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第一章
深淵の出逢い3
しおりを挟む今まで色々な国を旅してきたつもりだった。
色々な肌の人種も見てきたし、色々な髪の質感や色彩も見てきた筈だった。
けれどこんなにも、艶やかで美しいと思うものを、男はいまだかつて拝んだ事がない。普通の人間が持って生まれ出でられる代物ではなかった。
「か、返せ!」
あまりの美しさに見惚れてしまっていた男は、その声で現実へと引き戻される。声の方へ眼を遣ると、子どもが戸惑いを滲ませた表情ながらも、肩をいからせて自分を睨み付けていた。
美人が怒ると恐ろしい。形相が般若のようで、不覚にも気圧されそうになる。
男は地面から砂を叩いて立ち上がり、その子どもの姿を今一度よく確かめようとする。月明かりのお陰で、曖昧ではあるが見て取れた。
小奇麗な顔、整えられた髪、男を睨み付ける双眸には知性がありありと宿っている。着ている服も簡素だが上等なしつらえのものだ。おおよそ物盗りなどとはかけ離れたその容姿、溢れる気品は、どこぞの貴族に連なる者に違いない。
そのようなことを考えていると突然、子どもが勢いよく男に飛びかかってきた。反射的に握っていた布を子どもの届かない高さへと持ち上げ、身をかわす。
(っ、早い?!)
子どもらしかぬ動きの俊敏さに狼狽する。適度な距離を取って再度その姿を確認しようとするが、見当たらない。
「っ、どうなってる……」
そう呟いて僅かに気を抜いた瞬間、しまった、と思った。頭上から何かが落ちてくる音。それに気付いた瞬間には、子どもが男の肩に覆いかぶさっていた。手を伸ばせば布に届く距離にいる。
だが男はここぞとばかりに腕を回すと、その子どもの背中をがしっと掴んだ。まるで、猫の仔がそうされるように背中からぶら下がる自分に唖然とする子どもを、男は前方へ持ってくると、その眼を見据えて静かに言った。
「暴れるんじゃない、俺は別にお前に危害を加えたりしない。なにか事情があるみたいだから、とりあえず安全な場所で匿ってやりたいだけだ。大人しくしてろ」
「っ……その言葉を、信じろとでも?」
透き通る声が、男の耳を撫でて行く。だが威圧感を感じさせる声色でもあった。やはり、物取りなどではない。警戒をあらわにした気色ばんだ表情で、男をぎっと睨み付けていた。
一先ずその子を地面に下ろして、布を頭から被せてやる。
「まぁ、見知らぬ奴にいきなりそう言われて疑うのも無理はない。だけど、どうやら見た限り追われてるようだし、ただでさえ物騒な夜に女の子のひとり歩きも良くない。ここで会ったのも何かの縁だろう」
男は真摯にそう言ったはずだったのだが、何故か相手は怪訝そうな顔をする。
「……え、は? あの、何を言って……」
「おい! そこで何してる!」
第三者の厳しい声が頬を叩く。それを聞いた瞬間に、少女の体が震えた。それは明らかに、「見つかった」という反応だった。
男は何でもない様子を取り繕いながら、少女の体を自分に引き寄せた。髪が布の隙間から見えないように注意を払う。これだけ目立つのだ、目印となっていることは多分にあり得る。
声の主が火を掲げながら近づいてくる。赤い制服と鍔あり帽子。どうらや役人のようだ。
少女はもう暴れなかった。ここで不審な動きをして男が疑われでもしたら、男は捕らえられ、自分は手厚く保護されるだろう。それでは駄目なのだ。それになにより、自分を抱いている腕の力が、不思議と安心を誘うのだった。
松明の炎があたりを明るく照らし出すと、周囲の家屋が浮かんで見えた。淡い月明りに慣れてしまっている眼には少々染みた。
役人が二人の前で立ち止まる。そして、厭に静かな口調で言った。
「こんなところでこんな時間に、いったい何をしてるんだ」
「ああ、お勤めご苦労様です。いやあ連れが外に出たいってせがむもんですから。そしたら急に気分が悪くなったらしくて、こんなところで立ち往生してるんですよ。まったく面目ない、あははは」
妙に明るく述べる吟遊詩人に、役人はますます警戒を強めた。
男のいう、「連れ」へと眼を向ける。上から伝達された特徴では、捜し人は確か「十歳ほどの子ども」ということだった。もしやと思う。
「その『連れ』の顔を、拝見願おうか」
少女の心臓の跳ね上がる感覚が、布越しに伝わってきた。安心させようとまた腕に力を込めながら、男は困惑した顔で役人に笑みを向ける。
「それは……出来れば勘弁していただきたいんですよ。私はこの子の叔父なんですが、この子は幼いころ野盗に放たれた火事で親兄弟を亡くして、自分もその時に顔に大きな火傷を負ってしまったんです。一生消えない傷の上に、本人も他人に痕をさらすのを酷く嫌がっています。可愛い姉の忘れ形見の心に、これ以上傷を作ってやりたくはない。どうかご理解下さい」
上手いのか下手なのか分からない男の演技に、少女は自分の額に汗をかいていくのを感じた。
(よくもまぁ、ここまで口からでまかせが滑るように出てくる……あの時さっさと逃げていればよかったか)
