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グレイコードの崩落
しおりを挟む部屋の扉を開けると、君はいつものようにベッドの上で膝を立てて座っていた。カーテンは閉じ、電気もついていない暗い部屋の中で、小さなテレビの点滅と暖炉の微かな灯火だけが彼女の顔を照らしている。
無言でベッドの下に座って僕もテレビを見る。この時間、彼女はいつもこの隠し部屋にいてテレビで何かを見ている。画面の中の人たちは、僕の知らない言語で話している。彼女はきっとわかっているのだろうけれど、字幕も何もないから僕には話の内容はわからない。
ただ、何度も彼女とここで一緒に見ているうちに、出てくる人が同じということだけはわかった。展開や登場人物の頻度に違いはあるけれど、出てくる人の見た目がいつも同じ人ばかりなのだ。
これがなんの映像なのか、どういう話なのかは聞いたことがない。いや、一度だけ、最初にこの部屋に入った時に「何してるの」と聞いたら、「映画を見てる」と教えてくれた。それ以上は彼女も話そうとしなかったし、僕も聞いてもわからないだろうなと思ったから、ただベッドの下に座って知らない言葉で話す人たちを眺めていた。僕が部屋のテレビで見ると言ったら流行りのアニメくらいで、彼女が好んで見ている映画のことはよく知らなかった。
しばらくそうしていると、画面が暗くなって消えた。どうやら今見ていた映画は終わったらしい。彼女はテレビの電源を切ると、ベッド横の窓にかかっていたカーテンを開けた。窓の外はすでに暗く、空には小さな月が輝いていた。灯りも何も無い部屋に月の光が差し込む。部屋の床には本やDVDの空箱が散乱している。どれも彼女のものだが、片付ける気はないらしい。彼女はベッドから降りると、しわくちゃになった膝丈のワンピースの裾を直した。
「それで、今日は何の用だ?もうこんな時間だろう。早く帰りたまえ」
ぼうっと彼女の動きを見ていた僕は、彼女の凛とした声にはっと意識を引き戻された。そうだ、空には月が出ている。今日は大事な用事があって来たのに、気づけばこんな時間になってしまっていた。
「君を、迎えに来たんだよ」
「迎えに?こんな時間にか?」
彼女は窓の外を向いた。月に照らされた横顔はいつもと変わらず美しくて、それになぜだか腹が立った。
「こんな時間だからだよ!」
思わずこぼれた僕の声は予想していたよりも大きく響いた。ただ、一度あふれ出した思いはもう止まることはない。枷が外れてしまえば、それは山から海へと向かう川のように流れ出した。
「もうすぐこの世界は終わる!僕も君もいなくなる!」
「それどころか、世界ごと、何も無かったことになるんだよ!君も知ってるんだろう、僕よりずっと賢いんだから!」
確かに覚えているはずなのに、所々抜けのある記憶に違和感を覚えた。伝えたいのに言葉が出なくなる時が頻繁にあることに違和感を覚えた。
たった一人だけ、自由に動くあの子の動きに違和感を覚えた。誰とも違う、金の髪を持つ特別な子。
「あの子が主人公で、僕らはただの脇役なんだ。この世界に置かれたチェスの駒みたいなものさ。あの子がいなくなれば駒も盤も必要なくなる。盤ごと捨てられるんだ」
違和感は疑心へ。疑心は行動へ。そしてその行動は、僕に確たる証拠を突きつけた。
「この世界は、あの子のためのゲームなんだよ」
「あの子が主人公の、あの子のためだけの物語。あの子がクリアすれば、何もかもが消え去ってしまう世界なんだ」
主人公として生まれたあの子は、陽が消える頃にこの街を出て行ってしまった。金色の髪を靡かせて、少し名残惜しそうに街を後にした。街には夜が訪れ、空には動かない月だけが輝いてる。もう二度と朝が来ることはない。この小さな盤上の世界は、僕らが立っている地は初めから回ってなどいなかったのだから。きっとあの子はもうすぐ、物語のゴールに着くはずだ。それで終わり。何もかも、無かったことになる。
「それなら、もうどうしたって無理じゃない」
彼女は口を開いてそう言った。
「やっぱり、君は知っていたんだね」
「まぁ、何となくだけれど。でも決められた終わりが来るのなら、何をしたって無駄でしょう?」
そう言って彼女は再びベッドに腰を下ろした。
「それなら、最後までこの部屋で本を読んだり映画を見ている方がずっといいわ」
彼女はベッドの上に散らばった本の表紙を指でなぞりながらそう言った。愛おしそうにそれらを見つめる彼女の蜜色の瞳が垂れる暗い髪から覗いている。
「もし、この世界から出ることができるとしたら?」
僕の言葉に、彼女はゆっくりとこちらを見上げた。
「この世界から、出る……?」
「この世界の外に、僕らが生きることのできる世界があるとしたら。駒でもなく、脇役でもなく、ただ自由に生きられる世界があるとしたら、君はどうしたい?」
