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第59話 憎悪と不安
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「神域」の霧の結界のすぐ外側。
背後に赤い霧のドームを背負い、イヴァルトは東方に広がる原野を睨め付けていた。
この原野の向こう側に、人間共の都がある。そこに、あの二人が――。
今いるこの場で、神域周縁部警備隊隊長のイヴァルトは、レリエルとアレスに逃げられたのだ。
イヴァルトは悔しさに振るえながら、両手にはめた手袋の片方をするりと外した。
手には、醜い火傷のあとが浮き出ていた。
「くそッ……」
イヴァルトは憎憎しげに自らの火傷のあとを歯でかんだ。血が滴るほど噛み続ける。
だがただの憎悪だけでなく、不安もまたイヴァルトは抱えていた。
まだ、上に報告していない。
我ながらとんでもないミスを犯したと、イヴァルトは自覚している。
レリエルに光速移動ができるなんて知らなかった。天使の中でも使い手のほとんどいない、超高難度業である。イヴァルトにはできない。
(出来損ないの分際で!)
こんなことは、絶対に上に報告などできない。
自身の激情と迂闊のせいで、レリエルに裏切られ逃亡され、力のある人間を殺し損ねた、など。
無論、矮小羽の無能と、人間一人ごときに何ができるとも思わない。
実際、大したことではないのではないか、とも思う。
しかし、上はそう思わないかもしれない。
今は最も重要な、天界開闢の期間中なのだから。
この儀式の完遂こそ、全天使の切願なのだから。
……なんと言い訳しよう。
あの人間のことは伝えず、レリエルがいつの間にかいなくなっていた、と言うか。
それでもレリエルの上官であるイヴァルトの責任は免れないだろう。
間違いなく、処刑だ。
(ミカエル様は、そういうお方だ)
……殺すしかない。
とイヴァルトは思う。
裏切り者のレリエルと力のある人間を殺し、その死体をミカエルに差し出す。
これだけが唯一、イヴァルトが処刑を免れる道だ。
その時突然、真横から声をかけられた。
「うわ、血いダラダラ。大丈夫ぅ?」
はっとして横を見ると、黒い制帽をかぶる、緑の羽の男が立っていた。緑に透き通るその羽は、エメラルドのごとく美しい。
天使の兵服を着ず、色づいた羽を持つ天使。
「無色天使」と呼ばれるその他大勢の天使達とは明確に異なる存在だ。
制帽の下の髪と瞳は緑色。切れ長の目をした甘い美貌。
長身痩躯を包むのは、折り襟の大きな、いかつい肩幅の黒い上着だ。そして揃いの黒い脚衣。制帽も上着も、漆黒の布地を金色が縁取り、硬質な威圧感がある。上着の中には白いシャツがのぞき、首には緑のネクタイを締めていた。
人間世界の一部で着用される「軍服」に似たこれは、「大天使」の装いだ。
「ラファエル様っ……!?」
イヴァルトはあわてて血まみれの手に手袋をはめた。
「治してやろっかぁ?ほら俺、治癒得意だし?」
ラファエルは身を乗り出してじろじろとイヴァルトの手をのぞきこんできた。
イヴァルトは背の後ろに手を隠し身を引いた。
「大丈夫です、問題ありません!お久しぶりですラファエル様!」
ラファエルはにっこり微笑んだ。
「周縁部警備いつもお疲れ!元気だった?」
「は、はい……」
「そっか♪それはよかった♪」
ラファエルは腕を組み、そのままじいっとイヴァルトを見つめた。
眼を眇め、何も言わずに、ただイヴァルトを見つめる。
沈黙に耐えかねたイヴァルトは顔を引きつらせながら、
「な、なぜ、三大天使のお一人、ラファエル様ほどのお方が周縁部などに?今まで一度もいらしたことはありませんよね」
ラファエルは腰に手を当て、口の端を上げた。
「あれ?迷惑そうだね?」
イヴァルトは目を泳がせた。
「け、決してそんなことは……」
ずい、とラファエルはイヴァルトの至近距離に近づいた。その端正な顔を鼻先まで近づけ、悩ましい手つきでイヴァルトの顎をつかむ。
息のかかる距離で囁きかけた。
「イヴァルトちゃん最近さ、死霊傀儡工房に、足しげく通ってるよね?」
「!!」
「俺が気づかないとでも思った?なんで勝手に、神域外に死霊傀儡を送りまくってんの?」
つっ、と冷や汗がイヴァルトの額から滴り落ちる。
用意していた答えをカラカラの喉から絞り出す。
