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38話 赤いしずく

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 牙が肉を裂く音を、僕は初めて、受ける側として聞いた。
 濁った小さな音だった。
 容赦のない激痛。悲鳴は飲み込んだが、体は反射的にびくんと跳ねた。
 かはっ、と息が口から漏れた。
 激痛は熱を錯覚させ、首が焼けるようだった。


 赤いしずくが垂れて、じわじわと服を染めてゆく。
 ごくん、ごくんと、男の喉から嚥下が聞こえる。
 足の力が抜けそうになった。体ごと壁に押しつけられ、無理矢理押しとどめられた。
 首筋に埋もれる相手の顔は見えない。
 僕は最低限しか吸血しない。こんなふうに、一気飲みのようなやり方をしたら。
 ……そうだった。彼は、僕を生かすつもりがない。


 できるかぎりの抵抗は試みた。
 彼は万力のような力で僕の左肩を掴んでいる。掴まれているだけなのに、全く動かせない。
 後頭部は仰け反るように固定されていて、体幹が安定しない。残る右腕で彼を押し戻そうとしたり叩いたりしたが、効果はない。


 視界に白い靄がかかる。手足の先がしびれて冷たくなっていく。
 もう、動く余力が、……


 廊下を走る足音がした。こっちへ向かってくる。
 猛ダッシュで走っている足音は、大声でなにかを叫んでいた。


「セキュリティの皆さん、不審者はこちらです!」


 男が驚いて顔を上げた。
 彼は人外のスピードでカーテンに駆け寄り、あらかじめ鍵を開けていただろう窓から飛び降りた。
 あちらは裏山側だ。人目をしのげるとしても、三階の高さをものともしないようだ。


「無事か、桐生!!」


 映写室に飛び込んできたのは令一だった。
 よかった。SOS、届いてた。ありがとう。
 あの男が迂闊でよかった。足音は令一ひとり分だけだったのに。セキュリティなんて呼んでない。
 令一。どうして、こんな危険なところに一人で来たの。
 彼が騙されてくれなかったら、君まで危険な、め、に、……あれ。眩暈が。


「桐生、……桐生」

 
 僕に駆け寄ろうとする令一の足が止まる。
 恐ろしいものを見るような顔。
 僕は拘束を解かれて、壁伝いに座り込んでいた。
 ぶしゅっ、とホースの水まきのような音がして、僕の頬に生温かいものが散った。
 僕は首を押さえた。ぬるぬる滑ってうまくいかない。


 令一はポケットからハンカチを取り出し、僕の首を押さえようとした。
 ハンカチは一瞬で赤くべしょべしょになった。
 自分の脈動が耳に反響する。その音が時折遠くなるのを、僕はどうにか食い止めようとした。
 今は、意識を保たせないと。


 令一は薄手のジャケットを脱ぎ、強引に僕の首に押し付けた。
 令一が体重をかけて止血を試みて、吹き出すほどの出血は押さえ込めたようだ。
 それでも、じわじわと服が濡れていく感覚は止まらない。


「何故、こんなことに、なんでだ!!
 なんで血が止まらないんだ!?
 お前に吸血されても、オレはすぐ血が止まるだろ、なんでだ!!」


 ヴァンパイア体質に襲われたことは理解してくれたらしい。
 彼の喋ったこと、どこまで嘘か本当か、わからないままだけれど、間違いないのは、


「唾液……の、止血、自分に、きかない。
 他のヴァンパイアのも、たぶん」


 たどたどしく答えると、令一は顔をゆがめた。
 
 
 僕は僕の傷を治せない。上條さんもそう言っていた。
 自分が治せないんじゃなくて、そもそも、ヴァンパイア体質の人間に効果がないんだ。
 唾液による血止め・傷の回復もなく首から吸血すれば、致命的な出血になる。
 運よく誰かに発見されても、病院で輸血されたら、ヴァンパイア体質は死ぬ。
 

 だから、一回の吸血で『サヨウナラ』だと、彼は知っていた。


「令一、……音源、黒い服で、帽子の男……
 この名刺の……」

「黙れ! 喋るな」

「上条さん、守って……。
 ほんとは、彼女の方、狙って……」

「黙れと言っているだろう!!」


 令一はシャツまで脱いで、僕の脇の下から首へと斜めに巻き付け、力いっぱい締め上げた。
 僕は知っている。僕が手を怪我したあの日以来、令一が縫合用の糸と針をネットで買って、ソーイングセット内に持ち歩いていること。
 何かあればまた、僕を治療しようと備えてくれていたこと。
 ごめんね。せっかく用意してくれたのに。
 この傷は、表面を縫って済むものじゃなさそうだ。

 
 僕は精一杯笑ってみせた。
 そんな僕を見て、令一は顔をぐしゃぐしゃにして泣いた。
 これが最期なら、せめて笑いたい。
 令一。大好きだよ。ごめんね、泣かないで。


 令一は僕の右手を引っ張った。
 首に当てさせ、押さえるよう動作で示す。

 
「少しだけ自分で押さえられるか。しっかり押さえろ。しっかり押さえるんだぞ!!
 意識を保て、寝たら殴る!!
 少しの間でいい、自分で圧迫止血するんだ!!」


 上から重なる手が、一度ぎゅっと僕の手を押してから離れる。
 僕は誘導してもらった右手の上に左手も重ね、できる限りの圧迫止血を試みた。
 視界が揺れる。力が抜けそうだ。


 ざっ、ざすっ、という変な音が聞こえた。
 何だろうと、回らない頭でそっちを見た。
 令一が、ボールペンで手首を傷つけている!?


「く、……っ」


 何度も、何度も、ボールペンの先で手首をひっかいて。
 ただのボールペンでも、肉を裂こうと思えば十分に凶器になる。
 そのうち、令一の手首からだらだらと血が流れはじめた。
 令一は、手首を僕の口元へ押しつけた。


「飲め!!
 オレは輸血できるんだ。好きなだけ飲んでいい。
 オレから血を吸って、自力で血を止めろ!!」



   つづく
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