彼女は小さく口を開いたまま、僕の方を見つめている。やはり彼女は知らなかったのだろう。この世界に終わりがあることは知っていても、この世界の外に、続きがあることまでは知らなかった。
「そ、そんな世界あるはずがない。万が一あったとしても、世界を移動するなんてどうやって……」
「僕らのこの世界を作ったように、続きの世界を作ってくれている人がいるんだ。その世界に行けば、僕らは自由になれるはずさ。出口はある。ほんの小さいけれど、確かにあるんだ」
もちろん外の世界に確証はない。その世界に行ったことなんてないし、その世界がどんな形をしていて、どんな風に生きていく事ができるかは全くわからない。それでも、
「世界の壁の向こう側に、行ってみようよ」
僕は彼女に手を伸ばした。差し出された手を見て、彼女は口をつぐんだ。蜜色の瞳はゆらゆらと揺れている。
こんなことを急に言われても困るかもしれない。考えを整理をするのにも時間がかかるだろう。しかしもう時間はない。本当ならもっと早く出口を見つけて彼女を連れ出す事ができればよかった。でもそれはできなかった。僕らは時折、「勝手に」動いてしまう。僕らには役割が与えられてしまっているから、自由に動くことのできる時間は限られている。あの子がこの街を出てから、この世界が消えるまで。チャンスはこの瞬間にしか無かった。僕らが、君が、自由になるには、今しかない。
「私は、行かない」
だから、その言葉に僕は固まってしまった。今彼女はなんて言った?行かない、と。そう言ったように聞こえた。
「君は行くといい、この世界の外側へ。それを止めはしないさ。でも、私は行かないよ」
彼女は念を押すように、もう二、三度そう言った。その言葉はゆっくりと僕の心に染み込んだ。じわりと染み込んだ言葉が僕の奥底にたどり着いた時、ようやく僕は口を開いた。
「……どうして?ここから出れば、自由になれるかもしれないのに。」
この世界はもう終わってしまうのに。決められた終わりはすぐそこまで顔を覗かせているのに。彼女は死が恐ろしくないのだろうか。
「もちろん、君の言うように外に出れば自由になれるかもしれない。外の世界はきっとここよりもずっと素晴らしいものかもしれない。多くのものに満ち溢れた、素敵な世界で、『役』に縛られずに生きることも可能かもね」
「それなら行こうよ!こんな世界、どうせ終わってしまうんだから」
「それでも」
彼女は僕の言葉を遮るように言った。
「私はこの世界が好きなんだ。これだけは、何物にも代え難い。ただ、それだけさ」
そう言って彼女は、再びベッドから立ち上がった。
「君は外の世界へ行くといい。きっと素晴らしい世界が君を待っているよ」
彼女は差し出したままだった僕の手を両の手で包み込んだ。
「君の旅路に、幸在らんことを」
僕の手の甲に軽く口付けをして、彼女はそっと手を離した。そうしてから、またベッドの上にうずくまって、今度は本を読み始めた。
まるで何事もないように。
これまでと同じ夜のように彼女はそこで物語にふけっていた。月明かりだけを頼りに、僕には読めない文字で書かれた物語を読む彼女の姿は、ただただ、美しく____
「どうしたの?早く行かないと、世界が終わってしまうよ」
ベッドに腰掛けた僕に、本から顔を上げて彼女は声をかけた。
「君が行かないなら外の世界に意味なんてないよ」
外の世界への興味が全くなくなったわけではない。どんな世界なのか、どんな人がいるのか見てみたい気持ちはある。自由に生きるという事がどんな感覚なのか、知りたいとも思う。しかし彼女のいないその世界を想像した時、ひどく色褪せて見えたのだ。
「君を、自由にしたかった。『悪』あれかしと定められ、その役目通りに動くしか無かった君を、外の世界に連れ出したかったんだ」
それがただの僕のわがままだとしても、無理矢理にでも連れ出そうと思っていた。けれど、こんな世界を彼女は好きだと言った。いつもと変わらない姿で、この世界にいる事を望んだ。その姿を見ていたら、無理矢理連れていくことに意味などないと気づいた。
「僕は外に行きたいんじゃない。君と、生きていたかったんだね」
そして、「自由」な彼女はもうここにいた。何度も言葉を交わし、見つめてきたその姿は、与えられた『悪役』ではない。確かに「彼女自身」の姿だった。
「本当に行かなくていいの?」
彼女は本を閉じ、僕の目を見つめる。蜜色の瞳が僕を映す。「役」ではない、ただの「僕
」の姿を。
「うん。最後の時まで、君と一緒にいるよ」
「それじゃあ、何か話をしようよ」
彼女は僕の隣に座り、僕の手を握ってベッドに倒れ込んだ。引っ張られるように僕もベッドになだれ込む。彼女のベッドに寝転んだのは初めてだ。やたらと大きいベッドは、二人が寝転んでも余裕があった。
「私と初めてあった日のこと、覚えてる?」