「わ、我々の防衛線を広げる必要を感じておりまして。万が一にも結界を突破されるとも限りませんので、より広範囲に、死霊傀儡を配置して、侵入者の排除を迅速に行おうと」
ラファエルはくすりと笑った。
「へーえ。いいね、納得しちゃいそう、その答え。すごくカッコいい」
と言ってから、声音が冷たく豹変する。
「……でもさ、いつからお前が軍師になったわけ?」
「っ……!」
イヴァルトはごくりと唾を飲む。ラファエルはイヴァルトの顎から手を離すと、肩をすくめて呆れたような笑みを浮かべた。子供に話しかけるような口調になる。
「ちゃーんと相談しようよぉ。今さあ、天界開闢の第二段階に向けた、とっても大切な時だよね?勝手に人間たち刺激して大丈夫なのかなぁ?俺達天使はね、今とにかく、人間たちに放っておいて欲しいんだよね。天使のことを、忘れてて欲しいわけ。イヴァルトちゃんの軍師気取りの勝手な行動、ミカちゃんが知ったらどう思うかなあ?」
イヴァルトが蒼白となる。
「ミ、ミカエル様……!あの方に言うのですか!?」
ラファエルは手を叩いて面白そうに笑い声をあげた。
「あはは、びびってるう♪イヴァルトちゃんも短気なとこあるけど、ミカちゃんには負けるもんねー」
「うっ……」
「まいっか、内緒にしておいてやろうかな。でもあんまり勝手な行動は謹んでね」
そう言ってラファエルは、くるりと背を向けた。
イヴァルトは、ほっとしたように大きく息をついた。
肩越しにちらり、とラファエルがそんなイヴァルトに視線を送った。
目を細め笑みを浮かべると、さらりと言う。
「で、レリエルどこ行ったの?」
「!!」
イヴァルトの目がかっと見開かれた。額に脂汗が滲む。
「ほらレリエルだよレリエル、イヴァルトちゃんの配下にいた、チビ羽ちゃん。あいつ最近見ないよねぇ?どうしたの?」
ドクン、ドクンとイヴァルトの心臓が大きく跳ねる。
「レ、レリエルは、人間たちの偵察に向かわせていて……」
ラファエルはため息をつきながら再度こちらに振り向く。
「へえ、初耳だなぁ。それも報告なしなんだぁ。なんの意味あんの、その偵察。それって必要?」
「そ、それはその……」
「チビ羽ちゃんはさ、出来損ないだけど、神域から離れても活動できる貴重な逸材なんだよ?ルシフェル様にも直々にお声がけされてたの、知ってるよね?」
「っ……、き、貴重と言うのはいささか買いかぶり過ぎかと……」
ラファエルが顎をあげ、制帽を指でくいと持ち上げた。上から睨みつける。
「は?なに口答えしてんの?」
イヴァルトは慌てて首を振る。
「滅相もございません!」
ラファエルは人差し指でイヴァルトの胸のあたりを小突く。ただそれだけで激痛が走った。イヴァルトは必死に痛みに耐える。
「うっ、つっ……」
「とにかく、神域外活動が可能だから、神域周縁警備隊長のイヴァルトちゃんにお任せしたわけ。別にお前の手下じゃないわけ」
「……お、おっしゃるとおりです……」
「だからさ、あんまり好きにこき使わないでくんない?そろそろ呼び戻しといて?」
「はい!もちろんです!」
「お、いい返事♪ま、そういうことだから。じゃあねー♪」
ラファエルはしゅっと宙に飛び立ち神域の霧の内部にその姿を消した。
イヴァルトは胸をおさえ、はあはあと息をついた。
その額からは大量の汗が流れ出している。
昨日、工房の連中が特製の死霊傀儡を作り上げたと言っていた。今度こそ絶対に殺せると。
本当だろうか?まだ結果の報告は受けていない。
「くそッ……。早く、早くなんとかせなば!レリエル……あいつのせいでこんなことに……!絶対に殺してやる、醜い出来損ないめ!!」
背後に赤い霧のドームを背負い、イヴァルトは東方に広がる原野を睨め付けていた。
この原野の向こう側に、人間共の都がある。そこに、あの二人が――。
今いるこの場で、神域周縁部警備隊隊長のイヴァルトは、レリエルとアレスに逃げられたのだ。
イヴァルトは悔しさに振るえながら、両手にはめた手袋の片方をするりと外した。
手には、醜い火傷のあとが浮き出ていた。
「くそッ……」
イヴァルトは憎憎しげに自らの火傷のあとを歯でかんだ。血が滴るほど噛み続ける。
だがただの憎悪だけでなく、不安もまたイヴァルトは抱えていた。
まだ、上に報告していない。
我ながらとんでもないミスを犯したと、イヴァルトは自覚している。
レリエルに光速移動ができるなんて知らなかった。天使の中でも使い手のほとんどいない、超高難度業である。イヴァルトにはできない。
(出来損ないの分際で!)
