碌の塔

ゆか太郎

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極光帯

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 その日の夜は珍しく雪が止んでいた。冬の間降り続いた雪がぴたりと止み、空を覆っていた分厚い灰色の雲もどこかへと姿を消していた。数ヶ月ぶりに現れた星々が新月の空に光り輝いている。静かな夜に、ざく、と足音を立てながらハチスは海に向かって歩いていた。集落の人がみな寝静まっているこの時間に、海にいくのがハチスの日課だった。集落から離れ、数十分ほど歩き続けるといつもの海岸に辿り着く。海面は氷が覆っており、波の音はしない。緩やかだが、ゴツゴツとした岩肌の崖に気をつけながら降りると、ほんの少しだけ潮の香りがした。遥か先から海岸そばまで一面氷に覆われた海面だが、この海岸の半径数メートルの部分だけ氷ができずにいる。集落では地熱の影響だろうと言われていたが、ハチスはこの現象の原因が地熱などではないことを知っていた。
「今日も来たよ」
 ハチスが海面に向かって声をかけると、ぱしゃりと波が小高く踊る。ハチスはそれを見て嬉しそうにしながら海岸に座り込んだ。足先が濡れないように気をつけながら、海辺ギリギリに腰を下ろす。ハチスは立てた膝を胸に寄せて、水面を愛おしそうに見つめていた。
「雪が止んだのはいつぶりだろうね。年々積もる雪の量も増えているし、異常気象なんだろうなぁ」
「昔は海岸ももっと向こうのほうにあったらしい。ここの崖は段々上がってくる水面に削られたからこんな岩肌が出てるんだって、師匠が言ってた」
 ハチスの語りかけに対して、相槌を打つように水面が波を立てる。不自然に椀状に凹んだ海底。光の屈折によって時たま見える、水面の奥で蠢く何か。一見何もないように見えるその海には、確かに「何か」がいた。
 今年の冬、海岸に突然現れた「何か」の存在を認知することができたのはハチスだけだった。集落の人は誰一人として、不自然に一部分だけ氷の溶けた海を見ても自然現象によるものだと信じて疑わなかった。通常よりも高い水温や海底の地形変化から、地底から温水が吹き出しているのだろうと推測した。
 そこに確かにいるはずなのに、他の人には見えない。ハチスには聞こえる声も、他の人にはただの波の音にしか聞こえない。一番信頼できる師匠にも、集落では珍しい同い年の幼馴染にも、「何か」の声は届かない。ハチスは、確かにそこにいる見えない「何か」を便宜上「神様」と呼ぶことにした。大昔の文化にあった、人々が祈りを捧げたという相手。地域や文化形態によってその姿形や有り様は異なっていたが、原初は畏怖の対象であった自然を敬うべき「神様」だと定義していたらしい。
 神様がこの海岸に現れてから、ハチスは毎日のように神様の元へと通っていた。図書室の奥深くに眠っていた本の内容を思い返しながら、ハチスは神様の声に耳を傾けた。神様はハチスに色々な話をした。海を渡って長い間多くのものを見てきたこと。その中で見た文化や人々。人類の進化や世界の変容の経過。記録を読み上げるように語られるそれらに、ハチスはひどく惹きつけられた。知らない世界、知らない文化、自分一人の身では決して知ることできなかった多くの知識。それらはハチスにとって極寒の吹雪の中に現れた暖炉のようだった。ハチスはやがて暖炉の火に薪をくべることを覚えた。神様にハチスの集落の文化や自然の話をするようになった。もしかしたら神様にとっては既に知っていた話かもしれなかったが、神様はハチスの話を楽しそうに聞いていた。
「今日は師匠に呼び出されたの」
 ちゃぷりと小さく波の音が響く。
「そう、いつも話してた人。すごく頼りになる人だよ。最近はもう『教えることなんてないよ』って言われたりしてたんだけど。こんなもの渡されちゃって」
 ハチスが上着のポケットから何かを取り出し神様に見せると、波は高く揺れた。
「やっぱり師匠には敵わないなって。あの人はすごいや」
 嬉しそうにしながらポケットに手を戻すハチスを見て、波は少し不安そうに左右に揺れる。しかしハチスは静かに首を横に振った。
「いいの、これは私が決めたことだから。それにね」

