうと操れない。まぁ、神は神でも僕は縁起が無い方だが。
先程まで、それ相応の重量を持つチェーンがぶら下がっていた首を擦る。彼の前世より前に貰ったものだった。僕は彼の専属の死神になったのはきちんと理由がある。
僕もかつては自殺者だった。正確には彼ではないが、ずっと前に生きていた彼を一人置いて、僕は死を選んだ。彼のそれから先の人生をずっと、自殺で終わらせてしまう運命を辿らせるようにしてしまった罰として、彼を正しく、所謂天国に連れて行く役目を担うようになった。僕らは魂を現世から別次元に連れて行くという点では、死神かもしれないが、イメージ的には天使に近いのかもしれない。しかし、あまり僕らに良い印象を抱いて欲しくないため、一般的にマイナスの死神という表現を使うようにしている。彼以外の人間もたまに担当させられるのだが、大抵は僕を天使か神か、それらしい存在として認識するのだが。彼だけだ。僕が誰だか質問する人間なんて。今回も例外じゃあなかった。こう、ここまでいつも同じだと面白味もなくなってくるというものだ。
どんな人間に対してもそうだが、自分の罪を償うために、魂をあちらの世界に送る担当になっている相手に、正体は気付かれてはいけないのだ。元々知っている人間だと。勿論、記憶を無くして生まれ変わるから、気付かれることなど、滅多に無いのだが、自分が何故、決まった、担当としている人間の元に現れるのかを話すことはタブーとされている。表情からも聡い人間であれば気付くため、無表情を強いられる。意外と疲れるのだ。死んだからといって感情が全て消え去る訳じゃあない。頬を両手で挟み、筋肉を解す。
墓石の前にしゃがみ込み、手を合わせた。彼をこうして送る度に彼の墓に手を合わせ、心の中でせめてもの謝罪をしている。彼の親族に悲しい思いをさせているのは、僕だから。そして僕の意識が少しばかり混じっている彼女にも、毎回の人生、こうして悲しい思いをさせてしまっている。彼女の悲しみは混じった意識から、酷い痛みとして心の臓のあった辺りに伝わってくる。それだけの事を、かつて僕はしたのだから、自業自得だ。
でも、もうこの仕事も終えることが出来そうだった。彼が死んでからこの世に留まる時間が短くなってきていることが証拠だ。毎回僕の身体も中心から消えかけていて、もう服の下は四肢以外は輪郭すら残しておらず、また、首から上しか残っていない。それも薄らいで来ている。曇った空に手をかざせば、文字通り透けて空が見えた。
「今度はきっと、最後まで生きられればいいなぁ」
勿論、彼と二人で。
もうこんなきつい仕事、懲り懲りだ。
♦♢♦♢♦♢
数年後、日本の某所で男児が産声を上げる。彼の掌にはチェーンの付いた指輪のような痣があった。また別な場所では同じ時期に、女児が産声を上げた。彼女は首の辺りを何かを探すように擦ることが癖だった。
その二人が二十年後に、彼の自宅の近くで出会う事になることは、また別の話である。
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