こんなことは、絶対に上に報告などできない。
自身の激情と迂闊のせいで、レリエルに裏切られ逃亡され、力のある人間を殺し損ねた、など。
無論、矮小羽の無能と、人間一人ごときに何ができるとも思わない。
実際、大したことではないのではないか、とも思う。
しかし、上はそう思わないかもしれない。
今は最も重要な、天界開闢の期間中なのだから。
この儀式の完遂こそ、全天使の切願なのだから。
……なんと言い訳しよう。
あの人間のことは伝えず、レリエルがいつの間にかいなくなっていた、と言うか。
それでもレリエルの上官であるイヴァルトの責任は免れないだろう。
間違いなく、処刑だ。
(ミカエル様は、そういうお方だ)
……殺すしかない。
とイヴァルトは思う。
裏切り者のレリエルと力のある人間を殺し、その死体をミカエルに差し出す。
これだけが唯一、イヴァルトが処刑を免れる道だ。
その時突然、真横から声をかけられた。
「うわ、血いダラダラ。大丈夫ぅ?」
はっとして横を見ると、黒い制帽をかぶる、緑の羽の男が立っていた。緑に透き通るその羽は、エメラルドのごとく美しい。
天使の兵服を着ず、色づいた羽を持つ天使。
「無色天使」と呼ばれるその他大勢の天使達とは明確に異なる存在だ。
制帽の下の髪と瞳は緑色。切れ長の目をした甘い美貌。
長身痩躯を包むのは、折り襟の大きな、いかつい肩幅の黒い上着だ。そして揃いの黒い脚衣。制帽も上着も、漆黒の布地を金色が縁取り、硬質な威圧感がある。上着の中には白いシャツがのぞき、首には緑のネクタイを締めていた。
人間世界の一部で着用される「軍服」に似たこれは、「大天使」の装いだ。
「ラファエル様っ……!?」
イヴァルトはあわてて血まみれの手に手袋をはめた。
「治してやろっかぁ?ほら俺、治癒得意だし?」
ラファエルは身を乗り出してじろじろとイヴァルトの手をのぞきこんできた。
イヴァルトは背の後ろに手を隠し身を引いた。
「大丈夫です、問題ありません!お久しぶりですラファエル様!」
ラファエルはにっこり微笑んだ。
「周縁部警備いつもお疲れ!元気だった?」
「は、はい……」
「そっか♪それはよかった♪」
ラファエルは腕を組み、そのままじいっとイヴァルトを見つめた。
眼を眇め、何も言わずに、ただイヴァルトを見つめる。
沈黙に耐えかねたイヴァルトは顔を引きつらせながら、
「な、なぜ、三大天使のお一人、ラファエル様ほどのお方が周縁部などに?今まで一度もいらしたことはありませんよね」
ラファエルは腰に手を当て、口の端を上げた。
「あれ?迷惑そうだね?」
イヴァルトは目を泳がせた。
「け、決してそんなことは……」
ずい、とラファエルはイヴァルトの至近距離に近づいた。その端正な顔を鼻先まで近づけ、悩ましい手つきでイヴァルトの顎をつかむ。
息のかかる距離で囁きかけた。
「イヴァルトちゃん最近さ、死霊傀儡工房に、足しげく通ってるよね?」
「!!」
「俺が気づかないとでも思った?なんで勝手に、神域外に死霊傀儡を送りまくってんの?」
つっ、と冷や汗がイヴァルトの額から滴り落ちる。
用意していた答えをカラカラの喉から絞り出す。
「わ、我々の防衛線を広げる必要を感じておりまして。万が一にも結界を突破されるとも限りませんので、より広範囲に、死霊傀儡を配置して、侵入者の排除を迅速に行おうと」
ラファエルはくすりと笑った。
「へーえ。いいね、納得しちゃいそう、その答え。すごくカッコいい」