 ざく、とまた雪を踏む音がする。ハチスが音のした頭上に顔を向けると、そこには崖の上から海辺を覗き込んでいる幼馴染がいた。
「やっぱりここにいた!もう、そこで待っててよね」
 幼馴染は降りやすい崖を探しに離れて行った。足音が遠かったのを聞いてハチスはまた海の方へと向き直すと、笑顔で口を開いた。
「あの子も、きっと分かってるよ」
 何かを思い出すように穏やかな笑顔を浮かべながら目を閉じるハチスを見て、神様は何も言わなかった。先ほどまで楽しげに揺れていた水面は、不思議なほどに静かだった。

「夜中に変に目が覚めて、ベッド見たらやっぱりいないから探したんだよ。って言っても、真っ直ぐここに来たら案の定居たからそんなに苦労はしてないけどね」
 崖から海岸まで降りてきた幼馴染は、膝についた雪を払いながらそう言った。
「別に、夜に私がここに来ているのはいつものことでしょう。探さなくてもよかっただろうに」
 ハチスがそう返すと、幼馴染は言葉に詰まりながら、口元に手を当てた。何かを思案しながら、しばらくしてゆっくりと口を開く。
「なんとなく……探さないといけない気がして」
 不安そうに揺れる幼馴染の瞳を見て、ハチスは立ち上がって幼馴染の肩を叩いた。
「やっぱり君には敵わないな。いや、君にも、か。本当は何も言わないつもりだったんだけど」
 上着のポケットに手を突っ込んだまま、ハチスは海岸に立つ。幼馴染は一歩下がったところからハチスを見ていた。
「やっぱり、どこかに行っちゃうの?」
「うん、集落のみんなには言ってないけど。やりたいことができたから」
「やりたいことって何?集落の中や、お師匠さんとはできないことなの?どうして、どこかに行ってしまうの……?」
 必死に引き留める幼馴染の声に、それでもハチスは首を横に振る。しかし納得できないような幼馴染の表情に、ハチスは徐に口を開いた。
「この世界は、常に変化し続けているんだよ」
 ハチスの言葉に、続きを促すように幼馴染は頷く。
「その変化は一定のスピードで起こるわけじゃない。全く変わらない時期もあれば、今みたいに急激に変化する時期もある。私たちは普段集落で暮らしているからそこまで感じないかもしれないけれど、この先世界中で大きな変化が起こっていく。その変化の中で、きっと失われるものが出てくる。文化や産業、自然の形。そういったものが消えていくのを、知らないふりするのも、黙ってみているのも嫌だと思った」
「それは、そこにいるものが教えてくれたの?」
 幼馴染はハチスの後ろの海を指差しながら、強く言った。いつも温厚な幼馴染の強い視線にハチスは一瞬目が眩んだ。蜜色の瞳はハチスを通して、背後の海までも貫いている。幼馴染には見えないが、確かにそこにいるという「何か」をじっと見つめるように。
「そう、だよ」
 息を漏らすように答えるハチスの声は、冷たい空気の中に溶けていく。それでも、ハチスは喉の奥から絞り出すように声を響かせた。
「彼が知らない世界を教えてくれた。きっと、集落で一生を終えていたら知ることのなかった世界のことを」
 厳しい冬の空気が、ハチスの喉を刺す。それでも構わずハチスは大きく口を開いて言葉を続けた。
「でも、決めたのは私自身だ。魔法使いとしての生き方も、今の生活ももちろん好きだけど、それ以上に私はこの機会を逃すわけにはいかない。だから、私はここを出ていくよ」
 幼馴染の瞳に、煌めく光が映る。それは月でもなく、星でもなく、何かの反射でもない。段々と空一面に広がっていく、緩やかな光の帯。ハチスの白金の髪がなびく。暗い夜空を背に、ハチスの常盤色の瞳が輝く。ハチスの瞳と同じ色の光が、後ろの夜空に緩やかに広がっていくのを幼馴染はただ息を呑んで見ていた。その幼馴染の様子にハチスも違和感を覚えたのか、振り返って幼馴染の視線の先を見た。そこには未知の光の輝きがあった。紺色の夜空に、緑と紫の光が折り重なるように舞っている。
「これは、もしかしてオーロラ……?」
 ハチスが呟くと、肯定するように水面が揺れる。古い文献でしか見たことのないその光景に、二人はただ目を奪われていた。気づけばいつものように横に並んで、何も言わずただ光の舞を見つめていた。この地域では決して見ることのできないはずの風景。大昔の文献にも、限られた極寒の地域でしか観測できず、貴重な現象だと記されていた。その御伽話のような風景が、確かに今二人の目の前に広がっていた。