それを聞いて、役人はわずかに眉根を寄せた。そんな話、普段なら決して鵜呑みにしないだろう。咄嗟に嘘を並べ立てることが苦でない者も世の中にはいる。一見筋の通っている話だが、怪しさは拭えなかった。
しかし野盗が頻繁に出没する今、そういった話は決して他人の空事ではない。ありがちな話が、現実として身近で起こっていた。
見逃してやりたい。だが、不審なのも事実だ。やはりこのような時間に子連れで出歩くのはどう考えてもおかしい。いくら義理と人情が厚いこの国であっても、仮にも自分は国家に仕える身なのだ。
この国では上の連中が「ああ」なために規制が乱れているのだが、世の中には「人売り」と呼ばれる商売も存在している。もし眼前の男が、腕の中に抱えている子どもを売ろうとしているのならば。その子どもが、今まさに、自分達が血眼で探し回っている者なのだとしたら。
ここであっさりと引いては、この「制服」が泣くではないか。
「……分かった。そのような理由があるのなら、顔を拝見するのは遠慮しよう。だが、一つだけ聞きたいことがある」
「何でしょう?」
「その子どもの性別は」
「女の子ですけど」
即答し、「だから尚更不憫なんです。」と、事もなげに苦笑する男の態度を見て、役人はほっと胸を撫でおろした。
自分達が今探している御人の見目は、それはそれは大層な美少女だと聞く。「人買い」ならばそんなことを素直に白状したりはしないし、こんな場面で聞かれであろう質問を、彼らは普段からある程度予測しているもの。「身分を証明できるものは?」と聞かれることはあっても、開口一番に性別だけを尋ねられることなどまず無いだろう。なにより男の声には、やましさが一切伺えない。
役人は肩の荷が下りたように、優しい顔をして男に言った。
「いや、不躾な質問をして悪かった。こんな所にいるとまた私のような連中に出遭うだろう、早々に宿に戻った方がいい。旅人なんだろう?」
男がにっこりと頷くのを見届けて、役人は背を向けた。その背に男は声をかける。
「こんな時間まで大変ですね、お役人は」
「はは、私は役人ではないよ。まぁ立場上、再び会うこともないだろう。気を付けてな」
そして彼は帽子に手をかけて、「よき夜を」と言いながら暗がりの中へと消えていった。松明の橙色の点が他の点と合流し、何かを確認するように数秒間たむろして、再び路地を駆けて行く。静かな騒ぎはまだ続いているようだった。
男はその紳士ぶりに感心した。役人ではないと言っていたが、ならあの制服はなんだと言うのだろう。
その疑念を読んだように、少女が男に告げた。
「彼らは軍人だよ。僕を捕らえにきてるんだ」
「……嘘だろう?」
思わず耳を疑った。男はこの国に来てまだ日が浅い。赤いツバ入り帽子に赤い服。物腰からして役人だと思っていたのだが、まさか国家直属の軍人だったとは。
そんなものが総出で探し回っている。この少女はやはり、只者ではなかったのだ。
「これで分かったろう、僕と関わるとろくなことにはならない。……助けてくれてありがとう。それじゃ」
どこか哀しそうにそう呟いて、少女は男の体から離れた。
遠く……もっと遠くへ行きたい……
一度でいいから、この眼で、「あの風景」を見てみたい。
ただそれだけだというのに、それがこんなにも、難しいのか──
「待てって」
「え、ぅわっ?」
男は突如少女の体を担ぎ上げると、そのまま風のように路地裏を駆け出した。不思議と足音は聞こえない。
訳が分からないのは少女の方だ。
「あ、あんた、一体なんのつもりだ!」
「さっきの軍人に身内だと言ってしまったからな、一緒に居ないとマズい。それに、どんな事情からかは知らないが、逃げてる限りは俺は子どもの味方だよ」
そう言って、男は少女の眼を見て笑ってみせる。少女の胸に、疼くような甘い痺れが沸き起こった。知らず涙腺を刺激され、顔を俯かせる。
「……なんで、僕なんかのためにそこまで」
「僕なんか? あ、いや……なんでも何もない、性分なだけだよ。あとそうだ、一応言っておかなくちゃと思っていたんだが」
おおよそ貴族らしかぬ物言いだとは思ったが、そこは気にせずに、男は少女に笑いながら言った。
「そんな可愛い顔してるのに、男みたいな喋り方してたら嫁の貰い手がなくなるぞ? まぁそれはそれで男心をくすぐるかもしれないけど、もう少し気を付けな」
その瞬間、担いでいる少女の体がピシリと凍りついたのが分かった。男が疑問に思っていると、妙にドスの利いた声が少女の口から放たれる。
「……さっきから思ってたんだけど……あんた、相当愚かな勘違いをしているみたいだね」
少女が、男の二の腕を指先でちょいと摘む。そうして頭こうべをもたげると、ひきつらせた顔を男に向けた。座った琥珀色の双眸に射竦められ、男の背筋に悪寒が走る。
「──僕は、男だ!」
空が白み始めた時間。男の悲鳴は町中の鶏と同じ役目を果たして、朝の新鮮な空気を震わせた。
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