と言ってから、声音が冷たく豹変する。
「……でもさ、いつからお前が軍師になったわけ?」
「っ……!」
イヴァルトはごくりと唾を飲む。ラファエルはイヴァルトの顎から手を離すと、肩をすくめて呆れたような笑みを浮かべた。子供に話しかけるような口調になる。
「ちゃーんと相談しようよぉ。今さあ、天界開闢の第二段階に向けた、とっても大切な時だよね?勝手に人間たち刺激して大丈夫なのかなぁ?俺達天使はね、今とにかく、人間たちに放っておいて欲しいんだよね。天使のことを、忘れてて欲しいわけ。イヴァルトちゃんの軍師気取りの勝手な行動、ミカちゃんが知ったらどう思うかなあ?」
イヴァルトが蒼白となる。
「ミ、ミカエル様……!あの方に言うのですか!?」
ラファエルは手を叩いて面白そうに笑い声をあげた。
「あはは、びびってるう♪イヴァルトちゃんも短気なとこあるけど、ミカちゃんには負けるもんねー」
「うっ……」
「まいっか、内緒にしておいてやろうかな。でもあんまり勝手な行動は謹んでね」
そう言ってラファエルは、くるりと背を向けた。
イヴァルトは、ほっとしたように大きく息をついた。
肩越しにちらり、とラファエルがそんなイヴァルトに視線を送った。
目を細め笑みを浮かべると、さらりと言う。
「で、レリエルどこ行ったの?」
「!!」
イヴァルトの目がかっと見開かれた。額に脂汗が滲む。
「ほらレリエルだよレリエル、イヴァルトちゃんの配下にいた、チビ羽ちゃん。あいつ最近見ないよねぇ?どうしたの?」
ドクン、ドクンとイヴァルトの心臓が大きく跳ねる。
「レ、レリエルは、人間たちの偵察に向かわせていて……」
ラファエルはため息をつきながら再度こちらに振り向く。
「へえ、初耳だなぁ。それも報告なしなんだぁ。なんの意味あんの、その偵察。それって必要?」
「そ、それはその……」
「チビ羽ちゃんはさ、出来損ないだけど、神域から離れても活動できる貴重な逸材なんだよ?ルシフェル様にも直々にお声がけされてたの、知ってるよね?」
「っ……、き、貴重と言うのはいささか買いかぶり過ぎかと……」
ラファエルが顎をあげ、制帽を指でくいと持ち上げた。上から睨みつける。
「は?なに口答えしてんの?」
イヴァルトは慌てて首を振る。
「滅相もございません!」
ラファエルは人差し指でイヴァルトの胸のあたりを小突く。ただそれだけで激痛が走った。イヴァルトは必死に痛みに耐える。
「うっ、つっ……」
「とにかく、神域外活動が可能だから、神域周縁警備隊長のイヴァルトちゃんにお任せしたわけ。別にお前の手下じゃないわけ」
「……お、おっしゃるとおりです……」
「だからさ、あんまり好きにこき使わないでくんない?そろそろ呼び戻しといて?」
「はい!もちろんです!」
「お、いい返事♪ま、そういうことだから。じゃあねー♪」
ラファエルはしゅっと宙に飛び立ち神域の霧の内部にその姿を消した。
イヴァルトは胸をおさえ、はあはあと息をついた。
その額からは大量の汗が流れ出している。
昨日、工房の連中が特製の死霊傀儡を作り上げたと言っていた。今度こそ絶対に殺せると。
本当だろうか?まだ結果の報告は受けていない。
「くそッ……。早く、早くなんとかせなば!レリエル……あいつのせいでこんなことに……!絶対に殺してやる、醜い出来損ないめ!!」
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