 しばらくして、ゆっくりと光のカーテンは闇に吸い込まれるように消えていった。完全に消えるまで、二人は何も言わず、ただ空を見つめていた。オーロラが消えた後、そこには何もなかったかのように、先ほどと同じ星空があるのみだった。
「写真、撮れればよかったのにな……」
 ポツリと幼馴染が呟く。写真の技術も近年はタブー視され、カメラの流通も乏しくなった。過激的な自然派の魔法使いたちの活動は日に日に増してきている。この集落はそう言った活動を行うことはないが、いつ外から攻撃されてもおかしくはない。やはり神様の言うとおり、世界は少しずつ変化している。自然も人も変化を続けている。しかし、変わらないものもあると、ハチスは知っていた。
「写真は残せないけれど、記憶は残る。それは私たちも、世界も同じだよ」
 ハチスは屈んで地面に手をついた。
「大地も、海も、私たちと同じように記憶している。上書きされて薄れていくことはあっても、一度刻まれたものは消えたりしない」
 手を伸ばして海に触れれば、いつもよりもほんの少し暖かい波がハチスの手を迎えた。
「だから、大丈夫だよ」
 ハチスは海に触れていた手を引いて、ゆっくりと立ち上がる。幼馴染の方を振り返ると、そっと手を握った。先ほどまで濡れていたはずのハチスの手はなぜか乾いていた。それどころか不思議な暖かさを残していた。
「どこに居ても、記憶はそこにあるから」
 ハチスの後ろの空が、いつの間にか白み始めていた。先ほどまで空いっぱいに輝いていた星々は少しずつその姿を隠していく。水平線から段々と光が広がっていく。
「そろそろ行くね」
 すっと抜けるようにハチスの手が幼馴染の手から離れる。ハチスは幼馴染に背を向けると、海岸の外に一歩足を踏み出した。恐れることなく、勢いをつけるでもなく、ただ普通に道を歩くように。ちゃぷりと水の音を立て、ハチスは水面に立っていた。
「行こう」
 まっすぐなハチスの言葉に答えるように、水面が大きく動いた。呼応するようにどこかで低い音が鳴る。ギィ、ギリギリ。くぐもったような音が段々と大きくなり、終止符を打つようにバキリと大きな音が鳴る。それと同時に、水面を覆っていた氷が大きく割れた。視界一面の氷に、一筋の青い切れ目が入る。ハチスが立つ水面が少し盛り上がると、氷の割れ目を広げるように進んでいく。最初は緩やかに、しかし確実にハチスは海岸から遠ざかっていく。その後ろ姿を幼馴染はただ何も言わずに見ていた。目の前で起こった不思議な現象は何なのか。ハチスの足元にいたのはハチスの言っていた「神様」とやらなのか。また会えることはできるのか。聞きたいことはたくさんあったが、幼馴染はどれも口に出すことはしなかった。魔法も使わず、海に立った。きっとハチスの言う「神様」の背に乗って行ってしまった。そして、きっともう会えはしないのだろうと、なんとなく理解していた。わかっていて、何も言わなかった。言えば本当になってしまう気がして。
 しばらくぼうっと眺めていれば、いつの間にかハチスの背は見えなくなっていた。幼馴染の目の前には、水平線から顔を出した太陽に向かって伸びていく海の道ができていた。空はもう明るく、星は見えなくなっている。暖かな太陽の光が波に反射する。キラキラと輝きながら、自然に揺れる水面を幼馴染はなんとなく座り込んで見つめていた。道は開けた。ハチスのためだけの道が。幼馴染はその道を駆けることはできない。同じ道を追いかけ、ハチスの手を掴んで引き戻すことはできない。例え海を渡ることができたとしても、ハチスの意思を無理矢理曲げることはできない。仮にできたとしても、そんな万能な魔法が使えたとしても、幼馴染にはできなかった。それがハチスの決めたことだとわかっていたから。光の眩しさに目を細めながら立ち上がる。なんとなく海に手をつけてみれば、刺すような冷たさに襲われた。やはりここには温もりを持った「何か」が居たのだと幼馴染はそう理解した。体感してしまえば、その考えは幼馴染の心の奥にすんなりと収まった。吹っ切れたような面持ちで、幼馴染は踵を返した。後ろで小さく、ぱきりと音がした。氷の向こう側から、深く響くような波の音がした。
 もうすぐ冬が明け、春がやってくる。雪を溶かし、氷を溶かし、命を届ける風が吹く。小さな集落に暖かな光が注ぐ。旅立ちを見届けた者たちへ、新しい春がやってくる。別れの春の訪れを知るのは、この時はまだ二人ばかり。