「もちろん、最初はびっくりしたなぁ。すごい怖い人だと思った。君は僕のことどう思ったの?」
「……すごく鈍臭い人」
「そんな風に思ってたの?」
「それでいて、優しい人だと思った。あと、瞳の色が綺麗だなって。まるで、黄昏みたいだなって思ったの」
「黄昏って、どんな色?」
「君の瞳みたいな色」
「それじゃあ答えになってないよ、もう……」
互いに見つめ合いながら、僕らはいろいろな事を話した。出会った時のこと。これまでの事。お互いが知らなかったこと。これまで話せなかったことも、沢山。君とこうして話ができるだけで幸せだったと、もっと早く気がついていたら。君と過ごす時間を増やす事ができたかもしれない。けれど今は、そんなことを考えている時間すら惜しい。できなかったことを悔やむより、もしもを考えるより、ただ君のことを考えていたかった。
「もうすぐ世界が終わるね」
「うん、そうだね」
目の前まで迫った終わりを、僕らは無意識に感じ取っていた。遠くから世界が崩れる音がする。眠りを必要としないはずの体なのに、意識が沈んでいく感覚がする。きっとこれで終わりなのだ。
あの子が来て、あの子が出ていくまでの世界。それ以前は仮初でしかなく、それ以降は決して存在しない。そんな世界が、もうすぐ終わる。不思議と怖くは無かった。窓の外にもう夜がなくても、月夜のような君が隣にいる。部屋の暖炉がもうなくても、この手には確かに温もりがある。僕の世界は、確かにここにあるのだから。
「おやすみなさい」
「ええ、おやすみ」
そっと瞳を閉じて、手を握った。その温もりは、最後まで消えることはなく、ただ僕の掌の中で優しく燃えていた。
「『君が行かないなら外の世界に意味なんてないよ』」
暗闇の世界で、記憶の中の彼の言葉を繰り返して声に出した。これまで彼に言われた言葉の中で、一番嬉しかった。
「まるで、王子様みたいだったなぁ」
そう、それは確かに王子様のようだった。月の光に照らされた、あの美しい黄昏色の瞳は、これまでの彼の中で一番美しかった。物語に出てくる様な、彼に与えられた「役」通りの姿。鈍臭くて、でも人情に熱くて。優しくて、誰かを捨て置くことなんてできない「王子様」。
私は彼が好きだった。でも、彼の役は「主人公のための王子様」だった。沢山の試行錯誤を重ねて、彼はやっと初めて私にとっての王子様になってくれたのだ。
「今回は沢山頑張ったもんね」
彼が世界の構造に気づくように。外の世界の存在に気づくように。それでいて世界に残る選択をしてくれるように。そして、何より私を好きになってくれるように。
彼の言っていたことは一部正しい。この世界の外には、私たちの物語の続きを描く人々がいる。それは私たちのような物語の中の存在とは違う、私たちを作った存在と同じ者たちだ。確かに彼らが書く世界に行けば、自由に動くことはできる。
彼らは多くのものを望み、その望みの中であれば重い思いの動きができる。出会うことのできない人と会うことも、主人公と永遠に幸せに暮らすこともできる。でも、その世界は私にとってそうではない。外の世界に行っても、私は「悪役」から出ることはなかった。なぜなら彼らがそれを望んでいないから。私が「悪役」から外れることは誰にも望まれていなかった。ただ、それだけ。
だから私はこの世界が好きだ。外の世界の物語は好きなだけ読むことも見ることもできる。私たちと違う言葉を覚えるのは大変だったが、一度覚えてしまえば簡単だった。それに、この世界にいれば、何度だって彼に会える。彼はいつも忘れるけれど、私は全て覚えている。主人公と幸せになった彼も、私を置いて外の世界へ行った彼も、世界の終りに最後まで抗おうとした彼も。ありとあらゆる、何百何千という彼の姿を覚えている。そして出会うたび、彼の瞳に目を奪われるのだ。
このゲームに決して存在しない時間。昼と夜の間。太陽の様なあの子と、月のような私の間に立つ彼にふさわしい色だった。ただ、一つ、言うなれば。
「黄昏は、昼から夜に変わる時間だよ」
夜明けの名を冠した彼を、決して私はその名で呼ばなかった。私にとっては、夜を終わらせる者ではなく、夜に落ちてくる者であって欲しかったから。
世界が開く音がする。またどこかで、このゲームが起動される。今度は彼はどんなふうに動いてくれるだろうか。どんな姿だっていい。どんな彼だっていい。最後の時に、私の隣にいてくれるなら。そのためならば、何度あの黄昏色の瞳に睨まれようと構わない。何度刃を突き立てられようと構わない。繰り返すことにはもう慣れた。その先に待つ、微かな灯火があるとわかっているから。
「おはよう、世界」
そう呟いた言葉は、グレイコードとなって宙へ舞った。
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