 海の奥底を神様は駆けて行く。その背に乗りながら、ハチスは周りの景色を見ていた。初めて見る海の中の景色に目を輝かせるハチスに微笑みながら、神様はその体を響かせた。
『本当に私の旅についてきてよかったのかい?』
 その身自体を響かせながら神様はそう言った。偶然入り込んだ海岸で休んでいたところ、冬になり海が凍ってしまったことで出られなくなってしまった。そこにやってきたのがハチスだった。唯一神様が見えたハチスは、神様の話し相手になってくれた。ただそれだけ、期間にすれば数ヶ月の関わりなのに、ハチスは神様についてくることに決めたのだった。
「何度も言ったでしょう、一緒に行くと。それに、なんとなく、いつかこうなるんじゃないかって予感はずっとあったから」
 ハチスがそう言って神様の背を撫でると、嬉しそうに神様は体を揺らした。
『それならば行こう、君と共に』
 そう言うと、神様はハチスを背に乗せたままその身を世界へと潜らせた。その瞬間、不思議な感覚がハチスの体を襲う。世界の境界線をゆっくり超えていく。これまでいた世界の裏側へ体が突き抜けていく。ハチスの体がこれまでとは違う何かに置き換えられていく。体の内側をなぞるようなぞわりとした感覚に耐えながら、ハチスはポケットの中に入れていたものを握りしめた。ぎゅうと強く握り締めれば、綺麗に彫刻された模様が手の中で確かに感じられる。しばらくすると不思議な感覚は消え、辺りが明るくなっていく。ハチスが周りを見渡すと、あたりには白い光の流れがあちらこちらに流れている。
『そろそろ抜けたかな。大変だったろう』
「ここが世界の裏側……?」
『そうだよ。これから、君が旅をする世界だ』
 ハチスが何かに気づいてうつむくと、海にいた頃には見えていなかった神様の姿が今ははっきりと見えていた。その姿は生き物のようでもあり、機械のようでもあった。表面は深い紺色で、正面に据えられた瞳のような形の部分は金色に輝いている。両側に大きく広げられた部分は、ヒレのようにも翼のようにも見える。長く太いその体を揺らしながら、ハチスを背に乗せて神様は光の川を泳いでいく。
 ハチスはポケットから手を出し、先ほどまで握りしめていたものを見つめた。ハチスが師匠にお守りだと渡された、丸い木の細工。別れを告げた覚えなどないのに渡されたそれには、旅人に送る伝統的な模様が刻まれている。しかも丁寧に防水の魔法までかけられていた。そっと表面を撫で、再びポケットに戻す。神様の背に手をつくと、再び前をしっかりと見据えた。

 魔法が使えなくなっても、人間ですらなくなったとしても、それでもいいとハチスはこの道を選んだ。変わりゆく世界を記す仕事を。消えゆくものを観測し、残す旅を。誰に感謝されるわけでもなく、大きな報酬があるわけでもない。それでも確かに残るものはあるのだと。神様と呼ぶ「何か」とともに、世界の裏側を掛けて行く。終わりのない旅はまだ始まったばかり。細い白金の髪が、光の風になびいて煌めいた。


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